【驚愕】関ケ原の戦いのあと「加藤清正が家康に仕えた本当の理由」とは?【ゆっくり解説】

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  • Опубликовано: 14 ноя 2024

Комментарии • 15

  • @nullpo1887
    @nullpo1887 9 месяцев назад +3

    大名としての立場を保証し官位(肥後守)を与えたこと(清正と引き合いに出されやすい正則は朝鮮出兵のときに公家成しており、秀吉はある時期から、正則を優遇し清正を冷遇していたとされる)
    清浄院との婚姻で徳川派閥という強力な後ろ盾を得られたこと(清正死去後に他家なら改易になるようなトラブルを起こしても何度も改易を免れてる)
    関ヶ原の戦後処理で20万石もの無役高として加算された(表面上の石高で税金や軍務が決められるが、無役高は計算から除外される。早い話が税制優遇)
    これだけあれば家康に恩を感じても不思議では無い。
    それに秀吉亡き後の豊臣家、ひいては豊臣秀頼からは清正は何も貰ってないから、秀頼と清正の間に御恩と奉公の関係が成立するのは厳しい気が…
    とはいえ、豊国廟を造成して参拝してたり秀吉の忌日に奉納する馬の手網について片桐且元に相談してたり、夢で秀吉が出てきた時に「太閤さま」「心地良い夢だった」と本妙寺に夢占いの依頼をしてるのを見ると、秀吉個人に対しては特別な感情を持っていたのではと思える。

  • @図流井
    @図流井 10 месяцев назад +1

    虎退治の逸話は出てきませんでしたね。福島正則の話も聞きたいです。

  • @777xyz-h8k
    @777xyz-h8k 10 месяцев назад +1

    海部郡は、あまぐんですね。

  • @はれはれ-t5p
    @はれはれ-t5p 10 месяцев назад +7

    あまり知られてないだろうけど
    清正や福島正則や黒田長政辺りが
    徳川方になった裏には北政所の存在がある
    彼女は彼らの母親的な存在で大きな影響力を持っていて秀吉の子ではない秀頼や側室の淀との対立
    まぁ色々あるんよな

    • @matukawatositane
      @matukawatositane 10 месяцев назад +1

      北政所近辺は三成にかなり近いからそういう簡単な話じゃないでしょう

    • @ほしちえ-q4y
      @ほしちえ-q4y 10 месяцев назад +4

      ​@@matukawatositane
      三成は淀殿ほど北政所と近くなかった、三成は北政所とも顔見知りだろうけどな

    • @matukawatositane
      @matukawatositane 10 месяцев назад

      @@ほしちえ-q4y 関ヶ原期の淀殿は最初に奉行謀叛って家康に書状出してるくらいには家康寄りじゃない
      北政所に近い木下一族の大半は西軍だし、三成の娘は彼女の養女だから顔見知りなんてレベルじゃない

    • @matukawatositane
      @matukawatositane 10 месяцев назад +2

      @@ほしちえ-q4y 三成の娘は高台院の養女だし、西軍には木下一族が参加してるんよねー
      一方淀殿は三成挙兵時に家康に奉行方謀叛という書状を出してて三成と同心していたとはとてもとても

    • @ほしちえ-q4y
      @ほしちえ-q4y 10 месяцев назад +1

      ​@@matukawatositane
      木下家は大阪の陣でも東軍参加いるでしょ

  • @mkhkshien
    @mkhkshien 10 месяцев назад +1

    熊本城のこと詳しく調べた??

  • @ほしちえ-q4y
    @ほしちえ-q4y 10 месяцев назад +5

    もう少し具体的に理由を言えよ、これでは加藤清正の人生を話しただけ

  • @matukawatositane
    @matukawatositane 10 месяцев назад +2

    そもそも関ヶ原時点での家康は豊臣政権の正当な執行者だったしなぁ

  • @いでたかゆき-r8i
    @いでたかゆき-r8i 10 месяцев назад +2

    ーコメです