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自衛隊にいた頃、図上演習やる時大概ここの取合いになるよう、行軍設定組まれてた。大体どちら側から攻めるにしても、西側の二本に分岐する部分を抑えた方が勝ってた。西側が抑えると手前の川を軸に縦深が引きやすく、東側が抑えると主攻、助攻の選択が出来る様になる。強いて言えば、東側からは先の先が取りやすくなり、西側からは後の先が取りやすくなる。あの山が取れるかで決まるから関ヶ原でも最大の重要地点だった。
関ヶ原南北の山脈が一つながりで隙間がなかった場合、日本の姿が現在とはずいぶん違ったものであった可能性もありそうですね。
三重県を「近畿」には含むけど「関西」には含まないのはこういう理由なんですねえ
考察、興味深く拝見しました。南北朝時代の青野原の戦いもここでの一戦でしたね。これも結構重要な戦いだったと思います。
ひこにゃん「ゆるキャラと見せかけ、実は武力政治に優れ、特に速度は通常のゆるキャラ3倍で、彦根に居る意味がわかるかな?」
初めて動画を見たのですが、「では一旦ここで広告です」と前置きをして広告に入るのは親切でとても良いです😊当たり前の様な感じなんですが不思議と誰も導入してないのですよね😲今後はこの流れが主流になるかもしれませんね😄
中部横断運河も構想されたように敦賀から琵琶湖、関ケ原を経由して伊勢湾に向かうルートは当時から重要な交通ルートです。一部陸送が有りますが大部分で水運が使えるので大変便利なルートでした。また大垣市の西側を流れる杭瀬川は1530年までは揖斐川の本流であり不破郡と安八郡の境界線となっています。この川の手前にある東山道の青墓宿、中山道の赤坂宿も大変重要な拠点であり、かつての美濃国府もその近くにあります。濃尾平野は西に向かって低くなっており、杭瀬川はその一番低かったところを流れています。杭瀬川の西岸(不破郡)は東岸に比べて標高が高く早くから開発が行われ西国からの流入も多かったようで杭瀬川がアクセントや食文化の境界線になっています。
関ヶ原で迎撃する側がいつも負けてるんだよな。優勢を取れる囲地に見えるのだろうが、現実はこれ以上畿内に一歩も入れられないという、背水の陣が現実。
「壬申の乱」って、言われてみれば「反乱軍」が勝った戦いなんですね。もともと天智天皇の「息子」と「弟」だったから意識していませんでしたけど……。
勝てば官軍・・・・・・・・・
観光で行った事あるけど感慨深かったなここで天下分け目の決戦があったんだなぁと
関ケ原はさらに海運の面で優れているという点もあるでしょう。西側には琵琶湖があり、東側には木曽川のような川が複数あります。これは軍が補給しやすいというだけでなく、関ケ原を突破された場合、敵側が水運を使って攻め込むことが可能になるともいえると思います。
南北朝時代にもここで大きな戦がありましたよ。大河ドラマでも描写されてたから。昔からここは東西の大きな戦を行うのにはふさわしい土地ですよ。
西軍さん関ヶ原、鈴鹿に加えてその東の岐阜、安濃津なども抑えて、伊勢湾の海上ルートさえ九鬼水軍で封鎖したのに瞬殺されてる…
西軍の主力の毛利勢が実質東軍なんでしゃーない
雪が流れ込んでくるから意外と豪雪地帯。だから退避用に新幹線岐阜羽島駅はこだましか止まらないくせにイザとなったら6編成駅に入れられる。って話をどうやってぶっ込んだらいいのか。
うボツです。関ヶ原の地政学上の解説、ありがとうございました。わかりやすて、良い動画でした。
冬場に新幹線使っていると関ヶ原で天気がガラリと変わることが多いな。大抵は雪がすごく降ってて気がつくんだけど。
町民見参!我が町、関ヶ原は北国街道・伊勢街道・中山道など古来からの幹線道路が集中し、現在もJR東海道本線、新幹線、名神高速のような日本の大動脈が走っていますね。地形上、日本海からの雪雲が進入して、雪のせいで新幹線なんかが止まって有名ですが、最近は積雪も減少していて町民としては寂しいものです。その内雪も降らなくなるときが来るかも知れませんね。さて、動画でも登場した「不破の関」ですが、現地に行くと関ヶ原の重要性がさらによく分かるものです。関は関ヶ原町松尾地区を流れる河川、藤古川の東岸に築かれています。辺りを見回すと直ぐ近くまで山が迫り、僅かな隙間に関があるのです。この周辺には壬申の乱の名残として、井上神社や山中若宮神社など大海皇子・大友皇子を祀るお社があります。その他にも大海皇子が具足を脱いだ、「沓脱石・兜掛石」や大友皇子の首級が埋まるという「自害峰の三本杉」があったりします。関ヶ原の戦いだけでは無いので、こちらもどうぞ見にいらして下され。
近畿に取って軍事的に重要な場所は、東の関ヶ原、西の神戸辺りだと思いますよ。神戸辺りも、調べてみると重要な戦いばかりでやばい
日本ではめずらしく、大軍が展開できる場所関が原はある意味戦場に布陣する前にすべてが決まっていたと言える戦場だったのかもしれない。1600年の時は陣形と配置だけなら西軍の勝利だったとドイツの軍人が指摘したエピソードが有名だけど本来は政治の延長で手段として戦争がある。つまり事前の準備、交渉、工作がすべてというのは古今東西変わらないのかも・・・・
もう少し戦術よりのイメージを掴みたいと思って関ヶ原は実際に行きました。傾斜を嫌う鉄道が通るルートは、鉄道以前でも主要街道が通る戦略ルートでそこを軍事的に管制するポイントが関になる訳です。
ゲティスバーグとワーテルローと関ヶ原でよく分からん協定結んでるのすこ
淝水とかも結べばいいのにw
大阪から東京まで歩いた時に鈴鹿峠を通ったけど辛かったなー
逆に考えると『奈良』『京都』をこんな全国地図把握する以前の段階で首都にしていたあたりいい地政学センスしてますよね
地政学的観点はさておき、あそこら辺は地震が少ないし近くに火山も無いし内陸だから津波の心配もない。そういう防災的観点からも首都として適切だったのだろう。
全国を治めるために奈良に首都を置いたんじゃなくて、大和盆地の勢力が覇権を獲得したってことでは。
正確な地図がなくとも、日本全土の大体のスケール感、距離感、位置感覚は把握できてたんじゃない? 曲がりなりにも統一政権なわけだし。
畿内はそこを中心としていた部族が天下をとり、いまの皇室となったという印象で、結果的に最適解を導いた勢力が勝った、という話ではなかろうかとちな平安京は長岡京の反省を経ての遷都で794年から1185年頃まで政治の中心、1869年まで朝廷があり1,000年以上の実績積めたけど平城京の方は710年から794年まで(しかもこの間、恭仁・難波への遷都も一時行われた)で84年しか歴史つめなかったし、良い都だったとは思えぬ
中国の戦国時代を秦が統一したのは、秦の本拠地が攻めやすく守りやすい上に肥沃な関中平原にあったからという説があります。もしかしたら畿内も地理的に有利な位置にあり、それが原因で大和朝廷が他の部族を滅ぼして日本を統一することができたのかもしれないと思いました。
最近、関ヶ原の戦いは、決戦ではなく家康の調略と速攻による各個撃破戦だったという話が出てきているようですね。天正壬午以降の家康は、なにやら武田信玄が蘇ったかのような凄みがあります。(ふたりとも上田で負けてるしね!)
因みに電気の周波数は富士川で分かれている。源氏が平氏へに対する戦いの流れが変わったのも富士川の戦い。よって、地政学的にも富士川は重要な地形(適当)
由比の反対側、大崩海岸・宇津ノ谷峠も大概ですよ駿府って天然の要害なんだよねえ戦国時代は駿河と遠江は今川が治め(北条と争った結果)、桶狭間以後の没落後はこの一帯が武田と徳川の係争地だったから、するっと通過したとも言い難いけどねえ(甲州征伐では武田側の穴山梅雪の寝返りから、徳川家康は遠江から駿河へ攻め込んで大部分を制し、そして甲斐へ攻め入った)
この動画の本旨とは全く関係ないけど、よく見たら6:00の黄色い○鈴鹿峠じゃなくて伊賀越か長野峠じゃないか?だから鈴鹿の関はもう少し北東ですね。
関ヶ原で別の戦いがあったって言うので、てっきり青野原の戦いも紹介されるのかと思いました
気象的にも境界になっていますね。名古屋は良い天気なのに関ヶ原付近だけ大雪で除雪車が出動していたなんて事も。関ヶ原の戦いは近年新たな資料の発掘や検証が行われているのでまたお願いします。
こうして見ると、逆にもっと大きい戦がたくさん起きててもいいような気もしてきます・・・。日本が二つ”だけ”の巨大勢力に分かれることが結構少なかった、ってことですかね・・・。
でも群雄割拠はもっと少ないんですよねえ、そういうレア感とご当地ヒーロー発掘が戦国人気の秘密というか
こういう軽めの動画も面白いな~
昔、孫子の衢地というのは需要な街道が複数交わる場所で日本だと分倍河原や関ヶ原だって、中途半端に間違って覚えてました当時は孫子は戦術の本で、国策外交ファーストって本だとは思わなかったので
最近だと、大垣から転身して南宮山の後詰をしようとした西軍主力を追撃してきた東軍が山中村付近で補足して殲滅した山中村の戦い説もあるみたいですね
その境界線で見ると三重県が近畿じゃなくて東海に含まれるのも納得出来る。県境で区分された日本地図だとあまり地形で意識しないんで、一番細い所で切ればいいじゃんとか思ってしまう。
実際、終戦時に万が一東京に赤軍が乱入してきた時のために、海軍士官らによって、航空機による天皇家の避難のためのネットワークが作られていたという話を聞きました。関東側が誰かは忘れましたが、関西側の受け入れ担当として名前が上がっていたのは淵田美津雄氏だったとか。芙蓉部隊の本だったような記憶もあるので、美濃部少佐も噛んでいたのかな。敵国に完全に主導権を引き渡し、何の力もない分前の取り分という立場になってしまった事、ソ連の行状を考えれば、万が一がありうる…と考えざるを得なかった事に気が付きます。今も世界中の失敗国家で起こっていることですし。
家康と三成の方の関ヶ原の戦いも考察して欲しいですあの戦いってのも、定説には疑問が残るというか疑問しかない戦いなので・・・例えば、定説では、東軍が大垣城を素通りして近江から京を伺う気配を見せたことで、西軍も城を出て先回りして関ヶ原に着陣したことになってますが、大垣城と東軍が布陣してた美濃赤坂の位置関係からして、西軍は物凄い不自然な行軍をしてることになりますし
車で走ってても関が原ルートは楽だが名阪国道はしんどいな
面白かった❤
ついさっきちょうど説明されていた関ヶ原のもう一個の街道使って奈良ぶっちぎって鈴鹿・伊勢・榊原温泉行って来ましたが確かに山どこまで行っても山伊賀・名張にちょこちょこ平野有るくらいでえげつないくらいに山
関ケ原の戦いでは、東軍の前田勢が木曽義仲が入京したルート(湖西線)や北陸本線ルートで関ケ原に入った際、西軍は包囲されてしまうのでは?現に、家康が前田利常に命じて、関ケ原の徳川勢に合流するように指示を出して出兵しています。(本戦には間に合わず)大津の京極高次が東軍に寝返ると包囲され、兵站を脅かされるのを恐れ、立花宗茂、小早川秀包、筑紫広門といった主力を大津城奪還に向かわせてます。もし、本戦が遅くなった際には、西軍は近江や山城の前田勢、九州を席巻した黒田官兵衛・鍋島直茂・加藤清正に毛利本国や四国を脅かされ、家康の率いる東軍に秀忠率いる主力が合流したら西軍は負けると思います。関ケ原の地形は第一次インドシナ戦争の激戦地であるディエンビエンフーにも近いと思いますね。
まあ太平洋戦争の時、もし日本が分割されてたとしたら、多分東北、北海道とそれ以外での分割が一番可能性高かったと思う。米としては意地でも関東圏は西側にしようとするだろうし、東側は船舶の関係で間違いなく出遅れるので、もしかしたら津軽海峡が境目だったかも。まあどちらにしてもそれが架空の話で済んだのは有難い限りですq
4:35 北側は厳しいが、関ヶ原鈴鹿間には裏街道が複数ある。
もし機会があれば浸透襲撃さんが考察する、SF小説 出雲星系の兵站をみてみたいです
逆に言うと西軍はこれだけの天然の要害に陣取ってれば長期戦に持ち込めた筈だったのに僅か1日処か最新の通説では半日(下手すりゃ数時間)で戦線崩壊という誰もが想定してなかった事態に陥った段階で天下分かれ目の合戦処か実際は只の局地戦なのでは?と戦術面処か戦略面でもかなり疑問視される始末になってます。
よし、この関ヶ原に堅牢な要塞を建てよう......イゼルローン要塞かな?
関ヶ原の布陣図は本当は違っていて、もっと西よりとの説がありますね。大谷勢が東よりに突出していてそれで討ち取られたとか。あれだけ石田勢がいて討ち取られたのは大谷のみなのはそのせいだとか。
関ヶ原、「原」ってついてるから平野っぽいイメージだけど「関ヶ原回廊」ってほうが実情に近い表現かもしれない。
大谷吉継が陣取った藤川台地とかあるから平野と言うよりは山間の開けた場所って感じなのかな
回廊は「長く続く隘路」というイメージを抱かせますよねぇ…
事前にオオカミ少佐の地政学みといて良かった
官軍となりつつあった西軍・・・やるな三成!!
鎌倉幕府もチョークポイントに守られた感じですよね。
日本を東西に分けるのであれば、糸魚川から静岡にかけてのラインだと思う。古代日本の東西感と現代のそれには大きな差があり、壬申の乱と関ヶ原の際の東軍の支配地域の差も戦略目標も異なる。
布陣図が少し古いやつであれあれのあれで、最近の説だとこの出口に西軍が殺到して大谷だけが殿を引き受けるように前に布陣してたから、西軍側はここで戦う気はなくて、撤退中を小早川と東軍に攻撃されて壊滅した感じじゃないかな、、
最近だとその前の岐阜城陥落がパワーバランスの崩壊に繋がった説が結構支持されてます
静岡のさった峠も守り易そうですね。今川北条武田の争いでよく封鎖したって出てくるんで
まさか岐阜城がすぐに落城し、東軍がその他の防衛拠点を迂回する動きを見せたから、あわて後方の関ケ原まで後退したけれど半日で突破されるとは。もしかして西軍は部隊を分散配置していて不利になってきたから、あわてて交通の要衝である関ケ原で合流させたのでしょうか。それでも毛利主力は大坂城に。…部隊の配置転換に注目したら面白そうですね。
岐阜城ってのは、そんなに堅固な城ではなく、何回も籠城した側が負けています。最初に織田信長vs斎藤竜興 秀吉vs織田信孝など。ですから、島左近の岐阜籠城は止めてくれという説得もありましたが、結局落ちてしまったのです。
名古屋にはほとんど雪が積もらないんだけど年に二、三度積雪がある。その雪雲は関ヶ原の隘路を通ってやってきて、その風向きによって名古屋に降らせたり、あるいは四日市に降らせたりしている。
最近は関ケ原布陣図も後世の作と言われてるみたいだけど、最初に関ケ原方面を押さえてた西軍が有利なのは変わりないか
関ケ原の他にも、比叡山の麓や瀬田の橋も同じような論理で東西戦争の中心なんですよねぇ
9:18 NTTの分け方とかJRの分け方。
東西で軍事的衝突が起きれば大体東側が勝ってる。例外は戊辰戦争くらいだが、慶喜は大阪城にいて陸路での援軍を期待していなかったから西対西になるけど。近江方面に慶喜がいたら分からなかったかもね。
浸透襲撃さんの日本の解説も需要しかない
奈良やその先の大坂、京都や名古屋、琵琶湖も近い。要所ですね。
他にも南北朝時代に北畠顕家と足利軍が激突してますよね。青野ヶ原の戦いだと思いますが
1カ月位前でしょうか、TVで日本列島を東西に分けるみたいな内容があって、たまたま関ヶ原がでてました。(10分も観てなかったが) 関ヶ原から文化が変わったり、東海・近畿だけでなく北陸からの街道の交わる交通の要所といってました。何より一番記憶に残ったのは関西、関東の由来は関ヶ原より西か東かということでした。(関東と言われた当初は文字通りで、東海や中部という表現はなかったようです)
当時は木曽三川の整備が行われていなくて陸路がなかったのも大きいですよね
「そうか!関ケ原は ここ安土から目と鼻の先とも 言える場所にある!!」
私が見たことのある配置図は小早川軍はいつも左上に配置されていたから何か新鮮。
素敵な動画だと思った主には関ケ原の合戦に参加してほしい西軍として
おつでした。関ケ原含めた三関は当時の朝廷からすると「坂東からの抑え」なこともあってまさに最前線ですね。日本の地形海域は見れば見るほど「変な国」だと思います。最近流行の「各国エンディングシリーズ」日本版辺りも解説してくれると嬉しいなぁ(/ω・\)チラッ
承久の乱でも鎌倉方が素早く関ケ原を抜けたことが勝敗を決したと聞いてる。
動画見て街亭の戦いの戦い思い出してたけど、陸を大軍が進むってのは今も昔も大変なのか。ただ今は海運力が格段に上がってるから迂回上陸なんて手もあるか…日本に上陸しかけられるのは米軍くらいなものだけど。
布陣の図を見て西軍が勝つって断言した外国のお偉い軍人さんがいたって影武者徳川家康の漫画で読んだ
関ヶ原って、イゼルローン回廊だったんですね!
ワイと同じ考え
鈴鹿峠がフェザーン回廊ですか。
不破の関がイゼルローン要塞という訳ですか!
@@炭石安蘭 伊賀忍がフェザーンかも
3:14 三関
東海道はわざわざ鈴鹿ルートなのは、それも深い意図が有るんだろうな。
趙雲「関ヶ原なんか通らなくても山越えればよくね?」
日本の歴史を何度やり直しても、関ヶ原と関門海峡は必ず重要な戦いの戦場になるだろうね。京都に重要な都市がある場合は山崎(天王山)もだけど。
地形分析ですね。いわゆる隘路の戦闘というやつ。因みに陸上自衛隊の「戦術研究の参考」にもこの辺は出てますね。
衛星写真も無いし測量技術も未熟だったのに日本の中心が関ヶ原だったのは偶然か・・・
水運からの考察もお願いします。明治に鉄道が整備されるまで日本の運送は水運でしたからね。
不破の関の東側、伊吹山地を越えるとすぐに琵琶湖東岸。太平洋側から日本海側へと抜ける南北の最重要チョークポイントで城址や古戦場が点在している。
BGMで泣けた
モグラの境界線も関ヶ原らしいですね。
補給や交通の都合上自ずと大規模な合戦の舞台は限定されるんですね
名古屋民からすると関西に遊びに行くときは八割通る場所なのでわかる。それよりなによりスケート場だが。
おれは名阪国道だ・・・。
関ヶ原近くの大垣、長浜、安土、彦根と要所ばかりですね。なぜそこに城を作ったのかその理由も掘り下げると面白そうですね。
アラプラで関ヶ原の映画見てる最中にこの通知来てびっくりした笑
僕も(笑)
チョークポイントは大事陸でも海でも一緒
冷戦時代のソ連の日本侵攻案は想像するしかないですけど、若狭湾に上陸して伊勢湾まで抜けたら東西分断できますね。
どん兵衛の境(西側昆布だしと東側鰹だし)なのか!確かに三重は鰹だし(伊勢うどん)で、名古屋も昆布だしではなかった気がする!あとそれとは関係ないけど人口が多い関ヶ原ルートを抑える新幹線と鈴鹿山脈を越える近鉄さん…そらスピード以外にも差が出ますわな
縁起でもないこといいなさんな😢
おつです。どん兵衛って関ヶ原で味分かれてたんか。
説得してま~す「はけ、自白くんだ丈~~~」丹下団平
壬申の乱で「栗太の地、瀬田で戦いが行われ(略 」ってのがあって、栗太って地名はその頃からあったのかー。と感心した記憶がある、現栗東市(元栗太郡栗東町)民でした。
関ケ原…『実にイイ』ですよねえ…。隘路を越えたら道が開ける。西に越えたら琵琶湖がばーっと開けて、東に越えたら濃尾平野がばーっと開ける。そりゃココを越えたら暴れ放題ってもんですよ。抑えで安土城も作りたくなるもんですよ。亀山柘植は、越えたからといってあんまり暴れ回れる地形じゃありませんしねえ。ニンジャいるし
西に越えまっすぐ琵琶湖まで辿り着いたら今浜。そこを秀吉がゴリッゴリに発展させ信長から一字拝領して長浜とし、覇道の橋頭堡となったのです。亀山柘植(そして別ルートの甲賀)は、暴れまわれない地形だからこそ忍者という特殊兵が誕生したのです。源流は古代にまで遡れます。戦術的戦略的拠点は、流通と産業の要衝たりえ、しばしば気候・風土的ポイントでもあるのです。
日本で境界の考え方は面白い。異界との境目とか、かなり奥深い
たしかに川の対岸のことを彼岸というように境界を越えることを強く意識していますね
2分割どころか米英仏中ソの5分割案があったと聞いたことがあるなぁ
仏は入ってなかったのでは。英米中ソと共同占領地区の5分割では。
関ヶ原って悪い意味じゃ無く狭いですよね。あの場所に何万人もいたと思うとですけど。
飛鳥時代も戦国~江戸時代初期も、武人の強さは西低東高。
空の軌跡のBGM 懐かしいなぁ。(*^。^*)
イゼルローン回廊みたいなもんやな
現代でも、関ヶ原に積雪があれば新幹線が止まって東西交通が遮断される。日本国土の構造は変わっていない。
自衛隊にいた頃、図上演習やる時大概ここの取合いになるよう、行軍設定組まれてた。大体どちら側から攻めるにしても、西側の二本に分岐する部分を抑えた方が勝ってた。西側が抑えると手前の川を軸に縦深が引きやすく、東側が抑えると主攻、助攻の選択が出来る様になる。強いて言えば、東側からは先の先が取りやすくなり、西側からは後の先が取りやすくなる。あの山が取れるかで決まるから関ヶ原でも最大の重要地点だった。
関ヶ原南北の山脈が一つながりで隙間がなかった場合、日本の姿が現在とはずいぶん違ったものであった可能性もありそうですね。
三重県を「近畿」には含むけど「関西」には含まないのはこういう理由なんですねえ
考察、興味深く拝見しました。
南北朝時代の青野原の戦いもここでの一戦でしたね。これも結構重要な戦いだったと思います。
ひこにゃん「ゆるキャラと見せかけ、実は武力政治に優れ、特に速度は通常のゆるキャラ3倍で、彦根に居る意味がわかるかな?」
初めて動画を見たのですが、「では一旦ここで広告です」と前置きをして広告に入るのは親切でとても良いです😊
当たり前の様な感じなんですが不思議と誰も導入してないのですよね😲
今後はこの流れが主流になるかもしれませんね😄
中部横断運河も構想されたように敦賀から琵琶湖、関ケ原を経由して伊勢湾に向かうルートは当時から重要な交通ルートです。
一部陸送が有りますが大部分で水運が使えるので大変便利なルートでした。
また大垣市の西側を流れる杭瀬川は1530年までは揖斐川の本流であり不破郡と安八郡の境界線となっています。
この川の手前にある東山道の青墓宿、中山道の赤坂宿も大変重要な拠点であり、かつての美濃国府もその近くにあります。
濃尾平野は西に向かって低くなっており、杭瀬川はその一番低かったところを流れています。
杭瀬川の西岸(不破郡)は東岸に比べて標高が高く早くから開発が行われ西国からの流入も多かったようで杭瀬川がアクセントや食文化の境界線になっています。
関ヶ原で迎撃する側がいつも負けてるんだよな。
優勢を取れる囲地に見えるのだろうが、現実はこれ以上畿内に一歩も入れられないという、背水の陣が現実。
「壬申の乱」って、言われてみれば「反乱軍」が勝った戦いなんですね。
もともと天智天皇の「息子」と「弟」だったから意識していませんでしたけど……。
勝てば官軍・・・・・・・・・
観光で行った事あるけど感慨深かったな
ここで天下分け目の決戦があったんだなぁと
関ケ原はさらに海運の面で優れているという点もあるでしょう。西側には琵琶湖があり、東側には木曽川のような川が複数あります。これは軍が補給しやすいというだけでなく、関ケ原を突破された場合、敵側が水運を使って攻め込むことが可能になるともいえると思います。
南北朝時代にもここで大きな戦がありましたよ。大河ドラマでも描写されてたから。
昔からここは東西の大きな戦を行うのにはふさわしい土地ですよ。
西軍さん関ヶ原、鈴鹿に加えてその東の岐阜、安濃津なども抑えて、伊勢湾の海上ルートさえ九鬼水軍で封鎖したのに瞬殺されてる…
西軍の主力の毛利勢が実質東軍なんでしゃーない
雪が流れ込んでくるから意外と豪雪地帯。
だから退避用に新幹線岐阜羽島駅はこだましか止まらないくせにイザとなったら6編成駅に入れられる。
って話をどうやってぶっ込んだらいいのか。
うボツです。
関ヶ原の地政学上の解説、ありがとうございました。
わかりやすて、良い動画でした。
冬場に新幹線使っていると関ヶ原で天気がガラリと変わることが多いな。大抵は雪がすごく降ってて気がつくんだけど。
町民見参!
我が町、関ヶ原は北国街道・伊勢街道・中山道など古来からの幹線道路が集中し、現在もJR東海道本線、新幹線、名神高速のような日本の大動脈が走っていますね。地形上、日本海からの雪雲が進入して、雪のせいで新幹線なんかが止まって有名ですが、最近は積雪も減少していて町民としては寂しいものです。その内雪も降らなくなるときが来るかも知れませんね。
さて、動画でも登場した「不破の関」ですが、現地に行くと関ヶ原の重要性がさらによく分かるものです。関は関ヶ原町松尾地区を流れる河川、藤古川の東岸に築かれています。辺りを見回すと直ぐ近くまで山が迫り、僅かな隙間に関があるのです。この周辺には壬申の乱の名残として、井上神社や山中若宮神社など大海皇子・大友皇子を祀るお社があります。その他にも大海皇子が具足を脱いだ、「沓脱石・兜掛石」や大友皇子の首級が埋まるという「自害峰の三本杉」があったりします。
関ヶ原の戦いだけでは無いので、こちらもどうぞ見にいらして下され。
近畿に取って軍事的に重要な場所は、東の関ヶ原、西の神戸辺りだと思いますよ。神戸辺りも、調べてみると重要な戦いばかりでやばい
日本ではめずらしく、大軍が展開できる場所
関が原はある意味戦場に布陣する前にすべてが決まっていたと言える戦場だったのかもしれない。
1600年の時は陣形と配置だけなら西軍の勝利だったとドイツの軍人が指摘したエピソードが有名だけど
本来は政治の延長で手段として戦争がある。つまり事前の準備、交渉、工作がすべてというのは古今東西変わらないのかも・・・・
もう少し戦術よりのイメージを掴みたいと思って関ヶ原は実際に行きました。
傾斜を嫌う鉄道が通るルートは、鉄道以前でも主要街道が通る戦略ルートでそこを軍事的に管制するポイントが関になる訳です。
ゲティスバーグとワーテルローと関ヶ原でよく分からん協定結んでるのすこ
淝水とかも結べばいいのにw
大阪から東京まで歩いた時に鈴鹿峠を通ったけど辛かったなー
逆に考えると『奈良』『京都』をこんな全国地図把握する以前の段階で首都にしていたあたりいい地政学センスしてますよね
地政学的観点はさておき、あそこら辺は地震が少ないし近くに火山も無いし内陸だから津波の心配もない。
そういう防災的観点からも首都として適切だったのだろう。
全国を治めるために奈良に首都を置いたんじゃなくて、大和盆地の勢力が覇権を獲得したってことでは。
正確な地図がなくとも、日本全土の大体のスケール感、距離感、位置感覚は把握できてたんじゃない? 曲がりなりにも統一政権なわけだし。
畿内はそこを中心としていた部族が天下をとり、いまの皇室となったという印象で、結果的に最適解を導いた勢力が勝った、という話ではなかろうかと
ちな平安京は長岡京の反省を経ての遷都で794年から1185年頃まで政治の中心、1869年まで朝廷があり1,000年以上の実績積めたけど
平城京の方は710年から794年まで(しかもこの間、恭仁・難波への遷都も一時行われた)で84年しか歴史つめなかったし、良い都だったとは思えぬ
中国の戦国時代を秦が統一したのは、秦の本拠地が攻めやすく守りやすい上に肥沃な関中平原にあったからという説があります。もしかしたら畿内も地理的に有利な位置にあり、それが原因で大和朝廷が他の部族を滅ぼして日本を統一することができたのかもしれないと思いました。
最近、関ヶ原の戦いは、決戦ではなく家康の調略と速攻による各個撃破戦だったという話が出てきているようですね。
天正壬午以降の家康は、なにやら武田信玄が蘇ったかのような凄みがあります。
(ふたりとも上田で負けてるしね!)
因みに電気の周波数は富士川で分かれている。源氏が平氏へに対する戦いの流れが変わったのも富士川の戦い。
よって、地政学的にも富士川は重要な地形(適当)
由比の反対側、大崩海岸・宇津ノ谷峠も大概ですよ
駿府って天然の要害なんだよねえ
戦国時代は駿河と遠江は今川が治め(北条と争った結果)、桶狭間以後の没落後はこの一帯が武田と徳川の係争地だったから、するっと通過したとも言い難いけどねえ
(甲州征伐では武田側の穴山梅雪の寝返りから、徳川家康は遠江から駿河へ攻め込んで大部分を制し、そして甲斐へ攻め入った)
この動画の本旨とは全く関係ないけど、よく見たら6:00の黄色い○鈴鹿峠じゃなくて伊賀越か長野峠じゃないか?
だから鈴鹿の関はもう少し北東ですね。
関ヶ原で別の戦いがあったって言うので、てっきり青野原の戦いも紹介されるのかと思いました
気象的にも境界になっていますね。名古屋は良い天気なのに関ヶ原付近だけ大雪で除雪車が出動していたなんて事も。関ヶ原の戦いは近年新たな資料の発掘や検証が行われているのでまたお願いします。
こうして見ると、逆にもっと大きい戦がたくさん起きててもいいような気もしてきます・・・。
日本が二つ”だけ”の巨大勢力に分かれることが結構少なかった、ってことですかね・・・。
でも群雄割拠はもっと少ないんですよねえ、そういうレア感とご当地ヒーロー発掘が戦国人気の秘密というか
こういう軽めの動画も面白いな~
昔、孫子の衢地というのは需要な街道が複数交わる場所で
日本だと分倍河原や関ヶ原だって、中途半端に間違って覚えてました
当時は孫子は戦術の本で、国策外交ファーストって本だとは思わなかったので
最近だと、大垣から転身して南宮山の後詰をしようとした西軍主力を追撃してきた東軍が山中村付近で補足して殲滅した山中村の戦い説もあるみたいですね
その境界線で見ると三重県が近畿じゃなくて東海に含まれるのも納得出来る。県境で区分された日本地図だとあまり地形で意識しないんで、一番細い所で切ればいいじゃんとか思ってしまう。
実際、終戦時に万が一東京に赤軍が乱入してきた時のために、海軍士官らによって、航空機による天皇家の避難のためのネットワークが作られていたという話を聞きました。
関東側が誰かは忘れましたが、関西側の受け入れ担当として名前が上がっていたのは淵田美津雄氏だったとか。芙蓉部隊の本だったような記憶もあるので、美濃部少佐も噛んでいたのかな。
敵国に完全に主導権を引き渡し、何の力もない分前の取り分という立場になってしまった事、ソ連の行状を考えれば、
万が一がありうる…と考えざるを得なかった事に気が付きます。
今も世界中の失敗国家で起こっていることですし。
家康と三成の方の関ヶ原の戦いも考察して欲しいです
あの戦いってのも、定説には疑問が残るというか疑問しかない戦いなので・・・
例えば、定説では、東軍が大垣城を素通りして近江から京を伺う気配を見せたことで、
西軍も城を出て先回りして関ヶ原に着陣したことになってますが、
大垣城と東軍が布陣してた美濃赤坂の位置関係からして、西軍は物凄い不自然な行軍をしてることになりますし
車で走ってても関が原ルートは楽だが名阪国道はしんどいな
面白かった❤
ついさっきちょうど説明されていた関ヶ原のもう一個の街道使って奈良ぶっちぎって鈴鹿・伊勢・榊原温泉行って来ましたが確かに山
どこまで行っても山
伊賀・名張にちょこちょこ平野有るくらいでえげつないくらいに山
関ケ原の戦いでは、東軍の前田勢が木曽義仲が入京したルート(湖西線)や北陸本線ルートで関ケ原に入った際、西軍は包囲されてしまうのでは?
現に、家康が前田利常に命じて、関ケ原の徳川勢に合流するように指示を出して出兵しています。(本戦には間に合わず)大津の京極高次が東軍に寝返ると包囲され、兵站を脅かされるのを恐れ、立花宗茂、小早川秀包、筑紫広門といった主力を大津城奪還に向かわせてます。もし、本戦が遅くなった際には、西軍は近江や山城の前田勢、九州を席巻した黒田官兵衛・鍋島直茂・加藤清正に毛利本国や四国を脅かされ、家康の率いる東軍に秀忠率いる主力が合流したら西軍は負けると思います。
関ケ原の地形は第一次インドシナ戦争の激戦地であるディエンビエンフーにも近いと思いますね。
まあ太平洋戦争の時、もし日本が分割されてたとしたら、多分東北、北海道とそれ以外での分割が一番可能性高かったと思う。米としては意地でも関東圏は西側にしようとするだろうし、東側は船舶の関係で間違いなく出遅れるので、もしかしたら津軽海峡が境目だったかも。まあどちらにしてもそれが架空の話で済んだのは有難い限りですq
4:35 北側は厳しいが、関ヶ原鈴鹿間には裏街道が複数ある。
もし機会があれば浸透襲撃さんが考察する、SF小説 出雲星系の兵站をみてみたいです
逆に言うと西軍はこれだけの天然の要害に陣取ってれば長期戦に持ち込めた筈だったのに
僅か1日処か最新の通説では半日(下手すりゃ数時間)で戦線崩壊という誰もが想定してなかった事態に陥った段階で
天下分かれ目の合戦処か実際は只の局地戦なのでは?と戦術面処か戦略面でもかなり疑問視される始末になってます。
よし、この関ヶ原に堅牢な要塞を建てよう
......イゼルローン要塞かな?
関ヶ原の布陣図は本当は違っていて、もっと西よりとの説がありますね。
大谷勢が東よりに突出していてそれで討ち取られたとか。あれだけ石田勢がいて討ち取られたのは大谷のみなのはそのせいだとか。
関ヶ原、「原」ってついてるから平野っぽいイメージだけど「関ヶ原回廊」ってほうが実情に近い表現かもしれない。
大谷吉継が陣取った藤川台地とかあるから
平野と言うよりは山間の開けた場所って感じなのかな
回廊は「長く続く隘路」というイメージを抱かせますよねぇ…
事前にオオカミ少佐の地政学みといて良かった
官軍となりつつあった西軍・・・やるな三成!!
鎌倉幕府もチョークポイントに守られた感じですよね。
日本を東西に分けるのであれば、糸魚川から静岡にかけてのラインだと思う。古代日本の東西感と現代のそれには大きな差があり、壬申の乱と関ヶ原の際の東軍の支配地域の差も戦略目標も異なる。
布陣図が少し古いやつであれあれのあれで、最近の説だとこの出口に西軍が殺到して大谷だけが殿を引き受けるように前に布陣してたから、西軍側はここで戦う気はなくて、撤退中を小早川と東軍に攻撃されて壊滅した感じじゃないかな、、
最近だとその前の岐阜城陥落がパワーバランスの崩壊に繋がった説が結構支持されてます
静岡のさった峠も守り易そうですね。今川北条武田の争いでよく封鎖したって出てくるんで
まさか岐阜城がすぐに落城し、東軍がその他の防衛拠点を迂回する動きを見せたから、あわて後方の関ケ原まで後退したけれど半日で突破されるとは。
もしかして西軍は部隊を分散配置していて不利になってきたから、あわてて交通の要衝である関ケ原で合流させたのでしょうか。それでも毛利主力は大坂城に。
…部隊の配置転換に注目したら面白そうですね。
岐阜城ってのは、そんなに堅固な城ではなく、何回も籠城した側が負けています。
最初に織田信長vs斎藤竜興 秀吉vs織田信孝など。ですから、島左近の岐阜籠城は止めてくれという説得もありましたが、結局落ちてしまったのです。
名古屋にはほとんど雪が積もらないんだけど年に二、三度積雪がある。その雪雲は関ヶ原の隘路を通ってやってきて、その風向きによって名古屋に降らせたり、あるいは四日市に降らせたりしている。
最近は関ケ原布陣図も後世の作と言われてるみたいだけど、最初に関ケ原方面を押さえてた西軍が有利なのは変わりないか
関ケ原の他にも、比叡山の麓や瀬田の橋も同じような論理で東西戦争の中心なんですよねぇ
9:18 NTTの分け方とかJRの分け方。
東西で軍事的衝突が起きれば大体東側が勝ってる。例外は戊辰戦争くらいだが、慶喜は大阪城にいて陸路での援軍を期待していなかったから西対西になるけど。近江方面に慶喜がいたら分からなかったかもね。
浸透襲撃さんの日本の解説も需要しかない
奈良やその先の大坂、京都や名古屋、琵琶湖も近い。
要所ですね。
他にも南北朝時代に北畠顕家と足利軍が激突してますよね。青野ヶ原の戦いだと思いますが
1カ月位前でしょうか、TVで日本列島を東西に分けるみたいな内容があって、たまたま関ヶ原がでてました。
(10分も観てなかったが) 関ヶ原から文化が変わったり、東海・近畿だけでなく北陸からの街道の交わる交通の要所といってました。何より一番記憶に残ったのは関西、関東の由来は関ヶ原より西か東かということでした。(関東と言われた当初は文字通りで、東海や中部という表現はなかったようです)
当時は木曽三川の整備が行われていなくて陸路がなかったのも大きいですよね
「そうか!関ケ原は
ここ安土から目と鼻の先とも
言える場所にある!!」
私が見たことのある配置図は小早川軍はいつも左上に配置されていたから何か新鮮。
素敵な動画だと思った
主には関ケ原の合戦に参加してほしい
西軍として
おつでした。関ケ原含めた三関は当時の朝廷からすると「坂東からの抑え」なこともあってまさに最前線ですね。
日本の地形海域は見れば見るほど「変な国」だと思います。
最近流行の「各国エンディングシリーズ」日本版辺りも解説してくれると嬉しいなぁ(/ω・\)チラッ
承久の乱でも鎌倉方が素早く関ケ原を抜けたことが勝敗を決したと聞いてる。
動画見て街亭の戦いの戦い思い出してたけど、陸を大軍が進むってのは今も昔も大変なのか。
ただ今は海運力が格段に上がってるから迂回上陸なんて手もあるか…日本に上陸しかけられるのは
米軍くらいなものだけど。
布陣の図を見て西軍が勝つって断言した外国のお偉い軍人さんがいたって影武者徳川家康の漫画で読んだ
関ヶ原って、イゼルローン回廊だったんですね!
ワイと同じ考え
鈴鹿峠がフェザーン回廊ですか。
不破の関がイゼルローン要塞という訳ですか!
@@炭石安蘭 伊賀忍がフェザーンかも
3:14 三関
東海道はわざわざ鈴鹿ルートなのは、それも深い意図が有るんだろうな。
趙雲「関ヶ原なんか通らなくても山越えればよくね?」
日本の歴史を何度やり直しても、関ヶ原と関門海峡は必ず重要な戦いの戦場になるだろうね。
京都に重要な都市がある場合は山崎(天王山)もだけど。
地形分析ですね。
いわゆる隘路の戦闘というやつ。
因みに陸上自衛隊の「戦術研究の参考」にもこの辺は出てますね。
衛星写真も無いし測量技術も未熟だったのに日本の中心が関ヶ原だったのは偶然か・・・
水運からの考察もお願いします。
明治に鉄道が整備されるまで日本の運送は水運でしたからね。
不破の関の東側、伊吹山地を越えるとすぐに琵琶湖東岸。太平洋側から日本海側へと抜ける南北の最重要チョークポイントで城址や古戦場が点在している。
BGMで泣けた
モグラの境界線も関ヶ原らしいですね。
補給や交通の都合上自ずと大規模な合戦の舞台は限定されるんですね
名古屋民からすると関西に遊びに行くときは八割通る場所なのでわかる。
それよりなによりスケート場だが。
おれは名阪国道だ・・・。
関ヶ原近くの大垣、長浜、安土、彦根と要所ばかりですね。なぜそこに城を作ったのかその理由も掘り下げると面白そうですね。
アラプラで関ヶ原の映画見てる最中にこの通知来てびっくりした笑
僕も(笑)
チョークポイントは大事
陸でも海でも一緒
冷戦時代のソ連の日本侵攻案は想像するしかないですけど、若狭湾に上陸して伊勢湾まで抜けたら東西分断できますね。
どん兵衛の境(西側昆布だしと東側鰹だし)なのか!
確かに三重は鰹だし(伊勢うどん)で、名古屋も昆布だしではなかった気がする!
あとそれとは関係ないけど人口が多い関ヶ原ルートを抑える新幹線と鈴鹿山脈を越える近鉄さん…そらスピード以外にも差が出ますわな
縁起でもないこといいなさんな😢
おつです。
どん兵衛って関ヶ原で味分かれてたんか。
説得してま~す
「はけ、自白くんだ丈~~~」丹下団平
壬申の乱で「栗太の地、瀬田で戦いが行われ(略 」ってのがあって、栗太って地名はその頃からあったのかー。
と感心した記憶がある、現栗東市(元栗太郡栗東町)民でした。
関ケ原…『実にイイ』ですよねえ…。隘路を越えたら道が開ける。西に越えたら琵琶湖がばーっと開けて、東に越えたら濃尾平野がばーっと開ける。そりゃココを越えたら暴れ放題ってもんですよ。抑えで安土城も作りたくなるもんですよ。亀山柘植は、越えたからといってあんまり暴れ回れる地形じゃありませんしねえ。ニンジャいるし
西に越えまっすぐ琵琶湖まで辿り着いたら今浜。そこを秀吉がゴリッゴリに発展させ信長から一字拝領して長浜とし、覇道の橋頭堡となったのです。亀山柘植(そして別ルートの甲賀)は、暴れまわれない地形だからこそ忍者という特殊兵が誕生したのです。源流は古代にまで遡れます。戦術的戦略的拠点は、流通と産業の要衝たりえ、しばしば気候・風土的ポイントでもあるのです。
日本で境界の考え方は面白い。異界との境目とか、かなり奥深い
たしかに川の対岸のことを彼岸というように境界を越えることを強く意識していますね
2分割どころか米英仏中ソの5分割案があったと聞いたことがあるなぁ
仏は入ってなかったのでは。英米中ソと共同占領地区の5分割では。
関ヶ原って悪い意味じゃ無く狭いですよね。あの場所に何万人もいたと思うとですけど。
飛鳥時代も戦国~江戸時代初期も、武人の強さは西低東高。
空の軌跡のBGM 懐かしいなぁ。(*^。^*)
イゼルローン回廊みたいなもんやな
現代でも、関ヶ原に積雪があれば新幹線が止まって東西交通が遮断される。日本国土の構造は変わっていない。