【ゆっくり解説】古墳解説第5回 誉田御廟山古墳(応神天皇陵)

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  • Опубликовано: 5 янв 2025

Комментарии • 16

  • @5868-s6q
    @5868-s6q 6 месяцев назад

    誉田八幡宮はとてもシンプルな神社なのですが、こちらへ行くと次の朝、心身共に軽くなります。不思議な神社です。

  • @Hayato_Takezawa
    @Hayato_Takezawa 7 месяцев назад

    二つ塚古墳の被葬者が誰かも気になる。

  • @wowvov123
    @wowvov123 2 года назад +2

    冒頭の質問とまったく同じ質問を先週仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の前でボランティアガイドさんにされた😆

    • @yayoi_asuka
      @yayoi_asuka  2 года назад +1

      それは面白いですねw そんなこと聞く人は居ないだろうと思って冒頭の質問を喋らせたのですがw

  • @らりぴ-w5k
    @らりぴ-w5k 2 года назад +1

    大阪に住んでいながら1番大きな大仙古墳のことしか知らなかったので、2番目の誉田御廟山古墳のことも色々知れて有意義でした!
    被葬者も諸説あってやっぱ古墳て謎多いんすね〜

    • @yayoi_asuka
      @yayoi_asuka  2 года назад

      ご視聴ありがとうございます。
      まだまだ大阪の古墳の解説していくので、今後ともよろしくお願いします!

  • @隆一西
    @隆一西 7 месяцев назад

    おそらく、秀吉政権時代に伏見城が大打撃を受けた慶長伏見地震も影響ありますよね(¯―¯٥)

    • @yayoi_asuka
      @yayoi_asuka  6 месяцев назад

      コメントありがとうございます。
      慶長伏見地震といえば、やはり高槻の今城塚古墳の墳丘崩壊が有名ですよね。どの地震が各々どれ位のダメージを与えたか特定は困難ですが、ゼロとは言い切れないと思います。

  • @takeshi492
    @takeshi492 2 года назад +1

    古事記にある仲哀天皇と神功皇后の神託の逸話を示唆するような埴輪が全国的に出土しているので、モデルになるような人物とエピソードは5世紀頃に広く伝わっていたんじゃないですかね、広開土王碑の内容と誉田御廟山古墳の築造時期も時系列的に辻褄が合うので、神話っぽい内容を多く含むものの、実在生はそここそ高いと考えても良いんじゃないでしょうか。

    • @yayoi_asuka
      @yayoi_asuka  2 года назад +1

      ご視聴ありがとうございます。
      「神託の逸話を示唆するような埴輪」というのは、琴をひいてる埴輪のことですかね?
      確かに広開土王碑の碑文と倭国の記紀の記録や誉田御廟山古墳の築造時期など近いものがたくさんありますが、あくまでも倭国がどのような活動をしていたかが分かるだけで、仲哀天皇や神功皇后・応神天皇の実在性までは分からないと考えました。(個人的な意見です。)
      神話っぽい内容を多く含むからといって史実性がゼロとは限らないので難しい話ですね。

    • @takeshi492
      @takeshi492 2 года назад

      このようなコメントにわざわざご返信いただきありがとうございます。
       おっしゃる通り学問的なお話をする場合は、文献史学と考古学を混同するべきではなく、文字がほとんど残らない時代の伝承と発掘された遺物を結びつける行為はあくまでも私見に過ぎず。実在説にしろ非実在説にしろ趣味の範疇であり宗教的な理解に近いと思っていますので、琴を弾く人物埴輪が仲哀天皇であるとか、応神天皇が絶対に実在したとか決めつけているわけではないので安心してくださいw
       その上で各地の古墳を見学していますと、琴を弾く埴輪と巫女の埴輪はその他の巫女の埴輪や人物埴輪とは別に並べられて一対になっていたり、この埴輪だけ台座に乗っていたり特別な感じのものが多いです、あと巫女の埴輪にも、踊りながら乳房がはだけているものや武装していて装飾太刀を腰に挿しているものなど興味深いものがたくさんあるので、これらの埴輪通りの儀式が行われていたと想像するととても面白く、ご指摘の通り当時の倭の動きが分かる貴重な資料となっています。
       古墳と当時の大王のすり合わせも意見というかその方のポリシーで見解が分かれるところですよね。
       考古学者の方々でも意見が分かれているようで、考古学者が被葬者推測をする事自体に否定的な意見をもっておられる方も多いようですが、一方で松木武彦氏の様に6世紀以降の大王墓については、文献資料も積極的に利用して被葬者予測をしても良いのではないかと考えている先生もいらっしゃるようです。
       津堂城山古墳から誉田御廟山古墳迄の流れと広開土王碑と記紀の照らし合わせは、4世紀後半から5世紀前半になろうかという事なので、これもRUclipsのコメント欄内での戯言の範疇としてご容赦下さい。
       その上で、私は関東に住んでいますので千葉県や茨城県の古墳を巡るのが趣味なんですが、この2県の4世紀後半から5世紀半ばまでの流れはとても興味深いです。
       記紀では仲哀から応神に至る間に忍熊皇子と麛坂皇子が反乱を起こし破れて自害する物語がありますが、忍熊王側の将軍であった五十狭茅宿禰は現在の千葉県と茨城県の南部の支配者であった事になっていますので、モデルになった人物がいたとしたら4世紀後半のこの地域に劇的な変化があるはずなんですが、面白い事にこの地域の古墳のスタイルと副葬品は4世紀から5世紀を堺に激変します。
       朝鮮側に記録が残っている倭人といえばソツヒコが有名ですが記紀では葛城襲津彦と対応するんじゃないかと…関東の5世紀は葛城地方の大型古墳と相似形の古墳が各県の最大クラスのサイズで築造され始め、何より誉田御廟山古墳の築造の前後に、関東に半島由来の須恵器が副葬品として普及して、首長墓クラスの古墳から金銅製の装飾品が出土し始めます。
       上で挙げた人物は記紀では全て応神天皇の衛星的人物として描かれていますが、関東住みの私からすると、すんなり受け入れられるというか、界隈の遺跡とあまり矛盾しないストーリーなので応神天皇実在説もそれ程抵抗はないというのが正直なところです。

  • @マリ砲
    @マリ砲 2 года назад +3

    応神陵は現治定で合ってる気がするけど、同じ恵我シリーズの仲哀陵(岡ミサンザイ)はほぼ確実に間違ってるよなあ。たぶん年代的にそれ雄略陵やろっていう。
    んで、真の仲哀陵を誉田御廟山の一世代前の仲ツ山古墳に求めるのが一番しっくりくるけど、仲哀はそもそも実在が怪しいという…(更に推測を重ねると、仲ツ山の一世代前で水鳥形埴輪が有名な津堂城山=真の日本武尊白鳥陵となるけど、こいつもやはり史実性が薄いのが…)

    • @yayoi_asuka
      @yayoi_asuka  2 года назад +1

      ご視聴ありがとうございます!
      年代や史実性の両方で怪しい天皇陵は割といっぱいありますよね……記紀や延喜式に載ってる陵墓の選定はそもそも正しいのかという根本的な問題もあると思います。

    • @趣味-j7l
      @趣味-j7l Год назад

      4割から6割確か年代と合ってない天皇陵だったはず。崇神は恐らく4世紀の人物なら纏向の古墳は誰の墓やねんだし。大王クラスの古墳の茶臼山古墳は古事記シカトだし意味わからん

  • @shou-sho
    @shou-sho 2 года назад +2

    日本書紀には応神立太子時と没時の年齢が書いてあり、1年で1歳年をとっているので春秋2倍歴は有り得ないんですよね。
    ちゃんと否定しとかないと、こんなデタラメも信じる人がいるので念のため。

    • @yayoi_asuka
      @yayoi_asuka  2 года назад

      ご視聴ありがとうございます。
      春秋2倍歴はやたら高齢の古代天皇を納得いくように解釈したときに1番辻褄が合いそうな気がして人気ですが、根拠が少し乏しいですよね。