Do you have a video with english subtitles? I would love to hear the experiences of these men, they are becoming fewer every year and it is important that their voices are heard for all to hear. Thank you
Peace to you. I like history too. I do not understand Japanese, but I enjoyed the video. I recognized the Phillipines, and know the mission that was being talked about.
戦争について聞けるのは今のうちだな
美化することもなく、卑下することもなく。
誠実にインタビューに答える、尊敬に足る立派な方々です。
海底で見つかった武蔵。素晴らしい勇姿。ご苦労様でした。
やっぱり、戦争を実際に体験した方々の言葉は、とても重いですね。
依田さんのお話を聞いて涙が出ました。自分一人生きるのが必死で掴んでくる味方の兵隊さんを足でおいやって、沈んでいってしまったのはとても辛かったと思います。辛い決断だったんでしょうね。
第二次世界大戦で戦い、亡くなっていった全ての国の兵隊さんたちに哀悼の意を表します。
依田さん、何十年もずっとこのことを背負ってきたんだろうなあ。打ちあけたことで少しでも楽になってくれるといいけど…。
御立派に戦われた方々に心より感謝申し上げます。
このレイテ沖海戦で日本連合艦隊は出撃した大半、武蔵だけでなく戦艦3隻〔武蔵、山城、扶桑〕、空母4隻〔瑞鶴、瑞鳳、千代田、千歳〕、重巡6隻〔愛宕、摩耶、鳥海、筑摩、鈴谷、最上〕、軽巡4隻〔能代、阿武隈、多摩、鬼怒〕、駆逐艦11隻〔若葉、山雲、朝雲、満潮、野分、早霜、藤波、初月、秋月、不知火、浦波〕、潜水艦6隻〔伊26、伊45、伊54、伊41、伊46、伊38〕の計34隻が、日本艦隊殺戮の現場になったフィリピン周辺海域で沈められている。
いずれも日本海軍にとって、かけがいのない珠玉の艦であった。
いずれの艦も武蔵に劣らず、または、それ以上の無残な最期である。
すべての艦には、それぞれの残酷な最後の物語がある。
そして、わずかの残存艦も、無傷の駆逐艦5隻を除いて、大破、中破の哀れな姿でブルネイ、日本本土にたどり着く。
ついに日本艦隊は壊滅したのだ。
今は唯、望みなき戦いに出撃した勇者たちに合掌するのみ。
そしてこれらの惨敗の海戦の教訓を、現在の海上自衛隊に引継いでくれることを望むばかりだ。
今を生きる俺らには何も言えないよ
最後に、生きるために戦友を「離して」しまった方のインタビューがありましたが・・・
その語る様は、我々が見て考え、まさに今を生きる人間に必要な心なのではないかとと思います・・・命の尊さを。
我が父は、下士官として武蔵に乗っておりました。
映像にでられた大塚さんには私もお会いしたことが
あります。
亡父は自爆ではなかったと言っておりました。
児童向けの「戦艦武蔵のさいご」を読んだ思い出が蘇ります。
今でも覚えている一節・・・
”弾!弾が無い!群指揮官、弾が無い!!」
世界海戦史上もっとも壮絶な最期を遂げた戦艦の最期。
武蔵ありがとう。おやすみ
はじめて作ったプラモが武蔵だった。
今回、武蔵がシブヤン海海底にて見つかったわけだけど、
ここに登場される元乗組員の方はインタビューなどでご登場されなかった。。
あれから70年、すでに鬼籍に入られてしまったのだろうか…
その先人の証言は、何にも代えがたい貴重なものだ。
今を生きる日本人として、海底に眠る武蔵が、静かに、
そして最大限の敬意をもって墓標としてあってほしい。
引き上げなどしないでほしい…
動画最後の、大塚健次さんの言葉が全て。
搭乗員全てに戦争責任は無い。
戦争への批判はあっても、この方々への批判はやめていただきたい。
お門違いもいいところだ。
もう二度とこんなかっこいい戦艦みることできないんだろうな。
依田さん、懺悔の念はあるかもしれないけれど生き残ることの方が大事と思う
けど死んだ人はさることながら、生き残った人も生き残ったなりに苦しいんだね
もうやめてほしいわ、戦争は
これぞ我が祖父の乗った戦艦だと思うと感情が抑えられません
戦争がどうとかとは別にして、誇りに思ってくださっていいと思います。
一昨日、海底から見つかったとのこと。
ぜひ墓前にご報告していただければと思いました。
わざわざ、ありがとうございます。なぜか
涙が出てきました。泣けてきました。
武蔵見つかりましたね。
お爺様のご冥福をお祈りいたします。
hiro. k ありがとうございます。感謝に耐えません。
あなたの祖父さんにありがとうございました、とお伝え願います。
今の平和な日本があるのは日本のために戦ってくれた人々がいたからです。日本を守ってくれてありがとうございます。
大和と武蔵、両方に便乗したある搭乗員は、武蔵は細部まで丁寧に作られていた。
ただ大和は開戦に合せて大急ぎで完成させたせいか、砲塔等の鉄板の作りがやや粗かった。
そう証言している。
武蔵はあれだけの攻撃を受けても原型があったんだからな
日本の誇りだよ
当時の体験をお聞きでき、心がふるえます
普段は、書き込みをしておりませんが、何か書き込みたいという
思いを抑えることができません。
生きて帰って来られたことも奇跡、
いままだお元気でいらっしゃる奇跡、
武蔵が海底で発見された奇跡、
いま、私たちが動画で見聞きできることを本当に貴重な体験と思います。
つらい経験を語っていただきありがたく思い、
子供たちに見せたいと思いました。
本当に今の幸せは彼等のお陰なんだという事をしかっりと受け止めたい
何も知らない子供の頃、戦艦武蔵のプラモデルを作りました。
戦艦大和に次ぐ巨艦だったのは覚えています。
私の叔父が武蔵の衛生兵だったのは本人から聞いたことがあります。
海中で同胞に足を捕まれた元軍人さんのお話しに涙が止まりませんでした。
あの方は一生海に沈んだ同胞に詫びながら一生を送るのですね。
お気の毒だとは思いません。彼に最敬礼したい思いで一杯です。
武蔵みつかったみたいだけど引き揚げない方がいい
乗組員たちがまだそこで眠っている
忘れることができない記憶じゃない、忘れてはいけない記憶だ。
大日本帝国の全ての艦艇と兵隊と戦闘機よ。ありがうございます。そして、どうかやすらかにお休みください。
本当、泣けるわぁ~
見事な戦艦(ふね)だったですよ。。。
でも、大砲でなく飛行機の戦争になっちゃった。
われわれは与えられた任務を全うしただけです。
誇りと、悲しみと、自負を感じて、泣けてきます。
若い時、ある重電メーカーの図庫で航空母艦のエレベーターの設計図をみたことがあります。昭和の初期に青図を描いてあのような設計をしていた日本。
ちょんまげをやめてからわずか半世紀足らず。
欧米列強に負けまいと必死に学んだのを感じました。
戦争は悩ましいことですが、相手がある意図を持って迫って来た時、世界と比べると正直、誠実な日本はまんまとはめられたと思います。
赤化に対して必死に抵抗した日本、東条英機元首相の遺言を読むと苦悩の末の覚悟が見てとれる。真実の近現代史を学ぶことが大切。
反日日本人は早晩いなくなる、その後ほんとうの意味での独立国家を先の戦争で亡くなった方のためにもつくらなければいけないと思う。
この小さな島国が、当時あんな立派な戦艦を自前で建造してたなんて
ちょっと誇らしいですね。
依田さんの体験談はすさまじい。
武蔵は魚雷20発に耐えた凄いよ日本の艦船は米軍に負けないよ多分....
戦友を足でどかした爺ちゃん、何十年も苦しんだんだろうな、、。
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母方の兄:おじさんが武蔵に乗っていて、レイテ沖海戦で武蔵が沈んで投げ出され一週間海を泳いで味方の船に助けられて日本に帰って来たそうです。昼間は米軍の機銃照射があるので、死んだふりをして夜泳いでたそうです。そしてそのおじさんはまだ存命中です
戦後、日本は奇跡的な成長を遂げたと言うが、あたかもゼロからの出発であるかのような言い方である。しかし、日本はゼロ戦と大和、武蔵を作ったほどの優れた工業力のある国であった。当時、どれだけの国が飛行機と巨大な戦艦の製造技術を持っていたであろうか。しかし、なぜ、このような工業力があったにも関わらず、戦争を行い国力の相当を失うことになったのであろうか。なぜ、世界恐慌をこれらの工業力を基礎として乗り切ることができなかったのか、この点において、我々はよく考える必要がある。一つの要因だけが、戦争へと導いたものでないことは確かである。そして、必然としての戦争ではなかったことも確かである。
工業力があったからこそ戦争に参加したのでは。
残念ながら今持っている物では満足せず、もっと欲しがるのが人間の常ですね。
ちょっと前まで列強国が弱い国を搾取することも了承されていたような時代ですからしょうがないですね。
なぜ大和だけ目立って武蔵はこうも・・・
全ての戦没者に対し、黙祷
ここまでの数の魚雷を受けながら、なおもあの巨体は水に浮かんでいた。これだけでもものすごいんだなぁ、と思いました。
学校の教育で平和教育等と言うのなら、先ず、武蔵の最後をきちんと授業で教えて
欲しいです。それが英霊に対する最大の敬意です。思想云々言うなら、先ず、こんな
悲しい事実をきちんと教えて欲しいです。武蔵は集中砲火を浴びました。
私は存じませんでした。幾度も動画を見て、御本を読んで、忘れられません。
広島、長崎、東京大空襲、沖縄、悲しい歴史は沢山存じておりますが、武蔵の
最後は殆ど、存じませんでした。今からでも学習します。有難うございます。
Peace to you. I like history too. I do not understand Japanese, but I enjoyed the video. I recognized the Phillipines, and know the mission that was being talked about.
武蔵お疲れ様です
そしてお帰りなさい
そっ、その顔で言うのかw
貴方の所には怖くて帰りたくないンゴねぇ... by艦長
結局、勝てば官軍負ければ賊軍てことなんだよね、戦闘員である彼等をアメ人が皆殺しにしたのはしょうがないけど、東京大空襲などの非戦闘員の殺戮は今でも許せないね
少し昔、航海士をしていたがスリガオ海峡の手前では
よく磁気コンパスが振れていた。
ジャイロコンパスに依る運航なので特に問題にはならなかったが
今思い出すと沈没船の影響だったのかも知れない
同じ命を懸けるなら、せめて一暴れさせて差し上げたかった合掌…。
渡部さんの「戦艦武蔵のさいご」を今日も拝読しました。1925年生まれ、16歳の
1941年(昭和16年)16歳で皇軍の兵士となり、武蔵に乗り込み、助かった兵士の
御本です。大勢の仲間がなぶり殺しにされ、阿鼻叫喚の地獄絵図を生き残った
人の手記です。大鑑巨砲の時代は過ぎ去り、300機の航空機と6本?の魚雷で
武蔵は撃沈しました。尊い命です。この実話を胸に平和な日本が出来ました。
基本的に外交で日本は動きます。武蔵の乗員の英霊の死は無駄にしません。
本当に胸を引き裂かれる実話です。これほど、心が痛む話もなかなかありません。
300万の英霊の尊い命の上に今の平和があります。有難うございます。
生き残った人たちが一番辛い、自分が死ぬまで十字架を否応無しに背負っていかねばならないのだから・・・・・・
でも、日本のために戦ってくれた先人たちには本当に感謝してます、俺たちが平和に暮らせるのも、みんな貴方達が必死に闘ってくれたからと思っています。
余談だが、艦隊決戦時代に武蔵が生まれていれば無敵だっただろうになぁ・・・・・・
武蔵。大和。大東亜戦争を永遠に語り継がないとね。
戦争は確かに悲惨で残忍だ。誰だって戦争はやりたくない。死にたくないし殺したくもない
戦争その物は批判できても、戦争の中で、国のために戦い、家族を想って散っていった彼らを批判する権利は、誰にもない
自分の義父は、87歳の予科練です。戦争についての話は、よく聞いてます。
ココ近日に武蔵が発見されたと報道にあり、戦争を知らない人達は必要以上に
興味を示していますが、私見ではありますが、多数の犠牲があった戦艦、
先人たちの戦友が眠る戦艦は、やはり記憶に留めておく所までとし
静かに眠らせてあげたいと思います。
また、戦争の記録などは風化していく一方なので
ぜひ証言など映像や音に残して、後世に伝えて欲しいと思います。
戦争体験者では、有りませんが、生存者の、証言は、重いですね。
厳粛な、気持ちに、なりました。
お年寄りを大切に。
日本は真珠湾攻撃で航空機の有効性をアメリカに教え、
アメリカはそれがきっかけで航空機に力を入れたそうです。
なのに日本は大艦巨砲主義の思想のまま。
しかも武蔵の機銃は全く威力がなく敵機に命中してもただ穴が開くだけでそのまま飛んで行ってしまったらしいです。敵もその事は十分承知で間近まで飛んできたそうだ。
日本の為に亡くなった陸海軍の将兵の御霊の為にもこの日本を守っていかないと。現状に甘えて、怠惰に生きている自分が恥ずかしくなる。死を覚悟して戦いに行った先人の強い意志。
今日の国難なんて戦時に比べたら取るに足らないように思える。今の私たちも先祖に負けないように頑張りましょう。私の父も93歳で2年前に他界しましたが、よく中国戦線の話を父から聞きました。野営している時に迫撃砲をくらい上官が死んだ話やキジが目の前に現れ、打とうとしたが実弾を込めてなくて打ち損じた笑い話。もっとおやじに敬意をはらうべきだった。戦争に行ってご苦労さんの言葉もいってなかった。許せ、おやじ。
私、昭和30年代生まれの少年雑誌口絵、プラモデル世代。武蔵、大和、零戦、隼、伊号潜水艦…の勇戦に胸踊らせていた。まだまだ、戦時現役世代が世の中に多く生きていた頃。大東亜戦争に関わった全ての皆さまに感謝申し上げます。私達の誇りです。(松戸にある小松崎茂画伯の昭和ロマン館に、10年ぶりに行ってきます)
武蔵・・・
武蔵の主砲46cm砲を使う事もなく米軍艦載機の爆撃にやられて数百もの攻撃を受けながらシブヤン海に沈んだ・・・
そのためたくさんの人が死んだ
試し撃ちしかできなかったそうですし
生き残った乗組員は生き残ることに喜びを感じていたのか実践で使えなかったこちを悔やんだのか・・・
見つかりよかったです
国の為に捧げると誓った命にもはや死は悔いでは無いと思うが何も出来なかった無用の長物となれば死んでも死にきれまい
今は当時の国家が悪いとか言うんじゃなくて.戦争の悲しさや命かけて戦ってくれた人のことを考える動画だよ
海底で戦艦武蔵発見!
戦艦に固執だの、大鑑巨砲だのと何やら日本海軍だけが巨大戦艦を作っていたようなイメージのみで物知り顔に批判されている方々が多いですが、明らかな勘違いです。
大和建造と同時期、アメリカもイギリスも巨大戦艦の建造に勤しんでいます。
空母を作っていればなどと、したり顔でコメントをぶっている輩もいますが所詮ミッドウェーでの敗戦を受けての結果論に過ぎません。ちなみに予算ベースですが大和型2艦を翔鶴型空母に変更しても3隻分です。ミッドウェーで失った正規空母4隻分に足りません。
開戦時、日米における空母の保有数は日本の方が多かったことをご存じか?
航空機の保有数もほぼ互角だった。
批判や総括には当時の事を正確に勉強しなければなりません。
そうでなければ、的外れな独りよがりの意見に過ぎません。
すみませんが、航空機保有数はほぼ互角ではないですよ?
後、帝国海軍の基本的考えは大鑑巨砲主義ですよ?
大和が作られたのはアメリカがパナマ運河の理由で ある一定以上の戦艦が作れないのを知っていてそれ以上を作ろうしたのです。
確かに航空機で戦艦を沈めたのも奇襲作戦に成功したのも日本が初ですが、残念ながら海軍中央派は航空機の優位性に気付けていませんでしたよ?
まあ、私は帝国海軍が好きですが
江頭龍士郎日本軍は1942年の武蔵以降は戦艦の建造はしていません。ミッドウェーでの敗戦を受け、横須賀の海軍、長崎の三菱のいずれの造船所における主要艦船に関する造船能力のすべてを空母の建造にあてたためです。
一方のアメリカは、1942年以降も戦艦の建造、真珠湾での損傷戦艦の引き上げと修理、改修を続けました。
この外形的事実から「日本が大戦を通じて大艦巨砲主義で、米国はそうでなかった」というのは誤りです。
ですが、おっしゃる通り、日本は1942年のミッドウェー海戦では、大艦巨砲主義の艦隊編成・用兵を行っていました。具体的には、第一航空戦隊・第二航空戦隊擁する第一航空艦隊を前衛に置き、大和や長門を擁する戦艦部隊を後方に置くという誤った用兵です。
それでも、上記の用兵上のミスについても、海軍省および連合艦隊司令部は戦訓の検討を行い、用兵上の「大艦巨砲主義」の誤りを痛感し、マリアナ沖海戦では空母を中心とし、戦艦を補助艦艇として配置した第一機動艦隊をもって「あ号作戦」を発動しました。
つまり、すくなくとも44年のマリアナ沖海戦の時点では、日本海軍は「大艦巨砲主義」ではなかった、ということです。これは私の推論ではなく、外形的事実です。
GF1934 しかしながら当時の日本には、武士道などプライドに似たようなものがあったためあくまで航空機は相手の戦力をそぐことであり殲滅は戦艦が行う考えなはずです
そしてあなたが言っている1994年以降…(ry ですが
1994年以降に起きたレイテ沖海戦は空母は囮に使われ
栗田さん率いる艦隊(戦艦が主力)が敵に切り込む作戦ですよ?
私が思うに海軍全体は常に大艦巨砲主義に執拗し
現場の何人かの将校が航空機の方が重要と考えていたのでは?
多分その文はあなたの推論ですよ
事実じゃないですね
magunam SS えーっとですね
武士道における解釈は多々あり
あなたと私の武士道の解釈にもよりますが
ここで私が述べる武士道とは 潔いということを武士道という言葉を使いたとえたまでです
後私は あなたのような思い込みの激しい人間のために 似たような と着けています
誰が武士道は大艦巨砲主義の原因といいましたか?
あなた葉を文よく読み 文法等を 理解してたからコメントしてくださいね♡
片岡 KATAOKA 貴殿の日本語と軍事知識があまりに低レベルなので、真面目に反論する気さえ失せていましたが、あえて一言しておきます。。。。
まず、「あなた葉× は○」は誤字ですし、「着けています」も誤字です。二つ前のあなたの「1994年」も誤記です。日本語がめちゃくちゃで噴飯ものです。
あと、レイテ沖海戦で小沢艦隊をおとりに使ったのは、空母に乗せる空母艦載機部隊が壊滅していたため、やむなくおとりとして使ったまでです。当時日本は保有する艦載機が払底していました。
あと、以前記した文章、まっっったくご理解していないようなので、要旨をもう一度記します。。
その1 日本軍は1942年の武蔵以降は戦艦の建造はしていません。日本は1945年まで空母を作り続けました。
一方の米国は1942年以降も戦艦を作り続けています。
その2 日本海軍はミッドウェーでの敗戦を受け、横須賀の海軍、長崎の三菱のいずれの造船所における主要艦船に関する造船能力のすべてを空母の建造にあてています。
その3 1944年では、マリアナ沖海戦では空母を中心とし、戦艦を補助艦艇として配置した第一機動艦隊をもって「あ号作戦」を発動しました。
これは私の推論ではなく、外形的事実です。
例えば巨大空母第三号艦の信濃は、初就役後17時間で米潜水艦に熊野灘沖で沈められた。この時信濃は傾斜50度になっていて、注排水設備も殆ど効かなかった。効かなかったというより、効かす事が出来なかったと言った方が正確だろう。既に空母の大部分を失った日本海軍。信濃1400名の乗員の内850名は、軍艦の航海が生まれて初めてだったという。艦の各種試験も充分に行わず、艤装も省略し、大急ぎで横須賀湾から松山の連合艦隊基地へ初出航した。訓練も何もあったものではなかったろう。
武藏のシブヤン海における沈没に於いては、いま午後7時35分の姿が友軍によって撮影され、遺影として残っている。魚雷数十本を受けた武藏は、げに驚くべし、前後の砲塔が水上に一線を成しているほど平衡沈下を示している。これは、武藏乗員の注排水訓練の熟練の成せる技であろう。血煙と鉄片の舞う地獄の戦場裡において、武藏乗員達のこれは驚嘆すべき冷静さと円熟の伎倆以外の何物でもない。
訥々と語る元戦闘員の方達の言葉は、それだけに迫力に満ちている。美しく秀麗な武藏の遺影を見るに付け、万感胸に迫る想いがするのではないだろうか。
大和型戦艦の弱点として重装甲といっても艦首と艦尾は非装甲です。
大和は250K爆弾一発を艦首に喰らい舳先に大穴が開いて5度も傾斜してしまった。
15cm副主砲は元巡洋艦の主砲で装甲も巡洋艦のままである為、40cm砲弾が直撃した場合、弾薬庫まで貫通し誘爆により真っ二つになる可能性があります。
実際大和は沖縄特攻で第2幅主砲に急降下爆撃を喰らい、それが致命傷となっています。
意外と脆いです。
若い奴らも見て欲しいね・・・
涙でたっすよ。
最後の、おじさんの話。生きるためとはいえ相当本人は辛かったでしょう。。
溺死・・・どんだけ苦しいか。東日本大震災でも沢山の人が溺死して
目見開いたまま亡くなっていきましたからね。凄い辛さ・・わかります。
足や首のない遺体血のりショックですね。座て望遠鏡持ったまま
首がすっ飛んで体はまだ生きてるから、血があふれ出すのでしょう。
貴重なお話聞かせていただき、ありがとうございました。
悔しいだろうな・・・
歴史の後づけはやめませんか?
我々の先輩たちは、当時の技術を信じて戦われたのですから
武蔵を軽んじないで
戦艦が不利になって航空機が優勢だったとは限らない。
戦争終盤では対空砲も進化しており、容易には接近できなくなり、強硬突破しようとした日本軍機が近づく事すら出来ずに次々と撃墜された。
大日本帝国海軍史上最大の戦艦
帝国海軍四代巨砲の一隻
長門、陸奥、大和、武蔵
41センチ砲と46センチ砲
不沈艦だった戦艦…
アメリカの原爆実験で耐え誰にも看取られずに沈んだ長門も含め、やはり日本の戦艦の防御力は世界一だな。勝ち負けの話ではなく、大和や武蔵の美しさは、合理化だけ求めるアメリカの戦艦では真似すら出来ないだろうね
この方達は未だご存命なのだろうか。私の義理の叔父も武蔵の生き残りだった。もう亡くなって10年以上になるけれど、全く私利私欲の無い人だった。
人の為に何かできるだろうかという考えしか無かった。
生き残ったのは同僚から託された命と思っていたのだろう。直ぐ隣で仲間が海中に沈んでいなくなる無常さを思い知らされたのだと思う。
あまり戦争の事は体験者は話をしないのだが武蔵の生き残りが定期的に集まる会に出かける事を大層楽しみにしていた事を憶えている。出かけた後で楽しそうに集まった話をよく聞いた。
日本は、日本人は心が優しすぎた
私の祖母の話をよく聞くのですが。
祖母は青春時代まっさかりに国の奉公として軍需工場で働いていました。
当時祖母は戦闘機の尾翼部分を作っており、暗号部品で呼び合ってたのですが戦後
それがゼロ戦の尾翼部分を作ってたと言う事を話してました。
この地方は軍需工場がいっぱいあり大空襲の時も防空壕に逃げ込んだ話も聞きました。
逃げる途中にグラマンの機関砲で亡くなった人もいたり、戦争とは無慈悲で残酷な事だと
よく教えられました。
B29の爆撃で飛来してきたのを対空砲で撃ち込んでたのですが、B29の高高度まで
届かず下のほうではでていたのを見て日本は負けるなと娘の時に思ったみたいです。
不沈艦なんてものは存在しない
そのように呼称することが自惚れと慢心を生む
この際の「不沈」は「常識の範囲内での攻撃を受けても沈没しない」と言う意味合いであって「絶対沈まない」ことを表現しているわけではありません。
まず、大和、武蔵という日本の象徴でもある世界一の戦艦を作られた先人の力に、敬意を表すとともに、戦争で亡くなられた皆さんに対し、哀悼の意を表します。
私は、祖父が大和の乗組員であり、レイテ後に退役していますが、その祖父が生前よく話していました。素晴らしい戦艦だったと。
私の子供は、大和と武蔵。名前負けは当然ですが、せめて、日本人として誇りに思ってもらいたいと授けた名前です。
戦争を賛成してるわけではなく、ただ、農業国家だった日本が世界を驚愕する工業力をもつ英知と努力は、零戦をはじめ、関係者に敬服しています。
そしてなにより、大戦で犠牲になったかたがたの尊い命の重さを、忘れてはならない。
改めてそう思っています。
NHKスペシャルで武蔵の最後をシュミレーション技術を使って解析してた。武蔵の分厚い装甲は鉄壁だったが、装甲板をリベットで接合していたので多くの魚雷攻撃を受けると、リベットが外れそこから浸水するという大きな弱点があった。実は設計者はその弱点を知っていたのに、反映されないまま実戦に入ってしまった。武蔵はほぼ原形をとどめる形で沈没したが、艦内に残っていた大量の爆薬が爆発し、海中で粉々になったとしている。
とても興味深い話を有難うございます。実際に体験した人だけが語れる内容だと思いました。
私の母親は、終戦の時に小学生でした。北海道の僻村ですから、米軍など進駐するはずもないのですが、在る日、海岸で老人たちの立ち話を偶然聞いたようです。その時、村の長老達は米軍が来る前に女・子供に石を抱かせて海に沈める相談をしていたと云うことです。それを立ち聞きした母親は、心気萎え体震え蒼白となり、家に逃げ帰ってきたそうです。
母親はまた、竹やりを持って村の老婆達と海べりで訓練を受けたようです。「敵を水際でたたく!」というのが合言葉だったと今でも笑います。戦場に行った父親は、それを聞きながら口をあんぐり開けていました。
もったいねーなー、戦争って。
やはり戦争は痛いな
大和型戦艦は本当に美しい。デザインした方に、
グッドデザイン賞を上げられるなら大賞を迷わず与えたい。
日本人なら誇りに思うべき
何の戦果を挙げることなく空しく沈んだ武蔵。
第3次ソロモン海戦に参戦する機会はあったのに、大和同様、参戦をためらってしまった。
もしあのときと思うのは私だけではないだろう。
武蔵が勝利する最初の機会であり、また最後のチャンスを自ら放棄してしまった。
その後レイテで沈められても、その勇名は米軍にも轟いていたのに。
かえすがえすも大和、武蔵には悔いが残る。
合掌。
大艦巨砲主義の終わりをアメリカに教えたのは他ならぬ日本ですからね…それまでは各国バリバリ大艦巨砲主義だった訳で。そこから空母を主力とした艦隊に切り替えるなら、それこそ造船力、国力の差が物を言いますから。今のアメリカ見てると、よく対米戦を決意できたな、と思ってしまいますね。
日本が真っ先に空母の重要性を理解し運用し始めたのにそれによって負けるって皮肉だよなぁ・・・
当時も凄かったですけど今でもヤバいですからね。世界中に分散しているとはいえ支援艦や空母以外の水上艦80隻近くが全部イージス艦ですから。右も左も防空番長。「貧乏が悪い」としか言いようが無いです。
甲板と海面が近い!やっぱり重いんだなぁ。
軍艦武蔵という書籍を読んだ後にこの映像みると泣けてくるな・・
当時米軍は46cmとは思ってなかったらしいですね
それにこれほどの規模の戦艦を極秘で作る日本軍もすごいです!
戦艦大和46cm砲の射程をフルに生かす為に46cm砲が搭載されているのではありません
敵戦艦の主要部分(機関や弾薬庫など)、いわゆるバイタルパートに施された強固な装甲をどの距離から撃っても貫通させ大打撃を与える為に、46cm砲を搭載したのです
46cm砲は40km程の射程がありますが、実際は20~30kmでの交戦を想定していました
しかし、20~30kmほどの距離になってくると山なりに飛翔するので逆に20kmの方が貫通力が劣るのです
20km程になってくると甲板に命中する確率の方が高く、しかしながら甲板に命中した場合は距離が短いほど浅い角度で命中するため貫通力が低下し、弾き返されやすくなります
そして、重たい砲弾をなるべく早い速度で当てた方が貫通させやすくなります
砲弾の重さ・砲弾の速度の2要素を両立させる為には、なるべく大口径で長い砲身の大砲が必要になります
その2要素を高い次元でバランスさせるために、戦艦大和は46cm砲を搭載したのであり、ただ単に射程を長くするために46cm砲を載せているわけではないですし、命中率はその他の国の戦艦と大差があるわけではありません
製作開始時には大艦巨砲主義の真っ只中だったができた時には大艦巨砲主義は終わってたんだよなぁ…不遇な艦だ
みょん太郎
その大艦巨砲主義を終わらせたのは日本という皮肉
真実はその時、戦った日米の兵士たちの方々。
結果見た後なら何とでも言える。その場その時いた人の意見は貴重だ。
この船がシブヤン海海底で見つかった年に日本は戦争へまた歩み始めました、かつての敵、アメリカの依頼により出来た法案だと言われています。
願わくばこれからの政治にこのような悲惨な体験を語って頂いた事が活きることを。
俺の曽じいちゃんは整備士だった
火力最強の浮沈戦艦よりも、ちょこちょこ動き回って地道に攻撃してくる戦闘機の方が強いってこの戦いで思い知らされたんだろうなー……
末岡大希
しかもその強さの第一発見者が日本という皮肉
戦友を見殺しにした事を話す勇気…公に反省すること。この人こそ生き残るべくして生き残った誇りであり、こ罪に苦しみ生きていかなければならないが立派な日本人だと思った。
戦争体験者の話はたくさんあるが、見殺しを正当化する人ばかりなのは仕方ないとして
それを悔い反省している戦記は多くない。
生と死隣り合わせで、よく帰国された軍人に御礼を言いたい、日本のためによく戦ってくれました。【敬礼】
過去は過去、今は今と歴史は変える事が出来ない
ただこの戦争で何を日本は教訓したのか。それが先人や轟沈した艦に対する礼儀じゃないのかな
@000079715 様 父上のとても貴重なお話に感心いたしました。お父様は、武蔵のレイテ突撃に乗艦なされたのでしょうか?
私の父は陸軍歩兵第7師団第26連隊(旭川)で、満州北部での戦闘に参加したようです。今も91歳で健在です。戦争の話は避けて、殆んどしません。よほど辛いものがあると思います。
それは事実ですね
戦艦大和が出来あがったのは開戦してから8日後の12月16日、戦艦武蔵はその1年近く後ですが、太平洋戦争で活躍したそれ以外の戦艦金剛型・扶桑型・伊勢型・長門型の10隻はどれも1920年前後もしくはそれより前で、その当時は大型艦艇を沈める事が出来るほどの兵装を搭載して運用するほどのパワーをもつ航空機はなかったので、航空機が戦艦を沈めることが出来ると考える人はいなかったでしょう
戦艦大和の建造が決まったときですでに大型艦艇を沈める事が出来るほどの兵装を搭載して運用することは可能でしたが、建造が決まって何年か後にプリンスオブウェールズの撃沈、真珠湾で戦艦数隻を大破に至らしめる出来事が起きるまでは、航空機に対する有効性を理解していませんでした
しかし、その後もまだそのような所がありました
自ら航空戦を仕掛けておきながら航空戦に敗れた戦い
継続は力なり
依田さんの手記、小学生の時に読みました。
それしか言葉が出ません。
日本人として生まれたなら、日本人としての誇りを持つべし。
戦争を体験したことがないわれわれ若いものが、軽々しくものを申すべからず。
I wish so badly I knew what everyone is saying, is there any translation of this?
>america won but we're STILL THE BEST