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このシリーズが無料で見れることに感謝しかないです。先生みたいな人になりたいです
いつ何時でも勉強できる!最近ムンディー先生見始めました!永遠に価値のある動画、ありがとうございます!
中国ドラマをみるとどうしても、自分の知識不足を認識して、中国の歴史をちゃんと勉強したいと思っていました。わかりやすく簡潔に伝わり有難うございます。
すごいね、なんのドラマ見ていますか
先生の板書、すごく見やすくて好きです!助かってます。ありがとうございます!!
宦官は去勢された男性という認識で良いのでしょうか?
違います
激しいクンニにより、口腔内(主に舌の上)に卵子が張り付いている状態の男性の役人を宦官と呼びます。その後、自らの精液を口腔内に蓄えることで、卵子は受精卵となります。
合ってますよ!
当時は麻酔なんてなかったから、、、ヒッ
ほんと何時も助かってます。まじで分かりやすいです。
「あそこと言うとあそこです」がツボりました
ぺぺローソン それ以上は言えまぁ〜せん!( ̄▽ ̄)
そのアイコンで言われるとなおさら意味深wwww。
@@kyouyasuda2740 君のおかげでこの人思い出した
真弓田中 さん、動画をご覧いただきましてありがとうございます。この回では王朝としての魏と地方政権としての魏をわけて考えて、王朝としての創始者を曹丕としています。呉の建国者を孫堅としていないのと同じです。三国志好きだと違和感があるかもしれませんが・・・私も三国志大好きです。
なるほどです!
Historia Mundi 先生は一つの違いがあります。「蜀」というのは四川の古い呼び方、国号ではない。劉備は前漢の中山靖王の子孫なので、だから彼は漢として受け継がれた。しかし、劉備が築いた「漢」は四川にあったから、現在の歴史学者は「前漢」、「後漢」と区別のため、「蜀漢」と呼びました。実には劉備の国の国号は「漢」です
侯佳博 ちょっとなに言ってるかわかんない
三国志は、三國無双でたくさん学びましたので大好きなセクションです。
ようやく6話だ〜〜〜、、がんばります😆
マジで感謝!
ナビゲーターと同時並行で見てるんだけどまじでムンディわかりやすくて助かる
ほんとにわかりやすいなあ
北コース南コースって、分岐のある人生ゲームのマップみたい笑
あそこというとあそこですでちょっと笑ってしまった
すみません!🙇💦自分用です!終わったら消します!次14:35〜
三国志知らないから授業楽しみにしてたのにめちゃくちゃあっさりしててちょっと悲しかった笑
三国志超面白いよねぇ
魏(木)の下で蜀(ショック)を受けた呉(郷)さん
皇帝が弱い時期の中、宦官や外戚が横暴、それにより乱が起こって中国が分裂する。中国は魏、蜀、呉の三国に分かれ、晋によって再び統一される。晋は内外の乱により北と南に大きく二分し、南北朝時代が訪れる。ありがとうございました😊とても分かりやすかったです!
初めて見ましたが、とてもタメになりますね!ありがとうございます( ◠‿◠ )
高3です。中国の王朝でよく疑問に思うことあるんですが、「後〜」といった王朝はその前に存在していた後〜に続く王朝となにかしら関係してるから、そう呼ばれてるんですか?「後〜」といわれる王朝は近代に入って後付けされた、王朝名なんでしょうか?
そのとおり、「後」は後世によってつけられたものです。たとえば、後漢王朝は建国した劉秀はただ「漢」と名乗ったわけですし、人々も「漢王朝の再興」という意識しかないわけです。北宋南宋の南宋も当時はただ「宋」という国号です。後世の人が区別のため「後」や「南」をつけるわけです。
可惜我听不懂啊,只看得懂后汉的灭亡。我还挺想听听日本是咋讲历史的
九品中正は仏教用語の九品(くぼん)とは関係ないのでしょうか?
中国史って同じ名前の国が出てくるのが嫌ですよね…ぜんぶ孫呉、蜀漢、曹魏、西晋って2文字にしてくれれば良いのに
下品(かひん)と呼ぶのが正しいのでは?
かひんで合ってますよ。げひんは人柄や性質が卑しいという意味です
とても分かりやすいですっ‼︎いつも、自発的に勉強しませんが、コレは好んで聴いています‼︎数学とか、他の教科もお願いします‼︎
数学なら超わかる高校数学がオススメですよー
数学お願いしますは草
えぐいほど鬼畜で草
すみません、質問よろしいですか、、?黄巾の乱があって、それを鎮圧させたのは、曹丕や、劉備や、孫権なのですか?なぜ彼ら3人は宦官に手を貸したのでしょうか?鎮圧させてからどういった経由で赤壁の戦いがあったのでしょうか、、?赤壁の戦いで三国に分裂したとういうことが勉強してて分かったのですが、そのへんのことが調べてもあまり分からなくて、、。
黄巾の乱の弾圧は後漢朝廷。黄巾の乱の爆発のせいで後漢末期に董卓、曹操、袁紹、马騰や袁術など実力がある軍閥が現れた。
私の日本語は苦手で、うまく説明できなかった。もし興味があれば、「三国志」を読んでください、「三国演義」は小説なんです、架空の物語が多い
先生からの返信が無いようでしたので、ただの正史ファンですが解答させていただきます。先に言っておきますがこれからの知識は受験では役に立ちません。 まず、黄巾の乱の鎮圧に曹丕と孫権は関わっていません。曹丕の父である曹操、孫権の父である孫堅がそれぞれ漢軍として参戦しています。黄巾の乱を鎮圧した武将を上げるとすれば、朝廷から討伐の命令を受けた皇甫嵩と朱儁という武将がそれに当たると思います。ちなみに、黄巾の乱の首謀者である張角は病死しています。また、非常に広い地域で一斉に蜂起したものですから鎮圧に時間はかかっていますが、漢軍が一年を掛けずに鎮圧しました。 次の質問ですが、黄巾の乱の目的は漢を腐らせている宦官や外戚を倒すことではなく、漢という国はすでに死んでいるので新しい国を作るというのが目的です。なので宦官に手を貸したのではなく、漢という国を守るために戦った、というのが正しいと思います。すでに役人であった曹操と孫堅は職務としての参戦でもあります。劉備は仲間を集めて義勇軍として参戦し、手柄を上げて役人になっているので就職活動と言えるかもしれません。最後の質問は長くなりそうなのでいったん区切ります。
続き 最後の質問ですが、黄巾の乱の後、当時の皇帝である霊帝が崩御し長男の少帝が帝位に付きます。それをきっかけに権力を握りたい宦官派と外戚派が互いに殺し合い、外戚に宦官への威圧として呼ばれた董卓が当時の首都である洛陽へ軍を率いてやってきます。そして軍事力で首都を制圧した董卓は少帝を廃し、少帝の異母弟である献帝を皇帝へと据え政治的権力を握り専横を極めます。あまりに董卓が酷かったため、袁紹を中心人物として各地で一斉に対董卓軍が挙兵します。幾度かの戦闘のあと、董卓は献帝を連れて西の長安へ遷都します。この挙兵と遷都をきっかけとして地方の政治家や軍人が自身の勢力を作る、群雄割拠の時代となります。 遷都した董卓は部下らに裏切られ殺されてしまいます。長安は董卓の元部下たちの殺し合いで乱れ、献帝は長安を離れた後、曹操に保護され許という都市に招かれここが首都となります。 献帝を擁立した曹操は中国を統一するため中国東部と北部の主な敵対勢力を平伏させます。そして、次は南へ攻めることにしました。この南征で孫堅の子で呉郡周辺を勢力地としていた孫権と、以前に曹操への暗殺未遂などで敵対していた土地を持たない勢力である劉備が手を組み曹操の南征を阻んだ戦いが赤壁の戦いです。 赤壁の戦いの結果、兵の疫病などの影響もあり曹操は北へと帰還します。そして劉備と孫権の勢力は曹操に従属しないまま存続することとなります。勢力として存続した劉備はその後、当時の中国の南西部である巴蜀や漢中といった土地を奪い取ります。この曹操の子、孫権、劉備が魏・呉・季漢(蜀)という帝国を作るので、赤壁の戦いが三国鼎立の原因の一つと言えます。
memo 9/9
後漢(ごかん)じゃなくて、(こうかん)じゃないの?
それは五代のほうな。
建国者は曹操ですよ。
さみちみる 建国者は曹丕で合っています。確かに曹操と思いがちですが、魏の初代皇帝は曹丕であるため、建国者ではありません。曹操は魏の国を実質的に作り上げた人物ではあります。
曹操は魏王にまでなりましたが、その時点ではまだ漢王朝は存続してます。ただし、曹操(曹家)が実質的トップではありました。簒奪の意思も明らかでした。ただし、曹操の生前は簒奪の足場固めをしていただけです。もっと言えば、赤壁さえなければ、統一してから漢王朝にとって代わるつもりだったと思います。曹操の子の曹丕が魏の初代皇帝です。漢を滅ぼして(献帝から禅譲を受けて)皇帝の地位に就いたのはこの人。三国志を読めばよくわかります。(ストーリーを理解するだけなら漫画でよいと思います)
このシリーズが無料で見れることに感謝しかないです。先生みたいな人になりたいです
いつ何時でも勉強できる!最近ムンディー先生見始めました!永遠に価値のある動画、ありがとうございます!
中国ドラマをみるとどうしても、自分の知識不足を認識して、中国の歴史をちゃんと勉強したいと思っていました。わかりやすく簡潔に伝わり有難うございます。
すごいね、なんのドラマ見ていますか
先生の板書、すごく見やすくて好きです!助かってます。ありがとうございます!!
宦官は去勢された男性という認識で良いのでしょうか?
違います
激しいクンニにより、口腔内(主に舌の上)に卵子が張り付いている状態の男性の役人を宦官と呼びます。
その後、自らの精液を口腔内に蓄えることで、卵子は受精卵となります。
合ってますよ!
当時は麻酔なんてなかったから、、、
ヒッ
ほんと何時も助かってます。
まじで分かりやすいです。
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真弓田中 さん、動画をご覧いただきましてありがとうございます。
この回では王朝としての魏と地方政権としての魏をわけて考えて、王朝としての創始者を曹丕としています。呉の建国者を孫堅としていないのと同じです。三国志好きだと違和感があるかもしれませんが・・・私も三国志大好きです。
なるほどです!
Historia Mundi 先生は一つの違いがあります。「蜀」というのは四川の古い呼び方、国号ではない。劉備は前漢の中山靖王の子孫なので、だから彼は漢として受け継がれた。しかし、劉備が築いた「漢」は四川にあったから、現在の歴史学者は「前漢」、「後漢」と区別のため、「蜀漢」と呼びました。実には劉備の国の国号は「漢」です
侯佳博 ちょっとなに言ってるかわかんない
三国志は、三國無双でたくさん学びましたので大好きなセクションです。
ようやく6話だ〜〜〜、、がんばります😆
マジで感謝!
ナビゲーターと同時並行で見てるんだけどまじでムンディわかりやすくて助かる
ほんとにわかりやすいなあ
北コース南コースって、分岐のある人生ゲームのマップみたい笑
あそこというとあそこですでちょっと笑ってしまった
すみません!🙇💦
自分用です!終わったら消します!
次14:35〜
三国志知らないから授業楽しみにしてたのにめちゃくちゃあっさりしててちょっと悲しかった笑
三国志超面白いよねぇ
魏(木)の下で蜀(ショック)を受けた呉(郷)さん
皇帝が弱い時期の中、宦官や外戚が横暴、
それにより乱が起こって中国が分裂する。
中国は魏、蜀、呉の三国に分かれ、晋によって再び統一される。晋は内外の乱により北と南に大きく二分し、南北朝時代が訪れる。
ありがとうございました😊
とても分かりやすかったです!
初めて見ましたが、とてもタメになりますね!ありがとうございます( ◠‿◠ )
高3です。中国の王朝でよく疑問に思うことあるんですが、「後〜」といった王朝はその前に存在していた後〜に続く王朝となにかしら関係してるから、そう呼ばれてるんですか?「後〜」といわれる王朝は近代に入って後付けされた、王朝名なんでしょうか?
そのとおり、「後」は後世によってつけられたものです。たとえば、後漢王朝は建国した劉秀はただ「漢」と名乗ったわけですし、人々も「漢王朝の再興」という意識しかないわけです。北宋南宋の南宋も当時はただ「宋」という国号です。後世の人が区別のため「後」や「南」をつけるわけです。
可惜我听不懂啊,只看得懂后汉的灭亡。我还挺想听听日本是咋讲历史的
九品中正は仏教用語の九品(くぼん)とは関係ないのでしょうか?
中国史って同じ名前の国が出てくるのが嫌ですよね…
ぜんぶ孫呉、蜀漢、曹魏、西晋って2文字にしてくれれば良いのに
下品(かひん)と呼ぶのが正しいのでは?
かひんで合ってますよ。げひんは人柄や性質が卑しいという意味です
とても分かりやすいですっ‼︎
いつも、自発的に勉強しませんが、コレは好んで聴いています‼︎
数学とか、他の教科もお願いします‼︎
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えぐいほど鬼畜で草
すみません、質問よろしいですか、、?
黄巾の乱があって、それを鎮圧させたのは、曹丕や、劉備や、孫権なのですか?
なぜ彼ら3人は宦官に手を貸したのでしょうか?
鎮圧させてからどういった経由で赤壁の戦いがあったのでしょうか、、?
赤壁の戦いで三国に分裂したとういうことが勉強してて分かったのですが、そのへんのことが調べてもあまり分からなくて、、。
黄巾の乱の弾圧は後漢朝廷。黄巾の乱の爆発のせいで後漢末期に董卓、曹操、袁紹、马騰や袁術など実力がある軍閥が現れた。
私の日本語は苦手で、うまく説明できなかった。もし興味があれば、「三国志」を読んでください、「三国演義」は小説なんです、架空の物語が多い
先生からの返信が無いようでしたので、ただの正史ファンですが解答させていただきます。先に言っておきますがこれからの知識は受験では役に立ちません。
まず、黄巾の乱の鎮圧に曹丕と孫権は関わっていません。曹丕の父である曹操、孫権の父である孫堅がそれぞれ漢軍として参戦しています。黄巾の乱を鎮圧した武将を上げるとすれば、朝廷から討伐の命令を受けた皇甫嵩と朱儁という武将がそれに当たると思います。ちなみに、黄巾の乱の首謀者である張角は病死しています。また、非常に広い地域で一斉に蜂起したものですから鎮圧に時間はかかっていますが、漢軍が一年を掛けずに鎮圧しました。
次の質問ですが、黄巾の乱の目的は漢を腐らせている宦官や外戚を倒すことではなく、漢という国はすでに死んでいるので新しい国を作るというのが目的です。なので宦官に手を貸したのではなく、漢という国を守るために戦った、というのが正しいと思います。すでに役人であった曹操と孫堅は職務としての参戦でもあります。劉備は仲間を集めて義勇軍として参戦し、手柄を上げて役人になっているので就職活動と言えるかもしれません。
最後の質問は長くなりそうなのでいったん区切ります。
続き
最後の質問ですが、黄巾の乱の後、当時の皇帝である霊帝が崩御し長男の少帝が帝位に付きます。それをきっかけに権力を握りたい宦官派と外戚派が互いに殺し合い、外戚に宦官への威圧として呼ばれた董卓が当時の首都である洛陽へ軍を率いてやってきます。そして軍事力で首都を制圧した董卓は少帝を廃し、少帝の異母弟である献帝を皇帝へと据え政治的権力を握り専横を極めます。あまりに董卓が酷かったため、袁紹を中心人物として各地で一斉に対董卓軍が挙兵します。幾度かの戦闘のあと、董卓は献帝を連れて西の長安へ遷都します。この挙兵と遷都をきっかけとして地方の政治家や軍人が自身の勢力を作る、群雄割拠の時代となります。
遷都した董卓は部下らに裏切られ殺されてしまいます。長安は董卓の元部下たちの殺し合いで乱れ、献帝は長安を離れた後、曹操に保護され許という都市に招かれここが首都となります。
献帝を擁立した曹操は中国を統一するため中国東部と北部の主な敵対勢力を平伏させます。そして、次は南へ攻めることにしました。この南征で孫堅の子で呉郡周辺を勢力地としていた孫権と、以前に曹操への暗殺未遂などで敵対していた土地を持たない勢力である劉備が手を組み曹操の南征を阻んだ戦いが赤壁の戦いです。
赤壁の戦いの結果、兵の疫病などの影響もあり曹操は北へと帰還します。そして劉備と孫権の勢力は曹操に従属しないまま存続することとなります。勢力として存続した劉備はその後、当時の中国の南西部である巴蜀や漢中といった土地を奪い取ります。この曹操の子、孫権、劉備が魏・呉・季漢(蜀)という帝国を作るので、赤壁の戦いが三国鼎立の原因の一つと言えます。
memo 9/9
後漢(ごかん)じゃなくて、(こうかん)じゃないの?
それは五代のほうな。
建国者は曹操ですよ。
さみちみる 建国者は曹丕で合っています。確かに曹操と思いがちですが、魏の初代皇帝は曹丕であるため、建国者ではありません。曹操は魏の国を実質的に作り上げた人物ではあります。
曹操は魏王にまでなりましたが、その時点ではまだ漢王朝は存続してます。ただし、曹操(曹家)が実質的トップではありました。簒奪の意思も明らかでした。ただし、曹操の生前は簒奪の足場固めをしていただけです。もっと言えば、赤壁さえなければ、統一してから漢王朝にとって代わるつもりだったと思います。
曹操の子の曹丕が魏の初代皇帝です。漢を滅ぼして(献帝から禅譲を受けて)皇帝の地位に就いたのはこの人。
三国志を読めばよくわかります。(ストーリーを理解するだけなら漫画でよいと思います)