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子供時代は、もぅ一生戻りたくないな。地獄だった
子供時代の地獄の中のほんの少しの楽しい部分だけをリピートしたい…。
@@モモンガ-z8g まあ、楽しいものも楽しいと思えれないからその瞬間の楽しい気分にはなれないだろうなあ
共働きで大変な母を喜ばせようと、皿洗いをして母の帰りを待っていたところ、 「なんでシンク回りちゃんとふかなかったの」と言われた記憶が残っています。自己防衛で期待をすることをやめましたが、今も時々予想外の反応や、相手は自分が思っているほど思っていないという考えに苦しむ時があります。
「なんで」から始まる言葉ってものすごく心に刺さりますよね。笑い話にできるような雰囲気ならいいけど、真面目であればあるほど「呪い」の言葉になる気がします。
良く、わかります(..)
痛いほどよくわかります。褒めてほしかったよね。それを否定された時のショックたるや。ただ、わかるよ、とか、今日何があった?とか関心示してほしかったな😢
えっ!?メッチャ優しくて可愛らしいお子さんじゃないですか❤私ならありがとう〜!!大好き😊って抱きしめたい位😊
@@SK2channel 「お皿洗ってくれたの!?ありがとう!」って言って、本人にバレないようにそっとシンク周り拭いておきます。どうして褒めてあげないんだろう?次回以降「お皿洗い終わったら水気も取ってほしいな!」とかやんわり伝えればよいのに。あなたはとても良いことをしましたよ!
子供時代を振り返ると、親でもなく、先生でもない、「メンター」の様な大人が欲しかったです。「熟慮もせず、あーしろ、こーしろ。」という大人ではなく、自分の気持ちに寄り添って、一緒に考えてくれる様な大人に「道しるべ」を貰いたかった。
私もネグレクトだったので、白馬の王子様じゃなくて、私という人間や私の将来に興味を持って話をしてくれる「まともな大人」を必死に探してました。友達の親とか、その辺の知らない大人に自分から話しかけてまとわりつくような、困った子供だったと思います。普通に危ないですよね。まあ放置でしたが。
まったく同じだなぁ
あと、親のために優等生を演じたり、天真爛漫を演じてたタイプの小学校児童会クラスの同級生が、中学に行ったらみんな壊れてびっくりした。私は身体が壊れ→メンタル壊れだったけど、大体はメンタルのみ壊れた。多分、元学級委員みたいな友達の半分ぐらいは壊れた。良い子は危ないと思う。子供に頼っちゃだめ。子供に騙されたらだめ。子供は親のために演じれるけど、そうなったら誰にも相談できない。
親に子供らしくない子どもだったと言われたけど、大人になって初めて心療内科に行ったらメンタルが壊れてた…。
障害年金をもらいながら、作業所で雇用契約をして働いている60歳が目前のおばちゃんです。学生時代の自分は、落ち着きが無く、怖い口調の人に怯え、失敗を連続でし、言い訳は嘘ばっかりでした。怪我も多かったです。昼間あったことを思い出し眠れず、風邪をひきがちで学校を休むことが多かった。運動神経は0に近く、真面目にやれと先生に怒られました。何故に自分はぶきようなのか?と悩む日々でした。時は流れて精神科を受診し、鬱状態、発達障害の診断が出て通院歴20年になります。今は体が動くし、怒る人にも慣れてきました。充実した日々を送れています♪ありがたいことです。
コメント失礼します!本当に尊敬します。自分はまだ20歳になったばかりで悩みも多く不安も絶えませんが、このコメントを見て自分も頑張ろうと勝手ながら励まされました今は充実した日々を送れているとのことで喜ばしい限りですこれからも幸せに生きていけるように祈っております!長文失礼致しました
@@ぶどう-v8n ありがとうございます。ほんと。子供時代に戻りたくないですよ。😢
今の幸せを感じるまでに、たくさんの方々にお世話になりました。あなた様にもいい出会いがありますよう願っています。😊
マジですごいです。人生キツかっただろうに😢
私が風邪をひいて熱を出しても仕事に行っていた親。1人で高熱でうなされた日。夜、仕事に行くと言い 親戚の家に預けられた。「嫌だ」と何度も言っても「仕事」と言われたら諦めないといけない。「おはよう」と母に挨拶をしても無視される。母の気分によって無視されるのは当たり前。怖かった。寂しかった。捨てられるんじゃないかと不安だった。叩かれるのも怒られて追い出されるのも怖かった。親に連れて行かれるスナックや、飲み屋が嫌だった。飲み屋の2階で年上の男の子にされたことが気持ち悪かった。でも未だに誰にも言えない。当時の自分を救ってあげたい
辛かったですね、、、よく乗り越えて来られましたね。私は幼少の時、兄の近所の友達に性的ないたずらを受けました。怖いのに言えなかった、、、50年近く経つのに言えないまま、両親も他界。出来の良い兄に対して、冷めた部分を持っています。たくさんたくさん頑張ったね、偉かったねって自分を抱きしめてあげて下さい。褒めてあげて下さい。貴女は本当に頑張って生きて来た。愛おしい唯一無二の存在です。
私もこれがあったら絶対専業主婦で子育てすると決めてるなのに世の中は私の母に続いて共働きを選ぶのが当たり前になっている勿論女性も好きな仕事に就ける世の中になるべきだと思うでも、子育てがなおざりにされない前提だと思うんだよねだから女性の社会進出はまだ全然過渡期
辛かったですね😢よく頑張って生きてきましたね。本当に頑張りました。いま生きているだけであなたは素晴らしい存在です😊私もいろいろありました。両親を含む大人達や兄から理不尽に沢山傷付けられました。あなたも私もまったく悪くありません。どうしても得られぬ母からの愛情を渇望しそれを諦める方法を求め続けて来ましたが、還暦手前の最近になってまだ不完全ですがやっと諦めの気持ちを得られたように感じています。私達は何も悪くありません。自分を慰め誉めて癒し励まして上げましょう。お互い心の安寧が訪れますように🍀応援しています。
北米在住していたので、今ならわかるのですが、日本の教育や親子関係は愛情を子供に対して直接的に示す機会が圧倒的に少ないです。それなのに否定はいつもするような・・。(私もまさに劣悪な家庭環境の中で育ちました)そんな環境では子供が病んでも何ら不思議ではありません。何でも欧米式を取り入れるべきとは言いませんが、子育てに関しては、彼らの方から学ぶべき所はたくさんあります。
両親が日常的に怒鳴り合いの喧嘩をしていることに傷つきました。喧嘩が聞こえると、怖くて身体が硬直しました。子ども部屋で耳を塞いで喧嘩が終わるのをひたすら待っていたのが本当に辛かったです。何よりも両親のけんかは私のせいだと思っていたことが辛かったです。私が潤滑油になって両親を取り持たなければと思っていました。今思えば両親の問題であり私は関係ないのですが、大人になった今も傷ついています。
わかります。めちゃくちゃに共感します。
@@uzomfff ありがとうございます!
うちもそうでした!それに加えて、小学生〜中学生の時にいじめを受けていたので、私の居場所は家にも学校にもない、誰も助けてくれない孤独と絶望感に常に苛まれていました😢
「その人にとってはすごく傷ついた」すごく救われます。涙が出ます。中学生のころ、しばらくの間毎日のように胃が痛くなっていた時期があります。そのころちょうど仲の良かった祖母が亡くなったり、受験のストレスも大きかったです。1人で寝ることができない時期もありました。胃が痛いことを親に訴えると一度は病院に連れて行ってもらいましたが、薬がなくなったらまた再発、それを訴えると「私も具合悪くなりたいわ」と母親に言われました。母も大変だったのだと思いますが、1番辛かったときに言われたこの言葉がずっと忘れられません行きたかった高校には行けましたがクラスが下だったことで親からはおめでとうとは一切言われず笑顔もありませんでした。先生からは親のおかげだ、親からは先生のおかげだと言われ私の努力は誰にも認めてもらえませんでしたその後下の兄弟が鬱になり親と通院していましたが、その影響で精神不安定になった私は怒られるだけで寄り添ってもらったことはありません。自分で精神科に行きそこから今に続いています。家を出てだいぶ楽になった感じはします。
小学校のときとかに傷ついたこと、親を含めてほとんど誰にも言ってきていない。しょっちゅうフラッシュバックする。やっと最近旦那に初めて言えた。ポロポロと口に出すのに30年かかりました。
小さい頃、留守番中に包丁を持って◯んでみようとしたり、首を絞めてみたり…ずっとどうやったら死ねるか考えてました。その頃の口癖は、私なんて生まれてこなければよかったのに。でした。大学生になり、親の逮捕、解雇や妹の飛び降り未遂が重なり、精神的に参ってしまい、病院に受診したところ、適応障害、不安障害と告げられました。今は少しずつ親となるべく距離をとりながら、なんとか過ごしてます。今まで親を他人としてみたことがなかったのですが、俯瞰してみると、ただの他人に見えてきて安心できます。
親なんて、たまたま自分がそこに産まれさせられただけの唯の他人だ、って考えてる方が気は楽だなーと思う。
家でも学校でも心が休まらなくて、自分は他の人よりも劣ったダメな人間なんだと自分を追い詰めていた頃をふと思い出すと、本当に苦しくなる。
みんなもっと辛い目に遭ってるんだから、その程度の事で苦しむなみたいな事は、小馬鹿にされて苦しみを無視されてるようでまあ辛かったな。
幼少期はいつも、霞がかかったような空間で生きてました。現実感がなく、周りに求められる役を演じ、「これ、自分じゃないな」と思いながらなんとなく生きてました。友達とも何だか空々しい感じでしか話せず、「変わってるね」とよく言われました。思春期でそれに耐えられなくなり、よく図書館に逃げ込んでました。家系的にもうつ傾向があったので、おそらく抑うつ状態だったのだと思います。もう、子どもには戻りたくないです。
宿題の音読したときに、いつも母親が丸印をつけてたが、珍しく父親が宿題を見てくれ、音読の丸印をつけてくれた日があった。父の丸印は子供っぽい○で、可愛かったし嬉しかった。でも次の日提出したら、これは自分で書いたんでしょと先生が疑ってきて呆れたような顔をしていた。悲しくて、ショックでたまに思い出します。。
子供ってマジで大変だよなぁ、、自分含めみんな若いのによく頑張った!偉い!と尊敬しています
生い立ちを語る(言語化する)ことは大事なんですね。この作業、とっても疲れるし、辛いんだよなあ〜
疲れるかもしれないけど、効果はあるなら、生きる為なら、やってみようかな?
子供の頃、うつ病で苦しみました。私の子供の頃、1980年代ですが、「子供に精神疾患はない」と言われたり、近くに入院設備のある精神科病院があっても「あそこに入院したら人生が終わりだ」と子供の前で親達が世間話をしている、そんな時代でしたね。1990年代後半になり、家の近所でカフェと見間違うような明るい雰囲気の精神科クリニックが開業し、そこに通うようになってから症状も良くなり、薬は欠かせませんが、寛解状態を維持し、フルタイムで働けています。地域の人達も「私、○○心療内科、行ってるんだ」という話が増えてきましたね。1980年代の頃と比べると環境は格段に良くなっています。そのことに感謝しつつ、気を引き締めて生活を続けたいと思っています。
小学生の時、飼っていたセキセイインコが突然死んでしまいました。大好きだったので悲しくて泣いてしまったら、母と何故か妹からも「馬鹿じゃない。鳥が死んだくらいで泣くなんて。」と言われて傷ついた😢元々感受性が強すぎると非難されてたな。孤独だった。
私の兄も子どもの頃セキセイインコを飼っていて、インコは兄にとても懐いていました。母の不注意からあっけなく亡くなりましたが、母はインコが亡くなったことを全く嘆いておらずちょっとどうなんだろうと思いました。それ以外にも、庭の木に鳩が巣を作るとすぐに破壊し、ヘビが出ると怖いと言ってヘビに石を投げつけていました。ヘビが母を怖がって、怯えた目をして逃げていったことが忘れられない。母は鈍感だから色んなことをあまり深く考えることができない。
@@snoon27ヘビを怖がらせるお母さん😳パワフル過ぎると察しました。親がパワフルだと子どもは大変ですよね😂
@@はるこさん-e9s 母は私が子どもの頃はどちらかというと不安が強いタイプで、酷い更年期障害の後キャラ変を起こして急にパワー系になりました。へびに石を投げつけてしまったのは不安からへびを恐れて投げつけてしまったのかと。へびの怯えた目。可哀想でした。
私もです。だから未来悲しくなる事態を見越して過ごしています。
@@kaguya7603 すみませんが、どういう文脈から未来に悲しくなることが起こると想像するのですか?ちょっと気になりました。
今になって思えば、子供の時からあったが、「そんなのはオマエの甘えだ!」と言われるし、大学病院で検査をなんて言われたら「あの担任何を根拠に!」と親が怒るし、1970代は「大学病院は、行くな!あそこは、どんな症状でも、病気にするから。」と言う偏見もあった。鬱?で悩んでると、「あなたが、暗い顔してるからその鬱々としてる雰囲気で、相手も気分悪くなるから、いじめるのよ。暗い顔しないでね」と言われるし、「子供に鬱?そんなん!あるわけないだろ!」これで10代に鬱の診断できなかったが、あったやろな〜鬱。当時わからんかった、発達障害もあるから。昭和の話だけどね。勿論今は、複雑性PTSDもあるよ。
機能不全の家族の元育ち、今思えば子どもの頃は、ぼーっとしていることが多かった。疲れやすく小学校から帰って来ると、横になってダラダラしていることも多かった。ぼーっとする、何も考えない時間(心と体が乖離?している状態)が当時の私には必要だった。鬱か、何かしら病んでいたのだと思う。
沢山のコメントを読んでいて、子供って大人ほど経験や知識がなくても、ちゃんと周りの空気を呼んで機嫌を取ったり精神的に大人な子供が、殆どだなぁと思います。そして子供のうちに我慢していた気持ちが成長するにつれ抑えられなくなり精神的な病や体の不調に繋がっている気がします。コメントを書かれている方の殆どが本当に我慢して親や身近な大人の機嫌を取り、相手を傷つけないよう、自分が傷つかないよう、傷をえぐらないよう、自分自身を守って生きてきたんだなと、自分も含め感じます。経験や知識から大人が子供に与える愛情と子供が本当に欲しい愛情は必ずしも一致していないし、大人になってからも自分が思う愛情と他人の思う愛情は違うんだなと改めて感じました😌自分で自分を癒やし自分に愛情を注ぎ、余裕があるときは自分が与えられる愛情を必要としている人に届けられたらいいなと思います😊💞皆さん、小さい頃から本当に苦しかったですね!自分の気持ちに蓋をして、我慢して頑張ってきましたね!鬱は甘えでも何でもないと思いますし、我慢してきたんだから次は、ゆっくり休んで褒める時だよ〜ってことだと思います!自分のことを責めるのはもうやめて、自分のこと目一杯褒めてあげて欲しいです🍀(私自身にも言ってます🤭)皆様にとって素敵な日々となりますように〜💖🍀
貴方様にとっても素敵な日であります様に
@@Gussan5071 ありがとうございます😊💖🍀
ありがとうございます🙇♀️そのお言葉に救われます🥲
精神的な寄り添いがあまり無い家族でした。思春期までの親との記憶で悲しかった出来事が点々と有るけれど、親は悪意があった訳でも無さそうだし…という苦しさがずっとあります。
家でも虐められ学校でも虐められ行き場がなかったので仕方なく毎日学校に行っていたけど、大人になった今でも不調が治らない。
イジメなんかで学校に行くのが辛いなんて言ったら、自分の弱さを責め立てられるのが分かりきってたので、無理矢理学校行ってたな。
小5、6の頃希死念慮がすごかったんだよな…
自分は高校生頃…自覚がなく死にたいとばかりぼんやりと思ってた…。
子どももうつ病になるのだと周知されるようになるのなら何より。昔は子どもは風の子なんて言われて、どんなに心身が辛くても見過ごされる悪習が日本にはあったと思います。今でこそ生きづらい子ども達へのサポートが着目されていますが、それ以前に苦しい子ども時代を過ごした人達へのサポートが欲しいですね。やはり被害者は団塊ジュニア世代が一番多いと思います。
幼少期はネグレクト、思春期は家族間で怒鳴り合っている声や物が飛んでったり、食器の割れる音、ドアを勢いよく閉める音、夜中は音楽が爆音が流れるのを聞いていて、過敏性腸症候群になりました。その時期、現実が嫌になり、寝る事(夢を見る事に)に逃避していました。日中も夢の中に居るようなボーっと膜がはってるような感じが続き、あるとき振り返ると一日中声を発してない事に気付いて、声を出そうと思っても出せない事に気付きました。今うつ病の診断で通院する様になって、あの時から兆候があったなと思いました。子どもの時期はとても大切な時期だから、大人はその子どもとの関わり方をもっと大事にしてほしいなと思います。
今回は子供の頃を思い出して、辛い回でした。個人的には親に言っても「嫌なこと」から守ってくれるとは思えず、我慢するしかなかった。幼稚園のころ、頻繁にトイレに行きたくなって言うのですが付き添いの先生がハァーって大きくため息をつくのが印象に残ってます。嫌だけど、教室で漏らす方がいやだからしょうがない……小学校では忘れ物が多く、1つ忘れ物をすると、1回ビンタというルールがあり、私は常連でした。体罰で躾けるという考えの教師に5年間担任されました。同級生から浮いてしまい同性からは無視やからかいの扱いを受けていました。からかいには担任も加担することがありました。中学校では入学早々「イジメは絶対にワシが許さん!」と宣言する担任にあたり、わたしの地獄は終わりました😊泣きながら書きましたので、おそらく乱文です。すみません
小学生の頃、母親に『今日は学校で何か楽しい事あった?』と聞かれ、本当に何もない普通の日だったので『別に』と答えていましたそれが何回か続くと『何もない事、無いでしょ』と言うような旨の事を言われただから楽しい事があった時、ここぞと思って『今日学校でね!』と楽しかった出来事を話したが、母親の反応がイマイチだったそれ以来『あ、この親に期待するのはやめよう』と思った他人に期待しないのも、自分に期待しないのも、これがキッカケかなぁと今は思う
小中学校時代学校に行くといじめに遭い、授業中や休み時間関係なく悪口が飛んでくる。家では親に無理矢理勉強させられ問題が解けないと机を叩いて怒鳴られたりペンを投げられたり「なぜこんな問題も解けない、努力してるなら結果を出せよ」と怒鳴られ続け何度も消えたいと思い生き続けてきました。周りから自分の気持ちや苦しみを理解してもらえず根性論を押し続けられた結果解離の症状が酷くあらゆることに対して無関心、無気力になってしまいました。子どもはストレスを感じないという親の教えの元育ってきたので、それが過ちだということや誰かに相談することが大事だということを広めていただきたいです。
鬱だったかはわからないけど嘘は日常茶飯事でした。親に殴られないよう捨てられないよう、間借り先の親戚に気に入られるため、クラスメイトに可哀想だと思われないよう…毎日自責の念にかられてそれが生きる理由でした。眠ると無意識に泣いていました。張り詰めた風船のような精神状態というか…常に情緒不安で激昂したり泣き出したり教室を飛び出したり…感情のコントロールが出来なかったです。
おそらく、そうだったんだと思います。灘や神戸女学院狙いの中学受験校で、親も子も狂ってたと思います。子に対して、包丁を持ち出す親もいましたから。そのストレスで、できない子やちょっと違う子を徹底的にいじめる。そのターゲットにされ、家では母の愚痴を聞き、部屋から出る時は笑顔を作れるように両手で頬を叩いて笑顔の練習をしてました。小学校の教室内で、解離していたのを、はっきり覚えてます。
父が怒鳴ったり、母に暴力をふるったり、私はいつも怯えていました。家で自分を出せなかったから、学校でも出すことができず、いつも落ち込んでいるような感じでした。鬱っぽかったんだろうな。
中学2年の時、仲間でワイワイ下校している中で、ふっと「自分はいないほうがいいのではないか」と思いました。小学5年の二学期、突然、授業中に居眠りするようになり、通知表に書かれてしまいました。私は機能不全家庭の出です。23歳になって初めて精神科を受診しました。良くなったり、再発したり、今は、月1で精神科に通っています。3駅、約20分電車に揺られ、自分の旅行みたいになっていますね。
父親が剣道の先生で、自分は運動神経がまったくダメだった。しかし、無理矢理、剣道を小、中、高校とやった。いつも、親父と比べられ、ツラかった。虐待に近かった。しかし、親父もアダルトチルドレンで子供の育て方がわからなかった。今は、父親がうつ病、兄弟もうつ病、自分も精神科の病気。親父の母は◯殺してた。遺伝は恐いと思った。ま、終わった話で、仕方なかったと思っています。
その人にとっては、傷ついたというのは、大切なんだなぁと思いました。私の子ども時代は、からかいにあい、けんかになり、教師に怒られて、家でも怒られるルーティンがあり、大変つらかったです。何度か、熱が出るように、わざと夜更かしをして、「休む」ようにしました。子どもの辛さは、その環境から離れたり、調整したりが本人では難しいことだと思います。
子供の頃、虐待や性被害で苦しんだ人でも、大人になって結婚して子供を作っている人がいるのが不思議です。両親と祖母からの虐待と、十代での性犯罪被害、その後も何十人も痴漢に遭って、男の人にはゾーッとしかしません。ネグレクトで育ったので、2歳くらいからずっとぐったりしていました。ちゃんと食べさせてもらえないのに、「元気で家事を良くする子」を求められて、無理して身体を壊しました。親の虐待で子どもが身体を壊しても、親は傷害罪になりません。子どもは壊された身体でどうやって生きていけば良いのでしょうか?
母の日のカーネーション、喜ばれると思ったら『お花じゃなくて今度は観葉植物ね』。紙製の引き出しに折り紙やリボンを装飾をして喜ばれると思ったら『あーあ、エルメスのリボンこんなに切っちゃったの、あーあもったいない』。頑張ってもへし折られる経験ばかり。名前を呼ばれるときは怒られるとき。見てもらえるのはスゴいときだけ。常に誰かの望むような形で役に立って、意味のあることをして頑張っていないと不安な大人になってしまった。
小学生の頃、母親に殴られたり「なんであんたなんて産んでしまったんだろう」と言われたことがずっと頭に残っています。その母親も小学生の頃に病気で亡くなったので、怒りも悲しみも行き場がありません。現在26歳で精神科通院中です。
これ、もっと広まってほしい
ありがとうございます。心を代弁してもらい救われた気持ちです。1人で沢山我慢して乗り越えて、その事自体を消してしまいたいと考えていました。でも、何かにつけて引っかかってくる。当時うつの状態だったと思います。それなら、辻褄が合います。過ぎた事だけど本当に辛かった。認めてもらったからか自然と涙が流れました。これで気持ちの整理が少し出来そうです🙇♀️
今まで考えたこともなかったけど子供の頃、うつだったんだと気が付きました。小学生で不眠があり、何か不安なことがあるとすぐにお腹が痛くなっていました。希死念慮もありました。大人になってから仕事のストレスで体調を崩し通院するようになりましたが問題の根は深かったのかもしれません。
子供時代にうつを経験して思ったのは、今自分が不利な状況にある原因を環境・他人のせいにしていて、自分の内面の問題に気づくのが遅くなったこと。自分は、毎日(たまにサボった)、「感じたことや今日の反省」を書くことで、少しずつだけど、自分の心を治すことができた。難しいかもしれないけど、みんなにもやってほしいかも
私も他罰的になるのをやめ、自分に向き合うことで治しました。受診はしていませんが、人格障害等いろいろ持っていたのだと思います。15年かかりました。
@@M123A-o7y15年ですか。長い道のりでしたね。
お二人とも「自分と向き合う」を実践されていて尊敬いたします。自分と向き合う辛さはどうやって乗り越えましたか??日々会社に行って今日を無事に平穏に生きることで精一杯...と向き合うことから逃げて逃げて数十年です...。被害者意識や他罰思考が強くて自分の思考に苦しめられる辛さから解放されたいです😢
@@cozara 「逃げてる」と自覚がある。被害者意識や他罰思考にも気付いている。私は、とても素晴らしいと思います。私からのアドバイスとして、マイナスの感情(悲しみ、怒り、嫉妬、辛い等)を「悪いもの」と捉えない事だと思います。その中にこそ、本当のあなたが隠れているのでマイナスの感情をまず大切にされてください。自分に向き合うことは、辛いものです。だけど、それは向き合えば向き合うほどに苦痛の度合いが減っていきます。これは、訓練するしか身につけることはできません。身につけることで、本来のあなたに戻ることが出来、今の苦しみが苦しみでなくなります。諦めずに、頑張ってください。
10代の頃の記憶は、もう…どこをとっても暗くて。どこをどう拾い上げて話そうか、という感じなので難しいです。そうだなぁ…絵本が好きな子どもだったらしいのですが、絵本の中で描かれているような、あたたかな家庭、家族というものは無いんだな、うちはこうじゃないんだな、と知ったのが保育園児か小学1年生くらいの頃だったような気がします。でも、諦めきれなくて小学5、6年生くらいまでは夢見ていたと思います。「こんなもの無いんならこんな絵本描いて無駄に希望を持たせるなよ!」と、子ども心に激しい怒りを感じていました。ずーっと暗い気持ちで、月曜の朝になると必ずと言っていいほど頭痛がして、よく休んでいました。親にはズル休み認定されていましたし、私自身も罪悪感を感じていました。誰とも遊びたくないし、土日は疲れて眠る。10代の煌めきなんてない。ずっと鬱だったんだろうな。
親に「私はこれが苦手だ」と言ってもまともに取り合ってもらえなかったことをいまだに思い出しては辛くなります。例えば子どもの頃から寝付きが悪かった私は、かなり大きくなっても夜泣きが治まらず親に怒られていました。大人でも眠れない夜はしんどいのに、子どもなんだから眠れない夜が辛いのは当たり前じゃないかと今では思います。今は大人なので自分で病院に行って必要な薬を処方してもらって、子ども時代よりはすんなり眠れています。大人になれてよかったです。
小学校低学年か中学年の頃、母親に「あんたは〇〇(父方の苗字)のほうに似てキツい顔、妹はお母さんに似てかわいい」と言われ、トラウマで自分を好きになれませんでした。外見が無理なら内面を磨こうと必死に頑張ってきましたが、何十年経っても自分を肯定できません。
私も幼稚園のときに同じこと言われました。妹が自分に似て可愛いって言うのも自分で言うのね苦笑って感じですよね。
@@お砂糖-k5e 同じ経験をした方がいると思うと救われます。そのときは純粋にお母さんも妹も可愛くていいなーと思っていましたが、よく考えると子どもに向かってこの発言する母の内面病んでますかね…
@@古屋由紀 私は姉妹差別でかなり貶されたり色々対応が違ったのもあると思いますが、わざわざ言うのは言われた側の気持ち考えてない上に父と仲悪いことが原因だから、、病んでいたのかも。
私は3姉妹の長女で、妹達のお世話や家事の手伝いをして当たり前とされていました。母はadhd強めな感じでよく調味料など買い忘れをし、幼稚園児だった私に買いに行かせました。最初は夕方、そのうち夜でも頼む様に。丘の上の団地から暗く長い階段を下ってマーケットまで行くのが怖かったけど、断ると叱られる。中学で部活を始めるまで、夜のお使いと散らかった部屋の掃除は私の仕事でした。他、中学の課外授業に妹を連れて行かされたりめちゃくちゃでした。入場料のこともあって先生方もあたふた対応されて、でも、私は親からお金を預かっておらず、恥ずかしい思いをしました。父はasd強めで、夫婦仲も悪く以後心地悪い家でした。母は、根は優しい人なのですが不安を抱えられず全て子供にぶつけ、非常識な行動も多く、私に理想を求め、父の代わりの相談相手にもされ、子供時代に子供として過ごさせてもらえませんでした。今でも妹二人が羨ましいです。誰に話すでもない自分語りをさせて頂き、ありがとうございます。
私も長女で、子供として過ごさせてもらえませんでした。妹は得してるし、私は損してると思う。
長女って本当に母親の愚痴の吐口になりますね。手のかからない子と期待しすぎです。子ども時代には潤滑油がわりでしたね。今ようやく反抗期を迎えることができ、距離を取り生活出来ています。
失くしものが多くて怒られたり、不器用で勉強や運動がうまくできなくて、特訓させられたり…いまでも「ちゃんとできなくちゃ怒られちゃう」という気持ちに結びついてます。親なりの愛情だった、そういうものだったと納得するには、まだ時間がかかりそうです。親を受け止める心の広い自分を演じてしまってます。
4歳の頃、商店街を歩いていたら、突然後ろから外国人風の男性に手を握られ、そのまま十数メートル歩いた。5、6歳の頃、電車のボックス席に座っていたら、後ろから急に女性に肩を握られた。それだけじゃない、あれも、あの時のあれも、これも大したことじゃない、よくあることだと思ってきたけれど、嫌だった。変だった。怖かった、気持ち悪かった。私は傷ついていた、傷ついているんだと認めたのがちょうど1年くらい前です。
幼稚園児の時に、ピアノの発表会で、一生懸命弾いたけど間違えた。その発表会が終わるまでの間母は俯いていて、あー私はダメだったんだなと思っていたら、帰り道、母から一言、「お母さん恥ずかしかった」と。ショックでいまでも鮮明に覚えている。ピアノを始めたばかりの頃、家族皆んなで楽器店に行き祖母が立派なアップライトピアノを購入してくれた。母から「こんなに立派なピアノを買ってもらったんだから一生懸命練習しなさい」と言われた。今思うと、私が買ってとお願いした訳ではない。でもその言葉があったから、好きでもないピアノを、やりたくもないのに辞めてはいけないものだと思って中学まで続けた。子供ながらに責任感でやってた。いま思うと、いまも仕事で、無言の圧に、負わなくても良い責任を負って、失敗して気づついているのは、このころからの、親からの押し付け(抑圧?)が癖みたいになってしまったのかなぁと、いまこれを書いていて思いました。
確実に鬱でした。小学校の頃、看護師の母親に相談したら、「○○○○は家の恥、私の立場が悪くなるから病院には連れて行かないからな!」と罵倒されて終わりました。小さい頃からずっと心身辛かった。ずっと寝込んでいた。20年前にパート先で倒れてやっと治療はじめて40歳過ぎて最近やっと、体がダルくなくなった。フラッシュバックも無くなった。人生で初めてと言ってもいい状態です。ただ頭はもう回りません。何も深く考えられない。悲しいけど、まあいいや…😢
10才の時、母の彼氏に犯されましたあの時が最初の鬱病だったんだと思いました此を見てから思い出すと自傷行為もしてました抜毛症など精神的な苦痛を和らげようとしてたんでしょうね登校拒否、引きこもりもありました
まともではない親、学校、コミュニティからは早く離れるべき。私はそれができなかったし教師、親、一部同級生、ネットのコミュニティで知り合った一部の人から虐められて自殺未遂、鬱悪化の三十代にして無職5年目です。
私も37年間生きてきて3年前に気づき実家とは縁を切りました、私は障害者年金受給中です、無職ですが、20代は親の呪いのごとく毎日睡眠時間2,3時間、働き詰めで生きてきました、壊れました、無職?全然良いんですよ!生まれてきてくれただけでありがとうです!!頑張らなくていい!今まで精一杯頑張って生きてきたのだもの、休まなくていいんですよ、寝る事も責任のある仕事のひとつだから。
@@ミント-t6uコメントありがとうございます。実は仕事でも意地悪な人に目をつけられて嫌がらせされました。私は共依存になっていて親との縁だけ切れません。複雑なことができなくて普通に生活ができる気力もないので尚更です。毒親と縁を切った人を尊敬しています。自殺未遂するほど頑張りすぎたと言う事でもう先の事は前より考えなくなり貯金もしなくなりました。産まれてくるだけでいいと思えるまで回復したいです。
私は子供頃大人しくて恥ずかしがり屋で家に来た親戚や近所の人と話すのが苦手でよく固まっていた。すると母は私を無口で困るとよく話していて小言も言われてました。家に他人が来るのが余計嫌になって喋らない事は悪いことなんだなと思ってました。明るく人と受け答え出来ない自分に大人になるまでずっと自信がなかったです。母は誰とでもすぐ打ち解ける人でホントに良く喋る人でしたがそうなかなか出来ない母とは違う私の気持ちを受け止めて欲しかったです。
辛かったでしょう😢
不登校だった私は「学校に行けない自分なんて親はいらないだろう。いつか捨てられる」とずっと思っていました。なので外出先で少しでも親が見当たらないと、10秒も経たないうちに「遂に捨てられたんだ」と思い、その場で泣いてしまっていました。
子どもの話になると、過去の悲しい記憶にぶち当たります。その頃、益田先生を知っていたら、もう少しまともな人生だったと思います。勉強ができないのも、物事がうまく行かないのも、すべて自分が悪いのだろうとしか考えられなかった学童期。そう言えば我が両親も共働きでした。それが悪いわけではないのでしょうけど、「助けて!困っているの!」と声を上げることもできなかった自分を哀れに思います。その分自分の子らには、注意深く観察し、耳を傾け手を貸す時期を逸さない対応を心がけました。そして、納得しながら進学、就職へと進んでいる彼らを嬉しく思う今現在です。
私は、小学生時代から大学生時代まで孤独で、特に小学生時代は父親からの監禁や身体暴力がありかなり苦しかったですね。学校では友人がいないけど孤独だと目立つから孤独でないように振る舞って、家では父親からどう逃げるかを考えていた。学校に行っても家に帰っても地獄で、まさに早く死んでしまいたいと思っていた。これが子供時代の傷つき。ただ、今、私はここに生きて、この文章を書いている、そう叫びたい、みんなならきっと聞こえる
親が帰宅したから「お帰りなさい」と挨拶したはずなのに私の口からは「4にたい」って声が出ていて、爆発的に激怒されました。殺してやるって。うつの始まりかなと思いました。小学3年から4年くらいでした。男になれと言われてバリカンで毛を刈られたり、下着のパンツは1枚しか支給されなかったり色々カオスでした。
バンツ1枚って、洗い回しどうするの……?
@@kmoto5789 夜中にコッソリ洗って、ぬれてても根性ではいてたー。
子どもの頃から人見知りで、どう人と関わったらいいか分からないタイプの人間です。そのせいで近所の人に挨拶を自分からできない、他人の前では自己表現できませんでした。そんな私を見て親は「ちゃんと挨拶しなさい!」と言い、相手に「うちの子はこういうところがダメで~」と私のことを卑下するような言い方をよくしていました。思えば褒められたことはあまりなくて。そのことが今も私の自己肯定感の低さに繋がっているな、と思っています。また、母からは祖父母の悪口を、祖母からは母の悪口を聞かされることが多く、子ども心に結婚したらこんな風に思うんだ、仲良しでアットホームな家族はドラマやアニメの世界なんだと思っていました。それもあり、他人と付き合うことや結婚に憧れがないといったらウソですが、前向きに離れないし、躊躇してしまい、異性と仲良くなっても知り合い、友達止まりです。そんなことはつゆ知らずか、「早く結婚しなさい」「孫が見たい」と親が言うことに対して腹立たしく思います。想像力豊かなのか、ニュースを見たり噂話を聞いて「日本でも戦争が起きるんじゃないか」「世界が滅びるのではないか」など悪い想像をしたり、最悪なことを本気で想像するタイプだったため、それを親や周囲の人間に理解してもらえず辛かった思いもあります。大人になって、今少しずつ子どもの頃の傷つきを親に伝えていますが、どこまで理解してくれているのか…、疑問です。
幼稚園から塾に通い、小学校から祖母の介護+神童と呼ばれ、県トップの進学校へ。中2で摂食障害に。高2で親から「医者か弁護士か会計士!大学も就職も一生親の側にいて!親の介護しろ!!逃げられると思うなよ!!」、文章が頭に入らなくなったり友達付き合いする気力も無くなった。持続性抑うつ障害で、その後うつ病で休職。人生の半分位をうつで過ごしています。
客観的に聞くと、親のせいだなと思いました。反面教師です。
うちの親もそんなんだったよー子供の頃から母親に関関同立はFランって言われて育った、結果ガチFラン中退した
主治医からはっきり親がうつの原因、離れろと言われそう伝えても、いまだに老後甲斐甲斐しく私にオムツを変えてもらう未来を信じています。泣き喚いて罵倒して拒否してくる奴らを施設に入れるのが楽しみです。
社会人になって5年、いつも他人の目が気になり、仕事ができないと無能と思われると必死でした。その原因が、中学受験の時に自分の限界を超えるほど勉強させられ、成績が良いと何でも買い与えてもらい、成績が下がると母親の機嫌も悪くなるといった、自分が役立つかどうかで母の機嫌を左右していた経験だったと気づきました。無事志望校に入学後も、1年くらいは毎朝満員電車の中でお腹を壊し、駅のトイレに行ってから学校に行くのがルーティンでした。今思えばれっきとした心身症であったと思います。子供時代の根本原因に気づき始めてから、自律神経失調症や肩凝りが自然に減ってきて驚きました。ただ、ここ数日、人の役に立たなければという焦燥感が強くなり、しんどくなったのでこの動画を見に来ました。これをみて「ああ、やっぱり正当化してきたけど、中学受験はつらかった」と本音が湧き上がってきました。子供時代のことなんだからと卑下せず、認めようと思いました。
自分も子供、思春期時代に傷ついたことを素直に認めます。辛かった、悲しかった、怖かった、不安だった、益田先生、ありがとうございます。
中学1年の時の担任の先生がおかしかったなにか問題が起きた時に、他の学年の先生がこのクラス担任はだれだと聞かれ担任の先生の名前を言うと、それじゃ仕方がない・・・とあきらめる他の先生にもあなた達は運が悪い1年間、我慢しなさいとも言われたこともある大人になって思ったけど、絶対に問題のある先生だったんだと思う他の先生達の対応がおかしかった 当時、小学校に行く機会あり小学校の元、自分の担任にその先生の名前を出したら驚いてた有名な先生なのと聞いたら、たまたま知ってるだけだよと言ってたけどなんかはぐらかされた気がした
先生の発信、また発達障害という医学の概念が出来た事は私にとって救いです。なぜなら発達障害だった母も自分ではどうしようもなかったと今は理解が出来たからです。昔は母の言動は故意だと思い許せませんでした。母親は難病に起因する発達障害。一才の時に親は離婚して、ヒステリックな母と二人きりの生活でした。毎日殴られ、怒鳴られ、外に出され、閉じ込められ。私はたまに会う父が大好きで、いつか3人で暮らせる日が来て、辛い生活が終わると信じていた。その頃は「ずーっと胸にナイフが刺さってる」ような痛みを感じていた。鬱病だったかもしれない。物心ついてからは母が友達のお母さん達とは全然違うと気付いていた。そして母は自らあの世へ旅立って行った。私は後遺症からかパニック障害があり、家事が人並みにできない日もあります。それでも中高生の我が子達は私を愛してくれます。自分が子供達の年齢の頃は、母は恥ずかしい存在で大嫌いだったけど。この子達が巣立つまでには元気になって、人並みの母親としての姿を見せたいです。
子供のころ数年間酷いいじめにあっていた。でも将来いつか良くなることを信じで頑張った。でも大人になったいま、将来に希望が持てず苦しい。
子どもの頃を振り返ると、キッカケはやっぱりいじめが原因かな···?苦しくて悲しい思いを誰にも言えず、それをずっと抑えてきたので…それによって性格が暗くなったことも、、、ガス抜きができなかったので、それが大人になっても心身に影響しているのは、否めないですね。長年ストレスを溜め続けたことによっての鬱病。まさか自分が、精神疾患の病気になるなんて…💧
益田先生 ありがとうございます!子ども社会は 子どもに頑張ることを強制するところでした 本人の気持ちを無視して 特に学校は辛い環境です!先生たちが発信してくれると きっと社会に浸透していくと思います子供の生きづらさ は 大人社会の生きづらさの 投影の様にも思われます感受性が高く 賢い子供たちは 理不尽感を抱きやすいように感じています脳も完成しておらず 物凄く社会、環境の影響を受けます 社会や子供を取り巻く環境が健全であることを願います。
中学生の時、部活で虐められて本気で死のうと思ってました。計画まで立ててました。今思うと小児うつだったのかなと思いますし、虐められた原因もアスペっぽさなんだろうなって思います。あの頃に気づいて治療していれば、今は変わったのですかね。
大人になってから子供のころからうつだったことが分かりました。あぁあの時の辛さはうつが関係していたんだとわかりました。もう仕方がないですからわすれたいですが、親が生きているうちはそれをわすれようとしても無理だとおもいます。実家からなるべく心離れるようにしています。
日々命の危険にさらされていて食事も与えて貰えず衣服も2着ほどしか無く洗濯もさせて貰えず成長に合わせたブラも買って貰えませんでした。外見からネグレクトを受けていると認知されても誰も助けけません。誰しもネグレクトの事実を否定をします。時折与えて貰う食事は砂と感じ食べられない、眠れない日々でふらふらしていました。防衛をしようと緊張を維持していたと思います。今考えてみても健康とはほど遠い日々だったと思います。
辛いでしょうね😢
毒親が大きな原因ですよね。子どもは鬱になっても動きを止めることを許されないので、そのまま幽霊のように動き続けて大人になります。自分が苦しんでいることに気づかず、「自分が悪い、自分に能力がない」と思い込んで、頑張ろうとするんですが、頑張れないんですよ! 動きを止めることに成功したら『ひきこもり』になれますが、『ひきこもり』になることを許されなかった子どもは、苦しいけど、どうして自分が苦しんでいるのかわからないから助けを求めることができませんね。
子どもの頃嫌だったのは容姿いじりです。母が美人ですが、父に似たので、そのことを親戚からずっと笑われていました。祖父からは従姉妹と比べて私の顔は変だと言われたり。母からもおしゃれをしても似合わないと鼻で笑われたり。このことを人に話すとまた笑われて、恥ずかしいというか情けないというか。自分は醜いから、大人になったら絶対に整形しようと思ってました。でも、美人でも不満ばかりな母、歳をとって昔は美人だったことにしがみつく母を見ていたら、今はどうでもよくなってます。
小さな事ですが、走って前髪が上にあがったら「見て見てオデコ広い」って笑われてから下を向いてしか走れなくなったり、笑って歯茎が見えることを「うわー」って言われてから笑う時は口元を隠す習慣、思い切り笑えなくなったり、声が小さい事を注意されたり…小学校生活は小さな嫌なこといっぱいだったな〜それらは大人になった今でも影響していますね。意識していませんでしたけど。
追い立てられる様な訳の分からない焦りが、性格では無く家庭環境から来るモノだったと知ったのは数年前の事、機能不全の家庭で育ったと自覚しています。小学生の頃は行動も学力も普通ですが、とにかく性格が暗いとずっと通知表の担任からのコメントに書かれていて、それを見た母には(何で暗いのよ。)と言われていましたが、おそらく両親は自分たちの影響とは思っていないと思う今思えば鬱だったのでは?と感じています
暗い夜道で転んで、膝が血だらけになったのに、家族は振り返らずに、私を置いてどんどん進んで行ったこと。兄から「お前がいなくなったほうが世界はもっと良くなる」と言われたこと。大掃除の時、足をぶつけて痛くて動けなかった時、父から「掃除しないなら出て行け」と言われたこと。胸が大きくなってきた時、よく通っていた商店のおじさんに胸を触られたこと。一緒に学級委員をしていた人が転校したこと。みんなその人が嫌いなこと。思い出す度涙が溢れてくる。自分の辛かった経験を認められるようになって、前より辛い気持ちになることはなくなったけど、やっぱり辛い経験だった。😢
先生のRUclipsはたまに、観ていてとても胸がギュッと掴まれた感覚になって苦しくなって観れなくなる事があります。ごめんなさい。
中3の冬の受験シーズンに受けたテストの点数が悪く、志望校には受からないんだと絶望して、自分の中で張り詰めていた糸が切れました。その後朝学校に行って教室に入った瞬間泣いてしまい、そこから不登校になりました。何日も一睡も出来ず無気力になったかと思えば、ハイテンションで数日間置き続けたりと精神が錯乱していました。結局、レベルを落として高校には合格しましたが、一ヶ月で不登校になりお先真っ暗でした。今思えば、中学3年の間になんとなくこの高校に行くんだろうなと思い描いていた理想が実現しないことに絶望してしまっていたのだと思います。
助けてほしかった時に母に相談したら怒られたり、近所の仲良くしてくれたお兄ちゃんが引っ越してしまったりしたことは、今も思い出して苦しいです。
イジメ受けてたらほぼ確実になると思うゾ(イジメを経験したが鬱の自覚は無かったけど)
息子は私の顔を見なくなり本をペラペラ開いていた。学校に行く時間に玄関でジーッと悲しそうに母の顔を見つめていました。その後病院に連れていきました。私は謝っても謝り切れない後悔と苦しさと非力に今もうつ病の治療を受けています。可愛そうな事をしました。😢😢
いじめは人間の尊厳を損なわせるものだから、絶対に放置してはいけない。学校が知ってていじめを放置するとはほとんど共犯者のように思えます。
小学生の頃、クラスメイトに散々言われすぎて、給食の時間中にトイレの個室に籠り、すすり泣きしながら小声で歌っていました。その後は何もなかったかのように教室に戻りました。そういう出来事が多々あった子供時代でした。
学生時代、仲の良かったクラスメイトを亡くしました。でも、その後も私や他の同級生は日常が続いていく。亡くなったその子のこともなんとなく友達と話せないまま、ただ時が過ぎてゆく。気にかけてくれた周りの大人にも話せず、その子がこの世界から忘れられていくのかなという切なさで深く深く傷ついていたのを思い出しました。他もいろんなことがたくさん重なって、学生時代は本当に辛かったです。当時そんなにも傷ついていたんだと気づいたのは、それから15年ほど後、カウンセラーの先生に話ができたときでした。いろいろな方との出会いに感謝ですし、当時の自分よく頑張ったなぁと今改めて思いました。
益田先生 いつも学びの多い動画配信をありがとうございます。幼少期の心の傷つき体験については、身体の傷つきよりも可視化しにくいため、心の傷を負ったまま年齢を重ねるというケースが多いのではないか、と感じました。心の傷つき体験がない人はほとんど居ないと思います。でも、鬱病などに繋がってしまう人と、心身共に健康で発病しない人がいると思います。心身共に健康で発病しない人は、幼少期の傷つき体験を、信頼できる他者(大人など)と共有共感したり、感情を認めてもらった実感を持ち、昇華できた人、傷つき体験のたびにその作業を繰り返すことができて、前向きに乗り越えることができる環境下に居た人だと感じました。益田先生が以前仰られていたように、サイコロの6が6回連続で出るような環境下、心の傷を負ったまま年齢を重ねて心身の不調に繋がるというケースでは、ふとした脳のスキマ時間があると、蓋をしたり、心を守るために見て見ぬふりするしかなく手当てする機会がなかった過去の心の傷がうずいたり、姿をあらわしたりしてしまうため、お酒など何かに依存したり、学業や仕事などに忙殺されていたい(他のことを考える余地を与えない)と考えたり、ODなどの現実逃避に向いてしまったり…など、幼少期の心の傷の手当てが不十分や不満足感のままだと、心身の不調に繋がるのではないかと感じています。身体の傷の痛みについては、例えば幻肢痛など手当てが遅ければ遅いほど、脳は痛覚を強烈に記憶にすり込むそうです。心と体は繋がっているため、幼少期などの傷つき体験の手当てについて、早期発見早期対応のスピード感が重要だと感じています。信頼できる他者(大人など)と感情を共有共感したり、感情を認めてもらったという実感を持ち、1人ではできない部分を大人などの他者に伴走してもらい、昇華や前向きに導いてもらうことができる環境調整が、社会や専門職等に求められる部分なのかな、と感じています。
私は父が要介護の重度障害者になり、母が発達障害の毒親で学校でもいじめられ逃げ場の無い子供時代でしたお風呂に入ること、髪を洗うことがとにかく億劫で一週間髪を洗わなかったこともあります毎日疲れ果てて宿題をする余裕がなかったです兄弟全員がこんな感じだったので遺伝というより家庭環境や学校から来る鬱だったのかなと思います大人になって一人暮らしをしている今では、こんな症状は無くつつがない社会生活を送っています
私は嫌だと言ったのに無理やり中学受験させられ、入った中学に馴染めず、1学期の内に一緒にお弁当食べていた女子グループから避けられ、まかれるようになった。それからずっと独りぼっち。親を恨んだけど、私の気持ちを聞いてそれに応えてくれることが全くない人なので、言っても「あんたが悪い」とぐだぐだ言われてもっとダメージ受けるだけだから言わない。クラスが替わり、休み時間一人でいるとからかわれて良い事ないので、とりあえず誰でもいいから話合わせて一緒に過ごすことにした。修学旅行の時、グループ活動で男子たちがさっさと先に行って別行動になった。道でお弁当食べてたら、通りがかりの女性が優しい言葉をかけてくれ、唯一うれしかった。修学旅行の文集に男子のした事を書き立てたが、先生からは何も聞かれず。3年間楽しい事ほとんどなくて、写真の目が死んでた。学校は休まず行き勉強もしたけど、行きたくないから休みたいなんて親が認めるはずないと思っていただけ。本当の自分なんてどこにも出せなかった。就職後に鬱になったけど、あの中学時代も鬱だったのかな。
ごく幼い頃私が不器用に舌足らずで話すのを聞くのを当時若かった母は嫌がりました。かなり話したがりの子どもだったかも知れないのに無口になりました。小学3年で転校し、無口なので取り囲まれて囃されました。中学三年間は黄金時代でしたが、勉学の友だった超人気者男子に告白しふられて10年以上引きずりました。当然高校三年間はうつ。卒業して統合失調症を発症。大学卒業後十年以上後に診断されました。今では寛解しています。グループでの会話が困難でしたが、ようやく、本当にようやく、慣れてきました。宿題、ありがとうございます~!!
おそらく子ども時代から鬱でした。とにかく休みたい子どもで、熱が出たら休めるので嬉しかった。特に学校が嫌いだった訳でも嫌われていた訳でもないけど、熱が出て学校を休んで、寝ていていい時間の幸せをよく覚えています。普段私の気持ちを全無視していた両親や祖母も、ずっと可愛がってくれた祖父も、熱が出ている時はかわるがわる枕元で本を読んでくれました。とても可愛がってくれている祖父が、私が学校で良くない事をした時「おとうさんに恥をかかせた」と怒って、怒られたことより何より、ああおじいちゃんはお父さんの方が可愛いんだなと思ったことが辛かった。ライバル心もあって、父よりも賢く強くと、女だけど男のように振る舞おうとしていた。大人になってから、父も私に対するライバル心があったのだと認められるようになりました。父の助けになろうと披露した知識を「親に向かって偉そうだ」と言われたり。祖父が亡くなって実家はバランスを失ってしまったけど父が、母や姉や私や娘のためなんとか頑張ってます。
幼少の頃、夕ご飯を食べるのが遅い理由で母に物凄く怒鳴られました。父からは、同じく小学生に上がる前に小学校の勉強をさせられ、問題が解けないと張り手が飛んできました。習い事も数多くやらされ、真面目に学ばないとやはり父も母もとても機嫌を悪くし怒られました。今思えば子供の教育のための叱りではなく、自分の思うようにいかなかったことへの子供のような駄々こねを、大人の体格と声のサイズでぶつけられていたのではないかと思っています。理不尽すぎて怖かったですね。 毎日が怯える日々でした。
母の日に赤いカーネーションを一生懸命お小遣い貯めてプレゼントしたら大きな声で怒鳴られ花なんて食えない!ムダだ‼️と捨てられてしまいました。翌年からタバコを1つプレゼントすることになりました😢かなりショックな出来事でした。他にも色々な虐待を身体的にも精神的にもされました。5歳の頃離婚した時、施設に行っていれば良かったとずっと思ってます。育ての母親でしたから養育する義務は無いと離婚する時に知りました。あの時、福祉受給出来たらこんなまでにならなかったかも知れないので未だに福祉の担当の方を忘れることが出来ません!母は下着迄素手で触られチェックされて可哀想でした。泣いていました。親孝行は相変わらずやってます。子供の義務なので。。。高価な物は無理ですが何が無いと言えばそれをお誕生日、クリスマスにと即効プレゼントしています。お財布が痛いです😢今は福祉受け精神障害年金も貰って働けない状態にあります。恥ずかしいので速く生活保護辞めたいのですが身体が心がゆうことを聞きません。今日も幻覚を視ました😅フラッシュバックも数個。短期のお仕事も病気を隠して遣らせて貰いましたが3ヶ月もたない心身に陥っています。速く死にたいです。死刑にして欲しい位ツラいです。複雑性PTSDによる鬱と心身症と不安神経症と摂食障害、統合失調症を患い皮膚科や整形外科、眼科、胃腸科内科、普通の内科(悪玉コレステロールの数値が異常に高くて通院しています。)今日も疲れた😣💦⤵️更年期です😔 疲れすぎると不眠になります。過眠症もあります。
同級生や教師からいじめがあって適応障害はあったと思ってます。爪噛み、歯ぎしりがあってやめなさい!って言われたけどやめられなかったです😂爪噛みは大人になりネイルをしたら良くなりました。これからネイリストとして働き始めます。
昔、昔の話です。私は長女です、下に弟妹がいます。私は宗教3世でもあります。弟とのケンカで仏具を投げてしまいました。それを知った父母は私を家から追い出しました。寒い中、ずっと玄関に座らされました。とても怖かった、寂しかった、なんで私だけ‥?と思いました。また別の日。スポーツで父親の指導通りにできなくて、帰りに何度もビンタをされました。他の人たちもいる前で。なんで、なんで私だけ‥?と思っています。3兄弟なのに、叩かれて蹴られて追い出されて‥としたのは私だけ。いまだになんで?なんで?なんで!?と思います。今は実家を出て一人暮らしをしています。一人暮らしを初めてから精神科に通い、発達障害がわかり、複雑性PTSD、反復性うつ病などなど精神疾患も見つかりました。これは‥平成の話です。私は今20代。
15歳で抑うつと発達障害の診断が降りました。20歳です。パニック障害歴10年~の母と吃音症の弟がいます。幼い頃、母親に叱られた記憶が今でも鮮明に残っています。年長さんくらいの時、耳かきをして欲しいと私から頼んだのにちょっと痛くて「やっぱりいいや」なんて気紛れなことを言ってしまったばかりに怒鳴られたり、母が何の前触れもなく出て行ってしまって、代わりに留守を頼まれた父に向かって「お母さんがいないと私は生きていけないから、腹に包丁を刺して死なないといけない!!!」と泣いて縋った記憶もあります。怒られるたび、私は明日も明後日も三年生になっても四年生になっても中学生になっても高校生になっても大人になってもずっとお母さんに怒られ続けるんだろうな…とぼんやり考えていたり。小5 6あたりで自覚症状が出始めた頃には母が病気になったのも、あの子が私を気遣ってくれるのも、この子が一緒に登校してくれなくなったのも、全部私が浮いてるから、私が迷惑をかけてるせいだったんだ…と思うと途端に疑心暗鬼になってそこからは挫折挫折の繰り返しで不登校(登校拒否)、対人恐怖、孤独など、あらゆる不安を抱える日々でした。書ききれないほどの記憶がどれだけ昔のものでも頭にこびりついて離れません。できれば全部忘れたい。現在は吃音で悩んでいた弟がバイトでガンガン稼いだ後に就職し、母もだいぶ症状が落ち着いて運転も出来るようになっています。私だけが置いていかれているような気がして、でも誇れるほどの努力をした覚えもなくて、大学二年に進級しましたが家も学校も休まらず、初めてのバイトにも一歩踏み出せず、虚無ばかりが広がっています。子供に戻りたいと強く思いますが、「私の子供時代」には二度と戻りたくない。
小学生のとき、クラス全体からイジメを受けました。理由は主に私の言動が気に入らないというものでした。その時は「あなたは勉強もできて男の子とも仲が良いから嫉妬されているのよ」となだめられましたが、今となっては成人後に発覚した発達障害の特性のせいだったな、と思っています。結局、発達障害の発見が遅れ社会に出てから人間関係をこじらせて鬱になりました。あのとき私はどのくらい傷ついていたのか、未だに気になって仕方ありません。
子供の時、母親を喜ばせたくて苦手な掛け算を駆使して、お小遣いでショートケーキをたくさん家族と親戚分、買ったことがあります。ところが、当日ケーキを見て母親は「ケーキなんかよりまんじゅうのほうが良かった」と言ったのがとても心に残っています。以前に母親が「誕生日はケーキが良いな」と言っていたのを覚えていて、苦労をして買ってきたのに、母親は喜んでくれなかった。それはとても悲しい思い出としていつまでも消えません。今は年老いた母親と仲は悪くはないですが、何か贈り物をするときはこの事を思い出してとても注意して購入します。「幼いながら、母親を喜ばせようと頑張った自分」が愛おしいです。
親が転勤族で転校が多かった。お友だちと離れるのがいやだった。生徒会とかやってて、転校4回目に遠くの中学校に行く事になった。小学生だったけど、「自分の築いたものがあるのに」と母に言ったら、母から「子どものくせに」と言われた。すごく傷ついた。
小6の時に小さい学校から少し大きめの学校に転校して、そのままほとんどが持ち上がりで中学と過ごしてきたんですが、馴染めずにいて髪が抜けて、毎日その日あったこと(無視されたり悪口陰口聞いたり)で泣くってことがありました。当時のことが今でも夢に出てきたりします。今は別なことで悩んでいて、大学の課題を忘れる、期限が守れない、部屋の整理ができないなどで、ADHDを疑ってます。しかし、両親に理解がなくて診断されても何も起こらないだろうとも思ってて、色々考えているうちに外出も人と関わることも怖くなってしまいました。精神的なことを理解してくれる人が増えて欲しいです。
今でも、学校に通っていたとある日の傷つく言葉、いじめ、目線、表情、状況、場所、鮮明に思い出しますし、卒業式後の宴会の場で幼い頃から今の写真を流された地獄の時間、他の人の写真の時はみんな楽しそうに笑ったり可愛いーとかかっけぇーとか掛け声あったのに、自分の写真の時は気まずそうな空気、そして[た]から始まる名前の男の子が「こういう写真って微妙だしどう反応すればいいんだよ笑」って言って他の人がクスクス笑ってた。明らかな蔑み。唯一母が即座に「わが子可愛いー!」って叫んだ事が嬉しくて泣きそうになってしまった事。友達だと思ってた人も、無反応で我関せず。人なんか二度と信じない、騙す側になってやる。そう決めて演じきった高校。…書き出したら止まらないほど、記憶がずっとあるし消えないし思い出したくないのに出てくるし、家庭も学校も消えて無くなればいいと思ってた。ある日の授業で挨拶の時、立ち上がるのが本当に困難なレベルで鉛のような重さの身体、絶望、全て全て覚えてる。今となっては二次性の鬱だと診断も降り、社会復帰目指して12年。まだまだ心の傷は深すぎて…難しいよね、人間の世界って。だからこそ人に優しくできる自分がいると思えてきた今、何か見えてきたんじゃないかと期待してるんだ。
叔母に言われた感情的で暴力的な数々の言葉と当時のシチュエーションを、大人になったいまでもフラッシュバックのように鮮明に思い出してしまっては傷ついて苦しんでいます。今になって考えれば叔母は発達障害の傾向があり、精神的にも不安定な人なのかもしれないです。だからと言ってそれを仕方ないと受け入れることはできず、自分がうつ病になった原因のひとつはお前のせいだと暴言を吐いてやりたくなります。可能な限り関わらないようにはしていますし今後会う機会はほぼないと思いますが、それでも子どもの時の辛い記憶は一生忘れられない...。過去も今もつらいです。
子供の頃の少年野球チームは監督の罵声・暴力が日常茶飯事で、長時間練習が常態化してるのに毎回一回戦負け。そんな所でした。その上親同士でのマウントばかり気にする親、中継プレー程度の習得にも時間のかかる同僚...もう全てがストレスでしたね。夜、自室や風呂場で一人になると涙が止まらないんです。本当に苦しかった。今でも自分には子供時代がポッカリと抜けて、存在していないと感じています。中学からは剣道を始め、もうすぐ50の今も続けてます。自分の息子みたいな歳の相手と試合をしながら、「年齢相応」を受け入れられない自分自身を強く感じています。いつまでも子供時代を取り返そうとする自分...俺はキチンと成長できてないんだろうな。
子供時代って親も教師も成長の為には我慢が当たり前、みたいな感じでした。当時に今みたいなスクールカウンセリングとかあればいじめ、学級崩壊、担任から生徒へのモラハラ、部活での暴言暴力、性犯罪のカウンセリングなど、もっと寄り添いをして貰えてたのかなと思うようになりました。私は友人が居てくれた事、図書館や図書室があった事、逃げ場の趣味の漫画があった事、宗教系を本で学べた出会い、何だかんだ実家は普通の裕福さくらいはあった、に尽きると思います。人や環境や学びに出会える事は、運、(運命)なので。
高二の時にクラスで孤立して、でも不登校にはなりたくなくて毎日学校に行くたびにこれは夢だと思ってクラス内で過ごしてました。進学校だったし親からはしっかり者長女の優等生だと思われてたのでずっと隠していましたが、二十代初めまでずっと精神が不安定だったのを覚えています。今も不安に苛まれて寝すぎる時などもたまーにありますが、あの頃に比べたら随分強くなり安定してると思います。今思うとあの精神状態が鬱や不安障害だったかどうかはわからないですが...
幼稚園児の時、母親と一緒に自己紹介、当時はぽっちゃりしてたのですが、母親が私の容姿を笑いのネタとして話し、傷ついた経験があります。後にその傷つきを母親に話した際、「それが私だから」と、私の傷つきを受けとめて貰えず、悲しくなった事があります。
子供時代は、もぅ一生戻りたくないな。地獄だった
子供時代の地獄の中のほんの少しの楽しい部分だけをリピートしたい…。
@@モモンガ-z8g
まあ、楽しいものも楽しいと思えれないからその瞬間の楽しい気分にはなれないだろうなあ
共働きで大変な母を喜ばせようと、皿洗いをして母の帰りを待っていたところ、 「なんでシンク回りちゃんとふかなかったの」と言われた記憶が残っています。
自己防衛で期待をすることをやめましたが、今も時々予想外の反応や、相手は自分が思っているほど思っていないという考えに苦しむ時があります。
「なんで」から始まる言葉ってものすごく心に刺さりますよね。笑い話にできるような雰囲気ならいいけど、真面目であればあるほど「呪い」の言葉になる気がします。
良く、わかります(..)
痛いほどよくわかります。
褒めてほしかったよね。
それを否定された時のショックたるや。
ただ、わかるよ、とか、今日何があった?とか関心示してほしかったな😢
えっ!?メッチャ優しくて可愛らしいお子さんじゃないですか❤私ならありがとう〜!!大好き😊って抱きしめたい位😊
@@SK2channel
「お皿洗ってくれたの!?ありがとう!」
って言って、本人にバレないようにそっとシンク周り拭いておきます。
どうして褒めてあげないんだろう?
次回以降「お皿洗い終わったら水気も取ってほしいな!」とかやんわり伝えればよいのに。
あなたはとても良いことをしましたよ!
子供時代を振り返ると、親でもなく、先生でもない、「メンター」の様な大人が欲しかったです。「熟慮もせず、あーしろ、こーしろ。」という大人ではなく、自分の気持ちに寄り添って、一緒に考えてくれる様な大人に「道しるべ」を貰いたかった。
私もネグレクトだったので、白馬の王子様じゃなくて、私という人間や私の将来に興味を持って話をしてくれる「まともな大人」を必死に探してました。友達の親とか、その辺の知らない大人に自分から話しかけてまとわりつくような、困った子供だったと思います。普通に危ないですよね。まあ放置でしたが。
まったく同じだなぁ
あと、親のために優等生を演じたり、天真爛漫を演じてたタイプの小学校児童会クラスの同級生が、中学に行ったらみんな壊れてびっくりした。私は身体が壊れ→メンタル壊れだったけど、大体はメンタルのみ壊れた。多分、元学級委員みたいな友達の半分ぐらいは壊れた。良い子は危ないと思う。子供に頼っちゃだめ。子供に騙されたらだめ。
子供は親のために演じれるけど、そうなったら誰にも相談できない。
親に子供らしくない子どもだったと言われたけど、大人になって初めて心療内科に行ったらメンタルが壊れてた…。
障害年金をもらいながら、作業所で雇用契約をして働いている60歳が目前のおばちゃんです。学生時代の自分は、落ち着きが無く、怖い口調の人に怯え、失敗を連続でし、言い訳は嘘ばっかりでした。怪我も多かったです。昼間あったことを思い出し眠れず、風邪をひきがちで学校を休むことが多かった。運動神経は0に近く、真面目にやれと先生に怒られました。何故に自分はぶきようなのか?と悩む日々でした。時は流れて精神科を受診し、鬱状態、発達障害の診断が出て通院歴20年になります。今は体が動くし、怒る人にも慣れてきました。充実した日々を送れています♪ありがたいことです。
コメント失礼します!
本当に尊敬します。自分はまだ20歳になったばかりで悩みも多く不安も絶えませんが、このコメントを見て自分も頑張ろうと勝手ながら励まされました
今は充実した日々を送れているとのことで喜ばしい限りです
これからも幸せに生きていけるように祈っております!
長文失礼致しました
@@ぶどう-v8n ありがとうございます。ほんと。子供時代に戻りたくないですよ。😢
今の幸せを感じるまでに、たくさんの方々にお世話になりました。あなた様にも
いい出会いがありますよう願っています。😊
マジですごいです。
人生キツかっただろうに😢
私が風邪をひいて熱を出しても仕事に行っていた親。1人で高熱でうなされた日。
夜、仕事に行くと言い 親戚の家に預けられた。「嫌だ」と何度も言っても「仕事」と言われたら諦めないといけない。
「おはよう」と母に挨拶をしても無視される。母の気分によって無視されるのは当たり前。
怖かった。寂しかった。捨てられるんじゃないかと不安だった。叩かれるのも怒られて追い出されるのも怖かった。
親に連れて行かれるスナックや、飲み屋が嫌だった。飲み屋の2階で年上の男の子にされたことが気持ち悪かった。でも未だに誰にも言えない。
当時の自分を救ってあげたい
辛かったですね、、、
よく乗り越えて来られましたね。
私は幼少の時、兄の近所の友達に性的ないたずらを受けました。怖いのに言えなかった、、、50年近く経つのに言えないまま、両親も他界。
出来の良い兄に対して、冷めた部分を持っています。
たくさんたくさん頑張ったね、偉かったねって自分を抱きしめてあげて下さい。
褒めてあげて下さい。貴女は本当に頑張って生きて来た。
愛おしい唯一無二の存在です。
私もこれがあったら絶対専業主婦で子育てすると決めてる
なのに世の中は私の母に続いて共働きを選ぶのが当たり前になっている
勿論女性も好きな仕事に就ける世の中になるべきだと思う
でも、子育てがなおざりにされない前提だと思うんだよね
だから女性の社会進出はまだ全然過渡期
辛かったですね😢よく頑張って生きてきましたね。本当に頑張りました。いま生きているだけであなたは素晴らしい存在です😊私もいろいろありました。両親を含む大人達や兄から理不尽に沢山傷付けられました。あなたも私もまったく悪くありません。どうしても得られぬ母からの愛情を渇望しそれを諦める方法を求め続けて来ましたが、還暦手前の最近になってまだ不完全ですがやっと諦めの気持ちを得られたように感じています。私達は何も悪くありません。自分を慰め誉めて癒し励まして上げましょう。お互い心の安寧が訪れますように🍀応援しています。
北米在住していたので、今ならわかるのですが、日本の教育や親子関係は愛情を子供に対して直接的に示す機会が圧倒的に少ないです。
それなのに否定はいつもするような・・。(私もまさに劣悪な家庭環境の中で育ちました)
そんな環境では子供が病んでも何ら不思議ではありません。何でも欧米式を取り入れるべきとは言いませんが、子育てに関しては、彼らの方から学ぶべき所はたくさんあります。
両親が日常的に怒鳴り合いの喧嘩をしていることに傷つきました。
喧嘩が聞こえると、怖くて身体が硬直しました。子ども部屋で耳を塞いで喧嘩が終わるのをひたすら待っていたのが本当に辛かったです。何よりも両親のけんかは私のせいだと思っていたことが辛かったです。私が潤滑油になって両親を取り持たなければと思っていました。
今思えば両親の問題であり私は関係ないのですが、大人になった今も傷ついています。
わかります。めちゃくちゃに共感します。
@@uzomfff ありがとうございます!
うちもそうでした!
それに加えて、小学生〜中学生の時にいじめを受けていたので、私の居場所は家にも学校にもない、誰も助けてくれない孤独と絶望感に常に苛まれていました😢
「その人にとってはすごく傷ついた」すごく救われます。涙が出ます。
中学生のころ、しばらくの間毎日のように胃が痛くなっていた時期があります。そのころちょうど仲の良かった祖母が亡くなったり、受験のストレスも大きかったです。1人で寝ることができない時期もありました。胃が痛いことを親に訴えると一度は病院に連れて行ってもらいましたが、薬がなくなったらまた再発、それを訴えると「私も具合悪くなりたいわ」と母親に言われました。母も大変だったのだと思いますが、1番辛かったときに言われたこの言葉がずっと忘れられません
行きたかった高校には行けましたがクラスが下だったことで親からはおめでとうとは一切言われず笑顔もありませんでした。
先生からは親のおかげだ、親からは先生のおかげだと言われ私の努力は誰にも認めてもらえませんでした
その後下の兄弟が鬱になり親と通院していましたが、その影響で精神不安定になった私は怒られるだけで寄り添ってもらったことはありません。自分で精神科に行きそこから今に続いています。家を出てだいぶ楽になった感じはします。
小学校のときとかに傷ついたこと、親を含めてほとんど誰にも言ってきていない。しょっちゅうフラッシュバックする。やっと最近旦那に初めて言えた。ポロポロと口に出すのに30年かかりました。
小さい頃、留守番中に包丁を持って◯んでみようとしたり、首を絞めてみたり…ずっとどうやったら死ねるか考えてました。その頃の口癖は、私なんて生まれてこなければよかったのに。でした。
大学生になり、親の逮捕、解雇や妹の飛び降り未遂が重なり、精神的に参ってしまい、病院に受診したところ、適応障害、不安障害と告げられました。今は少しずつ親となるべく距離をとりながら、なんとか過ごしてます。今まで親を他人としてみたことがなかったのですが、俯瞰してみると、ただの他人に見えてきて安心できます。
親なんて、たまたま自分がそこに産まれさせられただけの唯の他人だ、って考えてる方が気は楽だなーと思う。
家でも学校でも心が休まらなくて、自分は他の人よりも劣ったダメな人間なんだと自分を追い詰めていた頃をふと思い出すと、本当に苦しくなる。
みんなもっと辛い目に遭ってるんだから、その程度の事で苦しむなみたいな事は、小馬鹿にされて苦しみを無視されてるようでまあ辛かったな。
幼少期はいつも、霞がかかったような空間で生きてました。
現実感がなく、周りに求められる役を演じ、「これ、自分じゃないな」と思いながらなんとなく生きてました。
友達とも何だか空々しい感じでしか話せず、「変わってるね」とよく言われました。
思春期でそれに耐えられなくなり、よく図書館に逃げ込んでました。
家系的にもうつ傾向があったので、おそらく抑うつ状態だったのだと思います。もう、子どもには戻りたくないです。
宿題の音読したときに、いつも母親が丸印をつけてたが、珍しく父親が宿題を見てくれ、音読の丸印をつけてくれた日があった。父の丸印は子供っぽい○で、可愛かったし嬉しかった。
でも次の日提出したら、これは自分で書いたんでしょと先生が疑ってきて呆れたような顔をしていた。悲しくて、ショックでたまに思い出します。。
子供ってマジで大変だよなぁ、、自分含めみんな若いのによく頑張った!偉い!と尊敬しています
生い立ちを語る(言語化する)ことは大事なんですね。
この作業、とっても疲れるし、辛いんだよなあ〜
疲れるかもしれないけど、効果はあるなら、生きる為なら、やってみようかな?
子供の頃、うつ病で苦しみました。
私の子供の頃、1980年代ですが、「子供に精神疾患はない」と言われたり、近くに入院設備のある精神科病院があっても「あそこに入院したら人生が終わりだ」と子供の前で親達が世間話をしている、そんな時代でしたね。
1990年代後半になり、家の近所でカフェと見間違うような明るい雰囲気の精神科クリニックが開業し、そこに通うようになってから症状も良くなり、薬は欠かせませんが、寛解状態を維持し、フルタイムで働けています。地域の人達も「私、○○心療内科、行ってるんだ」という話が増えてきましたね。
1980年代の頃と比べると環境は格段に良くなっています。そのことに感謝しつつ、気を引き締めて生活を続けたいと思っています。
小学生の時、飼っていたセキセイインコが突然死んでしまいました。大好きだったので悲しくて泣いてしまったら、母と何故か妹からも「馬鹿じゃない。鳥が死んだくらいで泣くなんて。」と言われて傷ついた😢元々感受性が強すぎると非難されてたな。孤独だった。
私の兄も子どもの頃セキセイインコを飼っていて、インコは兄にとても懐いていました。母の不注意からあっけなく亡くなりましたが、母はインコが亡くなったことを全く嘆いておらずちょっとどうなんだろうと思いました。それ以外にも、庭の木に鳩が巣を作るとすぐに破壊し、ヘビが出ると怖いと言ってヘビに石を投げつけていました。ヘビが母を怖がって、怯えた目をして逃げていったことが忘れられない。母は鈍感だから色んなことをあまり深く考えることができない。
@@snoon27ヘビを怖がらせるお母さん😳パワフル過ぎると察しました。親がパワフルだと子どもは大変ですよね😂
@@はるこさん-e9s
母は私が子どもの頃はどちらかというと不安が強いタイプで、酷い更年期障害の後キャラ変を起こして急にパワー系になりました。へびに石を投げつけてしまったのは不安からへびを恐れて投げつけてしまったのかと。へびの怯えた目。可哀想でした。
私もです。
だから未来悲しくなる事態を見越して過ごしています。
@@kaguya7603
すみませんが、どういう文脈から未来に悲しくなることが起こると想像するのですか?ちょっと気になりました。
今になって思えば、子供の時からあったが、「そんなのはオマエの甘えだ!」と言われるし、大学病院で検査をなんて言われたら「あの担任何を根拠に!」と親が怒るし、1970代は「大学病院は、行くな!あそこは、どんな症状でも、病気にするから。」と言う偏見もあった。鬱?で悩んでると、「あなたが、暗い顔してるからその鬱々としてる雰囲気で、相手も気分悪くなるから、いじめるのよ。暗い顔しないでね」と言われるし、「子供に鬱?そんなん!あるわけないだろ!」これで10代に鬱の診断できなかったが、あったやろな〜鬱。当時わからんかった、発達障害もあるから。昭和の話だけどね。勿論今は、複雑性PTSDもあるよ。
機能不全の家族の元育ち、今思えば子どもの頃は、ぼーっとしていることが多かった。
疲れやすく小学校から帰って来ると、
横になってダラダラしていることも多かった。
ぼーっとする、何も考えない時間(心と体が乖離?している状態)が当時の私には必要だった。
鬱か、何かしら病んでいたのだと思う。
沢山のコメントを読んでいて、子供って大人ほど経験や知識がなくても、ちゃんと周りの空気を呼んで機嫌を取ったり精神的に大人な子供が、殆どだなぁと思います。
そして子供のうちに我慢していた気持ちが成長するにつれ抑えられなくなり精神的な病や体の不調に繋がっている気がします。
コメントを書かれている方の殆どが本当に我慢して親や身近な大人の機嫌を取り、相手を傷つけないよう、自分が傷つかないよう、傷をえぐらないよう、自分自身を守って生きてきたんだなと、自分も含め感じます。
経験や知識から大人が子供に与える愛情と子供が本当に欲しい愛情は必ずしも一致していないし、大人になってからも自分が思う愛情と他人の思う愛情は違うんだなと改めて感じました😌
自分で自分を癒やし自分に愛情を注ぎ、余裕があるときは自分が与えられる愛情を必要としている人に届けられたらいいなと思います😊💞
皆さん、小さい頃から本当に苦しかったですね!自分の気持ちに蓋をして、我慢して頑張ってきましたね!
鬱は甘えでも何でもないと思いますし、我慢してきたんだから次は、ゆっくり休んで褒める時だよ〜ってことだと思います!
自分のことを責めるのはもうやめて、自分のこと目一杯褒めてあげて欲しいです🍀(私自身にも言ってます🤭)
皆様にとって素敵な日々となりますように〜💖🍀
貴方様にとっても素敵な日であります様に
@@Gussan5071
ありがとうございます😊💖🍀
ありがとうございます🙇♀️
そのお言葉に救われます🥲
精神的な寄り添いがあまり無い家族でした。思春期までの親との記憶で悲しかった出来事が点々と有るけれど、
親は悪意があった訳でも無さそうだし…という苦しさがずっとあります。
家でも虐められ学校でも虐められ行き場がなかったので仕方なく毎日学校に行っていたけど、大人になった今でも不調が治らない。
イジメなんかで学校に行くのが辛いなんて言ったら、自分の弱さを責め立てられるのが分かりきってたので、無理矢理学校行ってたな。
小5、6の頃希死念慮がすごかったんだよな…
自分は高校生頃…自覚がなく死にたいとばかりぼんやりと思ってた…。
子どももうつ病になるのだと周知されるようになるのなら何より。昔は子どもは風の子なんて言われて、どんなに心身が辛くても見過ごされる悪習が日本にはあったと思います。
今でこそ生きづらい子ども達へのサポートが着目されていますが、それ以前に苦しい子ども時代を過ごした人達へのサポートが欲しいですね。やはり被害者は団塊ジュニア世代が一番多いと思います。
幼少期はネグレクト、思春期は家族間で怒鳴り合っている声や物が飛んでったり、食器の割れる音、ドアを勢いよく閉める音、夜中は音楽が爆音が流れるのを聞いていて、過敏性腸症候群になりました。その時期、現実が嫌になり、寝る事(夢を見る事に)に逃避していました。日中も夢の中に居るようなボーっと膜がはってるような感じが続き、あるとき振り返ると一日中声を発してない事に気付いて、声を出そうと思っても出せない事に気付きました。
今うつ病の診断で通院する様になって、あの時から兆候があったなと思いました。子どもの時期はとても大切な時期だから、大人はその子どもとの関わり方をもっと大事にしてほしいなと思います。
今回は子供の頃を思い出して、辛い回でした。個人的には親に言っても「嫌なこと」から守ってくれるとは思えず、我慢するしかなかった。
幼稚園のころ、頻繁にトイレに行きたくなって言うのですが付き添いの先生がハァーって大きくため息をつくのが印象に残ってます。嫌だけど、教室で漏らす方がいやだからしょうがない……
小学校では忘れ物が多く、1つ忘れ物をすると、1回ビンタというルールがあり、私は常連でした。体罰で躾けるという考えの教師に5年間担任されました。同級生から浮いてしまい同性からは無視やからかいの扱いを受けていました。からかいには担任も加担することがありました。
中学校では入学早々「イジメは絶対にワシが許さん!」と宣言する担任にあたり、わたしの地獄は終わりました😊
泣きながら書きましたので、おそらく乱文です。すみません
小学生の頃、
母親に『今日は学校で何か楽しい事あった?』と聞かれ、本当に何もない普通の日だったので『別に』と答えていました
それが何回か続くと『何もない事、無いでしょ』と言うような旨の事を言われた
だから楽しい事があった時、ここぞと思って『今日学校でね!』と楽しかった出来事を話したが、母親の反応がイマイチだった
それ以来『あ、この親に期待するのはやめよう』と思った
他人に期待しないのも、自分に期待しないのも、これがキッカケかなぁと今は思う
小中学校時代学校に行くといじめに遭い、授業中や休み時間関係なく悪口が飛んでくる。
家では親に無理矢理勉強させられ問題が解けないと机を叩いて怒鳴られたりペンを投げられたり「なぜこんな問題も解けない、努力してるなら結果を出せよ」と怒鳴られ続け何度も消えたいと思い生き続けてきました。
周りから自分の気持ちや苦しみを理解してもらえず根性論を押し続けられた結果解離の症状が酷くあらゆることに対して無関心、無気力になってしまいました。
子どもはストレスを感じないという親の教えの元育ってきたので、それが過ちだということや誰かに相談することが大事だということを広めていただきたいです。
鬱だったかはわからないけど嘘は日常茶飯事でした。親に殴られないよう捨てられないよう、間借り先の親戚に気に入られるため、クラスメイトに可哀想だと思われないよう…
毎日自責の念にかられてそれが生きる理由でした。眠ると無意識に泣いていました。張り詰めた風船のような精神状態というか…
常に情緒不安で激昂したり泣き出したり教室を飛び出したり…感情のコントロールが出来なかったです。
おそらく、そうだったんだと思います。
灘や神戸女学院狙いの中学受験校で、親も子も狂ってたと思います。
子に対して、包丁を持ち出す親もいましたから。
そのストレスで、できない子やちょっと違う子を徹底的にいじめる。
そのターゲットにされ、家では母の愚痴を聞き、部屋から出る時は笑顔を作れるように両手で頬を叩いて笑顔の練習をしてました。
小学校の教室内で、解離していたのを、はっきり覚えてます。
父が怒鳴ったり、母に暴力をふるったり、私はいつも怯えていました。家で自分を出せなかったから、学校でも出すことができず、いつも落ち込んでいるような感じでした。鬱っぽかったんだろうな。
中学2年の時、仲間でワイワイ下校している中で、ふっと「自分はいないほうがいいのではないか」と思いました。小学5年の二学期、突然、授業中に居眠りするようになり、通知表に書かれてしまいました。私は機能不全家庭の出です。23歳になって初めて精神科を受診しました。良くなったり、再発したり、今は、月1で精神科に通っています。3駅、約20分電車に揺られ、自分の旅行みたいになっていますね。
父親が剣道の先生で、自分は運動神経がまったくダメだった。しかし、無理矢理、剣道を小、中、高校とやった。いつも、親父と比べられ、ツラかった。虐待に近かった。しかし、親父もアダルトチルドレンで子供の育て方がわからなかった。今は、父親がうつ病、兄弟もうつ病、自分も精神科の病気。親父の母は◯殺してた。遺伝は恐いと思った。ま、終わった話で、仕方なかったと思っています。
その人にとっては、傷ついたというのは、大切なんだなぁと思いました。
私の子ども時代は、からかいにあい、けんかになり、教師に怒られて、家でも怒られるルーティンがあり、大変つらかったです。
何度か、熱が出るように、わざと夜更かしをして、「休む」ようにしました。
子どもの辛さは、その環境から離れたり、調整したりが本人では難しいことだと思います。
子供の頃、虐待や性被害で苦しんだ人でも、大人になって結婚して子供を作っている人がいるのが不思議です。
両親と祖母からの虐待と、十代での性犯罪被害、その後も何十人も痴漢に遭って、男の人にはゾーッとしかしません。
ネグレクトで育ったので、2歳くらいからずっとぐったりしていました。ちゃんと食べさせてもらえないのに、「元気で家事を良くする子」を求められて、無理して身体を壊しました。
親の虐待で子どもが身体を壊しても、親は傷害罪になりません。子どもは壊された身体でどうやって生きていけば良いのでしょうか?
母の日のカーネーション、喜ばれると思ったら『お花じゃなくて今度は観葉植物ね』。紙製の引き出しに折り紙やリボンを装飾をして喜ばれると思ったら『あーあ、エルメスのリボンこんなに切っちゃったの、あーあもったいない』。頑張ってもへし折られる経験ばかり。
名前を呼ばれるときは怒られるとき。見てもらえるのはスゴいときだけ。
常に誰かの望むような形で役に立って、意味のあることをして頑張っていないと不安な大人になってしまった。
小学生の頃、母親に殴られたり「なんであんたなんて産んでしまったんだろう」と言われたことがずっと頭に残っています。その母親も小学生の頃に病気で亡くなったので、怒りも悲しみも行き場がありません。現在26歳で精神科通院中です。
これ、もっと広まってほしい
ありがとうございます。心を代弁してもらい救われた気持ちです。1人で沢山我慢して乗り越えて、その事自体を消してしまいたいと考えていました。でも、何かにつけて引っかかってくる。当時うつの状態だったと思います。それなら、辻褄が合います。過ぎた事だけど本当に辛かった。認めてもらったからか自然と涙が流れました。これで気持ちの整理が少し出来そうです🙇♀️
今まで考えたこともなかったけど子供の頃、うつだったんだと気が付きました。
小学生で不眠があり、何か不安なことがあるとすぐにお腹が痛くなっていました。希死念慮もありました。
大人になってから仕事のストレスで体調を崩し通院するようになりましたが問題の根は深かったのかもしれません。
子供時代にうつを経験して思ったのは、今自分が不利な状況にある原因を環境・他人のせいにしていて、自分の内面の問題に気づくのが遅くなったこと。
自分は、毎日(たまにサボった)、「感じたことや今日の反省」を書くことで、少しずつだけど、自分の心を治すことができた。
難しいかもしれないけど、みんなにもやってほしいかも
私も他罰的になるのをやめ、自分に向き合うことで治しました。
受診はしていませんが、人格障害等いろいろ持っていたのだと思います。
15年かかりました。
@@M123A-o7y15年ですか。長い道のりでしたね。
お二人とも「自分と向き合う」を実践されていて尊敬いたします。
自分と向き合う辛さはどうやって乗り越えましたか??
日々会社に行って今日を無事に平穏に生きることで精一杯...と向き合うことから逃げて逃げて数十年です...。被害者意識や他罰思考が強くて自分の思考に苦しめられる辛さから解放されたいです😢
@@cozara
「逃げてる」と自覚がある。被害者意識や他罰思考にも気付いている。
私は、とても素晴らしいと思います。
私からのアドバイスとして、マイナスの感情(悲しみ、怒り、嫉妬、辛い等)を「悪いもの」と捉えない事だと思います。
その中にこそ、本当のあなたが隠れているのでマイナスの感情をまず大切にされてください。
自分に向き合うことは、辛いものです。
だけど、それは向き合えば向き合うほどに苦痛の度合いが減っていきます。
これは、訓練するしか身につけることはできません。
身につけることで、本来のあなたに戻ることが出来、今の苦しみが苦しみでなくなります。
諦めずに、頑張ってください。
10代の頃の記憶は、もう…どこをとっても暗くて。どこをどう拾い上げて話そうか、という感じなので難しいです。そうだなぁ…
絵本が好きな子どもだったらしいのですが、絵本の中で描かれているような、あたたかな家庭、家族というものは無いんだな、うちはこうじゃないんだな、と知ったのが保育園児か小学1年生くらいの頃だったような気がします。でも、諦めきれなくて小学5、6年生くらいまでは夢見ていたと思います。「こんなもの無いんならこんな絵本描いて無駄に希望を持たせるなよ!」と、子ども心に激しい怒りを感じていました。
ずーっと暗い気持ちで、月曜の朝になると必ずと言っていいほど頭痛がして、よく休んでいました。親にはズル休み認定されていましたし、私自身も罪悪感を感じていました。
誰とも遊びたくないし、土日は疲れて眠る。10代の煌めきなんてない。ずっと鬱だったんだろうな。
親に「私はこれが苦手だ」と言ってもまともに取り合ってもらえなかったことをいまだに思い出しては辛くなります。例えば子どもの頃から寝付きが悪かった私は、かなり大きくなっても夜泣きが治まらず親に怒られていました。大人でも眠れない夜はしんどいのに、子どもなんだから眠れない夜が辛いのは当たり前じゃないかと今では思います。
今は大人なので自分で病院に行って必要な薬を処方してもらって、子ども時代よりはすんなり眠れています。大人になれてよかったです。
小学校低学年か中学年の頃、母親に「あんたは〇〇(父方の苗字)のほうに似てキツい顔、妹はお母さんに似てかわいい」と言われ、トラウマで自分を好きになれませんでした。外見が無理なら内面を磨こうと必死に頑張ってきましたが、何十年経っても自分を肯定できません。
私も幼稚園のときに同じこと言われました。
妹が自分に似て可愛いって言うのも自分で言うのね苦笑って感じですよね。
@@お砂糖-k5e 同じ経験をした方がいると思うと救われます。そのときは純粋にお母さんも妹も可愛くていいなーと思っていましたが、よく考えると子どもに向かってこの発言する母の内面病んでますかね…
@@古屋由紀
私は姉妹差別でかなり貶されたり色々対応が違ったのもあると思いますが、わざわざ言うのは言われた側の気持ち考えてない上に父と仲悪いことが原因だから、、
病んでいたのかも。
私は3姉妹の長女で、妹達のお世話や家事の手伝いをして当たり前とされていました。
母はadhd強めな感じでよく調味料など買い忘れをし、幼稚園児だった私に買いに行かせました。最初は夕方、そのうち夜でも頼む様に。丘の上の団地から暗く長い階段を下ってマーケットまで行くのが怖かったけど、断ると叱られる。中学で部活を始めるまで、夜のお使いと散らかった部屋の掃除は私の仕事でした。
他、中学の課外授業に妹を連れて行かされたりめちゃくちゃでした。入場料のこともあって先生方もあたふた対応されて、でも、私は親からお金を預かっておらず、恥ずかしい思いをしました。
父はasd強めで、夫婦仲も悪く以後心地悪い家でした。
母は、根は優しい人なのですが不安を抱えられず全て子供にぶつけ、非常識な行動も多く、私に理想を求め、父の代わりの相談相手にもされ、子供時代に子供として過ごさせてもらえませんでした。
今でも妹二人が羨ましいです。
誰に話すでもない自分語りをさせて頂き、ありがとうございます。
私も長女で、子供として過ごさせてもらえませんでした。
妹は得してるし、私は損してると思う。
長女って本当に母親の愚痴の吐口になりますね。
手のかからない子と期待しすぎです。子ども時代には潤滑油がわりでしたね。
今ようやく反抗期を迎えることができ、距離を取り生活出来ています。
失くしものが多くて怒られたり、不器用で勉強や運動がうまくできなくて、特訓させられたり…いまでも「ちゃんとできなくちゃ怒られちゃう」という気持ちに結びついてます。親なりの愛情だった、そういうものだったと納得するには、まだ時間がかかりそうです。親を受け止める心の広い自分を演じてしまってます。
4歳の頃、商店街を歩いていたら、突然後ろから外国人風の男性に手を握られ、そのまま十数メートル歩いた。
5、6歳の頃、電車のボックス席に座っていたら、後ろから急に女性に肩を握られた。
それだけじゃない、あれも、あの時のあれも、これも
大したことじゃない、よくあることだと思ってきたけれど、嫌だった。変だった。怖かった、気持ち悪かった。
私は傷ついていた、傷ついているんだと認めたのがちょうど1年くらい前です。
幼稚園児の時に、ピアノの発表会で、一生懸命弾いたけど間違えた。その発表会が終わるまでの間母は俯いていて、あー私はダメだったんだなと思っていたら、帰り道、母から一言、「お母さん恥ずかしかった」と。ショックでいまでも鮮明に覚えている。ピアノを始めたばかりの頃、家族皆んなで楽器店に行き祖母が立派なアップライトピアノを購入してくれた。母から「こんなに立派なピアノを買ってもらったんだから一生懸命練習しなさい」と言われた。今思うと、私が買ってとお願いした訳ではない。でもその言葉があったから、好きでもないピアノを、やりたくもないのに辞めてはいけないものだと思って中学まで続けた。子供ながらに責任感でやってた。いま思うと、いまも仕事で、無言の圧に、負わなくても良い責任を負って、失敗して気づついているのは、このころからの、親からの押し付け(抑圧?)が癖みたいになってしまったのかなぁと、いまこれを書いていて思いました。
確実に鬱でした。
小学校の頃、看護師の母親に相談したら、
「○○○○は家の恥、私の立場が悪くなるから病院には連れて行かないからな!」
と罵倒されて終わりました。
小さい頃からずっと心身辛かった。
ずっと寝込んでいた。
20年前にパート先で倒れてやっと治療はじめて
40歳過ぎて最近やっと、体がダルくなくなった。
フラッシュバックも無くなった。
人生で初めてと言ってもいい状態です。
ただ頭はもう回りません。何も深く考えられない。
悲しいけど、まあいいや…😢
10才の時、母の彼氏に犯されました
あの時が最初の鬱病だったんだと思いました
此を見てから思い出すと
自傷行為もしてました
抜毛症など精神的な苦痛を和らげようとしてたんでしょうね
登校拒否、引きこもりもありました
まともではない親、学校、コミュニティからは早く離れるべき。私はそれができなかったし教師、親、一部同級生、ネットのコミュニティで知り合った一部の人から虐められて自殺未遂、鬱悪化の三十代にして無職5年目です。
私も37年間生きてきて3年前に気づき実家とは縁を切りました、
私は障害者年金受給中です、
無職ですが、20代は親の呪いのごとく毎日睡眠時間2,3時間、働き詰めで生きてきました、壊れました、
無職?全然良いんですよ!
生まれてきてくれただけでありがとうです!!
頑張らなくていい!
今まで精一杯頑張って生きてきたのだもの、休まなくていいんですよ、寝る事も責任のある仕事のひとつだから。
@@ミント-t6u
コメントありがとうございます。
実は仕事でも意地悪な人に目をつけられて嫌がらせされました。
私は共依存になっていて親との縁だけ切れません。複雑なことができなくて普通に生活ができる気力もないので尚更です。
毒親と縁を切った人を尊敬しています。
自殺未遂するほど頑張りすぎたと言う事でもう先の事は前より考えなくなり貯金もしなくなりました。
産まれてくるだけでいいと思えるまで回復したいです。
私は子供頃大人しくて恥ずかしがり屋で家に来た親戚や近所の人と話すのが苦手でよく固まっていた。すると母は私を無口で困るとよく話していて小言も言われてました。家に他人が来るのが余計嫌になって喋らない事は悪いことなんだなと思ってました。明るく人と受け答え出来ない自分に大人になるまでずっと自信がなかったです。母は誰とでもすぐ打ち解ける人でホントに良く喋る人でしたがそうなかなか出来ない母とは違う私の気持ちを受け止めて欲しかったです。
辛かったでしょう😢
不登校だった私は「学校に行けない自分なんて親はいらないだろう。いつか捨てられる」とずっと思っていました。なので外出先で少しでも親が見当たらないと、10秒も経たないうちに「遂に捨てられたんだ」と思い、その場で泣いてしまっていました。
子どもの話になると、過去の悲しい記憶にぶち当たります。その頃、益田先生を知っていたら、もう少しまともな人生だったと思います。勉強ができないのも、物事がうまく行かないのも、すべて自分が悪いのだろうとしか考えられなかった学童期。そう言えば我が両親も共働きでした。それが悪いわけではないのでしょうけど、「助けて!困っているの!」と声を上げることもできなかった自分を哀れに思います。その分自分の子らには、注意深く観察し、耳を傾け手を貸す時期を逸さない対応を心がけました。そして、納得しながら進学、就職へと進んでいる彼らを嬉しく思う今現在です。
私は、小学生時代から大学生時代まで孤独で、特に小学生時代は父親からの監禁や身体暴力がありかなり苦しかったですね。学校では友人がいないけど孤独だと目立つから孤独でないように振る舞って、家では父親からどう逃げるかを考えていた。学校に行っても家に帰っても地獄で、まさに早く死んでしまいたいと思っていた。これが子供時代の傷つき。
ただ、今、私はここに生きて、この文章を書いている、そう叫びたい、みんなならきっと聞こえる
親が帰宅したから「お帰りなさい」と挨拶したはずなのに
私の口からは「4にたい」って声が出ていて、爆発的に激怒されました。殺してやるって。
うつの始まりかなと思いました。小学3年から4年くらいでした。
男になれと言われてバリカンで毛を刈られたり、下着のパンツは1枚しか支給されなかったり色々カオスでした。
バンツ1枚って、洗い回しどうするの……?
@@kmoto5789 夜中にコッソリ洗って、ぬれてても根性ではいてたー。
子どもの頃から人見知りで、どう人と関わったらいいか分からないタイプの人間です。
そのせいで近所の人に挨拶を自分からできない、他人の前では自己表現できませんでした。
そんな私を見て親は「ちゃんと挨拶しなさい!」と言い、相手に「うちの子はこういうところがダメで~」と私のことを卑下するような言い方をよくしていました。
思えば褒められたことはあまりなくて。そのことが今も私の自己肯定感の低さに繋がっているな、と思っています。
また、母からは祖父母の悪口を、祖母からは母の悪口を聞かされることが多く、子ども心に結婚したらこんな風に思うんだ、仲良しでアットホームな家族はドラマやアニメの世界なんだと思っていました。
それもあり、他人と付き合うことや結婚に憧れがないといったらウソですが、前向きに離れないし、躊躇してしまい、異性と仲良くなっても知り合い、友達止まりです。
そんなことはつゆ知らずか、「早く結婚しなさい」「孫が見たい」と親が言うことに対して腹立たしく思います。
想像力豊かなのか、ニュースを見たり噂話を聞いて「日本でも戦争が起きるんじゃないか」「世界が滅びるのではないか」など悪い想像をしたり、最悪なことを本気で想像するタイプだったため、それを親や周囲の人間に理解してもらえず辛かった思いもあります。
大人になって、今少しずつ子どもの頃の傷つきを親に伝えていますが、どこまで理解してくれているのか…、疑問です。
幼稚園から塾に通い、小学校から祖母の介護+神童と呼ばれ、県トップの進学校へ。中2で摂食障害に。高2で親から「医者か弁護士か会計士!大学も就職も一生親の側にいて!親の介護しろ!!逃げられると思うなよ!!」、文章が頭に入らなくなったり友達付き合いする気力も無くなった。持続性抑うつ障害で、その後うつ病で休職。人生の半分位をうつで過ごしています。
客観的に聞くと、親のせいだなと思いました。
反面教師です。
うちの親もそんなんだったよー
子供の頃から母親に関関同立はFランって言われて育った、結果ガチFラン中退した
主治医からはっきり親がうつの原因、離れろと言われそう伝えても、
いまだに老後甲斐甲斐しく私にオムツを変えてもらう未来を信じています。泣き喚いて罵倒して拒否してくる奴らを施設に入れるのが楽しみです。
社会人になって5年、いつも他人の目が気になり、仕事ができないと無能と思われると必死でした。その原因が、中学受験の時に自分の限界を超えるほど勉強させられ、成績が良いと何でも買い与えてもらい、成績が下がると母親の機嫌も悪くなるといった、自分が役立つかどうかで母の機嫌を左右していた経験だったと気づきました。無事志望校に入学後も、1年くらいは毎朝満員電車の中でお腹を壊し、駅のトイレに行ってから学校に行くのがルーティンでした。今思えばれっきとした心身症であったと思います。子供時代の根本原因に気づき始めてから、自律神経失調症や肩凝りが自然に減ってきて驚きました。ただ、ここ数日、人の役に立たなければという焦燥感が強くなり、しんどくなったのでこの動画を見に来ました。これをみて「ああ、やっぱり正当化してきたけど、中学受験はつらかった」と本音が湧き上がってきました。子供時代のことなんだからと卑下せず、認めようと思いました。
自分も子供、思春期時代に傷ついたことを素直に認めます。
辛かった、悲しかった、怖かった、不安だった、
益田先生、ありがとうございます。
中学1年の時の担任の先生がおかしかった
なにか問題が起きた時に、他の学年の先生がこのクラス担任はだれだと聞かれ
担任の先生の名前を言うと、それじゃ仕方がない・・・とあきらめる
他の先生にもあなた達は運が悪い1年間、我慢しなさいとも言われたこともある
大人になって思ったけど、絶対に問題のある先生だったんだと思う
他の先生達の対応がおかしかった
当時、小学校に行く機会あり
小学校の元、自分の担任にその先生の名前を出したら驚いてた
有名な先生なのと聞いたら、たまたま知ってるだけだよと言ってたけど
なんかはぐらかされた気がした
先生の発信、また発達障害という医学の概念が出来た事は私にとって救いです。
なぜなら発達障害だった母も自分ではどうしようもなかったと今は理解が出来たからです。昔は母の言動は故意だと思い許せませんでした。
母親は難病に起因する発達障害。一才の時に親は離婚して、ヒステリックな母と二人きりの生活でした。
毎日殴られ、怒鳴られ、外に出され、閉じ込められ。
私はたまに会う父が大好きで、いつか3人で暮らせる日が来て、辛い生活が終わると信じていた。
その頃は「ずーっと胸にナイフが刺さってる」ような痛みを感じていた。鬱病だったかもしれない。
物心ついてからは母が友達のお母さん達とは全然違うと気付いていた。
そして母は自らあの世へ旅立って行った。
私は後遺症からかパニック障害があり、家事が人並みにできない日もあります。それでも中高生の我が子達は私を愛してくれます。自分が子供達の年齢の頃は、母は恥ずかしい存在で大嫌いだったけど。
この子達が巣立つまでには元気になって、人並みの母親としての姿を見せたいです。
子供のころ数年間酷いいじめにあっていた。でも将来いつか良くなることを信じで頑張った。でも大人になったいま、将来に希望が持てず苦しい。
子どもの頃を振り返ると、キッカケはやっぱりいじめが原因かな···?
苦しくて悲しい思いを誰にも言えず、それをずっと抑えてきたので…
それによって性格が暗くなったことも、、、
ガス抜きができなかったので、それが大人になっても心身に影響しているのは、否めないですね。
長年ストレスを溜め続けたことによっての鬱病。
まさか自分が、精神疾患の病気になるなんて…💧
益田先生 ありがとうございます!
子ども社会は 子どもに頑張ることを強制するところでした 本人の気持ちを無視して 特に学校は辛い環境です!
先生たちが発信してくれると きっと社会に浸透していくと思います
子供の生きづらさ は 大人社会の生きづらさの 投影の様にも思われます
感受性が高く 賢い子供たちは 理不尽感を抱きやすいように感じています
脳も完成しておらず 物凄く社会、環境の影響を受けます
社会や子供を取り巻く環境が健全であることを願います。
中学生の時、部活で虐められて本気で死のうと思ってました。計画まで立ててました。今思うと小児うつだったのかなと思いますし、虐められた原因もアスペっぽさなんだろうなって思います。あの頃に気づいて治療していれば、今は変わったのですかね。
大人になってから子供のころからうつだったことが分かりました。
あぁあの時の辛さはうつが関係していたんだとわかりました。
もう仕方がないですからわすれたいですが、親が生きているうちはそれをわすれようとしても無理だとおもいます。
実家からなるべく心離れるようにしています。
日々命の危険にさらされていて食事も与えて貰えず衣服も2着ほどしか無く洗濯もさせて貰えず成長に合わせたブラも買って貰えませんでした。
外見からネグレクトを受けていると認知されても誰も助けけません。誰しもネグレクトの事実を否定をします。時折与えて貰う食事は砂と感じ食べられない、眠れない日々でふらふらしていました。防衛をしようと緊張を維持していたと思います。今考えてみても健康とはほど遠い日々だったと思います。
辛いでしょうね😢
毒親が大きな原因ですよね。子どもは鬱になっても動きを止めることを許されないので、そのまま幽霊のように動き続けて大人になります。自分が苦しんでいることに気づかず、「自分が悪い、自分に能力がない」と思い込んで、頑張ろうとするんですが、頑張れないんですよ! 動きを止めることに成功したら『ひきこもり』になれますが、『ひきこもり』になることを許されなかった子どもは、苦しいけど、どうして自分が苦しんでいるのかわからないから助けを求めることができませんね。
子どもの頃嫌だったのは容姿いじりです。
母が美人ですが、父に似たので、そのことを親戚からずっと笑われていました。
祖父からは従姉妹と比べて私の顔は変だと言われたり。母からもおしゃれをしても似合わないと鼻で笑われたり。このことを人に話すとまた笑われて、恥ずかしいというか情けないというか。自分は醜いから、大人になったら絶対に整形しようと思ってました。
でも、美人でも不満ばかりな母、歳をとって昔は美人だったことにしがみつく母を見ていたら、今はどうでもよくなってます。
小さな事ですが、走って前髪が上にあがったら「見て見てオデコ広い」って笑われてから下を向いてしか走れなくなったり、笑って歯茎が見えることを「うわー」って言われてから笑う時は口元を隠す習慣、思い切り笑えなくなったり、声が小さい事を注意されたり…小学校生活は小さな嫌なこといっぱいだったな〜それらは大人になった今でも影響していますね。意識していませんでしたけど。
追い立てられる様な訳の分からない焦りが、性格では無く家庭環境から来るモノだったと知ったのは数年前の事、機能不全の家庭で育ったと自覚しています。
小学生の頃は行動も学力も普通ですが、とにかく性格が暗いとずっと通知表の担任からのコメントに書かれていて、それを見た母には(何で暗いのよ。)と言われていましたが、おそらく両親は自分たちの影響とは思っていないと思う
今思えば鬱だったのでは?と感じています
暗い夜道で転んで、膝が血だらけになったのに、家族は振り返らずに、私を置いてどんどん進んで行ったこと。
兄から「お前がいなくなったほうが世界はもっと良くなる」と言われたこと。
大掃除の時、足をぶつけて痛くて動けなかった時、父から「掃除しないなら出て行け」と言われたこと。
胸が大きくなってきた時、よく通っていた商店のおじさんに胸を触られたこと。
一緒に学級委員をしていた人が転校したこと。みんなその人が嫌いなこと。
思い出す度涙が溢れてくる。
自分の辛かった経験を認められるようになって、前より辛い気持ちになることはなくなったけど、やっぱり辛い経験だった。😢
先生のRUclipsはたまに、観ていてとても胸がギュッと掴まれた感覚になって苦しくなって観れなくなる事があります。ごめんなさい。
中3の冬の受験シーズンに受けたテストの点数が悪く、志望校には受からないんだと絶望して、自分の中で張り詰めていた糸が切れました。その後朝学校に行って教室に入った瞬間泣いてしまい、そこから不登校になりました。何日も一睡も出来ず無気力になったかと思えば、ハイテンションで数日間置き続けたりと精神が錯乱していました。結局、レベルを落として高校には合格しましたが、一ヶ月で不登校になりお先真っ暗でした。今思えば、中学3年の間になんとなくこの高校に行くんだろうなと思い描いていた理想が実現しないことに絶望してしまっていたのだと思います。
助けてほしかった時に母に相談したら怒られたり、近所の仲良くしてくれたお兄ちゃんが引っ越してしまったりしたことは、今も思い出して苦しいです。
イジメ受けてたらほぼ確実になると思うゾ
(イジメを経験したが鬱の自覚は無かったけど)
息子は私の顔を見なくなり
本をペラペラ開いていた。学校に行く時間に玄関でジーッと悲しそうに母の顔を見つめていました。その後病院に連れていきました。私は謝っても謝り切れない後悔と苦しさと非力に今もうつ病の治療を受けています。可愛そうな事をしました。😢😢
いじめは人間の尊厳を損なわせるものだから、絶対に放置してはいけない。学校が知ってていじめを放置するとはほとんど共犯者のように思えます。
小学生の頃、クラスメイトに散々言われすぎて、給食の時間中にトイレの個室に籠り、すすり泣きしながら小声で歌っていました。その後は何もなかったかのように教室に戻りました。そういう出来事が多々あった子供時代でした。
学生時代、仲の良かったクラスメイトを亡くしました。
でも、その後も私や他の同級生は日常が続いていく。亡くなったその子のこともなんとなく友達と話せないまま、ただ時が過ぎてゆく。気にかけてくれた周りの大人にも話せず、その子がこの世界から忘れられていくのかなという切なさで深く深く傷ついていたのを思い出しました。
他もいろんなことがたくさん重なって、学生時代は本当に辛かったです。
当時そんなにも傷ついていたんだと気づいたのは、それから15年ほど後、カウンセラーの先生に話ができたときでした。
いろいろな方との出会いに感謝ですし、当時の自分よく頑張ったなぁと今改めて思いました。
益田先生 いつも学びの多い動画配信をありがとうございます。
幼少期の心の傷つき体験については、身体の傷つきよりも可視化しにくいため、心の傷を負ったまま年齢を重ねるというケースが多いのではないか、と感じました。
心の傷つき体験がない人はほとんど居ないと思います。でも、鬱病などに繋がってしまう人と、心身共に健康で発病しない人がいると思います。
心身共に健康で発病しない人は、
幼少期の傷つき体験を、信頼できる他者(大人など)と共有共感したり、感情を認めてもらった実感を持ち、昇華できた人、傷つき体験のたびにその作業を繰り返すことができて、前向きに乗り越えることができる環境下に居た人だと感じました。
益田先生が以前仰られていたように、サイコロの6が6回連続で出るような環境下、心の傷を負ったまま年齢を重ねて心身の不調に繋がるというケースでは、
ふとした脳のスキマ時間があると、蓋をしたり、心を守るために見て見ぬふりするしかなく手当てする機会がなかった過去の心の傷がうずいたり、姿をあらわしたりしてしまうため、お酒など何かに依存したり、学業や仕事などに忙殺されていたい(他のことを考える余地を与えない)と考えたり、ODなどの現実逃避に向いてしまったり…など、
幼少期の心の傷の手当てが不十分や不満足感のままだと、心身の不調に繋がるのではないかと感じています。
身体の傷の痛みについては、例えば幻肢痛など手当てが遅ければ遅いほど、脳は痛覚を強烈に記憶にすり込むそうです。
心と体は繋がっているため、幼少期などの傷つき体験の手当てについて、早期発見早期対応のスピード感が重要だと感じています。
信頼できる他者(大人など)と感情を共有共感したり、感情を認めてもらったという実感を持ち、
1人ではできない部分を大人などの他者に伴走してもらい、
昇華や前向きに導いてもらうことができる環境調整が、
社会や専門職等に求められる部分なのかな、と感じています。
私は父が要介護の重度障害者になり、母が発達障害の毒親で
学校でもいじめられ逃げ場の無い子供時代でした
お風呂に入ること、髪を洗うことがとにかく億劫で一週間髪を洗わなかったこともあります
毎日疲れ果てて宿題をする余裕がなかったです
兄弟全員がこんな感じだったので遺伝というより家庭環境や学校から来る鬱だったのかなと思います
大人になって一人暮らしをしている今では、こんな症状は無くつつがない社会生活を送っています
私は嫌だと言ったのに無理やり中学受験させられ、入った中学に馴染めず、1学期の内に一緒にお弁当食べていた女子グループから避けられ、まかれるようになった。
それからずっと独りぼっち。
親を恨んだけど、私の気持ちを聞いてそれに応えてくれることが全くない人なので、言っても「あんたが悪い」とぐだぐだ言われてもっとダメージ受けるだけだから言わない。
クラスが替わり、休み時間一人でいるとからかわれて良い事ないので、とりあえず誰でもいいから話合わせて一緒に過ごすことにした。
修学旅行の時、グループ活動で男子たちがさっさと先に行って別行動になった。
道でお弁当食べてたら、通りがかりの女性が優しい言葉をかけてくれ、唯一うれしかった。
修学旅行の文集に男子のした事を書き立てたが、先生からは何も聞かれず。
3年間楽しい事ほとんどなくて、写真の目が死んでた。
学校は休まず行き勉強もしたけど、行きたくないから休みたいなんて親が認めるはずないと思っていただけ。
本当の自分なんてどこにも出せなかった。
就職後に鬱になったけど、あの中学時代も鬱だったのかな。
ごく幼い頃私が不器用に舌足らずで話すのを聞くのを当時若かった母は嫌がりました。かなり話したがりの子どもだったかも知れないのに無口になりました。小学3年で転校し、無口なので取り囲まれて囃されました。中学三年間は黄金時代でしたが、勉学の友だった超人気者男子に告白しふられて10年以上引きずりました。当然高校三年間はうつ。卒業して統合失調症を発症。大学卒業後十年以上後に診断されました。今では寛解しています。グループでの会話が困難でしたが、ようやく、本当にようやく、慣れてきました。宿題、ありがとうございます~!!
おそらく子ども時代から鬱でした。とにかく休みたい子どもで、熱が出たら休めるので嬉しかった。特に学校が嫌いだった訳でも嫌われていた訳でもないけど、熱が出て学校を休んで、寝ていていい時間の幸せをよく覚えています。普段私の気持ちを全無視していた両親や祖母も、ずっと可愛がってくれた祖父も、熱が出ている時はかわるがわる枕元で本を読んでくれました。
とても可愛がってくれている祖父が、私が学校で良くない事をした時「おとうさんに恥をかかせた」と怒って、怒られたことより何より、ああおじいちゃんはお父さんの方が可愛いんだなと思ったことが辛かった。ライバル心もあって、父よりも賢く強くと、女だけど男のように振る舞おうとしていた。
大人になってから、父も私に対するライバル心があったのだと認められるようになりました。父の助けになろうと披露した知識を「親に向かって偉そうだ」と言われたり。祖父が亡くなって実家はバランスを失ってしまったけど父が、母や姉や私や娘のためなんとか頑張ってます。
幼少の頃、夕ご飯を食べるのが遅い理由で母に物凄く怒鳴られました。
父からは、同じく小学生に上がる前に小学校の勉強をさせられ、問題が解けないと張り手が飛んできました。
習い事も数多くやらされ、真面目に学ばないとやはり父も母もとても機嫌を悪くし怒られました。
今思えば子供の教育のための叱りではなく、自分の思うようにいかなかったことへの
子供のような駄々こねを、大人の体格と声のサイズでぶつけられていたのではないかと思っています。
理不尽すぎて怖かったですね。 毎日が怯える日々でした。
母の日に赤いカーネーションを一生懸命お小遣い貯めてプレゼントしたら大きな声で怒鳴られ花なんて食えない!ムダだ‼️と捨てられてしまいました。翌年からタバコを1つプレゼントすることになりました😢かなりショックな出来事でした。
他にも色々な虐待を身体的にも精神的にもされました。5歳の頃離婚した時、施設に行っていれば良かったとずっと思ってます。育ての母親でしたから養育する義務は無いと離婚する時に知りました。あの時、福祉受給出来たらこんなまでにならなかったかも知れないので未だに福祉の担当の方を忘れることが出来ません!母は下着迄素手で触られチェックされて可哀想でした。泣いていました。
親孝行は相変わらずやってます。子供の義務なので。。。高価な物は無理ですが何が無いと言えばそれをお誕生日、クリスマスにと即効プレゼントしています。お財布が痛いです😢
今は福祉受け精神障害年金も貰って働けない状態にあります。恥ずかしいので速く生活保護辞めたいのですが身体が心がゆうことを聞きません。今日も幻覚を視ました😅フラッシュバックも数個。
短期のお仕事も病気を隠して遣らせて貰いましたが3ヶ月もたない心身に陥っています。速く死にたいです。死刑にして欲しい位ツラいです。
複雑性PTSDによる鬱と心身症と不安神経症と摂食障害、統合失調症を患い皮膚科や整形外科、眼科、胃腸科内科、普通の内科(悪玉コレステロールの数値が異常に高くて通院しています。)今日も疲れた😣💦⤵️更年期です😔
疲れすぎると不眠になります。過眠症もあります。
同級生や教師からいじめがあって適応障害はあったと思ってます。爪噛み、歯ぎしりがあってやめなさい!って言われたけどやめられなかったです😂爪噛みは大人になりネイルをしたら良くなりました。これからネイリストとして働き始めます。
昔、昔の話です。
私は長女です、下に弟妹がいます。
私は宗教3世でもあります。弟とのケンカで仏具を投げてしまいました。それを知った父母は私を家から追い出しました。寒い中、ずっと玄関に座らされました。とても怖かった、寂しかった、なんで私だけ‥?と思いました。
また別の日。スポーツで父親の指導通りにできなくて、帰りに何度もビンタをされました。他の人たちもいる前で。なんで、なんで私だけ‥?と思っています。
3兄弟なのに、叩かれて蹴られて追い出されて‥としたのは私だけ。
いまだになんで?なんで?なんで!?と思います。
今は実家を出て一人暮らしをしています。一人暮らしを初めてから精神科に通い、発達障害がわかり、複雑性PTSD、反復性うつ病などなど精神疾患も見つかりました。
これは‥平成の話です。私は今20代。
15歳で抑うつと発達障害の診断が降りました。20歳です。パニック障害歴10年~の母と吃音症の弟がいます。
幼い頃、母親に叱られた記憶が今でも鮮明に残っています。
年長さんくらいの時、耳かきをして欲しいと私から頼んだのにちょっと痛くて「やっぱりいいや」なんて気紛れなことを言ってしまったばかりに怒鳴られたり、母が何の前触れもなく出て行ってしまって、代わりに留守を頼まれた父に向かって「お母さんがいないと私は生きていけないから、腹に包丁を刺して死なないといけない!!!」と泣いて縋った記憶もあります。
怒られるたび、私は明日も明後日も三年生になっても四年生になっても中学生になっても高校生になっても大人になってもずっとお母さんに怒られ続けるんだろうな…とぼんやり考えていたり。
小5 6あたりで自覚症状が出始めた頃には母が病気になったのも、あの子が私を気遣ってくれるのも、この子が一緒に登校してくれなくなったのも、全部私が浮いてるから、私が迷惑をかけてるせいだったんだ…と思うと途端に疑心暗鬼になってそこからは挫折挫折の繰り返しで不登校(登校拒否)、対人恐怖、孤独など、あらゆる不安を抱える日々でした。
書ききれないほどの記憶がどれだけ昔のものでも頭にこびりついて離れません。できれば全部忘れたい。
現在は吃音で悩んでいた弟がバイトでガンガン稼いだ後に就職し、母もだいぶ症状が落ち着いて運転も出来るようになっています。私だけが置いていかれているような気がして、でも誇れるほどの努力をした覚えもなくて、大学二年に進級しましたが家も学校も休まらず、初めてのバイトにも一歩踏み出せず、虚無ばかりが広がっています。
子供に戻りたいと強く思いますが、「私の子供時代」には二度と戻りたくない。
小学生のとき、クラス全体からイジメを受けました。
理由は主に私の言動が気に入らないというものでした。
その時は「あなたは勉強もできて男の子とも仲が良いから嫉妬されているのよ」となだめられましたが、今となっては成人後に発覚した発達障害の特性のせいだったな、と思っています。
結局、発達障害の発見が遅れ社会に出てから人間関係をこじらせて鬱になりました。
あのとき私はどのくらい傷ついていたのか、未だに気になって仕方ありません。
子供の時、母親を喜ばせたくて苦手な掛け算を駆使して、お小遣いでショートケーキをたくさん家族と親戚分、買ったことがあります。
ところが、当日ケーキを見て母親は「ケーキなんかよりまんじゅうのほうが良かった」と言ったのがとても心に残っています。
以前に母親が「誕生日はケーキが良いな」と言っていたのを覚えていて、苦労をして買ってきたのに、母親は喜んでくれなかった。
それはとても悲しい思い出としていつまでも消えません。
今は年老いた母親と仲は悪くはないですが、何か贈り物をするときはこの事を思い出してとても注意して購入します。
「幼いながら、母親を喜ばせようと頑張った自分」が愛おしいです。
親が転勤族で転校が多かった。お友だちと離れるのがいやだった。生徒会とかやってて、転校4回目に遠くの中学校に行く事になった。小学生だったけど、「自分の築いたものがあるのに」と母に言ったら、母から「子どものくせに」と言われた。すごく傷ついた。
小6の時に小さい学校から少し大きめの学校に転校して、そのままほとんどが持ち上がりで中学と過ごしてきたんですが、馴染めずにいて髪が抜けて、毎日その日あったこと(無視されたり悪口陰口聞いたり)で泣くってことがありました。当時のことが今でも夢に出てきたりします。今は別なことで悩んでいて、大学の課題を忘れる、期限が守れない、部屋の整理ができないなどで、ADHDを疑ってます。
しかし、両親に理解がなくて診断されても何も起こらないだろうとも思ってて、色々考えているうちに外出も人と関わることも怖くなってしまいました。精神的なことを理解してくれる人が増えて欲しいです。
今でも、学校に通っていたとある日の傷つく言葉、いじめ、目線、表情、状況、場所、鮮明に思い出しますし、卒業式後の宴会の場で幼い頃から今の写真を流された地獄の時間、他の人の写真の時はみんな楽しそうに笑ったり可愛いーとかかっけぇーとか掛け声あったのに、自分の写真の時は気まずそうな空気、そして[た]から始まる名前の男の子が「こういう写真って微妙だしどう反応すればいいんだよ笑」って言って他の人がクスクス笑ってた。明らかな蔑み。唯一母が即座に「わが子可愛いー!」って叫んだ事が嬉しくて泣きそうになってしまった事。
友達だと思ってた人も、無反応で我関せず。人なんか二度と信じない、騙す側になってやる。そう決めて演じきった高校。…書き出したら止まらないほど、記憶がずっとあるし消えないし思い出したくないのに出てくるし、家庭も学校も消えて無くなればいいと思ってた。
ある日の授業で挨拶の時、立ち上がるのが本当に困難なレベルで鉛のような重さの身体、絶望、全て全て覚えてる。
今となっては二次性の鬱だと診断も降り、社会復帰目指して12年。
まだまだ心の傷は深すぎて…難しいよね、人間の世界って。
だからこそ人に優しくできる自分がいると思えてきた今、何か見えてきたんじゃないかと期待してるんだ。
叔母に言われた感情的で暴力的な数々の言葉と当時のシチュエーションを、大人になったいまでもフラッシュバックのように鮮明に思い出してしまっては傷ついて苦しんでいます。
今になって考えれば叔母は発達障害の傾向があり、精神的にも不安定な人なのかもしれないです。
だからと言ってそれを仕方ないと受け入れることはできず、自分がうつ病になった原因のひとつはお前のせいだと暴言を吐いてやりたくなります。可能な限り関わらないようにはしていますし今後会う機会はほぼないと思いますが、それでも子どもの時の辛い記憶は一生忘れられない...。過去も今もつらいです。
子供の頃の少年野球チームは監督の罵声・暴力が日常茶飯事で、長時間練習が常態化してるのに毎回一回戦負け。そんな所でした。
その上親同士でのマウントばかり気にする親、中継プレー程度の習得にも時間のかかる同僚...もう全てがストレスでしたね。
夜、自室や風呂場で一人になると涙が止まらないんです。
本当に苦しかった。
今でも自分には子供時代がポッカリと抜けて、存在していないと感じています。
中学からは剣道を始め、もうすぐ50の今も続けてます。自分の息子みたいな歳の相手と試合をしながら、「年齢相応」を受け入れられない自分自身を強く感じています。
いつまでも子供時代を取り返そうとする自分...俺はキチンと成長できてないんだろうな。
子供時代って親も教師も成長の為には我慢が当たり前、みたいな感じでした。当時に今みたいなスクールカウンセリングとかあればいじめ、学級崩壊、担任から生徒へのモラハラ、部活での暴言暴力、性犯罪のカウンセリングなど、もっと寄り添いをして貰えてたのかなと思うようになりました。
私は友人が居てくれた事、図書館や図書室があった事、逃げ場の趣味の漫画があった事、宗教系を本で学べた出会い、何だかんだ実家は普通の裕福さくらいはあった、に尽きると思います。
人や環境や学びに出会える事は、運、(運命)なので。
高二の時にクラスで孤立して、でも不登校にはなりたくなくて毎日学校に行くたびにこれは夢だと思ってクラス内で過ごしてました。進学校だったし親からはしっかり者長女の優等生だと思われてたのでずっと隠していましたが、二十代初めまでずっと精神が不安定だったのを覚えています。今も不安に苛まれて寝すぎる時などもたまーにありますが、あの頃に比べたら随分強くなり安定してると思います。今思うとあの精神状態が鬱や不安障害だったかどうかはわからないですが...
幼稚園児の時、母親と一緒に自己紹介、当時はぽっちゃりしてたのですが、母親が私の容姿を笑いのネタとして話し、傷ついた経験があります。
後にその傷つきを母親に話した際、「それが私だから」と、私の傷つきを受けとめて貰えず、悲しくなった事があります。