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動画の最後に登場した最後の阪急戦士・中嶋聡が、監督としてオリックスを25年ぶりの優勝に導いたのは胸が熱くなるドラマだよなあ
さらにコーチとしても2016ハムの優勝に貢献
福本豊の引退は、上田監督が「去る山田、そして残る福本」と言うところを「去る山田、そして福本」と言ってしまい、これに驚いたマスコミが福本を取り囲むと、本人は寝耳に水だったにも関わらず「じゃあ辞めます」とあっさりと引退宣言したという、「いい間違え説」が有力ですよね。ちなみに、当の福本は「あと2〜3年やれた」と言っていたそうです。
あと二、三年でどれくらい盗塁できたかなぁ。
コレよく福本さんがそう言われてますけど、実際の映像見てみると上田監督は「今日の試合をもって引退をする山田とか福本とか。」と言い切ってるんですよね。でも、本当に訂正するのが色々面倒くさくなって辞めたのは本当だと思う。
@@さいだひろなり 全然、「去る山田、そして福本」じゃないですね。ほんと、マスゴミってクソですね。
昭和50年に広島が初優勝して、勢いが止まりそうになかったとき、日本シリーズで阪急が広島に完勝したのを見て、つえーって思いました。選手たちも個性的で特に山田久志のピッチングフォームは見とれるほど美しかったです。
パ・リーグ最後の完全試合男、今井雄太郎投手が隣町の出身だったこともあって阪急ファンでした。阪急ブレーブスのファンは3回死んだのですが、オリックス・ブレーブスになった時、オリックス・ブルーウェーブになった時、オリックス・バファローズになった時。バファローズになった時耐えきれずに楽天ファンになりました。松永選手が満員の球場でプレーしたいからと言って阪神にFA移籍した直後にイチローブームでオリックスの試合が連日満員になったのは皮肉だなあと思いました。
懐かしいですね~神奈川に住んでいながら、阪急が大好きで山田の形態模写をいつもやっていたのを思い出します。こずかいをためては後楽園に応援に行きました。当時の黄金時代、先発投手がほとんどローテーション通りで山田が投げる試合に合わせて観戦に行きました。V3の頃は、皆が巨人を応援する中、一人阪急を応援してました。中学の卒業文集で将来の夢に「西宮のマウンドに立つ」な~んて書いたっけ・・・・強かったな・・・・・
阪急は、高知に毎年キャンプに来てました。小学生の頃毎日市営に観に行き、帰りに福本に追いかけられたり、ブーマーに高い高いしてくれたのが良い思い出。
メジャーも認めた外野フェンスによじ登りボールをキャッチした山森選手、一杯ひっかけてマウンドに上がったら完全試合の今井雄太郎投手とかプロ野球の歴史に名を残す選手がたくさんいました。
この球団は生え抜きOBの監督が少ないよね。梶本さんの後が福良さんだし、今の中嶋監督でやっと三人?球団のレジェンド山田久志も監督やったのは縁もゆかりもない中日だった。あと西宮球場は競輪場でもあったし、ヤジが凄かった。
名古屋在住です。小学生の時に中日VS阪急のOPを観に行った。当時は阪急黄金時代で山田、福本、加藤、大熊、マルカーノ、ウイリアムスなどなど素晴らしい役者が揃っていてパリーグにこんな強いチームがあるのかと驚いた。
子供時代のイチローは、当時の子供達同様にセリーグの人気チームである巨人、阪神の事は知ってても、パリーグの阪急は存在すら知らなかったが、数少ない阪急ファンだった友人の影響で1976の日本シリーズをTV観戦し、阪神が敵わなかった巨人に勝つこんな強いチームが存在したんだ!と衝撃を受けたらしい。
確か阪急ブレーブス最後の公式戦は全順位が確定していたにも関わらず消化試合が日本シリーズ開催まで間に合っなかったから日本シリーズ開催中に試合をしてましたよね。最終戦の相手が近鉄との10.19での相手と同じくロッテ戦で、あの当時のロッテは近鉄の優勝を阻んだり、ロッテ高沢と阪急松永との首位打者争いで松永を全打席敬遠という、しかもダブルヘッダーの2試合ともで。近鉄ファンも阪急ファンもあの当時ロッテが憎かったでしょうね。
私も西宮球場へ行きました。阪急最後の無料試合でしたね。ロッテは高沢じゃなく高橋という無名の選手を出し松永を敬遠攻めにしましたね。有藤が憎かったです!
出来ればミスターブレーブスとして豪快なホームランを魅せてくれた長池さんについても取り上げて欲しかった…
独自のアゴ乗せフォームは真似したくてもできなかったなぁ
あの当時あれだけ強かった阪急ブレーブスが球団売却の情報をテレビで観て「おぃ!おぃ!嘘だろ!?」って思った。阪急ブレーブス→オリックスブレーブスになった時は本当に寂しかったな!
阪急沿線に住むある一定年齢以上の男子はみんな入っていた「阪急子供の会」ファン層の民度もそれなりに高く、子供の会に入っている小学生だけで観戦に行っても安全でした7回が終わって内野席開放の段階で外野→内野へ移動して、八二会の人たちのヤジにクスりとして・・子供チケットにはブレーブス野球帽がもらえて球場内のカレーも美味しかった正月には揃いのブレザーで多田神社への戦勝祈願に来た時の選手のフレンドリーさどこをとっても、大好きだった球団ですブーマーが投げた、ブレービー人形は今でも宝物です
1975年~1978年の阪急は北の湖と同様に「憎らしいほど強い」と言われてた。
初めて見た日本シリーズ、84年広島対阪急でした。当時はデイゲーム開催でしたね!パ・リーグの試合あまりテレビでやらず選手の名前もあまり知らなかったですが、阪急含めパ・リーグは個性的選手沢山いましたよね。
この動画を見て昔親父が西宮球場に連れていってくれた思い出が蘇りました。自分は当時西武ファンでしたが、その頃は観客も多かった気がします。阪急の強さとブーマーの体のデカさは未だに忘れられません
BRAVE(勇気)って名前もいいよね!
昔は電鉄会社が球団を持っていましたよね、近鉄、阪急、南海、国鉄…時代の流れでしょうかね。。
アラフィフの私、物心ついて「野球」を理解した頃の最強球団だった阪急ブレーブス。しかしながら東北で生まれ育った私、当時はパ・リーグの情報は新聞のスポーツ欄でしか入らず、「動く阪急の選手」は殆ど見れませんでした。それゆえ、逆に妄想が膨らみ、選手の顔もよくわからないのに何故か大ファンになっていました。今は野球そのものは好きですが特定の球団のファンではありません...
この頃の阪急はスター揃いでしたね。凄い魅力有り 世間が大巨人&セリーグでした。関西には阪神が有りこれはダメですは😩 でもこの頃パリーグは大好きだったな👍
阪急編待ってました!南海、近鉄とはまたひと味違ったクセのある個性派集団にして一番練習が厳しくて一番勝った球団ということも学べて良かったです♪
お待たせしました☺学べるものにできたようで良かったです!!
プロ野球にハマって3年ちょいだけど、「南海」、「阪急」、「近鉄」のパ・リーグ関西3球団が存在していた頃のプロ野球の雰囲気が個人的に好きです。
代打世界記録の高井のエピソードは必要
阪急と言えば山田、福本、加藤秀の年棒三千万トリオ、日本シリーズでは大活躍する足立投手、当時パリーグの選手がほとんど注目にもならない時代に豪速球が話題になった山口高志投手、と自分にはなぜ人気が出ないと思うよい選手揃いでした。熱心なマーチを奏でるトランペット、応援団も印象的だっただけに話題になっていた南海身売りの時に、コソッと急に身売り発表は悲しくもありました
阪神タイガースを乗っ取る形で阪急復活してるな阪急トップの鶴の一声で岡田が監督になるくらいだし
関西の人気球団は阪神の一人勝ちだったのが阪急・近鉄・南海の悲運というか(しかも全部親会社が私鉄)関東も球団が集まってたけど、全国区的人気の巨人が圧倒的過ぎたため上手く住み分けできたと思うそのためヤクルトは上手く東京ローカル球団になれたような日ハムが北海道移転してからパリーグは上手くローカル化出来てると思う関東は球団多いんでベイスターズが新潟移転してくれると面白いんだが
ベイスターズは今の南部オーナーが新潟出身でしたね。室内練習場などの設備とサッカーや独立リーグなど運営しているアルビレックス新潟と協力してやっていけるかなど課題・問題点は山積みだけど。
小学校3年生のころから「ブレーブス子供会」に入ってました。 子供会員は 外野席 100円 内野席200円 でしたので、学校終わったら 電車乗って よく西宮球場に通ってました。ブルペン後ろからみた山口高志投手の度肝抜く 剛速球、 応援団の今坂団長のヤジ、内野席の階下の空間でのキャッチボールetc。。。 どれも素敵な想い出です。
パリーグの関西球団はオーナーの個人道楽の部分も大きかったので、オーナーが失脚したり亡くなると身売りになったって報道が結構あった記憶が。そういえばその後阪神と統合になり一応阪神タイガースとグループになってはいますね。あとバンプは上田監督とそりが合わずゴタゴタの挙句に退団した記憶も。
弱小の時代を支えた米田、梶本の時代に始まって、老練なアンダースロー足立、NPB最強助っ人のひとりスペンサー、長池、高井、そして黄金時代を支えた山田、福本、加藤……etcetc.凄いメンバー、強かったですねこの選手達を鍛え上げて、お荷物球団から常勝チームにまで育て上げた西本幸雄監督のなんと凄かったことか!
かなりのオールドファンと見ましたが…。でも若手の王選手と米田のトレードが行われてたらどうなったと思われますか?阪急側が断わったらしいのですが…
とにかくドレード巧者な球団という印象がありますね森本・戸田 ⇔ 島谷・稲葉(4番打者と準エース)加藤秀 ⇔ 水谷(4番打者・打点王)この2つだけでも凄い
阪急はトレードが上手でしたよ。それと水谷は広島在籍時に首位打者になっている巧打者でした!
母が日本ハムの工場(当時加古川市)で働いていたため毎年年に2~3回会社からバスでファイターズ応援のため西宮球場に阪急vs日ハムの試合を見に行ってたなぁ。ほんとにガラガラだった笑
70年代のパリーグの場末感は半端じゃなかった・・
昭和50年・51・52の日本シリーズで、「しばらく阪急に勝てるチームはない」と思ったね。53年広岡ヤクルトが日本一になった時、信じられないほどの衝撃を受けた。本当に強かったよ、阪急は。いい選手が多かったね。マルカーノの早死には残念の一言。
あの広岡ヤクルトはとにかくツキまくってた!普通に考えれば、初陣でつい最近まで最下位争いしてた連中が勝てっこ無い。善戦だけでも御の字!ヤクルトの最大の勝因は、「山口の故障(→その後再起不能に)、佐藤の故障、稲葉の故障」に尽きる!第四戦の継投ミス(山田に替えれば良かったね)でも、最終戦の疑惑のホームランでもない。佐藤は若きホープの先発ローテ、稲葉もエースの谷間を埋める先発ローテだった。増して山口は、存在だけでも威圧感充分だった。短期決戦で、主力投手三人が故障なんて致命的!その所為で終始阪急は、投手のやりくりに苦労したけど、故障者ゼロのヤクルトは松岡を抑えにして、上手くやりくりして、勝ち試合捨て試合を計画的に行えた。それでもヤクルトは「勝つには勝った」結果で「阪急を飛車角行+桂馬か香車抜き状態にしても大苦戦した」とも取れるから、もし上の故障者の内一人でも健在なら、マジでヤクルトの命運は保証出来んよ。二人健在なら無条件降伏だよ。マジで!ノムさん曰く「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負け無し」ってやつだよなぁ…。この時、広岡の下で森がヘッドやってて、その後に西武時代を築くけど、考えてみれば、西武全盛期にはチームに怪我病気の落伍者が一人もいなかった。この経験が頭にあったのかも。現役時代の読売全盛期も「ONが故障で長期絶望」なんて無かったもんね。その後も広岡は昭和57、58年とツキまくってたね。特に58年。昭和60年についに悪運が尽きるけどね(笑)。規格外の怪物的某外人の手でね。
@@nmpu6324 さん。 昭和53年ヤクルト日本シリーズ優勝は 最終戦の大杉選手のホームラン2本が大きかったですね。 その内1本は、ファールでしたが…😳
@@畑野よしゆき 一本はファール。もう一本は大勢が決した後の「打ち直し」。一本目がファール判定されてれば、二本目があったかはわからない。
審判が大杉のファールをホームランと判定しなかったら阪急ブレーブスが勝っていた!
@@youjikawabata4170 結果日本シリーズ終了後、上田監督辞任しました。
全盛期より少し時代を下った、山沖がいた頃が好きだった。先発で早い回でノックアウトされたのに、翌日に「昨日少ししか投げてなくて疲れていないだろうから」と当時としてはほとんどあり得ない連投をさせたり、上田監督は本当に面白い采配をする人だった。
1987年に19勝で最多勝となりましたね。
福本が四球を選んで盗塁して大熊(蓑田)が送りバントか進塁打。続く加藤の犠牲フライでノーヒットで1点先行。そんな野球をしたのは後にも先にもあの時代の阪急だけ❗エリート職人の集まりって感じだったなぁ~。西宮北口駅から西宮球場へ行くまでの屋台。高級住宅地に見られる関西の色❗って感じがした。懐かしぃなぁ~(笑)
この時代の阪急は、面白いチームだったんだよな。
阪急がオリエントリースに買収された際、すぐさま社名をオリックスに変更するという発表、そして社員の、目的は果たせた、みたいなコメントを聞き、売名第一の為の買収だったの?と何かダイエーとは違い、嫌な感じが残ったのを覚えている。
個性的な選手が多すぎて影に隠れた?他の主力選手は佐藤義則、今井祐太郎、山沖、松永、蓑田、マルカーノ等々セリーグの広島カープ同様の野武士集団でしたねまた、1968年のドラフトは下位で門田博光も指名したが拒否られたとか球場も競輪と併用するなど何から何まで個性的でしたね
この西宮球場での競輪開催が若い女性ファンが少ないことに繋がりしまいには子供たちですら近寄らなくなり(西宮球場≒競輪・野球ファンのおじさんたちが酒を片手に集まる場所と認識され、学生だけで行かないようにと各学校で指導してたそうです)神戸移転の遠因になっていくんですよね…
よくまとめてくださいました。私は50年来のブレーブスファンで、内容に大きくは違和感ありません。ただ、コメントされている中に書かれたスペンサー選手もキーパースンでしたね。あと、山田さんのシンカー修得は足立さんからという表現は一言でならそれで構わないでしょう(気づき・観察・教え乞い・断られ・修得・のちに独自の握りを足立さんが見せる・山田流シンカー完成)。米田さん梶本さん長池さんなど最重要人物多数ですが、キリが無いので敢えて挙げられなかったのでしょう。
ありがとうございます。たくさんの重要人物がいすぎて、選手紹介の動画になりそうだったので、控えさせていただきました。気持ちを組んでくださりありがとうございます!!
パリーグの電鉄球団勢は、まさに野武士やったわ。👍
常勝時代でも、西宮球場ナイターの観客数は、新聞には八千人とありましたが、実数では三千人ぐらいでした(泣)当時は、日生球場や大阪球場で観戦しながら、観客数を数えるのが楽しみでした🇯🇵
西宮球場は野球より競輪開催が優先されていたので、シーズン終盤のかきいれ時に競輪が球場を抑えていたので、西宮を使用出来ず、西京極での開催が多かった。
たしか西京極で阪急がリーグ優勝して胴上げという年があったと思います。
西京極は阪急沿線沿いだから😆
阪急梅田駅コンコースが、紳士の球団であった事を偲ばせる。
アニマル懐かしいなぁ。引退後、芸能界に転身してビートたけしの番組によく出演してたね。若くして亡くなったのが残念です。
「亜仁丸レスリー」で出てましたね。キャッチャーの藤田浩雅がよくボコボコに叩かれてました。
アニマル 歌うまかったなー
いちばん好きな球団でした。
その後のオリックス(ブレーブス、ブルーウェーブ)はどうでしたか?
先代社長が「死んでもブレーブスと宝塚だけは売るな」と言っていたけど、宝塚歌劇団は人気出たのに対し、ブレーブスは大きな人気は出ず赤字出していたなら、売るのは止むを得ないかと。
今は宝塚を売りに出さなあきませんね。電鉄会社の天下り社長ではエンターテインメントのマネージメント出来ませんわ、ら
逆だと思います。当日バブルで球団であればどこか買手があるけど歌劇団は捨てれなかったんじゃないかなあ。
その後ブレーブスもブルーウェーブもなくなったけど、やっとこさ本日優勝できましたとさ。
当時の阪神も巨人戦以外はそんなに入ってなかった気もするが。阪急V3が本当に強いなぁと思う最後のチームですね
昭和40年代前半は阪神より中日のほうが観客動員数が多かったという事実があります。あと江夏豊が中日戦で伝説のノーヒットノーランを達成した昭和48年8月30日甲子園球場の観衆は…9000人でした。
@@前田貴史-b9t さん。 昭和48年8月頃と言えば 今年こそ阪神優勝か⁉️と言われてた時期なのに 甲子園で1万人以下とは…😱
@@畑野よしゆき さん昭和48年はたしか年間観客動員数がやっと100万人超えたはず。巨人戦以外はどのカードも数千人が当たり前で客が入っていなかったんですよね。だから1、3塁側のアルプススタンドは閉鎖されてました。あくまで自分の考えですが、当時の球場の雰囲気は殺気だってたというか、近寄りがたい雰囲気というか、よく物(缶、ビン、紙テープなど)が投げ込まれていたということもあり、それこそ「あんないかがわしいところ行くもんじゃありません」という教育的指導をしていた大人(親)もいたのではと思います。今じゃ考えられないですが…。
@@前田貴史-b9t サッカーのフーリガンみたいなやつがいたんだな。
@@halumi2002 様 昭和48年の甲子園での阪神巨人戦の最終戦、勝ったほうが優勝という試合でした。結果は巨人が9対0で勝って優勝したのですが、ゲームセットの瞬間からというより試合中から紙テープを大量に投げつけるなど阪神ファンが暴れまくり、ゲームセットからすぐに3塁ベンチまで乱入して、結果王選手が殴られたり、テレビの中継車まで襲いかかろうとしたり、当時の阪神金田監督はファンの前で謝罪したり、もうメチャクチャでした。阪神の長い歴史のなかでかなりひどい汚点となる試合でした。その結果巨人の胴上げは巨人の宿舎で行ないました。
福本選手の国民栄誉賞辞退は、長嶋茂雄さんがもらっていないのに自分がもらうのは恐れ多い。と晩年語っていました。
阪急ブレーブス、1973年のプレーオフ南海戦で破れ、夢の「西宮決戦」が実現出来なかったのは、残念でした。1981年の巨人対日本ハムの「後楽園決戦」よりも前に話題をさらっていたかも知れません。山田、加藤、福本、長池など個性豊かな選手を育て、使い続けた西本.上田監督巨人ファンの私でも名将です。今のオリックスにも「阪急魂」が受け継がれているのでは?😁
古くは梶本、米田の二枚看板でしょ。あと名球会入りはしてないけど、箕田やマルカーノ、松永とか阪急で活躍した選手もう少し取り上げて欲しかったなぁ🤔…
もし江川卓が阪急1位指名を受け入れて高卒で阪急に入団してたら79年の日本シリーズ(江川は入団5年目の23歳)もヤクルトに勝利して80年81年の近鉄のリーグ連覇も阻止して、リーグ6連覇日本シリーズ6連覇位はしたかも知れませんね。江川も当然200勝超え
昭和40年代、阪神と阪急が合併すれば巨人に勝てると、よく話しましたね。本当に魅力的な選手が多かった。当時、衛星チャンネルがあればもっと見られたのに。
ブレービーについても触れて……今後の楽しみにさせて頂きます。
オリックスが今年日本シリーズ勝つためには、阪急の復刻版がいい。中島聡監督は阪急だからな。近鉄1番いいが日本一輝いてないため危ない
メジャー時代のブーマーウェルズは当時まだ20代で老けてる。後に日本で阪急ブレーブスとオリックスブレーブスと神戸オリックスブルーウェイブでチームメイトに成る同い年の佐藤義則さんは更に老け顔。
西本さんとスペンサー 野村さんとブレイザー当時最先端を行っていたのもパリーグでした阪急ファンは本拠地の場所柄なのか近鉄や南海のファンと違ってあまりヤジがなかった記憶があります(一番はやはり◯鉄でした)
個性的だけどポテンシャルの高い選手が多い球団でしたね。今や二刀流は大谷選手の代名詞みたいに言われていますが、山田久志投手や山口高志投手もよく打ちましたよ。いかんせんパリーグに指名打者制が導入されて以降、日本シリーズでしか両投手のバッティングが見られなくなったのが残念ですが。
古くは同じ阪急にいた米田哲也さんもよく打ってました。たしか通算ホームランは33本だったような。金田正一さんみたいに代打ホームラン、サヨナラホームランは打ってないみたいですがか
亡くなった社長が宝塚がなんとかなったからブレーブスも上向くまで残せと遺言を残したけど息子があっさり切り捨てたんだとか(んで金持ちのオリックスに買い取られた際むしろ待遇は下がったとか)
小林公平か。あれは確か養子だったはず。本人が芸術家気取りで、宝塚歌劇団を残してあっさりブレーブス切り捨てたんだっけ。
@@Comediablue さまそのくせ村上騒動で阪神が阪急傘下に入ったら、まだ球団持てたと喜んでいましたからね。
応援がトランペットに加えてトロンボーンも使ってたのがいい思い出。
0:28 8:50 10月19日です。近鉄が川崎球場で死闘をした日に阪急は身売りを表明したのです。よく言う10.19です。運命だよな。
学生時代、蓑田選手のファンだったので自宅に電話(当時は有名人も電話帳に載っていた)してサインが欲しいと言ったら自宅の場所を教えてくれたので自宅に行ったら玄関で待っていてくれてサインを貰いおしゃべりして帰る時に近所の高井選手の自宅を教えてくれたので、高井選手のサインも貰いに行った。私の父親は外人の観客と仲良くなり酒を飲みにいったら、アニマルの知り合いでアニマルも一緒に酒を飲んだ。
昔は選手名鑑にも自宅の住所掲載されてましたね。掲載されてない場合は「球団気付」と掲載されていたような。
@@前田貴史-b9t 当時は漫画家さんの自宅や仕事場の住所も雑誌に載ってたくらいでしたからね。今となってはあり得ませんが。
阪急の優勝記念セールが楽しみだった。阪急百貨店(梅田)では、普段の高値の品の値段を下げてのセールだった。それにひきかえ西武百貨店(高槻と八尾にあった)は、セール専用の商品としか思えない商品ばかりだった。
西武大津は全般的に安かったで…。やはり堤オーナーは近江商人だったから?
@@youjikawabata4170 値段は西武のほうが安かったが、質は全然でした。ポロシャツ、阪急3年、西武半年でしたから。
阪神、近鉄もしょぼかったでwww
@@osamu0727 阪神はタイガースグッズ、近鉄は沿線おみやげばっかりだったね。
その西武の高槻の方は阪急に変わっている…
盗塁するには塁に出なあかんとか言うて打撃教え出すのすこ
盗塁したくても出塁することが出来なきゃ意味ないもんね。
やはり鉄道会社が球団持つのは大変でしょうね。何か『京阪電鉄』を持ったら良いのではとか言ってたのが有りましたが、中々厳しいでしょうね。
福本さんはホ一ムランバッタ一でも使わないぐらいの重いバットを使用していたようですね夕方に珍しく阪急の試合がテレビ中継されていた時に、福本さんの何かの盗塁記録が懸かってた試合だったのですが、その日は出塁なしで迎えた最終打席、福本さんはホ一ムランを打ってしまいました西宮球場はオフシ一ズンは、競輪場になってましたね
福本さんみたいな打者はバットの重さは1キロを超えてました。横浜大洋にいた「こけしバット」で知られた山崎賢一はたしか1.2キロ(1200グラム)のバットでした。
競輪は、オフシーズンだけではありませんでしたよ。
@@houseyfk 書き入れ時に野球追い出して開催してましたよね。
まだ野球を覚えたばかりの小3のオレは父親の影響で巨人ファンだったが、日本シリーズで阪急には二年続けて歯が立たなかったのを覚えてる😅今ではパ・リーグファンのホークスファンだが、その頃の阪急に比べたらまだまだだと思ってます
昔のセパはほぼ関西圏、関東圏で別れてたチームが面白かった今は亡き南海ホークス本拠地大阪球場跡地は難波パークスに代わり近鉄バッファローズの本拠地藤井寺球場跡地は四天王寺学園へ準本拠地である日生球場は森ノ宮キューズモールへ阪急ブレーブスの本拠地である西宮球場は西宮ガーデンズへ変革を遂げた。今は阪神タイガースの本拠地である甲子園球場と、京セラドーム。あとはグリーンスタジアム神戸やな
ブレーブスブルーウェーブバファローズ3つの系譜を受け継ぐチームとしてキャップロゴを「Bs」というデザインにしてたの凄く好きだった最後の阪急選手の中嶋監督が優勝に導いた今、もう一度復活してほしい
ブレーブスの前のニックネームのベアーズ(Bears)のイニシャルもBでした。
日本シリーズでヤクルトに勝てなかった歴史も終わらせたな。上田さん、仰木さん、西本さんが天国で乾杯したんだろうな。
何時かは阪急・阪神の電鉄日本シリーズをって長い間待ったけど、阪神が不甲斐なくて実現じなかった・・・
身売りの第一報、オリエント•リース(オリックスの前身)ってなに?っていう感じでした。
山田久志、福本豊、加藤秀司はすげぇドラフトやな
山田さん、福本さん、加藤さんが話の中心になってますが、この頃の阪急にはshoBさんも書いてるように、長池さんはじめ、大熊さん、高井さん、川村さん、蓑田さん、トレードでやって来た、大橋さん、島谷さん投手陣では足立さん然り、山口高志さん、今井雄太郎さん、佐藤義則さん等々個性の強い選手が多かったですよね。甲子園にもよく行ってましたが、西宮球場にはそれ以上に行ってましたわ。どの席でも自由に座れましたしね(^^ゞ…後にある番組で落合さんが「守備では大橋さんが1番上手いと思う」…って発言してはるのを聞いてなんか分らんけど、物凄く嬉しかったですわ(*^。^*)
大橋さんは肩の強さ、守備範囲の広さは凄かったですね。ただ通算打率が2割1分ジャストと低かったです。打順は下位がほとんどでしたが、プロ入り前、亜細亜大学時代は東都リーグの強打者で、阪急移籍の前は、東映フライヤーズ(今の日本ハム)のドラフト1位背番号「3」だったんですよね。
大橋稲葉水谷島谷・・・異様にトレード上手かったですよねw
@@osamu0727 さん。ホンマにそれですよね。偶然ですけど、後のタイガースからの野田浩司投手もね。ついでですが、ある番組で野村克也さんが、タイガースの監督解任後、「このチーム(タイガース)を変えれるのは西本さんか星野しかいない」って云ってて、落合さんの大橋さんの事同様、なぁぁんか嬉しかったです♪
@@前田貴史-b9t さん。子供ながらに大橋さんの守備は「凄いっ!!!」って思ってましわ。背番号6はタイガースの藤田平さんや無くて、ボクは大橋さんでした(笑)
@@kaiburyuu 近鉄の「6」は石渡茂、南海の「6」は新井宏昌がつけてましたね。近鉄から新井宏昌とのトレードで南海に入った山口哲治の背番号、実は「6」でした…。
かたや国民栄誉賞をそんなんもろたら立ちションでけへん!と茶目っ気たっぷりに固辞した世界の盗塁王の福本豊さんや打席に向かう前にお前ら帰る用意しとけ!と豪語して本当に打って帰ってくる伝説の世界の代打王こと高井保さんとかクセが強い人が多かったイメージだね!
阪急の不運は阪神と同じ地域をフランチャイズにした事だった。親会社の沿線の関係なんだろうけど、せめて神戸市をフランチャイズにしてたらと思う。
阪急ならば少なくともカジヨネと長池には触れてほしいところですね。できればレインズやバルボンにも。
バルボンさんの通訳は早口で怪しいところがありましたね。そのバルボンさん昭和44年に兵庫県にサンテレビが開局したのですが、開局当初解説者として活動してました。
阪急がオリックスに譲渡した時点で、阪急ブレーブスの伝統は断ち切られ、ブレーブスの名前も2年間のみの使用を決めて名前が消滅。
早い時期にセパ交流戦やってたらパリーグももっと盛り上がって阪急も近鉄も南海も買収する必要はなかったかもしれない
そんなことはない。関西は阪神の一人勝ちということもあるが、パ・リーグの球団に身売りが相次いだのは、フランチャイズの偏在もある。
現在鉄道会社がオーナーの球団は阪神と西武だけになりましたね。昔は西鉄、南海などかなりあったような気がします。
南海や近鉄と比べたらあまり深刻さを感じない阪急。
食事や待遇面ではまだマトモでしたからね。
昔は国鉄も含めて鉄道会社が親会社の球団が多かったよね⁉️今や鉄道会社と同様に映画会社が親会社の球団もなくなった中、もう鉄道会社が球団経営に乗り出さないであろう事を考えると、未だに球団を保有し続けている阪神と西武はある意味凄いかも⁉️
西武は、西武とかの前に西鉄(西日本鉄道)が球団経営していた事もあるよ。神様 仏様 稲尾様で有名な投手も居た
阪神は今後も大丈夫だと思いますが、西武はちょっと微妙かな?と思います。
@@Laurel-2.5clubs さん西鉄ライオンズと西武ライオンズって、何気に一字違いで球団を継承しているのが面白いですよね😁間に太平洋クラブとクラウンライターがありますが……
@@岩瀬健二 さん西武鉄道にも末永く球団を保有し続けてもらいたいものです🙇🏻♂️阪神も暗黒時代にはサントリーやアサヒビールへの身売りの噂がありましたよね⁉️
@@ティグレエンマスカラード 阪神の身売りの話ありましたね。本当なのかわからないですが、年間観客動員200万人以下だと球団が赤字になるという話がありました。たしかに日本一からだいぶ観客動員数は減って100万人台になってましたし、チームは低迷しているしで、そういう身売り話が出たと思います。ただ阪神には甲子園球場という阪神電鉄が建てた自前の誇れる球場がありましたから身売り話は流れたんでしょうね。
野球ナインさん、こんばんは😃🌃、お久しぶりです。僕は、阪急沿線に住んでいた事もあって、パシフィック・リーグで好きな球団は、阪急ブレーブスでした。僕が小学校1年の頃父と父方の親類達と阪急ブレーブスの日本シリーズ優勝🏆️🥇(1977年)をテレビ📺️で見たシーンは、今でも覚えています。これが小学校2年(1978年)の4月から少年野球に入るきっかけになったと思います。
きっかけ素敵です!!
四球で福本が、出塁したら福本が盗塁。大熊が送って福本がワンナウト三塁。そして加藤が犠牲フライ。ノーヒットで一点。腹立つ程強かった。
経営の神様小林一三翁をもってしても中等野球もプロ野球の観客動員も阪神に敵わなかった。最大の誤算だろう。
上田監督といえばロッテの有籐監督と並びパ・リーグで喧嘩っ早いのでも有名。
阪急!待ってました!ありがとうございます♪
喜んでいただき良かったです☺
山田加藤福本を獲得したドラフトでは後の南海の大砲門田も指名してるんですよね。(但し入団拒否された模様)もし門田さんも入団していたら名球会入り4人ということに…:(;゙゚'ω゚'):
オリックスが出来た時に門田さんが移籍して来たのも不思議な巡り合わせでしたよね?しかも最後はダイエーにも帰って行ったし…。
一応オリックスには居たという奇妙
@@金田一耕助-h5d 様門田さんは西宮球場では成績・相性がよかったので、南海がダイエーになって福岡へ移転発表後西宮を本拠地にそのままにしたオリックスに移籍しましたね。その後オリックスはチーム名そして本拠地を神戸しかも広い球場に移籍発表しましたので、「しゃあない最後のご奉公で狭い球場のホークスに世話になるか」といったかは知りませんが、狭い平和台球場が本拠地だったダイエーホークスに移籍して引退しました。広い球場でやる自信がなかったと思っても仕方ないかな、と。門田さんはもとは外野手ですが、昔、特に1980年代まで活躍した外野手は狭い球場が多かったせいか、守備並びに肩・遠投に不安がある選手結構いました。まぁバッティングさえよければの時代でしたから。
@@前田貴史-b9t さん確かお子さんの教育問題もあって、単身赴任をせずに済む関西残留を選んだんでしたよね?後年お子さん達も手が離れたので、それこそ最後のご奉公と福岡移転時の不義理の贖罪も込めて、ホークスに移籍したんでしょうね👍
福本さんの盗塁を見ていると、全力では走ってないように見える。もっと盗塁数は伸びたように思える。阪急が強すぎて前後期制が導入されたくらい。近隣に阪神がなければもっと続いた、評価されてもいい球団。
選手だけでなく通訳の黒人の方(バルボン氏)も関西弁でキャラが立ってますた()
確かゼネラル ミンミンのエアコンのCMに出ていませんでした。「ワテのボスは上田!・・・。」
阪急は、厳しいし過ぎる研修が、お上品の原点。
近鉄、南海、阪急はいずれも関西の私鉄球団でかつ動画になるぐらいネタが豊富で面白い球団だと思います。個人的にはロッテ、日本ハムの前身、そして埼玉移転前の西武は影が薄くてもっとよく知りたい球団です。パリーグシリーズの続編期待しております。
期待に答えられるように頑張りたいと思います!!
歴史を調べて見ると、パリーグには西鉄というチームに稲尾という凄まじい投手がいたそうですね。西鉄は福岡の会社ですが、ホークスではないのでどこの前身なのでしょうか。
@@jorgeshin1075 様今の西武ライオンズの前身です。1979年福岡から埼玉へ移転しました。西武は西鉄ライオンズ→太平洋クラブライオンズ→クラウンライターライオンズ→西武ライオンズ→埼玉西武ライオンズと変遷しています。西鉄からクラウンライターまで福岡が本拠地でした。稲尾投手は通算276勝記録した投手で西鉄時代に消滅した永久欠番の「24」が何年か前に今の西武の永久欠番になりました。ただ当の稲尾さんは亡くなられているので、本人登場のセレモニーはありませんでした。
@@前田貴史-b9t 西鉄は大規模八百長事件がきっかけで身売りされる羽目になったんだよね。それで西鉄から西武までに何度かオーナーが変わっていてその間ずっとマウンドに立ち続けていたのが稲尾だけだったとか。
@@前田貴史-b9t でも、埼玉を拠点にしてから良くなったよね。そこからV10を本当に成し遂げるのではないかと思われるくらいの強さを誇った黄金期に突入だもん。
小学生の時俺も含め皆が阪神ファンの中一人だけ阪急ファンの友達がいたな彼は山田のサインを部屋に飾ってたな
ああアニマルは人気あったね 阪急はこういう選手(人気者)をもっととってくるべきだったね。そうしたら少なくとも身売りは免れた
この当時のパ・リーグはいつもお客様が入らずガラガラの状態で見るにも忍びなかったです。
1983年。その修学旅行で、神戸からのフェリーの出港まで時間が空いてたので、西宮球場行きましたわ。四国の田舎の学生には、初めてのプロ野球で、嬉しかったのを覚えてます。
修学旅行で行かれたんですね!!すごいです!
予備知識なんて全くなく、選手も全然知らなかったけど、パ・リーグに興味を持つきっかけになりました。
@@glm795crp3dt パリーグってチケット取りやすいのか修学旅行のコースに入ることありますよね。かくいう私も中学の修学旅行で日ハム戦観てファンになったくらいですからw
福本が馬と競争した時、西宮球場にいました。用意ドンで馬が前脚を上げて走らず、球場内は失笑でした。
その時福本さんと一緒に走っていたのは背番号「6」のバンプでした…。
簑田さんはフロントに抗議して参加しなかったんだよね🤔
阪急はブレーブスを売却したのに、結果的だったとは言え、別の人気球団の実質的なオーナー会社になった。 どう考えても納得出来ない。
阪神はそのままだと経営危機だった。その原因から知っておかないと。近鉄の晩年の騒動も鉄道本体の赤字が1兆円以上だったから。
阪急の身売りは仕方無いが、付随とは言え阪神タイガースの実質的オーナー会社になった。阪急を応援してる人間からしたら不快感でしか無い。近鉄も身売りしてくれた方が良かった。いくらバファローズ優勝と言っても、阪急ブレーブス後継球団。近鉄ファンが気の毒過ぎる。
前身の阪急ブレーブスを知る選手は、現オリックスバファローズ監督の中嶋聡ぐらいですね(^_^;)中嶋監督は1987年に阪急に入団した後のオリックスブルーウェーブの主力捕手で、1995年と1996年のリーグ連覇に貢献した名選手です。
もし阪急がこのとき身売りしてなかったとしても震災でかなりの負債抱えたから結局なくなってたんだろうな
加藤秀司が出されたのは、単に「峠を越した」と上田監督に判断されただけだと思う。あの人は「伸び代無し」って判断したら、バシバシ首切るor追い出す人だからね。後の日ハムでもやってる。他、阪急身売りで重要なファクターは、他の動画でもカキコしてきたけど、・阪急は中世みたいな封建一族経営。・鉄道とか野球、デパートとか東宝とかセクション毎に担当が違い、それが固定化。まるでお役所。・野球だと、初優勝時のオーナー(小林米三)に実子が無く、オーナー本人+養女+婿養子(公平)の家族。・米三は初優勝の数年後に早世し、チーム黄金期は別の重職者が担当。・月日が流れて、その婿養子(公平)がオーナーになるが、野球には興味無し。更には、黄金期を支えた重職者は全て会社から退場済(←これ大事!)。・公平は野球に興味が無く、バブル時代に目が眩んで、大阪再開発の資金を欲しがり、邪魔者もいないので、さっさと身売りを決意。って言う、お家騒動さながらの重大な真実がある。要は、阪急みたいな一族経営で後継者不在は致命傷だから、もし米三に嫡男がいたらって思えてならない。若しくは、米三が長生きして公平を廃嫡してたらってね。無嗣でさえなければ、今でも阪急ブレーブスは健在で、合併騒動も無かったと思うのは自分だけ?会社の格からしても、しっかり読売に意見が言える筈だしね。巷間の不人気説は、作られた「誇張」。色んな動画見てると、客入ってる日もあるし、有名人にも意外とファンいる。阪神だって、読売戦以外はスカスカ。セリーグ全体が読売におんぶにだっこで、読売戦以外の観客動員は決して誉められない。あまつさえ80年代になれば、セパ人気格差も縮まり始め、今に至るからね。最後は、ファンからも会社内からも出た「京都移転構想」を英断しなかったことかな。どうせ修学旅行生に試合を見せるなら、京都の方が良い。西京極が近くにあるし、そもそも西宮とは知名度も、年間の人の集まりからしても全然違う。封建王朝だから、移転もし辛かったのかな?個人的な意見だと、西武が手塚プロ(レオライナ)とコラボしたように、阪急はエニックス(ドラクエ)とコラボすべきだったと思う。「勇者」繋がりでね!あの頃のドラクエは社会現象的人気だったからね。鳥山明さんの描いた主力選手、往年の名選手のイラストを見たかったな。とにかく本当に、惜しい球団だった…。
国鉄がJRに改編され大阪〜神戸間の輸送競争に本格的に参戦して来たこともブレーブス売却の理由かも知れませんね。阪急・JR・阪神の3社が互いに旅客を奪い合っている中でJRが新快速でガンガン攻勢をかけて来て私鉄の両者は対策を練らなければならない状態でしたから資金を確保のと将来球団維持の負担になる金額を減らすに売却した(当時球団経営は赤字が当たり前)という側面もありそうな気がします。
@@矢田陽也 どうでしょう。阪急の特急とJRの新快速は競合してるようで、微妙に担当地域を分け合って、事実上共存してるから、大した泣き所ではないんじゃないかな。京都線はJRと比べて市中に行くし、神戸線は高台の高級住宅街を通るからね。東海道新幹線と近鉄アーバンライナーが、意味合いが違うから併存してるのと同じかも。そもそも小林一三は、国鉄と沿線が被らないように線路を引いたし、京都線は元々京阪を戦時中に買収したもの。それに、公平が取りつかれた大阪再開発はバブルに乗じたもので、後にバブルが弾け、阪急は未曾有の、新快速なんか比べ物にならない大赤字になって、今尚阪急最悪の社長扱いされてる。そもそも身売り自体、阪急社員ですら予想外で、異口同音におかしいと言われたからね。又、当時の球団経営は、全盛期の西武ですら赤字で、堤のポケットマネーの充当でしのいでたからね。
加藤英司のトレードの交換相手は広島の強打者で後に打撃コーチの名伯楽となる水谷実雄です。その水谷は阪急に移籍1年目打点王獲得したが、2年目開幕戦で頭部デッドボールを受けその2年目で引退。そのあと打撃コーチとして前田智徳や中村紀洋、江藤智など育てている。
@@前田貴史-b9t 上田監督は選手の見極めが上手いよね。加藤英司⇔水谷実雄の交換は、トレード一年目じゃ明らかに阪急が得してる。それに、まだ阪急が強い頃、打倒読売を果たして早々に、島谷&稲葉(中日)⇔森本&戸田(阪急)って、伝説のワンサイドトレードやってる。ハムの時は、西崎と奈良原(西武)だっけかな。でも、加藤と水谷は二年目に逆転するよね。加藤は一年で近鉄に出られて、慣れたパリーグで及第点以上に復活出来たのに、水谷は開幕戦で頭にぶつけられて、そのまま再起不能…。あの年は阪急優勝して相手は広島。もし水谷が健在だったら古巣相手に凄かったかも。加藤も水谷も40現役&2000本安打行ける器だけど、片や流転の身となって首の皮一枚でゲット。片や労災で詰み…。加藤の方が強運だったんだろうなぁ。
@@nmpu6324 さん 指導者としては水谷さんのほうが圧倒的ですね。ダイエー、阪神、中日、広島など西側の全球団のコーチ経験したのでは?阪神を最後に今は隠居状態だったかと。
とにかく、関西はメディアが異様に阪神中心の報道をして阪急、近鉄、南海を無きモノとして扱ってたのがなあ。テレビもラジオも阪神一色。ラジオ大阪がバファローズナイターを放送してたがオリックスと合併した後に野球中継自体を止めてしまった。
大阪アンパンマン放送大阪オウム真理教放送大阪ベンケーシー放送
サンテレビも、かつては阪急・オリックスの試合中継をしていたが、オリックスが近鉄を吸収した数年後に、オリックスの試合中継から撤退。
阪急と南海がリーグ優勝を決める時の試合の朝の新聞で、ノムさんが「さすがに今回はうちらが一面になるだろ」と思ってたら「不振にあえぐ掛布、特訓!」が一面になってたので「なんでや!」と思ったとかそのくらい当時の関西は阪神一辺倒だったらしい
阪急ブレーブス子供の会の会員でした。
阪急グループで宝塚歌劇団とブレーブスがお荷物でどちらを切るかふるいに掛けられブレーブスが切られたのが真相では、無いのか?
動画の最後に登場した最後の阪急戦士・中嶋聡が、監督としてオリックスを25年ぶりの優勝に導いたのは胸が熱くなるドラマだよなあ
さらにコーチとしても
2016ハムの優勝に貢献
福本豊の引退は、上田監督が「去る山田、そして残る福本」と言うところを「去る山田、そして福本」と言ってしまい、これに驚いたマスコミが福本を取り囲むと、本人は寝耳に水だったにも関わらず「じゃあ辞めます」とあっさりと引退宣言したという、「いい間違え説」が有力ですよね。
ちなみに、当の福本は「あと2〜3年やれた」と言っていたそうです。
あと二、三年でどれくらい盗塁できたかなぁ。
コレよく福本さんがそう言われてますけど、実際の映像見てみると上田監督は「今日の試合をもって引退をする山田とか福本とか。」と言い切ってるんですよね。
でも、本当に訂正するのが色々面倒くさくなって辞めたのは本当だと思う。
@@さいだひろなり
全然、「去る山田、そして福本」じゃないですね。
ほんと、マスゴミってクソですね。
昭和50年に広島が初優勝して、勢いが止まりそうになかったとき、日本シリーズで阪急が広島に完勝したのを見て、つえーって思いました。選手たちも個性的で特に山田久志のピッチングフォームは見とれるほど美しかったです。
パ・リーグ最後の完全試合男、今井雄太郎投手が隣町の出身だったこともあって阪急ファンでした。
阪急ブレーブスのファンは3回死んだのですが、オリックス・ブレーブスになった時、オリックス・ブルーウェーブになった時、オリックス・バファローズになった時。バファローズになった時耐えきれずに楽天ファンになりました。
松永選手が満員の球場でプレーしたいからと言って阪神にFA移籍した直後にイチローブームでオリックスの試合が連日満員になったのは皮肉だなあと思いました。
懐かしいですね~神奈川に住んでいながら、阪急が大好きで山田の形態模写をいつもやっていたのを思い出します。こずかいをためては後楽園に応援に行きました。当時の黄金時代、先発投手がほとんどローテーション通りで山田が投げる試合に合わせて観戦に行きました。V3の頃は、皆が巨人を応援する中、一人阪急を応援してました。中学の卒業文集で将来の夢に「西宮のマウンドに立つ」な~んて書いたっけ・・・・強かったな・・・・・
阪急は、高知に毎年キャンプに来てました。小学生の頃毎日市営に観に行き、帰りに福本に追いかけられたり、ブーマーに高い高いしてくれたのが良い思い出。
メジャーも認めた外野フェンスによじ登りボールをキャッチした山森選手、一杯ひっかけてマウンドに上がったら完全試合の今井雄太郎投手とかプロ野球の歴史に名を残す選手がたくさんいました。
この球団は生え抜きOBの監督が少ないよね。
梶本さんの後が福良さんだし、今の中嶋監督でやっと三人?
球団のレジェンド山田久志も監督やったのは縁もゆかりもない中日だった。
あと西宮球場は競輪場でもあったし、ヤジが凄かった。
名古屋在住です。
小学生の時に中日VS阪急のOPを観に行った。
当時は阪急黄金時代で山田、福本、加藤、大熊、マルカーノ、ウイリアムス
などなど素晴らしい役者が揃っていてパリーグにこんな強いチームがあるのかと
驚いた。
子供時代のイチローは、当時の子供達同様にセリーグの人気チームである巨人、阪神の事は知ってても、パリーグの阪急は存在すら知らなかったが、数少ない阪急ファンだった友人の影響で1976の日本シリーズをTV観戦し、阪神が敵わなかった巨人に勝つこんな強いチームが存在したんだ!と衝撃を受けたらしい。
確か阪急ブレーブス最後の公式戦は全順位が確定していたにも関わらず消化試合が日本シリーズ開催まで間に合っなかったから日本シリーズ開催中に試合をしてましたよね。最終戦の相手が近鉄との10.19での相手と同じくロッテ戦で、あの当時のロッテは近鉄の優勝を阻んだり、ロッテ高沢と阪急松永との首位打者争いで松永を全打席敬遠という、しかもダブルヘッダーの2試合ともで。近鉄ファンも阪急ファンもあの当時ロッテが憎かったでしょうね。
私も西宮球場へ行きました。阪急最後の無料試合でしたね。ロッテは高沢じゃなく高橋という無名の選手を出し松永を敬遠攻めにしましたね。有藤が憎かったです!
出来ればミスターブレーブスとして豪快なホームランを魅せてくれた長池さんについても取り上げて欲しかった…
独自のアゴ乗せフォームは真似したくてもできなかったなぁ
あの当時あれだけ強かった阪急ブレーブスが球団売却の情報をテレビで観て「おぃ!おぃ!嘘だろ!?」って思った。阪急ブレーブス→オリックスブレーブスになった時は本当に寂しかったな!
阪急沿線に住むある一定年齢以上の男子はみんな入っていた「阪急子供の会」
ファン層の民度もそれなりに高く、子供の会に入っている小学生だけで観戦に行っても安全でした
7回が終わって内野席開放の段階で外野→内野へ移動して、八二会の人たちのヤジにクスりとして・・
子供チケットにはブレーブス野球帽がもらえて
球場内のカレーも美味しかった
正月には揃いのブレザーで多田神社への戦勝祈願に来た時の選手のフレンドリーさ
どこをとっても、大好きだった球団です
ブーマーが投げた、ブレービー人形は今でも宝物です
1975年~1978年の阪急は北の湖と同様に「憎らしいほど強い」と言われてた。
初めて見た日本シリーズ、84年広島対阪急でした。
当時はデイゲーム開催でしたね!
パ・リーグの試合あまりテレビでやらず選手の名前もあまり知らなかったですが、阪急含めパ・リーグは個性的選手沢山いましたよね。
この動画を見て昔親父が西宮球場に連れていってくれた思い出が蘇りました。自分は当時西武ファンでしたが、その頃は観客も多かった気がします。阪急の強さとブーマーの体のデカさは未だに忘れられません
BRAVE(勇気)って
名前もいいよね!
昔は電鉄会社が球団を持っていましたよね、近鉄、阪急、南海、国鉄…時代の流れでしょうかね。。
アラフィフの私、物心ついて「野球」を理解した頃の最強球団だった阪急ブレーブス。
しかしながら東北で生まれ育った私、当時はパ・リーグの情報は新聞のスポーツ欄でしか入らず、「動く阪急の選手」は殆ど見れませんでした。
それゆえ、逆に妄想が膨らみ、選手の顔もよくわからないのに何故か大ファンになっていました。
今は野球そのものは好きですが特定の球団のファンではありません...
この頃の阪急はスター揃いでしたね。凄い魅力有り 世間が大巨人&セリーグでした。関西には阪神が有りこれはダメですは😩 でもこの頃パリーグは大好きだったな👍
阪急編待ってました!
南海、近鉄とはまたひと味違ったクセのある個性派集団にして一番練習が厳しくて一番勝った球団ということも学べて良かったです♪
お待たせしました☺学べるものにできたようで良かったです!!
プロ野球にハマって3年ちょいだけど、「南海」、「阪急」、「近鉄」のパ・リーグ関西3球団が存在していた頃のプロ野球の雰囲気が個人的に好きです。
代打世界記録の高井のエピソードは必要
阪急と言えば山田、福本、加藤秀の年棒三千万トリオ、日本シリーズでは大活躍する足立投手、当時パリーグの選手がほとんど注目にもならない時代に豪速球が話題になった山口高志投手、と自分にはなぜ人気が出ないと思うよい選手揃いでした。
熱心なマーチを奏でるトランペット、応援団も印象的だっただけに話題になっていた南海身売りの時に、コソッと急に身売り発表は悲しくもありました
阪神タイガースを乗っ取る形で阪急復活してるな
阪急トップの鶴の一声で岡田が監督になるくらいだし
関西の人気球団は阪神の一人勝ちだったのが阪急・近鉄・南海の悲運というか(しかも全部親会社が私鉄)
関東も球団が集まってたけど、全国区的人気の巨人が圧倒的過ぎたため上手く住み分けできたと思う
そのためヤクルトは上手く東京ローカル球団になれたような
日ハムが北海道移転してからパリーグは上手くローカル化出来てると思う
関東は球団多いんでベイスターズが新潟移転してくれると面白いんだが
ベイスターズは今の南部オーナーが新潟出身でしたね。室内練習場などの設備とサッカーや独立リーグなど運営しているアルビレックス新潟と協力してやっていけるかなど課題・問題点は山積みだけど。
小学校3年生のころから「ブレーブス子供会」に入ってました。 子供会員は 外野席 100円 内野席200円 でしたので、学校終わったら 電車乗って よく西宮球場に通ってました。ブルペン後ろからみた山口高志投手の度肝抜く 剛速球、 応援団の今坂団長のヤジ、内野席の階下の空間でのキャッチボールetc。。。 どれも素敵な想い出です。
パリーグの関西球団はオーナーの個人道楽の部分も大きかったので、オーナーが失脚したり亡くなると身売りになったって報道が結構あった記憶が。そういえばその後阪神と統合になり一応阪神タイガースとグループになってはいますね。あとバンプは上田監督とそりが合わずゴタゴタの挙句に退団した記憶も。
弱小の時代を支えた米田、梶本の時代に始まって、老練なアンダースロー足立、NPB最強助っ人のひとりスペンサー、長池、高井、そして黄金時代を支えた山田、福本、加藤……etcetc.
凄いメンバー、強かったですね
この選手達を鍛え上げて、お荷物球団から常勝チームにまで育て上げた西本幸雄監督のなんと凄かったことか!
かなりのオールドファンと見ましたが…。でも若手の王選手と米田のトレードが行われてたらどうなったと思われますか?阪急側が断わったらしいのですが…
とにかくドレード巧者な球団という印象がありますね
森本・戸田 ⇔ 島谷・稲葉(4番打者と準エース)
加藤秀 ⇔ 水谷(4番打者・打点王)
この2つだけでも凄い
阪急はトレードが上手でしたよ。それと水谷は広島在籍時に首位打者になっている巧打者でした!
母が日本ハムの工場(当時加古川市)で働いていたため毎年年に2~3回会社からバスでファイターズ応援のため西宮球場に阪急vs日ハムの試合を見に行ってたなぁ。ほんとにガラガラだった笑
70年代のパリーグの場末感は半端じゃなかった・・
昭和50年・51・52の日本シリーズで、「しばらく阪急に勝てるチームはない」と思ったね。
53年広岡ヤクルトが日本一になった時、信じられないほどの衝撃を受けた。
本当に強かったよ、阪急は。いい選手が多かったね。マルカーノの早死には残念の一言。
あの広岡ヤクルトはとにかくツキまくってた!
普通に考えれば、初陣でつい最近まで最下位争いしてた連中が勝てっこ無い。
善戦だけでも御の字!
ヤクルトの最大の勝因は、
「山口の故障(→その後再起不能に)、佐藤の故障、稲葉の故障」
に尽きる!
第四戦の継投ミス(山田に替えれば良かったね)でも、最終戦の疑惑のホームランでもない。
佐藤は若きホープの先発ローテ、稲葉もエースの谷間を埋める先発ローテだった。
増して山口は、存在だけでも威圧感充分だった。
短期決戦で、主力投手三人が故障なんて致命的!
その所為で終始阪急は、投手のやりくりに苦労したけど、故障者ゼロのヤクルトは松岡を抑えにして、上手くやりくりして、勝ち試合捨て試合を計画的に行えた。
それでもヤクルトは「勝つには勝った」結果で「阪急を飛車角行+桂馬か香車抜き状態にしても大苦戦した」とも取れるから、もし上の故障者の内一人でも健在なら、マジでヤクルトの命運は保証出来んよ。
二人健在なら無条件降伏だよ。マジで!
ノムさん曰く「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負け無し」ってやつだよなぁ…。
この時、広岡の下で森がヘッドやってて、その後に西武時代を築くけど、考えてみれば、西武全盛期にはチームに怪我病気の落伍者が一人もいなかった。
この経験が頭にあったのかも。
現役時代の読売全盛期も「ONが故障で長期絶望」なんて無かったもんね。
その後も広岡は昭和57、58年とツキまくってたね。特に58年。
昭和60年についに悪運が尽きるけどね(笑)。
規格外の怪物的某外人の手でね。
@@nmpu6324 さん。 昭和53年ヤクルト日本シリーズ優勝は 最終戦の大杉選手のホームラン2本が大きかったですね。 その内1本は、ファールでしたが…😳
@@畑野よしゆき
一本はファール。
もう一本は大勢が決した後の「打ち直し」。
一本目がファール判定されてれば、二本目があったかはわからない。
審判が大杉のファールをホームランと判定しなかったら阪急ブレーブスが勝っていた!
@@youjikawabata4170 結果日本シリーズ終了後、上田監督辞任しました。
全盛期より少し時代を下った、山沖がいた頃が好きだった。
先発で早い回でノックアウトされたのに、翌日に「昨日少ししか投げてなくて疲れていないだろうから」と当時としてはほとんどあり得ない連投をさせたり、上田監督は本当に面白い采配をする人だった。
1987年に19勝で最多勝となりましたね。
福本が四球を選んで盗塁して大熊(蓑田)が送りバントか進塁打。続く加藤の犠牲フライでノーヒットで1点先行。そんな野球をしたのは後にも先にもあの時代の阪急だけ❗エリート職人の集まりって感じだったなぁ~。西宮北口駅から西宮球場へ行くまでの屋台。高級住宅地に見られる関西の色❗って感じがした。懐かしぃなぁ~(笑)
この時代の阪急は、面白いチームだったんだよな。
阪急がオリエントリースに買収された際、すぐさま社名をオリックスに変更するという発表、そして社員の、目的は果たせた、みたいなコメントを聞き、売名第一の為の買収だったの?と何かダイエーとは違い、嫌な感じが残ったのを覚えている。
個性的な選手が多すぎて影に隠れた?他の主力選手は佐藤義則、今井祐太郎、山沖、松永、蓑田、マルカーノ等々セリーグの広島カープ同様の野武士集団でしたね
また、1968年のドラフトは下位で門田博光も指名したが拒否られたとか
球場も競輪と併用するなど何から何まで個性的でしたね
この西宮球場での競輪開催が
若い女性ファンが少ないことに繋がり
しまいには子供たちですら近寄らなくなり
(西宮球場≒競輪・野球ファンの
おじさんたちが酒を片手に集まる場所
と認識され、学生だけで行かないように
と各学校で指導してたそうです)
神戸移転の遠因になっていくんですよね…
よくまとめてくださいました。私は50年来のブレーブスファンで、内容に大きくは違和感ありません。ただ、コメントされている中に書かれたスペンサー選手もキーパースンでしたね。あと、山田さんのシンカー修得は足立さんからという表現は一言でならそれで構わないでしょう(気づき・観察・教え乞い・断られ・修得・のちに独自の握りを足立さんが見せる・山田流シンカー完成)。米田さん梶本さん長池さんなど最重要人物多数ですが、キリが無いので敢えて挙げられなかったのでしょう。
ありがとうございます。たくさんの重要人物がいすぎて、選手紹介の動画になりそうだったので、控えさせていただきました。気持ちを組んでくださりありがとうございます!!
パリーグの電鉄球団勢は、まさに野武士やったわ。👍
常勝時代でも、西宮球場ナイターの観客数は、新聞には八千人とありましたが、実数では三千人ぐらいでした(泣)当時は、日生球場や大阪球場で観戦しながら、観客数を数えるのが楽しみでした🇯🇵
西宮球場は野球より競輪開催が優先されていたので、シーズン終盤のかきいれ時に競輪が球場を抑えていたので、西宮を使用出来ず、西京極での開催が多かった。
たしか西京極で阪急がリーグ優勝して胴上げという年があったと思います。
西京極は阪急沿線沿いだから😆
阪急梅田駅コンコースが、紳士の球団であった事を偲ばせる。
アニマル懐かしいなぁ。引退後、芸能界に転身してビートたけしの番組によく出演してたね。若くして亡くなったのが残念です。
「亜仁丸レスリー」で出てましたね。キャッチャーの藤田浩雅がよくボコボコに叩かれてました。
アニマル 歌うまかったなー
いちばん好きな球団でした。
その後のオリックス(ブレーブス、ブルーウェーブ)はどうでしたか?
先代社長が「死んでもブレーブスと宝塚だけは売るな」と言っていたけど、宝塚歌劇団は人気出たのに対し、ブレーブスは大きな人気は出ず赤字出していたなら、売るのは止むを得ないかと。
今は宝塚を売りに出さなあきませんね。電鉄会社の天下り社長ではエンターテインメントのマネージメント出来ませんわ、ら
逆だと思います。
当日バブルで球団であればどこか買手があるけど歌劇団は捨てれなかったんじゃないかなあ。
その後ブレーブスもブルーウェーブもなくなったけど、やっとこさ本日優勝できましたとさ。
当時の阪神も巨人戦以外はそんなに
入ってなかった気もするが。
阪急V3が本当に強いなぁと思う最後のチームですね
昭和40年代前半は阪神より中日のほうが観客動員数が多かったという事実があります。あと江夏豊が中日戦で伝説のノーヒットノーランを達成した昭和48年8月30日甲子園球場の観衆は…9000人でした。
@@前田貴史-b9t さん。 昭和48年8月頃と言えば 今年こそ阪神優勝か⁉️と言われてた時期なのに 甲子園で1万人以下とは…😱
@@畑野よしゆき さん昭和48年はたしか年間観客動員数がやっと100万人超えたはず。巨人戦以外はどのカードも数千人が当たり前で客が入っていなかったんですよね。だから1、3塁側のアルプススタンドは閉鎖されてました。あくまで自分の考えですが、当時の球場の雰囲気は殺気だってたというか、近寄りがたい雰囲気というか、よく物(缶、ビン、紙テープなど)が投げ込まれていたということもあり、それこそ「あんないかがわしいところ行くもんじゃありません」という教育的指導をしていた大人(親)もいたのではと思います。今じゃ考えられないですが…。
@@前田貴史-b9t サッカーのフーリガンみたいなやつがいたんだな。
@@halumi2002 様 昭和48年の甲子園での阪神巨人戦の最終戦、勝ったほうが優勝という試合でした。結果は巨人が9対0で勝って優勝したのですが、ゲームセットの瞬間からというより試合中から紙テープを大量に投げつけるなど阪神ファンが暴れまくり、ゲームセットからすぐに3塁ベンチまで乱入して、結果王選手が殴られたり、テレビの中継車まで襲いかかろうとしたり、当時の阪神金田監督はファンの前で謝罪したり、もうメチャクチャでした。阪神の長い歴史のなかでかなりひどい汚点となる試合でした。その結果巨人の胴上げは巨人の宿舎で行ないました。
福本選手の国民栄誉賞辞退は、長嶋茂雄さんがもらっていないのに自分がもらうのは恐れ多い。と晩年語っていました。
阪急ブレーブス、1973年のプレーオフ南海戦で破れ、夢の「西宮決戦」が実現出来なかったのは、残念でした。
1981年の巨人対日本ハムの「後楽園決戦」よりも前に話題をさらっていたかも知れません。
山田、加藤、福本、長池など個性豊かな選手を育て、使い続けた西本.上田監督巨人ファンの私でも名将です。
今のオリックスにも「阪急魂」が受け継がれているのでは?😁
古くは梶本、米田の二枚看板でしょ。あと名球会入りはしてないけど、箕田やマルカーノ、松永とか阪急で活躍した選手もう少し取り上げて欲しかったなぁ🤔…
もし江川卓が阪急1位指名を受け入れて高卒で阪急に入団してたら
79年の日本シリーズ(江川は入団5年目の23歳)もヤクルトに勝利して
80年81年の近鉄のリーグ連覇も阻止して、リーグ6連覇日本シリーズ6連覇位はしたかも知れませんね。
江川も当然200勝超え
昭和40年代、阪神と阪急が合併すれば巨人に勝てると、よく話しましたね。
本当に魅力的な選手が多かった。
当時、衛星チャンネルがあればもっと見られたのに。
ブレービーについても触れて……今後の楽しみにさせて頂きます。
オリックスが今年日本シリーズ勝つためには、阪急の復刻版がいい。
中島聡監督は阪急だからな。
近鉄1番いいが日本一輝いてないため危ない
メジャー時代のブーマーウェルズは当時まだ20代で老けてる。後に日本で阪急ブレーブスとオリックスブレーブスと神戸オリックスブルーウェイブでチームメイトに成る同い年の佐藤義則さんは更に老け顔。
西本さんとスペンサー 野村さんとブレイザー
当時最先端を行っていたのもパリーグでした
阪急ファンは本拠地の場所柄なのか近鉄や南海のファンと違ってあまりヤジがなかった記憶があります(一番はやはり◯鉄でした)
個性的だけどポテンシャルの高い選手が多い球団でしたね。今や二刀流は大谷選手の代名詞みたいに言われていますが、山田久志投手や山口高志投手もよく打ちましたよ。いかんせんパリーグに指名打者制が導入されて以降、日本シリーズでしか両投手のバッティングが見られなくなったのが残念ですが。
古くは同じ阪急にいた米田哲也さんもよく打ってました。たしか通算ホームランは33本だったような。金田正一さんみたいに代打ホームラン、サヨナラホームランは打ってないみたいですがか
亡くなった社長が宝塚がなんとかなったからブレーブスも上向くまで残せと遺言を残したけど息子があっさり切り捨てたんだとか(んで金持ちのオリックスに買い取られた際むしろ待遇は下がったとか)
小林公平か。
あれは確か養子だったはず。
本人が芸術家気取りで、宝塚歌劇団を残してあっさりブレーブス切り捨てたんだっけ。
@@Comediablue さま
そのくせ村上騒動で阪神が阪急傘下に入ったら、まだ球団持てたと喜んでいましたからね。
応援がトランペットに加えてトロンボーンも使ってたのがいい思い出。
0:28 8:50
10月19日です。近鉄が川崎球場で死闘をした日に阪急は身売りを表明したのです。よく言う10.19です。運命だよな。
学生時代、蓑田選手のファンだったので自宅に電話(当時は有名人も電話帳に載っていた)してサインが欲しいと言ったら自宅の場所を教えてくれたので自宅に行ったら玄関で待っていてくれてサインを貰いおしゃべりして帰る時に近所の高井選手の自宅を教えてくれたので、高井選手のサインも貰いに行った。私の父親は外人の観客と仲良くなり酒を飲みにいったら、アニマルの知り合いでアニマルも一緒に酒を飲んだ。
昔は選手名鑑にも自宅の住所掲載されてましたね。掲載されてない場合は「球団気付」と掲載されていたような。
@@前田貴史-b9t 当時は漫画家さんの自宅や仕事場の住所も雑誌に載ってたくらいでしたからね。
今となってはあり得ませんが。
阪急の優勝記念セールが楽しみだった。阪急百貨店(梅田)では、普段の高値の品の値段を下げてのセールだった。それにひきかえ西武百貨店(高槻と八尾にあった)は、セール専用の商品としか思えない商品ばかりだった。
西武大津は全般的に安かったで…。やはり堤オーナーは近江商人だったから?
@@youjikawabata4170 値段は西武のほうが安かったが、質は全然でした。ポロシャツ、阪急3年、西武半年でしたから。
阪神、近鉄もしょぼかったでwww
@@osamu0727 阪神はタイガースグッズ、近鉄は沿線おみやげばっかりだったね。
その西武の高槻の方は阪急に変わっている…
盗塁するには塁に出なあかんとか言うて打撃教え出すのすこ
盗塁したくても出塁することが出来なきゃ意味ないもんね。
やはり鉄道会社が球団持つのは大変でしょうね。
何か『京阪電鉄』を持ったら良いのではとか言ってたのが有りましたが、中々厳しいでしょうね。
福本さんはホ一ムランバッタ一でも使わないぐらいの重いバットを使用していたようですね
夕方に珍しく阪急の試合がテレビ中継されていた時に、福本さんの何かの盗塁記録が懸かってた試合
だったのですが、その日は出塁なしで迎えた最終打席、福本さんはホ一ムランを打ってしまいました
西宮球場はオフシ一ズンは、競輪場になってましたね
福本さんみたいな打者はバットの重さは1キロを超えてました。横浜大洋にいた「こけしバット」で知られた山崎賢一はたしか1.2キロ(1200グラム)のバットでした。
競輪は、オフシーズンだけではありませんでしたよ。
@@houseyfk 書き入れ時に野球追い出して開催してましたよね。
まだ野球を覚えたばかりの小3のオレは父親の影響で巨人ファンだったが、日本シリーズで阪急には二年続けて歯が立たなかったのを覚えてる😅
今ではパ・リーグファンのホークスファンだが、その頃の阪急に比べたらまだまだだと思ってます
昔のセパはほぼ関西圏、関東圏で別れてたチームが面白かった
今は亡き
南海ホークス本拠地大阪球場跡地は難波パークスに代わり
近鉄バッファローズの本拠地藤井寺球場跡地は四天王寺学園へ
準本拠地である日生球場は森ノ宮キューズモールへ
阪急ブレーブスの本拠地である西宮球場は西宮ガーデンズへ変革を遂げた。
今は阪神タイガースの本拠地である甲子園球場と、京セラドーム。あとはグリーンスタジアム神戸やな
ブレーブス
ブルーウェーブ
バファローズ
3つの系譜を受け継ぐチームとしてキャップロゴを「Bs」というデザインにしてたの凄く好きだった
最後の阪急選手の中嶋監督が優勝に導いた今、もう一度復活してほしい
ブレーブスの前のニックネームのベアーズ(Bears)のイニシャルもBでした。
日本シリーズでヤクルトに勝てなかった歴史も終わらせたな。
上田さん、仰木さん、西本さんが天国で乾杯したんだろうな。
何時かは阪急・阪神の電鉄日本シリーズをって
長い間待ったけど、
阪神が不甲斐なくて実現じなかった・・・
身売りの第一報、オリエント•リース(オリックスの前身)ってなに?っていう感じでした。
山田久志、福本豊、加藤秀司はすげぇドラフトやな
山田さん、福本さん、加藤さんが話の中心になってますが、
この頃の阪急にはshoBさんも書いてるように、
長池さんはじめ、大熊さん、高井さん、川村さん、蓑田さん、
トレードでやって来た、大橋さん、島谷さん
投手陣では足立さん然り、山口高志さん、今井雄太郎さん、佐藤義則さん等々
個性の強い選手が多かったですよね。
甲子園にもよく行ってましたが、西宮球場にはそれ以上に行ってましたわ。
どの席でも自由に座れましたしね(^^ゞ
…後にある番組で落合さんが
「守備では大橋さんが1番上手いと思う」…って発言してはるのを聞いて
なんか分らんけど、物凄く嬉しかったですわ(*^。^*)
大橋さんは肩の強さ、守備範囲の広さは凄かったですね。ただ通算打率が2割1分ジャストと低かったです。打順は下位がほとんどでしたが、プロ入り前、亜細亜大学時代は東都リーグの強打者で、阪急移籍の前は、東映フライヤーズ(今の日本ハム)のドラフト1位背番号「3」だったんですよね。
大橋稲葉水谷島谷・・・異様にトレード上手かったですよねw
@@osamu0727 さん。
ホンマにそれですよね。
偶然ですけど、後のタイガースからの
野田浩司投手もね。
ついでですが、ある番組で野村克也さんが、タイガースの監督解任後、
「このチーム(タイガース)を変えれるのは西本さんか星野しかいない」って
云ってて、落合さんの大橋さんの事同様、
なぁぁんか嬉しかったです♪
@@前田貴史-b9t さん。
子供ながらに大橋さんの守備は「凄いっ!!!」って思ってましわ。
背番号6はタイガースの藤田平さんや無くて、ボクは大橋さんでした(笑)
@@kaiburyuu 近鉄の「6」は石渡茂、南海の「6」は新井宏昌がつけてましたね。近鉄から新井宏昌とのトレードで南海に入った山口哲治の背番号、実は「6」でした…。
かたや国民栄誉賞をそんなんもろたら立ちションでけへん!と茶目っ気たっぷりに固辞した世界の盗塁王の福本豊さんや打席に向かう前にお前ら帰る用意しとけ!と豪語して本当に打って帰ってくる伝説の世界の代打王こと高井保さんとかクセが強い人が多かったイメージだね!
阪急の不運は阪神と同じ地域をフランチャイズにした事だった。
親会社の沿線の関係なんだろうけど、せめて神戸市をフランチャイズにしてたらと思う。
阪急ならば少なくともカジヨネと長池には触れてほしいところですね。できればレインズやバルボンにも。
バルボンさんの通訳は早口で怪しいところがありましたね。そのバルボンさん昭和44年に兵庫県にサンテレビが開局したのですが、開局当初解説者として活動してました。
阪急がオリックスに譲渡した時点で、阪急ブレーブスの伝統は断ち切られ、ブレーブスの名前も2年間のみの使用を決めて名前が消滅。
早い時期にセパ交流戦やってたらパリーグももっと盛り上がって阪急も近鉄も南海も買収する必要はなかったかもしれない
そんなことはない。関西は阪神の一人勝ちということもあるが、パ・リーグの球団に身売りが相次いだのは、フランチャイズの偏在もある。
現在鉄道会社がオーナーの球団は阪神と西武だけになりましたね。
昔は西鉄、南海などかなりあったような気がします。
南海や近鉄と比べたらあまり深刻さを感じない阪急。
食事や待遇面ではまだマトモでしたからね。
昔は国鉄も含めて鉄道会社が親会社の球団が多かったよね⁉️
今や鉄道会社と同様に映画会社が親会社の球団もなくなった中、もう鉄道会社が球団経営に乗り出さないであろう事を考えると、未だに球団を保有し続けている阪神と西武はある意味凄いかも⁉️
西武は、西武とかの前に西鉄(西日本鉄道)が球団経営していた事もあるよ。
神様 仏様 稲尾様で有名な投手も居た
阪神は今後も大丈夫だと思いますが、西武はちょっと微妙かな?と思います。
@@Laurel-2.5clubs さん
西鉄ライオンズと西武ライオンズって、何気に一字違いで球団を継承しているのが面白いですよね😁
間に太平洋クラブとクラウンライターがありますが……
@@岩瀬健二 さん
西武鉄道にも末永く球団を保有し続けてもらいたいものです🙇🏻♂️
阪神も暗黒時代にはサントリーやアサヒビールへの身売りの噂がありましたよね⁉️
@@ティグレエンマスカラード 阪神の身売りの話ありましたね。本当なのかわからないですが、年間観客動員200万人以下だと球団が赤字になるという話がありました。たしかに日本一からだいぶ観客動員数は減って100万人台になってましたし、チームは低迷しているしで、そういう身売り話が出たと思います。ただ阪神には甲子園球場という阪神電鉄が建てた自前の誇れる球場がありましたから身売り話は流れたんでしょうね。
野球ナインさん、こんばんは😃🌃、お久しぶりです。僕は、阪急沿線に住んでいた事もあって、パシフィック・リーグで好きな球団は、阪急ブレーブスでした。僕が小学校1年の頃父と父方の親類達と阪急ブレーブスの日本シリーズ優勝🏆️🥇(1977年)をテレビ📺️で見たシーンは、今でも覚えています。これが小学校2年(1978年)の4月から少年野球に入るきっかけになったと思います。
きっかけ素敵です!!
四球で福本が、出塁したら福本が盗塁。大熊が送って福本がワンナウト三塁。そして加藤が犠牲フライ。ノーヒットで一点。腹立つ程強かった。
経営の神様小林一三翁をもってしても中等野球もプロ野球の観客動員も阪神に敵わなかった。最大の誤算だろう。
上田監督といえばロッテの有籐監督と並びパ・リーグで喧嘩っ早いのでも有名。
阪急!待ってました!
ありがとうございます♪
喜んでいただき良かったです☺
山田加藤福本を獲得したドラフトでは
後の南海の大砲門田も
指名してるんですよね。
(但し入団拒否された模様)
もし門田さんも入団していたら
名球会入り4人ということに…:(;゙゚'ω゚'):
オリックスが出来た時に門田さんが移籍して来たのも不思議な巡り合わせでしたよね?
しかも最後はダイエーにも帰って行ったし…。
一応オリックスには居たという奇妙
@@金田一耕助-h5d 様門田さんは西宮球場では成績・相性がよかったので、南海がダイエーになって福岡へ移転発表後西宮を本拠地にそのままにしたオリックスに移籍しましたね。その後オリックスはチーム名そして本拠地を神戸しかも広い球場に移籍発表しましたので、「しゃあない最後のご奉公で狭い球場のホークスに世話になるか」といったかは知りませんが、狭い平和台球場が本拠地だったダイエーホークスに移籍して引退しました。広い球場でやる自信がなかったと思っても仕方ないかな、と。門田さんはもとは外野手ですが、昔、特に1980年代まで活躍した外野手は狭い球場が多かったせいか、守備並びに肩・遠投に不安がある選手結構いました。まぁバッティングさえよければの時代でしたから。
@@前田貴史-b9t さん
確かお子さんの教育問題もあって、単身赴任をせずに済む関西残留を選んだんでしたよね?
後年お子さん達も手が離れたので、それこそ最後のご奉公と福岡移転時の不義理の贖罪も込めて、ホークスに移籍したんでしょうね👍
福本さんの盗塁を見ていると、全力では走ってないように見える。
もっと盗塁数は伸びたように思える。
阪急が強すぎて前後期制が導入されたくらい。
近隣に阪神がなければもっと続いた、評価されてもいい球団。
選手だけでなく通訳の黒人の方(バルボン氏)も関西弁でキャラが立ってますた()
確かゼネラル ミンミンのエアコンのCMに出ていませんでした。「ワテのボスは上田!・・・。」
阪急は、厳しいし過ぎる研修が、お上品の原点。
近鉄、南海、阪急はいずれも関西の私鉄球団でかつ動画になるぐらいネタが豊富で面白い球団だと思います。
個人的にはロッテ、日本ハムの前身、そして埼玉移転前の西武は影が薄くてもっとよく知りたい球団です。パリーグシリーズの続編期待しております。
期待に答えられるように頑張りたいと思います!!
歴史を調べて見ると、パリーグには西鉄というチームに稲尾という凄まじい投手がいたそうですね。西鉄は福岡の会社ですが、ホークスではないのでどこの前身なのでしょうか。
@@jorgeshin1075 様今の西武ライオンズの前身です。1979年福岡から埼玉へ移転しました。西武は西鉄ライオンズ→太平洋クラブライオンズ→クラウンライターライオンズ→西武ライオンズ→埼玉西武ライオンズと変遷しています。西鉄からクラウンライターまで福岡が本拠地でした。稲尾投手は通算276勝記録した投手で西鉄時代に消滅した永久欠番の「24」が何年か前に今の西武の永久欠番になりました。ただ当の稲尾さんは亡くなられているので、本人登場のセレモニーはありませんでした。
@@前田貴史-b9t 西鉄は大規模八百長事件がきっかけで身売りされる羽目になったんだよね。
それで西鉄から西武までに何度かオーナーが変わっていてその間ずっとマウンドに立ち続けていたのが稲尾だけだったとか。
@@前田貴史-b9t
でも、埼玉を拠点にしてから良くなったよね。そこからV10を本当に成し遂げるのではないかと思われるくらいの強さを誇った黄金期に突入だもん。
小学生の時俺も含め皆が阪神ファンの中一人だけ阪急ファンの友達がいたな
彼は山田のサインを部屋に飾ってたな
ああアニマルは人気あったね 阪急はこういう選手(人気者)をもっととってくるべきだったね。そうしたら少なくとも身売りは免れた
この当時のパ・リーグはいつもお客様が入らずガラガラの状態で見るにも忍びなかったです。
1983年。その修学旅行で、神戸からのフェリーの出港まで時間が空いてたので、西宮球場行きましたわ。
四国の田舎の学生には、初めてのプロ野球で、嬉しかったのを覚えてます。
修学旅行で行かれたんですね!!すごいです!
予備知識なんて全くなく、選手も全然知らなかったけど、パ・リーグに興味を持つきっかけになりました。
@@glm795crp3dt パリーグってチケット取りやすいのか修学旅行のコースに入ることありますよね。
かくいう私も中学の修学旅行で日ハム戦観てファンになったくらいですからw
福本が馬と競争した時、西宮球場にいました。用意ドンで馬が前脚を上げて走らず、球場内は失笑でした。
その時福本さんと一緒に走っていたのは背番号「6」のバンプでした…。
簑田さんはフロントに抗議して参加しなかったんだよね🤔
阪急はブレーブスを売却したのに、結果的だったとは言え、別の人気球団の実質的なオーナー会社になった。
どう考えても納得出来ない。
阪神はそのままだと経営危機だった。その原因から知っておかないと。
近鉄の晩年の騒動も鉄道本体の赤字が1兆円以上だったから。
阪急の身売りは仕方無いが、付随とは言え阪神タイガースの実質的オーナー会社になった。
阪急を応援してる人間からしたら不快感でしか無い。
近鉄も身売りしてくれた方が良かった。
いくらバファローズ優勝と言っても、阪急ブレーブス後継球団。
近鉄ファンが気の毒過ぎる。
前身の阪急ブレーブスを知る選手は、現オリックスバファローズ監督の中嶋聡ぐらいですね(^_^;)
中嶋監督は1987年に阪急に入団した後のオリックスブルーウェーブの主力捕手で、1995年と1996年のリーグ連覇に貢献した名選手です。
もし阪急がこのとき身売りしてなかったとしても震災でかなりの負債抱えたから結局なくなってたんだろうな
加藤秀司が出されたのは、単に「峠を越した」と上田監督に判断されただけだと思う。
あの人は「伸び代無し」って判断したら、バシバシ首切るor追い出す人だからね。
後の日ハムでもやってる。
他、阪急身売りで重要なファクターは、他の動画でもカキコしてきたけど、
・阪急は中世みたいな封建一族経営。
・鉄道とか野球、デパートとか東宝とかセクション毎に担当が違い、それが固定化。まるでお役所。
・野球だと、初優勝時のオーナー(小林米三)に実子が無く、オーナー本人+養女+婿養子(公平)の家族。
・米三は初優勝の数年後に早世し、チーム黄金期は別の重職者が担当。
・月日が流れて、その婿養子(公平)がオーナーになるが、野球には興味無し。更には、黄金期を支えた重職者は全て会社から退場済(←これ大事!)。
・公平は野球に興味が無く、バブル時代に目が眩んで、大阪再開発の資金を欲しがり、邪魔者もいないので、さっさと身売りを決意。
って言う、お家騒動さながらの重大な真実がある。
要は、阪急みたいな一族経営で後継者不在は致命傷だから、もし米三に嫡男がいたらって思えてならない。
若しくは、米三が長生きして公平を廃嫡してたらってね。
無嗣でさえなければ、今でも阪急ブレーブスは健在で、合併騒動も無かったと思うのは自分だけ?
会社の格からしても、しっかり読売に意見が言える筈だしね。
巷間の不人気説は、作られた「誇張」。
色んな動画見てると、客入ってる日もあるし、有名人にも意外とファンいる。
阪神だって、読売戦以外はスカスカ。
セリーグ全体が読売におんぶにだっこで、読売戦以外の観客動員は決して誉められない。
あまつさえ80年代になれば、セパ人気格差も縮まり始め、今に至るからね。
最後は、ファンからも会社内からも出た「京都移転構想」を英断しなかったことかな。
どうせ修学旅行生に試合を見せるなら、京都の方が良い。西京極が近くにあるし、そもそも西宮とは知名度も、年間の人の集まりからしても全然違う。
封建王朝だから、移転もし辛かったのかな?
個人的な意見だと、西武が手塚プロ(レオライナ)とコラボしたように、阪急はエニックス(ドラクエ)とコラボすべきだったと思う。
「勇者」繋がりでね!
あの頃のドラクエは社会現象的人気だったからね。
鳥山明さんの描いた主力選手、往年の名選手のイラストを見たかったな。
とにかく本当に、惜しい球団だった…。
国鉄がJRに改編され
大阪〜神戸間の輸送競争に
本格的に参戦して来たことも
ブレーブス売却の理由かも知れませんね。
阪急・JR・阪神の3社が
互いに旅客を奪い合っている中で
JRが新快速でガンガン攻勢をかけて来て
私鉄の両者は対策を練らなければ
ならない状態でしたから
資金を確保のと将来球団維持の負担になる
金額を減らすに売却した
(当時球団経営は赤字が当たり前)
という側面もありそうな気がします。
@@矢田陽也
どうでしょう。
阪急の特急とJRの新快速は競合してるようで、微妙に担当地域を分け合って、事実上共存してるから、大した泣き所ではないんじゃないかな。
京都線はJRと比べて市中に行くし、神戸線は高台の高級住宅街を通るからね。
東海道新幹線と近鉄アーバンライナーが、意味合いが違うから併存してるのと同じかも。
そもそも小林一三は、国鉄と沿線が被らないように線路を引いたし、京都線は元々京阪を戦時中に買収したもの。
それに、公平が取りつかれた大阪再開発はバブルに乗じたもので、後にバブルが弾け、阪急は未曾有の、新快速なんか比べ物にならない大赤字になって、今尚阪急最悪の社長扱いされてる。
そもそも身売り自体、阪急社員ですら予想外で、異口同音におかしいと言われたからね。
又、当時の球団経営は、全盛期の西武ですら赤字で、堤のポケットマネーの充当でしのいでたからね。
加藤英司のトレードの交換相手は広島の強打者で後に打撃コーチの名伯楽となる水谷実雄です。その水谷は阪急に移籍1年目打点王獲得したが、2年目開幕戦で頭部デッドボールを受けその2年目で引退。そのあと打撃コーチとして前田智徳や中村紀洋、江藤智など育てている。
@@前田貴史-b9t
上田監督は選手の見極めが上手いよね。
加藤英司⇔水谷実雄の交換は、トレード一年目じゃ明らかに阪急が得してる。
それに、まだ阪急が強い頃、打倒読売を果たして早々に、島谷&稲葉(中日)⇔森本&戸田(阪急)って、伝説のワンサイドトレードやってる。
ハムの時は、西崎と奈良原(西武)だっけかな。
でも、加藤と水谷は二年目に逆転するよね。
加藤は一年で近鉄に出られて、慣れたパリーグで及第点以上に復活出来たのに、水谷は開幕戦で頭にぶつけられて、そのまま再起不能…。
あの年は阪急優勝して相手は広島。もし水谷が健在だったら古巣相手に凄かったかも。
加藤も水谷も40現役&2000本安打行ける器だけど、片や流転の身となって首の皮一枚でゲット。片や労災で詰み…。
加藤の方が強運だったんだろうなぁ。
@@nmpu6324 さん 指導者としては水谷さんのほうが圧倒的ですね。ダイエー、阪神、中日、広島など西側の全球団のコーチ経験したのでは?阪神を最後に今は隠居状態だったかと。
とにかく、関西はメディアが
異様に阪神中心の報道をして
阪急、近鉄、南海を無きモノとして扱ってたのがなあ。
テレビもラジオも阪神一色。
ラジオ大阪がバファローズナイターを放送してたが
オリックスと合併した後に
野球中継自体を止めてしまった。
大阪アンパンマン放送
大阪オウム真理教放送
大阪ベンケーシー放送
サンテレビも、かつては阪急・オリックスの試合中継をしていたが、オリックスが近鉄を吸収した数年後に、オリックスの試合中継から撤退。
阪急と南海がリーグ優勝を決める時の試合の朝の新聞で、
ノムさんが「さすがに今回はうちらが一面になるだろ」と思ってたら
「不振にあえぐ掛布、特訓!」が一面になってたので
「なんでや!」と思ったとか
そのくらい当時の関西は阪神一辺倒だったらしい
阪急ブレーブス子供の会の会員でした。
阪急グループで宝塚歌劇団とブレーブスがお荷物でどちらを切るかふるいに掛けられブレーブスが切られたのが真相では、無いのか?