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大木金太郎は大好きです!子どもの頃、家の柱に向かって頭突の特訓をしていましたおふくろに叱られたことが懐かしいですプロレス最強の打突技は頭突だといまだに思っている54歳のオヤジでした
すぐに段取りを忘れて、忘れるとひたすら頭突きに走る選手だった様で、レフェリーにえっと、次どうやったっけ?とか聞いていたみたいですね😀猪木戦がピークだったと思うが、ソウルで猪木は大木の顔を立てず血だるまにして足四の字から引き分けという酷なことを大木にしました。ワールドリーグでの坂口とのノーコンテスト連発は果たしてどこまでがアングルなのか?判らないくらいの迫力がありました。全日では、ダクとのコンビでインタータッグ奪取した試合は良かった。
OHKI Kintaro(KIM il) is a SEXY Gentleman.
大木1973年時点で40歳(実年齢44歳)。
テレ朝チャンネルのアーカイブ番組で猪木さんと大木さんの試合を観た時試合後感極まった2人が健闘を称えるシーンが印象に残ります。逆に坂口さんと大木さんの試合はプロレスというかけんか腰というか色々とあったようで汗
個人的にはソウルでの猪木との血ダルマインター防衛戦と戸口とタッグでインタータッグ奪取が大木のハイライトだったと思います。
パッチギって言う言葉はこの方のためにあるような感じがしますね(笑)頭突き以外にもX固めも得意技で、国際プロレス時代のタッグ戦での、ジプシージョーへのラッシャー木村氏との合体ヘッドバットが印象に残っています。
大昔、大木vsブッチャーの頭突き世界一決定戦なる試合を見た記憶がある
日本プロレスの永源遥と国際プロレスのミスター珍…
自分で絵を書けないから上手な絵師に書いてもらっていたのに、作風の違う絵師に走り軽いタッチで書かれ多くの作品の中に埋もれてしまった……
永らくプロレスマットでは「どれだけ実力者でも坊主頭ではトップに立てない」ジンクスが有った。大木もその一人。ジンクス打ち破った武藤は偉大だ。
武藤は坊主ってゆうか・・
ワールドリーグ戦で猪木に勝ち、チャンピオンカーニバルでは馬場にフォール勝ち、アジアタッグ、インタータッグ、アジアヘビー、インターヘビー、実績はあるが団体のエース、メジャーなチャンピオンにはなれなかった!
大木の一本足頭突きは藤原喜明神取忍がやってるが他やってるやつは最近見てないから知らん
後年は糖尿病で苦労されたとか・・・
毎回、出展を明らかにした、懐かしい考察楽しく拝見しております。0:40 エリックとの血だるまの試合は子供心にも怖かったです。猪木との一戦は未だに私のナンバーワンです。試合後に二人が抱き合って涙した感動、忘れられません。坂口戦後錯乱して「分からない、ワカラナイ」と呟く姿もやはり怖かったです。それに対し馬場戦のつまらない事。これをきっかけに私の馬場猪木の序列が変わりました。晩年は国際にまで流れ、なんだかなぁ…という印象。頭も身体も考え方も、固い硬い堅いヒトだった様で、残念です。
ご返信遅れました。ありがとうございます。
@@user-tk7tc5wb9h いつも感心と懐かしさで見ています。当時のゴンドラやプロレスアンドボクシングの記事も、懐かしいです!これからも楽しみにしています。
大木は1975年の馬場戦の時点で46歳。78年くらいになると動きが急速に衰えました。つまりは年齢的な問題ですね。全日本でもいい戦いは示していたし、特に大木ドク対馬場鶴田は、日本マットにおける最初の「軍団抗争」といえますし、このカードをメインにした日大講堂の興行が、同日の新日本の蔵前を動員で上回ったことがあります。
蔵前に16500人ってのが草w過大誇張は見栄っ張り猪木新日の専売特許。それを後押しする鈴木庄一ww
現在45000人程度とされるプロ野球開催時の東京ドームですら55000人とか60000万人とか言われていた時代があります。客席後ろのコンコースもびっしりだったもんです。プロレスにおいても例えば後楽園で3000人とかね。日本武道館ですら16000人は入れないでしょうしね。それは全日、新日に問わずだと思いますよ。3000人はオーバーにしても消防法が厳しくなる以前の後楽園ホールや当時の映画館等は途中でトイレには行けないほど通路や階段もぎっしり客入れしてたのも事実ですよね。全日と新日のどっちが客入ってた?と問われれば皆さん、新日だったよなって言うのも確実な時代だったでしょ?現代に全日だ新日だと争うことよりも、当時を知っている限り、出来るだけ正確に後世に伝えたい気持ちが強くなる今日この頃であります。
何故?大木だけ、塩分強めだったのか?
あばれる君に似てる…
大木金太郎は大好きです!
子どもの頃、家の柱に向かって頭突の特訓をしていました
おふくろに叱られたことが懐かしいです
プロレス最強の打突技は頭突だといまだに思っている54歳のオヤジでした
すぐに段取りを忘れて、忘れるとひたすら頭突きに走る選手だった様で、レフェリーにえっと、次どうやったっけ?とか聞いていたみたいですね😀
猪木戦がピークだったと思うが、ソウルで猪木は大木の顔を立てず血だるまにして足四の字から引き分けという酷なことを大木にしました。
ワールドリーグでの坂口とのノーコンテスト連発は果たしてどこまでがアングルなのか?判らないくらいの迫力がありました。
全日では、ダクとのコンビでインタータッグ奪取した試合は良かった。
OHKI Kintaro(KIM il) is a SEXY Gentleman.
大木1973年時点で40歳(実年齢44歳)。
テレ朝チャンネルのアーカイブ番組で猪木さんと大木さんの試合を観た時試合後感極まった2人が健闘を称えるシーンが印象に残ります。逆に坂口さんと大木さんの試合はプロレスというかけんか腰というか色々とあったようで汗
個人的にはソウルでの猪木との血ダルマインター防衛戦と戸口とタッグでインタータッグ奪取が大木のハイライトだったと思います。
パッチギって言う言葉はこの方のためにあるような感じがしますね(笑)
頭突き以外にもX固めも得意技で、国際プロレス時代のタッグ戦での、ジプシージョーへのラッシャー木村氏との合体ヘッドバットが印象に残っています。
大昔、大木vsブッチャーの頭突き世界一決定戦なる試合を見た記憶がある
日本プロレスの永源遥と国際プロレスのミスター珍…
自分で絵を書けないから上手な絵師に書いてもらっていたのに、作風の違う絵師に走り軽いタッチで書かれ多くの作品の中に埋もれてしまった……
永らくプロレスマットでは「どれだけ実力者でも坊主頭ではトップに立てない」ジンクスが有った。大木もその一人。ジンクス打ち破った武藤は偉大だ。
武藤は坊主ってゆうか・・
ワールドリーグ戦で猪木に勝ち、チャンピオンカーニバルでは馬場にフォール勝ち、アジアタッグ、インタータッグ、アジアヘビー、インターヘビー、実績はあるが団体のエース、メジャーなチャンピオンにはなれなかった!
大木の一本足頭突きは藤原喜明神取忍がやってるが他やってるやつは最近見てないから知らん
後年は糖尿病で苦労されたとか・・・
毎回、出展を明らかにした、懐かしい考察楽しく拝見しております。
0:40 エリックとの血だるまの試合は子供心にも怖かったです。
猪木との一戦は未だに私のナンバーワンです。試合後に二人が抱き合って涙した感動、忘れられません。
坂口戦後錯乱して「分からない、ワカラナイ」と呟く姿もやはり怖かったです。
それに対し馬場戦のつまらない事。これをきっかけに私の馬場猪木の序列が変わりました。
晩年は国際にまで流れ、なんだかなぁ…という印象。
頭も身体も考え方も、固い硬い堅いヒトだった様で、残念です。
ご返信遅れました。ありがとうございます。
@@user-tk7tc5wb9h いつも感心と懐かしさで見ています。
当時のゴンドラやプロレスアンドボクシングの記事も、懐かしいです!
これからも楽しみにしています。
大木は1975年の馬場戦の時点で46歳。78年くらいになると動きが急速に衰えました。つまりは年齢的な問題ですね。全日本でもいい戦いは示していたし、特に大木ドク対馬場鶴田は、日本マットにおける最初の「軍団抗争」といえますし、このカードをメインにした日大講堂の興行が、同日の新日本の蔵前を動員で上回ったことがあります。
蔵前に16500人ってのが草w
過大誇張は見栄っ張り猪木新日の専売特許。それを後押しする鈴木庄一ww
現在45000人程度とされるプロ野球開催時の東京ドームですら55000人とか60000万人とか言われていた時代があります。客席後ろのコンコースもびっしりだったもんです。プロレスにおいても例えば後楽園で3000人とかね。日本武道館ですら16000人は入れないでしょうしね。それは全日、新日に問わずだと思いますよ。3000人はオーバーにしても消防法が厳しくなる以前の後楽園ホールや当時の映画館等は途中でトイレには行けないほど通路や階段もぎっしり客入れしてたのも事実ですよね。全日と新日のどっちが客入ってた?と問われれば皆さん、新日だったよなって言うのも確実な時代だったでしょ?現代に全日だ新日だと争うことよりも、当時を知っている限り、出来るだけ正確に後世に伝えたい気持ちが強くなる今日この頃であります。
何故?大木だけ、塩分強めだったのか?
あばれる君に似てる…