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私は中世の研究を在野で続けているのですが、最近、古代も面白いな〜と思い始めています。お話し、大変勉強になりました。富雄は直ぐ近くなので、このような発見があり、驚きました。出土品と神話がある程度一致するというのも、凄い事ですよね。
コメント有難う御座います。僕も最近特に中世文化の複雑さに興味が尽きません!古代と中世をつなげて、何かお気付きのことがあれば是非教えて下さい☆
長江文明が、長江の大洪水(多分ヒマラヤの巨大氷河湖の崩壊)で滅んだあと黄河文明が、長江文明の遺民を滅ぼした。蚩尤の伝説は、最たるもの。四散した長江文明の遺民は、一部日本にも渡って来た。彼らは、水運・舟運に優れ操船能力にも長けていた。史前帰化植物で江南起源のものは多くこの時に持ち込まれた。考古学者は、演繹的にものを考えない。だから、新しい証拠が出る度に右往左往する。木造船は、海岸に放置されると船虫の餌食になり消えてしまうのだよ。沈没船が出れば別だけど。愚かにも、生口百数十人を丸木舟で送るとはあり得ない話だよ。変だと思わない考古学者!!!
私は、九州の福岡県に在住してます♪私もこのニュースが数日前から話題になってるので、とても興味深くみてます。九州には神武東征に関する、伝承や記録、神社、縁の地名と共に大和朝廷が九州の熊襲を征伐に来た伝承が多く残ってます😊今回の発見は歴史ファンにはたまらない、内容です😊私も長髄彦と関係があるのではと直ぐに思いました。九州からでも飛んで行きたい気持ちです😮大変わかりやすい情報ありがとうございます🌼私は還暦過ぎてますが、貴方の様な若くて素敵な青年が歴史を熱く語ってくれる姿に感動しました。奥様と仲良くお幸せに❣️
コメント有難う御座います。福岡県は古代史の宝庫ですね、羨ましい!僕は九州王朝説にも影響されてますので、またその辺りのことも動画にしてみます。また見て下さい☆
お返事ありがとうございます♪😊いつかご案内させて頂きたいですね❣️私は炭鉱で栄えた筑豊の生まれですが、鹿児島と宮崎の県境いた熊襲が逃れ逃れてこの地で終焉を迎えたという伝説や神社、仏閣の縁起が数多く残ってます😮元々長年看護師をやってましたが 定年後ひょんなことから地元の門徒総会門と宮総会、ちいきのFNラジオで二時間づつお話し会をする様になりました😊番外編でこの古墳のことも話そうかと思っています🌺♬
すばらい!是非この機会にみんなで古代史を盛り上げましょう^_^!
日本の古代史熱く語ってるのに胸にUSAで草
長髄彦の妹と饒速日命の子の子孫が物部氏であり、物部氏の本拠地が生駒山でしたよね。
おっしゃる通りです!面白い所から面白いものが出ました!いま岡山でも巨大古墳を掘っていますから、令和の考古学から目が離せませんね!
真実は全く違います。ニギハヤヒは徐福が九州で自称。同じく出雲で自称したのが彦ホアカリ。ニギハヤヒ(徐福)が大和に降臨したのではなくてニギハヤヒ(徐福)と宗像の市杵島姫命の御子、彦ホホデミ(物部王家の祖)の子孫、物部王家が大和に約百年三世代を隔てて二度侵攻した。初回をニギハヤヒ(物部王家軍)の降臨にこの際、同祖(徐福)親戚の海(あま)大王家のフトニ大王(孝霊)や大彦(太子。古事記はナガスネヒコに改ざん)王族の尾張家、海部家、副王家で出雲神族(出雲王家の分家)磯城の登美本家等が大和から一掃された。しかし、物部王家軍を進退に窮まっていた熊野から道案内をした大和王国の裏切りモノ。登美家の河内の分家、太田多祢彦(太田田根子、八咫烏)がちゃっかり大王に即位した。クーデターに成功。物部は大和を席巻はしたものの老練で狡猾な出雲族(孝元天皇や姫巫女の百襲日女命ら)にマンマと懐柔され丸め込まれて平定には至らず、、、大和入り(侵攻した)物部軍の半数が九州に帰郷したらしい。また、大和侵攻で主導権(物部王家軍の総帥)を握ったのが(古事記の編纂時代に)物部兄弟のどちらかが不明だった為に創作したのがウマシマジ。二度目は物部王家の神武、、、物部イクメ大王(系図上は垂仁天皇)が出雲、吉備、大和、他を下して一応の全国制覇を果たして統一物部王朝を大和の和邇に樹立(石上神宮は物部大王宮跡。武器庫を備えていた)
@@森岩光 すみません、その内容の論文や本を出してる人とかいますか?興味があるので読んでみたいです。
@@RR-pm8ie 元出雲王家、富家さまが二千年のタブーを破り(戦後、自由な発言が可能な世の中となった事から)一子相伝の口伝を出版社(大元出版)を立ち上げ年代毎に分けて書籍の形で公開しています。約四千年前のインドからの渡来。そのリーダー(王様)や経緯と理由(アーリア人のインド侵入)、渡来経路~出雲に定住化した理由。~紀元前660年頃に周囲から推戴された菅の八耳命の大穴持(帝。主王)即位による我が国初の王国、出雲王国の成立。、、、
このチャンネルでは【第15回】古史古伝と丹波という動画で、いわゆる富家伝承の書籍を紹介しています。よかったらご覧ください^_^
さぁまた出てきましたよ、木棺が‼️大丹波さんの出番です!
‘出雲族も無視できない。富(とび)という地名は今も出雲にあって出雲族の中心地。出雲族が中心となって大和王国を作った。
トビは古代史のカギを握っていますね!間違いなく☆トビ王家の封印を解きましょう!!
出雲には、中国江南地方の影響が見て取れる!高度な木工製品の形状など明らかだろう!対馬暖流に乗れば、一週間もあれば日本に来ちゃうんだから!
すごいのが出ましたね。奈良のTVニュースで見て来ました。明日明後日、一般見学ですね。 🎉
令和の考古学が動きましたね!今丹波は雪がすごくて、雪かきばかりでとても奈良に行ってる場合でなくて、皆さんが羨ましいです!
この動画凄い事言われていますね?チャンネル登録しました。胸が熱くなりました。ニギハヤ(物部氏)大変興味あります。
有難う御座います^_^僕も大きな考古学発見は見ていてゾクゾクします!
さっき現地で聞いた話では、4世紀ごろの古墳ということだから300年代。中国だと八王の乱から司馬睿の東晋、日本だとヤマト王権の最初期ぐらい?富雄丸山から矢田丘陵を越えると、平群の領域。南に行くと巨勢、葛城。矢田丘陵の東一帯は富雄、登美ヶ丘、鳥見とトミの地名が続く。坐神社のある三碓、「みつがらす」と読むのは、3つの碓「からうす」があったから。「みつからうす」→「みつがらす」に転訛した。富雄丸山から少し矢田丘陵に入ると、饒速日命が放った三本の矢の内、三本目の矢が落ちた所という伝承の「三矢の塚」がある。あとは、一部オカルトマニアの間で有名な白高大神。
鳥見山に卑弥呼が夏の居住に住んでいたとか。リモートビューイングですが、マクモニーグルの。
早速の現地情報!恐れ入ります!丹波は今大雪で、一日中雪かきと仕事で、しばらく奈良に行けません笑汗岡山でも発掘してるようですから、これから面白くなってきそうですね^_^☆
ちょっと調べていて富雄を支配したのが物部氏で、被葬者は物部一族である可能性が高いことがわかりました。物部氏は軍事氏族であり、石上神社で剣を神宝として祭ったりしていました。日葉酢媛命の陵墓とされる佐紀陵山古墳と同時期なので、垂仁朝の人物であることがわかります。ここまでくると、もうぴったりする被葬者は物部十市根くらいしかいませんね。【参考になる記事】「エナガ先生の講義メモ」久志玉比古神社の参道⑤富雄丸山古墳(奈良市・丸山)久志玉比古神社の参道④登弥神社(奈良市・石木町)久志玉比古神社の参道⑩饒速日命の墓(生駒市・上町)
考察コメント有難う御座います!僕もまずは物部系の人が浮かびましたが、もう少し色々考えてみようと思っています☆確かにあの服装品は物部十市根クラスに相応しいですね!!
楽しく視聴させて頂き、有難うございました。西暦300年頃、奈良盆地の湿原に生える葦の根に付着する湖沼鉄目当てで、渡来系弥生人達は北部九州から移動して来たと思っております。鉄は農耕具や治水事業には必要不可欠です。恐らく纏向遺跡も西暦300年以降の築造でしょうな!その50年後には 奈良も豊かになり 石上神社の七支刀や蛇行剣が、祭祀刀として重用されるようになったと思っております。
コメント有難う御座います◎北部九州などの遺跡を見れば、纏向遺跡が日本の中心と考えることには無理がありすぎますね☆
@@nakabunken さん 3世紀頃の奈良には 北部九州を玄関口として魏の国と国交があったとは考え難いです。邪馬台国の時代は 山陰北陸地方の文化圏だったと思います。
同感です^_^☆
出土品をテレビで見て、十戒石板とアロンの杖かと思ってしまいました。✨最近、富が気にかかっています。徳島県那賀(ナーガ)川の富(トミ)→中臣富長(ナーガ)髄彦浦島太郎神話や八尾比丘尼、天の羽衣神話、高橋長者、土御門家‥海部と忌部は同盟関係だったので大丹波と阿波は繋がりがありそうです。
モーゼの墓ですか!
トミへの探求は日本の歴史の真相への旅ですよね!また僕も私見をアップしてみますので、ご意見下さい!
楽しみにしてます。
十戒、アロンの杖は、モウゼがもらった、物の元祖に通じます!この発見は、日本が世界文明の発祥地に繋がるのを証明しています!大変貴重な超古代史の歴史が日本だと判明した証拠です。
ナーガってインドの蛇だぜ!
マジいいチャンネルだね。
マジ嬉しいコメント有難う御座います(ToT)
あたしも、気になってました。富雄から出たんだ…何かがかわるかも知れない
僕もです!何かが変わるんじゃないかと期待しています☆
蛇行剣は南九州の山中、熊襲が居住していた地域が中心なようなので、物部や長髄彦ではなく、熊襲・隼人の豪族じゃないですかね
熊襲や隼人が江南民都直接交流していた可能性があるよ。後に坊の津から遣唐使が中国に渡ったくらいだから。江南民は、水運・舟運に長けていたから日本に来られないわけがない!
十種の神宝かな
縄文時代から続く狩猟技術の弓矢がヒントで長野県の黒曜石に代わるサヌカイトが奈良県で採れた為この地に強力な集団が住み着いたのだと思います。私はナガスネヒコ=建御名方(又は建御名方の子)説を信じていて両方とも最強の武人、軍神とされています。長野県の白山信仰(龍神信仰)、長野県北部に三ヶ所ある建御名方富別分神社その内一ヶ所は神仏習合時代には善光寺の中にありました。善光寺の秘仏は仏教導入反対派の物部氏が海に捨てた仏像で後に善光寺は物部氏が封印された場所であると思っています。越の国(新潟県)のヌナカワヒメを母に持ち大国主が父の建御名方は出雲族、建御名方の子供も多く各地の発展に寄与したと聞きます。話がそれましたが弓矢が得意な集団として長野県北部から奈良へ移住した集団説を唱えたいと思います。
長野から奈良へ来たんですか!
コメント有難う御座います!ぼくもかねてから長髄彦≒建御名方富命と考えています^_^いわゆる出雲王家本流のトミ(トビ)家は龍蛇信仰の縄文出雲族で、日本各地にその足跡が残っているとよく感じています!
差はサブさ平原リバリバしほ平、しばしば、さらしします。!です。!ですけど?ですランができます?ですね。!ですラン!ですけどね!ですランですラン。!ですけど。!ですけど!ですランにしますは明日ですね?ですけどですランが鳴くから、差は粗佐橋はです。!ですラン。!にぬなななぬななななななにののにぬねなななねななにななぬなななねななねにに。
数年前に無くなった竹内睦泰さん(73世武内宿禰)が、南朝天皇家に口伝で伝わる記紀の解説やその他歴史のお話は、RUclipsにもまだ残っていて、大変面白いですよ!考古学と神話の橋渡しになるような口伝の存在も有意義だと思います(大切なことは文章に残さないのだそうです)
出雲口伝の通り過ぎて驚きましたね
出雲口伝は面白いです!^_^
登録とTwitter共有させて頂きました!!古代史の大きな謎に迫る大発見となりそうですよね!
どうも有難う御座います!謎に迫る一方で謎が深まる感もあって、いずれにしても、これから面白くなりそうですね!
学者の先生がた説は、抹殺されました
出る度に右往左往は見っともない。もっと、世界的視野で考古学をとらえることはできないものかね。特に中国江南地方との関係を含めてさ。鳥居、千木、高床式建物。全部江南起源だよ!!!史前帰化植物も洗い直すべきだ。何でも半島経由ではないよ!!!
女子アナの例えとても分かり易いですね😂よく富雄は食事をしに行きますが、歴史のある場所なんですね。
有難う御座います^_^とてもディープな場所だと思います☆
はじめまして失礼します 妄想ですが 剣を大きく作りすぎて 奥行きや幅が足りずに折り曲げていれたのが蛇行剣 状況想像すると吹いてしまいました
「斑鳩に眠る貴公子」って本知ってますか?おススメです。あの当時の装飾品としては最上級のが写真付きでのってます。
藤ノ木古墳ですね^_^☆その本自体は読んだことはないですが、当時の遺跡カタログで楽しんでいます◎
大和は5世紀ごろまで竜田道と大阪道、水越道が自由に使えなかったので(物部氏の本拠地である事とと 葛城氏の本拠地であったので)…となると大和が航路を確保するには 日本海ルートが必要になる。その為 大和は 丹波とかなり姻戚関係を結んでいる。開花天皇は竹野比売(丹波大県主の由碁理の娘)と婚姻。これは古代天皇の系譜で地方豪族と その娘が出てくる最初の例で知られている。峰山から北の方へ竹野川という川が流れている辺りの豪族さん。開花天皇と竹野比売の間に生まれた子が、比古由牟須美 またの名を美知能宇斯王。また その妃が河上摩須郎女。丹後の西に川上谷川という久美浜町を流れている川があり その地域を抑えていたのが この一族。その2人の間に生まれた比婆須比売は 垂仁天皇の妃の1人になった。また 別の所伝では 丹波美知能宇斯王の父・日子坐王と意祁都比売命の間の子供の1人が 山城之大筒木真若王(父か兄は大筒垂根王)。丹波からやってきた女性(阿治佐波比売)との間に生まれたのが迦邇米雷王。この人の妃も丹波からやってきた女性(高找比売)。こんな風に系図を見ていくと、丹波と山代は関係が深いのが見て取れる。倭国から山代をへて久我國から桑田か亀山(現在の亀岡)へのルートを辿って行くとおのずと 行き先が丹波になる。大阪湾へ自由に行けないとなると 倭国にとって丹波への道は なくてはならない物だったのだろう。それを考えると 出雲と繋がる丹波の力は かなり大きかったんだろな…と思う。
コメント有難う御座います、僕も日子坐王については色々と調べ歩いています☆丹波道主王や迦邇米雷王なども合わせてまた動画にしてみますね!
@@nakabunken 楽しみにしています。
長髄彦の生きていた時代と、富雄丸山古墳の時代は、全く合わない。3世紀から4世紀にかけての古墳であれば,景行天皇から 成務天皇の時代。丁度日本武尊が活躍した時代。そして、円墳と言う事は、吉備との関係が非常に強い。当時、日本武尊をはじめとして、4名の将軍が居たとされている。四大将軍と言う彼らの中で吉備に最も縁が深い人は、吉備武彦・・・彼は、日本武尊の目付け役として従者として各地に転戦している。かなり武勇に優れた人物で、吉備地方を後に治める吉備氏のもとに成る。当時、都が琵琶湖ほとりに有ったことを思えば、大和の地を天皇に変わって治める事が出来る人物の墓だったのだと思う。
長髄彦=大彦 言わば重複してる人物ですねそれと記紀が必ずしも時代通りに書いているとは限りませんよ
最近奈良の丸山古墳で発掘された237センチの蛇行剣。10kmぐらい西に、石切劔箭神社っていう神社があります。もしかしてと思ったのですが石を切る道具であれば、あの長さもうなづけます。当時、古墳や石棺を作っていた時代だとすれば蛇行剣はそういう石切劔の道具だったりしたりしてと思いました。
ホツマツタエの中にアマテル神の時代、「反乱軍(ハタレ)に鏡を向けると憑依した動物霊を除くことが出来た」旨の記載がありますが、今回の盾形銅鏡にその伝承が鋳込まれているのではないかと思いました。出土品から大和天皇家ニギハヤヒの子孫で軍事部門を担った物部一族の陵墓であることにおそらく間違いないでしょうね。
そうなんですね!ホツマ読み直します^_^皆様の考察がとても参考になります☆有難う御座います◎
ナガスネヒコとニギハヤヒのこの時代の移り変わりは古事記で編纂されているので、興味深いです^^
やっぱりこの二人(二神)にもっと注目すべきですよね^_^とても興味深いです!
蛇行剣、ファイナルファンタジーに今後出て来るな。
確かに笑!もっと日本の古代の文物をゲームに出して、古代史ブームを起こしてほしいです(^^)!
初めて拝見しました。なるほどなるほどと楽しめました。登録させてもらったし、他の動画も拝見します。
有難う御座います!下手な説明が多いですが少しずつ頑張ります!
良い動画をありがとうございます。超豪華な副葬品です。古墳時代前期後半(4世紀後半)の古墳ですから、この時代の大王かそれに次ぐ人物のものです。被葬者を考えてみました。よろしければ「刮目天ブログ 富雄丸山古墳の被葬者は?」をご参照ください。
コメント有難う御座います!是非拝見させて頂きます!!
@@nakabunkenさん、早速いいお返事感謝します。通説と違いますので、いろいろ疑問点がわくと思います。遠慮なく質問していただけると研究が進みます。どうぞよろしくお願いいたします。(^_-)-☆
当時は本名は知られちゃいけないので(千と千尋の湯バーバみたいな話だが)、ほとんど役職名や死後にについた名前、同一人物で何個も名前がある。先祖(神)の魂を引き継ぐという考えなので、複数の先祖の魂を引き継いだ人は特に名前が多い。日向、出雲、ヤマトは同族で、鬼海カルデラの破局噴火で西日本は壊滅、その後寒冷化で関東、東北から再入植した人たちで元の中心地は鹿島、香取神宮の常陸(勾玉の継承者)神武東征の前の世代は出雲の勢力が強かった。ナガスネヒコは大和の統治王、ニギハヤヒはスサノオウの4男だが、母系はツクヨミ(古代ユダヤの渡来人、お稲荷様)でナガスネヒコを屈服させたが、出雲がスサノオウ系とツクヨミ系で分裂して勢力が衰え、ヤマトに残った出雲系もニギハヤヒが高齢化するとナガスネヒコ派が巻き返した。ここで誓約(政略結婚)で出雲と休戦した日向(天孫降臨派)が巻き返して、出雲を掌握、ヤマトとも政略結婚(相手は宗像三女伸(3柱の神を引き継ぐもので一人)の孫娘で後世に伝わるかぐや姫)で統一予定だったが、ナガスネヒコ派は反対で出雲派(八咫烏)が神武に協力する。
神話と考古学と出土品➡証拠物件の年代測定による裏付け?が史実を確定させるのかな~?マスコミの発表でワクワクしています🎵
令和の考古学に期待しましょう^_^☆
富雄丸山古墳近くの神社や武乳速を調べると面白いですよ。三羽烏の話し(大国主と少彦名の伝説)も出てきます。意冨氏、物部氏、海部氏、和邇氏この辺の人物が埋葬者かと思います。
ニギハヤヒはイワレビコの軍門に降っているから、そういうことなんですかね🤔
ナガスネヒコは要するに九州から東進してきた天皇家・大和王朝以前に奈良県や近畿地方を支配していた王朝のことやね。
大体そういう認識です^_^☆
富雄、、、もう富王としか聞こえない(-_-;)ナガスネヒコしか思い浮かばない~
見っかっちゃった!現地へ急げ( ̄□ ̄;)!!え?ナガスネヒコのお墓でしたか!丹波篠山と言えば、宇野正美!
現地に行きたいのですが、丹波は大雪の関係でそれどころじゃなくて残念です笑
令和の女子アナと昭和の女子アナwwww
土器でどっちが古くてどっちが新しいかは分かるけど絶対年代は炭素年代測定法じゃないとわからないんじゃないですかね?
コメント有難う御座います。絶対年代はやはり確かな墓誌銘がないと無理ですよね。炭素年代や年輪年代も条件がありますし、年号鏡も遺跡年代とはズレがあるとされますので、何ともはがゆいとこですよね!
蛇行剣は2m越えという事で祭祀用とされてるが、棺の長さは5mという事は、もしかしたら巨人族の墓ではないか?この地域に居た長脛彦と言う名からもわかるように大男という事が示唆され、巨人族がいたのかもしれない。2mの剣は巨人族からすれば普通の長さなのかもしれない。
ナガスネヒコは孝元天皇の息子さんで時代が合わないのとナガスネヒコは物部嫌いで物部が信仰する鏡は持たなかったそうですよ
プリウスの例えはいい得て妙ですが、女子アナは見分けつきますかね?🤣
スイマセン!女子アナさんに失礼でした(^^;;
やはり物部系ですよね~古神道とユダヤが繋がればたのしいなぁ~と思ってました。あれは盾ではなく石板にしか見えない✨あの大きな剣は川?蛇?竜?何の象徴かしら✨
コメント有難う御座います◎僕もあの出土物は出雲族と物部族の文化がミックスされている感を感じました^_^
@@nakabunken こちらこそありがとうございます。スサノオノとニギハヤヒの関係が旧事記をちゃんと読んで無いのでいまいちピンとこないんですよね。どちらにせよあの遺跡はめちゃくちゃ興奮致しました✨
長江文明の遺民が持ち込んだ道教の影響は、古代日本人が桃を大事に扱っていたことでも知られる。卑弥呼は、明らかに道教的巫女!
神功皇后の時代の古墳なので長髄彦なら応神天皇と神武天皇同一説じゃないと…。敗者の長髄彦の古墳が築造されたとも考え難いです。やはり建振熊命当たりが妥当なのではないでしょうか。
それが真っ当な考えだと思います^_^
もしかしたら剣と鏡はオリハルコンではないかと。
俺は奈具遺跡の結果を見て見たい。豊受の大神がたどり着いたって言われている奈具って言う地名。
目の付け所は素晴らしい。長髄彦は大国主命です。大国主命勢力は中国漢の時代に追われて九州日向高千穂に移り三代渡を経て、北九州の邪馬台国を避け出雲から丹後そして畿内に入った最初の王です。平和的に近江、河内、吉備、などと連合政権を立てていた。高句麗から南下した東川王が邪馬台国を倒し東遷し、長髄彦に戦いを挑むが連戦連敗、東の熊野に回って戦うも勝てず。しかし長髄彦の妹婿・饒速日が裏切り長髄彦を殺し東川王勢力を迎え入れる。これを「大国主命の国譲り」という。日本書紀はこの2人を神武天皇として神話の中に隠したのです。小林恵子氏の「日本古代史全9巻」第1巻をご参照下さい。モヤモヤが晴れるでしょう。この東川王から前方後円墳が始まります。これは半島の方墳と列島の円墳をくっつけて両国で王となったという意味です。魏から晋そして五胡十六国の乱世の時代、半島や中国北部から次々と王がやって来たのです。日本書紀はそれを隠し、今でも前方後円墳を宮内が発掘させない理由なのです。日本書紀の中で堂々巡りしてはいけません。だから大国主命はヤマト王権に祟るのです。ヤマト王権は出雲大社を建てて祟りを鎮めたのも長髄彦(大国主命)政権を簒奪したからです。
コメント有難う御座います、勉強になります^_^☆詳しい方に丹波を見ていただきたいです◎
こんばんは
こんばんは^_^!
令和の女子アナと昭和の女子アナw たしかにわかるww
話ええねんけど、着てる服!
確かに笑!お手柔らかにお願いします♪(^^)
これ奥さんが聞き役してんのかな?そうだとしたら奥さん偉いわwww
嫁です!半分寝てます!
奥さん大人ですね。この話の受け皿になるのストレス溜まる(^_^*)
放射性炭素年代測定法で科学的に時代を特定してるんじゃないの?
丸い古墳というとなんか九州とか吉備かと思ってしまうけどなあ
田中英道先生がユダヤ人渡来説の論陣を張られていますが、どう思われますか。ぜひビデオを作ってください。
ニギハヤヒは徐福(紀元前3世紀~4世紀の人。皇室にも繋がる)が九州で自称した名前。また、彼と宗像の市杵島媛命の御子、彦ホホデミ命~が物部王家。徐福が自ら王となる野望を抱き果たせなかったのを数百年を経て一応の全体制覇を果たして大和に物部王朝(垂仁~成務の三代)を樹立した。これをイザナギの国生み。天孫降臨~神武東征、神武の即位。ヤマトタケル神話(征服王朝の物部王朝に服従する者は少なく四六時中各地に反乱が頻発した。あまつさえ、三代目の成務は戦死してしまい王朝は瓦解、滅亡した。これを古事記は創作(捏造)したヤマトタケル一人に押し付けた。)
私の祖先は伊加利姫=井光姫になり、饒速日から天香具山命が生まれ、その子の天村雲命と伊加利姫の間に椎根津彦=倭国造となっていくところまで分かったのですが、その後伊加利姫の子孫の中には例えば天皇に妃として嫁いで生まれた子が天皇になった人とかいるのか、椎根津彦から下がよく分かりません。もし分かる方がいらしたら、椎根津彦から下にどんな人物がいるのか教えて頂けたら幸いです。
長浜浩明、竹田恒泰さんが神武天皇は紀元前後のせいぜい1世紀に即位と。で、戦った長髄彦の古墳が4世紀以降とは、整合せず基本的にムリな話です。
ウラ一族。
古代は海洋ルートと港と河川に従い文明と年は栄えた!また人も定着した!
丹後地方には出雲系氏族も多い事やろうし浦島太郎のモデルの浦嶋子の伝承になった海部氏所縁の史跡も在るんとちゃう?🤔
私は中世の研究を在野で続けているのですが、最近、古代も面白いな〜と思い始めています。お話し、大変勉強になりました。富雄は直ぐ近くなので、このような発見があり、驚きました。出土品と神話がある程度一致するというのも、凄い事ですよね。
コメント有難う御座います。僕も最近特に中世文化の複雑さに興味が尽きません!古代と中世をつなげて、何かお気付きのことがあれば是非教えて下さい☆
長江文明が、長江の大洪水(多分ヒマラヤの巨大氷河湖の崩壊)で滅んだあと黄河文明が、長江文明の遺民を滅ぼした。蚩尤の伝説は、最たるもの。四散した長江文明の遺民は、一部日本にも渡って来た。彼らは、水運・舟運に優れ操船能力にも長けていた。史前帰化植物で江南起源のものは多くこの時に持ち込まれた。考古学者は、演繹的にものを考えない。だから、新しい証拠が出る度に右往左往する。木造船は、海岸に放置されると船虫の餌食になり消えてしまうのだよ。沈没船が出れば別だけど。愚かにも、生口百数十人を丸木舟で送るとはあり得ない話だよ。変だと思わない考古学者!!!
私は、九州の福岡県に在住してます♪
私もこのニュースが数日前から話題になってるので、とても興味深くみてます。九州には神武東征に関する、伝承や記録、神社、縁の地名と共に
大和朝廷が九州の熊襲を征伐に来た伝承が多く残ってます😊
今回の発見は歴史ファンにはたまらない、内容です😊私も長髄彦と関係があるのではと直ぐに思いました。九州からでも飛んで行きたい気持ちです😮大変わかりやすい情報ありがとうございます🌼私は還暦過ぎてますが、貴方の様な若くて素敵な青年が歴史を熱く語ってくれる姿に感動しました。奥様と仲良くお幸せに❣️
コメント有難う御座います。福岡県は古代史の宝庫ですね、羨ましい!僕は九州王朝説にも影響されてますので、またその辺りのことも動画にしてみます。また見て下さい☆
お返事ありがとうございます♪😊いつかご案内させて頂きたいですね❣️私は炭鉱で栄えた筑豊の生まれですが、
鹿児島と宮崎の県境いた熊襲が逃れ逃れてこの地で終焉を迎えたという伝説や神社、仏閣の縁起が数多く残ってます😮元々長年看護師をやってましたが 定年後ひょんなことから地元の門徒総会門と宮総会、ちいきのFNラジオで二時間づつお話し会をする様になりました😊
番外編でこの古墳のことも話そうかと思っています🌺♬
すばらい!是非この機会にみんなで古代史を盛り上げましょう^_^!
日本の古代史熱く語ってるのに胸にUSAで草
長髄彦の妹と饒速日命の子の子孫が物部氏であり、物部氏の本拠地が生駒山でしたよね。
おっしゃる通りです!面白い所から面白いものが出ました!いま岡山でも巨大古墳を掘っていますから、令和の考古学から目が離せませんね!
真実は全く違います。
ニギハヤヒは徐福が九州で自称。
同じく出雲で自称したのが
彦ホアカリ。
ニギハヤヒ(徐福)が大和に降臨したのではなくて
ニギハヤヒ(徐福)と
宗像の市杵島姫命の
御子、彦ホホデミ(物部王家の祖)
の子孫、物部王家が大和に約百年三世代を隔てて
二度侵攻した。
初回をニギハヤヒ(物部王家軍)の降臨に
この際、同祖(徐福)親戚の
海(あま)大王家の
フトニ大王(孝霊)や
大彦(太子。古事記はナガスネヒコに改ざん)
王族の尾張家、海部家、
副王家で出雲神族(出雲王家の分家)磯城の登美本家
等が大和から一掃された。
しかし、物部王家軍を進退に窮まっていた熊野から道案内をした
大和王国の裏切りモノ。
登美家の河内の分家、
太田多祢彦(太田田根子、八咫烏)がちゃっかり
大王に即位した。
クーデターに成功。
物部は大和を席巻はしたものの老練で狡猾な
出雲族
(孝元天皇や姫巫女の百襲日女命ら)
にマンマと懐柔され丸め込まれて
平定には至らず、、、
大和入り(侵攻した)物部軍の半数が九州に帰郷したらしい。
また、大和侵攻で主導権(物部王家軍の総帥)を握ったのが
(古事記の編纂時代に)物部兄弟のどちらかが不明だった為に創作したのが
ウマシマジ。
二度目は物部王家の神武、、、物部イクメ大王(系図上は垂仁天皇)
が出雲、吉備、大和、他を下して一応の全国制覇を果たして
統一物部王朝を大和の和邇に樹立
(石上神宮は物部大王宮跡。武器庫を備えていた)
@@森岩光
すみません、その内容の論文や本を出してる人とかいますか?興味があるので読んでみたいです。
@@RR-pm8ie
元出雲王家、富家さまが
二千年のタブーを破り
(戦後、自由な発言が可能な世の中となった事から)
一子相伝の口伝を
出版社(大元出版)を立ち上げ
年代毎に分けて書籍の形で公開しています。
約四千年前のインドからの渡来。
そのリーダー(王様)や経緯と理由(アーリア人のインド侵入)、
渡来経路~
出雲に定住化した理由。
~紀元前660年頃に
周囲から推戴された菅の八耳命の大穴持(帝。主王)即位による
我が国初の王国、
出雲王国の成立。
、、、
このチャンネルでは【第15回】古史古伝と丹波という動画で、いわゆる富家伝承の書籍を紹介しています。よかったらご覧ください^_^
さぁまた出てきましたよ、木棺が‼️
大丹波さんの出番です!
‘出雲族も無視できない。富(とび)という地名は今も出雲にあって出雲族の中心地。出雲族が中心となって大和王国を作った。
トビは古代史のカギを握っていますね!間違いなく☆トビ王家の封印を解きましょう!!
出雲には、中国江南地方の影響が見て取れる!高度な木工製品の形状など明らかだろう!対馬暖流に乗れば、一週間もあれば日本に来ちゃうんだから!
すごいのが出ましたね。奈良のTVニュースで見て来ました。
明日明後日、一般見学ですね。 🎉
令和の考古学が動きましたね!今丹波は雪がすごくて、雪かきばかりでとても奈良に行ってる場合でなくて、皆さんが羨ましいです!
この動画凄い事
言われていますね?
チャンネル登録しました。胸が熱くなりました。ニギハヤ(物部氏)大変興味あります。
有難う御座います^_^僕も大きな考古学発見は見ていてゾクゾクします!
さっき現地で聞いた話では、4世紀ごろの古墳ということだから300年代。
中国だと八王の乱から司馬睿の東晋、日本だとヤマト王権の最初期ぐらい?
富雄丸山から矢田丘陵を越えると、平群の領域。
南に行くと巨勢、葛城。
矢田丘陵の東一帯は富雄、登美ヶ丘、鳥見とトミの地名が続く。
坐神社のある三碓、「みつがらす」と読むのは、3つの碓「からうす」があったから。
「みつからうす」→「みつがらす」に転訛した。
富雄丸山から少し矢田丘陵に入ると、饒速日命が放った三本の矢の内、三本目の矢が落ちた所という伝承の「三矢の塚」がある。
あとは、一部オカルトマニアの間で有名な白高大神。
鳥見山に卑弥呼が夏の居住に住んでいたとか。リモートビューイングですが、マクモニーグルの。
早速の現地情報!恐れ入ります!丹波は今大雪で、一日中雪かきと仕事で、しばらく奈良に行けません笑汗
岡山でも発掘してるようですから、これから面白くなってきそうですね^_^☆
ちょっと調べていて富雄を支配したのが物部氏で、被葬者は物部一族である可能性が高いことがわかりました。物部氏は軍事氏族であり、石上神社で剣を神宝として祭ったりしていました。日葉酢媛命の陵墓とされる佐紀陵山古墳と同時期なので、垂仁朝の人物であることがわかります。ここまでくると、もうぴったりする被葬者は物部十市根くらいしかいませんね。
【参考になる記事】
「エナガ先生の講義メモ」
久志玉比古神社の参道⑤富雄丸山古墳(奈良市・丸山)
久志玉比古神社の参道④登弥神社(奈良市・石木町)
久志玉比古神社の参道⑩饒速日命の墓(生駒市・上町)
考察コメント有難う御座います!僕もまずは物部系の人が浮かびましたが、もう少し色々考えてみようと思っています☆確かにあの服装品は物部十市根クラスに相応しいですね!!
楽しく視聴させて頂き、有難うございました。西暦300年頃、奈良盆地の湿原に生える葦の根に付着する湖沼鉄目当てで、渡来系弥生人達は北部九州から移動して来たと思っております。鉄は農耕具や治水事業には必要不可欠です。恐らく纏向遺跡も西暦300年以降の築造でしょうな!その50年後には 奈良も豊かになり 石上神社の七支刀や蛇行剣が、祭祀刀として重用されるようになったと思っております。
コメント有難う御座います◎北部九州などの遺跡を見れば、纏向遺跡が日本の中心と考えることには無理がありすぎますね☆
@@nakabunken さん
3世紀頃の奈良には 北部九州を玄関口として魏の国と国交があったとは考え難いです。邪馬台国の時代は 山陰北陸地方の文化圏だったと思います。
同感です^_^☆
出土品をテレビで見て、十戒石板とアロンの杖かと思ってしまいました。✨
最近、富が気にかかっています。
徳島県那賀(ナーガ)川の富(トミ)→中臣
富長(ナーガ)髄彦
浦島太郎神話や八尾比丘尼、天の羽衣神話、高橋長者、土御門家‥海部と忌部は同盟関係だったので大丹波と阿波は繋がりがありそうです。
モーゼの墓ですか!
トミへの探求は日本の歴史の真相への旅ですよね!また僕も私見をアップしてみますので、ご意見下さい!
楽しみにしてます。
十戒、アロンの杖は、モウゼがもらった、物の元祖に通じます!この発見は、日本が世界文明の発祥地に繋がるのを証明しています!大変貴重な超古代史の歴史が日本だと判明した証拠です。
ナーガってインドの蛇だぜ!
マジいいチャンネルだね。
マジ嬉しいコメント有難う御座います(ToT)
あたしも、気になってました。
富雄から出たんだ…
何かがかわるかも知れない
僕もです!何かが変わるんじゃないかと期待しています☆
蛇行剣は南九州の山中、熊襲が居住していた地域が中心なようなので、物部や長髄彦ではなく、熊襲・隼人の豪族じゃないですかね
熊襲や隼人が江南民都直接交流していた可能性があるよ。後に坊の津から遣唐使が中国に渡ったくらいだから。江南民は、水運・舟運に長けていたから日本に来られないわけがない!
十種の神宝かな
縄文時代から続く狩猟技術の弓矢がヒントで長野県の黒曜石に代わるサヌカイトが奈良県で採れた為この地に強力な集団が住み着いたのだと思います。
私はナガスネヒコ=建御名方(又は建御名方の子)説を信じていて両方とも最強の武人、軍神とされています。
長野県の白山信仰(龍神信仰)、長野県北部に三ヶ所ある建御名方富別分神社その内一ヶ所は神仏習合時代には善光寺の中にありました。
善光寺の秘仏は仏教導入反対派の物部氏が海に捨てた仏像で後に善光寺は物部氏が封印された場所であると思っています。
越の国(新潟県)のヌナカワヒメを母に持ち大国主が父の建御名方は出雲族、建御名方の子供も多く各地の発展に寄与したと聞きます。
話がそれましたが弓矢が得意な集団として長野県北部から奈良へ移住した集団説を唱えたいと思います。
長野から奈良へ来たんですか!
コメント有難う御座います!ぼくもかねてから長髄彦≒建御名方富命と考えています^_^
いわゆる出雲王家本流のトミ(トビ)家は龍蛇信仰の縄文出雲族で、日本各地にその足跡が残っているとよく感じています!
差はサブさ平原リバリバしほ平、しばしば、さらしします。!です。!ですけど?ですランができます?ですね。!ですラン!ですけどね!ですランですラン。!ですけど。!ですけど!ですランにしますは明日ですね?ですけどですランが鳴くから、差は粗佐橋はです。!ですラン。!にぬなななぬななななななにののにぬねなななねななにななぬなななねななねにに。
数年前に無くなった竹内睦泰さん(73世武内宿禰)が、南朝天皇家に口伝で伝わる記紀の解説やその他歴史のお話は、RUclipsにもまだ残っていて、大変面白いですよ!考古学と神話の橋渡しになるような口伝の存在も有意義だと思います(大切なことは文章に残さないのだそうです)
出雲口伝の通り過ぎて驚きましたね
出雲口伝は面白いです!^_^
登録とTwitter共有させて頂きました!!
古代史の大きな謎に迫る大発見となりそうですよね!
どうも有難う御座います!謎に迫る一方で謎が深まる感もあって、いずれにしても、これから面白くなりそうですね!
学者の先生がた説は、抹殺されました
出る度に右往左往は見っともない。もっと、世界的視野で考古学をとらえることはできないものかね。特に中国江南地方との関係を含めてさ。鳥居、千木、高床式建物。全部江南起源だよ!!!史前帰化植物も洗い直すべきだ。何でも半島経由ではないよ!!!
女子アナの例えとても分かり易いですね😂よく富雄は食事をしに行きますが、歴史のある場所なんですね。
有難う御座います^_^とてもディープな場所だと思います☆
はじめまして失礼します 妄想ですが 剣を大きく作りすぎて 奥行きや幅が足りずに折り曲げていれたのが蛇行剣 状況想像すると吹いてしまいました
「斑鳩に眠る貴公子」って本知ってますか?
おススメです。あの当時の装飾品としては最上級のが写真付きでのってます。
藤ノ木古墳ですね^_^☆その本自体は読んだことはないですが、当時の遺跡カタログで楽しんでいます◎
大和は5世紀ごろまで竜田道と大阪道、水越道が自由に使えなかったので(物部氏の本拠地である事とと 葛城氏の本拠地であったので)
…となると大和が航路を確保するには 日本海ルートが必要になる。
その為 大和は 丹波とかなり姻戚関係を結んでいる。
開花天皇は竹野比売(丹波大県主の由碁理の娘)と婚姻。
これは古代天皇の系譜で地方豪族と その娘が出てくる最初の例で知られている。
峰山から北の方へ竹野川という川が流れている辺りの豪族さん。
開花天皇と竹野比売の間に生まれた子が、比古由牟須美 またの名を美知能宇斯王。
また その妃が河上摩須郎女。
丹後の西に川上谷川という久美浜町を流れている川があり その地域を抑えていたのが この一族。
その2人の間に生まれた比婆須比売は
垂仁天皇の妃の1人になった。
また 別の所伝では 丹波美知能宇斯王の父・日子坐王と意祁都比売命の間の子供の1人が 山城之大筒木真若王(父か兄は大筒垂根王)。
丹波からやってきた女性(阿治佐波比売)との間に生まれたのが迦邇米雷王。
この人の妃も丹波からやってきた女性(高找比売)。
こんな風に系図を見ていくと、丹波と山代は関係が深いのが見て取れる。
倭国から山代をへて久我國から桑田か亀山(現在の亀岡)へのルートを辿って行くと
おのずと 行き先が丹波になる。
大阪湾へ自由に行けないとなると
倭国にとって丹波への道は なくてはならない物だったのだろう。
それを考えると 出雲と繋がる丹波の力は
かなり大きかったんだろな…と思う。
コメント有難う御座います、僕も日子坐王については色々と調べ歩いています☆丹波道主王や迦邇米雷王なども合わせてまた動画にしてみますね!
@@nakabunken 楽しみにしています。
長髄彦の生きていた時代と、富雄丸山古墳の時代は、全く合わない。3世紀から4世紀にかけての古墳であれば,景行天皇から 成務天皇の時代。
丁度日本武尊が活躍した時代。そして、円墳と言う事は、吉備との関係が非常に強い。
当時、日本武尊をはじめとして、4名の将軍が居たとされている。四大将軍と言う彼らの中で吉備に最も縁が深い人は、吉備武彦・・・彼は、日本武尊の目付け役として従者として各地に転戦している。
かなり武勇に優れた人物で、吉備地方を後に治める吉備氏のもとに成る。
当時、都が琵琶湖ほとりに有ったことを思えば、大和の地を天皇に変わって治める事が出来る人物の墓だったのだと思う。
長髄彦=大彦 言わば重複してる人物ですね
それと記紀が必ずしも時代通りに書いているとは限りませんよ
最近奈良の丸山古墳で発掘された237センチの蛇行剣。10kmぐらい西に、石切劔箭神社っていう神社があります。もしかしてと思ったのですが石を切る道具であれば、あの長さもうなづけます。当時、古墳や石棺を作っていた時代だとすれば蛇行剣はそういう石切劔の道具だったりしたりしてと思いました。
ホツマツタエの中にアマテル神の時代、「反乱軍(ハタレ)に鏡を向けると憑依した動物霊を除くことが出来た」旨の記載がありますが、今回の盾形銅鏡にその伝承が鋳込まれているのではないかと思いました。出土品から大和天皇家ニギハヤヒの子孫で軍事部門を担った物部一族の陵墓であることにおそらく間違いないでしょうね。
そうなんですね!ホツマ読み直します^_^皆様の考察がとても参考になります☆有難う御座います◎
ナガスネヒコとニギハヤヒのこの時代の移り変わりは古事記で編纂されているので、興味深いです^^
やっぱりこの二人(二神)にもっと注目すべきですよね^_^とても興味深いです!
蛇行剣、ファイナルファンタジーに今後出て来るな。
確かに笑!もっと日本の古代の文物をゲームに出して、古代史ブームを起こしてほしいです(^^)!
初めて拝見しました。なるほどなるほどと楽しめました。登録させてもらったし、他の動画も拝見します。
有難う御座います!下手な説明が多いですが少しずつ頑張ります!
良い動画をありがとうございます。超豪華な副葬品です。古墳時代前期後半(4世紀後半)の古墳ですから、この時代の大王かそれに次ぐ人物のものです。被葬者を考えてみました。よろしければ「刮目天ブログ 富雄丸山古墳の被葬者は?」をご参照ください。
コメント有難う御座います!是非拝見させて頂きます!!
@@nakabunkenさん、早速いいお返事感謝します。
通説と違いますので、いろいろ疑問点がわくと思います。
遠慮なく質問していただけると研究が進みます。どうぞよろしくお願いいたします。(^_-)-☆
当時は本名は知られちゃいけないので(千と千尋の湯バーバみたいな話だが)、ほとんど役職名や死後にについた名前、同一人物で何個も名前がある。
先祖(神)の魂を引き継ぐという考えなので、複数の先祖の魂を引き継いだ人は特に名前が多い。
日向、出雲、ヤマトは同族で、鬼海カルデラの破局噴火で西日本は壊滅、その後寒冷化で関東、東北から再入植した人たちで元の中心地は鹿島、香取神宮の常陸(勾玉の継承者)
神武東征の前の世代は出雲の勢力が強かった。ナガスネヒコは大和の統治王、ニギハヤヒはスサノオウの4男だが、母系はツクヨミ(古代ユダヤの渡来人、お稲荷様)でナガスネヒコを屈服させたが、出雲がスサノオウ系とツクヨミ系で分裂して勢力が衰え、ヤマトに残った出雲系もニギハヤヒが高齢化するとナガスネヒコ派が巻き返した。ここで誓約(政略結婚)で出雲と休戦した日向(天孫降臨派)が巻き返して、出雲を掌握、ヤマトとも政略結婚(相手は宗像三女伸(3柱の神を引き継ぐもので一人)の孫娘で後世に伝わるかぐや姫)で統一予定だったが、ナガスネヒコ派は反対で出雲派(八咫烏)が神武に協力する。
神話と考古学と出土品➡証拠物件の年代測定による裏付け?が史実を確定させるのかな~?マスコミの発表でワクワクしています🎵
令和の考古学に期待しましょう^_^☆
富雄丸山古墳近くの神社や武乳速を調べると面白いですよ。
三羽烏の話し(大国主と少彦名の伝説)も出てきます。
意冨氏、物部氏、海部氏、和邇氏
この辺の人物が埋葬者かと思います。
ニギハヤヒはイワレビコの軍門に降っているから、そういうことなんですかね🤔
ナガスネヒコは要するに九州から東進してきた天皇家・大和王朝以前に奈良県や近畿地方を支配していた王朝のことやね。
大体そういう認識です^_^☆
富雄、、、もう富王としか聞こえない(-_-;)ナガスネヒコしか思い浮かばない~
見っかっちゃった!現地へ急げ( ̄□ ̄;)!!え?ナガスネヒコのお墓でしたか!丹波篠山と言えば、宇野正美!
現地に行きたいのですが、丹波は大雪の関係でそれどころじゃなくて残念です笑
令和の女子アナと昭和の女子アナwwww
土器でどっちが古くてどっちが新しいかは分かるけど絶対年代は炭素年代測定法じゃないとわからないんじゃないですかね?
コメント有難う御座います。絶対年代はやはり確かな墓誌銘がないと無理ですよね。炭素年代や年輪年代も条件がありますし、年号鏡も遺跡年代とはズレがあるとされますので、何ともはがゆいとこですよね!
蛇行剣は2m越えという事で祭祀用とされてるが、棺の長さは5mという事は、もしかしたら巨人族の墓ではないか?この地域に居た長脛彦と言う名からもわかるように大男という事が示唆され、巨人族がいたのかもしれない。2mの剣は巨人族からすれば普通の長さなのかもしれない。
ナガスネヒコは孝元天皇の息子さんで時代が合わないのと
ナガスネヒコは物部嫌いで物部が信仰する鏡は持たなかったそうですよ
プリウスの例えはいい得て妙ですが、女子アナは見分けつきますかね?🤣
スイマセン!女子アナさんに失礼でした(^^;;
やはり物部系ですよね~古神道とユダヤが繋がればたのしいなぁ~と思ってました。あれは盾ではなく石板にしか見えない✨あの大きな剣は川?蛇?竜?何の象徴かしら✨
コメント有難う御座います◎僕もあの出土物は出雲族と物部族の文化がミックスされている感を感じました^_^
@@nakabunken こちらこそありがとうございます。スサノオノとニギハヤヒの関係が旧事記をちゃんと読んで無いのでいまいちピンとこないんですよね。どちらにせよあの遺跡はめちゃくちゃ興奮致しました✨
長江文明の遺民が持ち込んだ道教の影響は、古代日本人が桃を大事に扱っていたことでも知られる。卑弥呼は、明らかに道教的巫女!
神功皇后の時代の古墳なので
長髄彦なら応神天皇と神武天皇同一説じゃないと…。
敗者の長髄彦の古墳が築造されたとも考え難いです。
やはり建振熊命当たりが妥当なのではないでしょうか。
それが真っ当な考えだと思います^_^
もしかしたら剣と鏡はオリハルコンではないかと。
俺は奈具遺跡の結果を見て見たい。豊受の大神がたどり着いたって言われている奈具って言う地名。
目の付け所は素晴らしい。長髄彦は大国主命です。大国主命勢力は中国漢の時代に追われて九州日向高千穂に移り三代渡を経て、北九州の邪馬台国を避け出雲から丹後そして畿内に入った最初の王です。平和的に近江、河内、吉備、などと連合政権を立てていた。高句麗から南下した東川王が邪馬台国を倒し東遷し、長髄彦に戦いを挑むが連戦連敗、東の熊野に回って戦うも勝てず。しかし長髄彦の妹婿・饒速日が裏切り長髄彦を殺し東川王勢力を迎え入れる。これを「大国主命の国譲り」という。日本書紀はこの2人を神武天皇として神話の中に隠したのです。小林恵子氏の「日本古代史全9巻」第1巻をご参照下さい。モヤモヤが晴れるでしょう。この東川王から前方後円墳が始まります。これは半島の方墳と列島の円墳をくっつけて両国で王となったという意味です。魏から晋そして五胡十六国の乱世の時代、半島や中国北部から次々と王がやって来たのです。日本書紀はそれを隠し、今でも前方後円墳を宮内が発掘させない理由なのです。日本書紀の中で堂々巡りしてはいけません。だから大国主命はヤマト王権に祟るのです。ヤマト王権は出雲大社を建てて祟りを鎮めたのも長髄彦(大国主命)政権を簒奪したからです。
コメント有難う御座います、勉強になります^_^☆詳しい方に丹波を見ていただきたいです◎
こんばんは
こんばんは^_^!
令和の女子アナと昭和の女子アナw たしかにわかるww
話ええねんけど、着てる服!
確かに笑!お手柔らかにお願いします♪(^^)
これ奥さんが聞き役してんのかな?
そうだとしたら奥さん偉いわwww
嫁です!半分寝てます!
奥さん大人ですね。この話の受け皿になるのストレス溜まる(^_^*)
放射性炭素年代測定法で科学的に時代を特定してるんじゃないの?
丸い古墳というとなんか九州とか吉備かと思ってしまうけどなあ
田中英道先生がユダヤ人渡来説の論陣を張られていますが、どう思われますか。ぜひビデオを作ってください。
ニギハヤヒは徐福(紀元前3世紀~4世紀の人。皇室にも繋がる)が九州で自称した名前。
また、彼と宗像の市杵島媛命の御子、
彦ホホデミ命~が物部王家。
徐福が自ら王となる野望を抱き果たせなかった
のを数百年を経て一応の全体制覇を果たして
大和に物部王朝(垂仁~成務の三代)を樹立した。
これを
イザナギの国生み。
天孫降臨~神武東征、神武の即位。
ヤマトタケル神話(征服王朝の物部王朝に服従する者は少なく四六時中各地に反乱が頻発した。
あまつさえ、三代目の成務は戦死してしまい王朝は瓦解、滅亡した。
これを古事記は
創作(捏造)した
ヤマトタケル一人に押し付けた。
)
私の祖先は伊加利姫=井光姫になり、饒速日から天香具山命が生まれ、その子の天村雲命と伊加利姫の間に椎根津彦=倭国造となっていくところまで分かったのですが、
その後伊加利姫の子孫の中には例えば天皇に妃として嫁いで生まれた子が天皇になった人とかいるのか、椎根津彦から下がよく分かりません。
もし分かる方がいらしたら、椎根津彦から下にどんな人物がいるのか教えて頂けたら幸いです。
長浜浩明、竹田恒泰さんが神武天皇は紀元前後のせいぜい1世紀に即位と。で、戦った長髄彦の古墳が4世紀以降とは、整合せず基本的にムリな話です。
ウラ一族。
古代は海洋ルートと港と河川に従い文明と年は栄えた!また人も定着した!
丹後地方には出雲系氏族も多い事やろうし浦島太郎のモデルの浦嶋子の伝承になった海部氏所縁の史跡も在るんとちゃう?🤔