Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
全くその通り。私は森林土木をやっていますので、盛り土、切り土、切り盛り、水切り、水対策は基本。日本の地形は起伏が多いので、街を作る前に徹底的に整地作業しておけばもっと便利で自然災害にも強くなっていただろうにと想像しています。残土処理のために古墳を設けたことは生活感覚にあっています。歴史家さんたちは生活感覚なしで理屈をこねたのでしょうかね。土木作業の経験があれば権威付けのストーリーは嘘くさいですよ。歴史の常識、どんどんひっくり返してやってください。
😅😅😅😅😅
残土なんかでないと思います当時はトラックだけでなくショベルカーもありません田んぼを作るのに掘るだけで作るわけがありません先生が言うとおり原野は起伏だらけです当然、高い所を削った土は低いところに捨てるのです人力てすからなるべく楽したいわけですあそこの丘を削って、あそこの沢を埋めれば、だいたい平らになるなと見当をつけて開墾したとおもいます開墾は古墳時代以降も日本中で行われましたが、その都度、平地に小山ができるほど残土が出たなんて話はありません低いところに捨てるのです
@@ichigo55 「残土だけ」ではないでしょうね。しかし残土として集めた量は相当ではないでしょうか。とくに石。これは農業には厄介ですが、集めると便利。堤防や高台を築くときは、石を大中小に分別し、崩れないように積み重ねていく。だから集めておくんです。厄介だけど貴重ですよ。私はショベルカーなしでも護岸工事などの土工をやりますので、経験則からだいたい想像がつく。切土したときに出た石は集めるんですよ。これが何十人とか何百人が組織的に毎日やれば山ぐらいできるでしょう。当時はショベルカー抜きで相当苦労されたと思いますが、できないことはない。「残土が出たなんて話はない」→ないと断定するのは相当難しい(悪魔の証明)。気をつけましょう。筋を変えて反論ぽいこととを言われ、とりあえず「だけではない」としておきましたが、こんなスミを突くような議論はしたくなく。ちょっと不快でした。
まっ平だから、田んぼ・・・・。堺や松原、藤井寺あたり、1mも掘れば水がでるんんちゃうかな。今が平地だから、山崩して平地にした? あまった残土を古墳使ったって発想になるのかもしれんが、わざわざ残土を盛土にするって話、一見、無駄を省いて効率的な話をしてるが、運ぶのがどんだけ大変か。そもそも、東大阪は海で、上町台地が半島のようにしたから伸びていて湾になっていた。で、むかしは大和川はそっちに流れていた。たとえば、浚渫して航路を確保して余った土がでても港湾整備に使えるし、残土処理に困るって状況がないように感じますね。治水や水路を縦横に広げていくためにあまった土を一か所に盛ったとするならまだしも。土地の成り立ちは、地層調べりゃすぐわかる話、古墳の土を調べればどこから持ってきたかすぐわかる話。悪魔の証明でも何でもない。もちろん、古墳を作る時に必然的に大量な土が必要なのは当然の話なんで、たとえ、祈祷師が神託うけたとしても、大量の土を工面できる場所を選ぶはずなんで、堺、松原、藤井寺あたりを選んだ理由がある。土を船で運んだって話はそうだと思います。もともと海面すれすれの湿地帯、掘れば簡単に水路を作れる。そんな低い土地だったから選ばれたんじゃないですかね、知らんけど。
知識が豊富におありのようですが、浚渫とか港湾整備とか時代性がばらばらです。川の流れは昔は十年、百年の単位でいくらでも変わっています(だから平野が形成されました)。海抜も変わります。話がモリモリすぎて、何を反対されているのかよく分かりませんでした。私は残土処理説は生活感覚に近いと支持したうえで、残土処理だけではないとコメントしました。王の権威付けのストーリーにも共感する部分があるからです。しかしもし、残土処理を全否定すれば、悪魔の証明をしなければならなくなり、不毛な反論にしかなりません。それでももし残土処理はありえないとお考えでしたら、おっしゃるように地層を調べられたらどうでしょうか(すぐ分かる話なんですよね)。私はそんな研究は、役に立つものになるのかどうか疑問です。
本来の古墳の由来を学び、感動したとともに非常に説得力のあるお話でした。小学生の我が子のために興味を引ける内容を探していたところ、本チャンネルに行き着きました。子供にもしっかりと本チャンネルの内容を教えたいと思います。ありがとうございます。
上州の古墳の副葬品はシュメール文明の黄金の仮面やブレスレットなどの貿易品が出土しています。何をがいわんやと分かるはず。
残土処理場を芸術的な形に整えて墓としても利用するというのが日本人らしいと思いました。もったいない精神ですね。
田舎に住んでいます。自宅がある住宅地から小高い丘のような古墳が見えるのですが、古墳の周囲は水田に囲まれています。しかも、古墳からすぐ近いところには大きくはないですが、川が流れていて堤防があります。水田があるほぼ中心部になぜ古墳があるのかと長年疑問に思っていました。水田を作りつつ残土処理のために古墳を作ったとの解説を聞いて、思わずなるほど!と声が出ました。
全く仰る通りです。大阪堺在住ですが普段から古墳を見て資料を調べると土木や水の災害を防ぐ役目にも古墳になってもいるんですよね❤古墳は治水の役割も堺市の歴史の史実書いてありました。後は大和王権や日本書記、古事記で歴史を更にひっくり返してほしい思いです。GHQの自虐史観を日本人は自分の歴史を取り戻してほしいと思います。
全て正しいとは限らない。真に受けない方がいい。
に
@@アスカ人アスカあなたの考えもまた否定します😂全てあなたに返す😂
小名木先生ありがとうございます。これが当たり前の学校教育として日本人に浸透していってほしい100年後今の日本が語られるとき、今だけ金だけ自分だけの政治家と役人が蔓延り、これによる増税に国民が苦しむ暗黒の時代と言われるだろう。仁徳天皇のような政治家を誕生させるには小名木先生の教育が大切、日本を愛し護るそしてかっこいい精神を養ってもらいたい。
これさえも地上波では放送させてはいけない話なんでしょうね。CGS、参政党、結大学にて発信して、自信で考える事を学ばさせてもらいました。ありがとうございます。
糞結び少学校
子ども達、大人も含めて本当の学びができる時代に早くなって欲しいです。
特に疑問に思っていたわけではないのですがこの上なく納得しました。ありがとうございます。
古墳時代中期の堀を持った巨大古墳は灌漑の為の貯水が主目的だったと思います。何故なら仁徳、履中、応神、允恭の各天皇陵は丘陵の尾根部に造られているからです。堀を掘った土で墳丘を盛ったと思います。
目からウロコです。古墳が集まったところはそれだけ大規模に工事が行われたということですね。
アンコールワットも治水のための造営って言われてますね。治水は国家なり
小名木先生のお話を伺って本当の古墳がわかりました。従来の説は、歴史学者だけの狭い視野に基づいて作られたため、誤った説になったように思います。歴史、土木、地質、人類学、などの多様な専門家を集めて古墳を研究し直せば、小名木先生の説を補強してくれると思います。古
今の教育はこういうことを何故教えないのか? 自国に誇りを持てるようになり、ひいては自国の未来につながるのに。。。
最後スカッとしました。ありがとうございました。
ものすごく納得しました✨✨筋が通っている。学校て習うことは気持ち悪い感触で終わってましたが、歳を取っても学べる時代に感謝です。
俺たちに出来ないことを平然とやってのけるッ!そこにしびれる!憧れるぅ!
おお、自分がなんとなく感じていた事と全く同じ事を、とても分かり易く纏めておられますね! 自分もユンボで法面バケット装着して盛り土を整形してますが、大規模な土木工事、整地を行えば当然生まれるのが残土問題ですしね、ブルとか無いし。前から古墳は土置き場に似てるというか、もしかするとそのものだったり? とか考えていましたが、大阪平野のど真ん中に作られた最大の古墳・仁徳天皇陵と、仁徳天皇の行われた大規模土木工事が重なるという事が、まさに目の鱗です。そして、時代は治水灌漑の時代へと移ってゆく事で、大きな古墳は八岐大蛇を制する【堤防】へと姿を変えていったのですね!とても興味深く拝見させて頂きました! あと、古墳時代は埴輪の時代でもありますが、自分の地元千葉のアレ埴輪と古代房総の関係を解き明かしてゆきたいですね。
古墳の大きさと開いた田んぼの面積が比例するわけですね。物凄く合理的な事業だったと分かりました。日本には鞭打たれて労役をさせられる人などいなかった。皆で豊かになるように頑張っていたんですね。教科書に絶対載せるべき歴史ですね。
先生の解説通りだと思いますよ✨国民が汗をかいて田んぼを開拓山を削り集めた土でその土地の指揮官や有力者の墓を守り神とした✨
素晴らしい講義を聞かせて頂きました。子供の頃、歴史がつまんなくて理系に進みましたが、初めて合理的で筋の通ったワクワクする歴史を聞きました。古墳は土木、治水工事の残土の有効活用の結果である、古墳に関して初めて納得できる解説に出会いました。楽しかったです。ありがとうございました😊。
とても勉強になりました!推理小説より面白く、当時の現実生活からの必然を考える楽しさ。バイアスのかかっていない歴史の勉強ほど楽しいものはないです。
32:47 田んぼは水を入れる事で微生物の活動やリンなどが補給され栄養豊富な泥となり毎年田植えしても連作障害の問題が起きないだけでなく、秋に収穫が終わった乾いた田んぼを耕して冬野菜や春野菜を育てる事が出来ます。そして6月になれば土を耕し水を入れてまた稲作をする事が出来る。場所によっては秋の11〜4月迄は麦を栽培し、6〜10月は稲作と言う事も容易に出来ます。日本の稲作は昔から河川や溜池から来る水を使って微生物や両生類、魚類、鳥類等から小動物に至るまで共存共栄をさせて、不足する栄養素を水田で作り取りこんで来ました😊これが日本の“里山”と言う自然の営みと繋がった共存共栄の生き方であり、縄文時代から続く重要な文化だと思います。
連作障害は土壌の栄養分が欠乏するだけではなく、植物が栄養吸収する為に根から微弱な酸を放出して土砂を溶かす事でも起きます。自分が放出した毒を自分で吸収してダメージを受ける自家中毒という面もあるんです。水田はそうした植物自身が土壌に放出した毒成分を洗い流してくれるので、永続的に連作可能になる訳です。植物は基本的に無機質でないと根からは吸収できないので、土壌に酸を放出して吸収できる栄養(無機質)を確保しています。
これが本当の永続可能な生き方考え方であり、いにしえ(古)に深く学び実践する、ということですね。古の日本人の素晴らしさをまたまた思い知らされました。
仁徳天皇は、「民の竈はにぎわいにけり」の人。大規模な水田開拓で人々が豊かになったのを喜んだ天皇。その残土の広大な盛り土にお墓を作ったとなると、人々と仁徳天皇の結びつきの強さ、温かさ、天皇への民衆の思慕の深さがしのばれます。
すごく合理的な考え方ですね😊日本の歴史には、滅茶苦茶興味あるんですよね~♬これからも解説動画を楽しみにしてます😊♬♬ありがとう✨✨
仁徳天皇の民のかまど。しかし古墳は権力の象徴であると思っていましたので、晴れた思いです。ありがとうございます。
これは良い事教えて頂けました。ありがとうございます。
貴重な情報ありがとうございます。共有させてください。
酷いことばかり起こる世の中に辟易した時に、このチャンネルの特に小名木先生の動画を見て勇気をいただいています。今では自身を奮い立たせる時の合言葉になっています。「日本を格好良く!」
古墳造りの目的は、農業用水確保のための溜池造りですね。墳墓の廻りに大きな堀を造ることで農業用水池ができます。葺石の目的が、土砂崩壊の土留めですか。納得です。
福岡県南部八女市の近所に岩戸山古墳初め 数百基の古墳群がありますが 全て 見晴らしの良い 自然の丘隆地の上に 築かれています。眼下に広大な筑後平野が 広がってます!
この説とは違いますね
有明海の海岸線がもっと陸地よりだったんじゃね熊本の山奥である和水町にある古墳群の所で貝塚あったんだし
何十人、何百人居るか知りませんが、歴史学会員束になっても、小名木先生1人分に満たない知性である事は理解できました。😊
あの学者さん達は権威に縋る御用学者ですから😅
まともな学者がこんな小学生の思いつきにまともに反論する方がどうかしている。残土処理なんてバカバカしい。
なるほどです。先生から「えぐい」という言葉が出るとは。現代語、流行言葉等にも精通されてるのは流石だなと思いました。
子供の時から、これが疑問だったのですよ。権力や地位を示すものであれば、時代と共に巨大化することはあっても、段々と小さくなっていくなんてあり得ないと思っていたんですよね。やっと腑に落ちました。
矢作川沿いには、縄文時代の堤防遺跡が、数Km単位で発掘されています。3世紀から4世紀の土木工事技術は、縄文時代からの伝統があったのかもしれません。この堤防周りの遺跡は、弥生以後の遺跡が無く、鎌倉時代以降にまた集落の遺跡があったそうです。この発掘の事実から考えると、日本には縄文時代から素晴らしい土木技術があったと思えます。仁徳天皇の話は、発掘された事実から推測すれば、実際にあっただろうと思えます。
その時、列島に優れた土木技術? 薬を間違って飲みましたか? 到来人の影響を必死に否定する姿が可愛いね~
さきたま古墳群とその周辺地域に展開する広大な水田がまさに当てはまると思います。
消費税、政府がその気になれば下げても問題ないんですけどね。財源は日本円建ての日本国債で良い。政府は日本円建ての負債であれば、日本国民の生産能力が許す限り延々発行できます。政府には日本円の発行権があるのだから。
半分以上正しくて、半分以下間違いですね。別に日本円建てでなくても、バランスシートが均衡するなら大丈夫です。世界の基準?はそれです。だから2018年10月にIMFが日本の財政再建は達成されたと世界に向けて発表したし、ノーベル経済学賞の人達が日本の財政は問題ないというのもバランスシートをみていっているし、IMFだったと思うけど先進国の中で日本はカナダに次いで2番目に財政が良いと言っているのもバランスシートから出されているからです
日本円建てに拘るのは、返済が不要で、日本国が存在する限り、延々借り換えで済むからです。
@@とらねこ-v3h オカルトMMTに近い考え方だと思ったので、半分正解、半分間違いだと書きました。返済不要という前提で借金をすると、とても危険ですよ。まあ勉強してください
歴史ってある一時代に興味を持ったり知っていたりすると芋づる式に調べ出すから歴史に詳しく慣れますよね。私は戦国時代に興味があったからそこから時代を前後してどんどん調べるようになりました。あと艦これって言うゲームで近代日本史も勉強しだしました。歴史は楽しいし愛国心も高まりますよね。
本当面白いくらい納得しかありません。感謝します☺️💚😭
素晴らしいです!
仁徳天皇の民の竈の功績を日本のリーダーは見倣ってほしい。世界がコロナの時に減税したのに、小名木先生よくぞおっしゃってくださいました👏👏👏
現代なら河村市政が実証してますね!
勉強になりました。
小名木先生の理論には非常に説得力がありますねっ。私も残土処理して盛られた場所を墓地として利用した可能性は高いと思います。日本には奴隷労働のような文化は無かったと考えています。
沼地の干拓や、氾濫する河川の改修は、纒向遺跡の時代から行われていたと思います。浚渫によって掘り出された大量の石は、古墳の葺石として敷きつめられたものと想像しておりました。それが豊葦原の瑞穂の国の成り立ちであり、鉄製武具の普及よりも、大規模な稲作の発展こそが、古代大和政権の勢力拡大の上でより重要であると考えます。敢えてここで異論を申し上げるなら、天智天皇の時代の百済大寺やその後の大官大寺は、権力の誇示として絶大なインパクトがありました。仏教の宇宙観を具現化した五重の塔(五大=法身仏の全身)をあえて九重の塔にして示されるのが何かといえば、そこに時代に即した権力誇示の有り様が伺えるものと思うのです。
なるほど、日本において、災害用の食料備蓄には玄米が優れてるんだ。 お米ってすごいね。
非常におもしろい見方で勉強になりました!
仁徳天皇のかまどの民の話、岸田政権、財務省にも見習ってほしい。けど、まぁ無理だろうな。
なるほどー! どんな話を言い出すかと思えば、さすが小名木先生だ!
古墳時代には「水車」が無いから、完全な平地に大規模な田んぼは作れてないよ・・。古墳時代の田んぼは穏やかな丘陵地に作られている。平野部の田畑が増えてくるのは墾田永年私財法以降・・。さらに言えば戦国時代の堺周辺の古地図が残っているが、古墳回りはほとんど小さな集落があるのみで、田畑など無い。戦国時代ですら平野の大部分は湿地か荒れ地のままだったのだ。ここら辺の基本を押さえていない説だと思う。時代考証してない単なる想像だと思う。
とても良いお話でした。利他の心が遥か昔から感じられますね。先生、今回少しマイクが遠いようで。ご参考にして頂けると幸いです。せっかくの内容ですのできちんと拝聴したいと感じました。私の動画も、聴き取り難いとコメが来ますので、私側の問題もあるかと存じます😸次回も楽しみにしております
面白い。楽しい。他の動画も観させてもらいます
そう考えれば殆どの疑問が解消されますよね。できた高台は水に浸からないので様々な用途に使えますね。墓だけでなく祭りや集会、使えなくなった用具の廃棄など、、大雨でも流されない場所です。皆で作った皆の場所。
仕事で海外数か国に住み、その周辺国にも出張で出かけることがありました。その生活で明確に分かったのは、ユーラシア大陸の民族はヒエラルキー意識の強い人たちである一方、日本を含め環太平洋の人々はヒエラルキー意識が弱いのです(ヤップ島を除く)。また、ユングの深層心理解釈で言えば、日本を含めて環太平洋地域は母性原理に基づく地域で、ユーラシア大陸は父性原理に基づく地域とも言えるでしょう。現在の歴史解釈の基本はヒエラルキー意識の強い父性原理に基づくユーラシア大陸民族を基としたもので、人間の意識が根底から異なる日本歴史理解には適さないと思っています。 仁徳天皇の皇后様についても言及されていますが、そこにも母性原理の存在が現わされていますし、天照大御神が女性神であったり、卑弥呼(これはC国人が日本を下に見ての表現で「日巫女」あたりが妥当な漢字だと思っています)や推古天皇ほか、日本の歴史に登場する女性のリーダーにも現わされていると思っています。 ところで、韓国で前方後円墳が発見され、発掘していく中で「倭人の墓だ」と分かり、慌てて埋めた事がありました。また、稲作が縄文人による日本初の可能性も出てきているようです。このような事からもコペルニクス的発想で、「日本発」もあることを見直さなくてはならないと思っています(東北大学の先生で「大陸からの遣日使も有った」と言われている方もいらっしゃいます)。 何でもかんでも大陸から朝鮮半島経由で日本に入って来た、と頭から信じ込んでいる学者の頭の固さには驚くしかありません。GHQ統治時代に日本の国力低下を目的として、十数万人もの日本を愛する教育関係者を一掃した一方、共産主義を信奉する教育者ばかりに入れ替えました結果かもしれません。共産主義概念の前提の一つには強いヒエラルキーがあり、それに基づいた「搾取」概念や「階級闘争」というものも存在するからです。 仁徳天皇様が6年間免税されたことは知る人ぞ知る話(ここにもユーラシア大陸の民族とは異なるヒエラルキー意識の違いが見られると思います)ですけれど、農業生産性を高めていないと一時的な効果しかありません。彼が治水も含めて各種農業土木工事に力を入れた事は非常に重要だと思われ、そこにも触れられていることは大変重要だと思われます。 農業土木工事が落ち着いて来るともに残土処理の必要が無くなり、残土処理の一環であった古墳もだんだんと収束していくことにも頷け、今までの歴史解釈では???な部分も大変スッキリと理解できました。ありがとうございました。
その説に賛同します。
世界文化遺産に登録するということは極めて政治色が強い。地元の観光業発展に期待するのもわかるが、国際社会に認められる為に政治的に配慮しなくてはならない。海外にアピールするだけなら忖度なく歴史的真実や中立的な解釈で訴えたほうがいい。地元観光業の資本が海外勢中心になればなるほどブランド力を高める力も強くなるが、同時に歴史の解釈が歪められていくね。
古地図と一緒に見せてくれるとわかりやすいなぁ
アイヌ民族の真実の歴史を解説してほしいです。ロシアの牽制のため。広く日本人に知っていただきたいです。
大仙古墳付近は百舌鳥野と呼ばれておりました。野ですから田ではありませんでした。その付近は台地で川もなく、灌漑用の用水路がもっと内陸から引かれるのは奈良時代以降でしょう。多治比嶋のそのむすこ池守、水守、縣守の時代に鍛冶、金属業をしながら木を切り、土地を開発者したと思います。古墳時代水田にするならもう少し南に石津川の低地か河岸段丘上があるのでそこでできます。写真の古墳横の縦横の道路は、近年に住宅地として開発したときに作られたものと思います。ちなみに古墳の濠が灌漑に使われたのも後代とおもいます。百舌鳥野から阿部野までこれといった川がありません。
何にもない使えない沼地の真ん中にわざわざ人集めて古墳作るなんて、もっと謎ですね。そんなところに墓作ったとしたら天皇バカにしてるやん。
私が住む所は地方の小さな町で名は知られていませんが、小さい古墳が幾つもあります。しかし今も田は殆ど有りません。戦前までは黒ぼく土で不毛の地で、人はあまり住んでいませんでした。しかし登呂遺跡のような遺跡があり、やじりも以前はよく見つかりました。地盤は硬い所です。近くに山と川があり、山のさち、川のさちで生活出来たのかと思います。このような所では古墳は開拓ではなく、墓として造られたのでしょうか?
橿原市在住の者です。耳成山(みみなしやま)と地元では呼びますが、最近のことなんでしょうか?
幾つか疑問があります。農耕の為に土地を平地に馴らす際にそれほどの残土が出るものだろうか?高い土地の土は低い土地に使われて全体が平らに馴らされるものではありませんか?また農耕に利用できるのは土地表面の柔らかい土だけです。手作業で掘り返せるような柔らかい貴重な土を古墳に使用するでしょうか?前方後円墳の周囲は広大な掘りで覆われています。『お掘り』を掘った膨大な土で古墳を作ったのではありませんか?お堀を掘った分の土砂を考慮すれば、掘り以外の部分から持ち込まれた土はそれほど多くないのではないでしょうか?
ご賢察の通り。「段築」を有する古墳は、1段目は外周の濠の掘削に伴う地山利用の残丘で、2、3段目のみ周濠掘削土による盛土です。古代の田畑も一辺数メートルの規模で、外周の畦の設置で残土は出ません。もはや全国各地で数え切れぬ程の水田跡の検出例があり、本動画のような虚はやがてばれます(「京奈和道 御所南PA」展示の古代水田跡の検出写真を参照)。
奥さんの名前初めて聞きました😊イワヒメノオオキサキ❤
13:43の写真は履中天皇陵ですね。仁徳古墳は写真の上の公園(大仙公園)の上にあたります。
あれはもともとどんと焼きをやったとこで、どんと焼きは本来、高師小僧か砂鉄を使ったタタラのような製鉄で、後から丘の坂の部分で天然のフイゴの風を使って、炉の温度上げて鉄を作ってたと思うんだけど。
素晴らしい内容です有難う御座います講談調なのも面白い、RUclipsの時代になって新聞テレビなんぞアホらしくて見ていられない
古墳がだんだん縮小していくのは、権力の大きさで説明しにくいですね。残土処理仮説は目からウロコですが、証明するのはすごく難しそうだな、と思いました。
画期的な説だと思うけど、水田遺跡は形がわかりにくいから、発見されないことが多いんだよなぁ…
私は専門家の端くれですが、動画でこの方の説が盛んに吹聴されながら、誰も反論しないのに驚いていました。恐らくこの動画主は発掘現場など見たことすら無いのでしょう。基本知識が誤解だらけで、解説が完全に素人です。外周に濠を巡らす三段築成の墳丘では、その1段目は削り出しで「地山利用」、2・3段目のみ「周濠排土利用の盛土」です。水田も、弥生時代以来一辺数メートル四方の規模で、外周に畦が必要で基本残土は出ません(別動画「世界の墳丘から416」、16:06~の京奈和道、御所南PAの、発掘された水田跡の展示写真参照。なお、これ以外に全国各地で多数の同様な検出例が豊ある)。それが、時代の進展で谷水田から次第に(河内)平野にまで広がったものです。そして、後の「大化の改新」の口分田では、より一層の大規模化で、多少の凹凸の修正が必要となった。堤防に関しても基本知識が無く、江戸時代までは大河でも急流の屈曲部のみしか堤防は存在しません(江戸時代の各地の大河川絵図を参照)。堤防が無いからこそ、大豪雨で洪水が平野に流出しても全体に多少水位が上がる程度で、集落もさして水没せず。河畔で多くの集落跡も検出されている。 古墳は、「倭の五王」の中国遣使で、皇帝から「安東将軍・倭国王」などの称号を授与されると(主な臣下もより下位の)、墳丘による権力誇示の必要が低減、やがて雄略・継体と「国造制」「部民制」「舎人制」の諸制度が整って位の差が制度化され、後の仏教伝来に伴う「氏寺造営」や「冠位制度」を経て、墓は次第に小規模化します。唯一、段築で3段築成のみ皇族関係者の象徴になります(近年の真の文武天皇陵の発掘例参考)。なお、誤解の無いように、聖帝「仁徳」とされていても最高権力者であり、排土の利用など経済的合理性とは無縁です。『書紀』伝承の仁徳の「仁愛」や武烈の「残虐」は、史書成立期において自らの皇統のより正当化のための意図が反映されていて、そのままを歴史的事実と思い込むのは、却って誤解を招きかねません。 余談ながら、念のため「ユダヤ人渡来説」も荒唐無稽な説です。ファンの多くは肩書(西洋美術史家T氏などは東大卒ゆえか)に幻惑される人も多いようだが、古代史を専門とする立場からは、問題外で論評に値しません。ともあれ、学問は専門外の人が簡単に異分野に口を挟めるほど単純では無いと言えます(ちなみに、同じ東大卒で元皇学館大学学長であり、古代史の専門の実力者であった故・田中卓氏なら一笑に付される筈)。その他多くの関連説も、無関係なものまで論理が飛躍した形で論拠にされていて、注意が不可欠です。(あまりに荒唐無稽な説に専門家がまともに反論すると、仲間内では笑い者に・・が批判説が無い故です)
@@邑人-k1s ご解説ありがとうございます。古墳の残土処理説は、相当苦しい印象ですね。私のコメントへの返信ですと他の人の目に触れないのが残念です。ユダヤ人渡来説、私も興味ありつつ、どうかな〜、という感じでした。あるときイスラエル人の同僚に事情を説明し、根拠の一つに数えられている、「古い日本語の謎の語彙がヘブライ語では意味が通る」をその場で試してみたのですが、本に書いてある数々の単語のうち8割方は、実際に意味が通って、お互いにかなり興奮しました。まさに素人歴史学ですが、これと諏訪大社のモリヤ山、イサクの祭は、ユダヤの影響なくして説明するのは難しいと考えています。もしよい説明があるならば是非伺いたい。私は科学者ですが、シュリーマンのような事例も実際にありますし、古代のことについては我々の知らないことのほうが多く、人類史を見ても科学も考古学も間違っていることは少なくない、と考えています。学界が重鎮の意見に支配されがちで閉鎖的なのも事実でしょう。一方で、健全な議論や批判が醸成されず、言いたい放題なのは、あまりよろしくない。この水田の例で言うなら、まずは定説のどこが問題か、から始めて欲しいですね。バランスが大切かと存じます。
@@ぬるまゅ-佐々木 失礼だが、もはや全国各地での検出例は数え切れぬ程です。最上段の[世界の墳丘から416 京奈和道御所南PA展示」の1例もぜひ参照されたい。
なる程🎉🎉その通りですね❤❤形が中東地域の壺の形に似ているのは、向こうから先進技術を伝えた人々が宗教的な意味を付けるために、壺型にしたのかな。米は人の飢餓を救う最高の穀物だったんですね!凄い。籾殻に包まれた米は10年以上保管できる。冷蔵庫がなくても!🎉🎉残土処理の山!なる程、ごもっとも!❤❤
やっと自分の説と同じ方がいらっしゃって嬉しいです。どう考えても残土の有効活用でしかないのです。古墳の周りに蓄えた堀の水も水田の水の供給元だったと思ってます。
質問です。私は市原市姉ヶ崎に住んでいますが、私の住んでる地域には古墳がたくさんありますが、田園が発達する地域ではないのですが、何故古墳があるのでしょうか?河川も近くになく、高台です。否定する気持ちはありませんが、何故なのか気になり質問いたしました。渡辺浩二
あやかりたくて真似たのでは?そちらの工事には、強制の人夫が使われたもしれませんね。悲しい歴史かもしれません。
旧地図を閲覧すると何かわかるかもしれませんね。現在の景色は、当時の景色とは違いますから。例えば、現在住宅街も時代により海だったり山岳地帯だったり、湿地帯だったりします。住宅街は特にその傾向が強いと思います。土木業の視点より。
上総の内房側には、古墳時代にはいわゆる「小国造」(「上総」「下総」などの律令国域より小範囲を治めた国造)が並立。富津・木更津・市原ではいずれも5世紀の朝鮮半島製の渡来品が出土しており、その点、半島派遣の倭軍を構成する「雄族」といえます。ご承知と思うが、市原には豪族のみならず「海部(あまべー海に依拠する集団で、戦時には海軍)」もいます。なお、本動画主さんの言う「残土処理説」は荒唐無稽な妄説です(近隣の資料館で学芸員にご質問を)。姉ケ崎二子塚古墳出土の「銀製垂飾付耳飾り(ぎんせいすいしょくつきみみかざり)」は、半島入手の品で、倭軍の中核として、南朝鮮に出兵した証拠と言えます。より正確な解説を望まれるなら、『千葉県史』のご一読をお勧めします(各市立図書館の蔵書にあります)。
小名木氏の説には首を傾げることが多いが、古墳残土処理説は着想が興味深い。実際のところは今だにわからないけども。
もう、歴史漫談家だなぁ。歴史版ケーシー高峰だと思って行くべきです。
古墳は権力の誇示が目的で造営。「倭の五王」以後中国の皇帝から「安東将軍・倭国王」の位を授与されると地位が安定(臣下もそれなりの称号を)、やがて時期を経て「舎人制」「部民制」、「冠位制」など諸制度の充実で、権力の誇示方法に変化が生じ、古墳は小規模化。仁徳も最高権力者であって、弟の「隼別皇子」とその妻「雌鳥皇女」の二人を弑逆。「仁徳=聖帝」、「武烈=悪逆帝」とは、『書紀』編纂時の天皇が自ら属す方の皇統をより美化する意図もあるので、全てをそのまま素直に信じるのは却って誤解を生じます。時代的背景を知らず、基礎知識も無いこの主さんは、ただの素人の「歴史の講釈師」そのままですね。歴史関係者で、JHQなど戦後すぐのみで、既に存在しない組織の意向に従う人などいません。素人の独断で社会に混乱をもたらすのでは無く、基礎知識の勉強し、まともな解説を願います。
関東平野の中央部付近、埼玉県の北部・行田市にも古墳群(さきたま古墳群)がありますが、やはり同じような経緯で造られたものなんでしょうね。
長野県の森将軍塚古墳は、山のてっぺんを削って作られています。
古墳については元々教科書説明には違和感を感じていた中、数年前にこの仮説を聞いて、目からウロコでした。そこからたまに古墳巡りをしていますが、今は残土処理は1つの理由としてはありますが、もっと多くのことに気付かされています。やはり水とは関係がありそうなのと、石にまつわる技術、独特な流線型を形作るその土木技術。土偶の土と火の技術。出土品に見られる勾玉や鏡、宝飾品加工の技術。相当高い文明を営んできたことが伺えます。最近は、この辺に古墳ありそう、という感覚が芽生えてきましたが、あれ何なのでしょうね?
やったー同じ考えです!嬉しい!泣きそう!
なるほど🤔学会✍️などに提出してください
なるほどなあ。実に面白い推察です。巨大古墳の後の小規模に移行したのは、仏教の伝来による現実利益を求めて、お墓を巨大化する必要性も無くなったというのがあるんじゃないかと思います。先生は権力のためではないと言われますが、大きな古墳は副次的に権力の象徴でもあったと思います。それが450年の間に現実利益の方に意識が変わってきた。大きなお墓で権力を見せつけなくても、仏教の土木建築や医学などの知識が力を持つ時代になっていったのではないかと推察します。縄文の埴輪から弥生の銅鐸、そして古墳から仏教(寺院)、そして戦国時代の力の時代に権力が移行していった。推察していくと実に楽しいですね
前方後円墳のかたちが問題なのです。そのことを解明する必要があります。
確かに、ただの残土処理だったら、鍵穴のような形にする必要ありませんよね?長方形か丸か四角になると思います。
食料(農地)確保のために整地したんだからシャレで食品保存容器の形にしたんだろ?
僕は「神社、太古からの自然崇拝信仰が古墳を造った」と思っています。以前に茂木先生にも書いたことがあるんですが、短く端折って要点だけを書きます。【計画時点での話】田んぼを広げるために土地を開拓し池と水路も作ることになった(施工業者は秦氏等)・出てきた土砂はどうするの?穢れているますよ(背丈以上の地下は黄泉の世界に通じている)・その土砂はできるだけ一ヶ所に集めて、崩れないように表面を葺石で覆って、シャーマン(神主さん)に祭祀をお任せしょう。 それでシャーマンは盛土にいろいろ祭祀用具を並べ死後も仕事部屋で祭祀を続けることになりました。仏教という科学が入ってくるに従いだんだん迷信扱いになっていった。(僕は土木の施工管理者でしたので、これぐらいなやり取りで始まったのではと思います)
耳成山(ミミナシヤマ)ではないですか? 田圃を作るのなら何もここまで平にして、巨大な山を脇に作る必要があったのだろうか? 段々に作る方がずっと楽だと思う。もちろん田圃開発を兼ねていた可能性は十分にあると思う。
極めて興味深い着想だと思います。ただ全ての古墳が、水田開発や水路建設の廃土の再利用と考えるのには無理があるとも思います。各地の古墳が墓として作られたものか、廃土が再利用されたものなのかを、古墳そのものと周辺の地形を総合的に調査する必要があるように思います。さらに、古墳が作られた時代のその周辺の人口や経済力が、結果として古墳を作るという土木工事を行いうるものか否かなど、ある程度の定量的な考察を交え、証明していく必要もあると思います。
200mの岩山山頂に造られた積石塚などこの説明ではちょっと厳しいですね・・・
面白い説かもしれないけど、疑問もあります。崇神、景行陵などは仁徳陵に次ぐ規模を誇っていますよね。現地に行けばわかりますが、これらの陵は平地じゃなく、山の斜面につくられています。わざわざ平地に盛り土すればいいものを、何故にここまで土を運び上げたのかな?また斜面に盛り土することは、極めて崩落の危険も伴うんじゃないですかね。
なるほど~関心しました!もしかしたらピラミッドとかも今言われている学説とは全く違う意味合いでつくられたものかもしれないですね
堺市の「古墳を世界遺産に!」のビデオの内容を肯定も否定もしない中立の立場ですが、動画を見て、内容に対して疑問が幾つか湧きましたので、書かせて頂きます。・古墳は、水田開拓の残土処理で出来た山(丘?)という理屈は、古墳が出来た過程の可能性として理解はしましたが、墓であることには変わりなく、「大きな山になったし立派な人の墓にしましょう」「立派な人の墓にするなら大きな山(丘)をあてがいましょう」という考え方は、一般的な人間の発想として、立派な人/偉大な人への敬意の表し方として自然なものだと思うので、古墳の大きさイコール墓に収められている人の「偉大さ」を示すものとしては、正解なのではないのか?・「水田開拓の残土の処理の結果古墳が出来たから、水田開発の残土が出ない時代になって古墳は見られなくなった」というストーリーはその通りかもしれませんが、だからと言って古墳の大きさが埋葬されている人の偉大さや権威とかと関係ない」とどうしていえるのか?・古墳時代の終盤には、立派な天皇と思われる人の古墳でも小さいものがある、とのことでしたが、単に時代の「流行り廃り」の結果ということはないのか?・「自然の山が周りにあるのに何で自然の山を使わない」という発言がありましたが、残土処理が理由と考えれば自然の山でないことの理由にはなりますが、「自然の山でないからこそ意味がある」という発想にはならないのか? 世に数多の人が存在し、墓を作るという文化まで出来ている時代で、特定の人の墓だけが大きく特異な形をもって作られるということは、墓の大ききや形やその場所(=平野に突然に山/丘がある!)の特異性が、埋葬されている人の偉大さや埋葬した人々の埋葬された人への敬意を表する尺度になっていたと考えられないのか?・何故、形が「●と台形」を足したようなものが多いのか? 動画中に中東の壺と形が似ているというコメントがありましたが、その二つの関係についての言及がなく、こちらとしては「だから?」となりました。
違うような気がします。残土処理のために古墳を作ったのではなく、古墳を作るために残土を利用したように思えます。
恐らく最初はお墓を作ろうとしたんじゃないでしょうかね。その後お墓と開墾がセットになっていき、そのことで経済が回り始めて列島の他の地域を圧倒する豊かさを手に入れることになったのかもしれません。
「仁徳天皇陵は宮内庁管轄であるが発掘調査を何でしないか」と子供の時から疑問に思っていたが、「盛り土説」で合点がいきました。何かしらの言い伝えとか資料が有って「盛り土」と知っていたから調査しなかっただけでしょう。さらに言えば権威の象徴に祭り上げていたから今更「触れないでおこう」となり「触ると祟る」としたのでしょう。
凄い勉強になりました。今まで習ったことの疑問が晴れました。😊
権力の大きさとも言えますが人々を想う心の大きさとも言えますね😊
17:22この見積もりは平地から盛り土をしたらという計算です。小さな古墳はともかく仁徳天皇陵クラスの大きさの古墳となると、もともと基礎になる天然の丘が、そこにあったかもしれない。もし基礎となる天然の丘に盛り土をしただけならさほど大きな時間と労力はかからない。古墳のどてっ腹にボーリング調査をして地層を調べれば判明するのだが、件の古墳は宮内庁が調査を許可しないのでデーターが少なすぎてわからないことだらけ。動画の中で古墳の近くに山があるのになぜわざわざ古墳をとの指摘はおっしゃる通り。でも、そこに最初から手ごろな丘があったとすれば山でなく、そこに土を盛った謎もうなずける。更に、丘があったと考える根拠は、周囲を囲う堀の深さに対して盛り上がっている古墳の土の体積が圧倒的に大きいから。平地に土を盛ったのであれば、それと等しい体積の窪地ができるはずだが、該当する窪みが仁徳天皇陵の周囲には見つかっていない。以上手間や人足を養う経費の面からも、盛り土を掘った大規模な窪地が周囲に見つからないことからも、これらが指すものは、仁徳天皇陵は平地に土を盛ったものではない可能性が大きいということ。天然の丘の周りに堀を掘り、その土を盛って形を整えた程度の土木工事なら仁徳天皇陵規模の大きさでも当時の経済規模で十分実現可能な事業であったろう事が推測される。
この人は、自分の間違いに気付かない人です。
失礼だが、全く基礎知識も無いただの素人の「講談師」で、多くの専門家も敢えて相手にしません。仁徳天皇自体も4世紀では無く5世紀の天皇だし、そもそも『日本書紀』は飛鳥時代では無く、奈良時代の歴史書です。なお、今も我が国の歴史学界がJHQの意向に従っているという指摘は、全く事実と異なる出鱈目に過ぎません。古代史の基本から学び直しを!
Erzurum から60.00方向に、7968km ,およそ37 Gematriaの距離に、アヌンナキがヒト奴隷を酷使して金精練するエリアの拠点を創りました。其れが、後になりアヌンナキが去った、居抜き物件となり、豪族が我が物として流用したんです大仙陵古墳です❗ Erzurumとは、エデンだそうですから、我々は、ヒト奴隷でした。彼らの餌でした‼️ 古墳のオリジナルは数万年前にアヌンナキのエンキが太陽系天体サイズモジュールの相互距離を測り、配置していますボタ山などではありません‼️
仰る通りだと思います。意図的に古墳や日本を貶めたいな様に解釈しているのでは?と思う
年度は忘れましたが、大阪るるぶの古墳紹介で支配層が権威をみせつけるために作られたみたいな解説があり、びっくりしました💦
残土というか、田んぼとかに適さない石とかですよね。なのでその理論が正しければ、古墳の内部を調べれば、石が沢山で構成されているはずですので、調べればよいですよね。残土という意味で言えば処理するというよりも、保管するつもりの方が強いように思いますし、古墳自体は石で作られ、時代を経て砂山になっていったのではないかと私は想像しています。まとはいえ、大きいのを作ろうとしたらその分、労力は必要なはずなので、やはり権力の象徴という意味で言えば、そういった背景が無いとは言えないでしょうから、あながち教科書も間違っているとはいいがたいものがあります。
服装品が中東由来?面白いな〜思いました残土処理で古墳に利用たしかに。じゃあ古墳のデザインどうしよか。シュメール系の渡来人の影響が あったとしたら テルが似てるなぁ 思いました。縄文の話しに なりますが 土偶の形がシュメールの土偶と一緒なんですよね。古墳もシュメールの影響 受けてるとしたら 世界はつながってるな。そう思いました
墓なのは確実です・・・が、開拓の必要にかられて近場に残土処理の場所を兼用したという説はひとつの見方ですね・・・
細かい事ですが耳成山は古墳だったと聞いてました。自然の山に作ったのかも知りませんが立入禁止になっていたと近所に住んでいる人が言ってました。
実際に田んぼや畑を作って作物を何年か作ってみた方が良い
山は神聖な存在としている面もあるのでは? 自然に対する畏敬の念は、現代の私達には計り知れない感覚かもしれませんが、、
全くその通り。私は森林土木をやっていますので、盛り土、切り土、切り盛り、水切り、水対策は基本。日本の地形は起伏が多いので、街を作る前に徹底的に整地作業しておけばもっと便利で自然災害にも強くなっていただろうにと想像しています。残土処理のために古墳を設けたことは生活感覚にあっています。歴史家さんたちは生活感覚なしで理屈をこねたのでしょうかね。土木作業の経験があれば権威付けのストーリーは嘘くさいですよ。歴史の常識、どんどんひっくり返してやってください。
😅😅😅😅😅
残土なんかでないと思います
当時はトラックだけでなくショベルカーもありません
田んぼを作るのに掘るだけで作るわけがありません
先生が言うとおり原野は起伏だらけです
当然、高い所を削った土は低いところに捨てるのです
人力てすからなるべく楽したいわけです
あそこの丘を削って、あそこの沢を埋めれば、だいたい平らになるなと見当をつけて開墾したとおもいます
開墾は古墳時代以降も日本中で行われましたが、その都度、平地に小山ができるほど残土が出たなんて話はありません
低いところに捨てるのです
@@ichigo55 「残土だけ」ではないでしょうね。しかし残土として集めた量は相当ではないでしょうか。とくに石。これは農業には厄介ですが、集めると便利。堤防や高台を築くときは、石を大中小に分別し、崩れないように積み重ねていく。だから集めておくんです。厄介だけど貴重ですよ。私はショベルカーなしでも護岸工事などの土工をやりますので、経験則からだいたい想像がつく。切土したときに出た石は集めるんですよ。これが何十人とか何百人が組織的に毎日やれば山ぐらいできるでしょう。当時はショベルカー抜きで相当苦労されたと思いますが、できないことはない。「残土が出たなんて話はない」→ないと断定するのは相当難しい(悪魔の証明)。気をつけましょう。筋を変えて反論ぽいこととを言われ、とりあえず「だけではない」としておきましたが、こんなスミを突くような議論はしたくなく。ちょっと不快でした。
まっ平だから、田んぼ・・・・。堺や松原、藤井寺あたり、1mも掘れば水がでるんんちゃうかな。今が平地だから、山崩して平地にした? あまった残土を古墳使ったって発想になるのかもしれんが、わざわざ残土を盛土にするって話、一見、無駄を省いて効率的な話をしてるが、運ぶのがどんだけ大変か。そもそも、東大阪は海で、上町台地が半島のようにしたから伸びていて湾になっていた。で、むかしは大和川はそっちに流れていた。たとえば、浚渫して航路を確保して余った土がでても港湾整備に使えるし、残土処理に困るって状況がないように感じますね。治水や水路を縦横に広げていくためにあまった土を一か所に盛ったとするならまだしも。土地の成り立ちは、地層調べりゃすぐわかる話、古墳の土を調べればどこから持ってきたかすぐわかる話。悪魔の証明でも何でもない。もちろん、古墳を作る時に必然的に大量な土が必要なのは当然の話なんで、たとえ、祈祷師が神託うけたとしても、大量の土を工面できる場所を選ぶはずなんで、堺、松原、藤井寺あたりを選んだ理由がある。土を船で運んだって話はそうだと思います。もともと海面すれすれの湿地帯、掘れば簡単に水路を作れる。そんな低い土地だったから選ばれたんじゃないですかね、知らんけど。
知識が豊富におありのようですが、浚渫とか港湾整備とか時代性がばらばらです。川の流れは昔は十年、百年の単位でいくらでも変わっています(だから平野が形成されました)。海抜も変わります。話がモリモリすぎて、何を反対されているのかよく分かりませんでした。私は残土処理説は生活感覚に近いと支持したうえで、残土処理だけではないとコメントしました。王の権威付けのストーリーにも共感する部分があるからです。しかしもし、残土処理を全否定すれば、悪魔の証明をしなければならなくなり、不毛な反論にしかなりません。それでももし残土処理はありえないとお考えでしたら、おっしゃるように地層を調べられたらどうでしょうか(すぐ分かる話なんですよね)。私はそんな研究は、役に立つものになるのかどうか疑問です。
本来の古墳の由来を学び、感動したとともに非常に説得力のあるお話でした。小学生の我が子のために興味を引ける内容を探していたところ、本チャンネルに行き着きました。子供にもしっかりと本チャンネルの内容を教えたいと思います。ありがとうございます。
上州の古墳の副葬品はシュメール文明の黄金の仮面やブレスレットなどの貿易品が出土しています。
何をがいわんやと分かるはず。
残土処理場を芸術的な形に整えて墓としても利用するというのが日本人らしいと思いました。もったいない精神ですね。
田舎に住んでいます。自宅がある住宅地から小高い丘のような古墳が見えるのですが、古墳の周囲は水田に囲まれています。
しかも、古墳からすぐ近いところには大きくはないですが、川が流れていて堤防があります。
水田があるほぼ中心部になぜ古墳があるのかと長年疑問に思っていました。
水田を作りつつ残土処理のために古墳を作ったとの解説を聞いて、思わずなるほど!と声が出ました。
全く仰る通りです。大阪堺在住ですが普段から古墳を見て資料を調べると土木や水の災害を防ぐ役目にも古墳になってもいるんですよね❤古墳は治水の役割も堺市の歴史の史実書いてありました。
後は大和王権や日本書記、古事記で歴史を更にひっくり返してほしい思いです。GHQの自虐史観を日本人は自分の歴史を取り戻してほしいと思います。
全て正しいとは限らない。真に受けない方がいい。
に
@@アスカ人アスカあなたの考えもまた否定します😂全てあなたに返す😂
小名木先生ありがとうございます。
これが当たり前の学校教育として日本人に浸透していってほしい
100年後今の日本が語られるとき、今だけ金だけ自分だけの政治家と役人が蔓延り、これによる増税に国民が苦しむ暗黒の時代と言われるだろう。
仁徳天皇のような政治家を誕生させるには小名木先生の教育が大切、日本を愛し護るそしてかっこいい精神を養ってもらいたい。
これさえも地上波では放送させてはいけない話なんでしょうね。
CGS、参政党、結大学にて発信して、自信で考える事を学ばさせてもらいました。
ありがとうございます。
糞結び少学校
子ども達、大人も含めて本当の学びができる時代に早くなって欲しいです。
特に疑問に思っていたわけではないのですが
この上なく納得しました。
ありがとうございます。
古墳時代中期の堀を持った巨大古墳は灌漑の為の貯水が主目的だったと思います。何故なら仁徳、履中、応神、允恭の各天皇陵は丘陵の尾根部に造られているからです。堀を掘った土で墳丘を盛ったと思います。
目からウロコです。
古墳が集まったところはそれだけ大規模に工事が行われたということですね。
アンコールワットも治水のための造営って言われてますね。
治水は国家なり
小名木先生のお話を伺って本当の古墳がわかりました。従来の説は、歴史学者だけの狭い視野に基づいて作られたため、誤った説になったように思います。歴史、土木、地質、人類学、などの多様な専門家を集めて古墳を研究し直せば、小名木先生の説を補強してくれると思います。古
今の教育はこういうことを何故教えないのか? 自国に誇りを持てるようになり、ひいては自国の未来につながるのに。。。
最後スカッとしました。ありがとうございました。
ものすごく納得しました✨✨筋が通っている。
学校て習うことは気持ち悪い感触で終わってましたが、歳を取っても学べる時代に感謝です。
俺たちに出来ないことを平然とやってのけるッ!
そこにしびれる!
憧れるぅ!
おお、自分がなんとなく感じていた事と全く同じ事を、とても分かり易く纏めておられますね! 自分もユンボで法面バケット装着して盛り土を整形してますが、大規模な土木工事、整地を行えば当然生まれるのが残土問題ですしね、ブルとか無いし。前から古墳は土置き場に似てるというか、もしかするとそのものだったり? とか考えていましたが、大阪平野のど真ん中に作られた最大の古墳・仁徳天皇陵と、仁徳天皇の行われた大規模土木工事が重なるという事が、まさに目の鱗です。そして、時代は治水灌漑の時代へと移ってゆく事で、大きな古墳は八岐大蛇を制する【堤防】へと姿を変えていったのですね!
とても興味深く拝見させて頂きました! あと、古墳時代は埴輪の時代でもありますが、自分の地元千葉のアレ埴輪と古代房総の関係を解き明かしてゆきたいですね。
古墳の大きさと開いた田んぼの面積が比例するわけですね。物凄く合理的な事業だったと分かりました。
日本には鞭打たれて労役をさせられる人などいなかった。皆で豊かになるように頑張っていたんですね。
教科書に絶対載せるべき歴史ですね。
先生の解説通りだと思いますよ✨
国民が汗をかいて田んぼを開拓
山を削り集めた土でその土地の指揮官や有力者の墓を守り神とした✨
素晴らしい講義を聞かせて頂きました。子供の頃、歴史がつまんなくて理系に進みましたが、初めて合理的で筋の通ったワクワクする歴史を聞きました。古墳は土木、治水工事の残土の有効活用の結果である、古墳に関して初めて納得できる解説に出会いました。楽しかったです。ありがとうございました😊。
とても勉強になりました!推理小説より面白く、当時の現実生活からの必然を考える楽しさ。バイアスのかかっていない歴史の勉強ほど楽しいものはないです。
32:47 田んぼは水を入れる事で微生物の活動やリンなどが補給され栄養豊富な泥となり毎年田植えしても連作障害の問題が起きないだけでなく、
秋に収穫が終わった乾いた田んぼを耕して冬野菜や春野菜を育てる事が出来ます。そして6月になれば土を耕し水を入れてまた稲作をする事が出来る。
場所によっては秋の11〜4月迄は麦を栽培し、6〜10月は稲作と言う事も容易に出来ます。日本の稲作は昔から河川や溜池から来る水を使って微生物や両生類、魚類、鳥類等から小動物に至るまで共存共栄をさせて、不足する栄養素を水田で作り取りこんで来ました😊
これが日本の“里山”と言う自然の営みと繋がった共存共栄の生き方であり、縄文時代から続く重要な文化だと思います。
連作障害は土壌の栄養分が欠乏するだけではなく、植物が栄養吸収する為に根から微弱な酸を放出して土砂を溶かす事でも起きます。自分が放出した毒を自分で吸収してダメージを受ける自家中毒という面もあるんです。水田はそうした植物自身が土壌に放出した毒成分を洗い流してくれるので、永続的に連作可能になる訳です。
植物は基本的に無機質でないと根からは吸収できないので、土壌に酸を放出して吸収できる栄養(無機質)を確保しています。
これが本当の永続可能な生き方考え方であり、いにしえ(古)に深く学び実践する、ということですね。
古の日本人の素晴らしさをまたまた思い知らされました。
仁徳天皇は、「民の竈はにぎわいにけり」の人。大規模な水田開拓で人々が豊かになったのを喜んだ天皇。その残土の広大な盛り土にお墓を作ったとなると、人々と仁徳天皇の結びつきの強さ、温かさ、天皇への民衆の思慕の深さがしのばれます。
すごく合理的な考え方ですね😊日本の歴史には、滅茶苦茶興味あるんですよね~♬これからも解説動画を楽しみにしてます😊♬♬
ありがとう✨✨
仁徳天皇の民のかまど。
しかし古墳は権力の象徴であると思っていましたので、晴れた思いです。
ありがとうございます。
これは良い事教えて頂けました。ありがとうございます。
貴重な情報ありがとうございます。共有させてください。
酷いことばかり起こる世の中に辟易した時に、このチャンネルの特に小名木先生の動画を見て勇気をいただいています。
今では自身を奮い立たせる時の合言葉になっています。
「日本を格好良く!」
古墳造りの目的は、農業用水確保のための溜池造りですね。墳墓の廻りに大きな堀を造ることで農業用水池ができます。
葺石の目的が、土砂崩壊の土留めですか。納得です。
福岡県南部八女市の近所に岩戸山古墳初め 数百基の古墳群がありますが 全て 見晴らしの良い 自然の丘隆地の上に 築かれています。眼下に広大な筑後平野が 広がってます!
この説とは違いますね
有明海の海岸線がもっと陸地よりだったんじゃね
熊本の山奥である和水町にある古墳群の所で貝塚あったんだし
何十人、何百人居るか知りませんが、歴史学会員束になっても、小名木先生1人分に満たない知性である事は理解できました。😊
あの学者さん達は権威に縋る御用学者ですから😅
まともな学者がこんな小学生の思いつきにまともに反論する方がどうかしている。
残土処理なんてバカバカしい。
なるほどです。先生から「えぐい」という言葉が出るとは。現代語、流行言葉等にも精通されてるのは流石だなと思いました。
子供の時から、これが疑問だったのですよ。権力や地位を示すものであれば、時代と共に巨大化することはあっても、段々と小さくなっていくなんてあり得ないと思っていたんですよね。やっと腑に落ちました。
矢作川沿いには、縄文時代の堤防遺跡が、数Km単位で発掘されています。
3世紀から4世紀の土木工事技術は、縄文時代からの伝統があったのかもしれません。
この堤防周りの遺跡は、弥生以後の遺跡が無く、鎌倉時代以降にまた集落の遺跡があったそうです。
この発掘の事実から考えると、日本には縄文時代から素晴らしい土木技術があったと思えます。
仁徳天皇の話は、発掘された事実から推測すれば、実際にあっただろうと思えます。
その時、列島に優れた土木技術? 薬を間違って飲みましたか? 到来人の影響を必死に否定する姿が可愛いね~
さきたま古墳群とその周辺地域に展開する広大な水田がまさに当てはまると思います。
消費税、政府がその気になれば下げても問題ないんですけどね。財源は日本円建ての日本国債で良い。政府は日本円建ての負債であれば、日本国民の生産能力が許す限り延々発行できます。政府には日本円の発行権があるのだから。
半分以上正しくて、半分以下間違いですね。別に日本円建てでなくても、バランスシートが均衡するなら大丈夫です。世界の基準?はそれです。だから2018年10月にIMFが日本の財政再建は達成されたと世界に向けて発表したし、ノーベル経済学賞の人達が日本の財政は問題ないというのもバランスシートをみていっているし、IMFだったと思うけど先進国の中で日本はカナダに次いで2番目に財政が良いと言っているのもバランスシートから出されているからです
日本円建てに拘るのは、返済が不要で、日本国が存在する限り、延々借り換えで済むからです。
@@とらねこ-v3h オカルトMMTに近い考え方だと思ったので、半分正解、半分間違いだと書きました。返済不要という前提で借金をすると、とても危険ですよ。まあ勉強してください
歴史ってある一時代に興味を持ったり知っていたりすると芋づる式に調べ出すから歴史に詳しく慣れますよね。
私は戦国時代に興味があったからそこから時代を前後してどんどん調べるようになりました。
あと艦これって言うゲームで近代日本史も勉強しだしました。
歴史は楽しいし愛国心も高まりますよね。
本当面白いくらい納得しかありません。
感謝します☺️💚😭
素晴らしいです!
仁徳天皇の民の竈の功績を日本のリーダーは見倣ってほしい。世界がコロナの時に減税したのに、小名木先生よくぞおっしゃってくださいました👏👏👏
現代なら河村市政が実証してますね!
勉強になりました。
小名木先生の理論には非常に説得力がありますねっ。私も残土処理して盛られた場所を墓地として利用した可能性は高いと思います。
日本には奴隷労働のような文化は無かったと考えています。
沼地の干拓や、氾濫する河川の改修は、纒向遺跡の時代から行われていたと思います。浚渫によって掘り出された大量の石は、古墳の葺石として敷きつめられたものと想像しておりました。それが豊葦原の瑞穂の国の成り立ちであり、鉄製武具の普及よりも、大規模な稲作の発展こそが、古代大和政権の勢力拡大の上でより重要であると考えます。敢えてここで異論を申し上げるなら、天智天皇の時代の百済大寺やその後の大官大寺は、権力の誇示として絶大なインパクトがありました。仏教の宇宙観を具現化した五重の塔(五大=法身仏の全身)をあえて九重の塔にして示されるのが何かといえば、そこに時代に即した権力誇示の有り様が伺えるものと思うのです。
なるほど、日本において、災害用の食料備蓄には玄米が優れてるんだ。 お米ってすごいね。
非常におもしろい見方で勉強になりました!
仁徳天皇のかまどの民の話、岸田政権、財務省にも見習ってほしい。けど、まぁ無理だろうな。
なるほどー! どんな話を言い出すかと思えば、さすが小名木先生だ!
古墳時代には「水車」が無いから、完全な平地に大規模な田んぼは作れてないよ・・。古墳時代の田んぼは穏やかな丘陵地に作られている。平野部の田畑が増えてくるのは墾田永年私財法以降・・。さらに言えば戦国時代の堺周辺の古地図が残っているが、古墳回りはほとんど小さな集落があるのみで、田畑など無い。戦国時代ですら平野の大部分は湿地か荒れ地のままだったのだ。ここら辺の基本を押さえていない説だと思う。時代考証してない単なる想像だと思う。
とても良いお話でした。利他の心が遥か昔から感じられますね。
先生、今回少しマイクが遠いようで。ご参考にして頂けると幸いです。せっかくの内容ですのできちんと拝聴したいと感じました。
私の動画も、聴き取り難いとコメが来ますので、私側の問題もあるかと存じます😸次回も楽しみにしております
面白い。楽しい。他の動画も観させてもらいます
そう考えれば殆どの疑問が解消されますよね。できた高台は水に浸からないので様々な用途に使えますね。墓だけでなく祭りや集会、使えなくなった用具の廃棄など、、大雨でも流されない場所です。皆で作った皆の場所。
仕事で海外数か国に住み、その周辺国にも出張で出かけることがありました。その生活で明確に分かったのは、ユーラシア大陸の民族はヒエラルキー意識の強い人たちである一方、日本を含め環太平洋の人々はヒエラルキー意識が弱いのです(ヤップ島を除く)。また、ユングの深層心理解釈で言えば、日本を含めて環太平洋地域は母性原理に基づく地域で、ユーラシア大陸は父性原理に基づく地域とも言えるでしょう。現在の歴史解釈の基本はヒエラルキー意識の強い父性原理に基づくユーラシア大陸民族を基としたもので、人間の意識が根底から異なる日本歴史理解には適さないと思っています。
仁徳天皇の皇后様についても言及されていますが、そこにも母性原理の存在が現わされていますし、天照大御神が女性神であったり、卑弥呼(これはC国人が日本を下に見ての表現で「日巫女」あたりが妥当な漢字だと思っています)や推古天皇ほか、日本の歴史に登場する女性のリーダーにも現わされていると思っています。
ところで、韓国で前方後円墳が発見され、発掘していく中で「倭人の墓だ」と分かり、慌てて埋めた事がありました。また、稲作が縄文人による日本初の可能性も出てきているようです。このような事からもコペルニクス的発想で、「日本発」もあることを見直さなくてはならないと思っています(東北大学の先生で「大陸からの遣日使も有った」と言われている方もいらっしゃいます)。
何でもかんでも大陸から朝鮮半島経由で日本に入って来た、と頭から信じ込んでいる学者の頭の固さには驚くしかありません。GHQ統治時代に日本の国力低下を目的として、十数万人もの日本を愛する教育関係者を一掃した一方、共産主義を信奉する教育者ばかりに入れ替えました結果かもしれません。共産主義概念の前提の一つには強いヒエラルキーがあり、それに基づいた「搾取」概念や「階級闘争」というものも存在するからです。
仁徳天皇様が6年間免税されたことは知る人ぞ知る話(ここにもユーラシア大陸の民族とは異なるヒエラルキー意識の違いが見られると思います)ですけれど、農業生産性を高めていないと一時的な効果しかありません。彼が治水も含めて各種農業土木工事に力を入れた事は非常に重要だと思われ、そこにも触れられていることは大変重要だと思われます。
農業土木工事が落ち着いて来るともに残土処理の必要が無くなり、残土処理の一環であった古墳もだんだんと収束していくことにも頷け、今までの歴史解釈では???な部分も大変スッキリと理解できました。ありがとうございました。
その説に賛同します。
世界文化遺産に登録するということは極めて政治色が強い。地元の観光業発展に期待するのもわかるが、国際社会に認められる為に政治的に配慮しなくてはならない。海外にアピールするだけなら忖度なく歴史的真実や中立的な解釈で訴えたほうがいい。
地元観光業の資本が海外勢中心になればなるほどブランド力を高める力も強くなるが、同時に歴史の解釈が歪められていくね。
古地図と一緒に見せてくれるとわかりやすいなぁ
アイヌ民族の真実の歴史を解説してほしいです。
ロシアの牽制のため。広く日本人に知っていただきたいです。
大仙古墳付近は百舌鳥野と呼ばれておりました。野ですから田ではありませんでした。その付近は台地で川もなく、灌漑用の用水路がもっと内陸から引かれるのは奈良時代以降でしょう。多治比嶋のそのむすこ池守、水守、縣守の時代に鍛冶、金属業をしながら木を切り、土地を開発者したと思います。古墳時代水田にするならもう少し南に石津川の低地か河岸段丘上があるのでそこでできます。写真の古墳横の縦横の道路は、近年に住宅地として開発したときに作られたものと思います。ちなみに古墳の濠が灌漑に使われたのも後代とおもいます。百舌鳥野から阿部野までこれといった川がありません。
何にもない使えない沼地の真ん中にわざわざ人集めて古墳作るなんて、もっと謎ですね。
そんなところに墓作ったとしたら天皇バカにしてるやん。
私が住む所は地方の小さな町で名は知られていませんが、小さい古墳が幾つもあります。しかし今も田は殆ど有りません。戦前までは黒ぼく土で不毛の地で、人はあまり住んでいませんでした。しかし登呂遺跡のような遺跡があり、やじりも以前はよく見つかりました。地盤は硬い所です。近くに山と川があり、山のさち、川のさちで生活出来たのかと思います。このような所では古墳は開拓ではなく、墓として造られたのでしょうか?
橿原市在住の者です。
耳成山(みみなしやま)と地元では呼びますが、最近のことなんでしょうか?
幾つか疑問があります。農耕の為に土地を平地に馴らす際にそれほどの残土が出るものだろうか?高い土地の土は低い土地に使われて全体が平らに馴らされるものではありませんか?また農耕に利用できるのは土地表面の柔らかい土だけです。手作業で掘り返せるような柔らかい貴重な土を古墳に使用するでしょうか?前方後円墳の周囲は広大な掘りで覆われています。『お掘り』を掘った膨大な土で古墳を作ったのではありませんか?お堀を掘った分の土砂を考慮すれば、掘り以外の部分から持ち込まれた土はそれほど多くないのではないでしょうか?
ご賢察の通り。「段築」を有する古墳は、1段目は外周の濠の掘削に伴う地山利用の残丘で、2、3段目のみ周濠掘削土による
盛土です。古代の田畑も一辺数メートルの規模で、外周の畦の設置で残土は出ません。もはや全国各地で数え切れぬ程の水田
跡の検出例があり、本動画のような虚はやがてばれます(「京奈和道 御所南PA」展示の古代水田跡の検出写真を参照)。
奥さんの名前初めて聞きました😊イワヒメノオオキサキ❤
13:43の写真は履中天皇陵ですね。仁徳古墳は写真の上の公園(大仙公園)の上にあたります。
あれはもともとどんと焼きをやったとこで、どんと焼きは本来、高師小僧か砂鉄を使ったタタラのような製鉄で、後から丘の坂の部分で天然のフイゴの風を使って、炉の温度上げて鉄を作ってたと思うんだけど。
素晴らしい内容です有難う御座います
講談調なのも面白い、
RUclipsの時代になって新聞テレビなんぞアホらしくて見ていられない
古墳がだんだん縮小していくのは、権力の大きさで説明しにくいですね。残土処理仮説は目からウロコですが、証明するのはすごく難しそうだな、と思いました。
画期的な説だと思うけど、水田遺跡は形がわかりにくいから、発見されないことが多いんだよなぁ…
私は専門家の端くれですが、動画でこの方の説が盛んに吹聴されながら、誰も反論しないのに驚いていました。恐らくこの
動画主は発掘現場など見たことすら無いのでしょう。基本知識が誤解だらけで、解説が完全に素人です。外周に濠を巡らす
三段築成の墳丘では、その1段目は削り出しで「地山利用」、2・3段目のみ「周濠排土利用の盛土」です。水田も、弥生
時代以来一辺数メートル四方の規模で、外周に畦が必要で基本残土は出ません(別動画「世界の墳丘から416」、16:06~
の京奈和道、御所南PAの、発掘された水田跡の展示写真参照。なお、これ以外に全国各地で多数の同様な検出例が豊ある)。
それが、時代の進展で谷水田から次第に(河内)平野にまで広がったものです。そして、後の「大化の改新」の口分田では、よ
り一層の大規模化で、多少の凹凸の修正が必要となった。堤防に関しても基本知識が無く、江戸時代までは大河でも急流の
屈曲部のみしか堤防は存在しません(江戸時代の各地の大河川絵図を参照)。堤防が無いからこそ、大豪雨で洪水が平野に
流出しても全体に多少水位が上がる程度で、集落もさして水没せず。河畔で多くの集落跡も検出されている。
古墳は、「倭の五王」の中国遣使で、皇帝から「安東将軍・倭国王」などの称号を授与されると(主な臣下もより下位の)、
墳丘による権力誇示の必要が低減、やがて雄略・継体と「国造制」「部民制」「舎人制」の諸制度が整って位の差が制度化
され、後の仏教伝来に伴う「氏寺造営」や「冠位制度」を経て、墓は次第に小規模化します。唯一、段築で3段築成のみ
皇族関係者の象徴になります(近年の真の文武天皇陵の発掘例参考)。なお、誤解の無いように、聖帝「仁徳」とされてい
ても最高権力者であり、排土の利用など経済的合理性とは無縁です。『書紀』伝承の仁徳の「仁愛」や武烈の「残虐」は、
史書成立期において自らの皇統のより正当化のための意図が反映されていて、そのままを歴史的事実と思い込むのは、却っ
て誤解を招きかねません。
余談ながら、念のため「ユダヤ人渡来説」も荒唐無稽な説です。ファンの多くは肩書(西洋美術史家T氏などは東大卒ゆえ
か)に幻惑される人も多いようだが、古代史を専門とする立場からは、問題外で論評に値しません。ともあれ、学問は専門外
の人が簡単に異分野に口を挟めるほど単純では無いと言えます(ちなみに、同じ東大卒で元皇学館大学学長であり、古代史の
専門の実力者であった故・田中卓氏なら一笑に付される筈)。その他多くの関連説も、無関係なものまで論理が飛躍した形で
論拠にされていて、注意が不可欠です。(あまりに荒唐無稽な説に専門家がまともに反論すると、仲間内では笑い者に・・が
批判説が無い故です)
@@邑人-k1s ご解説ありがとうございます。古墳の残土処理説は、相当苦しい印象ですね。私のコメントへの返信ですと他の人の目に触れないのが残念です。
ユダヤ人渡来説、私も興味ありつつ、どうかな〜、という感じでした。あるときイスラエル人の同僚に事情を説明し、根拠の一つに数えられている、「古い日本語の謎の語彙がヘブライ語では意味が通る」をその場で試してみたのですが、本に書いてある数々の単語のうち8割方は、実際に意味が通って、お互いにかなり興奮しました。まさに素人歴史学ですが、これと諏訪大社のモリヤ山、イサクの祭は、ユダヤの影響なくして説明するのは難しいと考えています。もしよい説明があるならば是非伺いたい。
私は科学者ですが、シュリーマンのような事例も実際にありますし、古代のことについては我々の知らないことのほうが多く、人類史を見ても科学も考古学も間違っていることは少なくない、と考えています。学界が重鎮の意見に支配されがちで閉鎖的なのも事実でしょう。一方で、健全な議論や批判が醸成されず、言いたい放題なのは、あまりよろしくない。この水田の例で言うなら、まずは定説のどこが問題か、から始めて欲しいですね。バランスが大切かと存じます。
@@ぬるまゅ-佐々木 失礼だが、もはや全国各地での検出例は数え切れぬ程です。最上段の[世界の墳丘から416 京奈和道
御所南PA展示」の1例もぜひ参照されたい。
なる程🎉🎉その通りですね❤❤
形が中東地域の壺の形に似ているのは、向こうから先進技術を伝えた人々が宗教的な意味を付けるために、壺型にしたのかな。
米は人の飢餓を救う最高の穀物だったんですね!凄い。籾殻に包まれた米は10年以上保管できる。
冷蔵庫がなくても!🎉🎉残土処理の山!なる程、ごもっとも!❤❤
やっと自分の説と同じ方がいらっしゃって嬉しいです。どう考えても残土の有効活用でしかないのです。古墳の周りに蓄えた堀の水も水田の水の供給元だったと思ってます。
質問です。
私は市原市姉ヶ崎に住んでいますが、私の住んでる地域には古墳がたくさんありますが、田園が発達する地域ではないのですが、何故古墳があるのでしょうか?
河川も近くになく、高台です。
否定する気持ちはありませんが、何故なのか気になり質問いたしました。
渡辺浩二
あやかりたくて真似たのでは?そちらの工事には、強制の人夫が使われたもしれませんね。悲しい歴史かもしれません。
旧地図を閲覧すると
何かわかるかもしれませんね。
現在の景色は、当時の景色とは違いますから。
例えば、現在住宅街も時代により海だったり山岳地帯だったり、湿地帯だったりします。住宅街は特にその傾向が強いと思います。土木業の視点より。
上総の内房側には、古墳時代にはいわゆる「小国造」(「上総」「下総」などの律令国域より小範囲を治めた国造)が並立。
富津・木更津・市原ではいずれも5世紀の朝鮮半島製の渡来品が出土しており、その点、半島派遣の倭軍を構成する「雄族」
といえます。ご承知と思うが、市原には豪族のみならず「海部(あまべー海に依拠する集団で、戦時には海軍)」もいます。
なお、本動画主さんの言う「残土処理説」は荒唐無稽な妄説です(近隣の資料館で学芸員にご質問を)。姉ケ崎二子塚古墳
出土の「銀製垂飾付耳飾り(ぎんせいすいしょくつきみみかざり)」は、半島入手の品で、倭軍の中核として、南朝鮮に出兵し
た証拠と言えます。より正確な解説を望まれるなら、『千葉県史』のご一読をお勧めします(各市立図書館の蔵書にあります)。
小名木氏の説には首を傾げることが多いが、古墳残土処理説は着想が興味深い。実際のところは今だにわからないけども。
もう、歴史漫談家だなぁ。
歴史版ケーシー高峰だと思って行くべきです。
古墳は権力の誇示が目的で造営。「倭の五王」以後中国の皇帝から「安東将軍・倭国王」の位を授与されると地位が
安定(臣下もそれなりの称号を)、やがて時期を経て「舎人制」「部民制」、「冠位制」など諸制度の充実で、権力
の誇示方法に変化が生じ、古墳は小規模化。仁徳も最高権力者であって、弟の「隼別皇子」とその妻「雌鳥皇女」の
二人を弑逆。「仁徳=聖帝」、「武烈=悪逆帝」とは、『書紀』編纂時の天皇が自ら属す方の皇統をより美化する意
図もあるので、全てをそのまま素直に信じるのは却って誤解を生じます。時代的背景を知らず、基礎知識も無いこの
主さんは、ただの素人の「歴史の講釈師」そのままですね。歴史関係者で、JHQなど戦後すぐのみで、既に存在しな
い組織の意向に従う人などいません。素人の独断で社会に混乱をもたらすのでは無く、基礎知識の勉強し、まともな
解説を願います。
関東平野の中央部付近、埼玉県の北部・行田市にも古墳群(さきたま古墳群)がありますが、やはり同じような経緯で造られたものなんでしょうね。
長野県の森将軍塚古墳は、山のてっぺんを削って作られています。
古墳については元々教科書説明には違和感を感じていた中、数年前にこの仮説を聞いて、目からウロコでした。
そこからたまに古墳巡りをしていますが、今は残土処理は1つの理由としてはありますが、もっと多くのことに気付かされています。
やはり水とは関係がありそうなのと、石にまつわる技術、独特な流線型を形作るその土木技術。土偶の土と火の技術。
出土品に見られる勾玉や鏡、宝飾品加工の技術。
相当高い文明を営んできたことが伺えます。
最近は、この辺に古墳ありそう、という感覚が芽生えてきましたが、あれ何なのでしょうね?
やったー同じ考えです!嬉しい!泣きそう!
なるほど🤔学会✍️などに提出してください
なるほどなあ。実に面白い推察です。巨大古墳の後の小規模に移行したのは、仏教の伝来による現実利益を求めて、お墓を巨大化する必要性も無くなったというのがあるんじゃないかと思います。先生は権力のためではないと言われますが、大きな古墳は副次的に権力の象徴でもあったと思います。それが450年の間に現実利益の方に意識が変わってきた。大きなお墓で権力を見せつけなくても、仏教の土木建築や医学などの知識が力を持つ時代になっていったのではないかと推察します。縄文の埴輪から弥生の銅鐸、そして古墳から仏教(寺院)、そして戦国時代の力の時代に権力が移行していった。推察していくと実に楽しいですね
前方後円墳のかたちが問題なのです。そのことを解明する必要があります。
確かに、ただの残土処理だったら、鍵穴のような形にする必要ありませんよね?
長方形か丸か四角になると思います。
食料(農地)確保のために整地したんだからシャレで食品保存容器の形にしたんだろ?
僕は「神社、太古からの自然崇拝信仰が古墳を造った」と思っています。
以前に茂木先生にも書いたことがあるんですが、短く端折って要点だけを書きます。
【計画時点での話】
田んぼを広げるために土地を開拓し池と水路も作ることになった(施工業者は秦氏等)
・出てきた土砂はどうするの?穢れているますよ(背丈以上の地下は黄泉の世界に通じている)
・その土砂はできるだけ一ヶ所に集めて、崩れないように表面を葺石で覆って、シャーマン(神主さん)に祭祀をお任せしょう。
それでシャーマンは盛土にいろいろ祭祀用具を並べ死後も仕事部屋で祭祀を続けることになりました。
仏教という科学が入ってくるに従いだんだん迷信扱いになっていった。
(僕は土木の施工管理者でしたので、これぐらいなやり取りで始まったのではと思います)
耳成山(ミミナシヤマ)ではないですか?
田圃を作るのなら何もここまで平にして、巨大な山を脇に作る必要があったのだろうか? 段々に作る方がずっと楽だと思う。もちろん田圃開発を兼ねていた可能性は十分にあると思う。
極めて興味深い着想だと思います。ただ全ての古墳が、水田開発や水路建設の廃土の再利用と考えるのには無理があるとも思います。各地の古墳が墓として作られたものか、廃土が再利用されたものなのかを、古墳そのものと周辺の地形を総合的に調査する必要があるように思います。さらに、古墳が作られた時代のその周辺の人口や経済力が、結果として古墳を作るという土木工事を行いうるものか否かなど、ある程度の定量的な考察を交え、証明していく必要もあると思います。
200mの岩山山頂に造られた積石塚などこの説明ではちょっと厳しいですね・・・
面白い説かもしれないけど、疑問もあります。崇神、景行陵などは仁徳陵に次ぐ規模を誇っていますよね。現地に行けばわかりますが、これらの陵は平地じゃなく、山の斜面につくられています。わざわざ平地に盛り土すればいいものを、何故にここまで土を運び上げたのかな?また斜面に盛り土することは、極めて崩落の危険も伴うんじゃないですかね。
なるほど~関心しました!
もしかしたらピラミッドとかも今言われている学説とは全く違う意味合いでつくられたものかもしれないですね
堺市の「古墳を世界遺産に!」のビデオの内容を肯定も否定もしない中立の立場ですが、動画を見て、内容に対して疑問が幾つか湧きましたので、書かせて頂きます。
・古墳は、水田開拓の残土処理で出来た山(丘?)という理屈は、古墳が出来た過程の可能性として理解はしましたが、墓であることには変わりなく、「大きな山になったし立派な人の墓にしましょう」「立派な人の墓にするなら大きな山(丘)をあてがいましょう」という考え方は、一般的な人間の発想として、立派な人/偉大な人への敬意の表し方として自然なものだと思うので、古墳の大きさイコール墓に収められている人の「偉大さ」を示すものとしては、正解なのではないのか?
・「水田開拓の残土の処理の結果古墳が出来たから、水田開発の残土が出ない時代になって古墳は見られなくなった」というストーリーはその通りかもしれませんが、だからと言って古墳の大きさが埋葬されている人の偉大さや権威とかと関係ない」とどうしていえるのか?
・古墳時代の終盤には、立派な天皇と思われる人の古墳でも小さいものがある、とのことでしたが、単に時代の「流行り廃り」の結果ということはないのか?
・「自然の山が周りにあるのに何で自然の山を使わない」という発言がありましたが、残土処理が理由と考えれば自然の山でないことの理由にはなりますが、「自然の山でないからこそ意味がある」という発想にはならないのか? 世に数多の人が存在し、墓を作るという文化まで出来ている時代で、特定の人の墓だけが大きく特異な形をもって作られるということは、墓の大ききや形やその場所(=平野に突然に山/丘がある!)の特異性が、埋葬されている人の偉大さや埋葬した人々の埋葬された人への敬意を表する尺度になっていたと考えられないのか?
・何故、形が「●と台形」を足したようなものが多いのか? 動画中に中東の壺と形が似ているというコメントがありましたが、その二つの関係についての言及がなく、こちらとしては「だから?」となりました。
違うような気がします。
残土処理のために古墳を作ったのではなく、古墳を作るために残土を利用したように思えます。
恐らく最初はお墓を作ろうとしたんじゃないでしょうかね。その後お墓と開墾がセットになっていき、そのことで経済が回り始めて列島の他の地域を圧倒する豊かさを手に入れることになったのかもしれません。
「仁徳天皇陵は宮内庁管轄であるが発掘調査を何でしないか」と子供の時から疑問に思っていたが、「盛り土説」で合点がいきました。何かしらの言い伝えとか資料が有って「盛り土」と知っていたから調査しなかっただけでしょう。さらに言えば権威の象徴に祭り上げていたから今更「触れないでおこう」となり「触ると祟る」としたのでしょう。
凄い勉強になりました。今まで習ったことの疑問が晴れました。😊
権力の大きさとも言えますが人々を想う心の大きさとも言えますね😊
17:22この見積もりは平地から盛り土をしたらという計算です。小さな古墳はともかく仁徳天皇陵クラスの大きさの古墳となると、もともと基礎になる天然の丘が、そこにあったかもしれない。もし基礎となる天然の丘に盛り土をしただけならさほど大きな時間と労力はかからない。
古墳のどてっ腹にボーリング調査をして地層を調べれば判明するのだが、件の古墳は宮内庁が調査を許可しないのでデーターが少なすぎてわからないことだらけ。
動画の中で古墳の近くに山があるのになぜわざわざ古墳をとの指摘はおっしゃる通り。でも、そこに最初から手ごろな丘があったとすれば山でなく、そこに土を盛った謎もうなずける。
更に、
丘があったと考える根拠は、周囲を囲う堀の深さに対して盛り上がっている古墳の土の体積が圧倒的に大きいから。平地に土を盛ったのであれば、それと等しい体積の窪地ができるはずだが、該当する窪みが仁徳天皇陵の周囲には見つかっていない。
以上
手間や人足を養う経費の面からも、
盛り土を掘った大規模な窪地が周囲に見つからないことからも、
これらが指すものは、仁徳天皇陵は平地に土を盛ったものではない可能性が大きいということ。
天然の丘の周りに堀を掘り、その土を盛って形を整えた程度の土木工事なら仁徳天皇陵規模の大きさでも当時の経済規模で十分実現可能な事業であったろう事が推測される。
この人は、自分の間違いに気付かない人です。
失礼だが、全く基礎知識も無いただの素人の「講談師」で、多くの専門家も敢えて相手にしません。仁徳天皇自体も4世紀
では無く5世紀の天皇だし、そもそも『日本書紀』は飛鳥時代では無く、奈良時代の歴史書です。なお、今も我が国の歴史
学界がJHQの意向に従っているという指摘は、全く事実と異なる出鱈目に過ぎません。古代史の基本から学び直しを!
Erzurum から60.00方向に、7968km ,およそ37 Gematriaの距離に、アヌンナキがヒト奴隷を酷使して金精練するエリアの拠点を創りました。其れが、後になりアヌンナキが去った、居抜き物件となり、豪族が我が物として流用したんです
大仙陵古墳です❗ Erzurumとは、エデンだそうですから、我々は、ヒト奴隷でした。彼らの餌でした‼️ 古墳のオリジナルは数万年前にアヌンナキのエンキが太陽系天体サイズモジュールの相互距離を測り、配置しています
ボタ山などではありません‼️
仰る通りだと思います。
意図的に古墳や日本を貶めたいな様に解釈しているのでは?と思う
年度は忘れましたが、
大阪るるぶの古墳紹介で
支配層が権威をみせつけるために作られたみたいな解説があり、びっくりしました💦
残土というか、田んぼとかに適さない石とかですよね。なのでその理論が正しければ、古墳の内部を調べれば、石が沢山で構成されているはずですので、調べればよいですよね。残土という意味で言えば処理するというよりも、保管するつもりの方が強いように思いますし、古墳自体は石で作られ、時代を経て砂山になっていったのではないかと私は想像しています。
まとはいえ、大きいのを作ろうとしたらその分、労力は必要なはずなので、やはり権力の象徴という意味で言えば、そういった背景が無いとは言えないでしょうから、あながち教科書も間違っているとはいいがたいものがあります。
服装品が中東由来?
面白いな〜思いました
残土処理で古墳に利用たしかに。
じゃあ古墳のデザインどうしよか。
シュメール系の渡来人の影響が あったとしたら テルが似てるなぁ 思いました。
縄文の話しに なりますが 土偶の形がシュメールの土偶と一緒なんですよね。
古墳もシュメールの影響 受けてるとしたら 世界はつながってるな。そう思いました
墓なのは確実です・・・
が、開拓の必要にかられて
近場に残土処理の場所を兼用した
という説はひとつの見方ですね・・・
細かい事ですが耳成山は古墳だったと聞いてました。自然の山に作ったのかも知りませんが立入禁止になっていたと近所に住んでいる人が言ってました。
実際に田んぼや畑を作って作物を何年か作ってみた方が良い
山は神聖な存在としている面もあるのでは?
自然に対する畏敬の念は、現代の私達には計り知れない感覚かもしれませんが、、