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大川小学校の捜索で自衛隊皆さんが泥まみれになりながら捜索していました、遺品を洗いながら泥の中から女の子が発見された時には水筒の水をかけ顔を洗っていました発見された時の叫び超えと隊員さんがしっかり抱いてみんなで綺麗に隊長さんでしょうか整列の掛け声と敬礼、黙祷の声は忘れられません、小学校の思い出品物も洗い流し校舎もトイレも壊れた便器まで掃除されていましたありがとうございます。
想像するだけで胸が苦しくなります。二度とあってはならないことですね。
今年の4月に石巻市立大川小学校を見に行きました。家があった場所も緑になっていて寂しさを感じました。校舎の形が独特な作りです。中は何もなくコンクリートが壊れて窓側は剥き出し状態でした。あの日の光景を想像しただけで涙か込みトげてきます。津波の恐ろしさがわかります。
大川小は本当に悲しい出来事でした。すぐ裏に山がありながらたどり着けないなんて…この内陸の、一番震度が大きかった辺りの近くに親の実家があります。遊園地のコーヒーカップのように地面が回ったとか、私も見ましたが藁葺き屋根の家が真ん中で垂直に折れて食い違っていました。縁故の方も何人か犠牲になりましたが、東南海地震が迫っていることを思うと、決して過去の話ではないのです。
いろいろな震災遺構がありましたが、大川小学校で起こったことを想像すると胸が苦しくなりました。
同じ石巻市雄勝町には行かれましたか?雄勝町には震災遺構はないですが雄勝病院慰霊碑がありますそこには以前、雄勝病院がありました海の近くに建てられた3階建ての町唯一の病院で病院スタッフも温かく優しい人達で患者さんを家族みたいに接してくれる町の拠り所のような温かい病院でした震災当時病院には患者40人と、職員30人患者さんは全員自力で歩けない高齢者ばかりでしたそして津波は病院を襲い職員は患者をシーツでくるむなどして3階や屋上まで運びましたが無常にも津波は屋上を丸ごと飲み込み患者40人全員と院長含む職員24人が亡くなりましたそして生き残った職員にも心に大きな傷を残しましたなぜ自分だけが生き残ったのか患者さんを見捨てることができず逃げれなかった患者さんを助けようと奮闘したが全員亡くなってしまった遺族も複雑な心境で逃げて欲しかったけど患者さんを見捨てたという重い十字架を背負わせてしまう何が正解なのかわからない大川小学校や南三陸町防災対策庁舎が有名ですが雄勝病院は遺族や生き残った人の心の傷が深くあまり多くは語られていませんですが今後このような出来事が起きるかもしれません高齢者や歩行困難な人だけでなくスタッフの命を守るための対策をするため雄勝病院の悲劇を教訓に対策をしていってほしいですね長文失礼しました
コメントありがとうございます。動画には出てきていませんが、女川のあとに雄勝病院があった場所を訪れました。リアス海岸の美しい景色が所々で見られつつも、要塞のような、ものすごく高い防潮堤が海岸線を取り囲んでいた景色が印象的でした。病院があったところには碑が建っていて、ここであったことを知るととても悲しい気持ちになると同時に、何が最適解なのか、自分がその立場だったら?と、この場でしばらく考えていたことを覚えています。
大川小学校の捜索で自衛隊皆さんが泥まみれになりながら捜索していました、遺品を洗いながら泥の中から女の子が発見された時には水筒の水をかけ顔を洗っていました発見された時の叫び超えと隊員さんがしっかり抱いてみんなで綺麗に隊長さんでしょうか整列の掛け声と敬礼、黙祷の声は忘れられません、小学校の思い出品物も洗い流し校舎もトイレも壊れた便器まで掃除されていましたありがとうございます。
想像するだけで胸が苦しくなります。二度とあってはならないことですね。
今年の4月に石巻市立大川小学校を見に行きました。
家があった場所も緑になっていて寂しさを感じました。
校舎の形が独特な作りです。
中は何もなくコンクリートが壊れて窓側は剥き出し状態でした。
あの日の光景を想像しただけで涙か込みトげてきます。
津波の恐ろしさがわかります。
大川小は本当に悲しい出来事でした。すぐ裏に山がありながらたどり着けないなんて…
この内陸の、一番震度が大きかった辺りの近くに親の実家があります。
遊園地のコーヒーカップのように地面が回ったとか、私も見ましたが藁葺き屋根の家が真ん中で垂直に折れて食い違っていました。
縁故の方も何人か犠牲になりましたが、東南海地震が迫っていることを思うと、決して過去の話ではないのです。
いろいろな震災遺構がありましたが、大川小学校で起こったことを想像すると胸が苦しくなりました。
同じ石巻市雄勝町には行かれましたか?
雄勝町には震災遺構はないですが
雄勝病院慰霊碑があります
そこには以前、雄勝病院がありました
海の近くに建てられた
3階建ての町唯一の病院で
病院スタッフも温かく優しい人達で
患者さんを家族みたいに接してくれる
町の拠り所のような温かい病院でした
震災当時病院には患者40人と、職員30人
患者さんは全員自力で歩けない高齢者ばかりでした
そして津波は病院を襲い
職員は患者をシーツでくるむなどして
3階や屋上まで運びましたが
無常にも津波は屋上を丸ごと飲み込み
患者40人全員と院長含む職員24人が
亡くなりました
そして生き残った職員にも心に大きな傷を残しました
なぜ自分だけが生き残ったのか
患者さんを見捨てることができず
逃げれなかった
患者さんを助けようと奮闘したが
全員亡くなってしまった
遺族も複雑な心境で
逃げて欲しかったけど
患者さんを見捨てたという重い十字架を
背負わせてしまう
何が正解なのかわからない
大川小学校や南三陸町防災対策庁舎が
有名ですが
雄勝病院は遺族や生き残った人の
心の傷が深く
あまり多くは語られていません
ですが今後このような出来事が
起きるかもしれません
高齢者や歩行困難な人だけでなく
スタッフの命を守るための対策をするため
雄勝病院の悲劇を教訓に
対策をしていってほしいですね
長文失礼しました
コメントありがとうございます。
動画には出てきていませんが、女川のあとに雄勝病院があった場所を訪れました。リアス海岸の美しい景色が所々で見られつつも、要塞のような、ものすごく高い防潮堤が海岸線を取り囲んでいた景色が印象的でした。
病院があったところには碑が建っていて、ここであったことを知るととても悲しい気持ちになると同時に、何が最適解なのか、自分がその立場だったら?と、この場でしばらく考えていたことを覚えています。