【ミニ紀行映像つき】徹底考察!大津皇子謀反事件
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- Опубликовано: 7 окт 2024
- 天武天皇崩御後に発生した大津皇子謀反事件。
それは大津を排除しようとした鸕野讃良皇女(持統天皇)の謀略か。
それとも、大津皇子の暴走か。
さまざまな視点から徹底考察します。
大伯皇女の歌碑が建つ「吉備池」を訪れた際の動画
「古代天皇の宮を訪ねる 磐余編③ 吉備池廃寺」
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梅前佐紀子・著 「皓月 皇極・斉明天皇物語」全3巻
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/ asukakaze210
こんばんは❗️今回の動画も大変興味深く拝見しました。
私はン十年前の連載当初(笑)の天上の虹から本格的に奈良にハマった口で、割りと讃良推しなんですよね…なので大津ファンの方々には申し訳ないのですが手放して大津が哀れだとは思っていないんです…(汗)
今回、動画を拝見して、本当に驚きました。
何がって、大津が伊勢の
大伯に会いに行った理由です。目からウロコ、とでも言いますか…!!
大伯を中天皇にする為に、ですか。
それは讃良に政権を取らせない為に、と言うのもしっくり来ました。
後を継ぐより前に、一度取られてしまったら二度と戻っては来ないから、ですよね。
天武の思いもよらぬ早い死で若い大津ががむしゃらに
俺が、俺が!と言うイメージが強かったのですが、
自分の正統性を知らし召す為にも大伯の登場は必須だった…
と。
梅前先生の説に寄ると
大津は思慮深い、頭の良い方だったのですね。
本当に私には思いもよらなかった説でしたので非常に感銘を受けました。とても勉強になります!ありがとうございました。
思えば最初に梅前先生のRUclipsを拝見したのは中尾山古墳のニュースの時に検索したのがきっかけでした。
関東から奈良へいらしての動画制作は大変かと存じます。
明日香での現地動画も面白いですが考察動画も非常に興味深いです。梅前先生の知識の深さ故に…(^-^)
次の動画も楽しみにお待ちしております。
なかなかこう言った話を出来る所も無いため、長々失礼致しましたm(_ _)m
ありがとうございます♪
そのようにおっしゃっていただけると励みになります。大伯皇女を中天皇にするというのは個人的な仮説なので自信はないのですが(何より大伯には政治経験がありません)、大津は後先考えずに暴走したわけではないと個人的には思っています。それだけに無念だっただろうと思うのです。
@@umemaeSakiko 梅前先生お返事ありがとうございます。確かに動画でもおっしゃっていたように大伯には政治経験は無いですが、斎王であった事で充分だったと思います。当時はまだかなり斎王の地位は高かったのでは?壬申の乱で讃良が天照皇大神を模したくらいですから。想像すると本当に楽しいですね!
母が生きていてくれたら・・・という大津皇子の思いに、涙してしまいます。
>母が生きていてくれたら・・・という大津皇子の思いに、涙してしまいます。
そうですよね。大田皇女も無念だったと思います。彼女が生きていたら、その後の皇統は大きく変わったはずですよね。
里中満智子先生のおかげで人間関係はわかってるのは感謝してます。ただ現実はどろどろもっと凄いだろうな。大津皇子も有間皇子は若くして刑死だから人気あるんでしょうね。
10月3日 大津皇子の命日なので二上山の墓を訪ねました。宮内庁指定の陵墓は雄岳の頂上に有りますが、40年程前に山麓に鳥谷口古墳が発見され その古墳が大津皇子の墓の可能性が高いのかな…と勝手に思っています。若い頃から二上山に時々登っていましたが、まさか登山道のすぐ脇で古墳が発見されるなんて思ってもいませんでした。二上山には秋から春にかけて週に1回程度登っています。奈良盆地が見渡せ 西の方は大阪平野 日本一高いアベノハルカス 遠くは明石海峡大橋も望めます。ただし明石海峡大橋は橋げたが見える程度でなかなか全容を見せてくれません🥴。今日は行きませんでしたが太子町の万葉の森から登るとキトラ古墳や高松塚古墳の石棺に使われた石切場も有ります。二上山雌岳からの眺めは最高ですよ。大和三山に囲まれた藤原宮跡もはっきり確認出来ます。
二上山、行ってみたいです。週に1回くらい登ってらっしゃるんですね!うらやましい! これからの季節はすばらしいでしょうね。
大津皇子の陵墓は、いろいろな説がありますね。個人的には、頂上の古墳はどうなのかな……(運び上げるのが大変?)とも思いますが、大伯皇女の歌から推測するに、二上山付近に葬られたことは間違いないと思われます。
いつも楽しく拝見させていただいています。そして、梅前さんの知識の豊富さや行動力に感服しています。
私は諸悪の根源(失礼!)は鸕野讃良皇女だと思っています。自分の子孫を皇位につけたかったために、不比等につけ込まれてしまい、藤原家に政権を思うがままにされてしまう。そして、長屋王を自尽に追い込む。
結局、皇統は天智系に戻り皮肉を感じますが、鸕野讃良皇女も天智の血を引いているんですよね。
ミニ紀行、歴史の悲しさを感じました。BGMもとても合っていると思います。この曲の題名を教えていただけるとうれしいです。
長文を失礼しました。これからもすばらしい動画をお待ちしています。
コメントありがとうございます。持統天皇に関しては、おっしゃる通り「諸悪の根源」とする見方がある一方で、彼女の行動にはそれなりの理由があったとする意見もあり、なかなか難しい問題と言わざるを得ません。「草壁皇子の子孫」かつ「藤原家の娘が生んだ皇子」に皇位継承を限定してしまったことが、結局は天智系に皇統が戻る原因となったと考えています。
ミニ紀行のBGMは「夏色叙情」という曲です。「甘茶の音楽工房」というサイトからダウンロードできます。(著作権フリーなので使わせていただいております・(笑)
今後ともよろしくお願いいたします♪
@@umemaeSakiko
お忙しい中ご返信ありがとうございます。
そうですね、おっしゃるとおり、持統天皇にも藤原不比等にもりっぱな功績があり、その時代を懸命に生きたのでしょうね。
曲名もお教えくださりありがとうございました。さっそくダウンロードしてみます!
「こんな一大事のときにわざわざ遠くにいる姉に会いにいくだろうか?」という指摘は、なるほどと思いました。ただ、字幕に出されていたように「大迫皇女にも政治的実績は皆無」は弱点ですね。むしろ別のお願いをしにいったと考えることはできないでしょうか。せっかく斎宮なんだから、皇位継承に関わる宣託を出させるとか。実の姉なのでバレバレではありますが、人望の厚い大津皇子なら勢いでいけたかもという自他ともに認める思惑があったと思います。でもそこまで理解できない大迫皇女には断られたのでしょう…。また、個人的には、近江朝の重臣だった蘇我赤兄の孫娘である山辺皇女が同時に死んだことも気になります。天智に可愛がられた大津は、近江朝の遺臣たちには汚名を挽回できる期待の星だったのではないだろうか、とも思えます
れんしさん コメントありがとうございます。なるほど、色々なことが考えられますね。勉強になりました。
10人もいた天武天皇の皇子達、しかし皇位つけた者は誰一人いなかった。そして結局、天智天皇の皇統に移ってしまった。なんたる皮肉でしようか😭
確かに、10人もいた天武天皇の皇子たちの中で皇位についた者は一人もいませんね。鸕野讃良によって、次の皇統は草壁皇子の血を引く者のみと限定されたことが、その原因と思われます。結果として、皇統が天智系に移ってしまったのは、おっしゃる通り皮肉としか言いようがありません。
大変ありがとうこざいます。
良いおはなしでした。
そう言っていただけて嬉しいです。ご視聴ありがとうございました。
持統天皇が必死で繋ごうとした草壁の血統は残ることが叶わなかった…少し前に蘇我氏も必死に残そうとして叶わなかった己の血脈。なんだか歴史が繰り返しているように思えます。人の力でどれほどあがいても天意に添えなかったというか人智を超えた力を感じます。
そうなんですよね……。本当に、人の力を超えた何かを感じます。
大津皇子が好きで色々調べていて、こちらの動画を拝見しました。とても面白く興味深く見させて頂きました!
自分は、大津皇子はある程度死を覚悟して大伯皇女へ会いに行ったのかなぁと思っていました(大海人皇子が吉野へ向かった時のことを思い浮かべたりしながら。父は乗り切ったけれど自分はどうなるだろう…みたいな)。
正解は分からないですが、あれこれ想像してロマンに浸るのが日々の楽しみで、さらに勉強していきたいです。
これからも動画を楽しみにしています😄
コメントありがとうございます。
大津皇子が父の吉野行きを思い浮かべていたというのは充分あり得る話だと思います。おっしゃる通り「正解はわからないけれどあれこれ想像してロマンに浸る」のが古代史の楽しみであり醍醐味ですよね。これからもたくさん楽しんでいきましょう(^-^)
私が住んでおります戒重辺りですね!明日からしみじみと歩いてみます。
>私が住んでおります戒重辺りですね!
そうなんです! 戒重付近には、敏達天皇の訳語田幸玉宮もあったという伝承が残っておりまして、そこが大津皇子の宮となったという説があり、それが戒重春日神社の付近とされています。あのあたりにお住まいとは羨ましい。たくさん歩いてくださいね♪
梅前さんの説、面白く拝見いたしました。私的深読み、あり得るかもしれませんね。
大田皇女が生きていれば、の思いはあったと私も思っていました。とくに吉野宮での誓約の際に。
その心をうまく鸕野讃良皇女に利用されたのではないかと。
時系列でみると、まず、なぜ斎王に大伯皇女を選んだのか。
先の女帝が力を持っていた時代を熟知している鸕野讃良皇女だからこそ、まずは大伯皇女を斎王にして中央から遠ざけ監視下に置く。鸕野讃良皇女と伊勢神宮の繋がりの強さは、その前後の関係をみれば明らかですね。
そして、吉野野宮の誓約で皇位継承は草壁を第一にすると釘をさす。
両方とも、壬申の乱に絡んでのことで、乱で天武天皇を支えた鸕野讃良皇女の行ったこととみれば面白いのではないでしょうか。
そのあと、天武天皇の薨去後に、大津皇子の謀反発覚。
大津皇子が、伊勢の大伯皇女に会いに行ったのが事実とすれば、誰も気づかない筈はなく、“誰か”にささやかれての行動で、鸕野讃良皇女の策略であった可能性もあるかな、と思います。
大津皇子はうまい具合に、その野心(というと言い過ぎかもしれませんが)を利用され、鸕野讃良皇女の筋書き通りに乗せられてしまったのでは。
鸕野讃良皇女の執念というか、したたかさというか、そこが女帝まで上り詰めた強さなんでしょうね。
長文失礼しました。
ありがとうございます♪ とても深く読み解いてくださっていて感激です。
拝読してふと思ったのは、大伯皇女を斎王としたのは、彼女に子どもを生ませない目的もあったのかもしれないということです。大伯皇女が他の有力な皇子との間に子を生めば、将来草壁の地位をおびやかす存在になることもありえますよね。
大津は鸕野讃良の計略にうまくはまってしまったのか、あるいはそれから抜け出そうとあがいたのか。いずれにしても悲しすぎる結末です。
ご返信ありがとうございます。
梅前さんの説、十分ありえますね。
鸕野讃良皇女の周到な地固め、すごいの一言です。
優秀な大津皇子を慕った者も逸材が揃っていたことでしょう。
大津皇子に連座した者たちを免罪したのも、持統朝になった後に重用したことをみると、
天皇妃である自分に逆らうとどうなるか、との警告であった気がします。
一年前の話題を、今更ながら申し訳ありません。
ぜひ、二上山、鳥谷口古墳も訪れてみてください。
深掘り大変興味深く拝聴しました。コメント自体初めてのことですが、せずにはいられませんでした。
ありがとうございます。お言葉、大変嬉しく頂戴いたしました。
次の動画を楽しみに待ってます。
ありがとうございます♪
歴史は勝者によって書かれるというのは周知ですが、謀叛と讒言が一対で出てくるのが面白いですね。
>謀叛と讒言が一対で出てくるのが面白いですね。
確かにそうですね。勝者が歴史をそう書いたのか。あるいはそれが事実だったのか。興味は尽きないです。
@@umemaeSakiko 和歌が鎮魂を目的としていたという側面、また能の背景にある不遇の死への鎮魂等を考えると、讒言によるでっち上げ謀反は、事実はなかったと書く必要があったのではと考えたりします。歴史の中の虚構には闇が多いです。
この動画も楽しく拝見させていただきました。
終りの方の説、ありうると思います。
もっと掘り下げていただけたらと思います。
血統的には同列でも、客観的に見て資質で明らかに大津皇子が上回るにもかかわらず、
常に草壁皇子の後塵を拝することを余儀なくされる事態に我慢ならなかったというのは自然な感情です。
近江方のため不遇であった川島皇子と意気投合していたことからもそれがうかがえると思います。
(川島皇子はちょっと怪しいと思っていますが)
鵜野皇女が即位したらこの序列が固定化されてしまう。
そういう危機感はあったと思いますし、大津皇子がそういう危機感を持っていたことは鵜野皇女も知っていたと思います。
コメントありがとうございます。
賛同してくださって嬉しいです♪ おっしゃる通り、大津皇子の悲劇は、大津皇子のほうが断然優っていて、草壁皇子が凡人だったことです。「あいつなんかより俺が」と思ってしまったのでしょうね。あいつにこの国のかじ取りはまかせられない、そんな思いがあったのだとしたら、二重の悲劇だと思います。
大津皇子の墓が二上山の頂上にありました。奈良県香芝町に住んでいた子供時代に良く二上山に上り見ていましたが、この動画を見て懐かし感じます。
香芝市にお住まいだったんですね♪
二上山、とても美しい山です。
遂にキマシタネー「大津皇子謀反」事件‼️
大津皇子と有馬皇子 キンプリのツートップだったんですね⁉️(笑)
やはり、この二人の皇子のイメージは決して壊してはいけないのですね😅
古代史は哀しく、だからこそ面白いのでしょうか...
次回動画もとても楽しみです❗
ご視聴ありがとうございます😊
大津皇子さま、調べていくうちになんかどんどんファンになってしまいました💕
恐るべし大津皇子
素敵なyou tube いつも楽しく拝見してます
ありがとうございます♪
壮大な歴史ドラマとか映画になりそうなお話ですね。お天道様は見ているんだなと感じます
おっしゃる通りです。個人的には、奈良自体のごたごたは、大津皇子を死に追いやったことが遠因と思っています。
大津以外、割と復権してるし、そのタイミングで不比等も政界に出て来る事を考えると私は嵌められた感じがします。
おっしゃる通り、大津事件は、仕組まれたものなのか、結果的に褒賞されたものか不明ですが、その後の政界を牛耳る人々の出現を促した気配がありますね。
大伯を斎宮にし隔離して婚姻させないようにしたと考えています。天武崩御後、斎宮から大伯が戻る前のタイミングで大津は殺害されたと考えています。大伯が斎宮にいかず、例えば高市などと婚姻すれば高市が天皇になってもおかしくなかったはずです。持統崩御の前年、大伯は40才ぐらいで亡くなっていますが私は毒殺されたと考えています。
なるほどなるほど。おっしゃる通り、高市と大伯が結ばれたら、鸕野讃良にとってかなり強力なライバルになったでしょうね。いろいろ勉強になりました。ありがとうございます。
斎王に関しては、のちに十市皇女が斎宮に向け出立しようとした時に薨じたりと、何か「選ばれると怖い」ようなイメージがありますね。
梅前さんの番組を見るのはこれが2つ目ですが いやァ面白い 面白いだけじゃなく説得力も大あり ところで 天智と天武は朝廷公認史書、つまり 日本書紀 においては兄弟、となっていますが 実際は兄弟じゃなかった、と私は考えるのですがどうお考えですか?
ありがとうございます♪
天智天皇と天武天皇が兄弟じゃない説、ありますね。私もその説を膨らませて小説まで書いてしまったことがありますが、まあ、ありえなくはないけれども可能性は低いかな、と今は思っています。
私は、この事件から持統と不比等の二人三脚が始まると考えています。
なるほど。不比等の急激な政界進出を考えると、それもあるかもしれませんね。
いつも興味深く動画を拝見しております。私も明日香が好きで家から自転車でよく明日香を訪ねます。今一番気に成っている事をご存知であれば教えて頂きたいと思います。大伯皇女が埋葬されている場所を探していますが、手掛かりが見つかりません。二上山山頂に大津皇子の陵墓がありますが、山麓の鳥谷口古墳が
大津皇子の墓だと考えるならば、山頂の古墳が大伯皇女の墓であってくれればという思いがあります。大伯皇女の墓と推定される場所はあるのでしょうか。
ご視聴ありがとうございます。大伯皇女のお墓ですが、現在、ここと確定している場所はないようです。天武天皇の皇女として、ないはずはないと思うのですが、史料のどこを探しても埋葬地の記録はありません。おっしゃるように二上山にあってくれたら。私も本当にそう思います。
今後ともよろしくお願いいたします。
お返事 有り難うございました。確たるものに乏しい飛鳥時代 自分なりに思いを巡らす楽しみも有ります。暑さ寒さの中での明日香 大変だと思います。お身体 大切にして下さい。次回の動画を楽しみにしています。
先ほど、なぜか同じ動画がアップロードされてしまいました💦 教えて下さった方、そしてご視聴下さった皆さま、ご迷惑をおかけし申し訳ありませんでした。
何度観てもうるうるします・・・
ありがとうございます。大津皇子には私も思い入れがあるので、そうおっしゃっていただけると嬉しいです。
小説にして頂きたい、是非。
ありがとうございます。いつかチャレンジしてみたいです。
めちゃ 凄くいい! 苦手な時代ですが、九州との因縁を感じています
コメントありがとうございます。大津皇子は、斉明天皇西征の際に、九州で生まれたとされています。
大津皇子は歴史ファンタジー小説の宇宙皇子で人気になったのかな?
ちなみにてんちではなくてんじでは?
ご指摘ありがとうございます。発音が悪くご迷惑おかけしております。正確には「てんぢ」なのですが、「ぢ」と発音しようとして「ち」になってしまうことがあるようです(汗) 精進します!
斎宮は既に左遷でしょ。裏に新羅説、近江朝が担いだのかな。
折口信夫の「死者の書」から入ったものには、超違和感。
持統が美智子に見えてくる