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最近 心の中に、わがままな自分中心の自己と、大人の自己と 2つを置いて常に対話させています。大人の方の自己が宗教のような役割を果たしてくれているように思います。
東京の新宿に住んでいましたけど、千葉の田舎に移住しました。田舎に移住して10年ですが、東京には二度と戻りたくありません。地域の繋がりを持つ喜びを知って、地元の一員として生きていく楽しさを知って毎日が安心して生きていけています。買い物はネットで済みますしね(^^♪
盆には墓参りをし、盆踊りを踊り、灯篭流しをやり、日々家の仏壇や神棚の水や食事を変えて先祖や神々に手を合わせる。門前や参道の共同体が受け継ぐ祭りを営む。これらに関わり、これらを繰り返していると、日本人の宗教心は自然と育まれるものだ。なんとはなしに涙が流れる心持。
浜崎さんの考え方がすごく納得がいきます。こういう話ってテレビではまずあり得ない。おっしゃる通りで要はどの業界にも自由がなくなっている。
いい話を聴いた、で終わらせず自分で考えることこそ
有難うございます!!最近、日本のいまの状態は、我々がつくってしまっているのではないか、ということを感じております✨今後の日本が上向けるよう、わたしたち一人一人成長🌟目指して参ります🍓ご活躍の日々🐉どうかご自愛くださいませ🍊🍎🍑💖🌞
浜崎先生の講義が受けれる学生さんが羨ましい✨永遠聴いていられます。「嫌い」をはっきり言ってくださるので笑いもあり、お考えも伝わりやすいです。いつもありがとうございます🙏
いかなる問いにも的確に答える浜崎さんは凄い! しかし,次から次へと的確に問える羽賀さんもこれまた凄い!
濱崎さん、いつ見てもいいですね😊羽賀さんの対応も好きです😊
神様は私自身の胸の中にいると思っています。 浜崎さん素敵です。✨
「心は痛いのに仕事が無いから東京来ざるを得ない」まさしくその通りでずしっと胸に来ました。東京出たいのに、地方に帰りたいのに仕事が無い。
素晴らしい崇高な真心ある配信に涙致します。有難うございます✨
こんばんは!本日もお疲れ様です!いつもありがとうございます!
浜崎先生は西部先生が早口で話をしているみたいで、頭をフル回転させながら聴いている感じで2,3回は聴きたくなりますね。
迷いから抜け出られそうにない時に聴きたい大切な話を聴くことができました
地球🌏の最果てからありがとう素晴らしい最高日本🗾と日本人一人一人に健勝と幸せ祈っています⛩️🙏⛩️
宗教心はホント大事だと思いますが…それ事態はささやかなものであり、個人ひとりひとりが自覚する心の在り方だと思います。私の両親は地元の檀家のお手伝いさせて頂いてますが、残念ながら状況は本来の宗教の姿とはいえない状態のようです😢浜崎さんの云うとおり、何の為の宗教か?ってところが欠落してしまい組織を継続させる為ばかりに心血を注いでしまってるようです。ただこれは地域コミュニティやその他の地域活動でも同じだと思います。組織は造るものではなく、創られるものだと思います。
そうです。お寺さんは本当の宗教ではありません。本当は人から寄付やお布施、戒名などのお金を貰ってはいけないと仏教で知りました。お寺さんで分かっている人もいると思います。本当の仏教はお金をかけない貰ってはいけないんです。信仰でお金を掛けずに本当にお経本どおり質素に1ヶ月1人300円のお会費だけでやり全てにおいて正しく正しくやっている仏教、法華経もあります。それが本当の信仰、宗教だと思います。
自分の中に信じる神様(のような存在)がいると言うことは、本当にありがたいこと何だなと思いました。特定の宗教を持っていなくても、日常が平和への祈りという心掛けやペイフォワードの意識などで、良心に沿った行動をしたいと考えるのは、人間の本質ではないでしょうか。
浜崎さんの講演を横浜でして下さい❗家族共に聴きにいきたいです。
どの業界でも、足を引っ張るのは同業者ですね。神社会に、こんなに貢献しているのに。子供や孫達にしっかり日本の伝統や信仰心を伝えて、守って行きます。女性、特に母、祖母の役目だと思います。
腐敗は依存か、日本が自立しないでアメリカに依存しているかぎり、日本の政治家が腐敗するのは当然ですね。
産土神社が、つい最近なくなりました。正確に云うと、土地の嵩上げのために場所を移転し、既に移転した実家の辺りも味気ない橋の下に消えました。記録されているだけで四百年も前からそこにあった神社がなくなり、信長も通った由緒正しい街道も切り取られました。これは、文化の破壊であると怒りが沸きます。山車の出るお祭りも、もう二度と参加しないと思います。
浜崎先生だ😭🤍講演会やって欲しいなぁ花束💐持って行くのに🥲
質問です!浜崎さんが大東亜戦争中の小林秀雄など有識者で日本人とは?日本人の宗教観とは?ということが問われる会議があったと話されていました。その文献を読みたいのですが教えていただけますでしょうか?僕も自分なりに日本人論を追っているのですが、戦前期とバブル崩壊前、つまりどちらも日本の国力が山場を迎えた時は、日本人論が増えている印象で、浜崎さんのおっしゃる指摘は腑に落ちました。それらを掘り起こしながら共有知にしていって、その文脈を前提にしながら現代に日本人としての論理を積み上げていきたいと思います。
うちの会社もそんなもんだ。誰に言われたからこっちを犠牲にする。自分がやりたくも思っても無い事を喜んでする。そんな大した見返りも無いのに。自分の心やポリシー、フィロソフィーはどこいった?と毎日疑問に思いながら今日もそこで働いてる。
面白い、なるほど
「自力」か「他力」を中心に考えると少しは分かりやすくなると思います。
歴史を知ることは自分の根っこにつながることなのに(論理的に言うと環境認識の幅を広げる)神話も伝統も知ることが少なくなっているのが原因ではないでしょうか?伝統は時間軸に引き伸ばした民主主義でもあるし。(過去の人にも参加した意見)
あー、俺も子供の時に哲学者の名言を考え抜いて宗教に没入してったな。因みに何処の団体にも入信してません。人の言う事に依存してはいけないと元々思っていました。
ハマさん、相変わらず老け作りでステキです...
日米安全保障条約、地位協定、年次改革要望書、日米合同委員会を通して、日本は実質的には今でも占領状態なので希望はないです。それが最大の問題でしょう。
米国から独立する前に中国に乗っとられるよ!
金が集まると必ず腐敗する
宗教は良いですけどカルトが駄目何ですよ。羽賀ヒカルさんの言いたい事良く判りますよ。
羽賀ヒカルさんのお蔭で神社参拝する様になりました。他にも沢山居ますよ。神社庁や全国の神社から感謝されて居るのかと思って居ました。びっくりしました。神主でも無い癖にと言われるのですか。可哀想ですね。酷いですね。TwitterもRUclipsもどんなに良い事をしてもバッシングされるのですね。
小沢一郎はとんでもないことしてくれたもんだ。
山本太郎をプロデュース
良い回ですね!拡散しておきます。他の回もいいですが(^◇^)ある意味、これは神々の対談ですね。(日本って国はおもしろいです)WEFに対するJEFと言うべきか。
拡散ありがとうございます!
馬絹神社に山本譲二がやって来る理由がUFOを呼ぶ古墳が有るからかな?
ちょっと情緒的に見苦しい面があってあんまり見てないのだけれども、理性と本能とか自然と人工なんてものは、人間が認知しやすいように分けているだけであって、同じ一線軸上の概念だという前提で精神的な問題について論理構成をすると、それらが統一的な概念として相反するようなことなく繋ぐことが可能になるんですよ。これを道教や儒教では表裏一体だとか陰陽だとかで表現し、古代仏教などでは煩悩と涅槃は全く同一のものであるなどと表現されているわけです。
12:11 羽賀師も枠珍推奨していれば100万人超えたかもしれ無いが、YOSHIKIやCARRYぱみゅぱみゅも枠珍大臣に利用され、100万人超えYOTUBER大体国から金もらって推奨していると言うか、登録人数も水増してもらってる?!
人口密度が高すぎる。なら分散して一箇所に大勢人を集め過ぎないようにすれば良いのに、一旦人口過密になってしまうと「無能を●せば全部解決するw」みたいに誰もが短絡的に他人の命を奪って人口密度さげようとしてしまい、他人の命を奪う為にさらに大勢が集まってくるからどんどん社会が疲弊する。
哲学において観念論(かんねんろん)もしくはイデアリスム(英語: idealism、ドイツ語: Idealismus、フランス語: idéalisme)とは、さまざまな意味があるが、認識の妥当性に関する説の一つで、事物の存在と在り方は当の事物についてのidea(イデア、観念)によって規定される、という考え方[1]などを指す。「Idealism」は、日本では訳語が一定せず、存在論においては唯心論、認識論においては観念論、倫理学説においては理想主義と訳し分けられていた。本記事は、便宜的に観念論を見出し語とするが、内容としては印欧語でidealismなどで表現される概念について総合的に解説する。概説この語は多義的であり、しかし、現在多く使われるのは、存在論におけるそれであるにもかかわらず、認識論における観念論と呼ばれることが多い。認識の妥当性に関する説のひとつで、事物の存在と存り方は、当の事物についてのidea(イデア、観念)によって規定される、という考え方である。その理論は、思考と外界はお互いにお互いを創造しあうが、そこでは思考が、決定的な役割を持つ、という主張を含んでいる。ヘーゲルは、歴史は科学と同じように明確に理性に適ったものでなければならないと考えた。進んで、ジョージ・バークリーやアルトゥル・ショーペンハウアーのように、すべて人間が認識するものは思考による観念の所産(表象)であると考えるものもある。つまり、観念論とは、観念的もしくは精神的なものが外界とは独立した地位を持っているという確信を表すものである。この主張はしばしば観念的なものが自存し、実在性をもつという主張に結びつく。例えば、プラトンは、我々が考えることができるすべての性質や物は、ある種の独立した実在であると考えた。まぎらわしいことに、この種の観念論は、かつて実在論(観念実在論)と呼ばれた。またある思想が観念論に属すかどうかにも、議論が分かれる場合がある。イマヌエル・カントは『純粋理性批判』において、我々が世界を空間や時間という形で把握するのは人間認識のアプリオリな制約である経験への超越論的制約によるとした。カント自身は(物自体の存在を要請したが故に)これを観念論とは考えなかったが、純粋理性批判が出版された当時の多くの読者はこれをきわめて観念論的な主張であると考え、カントは誤解を解くために自説の解説書である『学として現れるであろうあらゆる将来の形而上学のためのプロレゴメナ』を出版した。事物よりも認識主体に内在する構成能力などを重視する立場は、西洋近代哲学において顕著であり、またインド思想でもその傾向が存在する[1]。観念論と対比される思想に、唯物論がある。だが、厳密に言うと、超自然的な存在に対するすべての信仰や信念が、唯物論に反対しているわけではない。多くの宗教的信念は、特に観念論的である。例えば、ブラフマンを世界の本質とするヒンドゥー教の信仰に対して、一般的なキリスト教徒の教義では、キリストの人間としての肉体の実在性と物質的な世界における人間の善性の重要性についてはっきりと述べている。禅宗は、観念論と唯物論の弁証法的な過程の中間に位置している。西洋哲学認識の妥当性に関する説のひとつで、事物の存在と存り方は、当の事物についてのidea(観念)によって規定される、という考え方[1]。まず最も知られているのがプラトンのイデア論である。これは事物の原型的なものと説明された。ルネ・デカルトとジョン・ロックが、プラトン的なイデアを解釈しなおし、人間の心に内在する事物の似姿としての観念だとした[2]。人間は事物をじかに知るのではなく、観念を通じて間接的に知る、とし、観念なしでは、ものごとについては何ごとも語りえない、とする考え方である[2]。この認識論的な意味でもidealismは(西洋では)近代特有の思想である。認識をideaないし表象から出発して説明しようとするならば、イデアリスムのほうが整合的な体系となる[2]。この意味のイデアリスムはレアリスムと対比されて用いられる。カントやドイツ観念論においては、「対象というものは、主観に与えられたか主観に本有的に備わっている観念を材料や形式として主観の働きによって構築される現象である」とする説(構成説)が現れた。このidealismが形而上学的な方向に進むと、「事物は意識内にだけ在るものであり、存在するものはつきつめると精神とその様態としてのideaにつきる」とする説(唯心論)となる。唯心論ほどまでに先鋭化すると、唯物論と対立することになる[3]。このような意識を、個人的で経験的なものと見なす立場もあり、超個人的で規範的なものと見なす立場もあり、それぞれ体系が異なる。前者にはバークリの非物質論やライプニッツの主観的idealism、デイヴィッド・ヒュームの現象主義、がある。後者にはドイツ古典哲学の超越論的観念論がある。ただし、意識から出発して物質世界を説明することは困難がつきまとうので、論者は次のような理論戦略を用いることになったという[3]。神を立てて宗教と結合させる[3]。ideaと事物とを同一視して、一元論化し、いわば裏返しの唯物論になる[3]。外界の存在については沈黙する懐疑主義になる[3]。物自体を想定し、物自体は不可知である、とする[3][4]。人間に即して考えられていた精神を絶対的なものに仕立て上げる[3]。バークリジョージ・バークリは、外的な世界は完全にideaの複合体でしかない、とする[5]物体的世界は、神が人間に与えた表象の世界でしかないのであり、それ自体としては存在しない、とする。自然の法則も我々のideaにおいてのみ成立する、とする[5]。カント合理主義的なidealistらは、人間の知性を神の無限の知性に結び付けて説明し、世界を認識する知性に限界はない、と見なした。 それに対してカントは、そのような合理化には限界があると述べ、決定されないものが残るとし、それが実在する、という実在論を展開した。外界の諸現象は、カントの場合でも現象でしかないのだが、神の知性という上部構造は採用せず、人間知性には限界がある、と考えたのである[5]。神という絶対的なものの援護を失った我々の認識ではとらえられない諸現象の根拠を「物自体」と呼んだ。この物自体は、実在するが、経験の内容にはなりえない、とされ、人間の認識の限界を指し示すことになった[5]。カントによる人間理性の限界の画定によって啓蒙時代が終わりを告げることになったという[5]。idealismと唯物論の論争唯物論が18世紀以降に台頭してくると、idealismと唯物論の議論は激化した[3]。両者の調停をはかるために、19世紀末からは様々な中性的一元論が提唱された[3]。IdeaとIdealドイツ古典哲学において、プラトン的なideaが変化、変容し、Idee(理念)、Ideal(理想)という概念が現れた。よってそれ以降は、「Idealism」は理想主義という意味を持つことがある。卑近な用法日常会話においてこの言葉は、現実的ではない、現実からかけ離れているといった意味でも使われる。
唯物論(ゆいぶつろん、英: materialism[1]、独: Materialismus[2])は、観念や精神、心などの根底的なものは物質であると考え、それを重視する考え方[3]。物質主義とも言う[1][2]。「マテリアリズム(materialism)」の和訳例は主に「唯物論」と「物質主義」とがあり[1][4]、より詳細には「(精神より物質を重んじる)物質主義,実利主義」[1]哲学的な「唯物論[主義]」[1]とに訳し分けられている[1]。対義語は唯心論(スピリチュアリズム〔spiritualism〕・メンタリズム〔mentalism〕・アイデアリズム〔idealism〕)[5]、観念論(アイデアリズム・スピリチュアリズム)[6][7]、理想論(アイデアリズム)などであり[8]、精神・観念・理想のほうが根源的で、物質はそれらの働きから派生したと見る。概説唯物論は、文脈に応じて様々な形をとるが、主なものに以下のようなものがある。世界の理解については、唯物論の系譜にあるものとして原子論と呼ばれる立場がよく知られている。これは原子などの物質的な構成要素とその要素間の相互作用によって森羅万象が説明できるとする考え方で、場合によっては、森羅万象がそのような構成要素のみから成っているとする考え方である。非物質的な存在を想定したり、時にそのような存在が物質や物理現象に影響を与えるとする二元論や、物質の実在について否定したり、物質的な現象を観念の領域に付随するものとする観念論の立場と対立する。→経験論、現象学も参照のこと生物や生命の理解に関しては、生命が物質と物理的現象のみによって説明できるとする機械論があり、生気論と対立する。また、生物が神の意志や創造行為によって産み出されたとする創造論を否定し、物質から生命が誕生し、進化を経て多様な生物種へと展開したとする、いわゆる進化論の立場も、唯物論の一種と考えられることがある。例えば、ソ連の生化学者アレクサンドル・オパーリンが唱えた化学進化説はその典型である。歴史や社会の理解に関しては、科学的社会主義(=マルクス主義)の唯物史観(史的唯物論)が特によく知られている。理念や価値観、意味や感受性などの、精神的、文化現象が経済や科学技術など物質的な側面によって規定(決定ではないことに注意)されるとする立場をとる。また、社会の主な特徴や社会変動の主な要因は、経済の形態やその変化によって規定される、とする。唯物論の歴史インドにおける唯物論とは一般にチャールヴァーカおよびローカーヤタ(順世)を指しており、彼らの著作としては8世紀後半の『タットヴァ・ウパプラヴァ・シンハ』が残るのみであるが、他にバラモン哲学や仏教やジャイナ教の諸文献に、彼らの思想内容への言及やそれに対する批判が数多く残されている[9]。それらの資料から推察するにその批判は、真の実在は地・水・火・風の四元素のみだとし、身体や感覚器官なども四元素の集合に対して人為的に名称をつけたまでである、とし、知覚のみが唯一確かなpramana(認識手段)であるとし、人が目指し得る最高の目的は解脱でも天界でもなく、ただ現世における最大限の快楽に尽きる、との主張に基づくものであった[9]。「唯物論」と言う呼び名は、17世紀西欧に遡る。17世紀末、ライプニッツは、すべての実体を物体的なものであるとするエピクロスにならう者たちを『materialistes』と呼び、デモクリトス主義者やホッブスの名をあげ、不敬を醸成する者たちとした。同時に、自然学において目的因を認めない機械論的哲学や原子論を、敬虔であろうとする姿勢にとって危険なものとした。古代ギリシャ哲学において、レウキッポスの原子論を承けたデモクリトスは、決定論的原子論を展開した。知覚・思考を含めて万物を原子論的に説明したと伝えられている。宗教批判と快楽主義で知られるエピクロスは、経験主義的立場からデモクリトスの決定論を緩和した理論を展開した。彼らの著作は断片しか残らず、ディオゲネス・ラエルティオス著『哲学者列伝』[10]、ルクレティウスの哲学詩『事物の本性について』[11]が、後世に概要を伝えた。これらの著作は、ルネッサンス期にラテン語に翻訳され、哲学に新風を吹き込むものとして西欧知識人の間で受け入れられた。17世紀、フランスの哲学者ガッサンディは、キリスト教と融和を図ったエピクロス的原子論を展開する。イギリスの哲学者ホッブスは『リヴァイアサン』を著し、生命を物体的なものとし、国家もまた人によって作られた人工的人間に過ぎないとして、政治・社会を論じ、ローマ・カトリック教会を批判した。18世紀、自然科学の進展により目的因による説明は衰退する。啓蒙時代、フランス唯物論(英語版)の系譜が生れる。生理学的知見の増加を背景にして、思考なども脳の働きとして説明できるとするラ・メトリは、『人間機械論』[12]を著した。またディドロらは『百科全書』を企画し、教条的・キリスト教的学問体系に抗して、知識を経験主義的に関連付ける立場を採った。その後、エルヴェシウス『精神論』、ドルバック『自然の体系』等が、こうした思想を詳述した。19世紀、ドイツの哲学者ヘーゲルは、唯心論も唯物論も共に事態の一面を見ているに過ぎないとし、感覚も類的性質を持ち生理学のみでは解けないとした。その後、ヘーゲル学派は宗教にたいする見方をめぐって分裂し、フォイエルバッハは、ヘーゲルを批判して、神性とは人類の本質の反照であるとする唯物論を展開した。フォイエルバッハの現実的人間主義の立場を受け継いだ[13]マルクスとエンゲルスは、従来の人間機械論的あるいは生理学的な唯物論はその時代に制約されたものであったとして、ヘーゲルの弁証法を継承した唯物論を展開した。これを弁証法的唯物論という。19世紀は後に「科学の世紀」と呼ばれるほどの自然科学の発達した時代であり、K・モレスコット(1871~95)、J・フォークト(1822-93)、ルートヴィヒ・ビューヒナーらは、自然科学的な知のみを体系化することによって哲学は不要になると主張するようになった。他方、弁証法的唯物論の立場をとったソビエト科学アカデミーは、モレスコットらの生理学的な唯物論は浅薄で俗流の唯物論であると結論づけた[14]。日本では、西欧思想の紹介・導入時期には、「物質学」「実質学」と訳されていた。19世紀後半、精神主義的思想の確立を図る者たちによって “唯物論” という訳語が定着される。社会主義的・共産主義的思想に随伴したものではない本格的論考は、20世紀、第1次世界大戦後、私費留学生たちが帰国するようになってのち、現れるようになった。1932年に結成された唯物論研究会において、戸坂潤らは物質を基底的とする唯物論を唱えた[15]。しかしながら戦時色が強まった1938年2月12日、唯物論研究会は解散。同会機関誌『唯物論研究』は同年3月号をもって廃刊となった[16]。通念としての「唯物論」マルクス主義がその理論の基盤に唯物論を置いていることもあり(史的唯物論)、ヨーロッパ(イタリアなど)やアメリカの人々の多くや、日本の伝統的な人々のなかには、「唯物論=マルクス主義」あるいは「唯物論=社会主義」ととらえ、唯物論="資本主義陣営の敵"であるかのような反応を示すことが少なからずあるが、唯物論とマルクス主義・社会主義の間の結びつきは必然的なものではない。「唯物論者かつ社会主義者」もいれば、「唯物論者かつ資本主義者」もおり、「唯心論の(非マルクス主義的な)社会主義者」もありうる。
唯心論(ゆいしんろん、英: Spiritualism)とは、人間・社会において、心、もしくはその働きこそ至上の要因であるとする存在論における立場の一つ。その反対が、唯物論になる[1]。認識論上の立場の一つである観念論としばしば混同される。なお、仏教の唯識論と似ているが最終的な点で異なる(後述)。概要唯物論に対し理想主義とされる。心やその働きはあくまでも物質に還元されない独特な性質を持っているとして、物質的存在がその存在を容認されるのは意識によるものである、したがって意識が存在を決定づける。これが唯心論である。これら思想は、古代のプロティノスに起源をもち、中世ではアウグスティヌスに見られ、近世ではライプニッツ、ヘーゲル、ショーペンハウアーなどがその説を引き継ぎ、また展開してきた。これらはキリスト教とともに西洋を支えてきた理想的な哲学思想であったが、ヘーゲルは一方で唯物弁証法、また一方で実存哲学を自らの否定反抗として自らの中より生ぜしめたことなどから、近代に至っては観念論や理想主義でしかないという批判を生むことになった。ロワイエ=コラールなどのフランスの哲学者は「もろもろの事物には何らかの構造があり、それは認識作用の前提となる共通意識にそなわったものである」「心の中にはあらかじめ対象そのものの性格を決定するものが与えられている」と考えた。こうしたスコットランド常識学派が提示した発想をヴィクトル・クーザンはヘーゲルやシェリングの哲学と結びつけた[2]。なお、東洋、特に仏教にも華厳経に唯心(三界唯一心)が説かれたことから、唯識論が生まれている。しかし仏教ではその識(心の作用)も仮のもので夢幻の存在(空)であるとして否定する。ここにおいて唯心論と唯識論は最終的に異なる。関連項目認識論(観念論・実在論)フランス・スピリチュアリスム唯識
中論(ちゅうろん)、正式名称『根本中頌』[注釈 1](こんぽんちゅうじゅ、梵: Mūlamadhyamaka-kārikā, ムーラマディヤマカ・カーリカー)は、初期大乗仏教の僧・龍樹(ナーガールジュナ)の著作である。インド中観派、中国三論宗、さらにチベット仏教の依用する重要な論書である。本文は論書というよりは、その摘要を非常に簡潔にまとめた27章の偈頌からなる詩文形式であり、注釈なしでは容易に理解できない。注釈書・論書の例は#注釈書・論書を参照。構成冒頭で提示される全体の要旨である「八不」(不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去)を含む立言としての「帰敬序」と、27の章から成る。各章の構成は以下の通り[1]。帰敬序第1章「原因(縁)の考察」(全14詩)「縁」(四縁)の非自立性を帰謬論証第2章「運動(去来)の考察」(全25詩)「去るはたらき」(去法)の非自立性を帰謬論証第3章「認識能力の考察」(全9詩)「認識能力」(六根)と「認識対象」(六境)、並びに「識」「触」「受」「愛」「取」の非自立性を帰謬論証第4章「集合体(蘊)の考察」(全9詩)「物質」、並びに「受」「心」「想」の非自立性を帰謬論証第5章「要素(界)の考察」(全8詩)「特質」(相)と「六要素」(六大)の非自立性を帰謬論証第6章「貪り汚れの考察」(全10詩)「貪りに汚れること」と「貪りに汚れる人」の非自立性を帰謬論証第7章「作られたもの(有為)の考察」(全34詩)「生」「住」「滅」の三相、並びに「有為」「無為」の非自立性を帰謬論証第8章「行為の考察」(全13詩)「行為」と「行為主体」の非自立性を帰謬論証第9章「過去存在の考察」(全12詩)「受」に先行する主体の非自立性を帰謬論証第10章「火と薪の考察」(全16詩)「火」と「薪」(の例えを通じて「アートマン」や「五取蘊」)の非自立性を帰謬論証第11章「始原・終局の考察」(全7詩)「生」と「老・死」、並びに「始」と「終」の非自立性を帰謬論証第12章「苦しみの考察」(全10詩)「苦」の非自立性を帰謬論証第13章「形成されたもの(行・有為)の考察」(全8詩)「変化」の非自立性を帰謬論証第14章「集合の考察」(全8詩)「集合」の非自立性を帰謬論証第15章「自性の考察」(全11詩)「自性」、並びに「有」と「無」の非自立性を帰謬論証第16章「束縛・解脱の考察」(全10詩)「束縛」「解脱」、並びに「輪廻」「涅槃」の非自立性を帰謬論証第17章「業と果報の考察」(全33詩)「業」と「果報」の非自立性を帰謬論証第18章「アートマンの考察」(全11詩)「アートマン」の非自立性を帰謬論証第19章「時の考察」(全6詩)「時」(「現在」「過去」「未来」)の非自立性を帰謬論証第20章「原因と結果の考察」(全24詩)「原因」(「因」「縁」)と「結果」の非自立性を帰謬論証第21章「生成と壊滅の考察」(全21詩)「生成」と「壊滅」の非自立性を帰謬論証第22章「如来の考察」(全16詩)「如来」(修行者の完成形)の非自立性を帰謬論証第23章「顛倒した見解の考察」(全25詩)「浄」と「不浄」、「顛倒」の非自立性を帰謬論証第24章「四諦の考察」(全40詩)「四諦」等の非自立性を帰謬論証第25章「涅槃の考察」(全24詩)「涅槃」の非自立性を帰謬論証第26章「十二支縁起の考察」(全12詩)古典的な十二因縁(十二支縁起)、及びそこへの自説の関わりの説明第27章「誤った見解の考察」(全30詩)「常住」にまつわる諸説を再度批判しつつ総括内容『中論』は、説一切有部を中心とした諸部派の論(アビダルマ)において、様々に考察され論じられてきた、形而上的実体としてのダルマ(法)を想定する説(五位七十五法、三世実有・法体恒有など)等を、常住・常見(あるいはそれと裏腹の断滅・断見)を執した逸脱・矛盾したもの、釈迦の説いた教えの本義から外れたものとして、論駁していくことを目的としている。その体裁は、整然と秩序立てられた論駁というよりも、「モグラ叩き」のように、そうした説の論点を1つ1つ取り上げながら、「そうした前提に則ると、矛盾する」といった帰謬論証(背理法)を重ねながら、地道に斥けていくものである。より具体的に言えば、「(相依性)縁起」と、事物の「有・無」は両立しない(事物が「有」でも「無」でも、「(相依性)縁起」は成立しない)という前提の下に、論敵の主張を「有」(あるいは「無」)を主張しているものとして分類し、それを「(相依性)縁起」と両立しない主張をしているものとして斥けていく論法を用いる[2][要検証 - ノート]。そうした地道な帰謬論証の積み重ねは、徐々に「自立的なものなど何ひとつない」という、龍樹の徹底した「無自性(空)」「相依性」(相互依存性)の思想を炙り出していくことになる。そうした過激な考えは、むしろ従来の釈迦の説と両立せず、それを踏み越え、蹂躙し、台無しにするものではないのかという批判に対しては、ナーガールジュナは2つの真理(二諦)の区別を持ち込み、自分が示しているのは釈迦が悟った本当の深遠な真理(真諦・第一義諦)であり、同時にもう一方の世俗の真理(世俗諦)を基礎付けてすらいるが、論敵(有自性論者)はそのことが分かっておらず、釈迦の教えや自説の存立すら困難にしていることにすら気付いていないと反論する(第24章)。さらに、真の涅槃(ニルヴァーナ)とは、一切の分別・戯論が滅した境地に他ならないこと(第25章)、そして、それこそが古典的な十二因縁(十二支縁起)の「無明」を消し去り、「逆観」(苦滅)を成立せしめるものでもあること(第26章)などを示しつつ、最後に改めて総括的な内容を挟み、釈迦を讃えて『中論』は締め括られる(第27章)。後世への影響インド・チベット龍樹のこの著作から、中観派と呼ばれる、大乗仏教の一大学派が始まった。この中観派に属するシャーンタラクシタ(寂護)、カマラシーラ(蓮華戒)、アティーシャなどのインド僧は、チベット仏教の歴史に多大な影響を与えており、特にアティーシャの影響下から、ツォンカパが出ることによって、中観帰謬論証派(プラーサンギカ派)思想と後期密教を結合した、顕密総合仏教としてのチベット仏教の性格が決定付けられることになる。中国・日本また一方では、この『中論』と、同じく龍樹の著作である『十二門論』、そして弟子である提婆の『百論』が中国に伝わり、「三論宗」が形成された。これは日本にも伝わり、南都六宗の一派になった。更に、天台宗の始祖である慧文禅師も、この『中論』に大きな影響を受け、その内容を中諦・三諦といった概念で独自に継承した。
イデア論(イデアろん、英: theory of Forms, theory of Ideas, 独: Ideenlehre)は、プラトンが説いたイデア(希: ιδέα、英: idea)に関する学説のこと[1]。 本当にこの世に実在するのはイデアであって、我々が肉体的に感覚する対象や世界とはあくまでイデアの似像にすぎない、とする[1]。イデア論の概要「イデア」という語は、古代ギリシャ語の動詞「idein」(見る)に由来する[1]。プラトンの哲学では、《idea》(イデア)と《eidos》(エイドス)は同義である[2][3][4][5]。eidosというのもやはりideinに由来する言葉である[6]。 ideaやeidosが哲学用語・専門用語として意味が固定したのは、弟子のアリストテレスが用いて以降であり、プラトン自身がそれらを専門用語として用いていたわけではなかったという[1]。 プラトンの説には変遷が見られる[6]。ここでは初期、中期、後期に分けて記述する。初期プラトンの初期の哲学は、ソクラテスが実践したphilosophy(愛智)を描くものであるが、その根本の動機というのは《良く生きる》ことであるということ、また愛智の目的(徳の「何であるか」の探求と学習)を明らかにしつつ、また「無知の知」を自覚させ、人間のpsyche(プシュケー、命、魂)を愛智の道の出発点に立たせようとする[6]。ソクラテスが倫理的な徳目について、それが《何であるか》を問い求めたわけであるが、それに示唆を得て、ソクラテスの問いに答えるような《まさに~であるもの》あるいは《~そのもの》の存在(=イデア)を想定し、このイデアのみが知のめざすべき時空を超えた・非物体的な・永遠の実在・真実在であり、このイデア抜きにしては確実な知というのはありえない、とした[1]。中期中期の哲学は、『メノン』で取り上げられ『パイドン』で展開される《想起》(アナムネーシス)という考え方の導入によって始まる[6]。これは、学習というのは実は《想起》である、という説明である。つまり我々のプシュケー(魂)というのは不滅であって輪廻転生を繰り返しており[6]、もともとは霊界にいてそこでイデアを見ていたのであって、こちらの世界へと来る時にそれを忘れてしまったが、こちらの世界で肉体を使い不完全な像を見ることによりイデアを思い出しているのだ、それが学習ということだ、という考え方である。 (この《想起》という考え方によって、プラトンは「徳とは《何であるか》という問いに答えられないし、不知な対象は探求は不可能だ」とする「探求のパラドックス」は間違っているとする[6]。)そしてプラトンはphilosophy(愛知)というのは、まさに《死の練習》なのであって、真の愛知者というのは、できるかぎり自分のプシュケーをその身体から分離解放し、プシュケーが純粋にそれ自体においてあるように努める者だ、とする[6]。そして愛知者のプシュケーが知る対象として提示されるのが《イデア》である[6]。プシュケーの徳に関して、《美そのもの》(美のイデア)《正そのもの》(正のイデア)《善そのもの》(=善のイデア)などが提示されることで、愛知の道の全体像が提示される[6]。(《善そのもの》は、「知と真実の原因」とされ、太陽にも喩えられている[6])。愛知者のプシュケーが、問答法によって《善そのもの》へ向かい、それを観ずることによって、自らのうちに《知と真実》をうむこと、そして《善そのもの》を頂点としたイデアを模範とすることで、自己自身である自分のプシュケーをそのイデアの似姿として形づくること、それがプラトンの思い描いたことである[6]。イデアの種類には、様々な一般的な性質に対応する「大そのもの」「小そのもの」などが提示された[6]。「単相」「純粋」といった存在論からのものや、「知られるもの」といった認識論からのものも示された[6]。「美そのもの」と「美しいものども」との関係は、《分有》あるいは《与り》の関係であると言われ(「イデア原因説」と呼ばれる)、 また前者が《範》であり、後者が《似像》として理解されるときは《類似》の関係だと言われる(「パラデイグマ」「範形イデア論」などと呼ばれる)[6]。後期中期の終わり頃に位置する『パルメニデス』ではイデアの措定の困難を取り上げ、「第三人間論」などのイデア論批判を行う。それとともに想起説などが取り下げられ、後期ではイデアやエイドスは、中期のそれとは異なったものになり、分割と総合の手続きにより新たに定義される問答法で扱われる《形相》あるいは《類》として理解されるようになる。後世の人々プラトンの弟子のアリストテレスは、《形相》や《類》の分割や交わりが引き起こす「1対多問題」や、定義の「一性」問題について考察しつつ、自己の哲学を確立していった[6]。およそ500年後のプロティノスは、万物は一者(善のイデア)から流出したとした(→ネオプラトニズム)。イデアが実在すると考える考えは後にidealism(観念論)と呼ばれるようになった。そして「実在論」(realism) の系譜に属する、とされるようになった。
仏教のさとりは本当に有りますが解説お願いします。日蓮大聖人の法華経は本当です。修得するには大変な御修行があります。ですが修得すれば仏のような人になります。お題目、南無妙法蓮華経と3回いつもどんなときも唱えていると凄いとてつもない力が出て、お題目を唱えることは凄いことです。日蓮大聖人は立証暗黒論というものですが元寇のことも予言してます今の日本も予言なさっており中国やロシアが来ることも予言なさってます。全ての日本人が目覚め日本は助かると予言なさってますが今目覚めて立ち上がらないと痛い目をあったとき全ての日本人が目覚めるから痛い目をあわないうちに目覚め動いていかないといけないと日蓮大聖人はずっと伝えてます。痛い目とは目の前で人が日本人が殺されないと目覚めないのかという意味です。そうなってはいけないから今目覚めて行動しなければならないのです。三災七難というのも日蓮大聖人は予言なさってます。天皇のご存在のことも日蓮大聖人は分かってます。そして天皇家に仏教がまた唯合されることも予言なさってます。
法華経でしょうね、学会は悪です。私がいいますけど。
日本人にトップをやらせない。日本の宗教なのに擬態化人がやってるよ
学会は本当の法華経をやらず利権に走ったから残念な気持ちです
そもそも正宗系カルト自体が悪学会儲は遺文の真偽問題、致命的な年代矛盾も知らず日蓮真筆本尊も見たことが無い輩ばかりで哀れ戒壇本尊も切り張り創作の贋作創価はカルト
ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925年1月18日 - 1995年11月4日[1])は、フランスの哲学者。パリ第8大学で哲学の教授を務めた。20世紀のフランス現代哲学を代表する哲学者の一人であり、ジャック・デリダなどとともにポスト構造主義の時代を代表する哲学者とされる[2]。ただし、同時代のあらゆる哲学者にとって他称でしかない「ポスト構造主義」というカテゴライズについて、ドゥルーズ本人は否定している(本頁「哲学史上の意義」の節を参照)。概説ドゥルーズは、数学の微分概念を哲学に転用して、差異の哲学を構築し、スコトゥスの存在の一義性(これについては、アラン・バディウのドゥルーズ論に詳しい)という視点から、ヒューム、スピノザ、ベルクソンらの著作を読み解いた。ただし、アラン・ソーカルからは『知の欺瞞』において数学的概念の用い方のいい加減さを批判された(詳しくはソーカル事件を参照)。また、プルーストやカフカやマゾッホ・サドといった近代文学の読解、画家のフランシス・ベーコン論、映画論(『シネマ1, 2』)などの著作も著している。フーコーとの親交は良く知られ、彼の死後、フーコー論を著す。また、『記号と事件』に「追伸」として収められた「管理社会について」では、「フーコーが近い将来、私たちにのしかかってくると考えていた」ものとして、「管理社会」という概念を提示している。この概念は、監視カメラやデータベースなど、個人情報の大規模な集積を容易にする電子技術の発達との関連から、規律に代わる、個人の管理(コントロール)のための新たなテクノロジーの発展を予期したものである。精神分析家で哲学者でもあるフェリックス・ガタリとの共著のなかで、戦争機械、リゾーム、器官なき身体(これは作家、劇作家のアルトーの言葉から発したもの)等の「概念」を次々と創造していった。いまだその概念の可能性のすべては汲み尽くされていないとされる。これらの理論はニーチェ、ベルクソンにその源流を持つ「生成の哲学」とも言うべきもので、日本の思想界にも大きな影響を及ぼした。浅田彰、中沢新一などのニューアカデミズムは、彼からインスピレーションを得ている。・バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza [baːˈrux spɪˈnoːzaː]、1632年11月24日 - 1677年2月21日[1])は、オランダの哲学者である。ラテン語名ベネディクトゥス・デ・スピノザ(Benedictus De Spinoza)でも知られる。デカルト、ライプニッツと並ぶ17世紀の近世合理主義哲学者として知られ、その哲学体系は代表的な汎神論と考えられてきた。また、カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルらドイツ観念論やマルクス、そしてその後の大陸哲学系現代思想へ強大な影響を与えた。スピノザの汎神論は新プラトン主義的な一元論でもあり、後世の無神論(汎神論論争なども参照)や唯物論に強い影響を与え、または思想的準備の役割を果たした。生前のスピノザ自身も、無神論者のレッテルを貼られ異端視され、批判を浴びている。スピノザの肖像は1970年代に流通していたオランダの最高額面の1000ギルダー紙幣に描かれていた。概説ドゥルーズは、数学の微分概念を哲学に転用して、差異の哲学を構築し、スコトゥスの存在の一義性(これについては、アラン・バディウのドゥルーズ論に詳しい)という視点から、ヒューム、スピノザ、ベルクソンらの著作を読み解いた。ただし、アラン・ソーカルからは『知の欺瞞』において数学的概念の用い方のいい加減さを批判された(詳しくはソーカル事件を参照)。また、プルーストやカフカやマゾッホ・サドといった近代文学の読解、画家のフランシス・ベーコン論、映画論(『シネマ1, 2』)などの著作も著している。フーコーとの親交は良く知られ、彼の死後、フーコー論を著す。また、『記号と事件』に「追伸」として収められた「管理社会について」では、「フーコーが近い将来、私たちにのしかかってくると考えていた」ものとして、「管理社会」という概念を提示している。この概念は、監視カメラやデータベースなど、個人情報の大規模な集積を容易にする電子技術の発達との関連から、規律に代わる、個人の管理(コントロール)のための新たなテクノロジーの発展を予期したものである。精神分析家で哲学者でもあるフェリックス・ガタリとの共著のなかで、戦争機械、リゾーム、器官なき身体(これは作家、劇作家のアルトーの言葉から発したもの)等の「概念」を次々と創造していった。いまだその概念の可能性のすべては汲み尽くされていないとされる。これらの理論はニーチェ、ベルクソンにその源流を持つ「生成の哲学」とも言うべきもので、日本の思想界にも大きな影響を及ぼした。浅田彰、中沢新一などのニューアカデミズムは、彼からインスピレーションを得ている。・ルネ・デカルト(仏: René Descartes、1596年3月31日 - 1650年2月11日)は、フランス生まれの哲学者、数学者。合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖として知られる。名前ラテン語名はレナトゥス・カルテシウス (Renatus Cartesius) である。デカルト座標系(仏: système de coordonnées cartésiennes ; 英: Cartesian coordinate system)、デカルト積(デカルトせき、英: Cartesian product)のようにデカルトの名がついたものにカルテジアン(Cartesian)という表現が用いられる。デカルト主義者もカルテジアン(仏: Cartésien ; 英: Cartesian)と呼ばれる。概要考える主体としての自己(精神)とその存在を定式化した「我思う、ゆえに我あり」は哲学史上で最も有名な命題の一つである。そしてこの命題は、当時の保守的思想であったスコラ哲学の教えであるところの「信仰」による真理の獲得ではなく、人間の持つ「自然の光(理性)」を用いて真理を探求していこうとする近代哲学の出発点を簡潔に表現している。デカルトが「近代哲学の父」と称される所以である。ただし、デカルトはそのすべてを信仰も根ざして考えており、著書『方法序説』においても神の存在証明を哲学的にしようと試みてさえいる。初めて哲学書として出版した著作『方法序説』(1637年)において、冒頭が「良識 (bon sens) はこの世で最も公平に配分されているものである」という文で始まるため、思想の領域における人権宣言にも比される。また、当時学術的な論文はラテン語で書かれるのが通例であった中で、デカルトは『方法序説』を母語であるフランス語で書いた。その後のフランス文学が「明晰かつ判明」を指標とするようになったのは、デカルトの影響が大きい、ともいわれる。
・トマス・ホッブズ(Thomas Hobbes, 1588年4月5日 - 1679年12月4日[1])は、清教徒革命(イングランド内戦)から王政復古期にかけてのイングランドの哲学者。17世紀の近世哲学にあって、ルネ・デカルトなどと共に機械論的世界観の先駆的哲学者の一人であり、バールーフ・デ・スピノザなどとともに唯物論の先駆的思索を行った哲学者の一人である。政治哲学者としての側面は広く周知され、人工的国家論の提唱と社会契約説により近代的な政治哲学理論を基礎づけた人物として一般的に知られる。王太子時代のイングランド王チャールズ2世の家庭教師でもあった。概要イングランド国教会の聖職者の子として生まれる。1588年、スペインの無敵艦隊襲来というニュースにショックを受けた母親は産気づき、予定より早く出産した。このため「恐怖と共に生まれた」といわれる。1608年にオックスフォード大学を卒業[2]した後、デヴォンシャー伯爵家(後のデヴォンシャー公家)に家庭教師として仕える。1610年から1630年代にかけて貴族の子弟とともにヨーロッパ大陸へ三度旅行し、フランスやイタリアの哲学者や科学者と交流した[2]。清教徒革命前の1640年に自分の身を案じてフランスへ亡命[2]し、後に国王となったチャールズ2世の家庭教師を務める。最もよく知られる著作『リヴァイアサン』は、イングランド内戦が終結してオリバー・クロムウェルの統治下にあったイングランド共和国に帰国した1651年に刊行された。ベーコンやガリレオ、デカルトらと交友があった。1655年に出版した『物体論』(De Corpore)内で円積問題の解を見つけたと公表し、数学者のジョン・ウォリスとの論争に発展した。ホッブズの哲学は公理系を元に構築する幾何学的な考え方を元にしていたが、円積問題については終始、本質を理解することができず、誤りを自覚できずに死ぬまで激しい論争を続けた(ホッブズとウォリスの論争(英語版))[要出典]。形而上学においては唯物論の立場に立ち、その考えは『物体論』において展開された。また、デカルトから『省察』の批判を書くよう頼まれた時はその立場から批判を行なったが(デカルトは他の哲学者や神学者にも批判を頼み、ホッブズのそれは第三論駁と呼ばれる)、自身の哲学への不理解と解したデカルトからの反応は冷淡であった[3]。・アンリ=ルイ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson [bɛʁksɔn]発音例、1859年10月18日 - 1941年1月4日)は、フランスの哲学者。出身はパリ。日本語では「ベルグソン」と表記されることも多いが、近年では原語に近い「ベルクソン」の表記が主流となっている。思想生きた現実の直観的把握を目指すその哲学的態度から、ベルクソンの哲学はジンメルなどの「生の哲学」といわれる潮流に組み入れられることが多く、「反主知主義」「実証主義を批判」などと紹介されることもある。だが実際のベルクソンは、当時の自然科学にも広く目を配りそれを自分の哲学研究にも大きく生かそうとするなど、決して実証主義の精神を軽視していたわけではない(アインシュタインが相対性理論を発表するとその論文を読み、それに反対する意図で『持続と同時性』という論文を発表したこともある)。一方で、ベルクソンは新プラトン主義のプロティノスから大きな影響を受けていたり、晩年はカトリシズムへ帰依しようとするなど、神秘主義的な側面ももっており、その思想は一筋縄ではいかないものがある(ベルクソンは霊やテレパシーなどを論じた論文を残してもおり、それらは『精神のエネルギー』に収められている)。 因みに、1913年、英国心霊現象研究協会の会長に就任している。こうした点から、ベルクソンの哲学は、しばしば実証主義的形而上学、経験主義的形而上学とも称される[要出典]。・マルティン・ハイデッガー(ドイツ語: Martin Heidegger, 1889年9月26日 - 1976年5月26日)は、ドイツの哲学者。ハイデガーとも表記される[注釈 1]。フライブルク大学入学当初はキリスト教神学を研究し、フランツ・ブレンターノや現象学のフッサールの他、ライプニッツ、カント、そしてヘーゲルなどのドイツ観念論やキェルケゴールやニーチェらの実存主義に強い影響を受け、アリストテレスやヘラクレイトスなどの古代ギリシア哲学の解釈などを通じて独自の存在論哲学を展開した。1927年の主著『存在と時間』で存在論的解釈学により伝統的な形而上学の解体を試み、「存在の問い(die Seinsfrage)」を新しく打ち立てる事にその努力が向けられた。ヘルダーリンやトラークルの詩についての研究でも知られる。20世紀大陸哲学の潮流における最も重要な哲学者の一人とされる。その多岐に渡る成果は、ヨーロッパだけでなく、日本やラテンアメリカなど広範囲にわたって影響力を及ぼした。1930年代にナチスへ加担したこともたびたび論争を起こしている[2]。
・ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau、1712年6月28日 - 1778年7月2日)は、フランス語圏ジュネーヴ共和国に生まれ、主にフランスで活躍した[注釈 1]哲学者、政治哲学者、作曲家[2][3][4]。思想社会契約説「民主政」も参照先駆のトマス・ホッブズやジョン・ロックと並びルソーは、近代的な「社会契約(Social Contract)説」の論理を提唱した主要な哲学者の一人である。まず、1755年に発表した『人間不平等起源論』において、自然状態と、理性による社会化について論じた。ホッブズの自然状態論を批判し、ホッブズの論じているような、人々が互いに道徳的関係を有して闘争状態に陥る自然状態はすでに社会状態であって自然状態ではないとした[129]。ルソーは、あくまでも「仮定」としつつも[130]、あらゆる道徳的関係(社会性)がなく、理性を持たない野生の人(自然人)が他者を認識することもなく孤立して存在している状態(孤独と自由)を自然状態として論じた[131]。無論、そこには家族などの社会もない。ルソーは、自然状態の人間について次のように語っている。……森の中をさまよい、器用さもなく、言語もなく、住居もなく、戦争も同盟もなく、少しも同胞を必要ともしないばかりでなく彼らを害しようとも少しも望まず、おそらくは彼らのだれをも個人的に見覚えることさえけっしてなく、未開人はごくわずかな情念にしか支配されず、自分ひとりで用がたせたので、この状態に固有の感情と知識しかもっていなかった。彼は自分の真の欲望だけを感じ、見て利益があると思うものしか眺めなかった。そして彼の知性はその虚栄心と同じように進歩しなかった。……技術は発明者とともに滅びるのがつねであった。教育も進歩もなかった。世代はいたずらに重なっていった。そして各々の世代は常に同じ点から出発するので、幾世紀もが初期のまったく粗野な状態のうちに経過した。種はすでに老いているのに、人間はいつまでも子供のままであった。- ルソー、『人間不平等起源論』、本田喜代治、平岡昇共訳、岩波文庫、1972年、80頁。理性によって人々が道徳的諸関係を結び、理性的で文明的な諸集団に所属することによって、その抑圧による不自由と不平等の広がる社会状態が訪れたとして、社会状態を規定する(「堕落」)[132]。自然状態の自由と平和を好意的に描き、社会状態を堕落した状態と捉えるが、もはや人間はふたたび文明を捨てて自然に戻ることができないということを認めて思弁を進める[133]。1762年に発表した『社会契約論』において、社会契約と一般意志なる意志による政治社会の理想を論じた[134]。社会契約が今後の理想として説かれる点で、ルソーの社会契約説は、イギリスにおいて現状の政治社会がどのような目的の社会契約によって形成されたのかについて研究したホッブズやロックの社会契約説と異なる。『社会契約論』においてルソーは、「一般意志」を民意や世論といった単純な「特殊意志(個人の意志)」の総和(全体意志)としてではなく、それぞれの「特殊意志」から相殺しあう過不足を除き「相違の総和」として残された共通の社会的利益として考えていた。この社会的利益は要するに公共の福祉になるのだと説明している[135]。ルソーは、ロック的な選挙を伴う議会政治(間接民主制、代表制、代議制)とその多数決を否定し[136]、あくまでも一般意志による全体の一致を目指しているが、その理由は、ルソーが、政治社会(国家)はすべての人間の自由と平等をこそ保障する仕組みでなければならないと考えていたためである[137]。そのため、政治の一般意志への絶対服従によって、党派政治や一部の政治家による利権政治を排した真に民主的な「共和国」の樹立を求めた。ただし、ルソーが言う「共和国」とは一般的な意味での共和国ではなく、君主政体でも法治主義が徹底されていれば「共和国」ということになる[138]。ルソーの議論が導く理想は政治が一般意志に服従した人民主権(国民主権)の体制であった[139]。ただし、ルソーは一般意志による政治について、民主政の他に君主政や貴族政を排除せず、政体はあくまでも時代や国家の規模によって適するものも異なるとし[140]、社会契約による国家が君主政であるにせよ、あるいは貴族政であるにせよ、民主政であったとしても民意による支持があればそれで良く、政体は国情によって決まられるべきと考えていた。ルソーは、君主制とか共和制といった政体よりも国家を担う統治者が国民の一般意志に服従しているかどうかを重要視していたと考えられる[141]。・トマス・ホッブズ(Thomas Hobbes, 1588年4月5日 - 1679年12月4日[1])は、清教徒革命(イングランド内戦)から王政復古期にかけてのイングランドの哲学者。17世紀の近世哲学にあって、ルネ・デカルトなどと共に機械論的世界観の先駆的哲学者の一人であり、バールーフ・デ・スピノザなどとともに唯物論の先駆的思索を行った哲学者の一人である。政治哲学者としての側面は広く周知され、人工的国家論の提唱と社会契約説により近代的な政治哲学理論を基礎づけた人物として一般的に知られる。王太子時代のイングランド王チャールズ2世の家庭教師でもあった。概要イングランド国教会の聖職者の子として生まれる。1588年、スペインの無敵艦隊襲来というニュースにショックを受けた母親は産気づき、予定より早く出産した。このため「恐怖と共に生まれた」といわれる。1608年にオックスフォード大学を卒業[2]した後、デヴォンシャー伯爵家(後のデヴォンシャー公家)に家庭教師として仕える。1610年から1630年代にかけて貴族の子弟とともにヨーロッパ大陸へ三度旅行し、フランスやイタリアの哲学者や科学者と交流した[2]。清教徒革命前の1640年に自分の身を案じてフランスへ亡命[2]し、後に国王となったチャールズ2世の家庭教師を務める。最もよく知られる著作『リヴァイアサン』は、イングランド内戦が終結してオリバー・クロムウェルの統治下にあったイングランド共和国に帰国した1651年に刊行された。ベーコンやガリレオ、デカルトらと交友があった。1655年に出版した『物体論』(De Corpore)内で円積問題の解を見つけたと公表し、数学者のジョン・ウォリスとの論争に発展した。ホッブズの哲学は公理系を元に構築する幾何学的な考え方を元にしていたが、円積問題については終始、本質を理解することができず、誤りを自覚できずに死ぬまで激しい論争を続けた(ホッブズとウォリスの論争(英語版))[要出典]。形而上学においては唯物論の立場に立ち、その考えは『物体論』において展開された。また、デカルトから『省察』の批判を書くよう頼まれた時はその立場から批判を行なったが(デカルトは他の哲学者や神学者にも批判を頼み、ホッブズのそれは第三論駁と呼ばれる)、自身の哲学への不理解と解したデカルトからの反応は冷淡であった[3]。・ジョン・ロック(英語: John Locke FRS、1632年8月29日 - 1704年10月28日)は、イギリスの哲学者。哲学者としては、イギリス経験論の父と呼ばれ、主著『人間悟性論』(『人間知性論』)において経験論的認識論を体系化した。また、「自由主義の父」とも呼ばれ[2][3][4]、政治哲学者としての側面も非常に有名である。『統治二論(統治論二篇)』などにおける彼の政治思想は名誉革命を理論的に正当化するものとなり、その中で示された社会契約や抵抗権についての考えはアメリカ独立宣言、フランス人権宣言に大きな影響を与えた。概要ロックの著作の大部分は1687年から1693年の間に刊行されているが、明晰と精密、率直と的確がその特徴とされており、哲学においては、イギリス経験論の父であるだけでなく、政治学、法学においても、自然権論、社会契約の形成に、経済学においても、古典派経済学の形成に多大な影響力を与えた。
菩薩道(読み)ボサツドウデジタル大辞泉 「菩薩道」の意味・読み・例文・類語ぼさつ‐どう〔‐ダウ〕【×菩×薩道】仏語。1 菩薩としての修行。自利・利他を兼ね備えて行う悟りへの実践。2 大乗仏教のこと。・菩薩(ぼさつ)とは、ボーディ・サットヴァ(梵: बोधिसत्त्व, bodhisattva, 巴: bodhisatta)の音写である菩提薩埵(ぼだいさった)の略であり[1][注釈 1]、仏教において一般的には菩提(bodhi, 悟り)を求める衆生(薩埵, sattva)を意味する[1]。仏教では、声聞や縁覚とともに声聞と縁覚に続く修行段階を指し示す名辞として用いられた[2][3]。原語・原義梵名ボーディ・サットヴァのbodhiとは漢訳「菩提」であり、「菩提薩埵」の「埵」とは、「枝が垂れたように延びている、土を盛り上げて固くしたもの」を表している。菩薩という用語が仏教成立以前から存在したか否かについての定説はないが、仏教で初めて菩薩という用語が用いられたのは釈迦の前世譚(ジャータカ)であり、釈迦が前世で辿りついた境地の意味だったとする説が有力である[注釈 2][要検証 - ノート]。初期仏教・上座部仏教初期仏教、パーリ仏典において菩薩(巴: bodhisatta)は悟りを開く前の釈迦本人を指している[5]。パーリ仏典では、四門出遊を経て出家した直後の釈迦(ヴィパッシン王子)はヴィパッシン菩薩(vipassī bodhisatto)と記載されている[6].釈迦は説法の中で、若き求道者であった頃の自身を語るときには「私が啓示を得ていない bodhisatta であったころは...」というフレーズをたびたび使用していた[7]。Mayhampi kho, mahānāma, pubbeva sambodhā, anabhisambuddhassa bodhisattasseva sato... [8]マハーナーマ(人名)よ、私が菩提を得る前、いまだ成道していない菩薩であったとき ...Ahampi sudaṃ bhikkhave pubbeva sambodhā anabhisambuddho bodhisattova samāno ... [7]比丘たちよ、私もまた正覚以前のころ、未だ正覚を得ていない菩薩であったとき ...大乗仏教観音菩薩、12世紀、平安時代、東京国立博物館蔵弥勒菩薩立像、13世紀、鎌倉時代、重要文化財、東京国立博物館蔵大乗仏教は『ジャータカ』の慈悲行を行う釈迦を理想とし、修行者自身が「仏陀」になることを目ざした。このため大乗仏教の修行者はすべて菩薩と呼ばれるようになった[9]。これら修行者が守るべき戒律は菩薩戒と呼ばれる。また竜樹や世親といった高僧を菩薩号で呼ぶことも行われている[9]。般若心経玄奘訳の般若心経には前段に菩薩、後段に菩提薩埵と音写した2種の訳語が使い分けられている[注釈 3]。般若心経にこのような用語が使われているのは漢訳における語源学風解釈(nirukti, etymology)で、意図的に〈菩提+薩埵〉と分割したという説がある[10] 。十地経 この節の出典や参考文献は、一次資料や記事主題の関係者による情報源に頼っています。信頼できる第三者情報源とされる出典の追加が求められています。出典検索?: "菩薩" - ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年7月)華厳十地経は序章において、「十種の無上の徳あるもっともすぐれた菩薩行」を十波羅蜜としている[11]。菩薩五十二位 この節の出典や参考文献は、一次資料や記事主題の関係者による情報源に頼っています。信頼できる第三者情報源とされる出典の追加が求められています。出典検索?: "菩薩" - ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年7月)『華厳経』及び『菩薩瓔珞本業経』では、菩薩の境涯、あるいは修行の階位は、上から妙覚、等覚、十地、十廻向、十行、十住、十信の52の位にまで分けて52位を採用することが多い。妙覚(みょうかく)菩薩修行の階位である52位の最後の位で、等覚位の菩薩が、さらに一品(いっぽん)の無明を断じて、この位に入る。なお一切の煩悩を断じ尽くした位で、仏・如来と同一視される。等覚(とうかく)菩薩修行の階位である52位の中、51位であり菩薩の極位で、その智徳が略万徳円満の仏、妙覚と等しくなったという意味で等覚という。十地(じっち、じゅうぢ)菩薩修行の階位である52位の中、第41~50位まで。上から法雲・善想・不動・遠行・現前・難勝・焔光・発光・離垢・歓喜の10位。仏智を生成し、よく住持して動かず、あらゆる衆生を荷負し教下利益することが、大地が万物を載せ、これを潤益するからに似ているから「地」と名づく。十廻向(じゅうえこう)菩薩修行の位階である52位の中、第31~40位まで。上から入法界無量廻向・無縛無著解脱廻向・真如相廻向・等随順一切衆生廻向・随順一切堅固善根廻向・無尽功徳蔵廻向・至一切処廻向・等一切諸仏廻向・不壊一切廻向・救護衆生離衆生相廻向の10位。十行を終わって更に今迄に修した自利・利他のあらゆる行を、一切衆生の為に廻施すると共に、この功徳を以って仏果に振り向けて、悟境に到達せんとする位。十行(じゅうぎょう)菩薩修行の位階である52位の中、第21~30位まで。上から真実・善法・尊重・無著・善現・離癡乱行・無尽・無瞋根・饒益・観喜の10位。菩薩が、十住位の終に仏子たる印可を得た後、更に進んで利他の修行を完うせん為に衆生を済度することに努める位。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・方便・願・力・智の十波羅密のこと。十住(じゅうじゅう)菩薩修行の位階である52位の中、第11~20位まで。上から灌頂・法王子・童真・不退・正信・具足方便・生貴・修行・治地・発心の10位。十信位を経て心が真諦(しんたい)の理に安住する、という意味で「住」と名づく。あるいは菩薩の十地を十住という説もある。十信(じゅうしん)菩薩修行の位階である52位の中、第1~10位まで。上から願心・戒心・廻向心・不退心・定心・慧心・精進心・念心・信心の10位。仏の教法を信じて疑心のない位。なお、十信を外凡、十住~十廻向までを内凡あるいは三賢と称し、十信~十廻向までを凡と総称する。また十地と等覚を因、妙覚を果と称し、十地~妙覚までを聖と総称し、凡と相対する。
小宮光二の菩薩コース、アラハンコースにようこそ
@@吉田徳之-b8c あの人はアガスティアの葉の人らからねえ。阿羅漢とは別ものでしょうね。
ちょと言質が観念論に傾きそうなので、というよりそうならざるを得ないので、そっちの補正。ミーム論のようになりそうなので、も少し原点からいうと、よくご指摘されてるのに。原点は日本語にあるんだが、日本語そのものの説明も含めて。フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure、1857年11月26日 - 1913年2月22日[1])は、スイスの言語学者、記号学者、哲学者。「近代言語学の父」[注釈 1]といわれている。人物記号論を基礎付け、後の構造主義思想[注釈 2]に影響を与えた。言語学者のルイス・イェルムスレウ、ロマーン・ヤーコブソンのほか、クロード・レヴィ=ストロース、モーリス・メルロー=ポンティ、ロラン・バルト、ジャック・ラカン、ジャン・ボードリヤール、ジュリア・クリステヴァ、ノーム・チョムスキーなど多くの思想家が、その影響を受けている。ソシュールの言語理論ソシュールは、言語を考察するに当たって、通時言語学/共時言語学、ラング/パロール、シニフィアン/シニフィエなどの二分法的な概念を用いた。通時言語学と共時言語学ソシュールは、言語学を通時言語学と共時言語学に二分した。従来の比較言語学のように、言語の歴史的側面を扱うのが「通時言語学」である。それに対して、言語の共時的(非歴史的、静態的)な構造を扱うのが「共時言語学」である。ソシュールは、その両方を研究の対象とすることで、それまでのように言語の起源や歴史的推移を問題にするだけでなく、ある一時点における言語の内的な構造も研究対象にし、それによって言語を全体的に理解しようとした[注釈 12]。ラングとパロール共時言語学(記号論)においては、言語の社会的側面(ラング。語彙や文法など、社会に共有される言語上の約束事。コード)と言語の個人的側面(パロール、「今日は暑い」とか「私は完璧に血抜きされた魚の刺身を食べたい」や「どこでもドアが欲しい」などといった個人的な言語の運用。メッセージ)に二分し、「ラング」を共時言語学の対象とした。シーニュ、シニフィアンとシニフィエ「シニフィアンとシニフィエ」も参照ソシュールは、言語(ラング)は記号(シーニュfr:signe)の体系であるとした。ソシュールによれば、記号は、シニフィアン(たとえば、日本語の「イ・ヌ」という音の連鎖など)とシニフィエ(たとえば、「イヌ」という音の表す言葉の概念)が表裏一体となって結びついたものである。そして、このシニフィアンとシニフィエの結びつきは、恣意的なものである。つまり、「イヌ」という概念は、"Dog"(英語)というシニフィアンと結びついても、"Chien"(フランス語)というシニフィアンと結びついても、どちらでもよいということである。
二重分節さらに、ソシュールは、音韻においても、概念においても、差異だけが意味を持ち、その言語独特の区切り方を行っていると主張する。まず、音韻について言えば、たとえば日本語では、五十音で音を区切っている。そして、「ア」の音は、「ア」以外の音(イ、ウ、エ、オ、……)ではないものとして意味を持つ。そして、音の区別の仕方は、言語によって異なる。たとえば、日本語の音韻体系においては、英語における「r」と「l」にあたる音の区別がない。つまり、本来ならば、無限に分類できるさまざまな音を、有限数の音に分類する。そして、各言語の話者族は、それぞれ独自のやり方で(つまり、普遍的ではないやり方で)音を区分けしている。これは、"言語の音声面での恣意性"と表現される。一方、音韻だけではなく、概念も言語によって区切られている。たとえば、「イヌ」という言葉の概念は、「イヌ」以外のすべての概念(ネコ、ネズミ、太陽、工場、川、地球……)との差異で存立している。このように、人間は、「シーニュ」という「概念の単位」によって、現実世界を切り分けているのである。そして、その切り分け方は、普遍的ではない。たとえば、日本語では虹の色を「七色」に切り分けているが、それを「三色」に切り分ける言語もある。つまり、色を表す言葉の数によって、虹の色の区切り方が違うのである。また、日本語では「マグロ」と「カツオ」を別の言葉で表現するが、英語では両方とも"tuna"である。これは、それぞれの言語を話す人々は、どの差異を区別し、どの差異を無視するかということを恣意的に選択しているのである。そして、その選択がその言語に固有の語体系を作るのであり、その語体系は、その言語の話者族に、現実世界を与える。ソシュールは、この語体系の固有性を作り出す側面を"価値"と呼んでいる。価値は、話者族の恣意による。たとえば、英語のsheepとフランス語のmoutonは、意義は同じであるが、価値は異なる。ここにおいて、ソシュールは、「各民族語は、相互に異なる固有の世界像を持つ」という言語相対論を提唱した。このように線引きの集まりを恣意的に作るという行為は、分節と呼ばれる。そして、人間は、「現実世界の認識の体系」と「言葉を構成する音の体系」という二つの体系を"分節"によって作りあげているのである。これを二重分節という。なお、線引きが恣意的であることを、後に"差異の体系"と呼んだ評論家がいるが、それでは力点の置き方が異なるため、ソシュールの意図からは外れることになる。ランガージュソシュールは、このように音韻や概念を分節し、言語を運用する人間の能力をランガージュと呼んだ。ランガージュを持つことによって、人間は「今日は暑い」とか「鰻が食べたい」といった個人的な言語を運用(パロール)することができるようになるのである。ソシュールは、「ランガージュは、人類を他の動物から弁別する印であり、人間学的あるいは社会学的といってもよい性格を持つ能力である」と述べている。いわゆる記号論についてソシュールによって、恣意的な関係性という意味の 「シーニュ」の概念が指摘された。そして、このことをきっかけに、同様の恣意性が、言語学以外のさまざまな象徴や指標でも見出された。そして、この概念は、(ダルシャナを知らなかった)ヨーロッパの人々にも、遅ればせながら意識されるようになった。また、「シーニュ」の概念は、言語に関する理論にとどまらず、他の論者・評論家たちからも類推的・拡張的に利用され、次第に記号論あるいは記号学と呼ばれる一連の論・評論へと発展していくことになった。たとえば、後の記号論者には、あるブランドに特定のイメージが関連づけられる仕方は、おおむね恣意的なものであり、他の類似ブランドとの差異の体系を形成している、ということを指摘した者もいる。たとえば、『消費社会の神話と構造』のボードリヤールがいる。評論家たちは、映画や小説の作品を、作者の個人的な生い立ちや意図ではなく、同時代の関連作品との"差異の体系"として読み解こうとした。これは、「間テクスト性の分析」と呼ばれる分析方法であり、ロラン・バルトやジュリア・クリステヴァが使用した。しかし、これは、ソシュールの提示した概念に負うところが大きい。また、クロード・レヴィ=ストロースは、記号論的な考え方を文化人類学の領域に導入し、構造主義思想を確立した。そして、その影響は、20世紀の哲学、数学、精神分析学、文芸評論、マルクス主義思想、生物学にまで及んでいる。講義ノートと原資料ソシュールは、存命中一冊の著書も出版しなかった。しかし、ソシュールには、晩年の1906年から1911年にかけて、ジュネーヴ大学において、一般言語学についての講義を計三回行ったことがあり、そのときに後にソシュールの弟子になるバイイとセシュエがまとめた『一般言語学講義』(仏: Cours de linguistique générale)がある。ただし、彼らはジュネーヴ大学の別の講義に出席していたため、直接聴講したわけではない。なお、直接講義を受けた学生による講義ノートが、エディット・パルクから第一回から第三回まで全て出版されている。1954年頃から、ジュネーヴ公共大学図書館では、ソシュールの講義ノート等の資料が収集され始める。そして、1957年にゴデルが『一般言語学講義の原資料』を、1968年にはエングラーが『一般言語学講義』改訂版を刊行する。日本への紹介は、小林英夫による邦訳初版が、ソッスュール述『言語學原論』と題して1928年に岡書院から出版された。その後、出版元を岩波書店に変え、1972年刊行の改訳版で『一般言語学講義』と改題出版された。丸山圭三郎は「ソシュールの思想」と「ソシュールを読む」を刊行した。彼は、ソシュールが歪曲されたまま伝えられたことを指摘した。
クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss、1908年11月28日 - 2009年10月30日[1])は、フランスの社会人類学者、民族学者。ベルギーのブリュッセルで生まれ、フランスのパリで育った[2]。コレージュ・ド・フランスの社会人類学講座を1984年まで担当し、アメリカ先住民の神話研究を中心に研究を行った。アカデミー・フランセーズ会員。専門分野である人類学、神話学における評価もさることながら、一般的な意味における構造主義の祖とされ[3]、彼の影響を受けた人類学以外の一連の研究者たち、ジャック・ラカン、ミシェル・フーコー、ロラン・バルト、ルイ・アルチュセールらとともに、1960年代から1980年代にかけて、現代思想としての構造主義を担った中心人物のひとり。思想的特色彼の人類学におけるデータ分析の方法論において中心をなすのは、言語学とりわけ、ソシュールからヤコブソンへといたる構造言語学における音韻論および、フランス社会学年報派、とりわけデュルケムの流れを汲む社会学者マルセル・モースの社会学=人類学思想の2つであるといえる。ただし、さまざまな著作の随所で度々述べられているように、青年期に親しんだマルクス主義や、地質学への興味に見られる博物学的関心(こうした性向から、ときにゲーテが研究した自然学への親近感を表明することもある)に加え、芸術家の出入りが多い環境で育ったこともあり、西洋クラシック音楽におけるワーグナーやストラヴィンスキー、絵画におけるシュルレアリズムやキュビズムなど、同時代のアヴァンギャルド芸術思潮からの影響も多分に受けており、こうした多方面的な知識が、彼の著作を単なる人類学における論文や著書とは一線を画したものにしており、多くの言語に訳されている。親族構造の分析-『親族の基本構造』から『親族の複合構造』へ未開社会の婚姻規則の体系、無文字社会を贈与の問題や、記号学的立場から分析した。オーストラリア先住民(アボリジニ)と東南アジア・古代中国・インド・北東アジアの婚姻規則の体系を構造言語学のインスピレーションをもとにして統一的観点からの分析をし、博士論文となった1949年の『親族の基本構造』において自らの基本的立場を明らかにした。この「構造」に、群論を使った数理的な解析を与えたのは、数学者のアンドレ・ヴェイユ(かのブルバキの結成メンバーであり、シモーヌ・ヴェイユの兄である)である。「未開社会」観の変革レヴィ=ストロースは、『野生の思考(パンセ・ソバージュ)』(1962年)などにおいて、従来の「野蛮(混沌)」から洗練された秩序が形作られたとする西洋中心主義に対し、混沌の象徴と結びつけられた「未開社会」においても一定の秩序・構造が見いだせると主張し、オリエンタリズム的見方に一石を投じた。これは、後のポストコロニアリズムで特に高く評価されている。なお、『パンセ・ソバージュLa pensée sauvage』の題は、パスカルの『パンセ』を元にしたといわれ「野生の三色すみれ」の意味もある。
関わった論争『弁証法的理性批判』をめぐって-サルトルとの論争1962年の『野生の思考』の最終章「歴史と弁証法」においてレヴィ=ストロースは、サルトルの実存主義を強烈に批判した。このことから、実存主義に対立し、それを乗り越えるものとしての構造主義という思潮が、ときには過剰なまでにもてはやされる契機となった。本人はその後も、センセーショナルな流行からはつねに距離をとり、10年もの歳月をかけて、ライフワークとなった4巻に及ぶ『神話論理』(『生のものと火にかけたもの』、『蜜から灰へ』、『テーブルマナーの起源』、『裸の人』)を完成させ、神話研究において不滅の業績を残した。彼の問題意識はサルトルの実存主義という主体偏重を批判し、西洋社会における、西洋中心主義に対する批判的意識から出発している。前者に対しては、主体ではなく、主体間の構造こそが重要だと主張し(主体が使う言語は共同体社会によって生み出された構造主義的なものなので、絶対的な主体ではありえない)、後者に対しては、どのような民族においてもその民族独自の構造を持つもので、西洋側の構造でその他の構造に対して優劣をつけることなど無意味だと主張した。デリダによる批判橋爪大三郎の分析によると[15]、ジャック・デリダは、従来のパロール(話し言葉)中心の言語分析(ロゴス中心主義(en:Logocentrism)、音声中心主義(en:Phonocentrism)という語をデリダは使った)に反対し、エクリチュール(文字)を重視せよと主張していた。そのデリダから見ると、レヴィ=ストロースは音韻論を人類学に持ち込み、なおかつ社会が出来てから文字が出来るという後成説を採っているので、デリダの批判するロゴス中心主義者と映る。そのため、デリダは、レヴィ=ストロースを批判したとされる。しかし、同じく橋爪大三郎の指摘によれば、レヴィ=ストロースの主張とデリダの批判の間には噛み合っていない部分が多く、またレヴィ=ストロースの専門(人類学)とデリダの専門(言語分析)は必ずしも矛盾しないとされ、すなわちデリダによる批判という見解にはやや的外れな点があるとされる。リーチによる批判英国の社会人類学者エドマンド・リーチは、レヴィ=ストロースの親族研究を多岐に渡って批判している。しかし、小田亮の分析によると、これはリーチ自身、「基本構造」という語が、交叉イトコ婚(いとこ婚#文化人類学におけるいとこ婚)による婚姻体系ではインセスト・タブーと外婚制が裏表となっているという意味で「基本」構造と呼ばれていることを理解していないためであり、また経済的に何の利益もない「交換のための交換」が社会生成に関係するということを捉え損なっているためであるという。詳しくは、小田亮『レヴィ=ストロース入門』(ちくま新書、2000年)と、エドマンド・リーチ『レヴィ=ストロース』(吉田禎吾訳、ちくま学芸文庫、2000年)を参照。エピソード・来日ほかレヴィ=ストロース(Lévi-Strauss)が姓である。ジーンズのブランドリーバイスの創始者リーヴァイ・ストラウス(Straussが姓)と似ているので、時折、関係があると誤解されることがあり、実際にリーバイス社が日本で紹介され始めた際には「レヴィ・ストロース社」とされることがあった。本人も、合衆国に出張した際、カリフォルニアのレストランで名前を告げると「pants or books?(ズボン、それとも本?)」と尋ねられたと語っている。1955年に代表作『悲しき熱帯』を刊行し、センセーショナルに評価受容された際、ゴンクール賞を選定するアカデミー・ゴンクール(英語版)から、小説でないために『悲しき熱帯』を受賞作にできないのは、非常に残念だという旨のコミュニケが発表された。なおアカデミー・フランセーズ選出者は、賞を返上するという慣行があるらしく、仮にレヴィ=ストロースが受賞した場合、この慣行が行われていた可能性がある。1973年にエラスムス賞を受賞。同年アカデミー・フランセーズ正会員に選ばれた。国際交流基金の招きで1977年10月から11月に初来日、以後も1986年4月の他に数度来日し[16]、講演・シンポジウムや、日本人学者や日本学者らとの交流を行っている。日本文化を高く評価する親日家であり、1993年春の外国人叙勲で勲二等旭日重光章が授与されている。1993年4月14-15日、NHK教育テレビ「ETV特集」で、弟子の川田順造によるロング・インタビュー「第1回 自然・人間・構造」、「第2回 日本への眼差し」を放映。のち白水社でビデオ化(別冊付)されたが絶版、未DVD。2008年11月28日に100歳の誕生日を迎え、フランスでは記念行事が行われ、また政府はフランスで活動する人文社会科学者を対象とする「レヴィ=ストロース賞」の創設を発表。2009年10月30日深夜にフランス東部リニュロール村の別荘で死去した。遺言により親族による密葬を経て、11月3日に代理人でもある出版社が公表した。最後の様子は、川田順造『文化を交叉させる 人類学者の眼』(青土社、2010年5月、序文レヴィ=ストロース)の著者あとがきに詳しい。後に『レヴィ=ストロース論集成』(青土社、2017年4月)を出版。フランス語圏での伝記にドニ・ベルトレ『レヴィ=ストロース伝』(藤野邦夫訳、講談社、2011年)、また入門書にカトリーヌ・クレマン『レヴィ=ストロース』(塚本昌則訳、白水社、2014年)がある。他の「構造主義者」と異なり、レヴィ・ストロースの文章は明晰であると評価されている。難解な言い回しを用いず、また彼の構造主義という発想の基点の一つである数学的知識に関しても誤った理解をすることなく受け入れたことで、後にフランス現代思想界を揺るがすアラン・ソーカルによる一連の批判(ソーカル事件)の対象外に置かれることとなった。指導を受けた研究者たちピエール・クラストルフランソワーズ・エリティエ=オジェフィリップ・デスコーラモーリス・ゴドリエピエール・ブルデューミシェル・ペラン川田順造 関連著書多数渡辺公三 関連著書多数吉田禎吾 『レヴィ=ストロース 人と思想』(入門書で共著、清水書院、1991年、新版2015年)がある。夏刈康男 社会学者
エイヴラム・ノーム・チョムスキー(Avram Noam Chomsky、1928年12月7日 - )は、アメリカ合衆国の哲学者[1][2]、言語哲学者、言語学者、認知科学者、論理学者[3][4]。マサチューセッツ工科大学の言語学および言語哲学の研究所教授 (Institute Professor) 兼名誉教授[5]。妻は言語学者・教育学者のキャロル・チョムスキー。人物チョムスキーが「仮説として」唱えた、普遍文法仮説は、全ての人間の言語に「普遍的な特性がある」とし、その普遍的特性は人間が持って生まれた、すなわち生得的な、そして生物学的な特徴であるとする言語生得説による、言語をヒトの生物学的な仮説上の(心理上の)器官によるものと捉えた仮説である(言語獲得装置)。そして、そのような仮説はいったん置くとして、その研究のために彼が導入したのが「生成文法」であった。生成文法に用いた演繹的な方法論により、チョムスキー以前の言語学に比べて飛躍的に言語研究の質と精密さを高めた。チョムスキー以前の言語学では、フェルディナン・ド・ソシュールに代表されるヨーロッパ構造主義言語学や、レナード・ブルームフィールドらのアメリカ構造主義言語学の、言語の形態を観察・記述する構造主義的アプローチが優勢であったが、これに対しチョムスキーは言語を作り出す人間の能力に着目した点(すなわち普遍文法仮説)と、そのメカニズムをフォーマルに(形式的に)記述することを目指した生成文法というアプローチを取った点が画期的であった。より具体的に言えば、適切な言語形式を産出する能力(linguistic competence: 言語能力)と、実際に産出された言語形式(linguistic performance: 言語運用)とを区別し、前者を研究の重点としている。チョムスキー自身はソシュールの熱烈なファンであり、熱心な読者でもある。彼以降、言語学は認知科学や計算機科学と強い親近性を獲得した。認知科学との親近性は、普遍文法仮説のように「脳と心」についての科学的な仮説と関連づけてヒトと言語について扱ったことによるといえる。もっとも後述するように、ある意味では皮肉なことに、より認知科学に近いことを自認する認知言語学はチョムスキーの、特に普遍文法仮説に批判的な立場を取っている。計算機科学との親近性は、歴史的に見て同時代に計算言語学や自然言語処理が興ったという幸運もあるが、普遍文法仮説はさておき、生成文法が言語をフォーマルな(形式的な)ものとして取り扱うことを可能とするものだったことによる。チョムスキー自身はその後もヒトの自然言語の研究に邁進するが、形式言語の理論であるチョムスキー階層は、(自然言語処理を専門とする者を除けば)多くの計算機科学者が最も良く知っているチョムスキーの業績である。また、統語論の自律性を主張したことで、かえって意味論や語用論などの隣接分野も浮き彫りにする形となった。このあたりについてはチョムスキーがハーバード大学でジュニア・フェローとして過ごした時期の考察に端を発する。派を問わずあらゆる言語学者に「統語的にはgrammaticalだが、意味的にはnonsenseな」「統語論と意味論の境界を明らかに示すような」例文として知られる文 "Colorless green ideas sleep furiously." を示したのが彼である。酒井邦嘉[51] は1990年代の「ミニマリスト・プログラム」への大きな変化を「一人の人が天動説と地動説の両方を作り上げるようなものである」と評していて、チョムスキーの次の言葉を紹介している。もしあなたが孤立して、世の中の誰とも全く違っているとしたら、自分の気が変になったか、どうかしたに違いないと思い始めるでしょう。あなたが他の人々と何か違ったことを言っているという事実に負けないためには、強い自我(a big ego)が必要です。一方でチョムスキー的な言語学には言語学の内外からの批判もある。特に言語学内の他派からの批判は「チョムスキアン」なる語の存在からもうかがえるものであり、チョムスキー以前の派閥としては前述の欧あるいは米の構造主義による言語学から、あるいは以後の派閥としては認知言語学からのものがある。認知言語学はヒトの言語能力について、言語に特化したものではなく他の能力も含む認知体系の一部として捉える立場をとっており、普遍文法仮説が言語だけを特別な能力であると仮定していることに特に批判的である。
社会哲学的には、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトやジョン・デューイから、思想的にはスペイン内戦時のカタルーニャ地方バルセロナにおける極度に民主的な労働者自治によるアナキスト革命から強い影響を受け、権威主義的な国家を批判するリバタリアン社会主義(アナキズム)に関わり、アメリカに台頭するネオコン勢力によるアフガン侵攻・イラク侵攻や、アメリカ主導のグローバル資本主義を批判している。特に2001年のアメリカ同時多発テロ事件以降は、その傾向を強めており、政治関係の著作も多数ある。2006年にベネズエラのウゴ・チャベス大統領が、国際連合総会でアメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュを「悪魔」と批判する有名な演説をおこなった際には、チョムスキーの『覇権か、生存か――アメリカの世界戦略と人類の未来』を自ら示して、「アメリカ国民は是非この本を読むべきだ」と語り、書籍の売れ行きに貢献した。「ポル・ポトを擁護していた過去があり、そのことを隠蔽している」とよく説明される[52]。クメール・ルージュ政権下で父親を失い、自らもアメリカに亡命したカンボジア系米国人政治学者のソパール・イヤは、チョムスキーに対して「チョムスキーがケンブリッジの肘掛け椅子に座りながら理論を研ぎ澄ましている間、私の家族は田んぼの中で亡くなった。」「私と生き残った家族にとって、クメール・ルージュ政権下での生活には、知的なお座敷遊びの道具ではない。」と批判している。[53]この件についてチョムスキー自身は、「私は国際連合においてアメリカが支援していたティモールでの虐殺について証言を行なったことがあり、そのとき、それとポル・ポトの虐殺とが類似しうることをたまたま述べた。実際それは類似していたのだ」と説明している[54]。アメリカについては、「大義 (just cause)」の名の下に虐殺を行っているとして、常々非難している[55]。イスラエル政府やその支持者、同政府に対するアメリカの支援などに極めて批判的で、「イスラエルの支持者は実際の所、道徳的堕落の支持者にほかならない」とまで述べている[56]。こうしたことから、ユダヤ人国家としてのイスラエル建国には不支持を貫き、「ユダヤ人なりキリスト教なりイスラム国家という概念が適切とは思えない。アメリカ合衆国をキリスト教国家とするのはおかしいのではないか」としている[57]。1980年代には、ホロコースト否認論者であるロベール・フォリソン(フランス語版)がホロコースト否認を理由として大学を解雇され、チョムスキーが友人セルジュ・ティオン(フランス語版)の頼みで、処分に抗議する文書に署名を行った[58]。その後フォリソンは自らの著書にチョムスキーの文章を序文として掲載した事が問題となった。チョムスキーは「その本の内容まで肯定したわけではない」「(過去の本で)強い言葉でホロコーストを非難している」[59]、ホロコーストを否認したからといって反ユダヤ主義者とは考えられないとコメントしている[60]2022年3月にはロシアによるウクライナ侵攻を、アメリカ主導のイラク侵攻や1939年のドイツ・ソ連によるポーランド侵攻と肩を並べるほどの「重大な戦争犯罪」と評価した[61]。思想チョムスキーは自身をアナキストだと認めており、10代の頃にアナキズムに魅了されて以来その考えは変わらないと明言している。彼はアナキズムについて「生活のあらゆる側面での権威、ヒエラルキー、支配の仕組みを探求し、特定し、それに挑戦することにおいてのみ、意味があると思っています」と言い、「これら(権威、ヒエラルキー、支配)は正当とされる理由が与えられない限りは不当なものであり、人間の自由の領域を広げるために廃絶されるべきもの」「権力には立証責任があり、それが果たせないのであれば廃絶されるべきであるという信念、これが、私のアナキズムの本質についての変わらぬ理解です」とその考えを述べている。彼はとりわけアナルコ・サンディカリズムを政治思想の中核に据え、「高度な先進産業社会にふさわしい合理的な組織化のあり方」と評価している。彼はアナルコ・サンディカリズムの今日的な意義について「産業化と技術の進歩が広範囲な自己管理の可能性を開く」「そこでは労働者が差し迫った問題に自ら対処する。つまり工場の指揮や管理だけではなく、経済の仕組みや社会制度に関することで、地域あるいはその範囲を超えた計画の立案に関することで、重要な実質決定を行えるような地位を得るのです」と特徴づけ、手段の機械化が進んだ現代においては、(労働者が自らの工場の運営に携わることにより)必要労働を機械に委ね、人間は自由に創造的労働に当たることができるようになると説明している。
「都市の空気は自由にする」(としのくうきはじゆうにする、ドイツ語: Stadtluft macht frei)は、ドイツ中世都市に関する法諺(法律にまつわる格言、ことわざ)。封建領主の法的支配下におかれていた農奴や隷属身分の手工業者が、都市へ逃れ、一定期間、領主によって引き戻しの要求がなされることなく過ごした場合、自由身分を得られたとされる(ただし、この際の「自由」とは封建領主からの解放という自由であり、近代的な人権思想を前提とする個人の自由とは異なる)。その期間は大抵の場合、1年と1日とされた。この法慣習についての史料上の表現はさまざまであるが、19世紀半ばの法学者たちが「空気は自由にする」と言い表したことで定式化された。この法慣習の根拠としては、権利不行使による隷属民に対する物権法的処分権(ゲヴェーレ)の喪失、都市の避難者庇護権や不入権、都市宣誓共同体の保護機能、あるいは都市に対する国王の保護支配権などに由来するものと考えられている。参考文献 この節には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注によって参照されておらず、情報源が不明瞭です。脚注を導入して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2018年1月)阿部謹也 『ハーメルンの笛吹き男--伝説とその世界』 筑摩書房〈ちくま文庫〉、1988年12月、66頁以下。ISBN 9784480022721ミッタイス=リーベリッヒ 著、世良晃志郎 訳『ドイツ法制史概説(改訂版)』創文社、1971年。ISBN 978-4423740163。Gerhard Köbler (1997). "Stadtluft macht frei". Lexikon des Mittelalters. Vol. 8. Stuttgart/Weimar: Metzler. p. 23. ISBN 9783896599087。関連項目封建社会封建制荘園#ヨーロッパの荘園働けば自由になる(Arbeit macht frei)
「都市の空気は自由にする」は中世ヨーロッパが豊かだったからですよね~十字軍以降商業復活しますから。でも経済的に不安定になるとまぁ~た極端に走る。その行き着く先がルターでありマルクスなのかしら。
@@高見章代 そうだなあ。ゲルマン民族だからでしょうね。ルターとマルクスは自我の肥大化だと思いますねえ。ギルド(英: guild、独: Zunft、伊: arti)は、中世より近世にかけて西欧諸都市において商工業者の間で結成された各種の職業別組合。商人ギルド・手工業ギルド(同職ギルド)などに区分される。一般に封建制における産物とされる。現在における職能団体の源流である。歴史西欧の中世都市においては、都市の成立・発展に大きく寄与した大商人(遠隔地商人)によって組織された商人ギルド(英:guild Merchant、独:Zunft)が、市参事会を通じた市政運営を独占していた。しかし、商人ギルドによる市政独占に反発した手工業者たちは職業別の手工業ギルド(同職ギルド、英:craft guild、独:Zunft)を結成し、商人ギルドに対抗して市政参加を要求した。この両集団の闘争はツンフト闘争とも称され、闘争を通じて手工業者にも市政参加の道が開かれることになった。中世都市には徒弟制度と称される厳格な身分制度が存在し、その頂点に立つ親方は職人・徒弟を指導して労働に従事させた[1]。ギルドに参加できるものは親方資格をもつものに限られていた。教会と密接なかかわりがあり、集団ごとに守護聖人をもち、その祝日などに会合を行うのが普通であった。製品の品質・規格・価格などは厳しくギルド内で統制され、品質の維持が図られた。販売・営業・雇用および職業教育に関しても独占的な権利を有していたため、自由競争を排除してギルドの構成員が共存共栄することが可能だった。しかし、このことが各個人の自由な経済活動を阻害したともいえる。近世の絶対王政下において各都市の自主性が失われ王権に屈していく中で、ギルドは王権に接近して特権集団として自らの利権擁護を図った。しかし徐々に市民階級が成長すると、閉鎖的・特権的なギルドへの批判が強まり、市民革命の中でギルドは解体を余儀なくされた。しかし、遅くまで封建制が残っていたドイツではギルドあるいはその行動様式が残っており、またオットー・フォン・ビスマルクも彼らを囲い込むためにギルドに支持される職業別の社会保険制度を作り上げた。この制度は21世紀まで生き残り、ドイツ社会の行動様式を根本的に規定するものだと言われている。・アルミニウス(ラテン語:Arminius, 紀元前16年 - 21年)は、帝政ローマ初期のゲルマン系ケルスキ族(英語版)の族長である。トイトブルク森の戦いやゲルマニクスとの戦いに於いて、ゲルマン諸部族のリーダー(ゲルマン全部族の統一には失敗したが)として戦い、ローマによるゲルマニア征服を阻止した。アルミニウスによるこれらの働きは古代ゲルマン部族、ローマ帝国の歴史に留まらず、後世ヨーロッパにも大きな影響を与えた。・贖宥状(しょくゆうじょう、ラテン語: indulgentia)とは、16世紀にカトリック教会が発行した罪の償いを軽減する証明書。免償符(めんしょうふ)、贖宥符(しょくゆうふ)とも呼ばれる。また、日本においては免罪符(めんざいふ)とも呼ばれ、「罪のゆるしを与える」意味で、責めや罪を免れるものや、行為そのものを指すこともある。贖宥状の概念キリスト教(カトリック教会)では、洗礼を受けた後に犯した罪は、告白(告解)によってゆるされるとしていた。西方教会で考えられた罪の償いのために必要なプロセスは三段階からなる。まず、犯した罪を悔いて反省すること(痛悔)、次に司祭に罪を告白してゆるしを得ること(告白)、最後に罪のゆるしに見合った償いをすること(償い)が必要であり、西方教会ではこの三段階によって、初めて罪が完全に償われると考えられた。古代以来、告解のあり方も変遷してきたが、一般的に課せられる「罪の償い」は重いものであった。キリスト教に限らず、世界の多くの宗教に、宗教的に救済を得たいなら善行や功徳を積まなくてはならないとする「因果応報」や「積善説」という考え方がある[1]。カトリック教会は、救われたい人間の自由意志が救済のプロセスに重要な役割を果たすとする「自由 意志説」に基づいた救済観を認め、教会が行う施しや聖堂の改修など、教会の活動を補助するために金銭を出すことを救済への近道として奨励した[1]。贖宥状販売の歴史的経緯贖宥状は元々、イスラームから聖地を回復するための十字軍に従軍したものに対して贖宥を行ったことがその始まりであった。従軍できない者は寄進を行うことでこれに代えた。教皇ボニファティウス8世の時代に聖年が行われるようになり、ローマに巡礼することで贖宥がされると説かれた。後に教皇ボニファティウス9世の時代に、教会大分裂という時代にあって、ローマまで巡礼のできない者に、同等の効果を与えるとして贖宥状が出された。これはフランスなどの妨害で巡礼者が難儀することを考えての措置であった。その後も、様々な名目でしばしば贖宥状の販売が行われていた。教皇レオ10世がサン・ピエトロ大聖堂の建築のための全贖宥を公示し、贖宥状購入者に全免償を与えることを布告した。中世において公益工事の推進のために贖宥状が販売されることはよく行われることであったが、この贖宥状問題が宗教改革を引き起こすことになる。詳細は「レオ10世による贖宥状」を参照宗教改革がヨーロッパ全域の中で特に神聖ローマ帝国(ドイツ)で起こったことには理由があった。ドイツで最も大々的に贖宥状の販売が行われたからである。この大々的な販売は当時のマクデブルク大司教位とハルバーシュタット司教(en:Bishopric of Halberstadt)位を持っていたアルブレヒト(ドイツ語版、英語版)の野望に端を発していた。彼はブランデンブルク選帝侯ヨアヒム1世の弟であり、兄の支援を受けて、選帝侯として政治的に重要なポストであったマインツ大司教位も得ようと考えた[2]。だが本来、司教位は1人の人間が1つしか持つことしかできないものである。そのためアルブレヒトは、ローマ教皇庁から複数司教位保持の特別許可を得るため多額の献金を行うことにし、その献金をひねり出すため、フッガー家の人間の入れ知恵によって秘策を考え出した。それは自領内でサン・ピエトロ大聖堂建設献金のためという名目での贖宥状販売の独占権を獲得して稼ぐというものであった。こうして1517年、アルブレヒトは贖宥状販売のための「指導要綱」を発布し、ヨハン・テッツェルというドミニコ会員などを贖宥状販売促進のための説教師に任命した。アルブレヒトにとって贖宥状が多く売れれば自分の手元に収益が入り、献金によってローマ教皇庁の心証も良くなるという思惑であった。贖宥状は盛んに売られ、人々はテッツェルら説教師の周りに群がった。
@@高見章代 しかし、義化の問題に悩みぬいた経験を持つ聖アウグスチノ修道会員マルティン・ルターにとって、贖宥状によって罪の果たすべき償いが軽減されるというのは「人間が善行によって義となる」という発想そのものであると思えた。そしてルターが何より問題であると考えたのは、贖宥状の販売で宣伝されていた「贖宥状を買うことで、煉獄の霊魂の罪の償いが行える」ということであった。本来は罪のゆるしに必要な秘跡の授与や悔い改め無しに、金銭で贖宥状を購入することのみで煉獄の霊魂の償いが軽減される、という考え方をルターは贖宥行為の濫用であると感じた(テッツェルのものとしてよく引用される「贖宥状を購入してコインが箱にチャリンと音を立てて入ると霊魂が天国へ飛び上がる」という言葉は、この煉獄の霊魂の贖宥のことを言っている)。この煉獄の霊魂の贖宥の可否についてはカトリック教会内でも議論が絶えず、疑問視する神学者も多かった。ルターはアルブレヒトの「指導要綱」には贖宥行為の濫用がみられるとして書簡を送り、1517年11月1日、ヴィッテンベルク大学の聖堂の扉にもその旨を記した紙を張り出し、意見交換を呼びかけた(当時の大学において聖堂の扉は学内掲示板の役割を果たしていた)。ルターはこの一枚がどれほどの激動をヨーロッパにもたらすかまだ知らなかった。これこそが『95ヶ条の論題』である。ルターはこれを純粋に神学的な問題として考えていたことは、論題が一般庶民には読めないラテン語で書かれていたことからも明らかである。しかし、その後、神聖ローマ帝国の諸侯たちの思惑によって徐々に政治問題化し、諸侯と民衆を巻き込む宗教改革の巨大なうねりの発端、すなわちプロテスタントの勃興となった。カトリック教会はヨーロッパ諸国に広がった宗教改革の動きに対し対抗宗教改革を行って綱紀粛正を図った。その結果、トリエント公会議の決議により贖宥状の金銭による売買は禁止されることになった。なお、贖宥状の金銭での売買は禁じられたが、発行そのものは禁止されておらず、以後も行われた。
@@高見章代 自然天然の環境になじんでたんでしょうがねえ。ドイツ人が。シュヴァルツヴァルト(ドイツ語: Schwarzwald)は、ドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州に位置する森・山地。シュワルツワルトとも表記する[1]。総面積は約5180平方キロ。「シュヴァルツヴァルト」とは、ドイツ語で「黒い森」を意味する。森の多くは植林されたドイツトウヒの木であり、「黒い森(シュヴァルツヴァルト)」という名称も、密集して生えるトウヒの木によって、暗く(黒く)見えることがその由来である[2]。その他、低地においてはオークやブナも生育しており、草地も点在している[3]。地理衛星画像地形図ドイツ南西部のバーデン地方に属し、北はバーデン=バーデン、東はシュトゥットガルト、南はフライブルク、西はライン川の流れを挟んでフランス中東部のアルザス地方(アルザス=ロレーヌ)との国境にある。南北で約160キロに広がる。一番高い箇所は、フェルトベルク(ドイツ語版)(Feldberg)の山頂で、海抜1493メートルである。ドナウ川、ネッカー川など多くの川が、シュヴァルツヴァルトに水源を有している。地質学的には、この森は片麻岩を基盤として砂岩がその上に覆いかぶさった地面から構成される。シュヴァルツヴァルトの典型的な郊外風景主要な山フェルトベルク(Feldberg 1,493 m)ゼーブック(Seebuck 1,448 m)ヘルツォーゲンホルン(Herzogenhorn 1,415 m)ベルヒェン(Belchen 1,414 m)トーター・マン(Toter Mann 1,321 m)シュピースホルン(Spießhorn 1,349 m)ベーアハルデ(Bärhalde 1,317 m)ブレースリング(Blößling 1,309 m)シャウインスラント(Schauinsland 1,284 m)ハープスベルク(Habsberg 1,274 m)ヴィースヴァルトコップフ(Wieswaldkopf 1,270 m)ホーホコップフ(Hochkopf 1,263 m)歴史シュヴァルツヴァルトはフランスに隣接しておりフランスの政治的影響が強く、他のドイツ諸邦とは異なる慣習や伝統的法体系を形成してきた[4]。シュヴァルツヴァルトでは紀元前4000年頃の居住跡が考古学的に発見されている。紀元前800年の鉄器時代頃にはケルト人の入植があり、「アブノバ神の山」(ラテン語: Abnoba mons)と呼ばれた。また、その後にスエビ族がスワビア国を建国した場所でもある。ガイウス・ユリウス・カエサルのガリア戦争における勝利により、ガリア・ゲルマニアが征服されローマの版図に加えられ、キンジグ川(英語版)周りの要路が開発されたが、入植者はローマ人ではなくアレマン人であった[注釈 1]。古代末期には「マルキアヌスの森」(Silva Marciana)と呼ばれ、ローマ帝国の領域とその西側のマルコマンニの領域との境界とされていた。ただ、深い森に覆われ高地で冬季には厳寒となるシュヴァルツヴァルトは啓開の範囲から外れ、東方のハイデンハイムがリメスの後背地として選択された[注釈 2]。7世紀にベネディクト会の修道士により修道院が築造されたことで徐々に定住が進んだが[6]、司教領には含まれなかった。銀と鉄の鉱物資源が発見されたことで鉱業が栄え、神聖ローマ帝国時代の10世紀の終わりから11世紀にかけてはさらに修道院による定住が行われ、聖ペーター、聖メルゲン、聖ブラージェンらの修道院が設立された。11世紀にツェーリンゲン家の勢力が伸張したが、その衰退と共に多くの封建領主の支配に服することになった。18世紀初頭のスペイン継承戦争では周辺地域がフランス軍とドイツ軍の係争地となった。18世紀末から19世紀初頭のナポレオンの時期にバーデン辺境伯カール・フリードリヒがバーデン地方を統一し、1806年にバーデン大公国を成立させた。バーデン大公国は1919年3月21日に国民議会によって憲法が制定され、バーデン共和国となった。第二次世界大戦後、アメリカとフランスにより分割占領された。
宗教の基本は命だと思います。十戒の何条かに人は人を殺めてはならぬがある。これが本当の基本ではないのでしょうか?仏教も殺生に向き合う宗教であります。それは、自然法則である死にたいする畏敬である姿勢だと思います。人は神を気取って人を殺してはならぬ。そこに救いはない。このテーマに向き合う事が経典であるし、哲学でもあるはずです。私は深く勉強するタイプではないけれど本質は分かってるつもりです。寿命で亡びるのはしょうがないが人に殺められるのは受け入れられない。それが起こらない様に考え続けているだけではないのでしょうか?富の配分と言うテーマもそこに問題提起がある。だからテーマになる。そして、更に大きく見つめれば、神様がそのようなテーマをわざと放っているのは、知的生命である我々に、科学や哲学或いは宗教的精神性等を進化させて解を出せと言うことなのかもしれない。
行動伴わない口だけで理屈こねるのはまじで意味ない
政党でhあ、参政党が出てきていますよ。お二人のお話を聞いていて「はぁ!」と、思いました!政界では、まさに参政党だは!
何これ?ただのマニア同士が盛り上がってるだけやん。マニアックすぎてついていけない、ま、そういうチャンネルか。
最近 心の中に、わがままな自分中心の自己と、大人の自己と 2つを置いて常に対話させています。大人の方の自己が宗教のような役割を果たしてくれているように思います。
東京の新宿に住んでいましたけど、千葉の田舎に移住しました。田舎に移住して10年ですが、
東京には二度と戻りたくありません。地域の繋がりを持つ喜びを知って、地元の一員として生きていく楽しさを知って
毎日が安心して生きていけています。買い物はネットで済みますしね(^^♪
盆には墓参りをし、盆踊りを踊り、灯篭流しをやり、日々家の仏壇や神棚の水や食事を変えて先祖や神々に手を合わせる。門前や参道の共同体が受け継ぐ祭りを営む。これらに関わり、これらを繰り返していると、日本人の宗教心は自然と育まれるものだ。なんとはなしに涙が流れる心持。
浜崎さんの考え方がすごく納得がいきます。こういう話ってテレビではまずあり得ない。おっしゃる通りで要はどの業界にも自由がなくなっている。
いい話を聴いた、で終わらせず自分で考えることこそ
有難うございます!!
最近、日本のいまの状態は、我々がつくってしまっているのではないか、ということを感じております✨
今後の日本が上向けるよう、わたしたち一人一人成長🌟目指して参ります🍓
ご活躍の日々🐉
どうかご自愛くださいませ🍊🍎🍑💖🌞
浜崎先生の講義が受けれる学生さんが羨ましい✨永遠聴いていられます。「嫌い」をはっきり言ってくださるので笑いもあり、お考えも伝わりやすいです。いつもありがとうございます🙏
いかなる問いにも的確に答える浜崎さんは凄い! しかし,次から次へと的確に問える羽賀さんもこれまた凄い!
濱崎さん、いつ見てもいいですね😊羽賀さんの対応も好きです😊
神様は私自身の胸の中にいると思っています。
浜崎さん素敵です。✨
「心は痛いのに仕事が無いから東京来ざるを得ない」まさしくその通りでずしっと胸に来ました。東京出たいのに、地方に帰りたいのに仕事が無い。
素晴らしい崇高な真心ある配信に涙致します。
有難うございます✨
こんばんは!
本日もお疲れ様です!
いつもありがとうございます!
浜崎先生は西部先生が早口で話をしているみたいで、頭をフル回転させながら聴いている感じで2,3回は聴きたくなりますね。
迷いから抜け出られそうにない時に聴きたい大切な話を聴くことができました
地球🌏の最果てからありがとう
素晴らしい最高日本🗾と日本人一人一人に健勝と幸せ祈っています⛩️🙏⛩️
宗教心はホント大事だと思いますが…
それ事態はささやかなものであり、個人ひとりひとりが自覚する心の在り方だと思います。
私の両親は地元の檀家のお手伝いさせて頂いてますが、残念ながら状況は本来の宗教の姿とはいえない状態のようです😢
浜崎さんの云うとおり、何の為の宗教か?ってところが欠落してしまい組織を継続させる為ばかりに心血を注いでしまってるようです。
ただこれは地域コミュニティやその他の地域活動でも同じだと思います。
組織は造るものではなく、創られるものだと思います。
そうです。お寺さんは本当の宗教ではありません。本当は人から寄付やお布施、戒名などのお金を貰ってはいけないと仏教で知りました。お寺さんで分かっている人もいると思います。本当の仏教はお金をかけない貰ってはいけないんです。信仰でお金を掛けずに本当にお経本どおり質素に1ヶ月1人300円のお会費だけでやり全てにおいて正しく正しくやっている仏教、法華経もあります。それが本当の信仰、宗教だと思います。
自分の中に信じる神様(のような存在)がいると言うことは、本当にありがたいこと何だなと思いました。
特定の宗教を持っていなくても、日常が平和への祈りという心掛けやペイフォワードの意識などで、良心に沿った行動をしたいと考えるのは、人間の本質ではないでしょうか。
浜崎さんの講演を横浜でして下さい❗家族共に聴きにいきたいです。
どの業界でも、足を引っ張るのは同業者ですね。神社会に、こんなに貢献しているのに。
子供や孫達にしっかり日本の伝統や信仰心を伝えて、守って行きます。
女性、特に母、祖母の役目だと思います。
腐敗は依存か、日本が自立しないでアメリカに依存しているかぎり、日本の政治家が腐敗するのは当然ですね。
産土神社が、つい最近なくなりました。正確に云うと、土地の嵩上げのために場所を移転し、既に移転した実家の辺りも味気ない橋の下に消えました。
記録されているだけで四百年も前からそこにあった神社がなくなり、信長も通った由緒正しい街道も切り取られました。
これは、文化の破壊であると怒りが沸きます。
山車の出るお祭りも、もう二度と参加しないと思います。
浜崎先生だ😭🤍
講演会やって欲しいなぁ
花束💐持って行くのに🥲
質問です!浜崎さんが大東亜戦争中の小林秀雄など有識者で日本人とは?日本人の宗教観とは?ということが問われる会議があったと話されていました。その文献を読みたいのですが教えていただけますでしょうか?
僕も自分なりに日本人論を追っているのですが、戦前期とバブル崩壊前、つまりどちらも日本の国力が山場を迎えた時は、日本人論が増えている印象で、浜崎さんのおっしゃる指摘は腑に落ちました。
それらを掘り起こしながら共有知にしていって、その文脈を前提にしながら現代に日本人としての論理を積み上げていきたいと思います。
うちの会社もそんなもんだ。
誰に言われたからこっちを犠牲にする。自分がやりたくも思っても無い事を喜んでする。
そんな大した見返りも無いのに。
自分の心やポリシー、フィロソフィーはどこいった?と毎日疑問に思いながら今日もそこで働いてる。
面白い、なるほど
「自力」か「他力」を中心に考えると少しは分かりやすくなると思います。
歴史を知ることは自分の根っこにつながることなのに
(論理的に言うと環境認識の幅を広げる)
神話も伝統も知ることが少なくなっているのが原因ではないでしょうか?
伝統は時間軸に引き伸ばした民主主義でもあるし。(過去の人にも参加した意見)
あー、俺も子供の時に哲学者の名言を考え抜いて宗教に没入してったな。因みに何処の団体にも入信してません。人の言う事に依存してはいけないと元々思っていました。
ハマさん、相変わらず老け作りでステキです...
日米安全保障条約、地位協定、年次改革要望書、日米合同委員会を通して、日本は実質的には今でも占領状態なので希望はないです。それが最大の問題でしょう。
米国から独立する前に中国に乗っとられるよ!
金が集まると必ず腐敗する
宗教は良いですけどカルトが駄目何ですよ。
羽賀ヒカルさんの言いたい事良く判りますよ。
羽賀ヒカルさんのお蔭で神社参拝する様になりました。
他にも沢山居ますよ。
神社庁や全国の神社から感謝されて居るのかと思って居ました。
びっくりしました。
神主でも無い癖にと言われるのですか。
可哀想ですね。
酷いですね。
TwitterもRUclipsもどんなに良い事をしてもバッシングされるのですね。
小沢一郎はとんでもないことしてくれたもんだ。
山本太郎をプロデュース
山本太郎をプロデュース
良い回ですね!拡散しておきます。
他の回もいいですが(^◇^)
ある意味、これは神々の対談ですね。(日本って国はおもしろいです)
WEFに対するJEFと言うべきか。
拡散ありがとうございます!
馬絹神社に山本譲二がやって来る理由がUFOを呼ぶ古墳が有るからかな?
ちょっと情緒的に見苦しい面があってあんまり見てないのだけれども、理性と本能とか自然と人工なんてものは、人間が認知しやすいように分けているだけであって、同じ一線軸上の概念だという前提で精神的な問題について論理構成をすると、それらが統一的な概念として相反するようなことなく繋ぐことが可能になるんですよ。これを道教や儒教では表裏一体だとか陰陽だとかで表現し、古代仏教などでは煩悩と涅槃は全く同一のものであるなどと表現されているわけです。
12:11 羽賀師も枠珍推奨していれば100万人超えたかもしれ無いが、YOSHIKIやCARRYぱみゅぱみゅも枠珍大臣に利用され、100万人超えYOTUBER大体国から金もらって推奨していると言うか、登録人数も水増してもらってる?!
人口密度が高すぎる。なら分散して一箇所に大勢人を集め過ぎないようにすれば良いのに、一旦人口過密になってしまうと「無能を●せば全部解決するw」みたいに誰もが短絡的に他人の命を奪って人口密度さげようとしてしまい、他人の命を奪う為にさらに大勢が集まってくるからどんどん社会が疲弊する。
哲学において観念論(かんねんろん)もしくはイデアリスム
(英語: idealism、ドイツ語: Idealismus、フランス語: idéalisme)とは、さまざまな意味があるが、認識の妥当性に関する説の一つで、事物の存在と在り方は当の事物についてのidea(イデア、観念)によって規定される、という考え方[1]などを指す。
「Idealism」は、日本では訳語が一定せず、存在論においては唯心論、認識論においては観念論、倫理学説においては理想主義と訳し分けられていた。
本記事は、便宜的に観念論を見出し語とするが、内容としては印欧語でidealismなどで表現される概念について総合的に解説する。
概説
この語は多義的であり、しかし、現在多く使われるのは、存在論におけるそれであるにもかかわらず、認識論における観念論と呼ばれることが多い。
認識の妥当性に関する説のひとつで、事物の存在と存り方は、当の事物についてのidea(イデア、観念)によって規定される、という考え方である。
その理論は、思考と外界はお互いにお互いを創造しあうが、そこでは思考が、決定的な役割を持つ、という主張を含んでいる。ヘーゲルは、歴史は科学と同じように明確に理性に適ったものでなければならないと考えた。進んで、ジョージ・バークリーやアルトゥル・ショーペンハウアーのように、すべて人間が認識するものは思考による観念の所産(表象)であると考えるものもある。
つまり、観念論とは、観念的もしくは精神的なものが外界とは独立した地位を持っているという確信を表すものである。この主張はしばしば観念的なものが自存し、実在性をもつという主張に結びつく。例えば、プラトンは、我々が考えることができるすべての性質や物は、ある種の独立した実在であると考えた。まぎらわしいことに、この種の観念論は、かつて実在論(観念実在論)と呼ばれた。
またある思想が観念論に属すかどうかにも、議論が分かれる場合がある。イマヌエル・カントは『純粋理性批判』において、我々が世界を空間や時間という形で把握するのは人間認識のアプリオリな制約である経験への超越論的制約によるとした。カント自身は(物自体の存在を要請したが故に)これを観念論とは考えなかったが、純粋理性批判が出版された当時の多くの読者はこれをきわめて観念論的な主張であると考え、カントは誤解を解くために自説の解説書である『学として現れるであろうあらゆる将来の形而上学のためのプロレゴメナ』を出版した。
事物よりも認識主体に内在する構成能力などを重視する立場は、西洋近代哲学において顕著であり、またインド思想でもその傾向が存在する[1]。
観念論と対比される思想に、唯物論がある。
だが、厳密に言うと、超自然的な存在に対するすべての信仰や信念が、唯物論に反対しているわけではない。多くの宗教的信念は、特に観念論的である。例えば、ブラフマンを世界の本質とするヒンドゥー教の信仰に対して、一般的なキリスト教徒の教義では、キリストの人間としての肉体の実在性と物質的な世界における人間の善性の重要性についてはっきりと述べている。禅宗は、観念論と唯物論の弁証法的な過程の中間に位置している。
西洋哲学
認識の妥当性に関する説のひとつで、事物の存在と存り方は、当の事物についてのidea(観念)によって規定される、という考え方[1]。
まず最も知られているのがプラトンのイデア論である。これは事物の原型的なものと説明された。
ルネ・デカルトとジョン・ロックが、プラトン的なイデアを解釈しなおし、人間の心に内在する事物の似姿としての観念だとした[2]。人間は事物をじかに知るのではなく、観念を通じて間接的に知る、とし、観念なしでは、ものごとについては何ごとも語りえない、とする考え方である[2]。この認識論的な意味でもidealismは(西洋では)近代特有の思想である。認識をideaないし表象から出発して説明しようとするならば、イデアリスムのほうが整合的な体系となる[2]。この意味のイデアリスムはレアリスムと対比されて用いられる。
カントやドイツ観念論においては、「対象というものは、主観に与えられたか主観に本有的に備わっている観念を材料や形式として主観の働きによって構築される現象である」とする説(構成説)が現れた。
このidealismが形而上学的な方向に進むと、「事物は意識内にだけ在るものであり、存在するものはつきつめると精神とその様態としてのideaにつきる」とする説(唯心論)となる。唯心論ほどまでに先鋭化すると、唯物論と対立することになる[3]。
このような意識を、個人的で経験的なものと見なす立場もあり、超個人的で規範的なものと見なす立場もあり、それぞれ体系が異なる。前者にはバークリの非物質論やライプニッツの主観的idealism、デイヴィッド・ヒュームの現象主義、がある。後者にはドイツ古典哲学の超越論的観念論がある。
ただし、意識から出発して物質世界を説明することは困難がつきまとうので、論者は次のような理論戦略を用いることになったという[3]。
神を立てて宗教と結合させる[3]。
ideaと事物とを同一視して、一元論化し、いわば裏返しの唯物論になる[3]。
外界の存在については沈黙する懐疑主義になる[3]。
物自体を想定し、物自体は不可知である、とする[3][4]。
人間に即して考えられていた精神を絶対的なものに仕立て上げる[3]。
バークリ
ジョージ・バークリは、外的な世界は完全にideaの複合体でしかない、とする[5]物体的世界は、神が人間に与えた表象の世界でしかないのであり、それ自体としては存在しない、とする。自然の法則も我々のideaにおいてのみ成立する、とする[5]。
カント
合理主義的なidealistらは、人間の知性を神の無限の知性に結び付けて説明し、世界を認識する知性に限界はない、と見なした。 それに対してカントは、そのような合理化には限界があると述べ、決定されないものが残るとし、それが実在する、という実在論を展開した。外界の諸現象は、カントの場合でも現象でしかないのだが、神の知性という上部構造は採用せず、人間知性には限界がある、と考えたのである[5]。神という絶対的なものの援護を失った我々の認識ではとらえられない諸現象の根拠を「物自体」と呼んだ。この物自体は、実在するが、経験の内容にはなりえない、とされ、人間の認識の限界を指し示すことになった[5]。カントによる人間理性の限界の画定によって啓蒙時代が終わりを告げることになったという[5]。
idealismと唯物論の論争
唯物論が18世紀以降に台頭してくると、idealismと唯物論の議論は激化した[3]。両者の調停をはかるために、19世紀末からは様々な中性的一元論が提唱された[3]。
IdeaとIdeal
ドイツ古典哲学において、プラトン的なideaが変化、変容し、Idee(理念)、Ideal(理想)という概念が現れた。よってそれ以降は、「Idealism」は理想主義という意味を持つことがある。
卑近な用法
日常会話においてこの言葉は、現実的ではない、現実からかけ離れているといった意味でも使われる。
唯物論
(ゆいぶつろん、英: materialism[1]、独: Materialismus[2])は、観念や精神、心などの根底的なものは物質であると考え、それを重視する考え方[3]。物質主義とも言う[1][2]。「マテリアリズム(materialism)」の和訳例は主に「唯物論」と「物質主義」とがあり[1][4]、より詳細には
「(精神より物質を重んじる)物質主義,実利主義」[1]
哲学的な「唯物論[主義]」[1]
とに訳し分けられている[1]。
対義語は唯心論(スピリチュアリズム〔spiritualism〕・メンタリズム〔mentalism〕・アイデアリズム〔idealism〕)[5]、観念論(アイデアリズム・スピリチュアリズム)[6][7]、理想論(アイデアリズム)などであり[8]、精神・観念・理想のほうが根源的で、物質はそれらの働きから派生したと見る。
概説
唯物論は、文脈に応じて様々な形をとるが、主なものに以下のようなものがある。
世界の理解については、唯物論の系譜にあるものとして原子論と呼ばれる立場がよく知られている。これは原子などの物質的な構成要素とその要素間の相互作用によって森羅万象が説明できるとする考え方で、場合によっては、森羅万象がそのような構成要素のみから成っているとする考え方である。非物質的な存在を想定したり、時にそのような存在が物質や物理現象に影響を与えるとする二元論や、物質の実在について否定したり、物質的な現象を観念の領域に付随するものとする観念論の立場と対立する。→経験論、現象学も参照のこと
生物や生命の理解に関しては、生命が物質と物理的現象のみによって説明できるとする機械論があり、生気論と対立する。また、生物が神の意志や創造行為によって産み出されたとする創造論を否定し、物質から生命が誕生し、進化を経て多様な生物種へと展開したとする、いわゆる進化論の立場も、唯物論の一種と考えられることがある。例えば、ソ連の生化学者アレクサンドル・オパーリンが唱えた化学進化説はその典型である。
歴史や社会の理解に関しては、科学的社会主義(=マルクス主義)の唯物史観(史的唯物論)が特によく知られている。理念や価値観、意味や感受性などの、精神的、文化現象が経済や科学技術など物質的な側面によって規定(決定ではないことに注意)されるとする立場をとる。また、社会の主な特徴や社会変動の主な要因は、経済の形態やその変化によって規定される、とする。
唯物論の歴史
インドにおける唯物論とは一般にチャールヴァーカおよびローカーヤタ(順世)を指しており、彼らの著作としては8世紀後半の『タットヴァ・ウパプラヴァ・シンハ』が残るのみであるが、他にバラモン哲学や仏教やジャイナ教の諸文献に、彼らの思想内容への言及やそれに対する批判が数多く残されている[9]。それらの資料から推察するにその批判は、真の実在は地・水・火・風の四元素のみだとし、身体や感覚器官なども四元素の集合に対して人為的に名称をつけたまでである、とし、知覚のみが唯一確かなpramana(認識手段)であるとし、人が目指し得る最高の目的は解脱でも天界でもなく、ただ現世における最大限の快楽に尽きる、との主張に基づくものであった[9]。
「唯物論」と言う呼び名は、17世紀西欧に遡る。17世紀末、ライプニッツは、すべての実体を物体的なものであるとするエピクロスにならう者たちを『materialistes』と呼び、デモクリトス主義者やホッブスの名をあげ、不敬を醸成する者たちとした。同時に、自然学において目的因を認めない機械論的哲学や原子論を、敬虔であろうとする姿勢にとって危険なものとした。
古代ギリシャ哲学において、レウキッポスの原子論を承けたデモクリトスは、決定論的原子論を展開した。知覚・思考を含めて万物を原子論的に説明したと伝えられている。宗教批判と快楽主義で知られるエピクロスは、経験主義的立場からデモクリトスの決定論を緩和した理論を展開した。彼らの著作は断片しか残らず、ディオゲネス・ラエルティオス著『哲学者列伝』[10]、ルクレティウスの哲学詩『事物の本性について』[11]が、後世に概要を伝えた。これらの著作は、ルネッサンス期にラテン語に翻訳され、哲学に新風を吹き込むものとして西欧知識人の間で受け入れられた。
17世紀、フランスの哲学者ガッサンディは、キリスト教と融和を図ったエピクロス的原子論を展開する。イギリスの哲学者ホッブスは『リヴァイアサン』を著し、生命を物体的なものとし、国家もまた人によって作られた人工的人間に過ぎないとして、政治・社会を論じ、ローマ・カトリック教会を批判した。
18世紀、自然科学の進展により目的因による説明は衰退する。啓蒙時代、フランス唯物論(英語版)の系譜が生れる。生理学的知見の増加を背景にして、思考なども脳の働きとして説明できるとするラ・メトリは、『人間機械論』[12]を著した。またディドロらは『百科全書』を企画し、教条的・キリスト教的学問体系に抗して、知識を経験主義的に関連付ける立場を採った。その後、エルヴェシウス『精神論』、ドルバック『自然の体系』等が、こうした思想を詳述した。
19世紀、ドイツの哲学者ヘーゲルは、唯心論も唯物論も共に事態の一面を見ているに過ぎないとし、感覚も類的性質を持ち生理学のみでは解けないとした。その後、ヘーゲル学派は宗教にたいする見方をめぐって分裂し、フォイエルバッハは、ヘーゲルを批判して、神性とは人類の本質の反照であるとする唯物論を展開した。フォイエルバッハの現実的人間主義の立場を受け継いだ[13]マルクスとエンゲルスは、従来の人間機械論的あるいは生理学的な唯物論はその時代に制約されたものであったとして、ヘーゲルの弁証法を継承した唯物論を展開した。これを弁証法的唯物論という。19世紀は後に「科学の世紀」と呼ばれるほどの自然科学の発達した時代であり、K・モレスコット(1871~95)、J・フォークト(1822-93)、ルートヴィヒ・ビューヒナーらは、自然科学的な知のみを体系化することによって哲学は不要になると主張するようになった。他方、弁証法的唯物論の立場をとったソビエト科学アカデミーは、モレスコットらの生理学的な唯物論は浅薄で俗流の唯物論であると結論づけた[14]。
日本では、西欧思想の紹介・導入時期には、「物質学」「実質学」と訳されていた。19世紀後半、精神主義的思想の確立を図る者たちによって “唯物論” という訳語が定着される。社会主義的・共産主義的思想に随伴したものではない本格的論考は、20世紀、第1次世界大戦後、私費留学生たちが帰国するようになってのち、現れるようになった。1932年に結成された唯物論研究会において、戸坂潤らは物質を基底的とする唯物論を唱えた[15]。しかしながら戦時色が強まった1938年2月12日、唯物論研究会は解散。同会機関誌『唯物論研究』は同年3月号をもって廃刊となった[16]。
通念としての「唯物論」
マルクス主義がその理論の基盤に唯物論を置いていることもあり(史的唯物論)、ヨーロッパ(イタリアなど)やアメリカの人々の多くや、日本の伝統的な人々のなかには、「唯物論=マルクス主義」あるいは「唯物論=社会主義」ととらえ、唯物論="資本主義陣営の敵"であるかのような反応を示すことが少なからずあるが、唯物論とマルクス主義・社会主義の間の結びつきは必然的なものではない。「唯物論者かつ社会主義者」もいれば、「唯物論者かつ資本主義者」もおり、「唯心論の(非マルクス主義的な)社会主義者」もありうる。
唯心論(ゆいしんろん、英: Spiritualism)とは、人間・社会において、心、もしくはその働きこそ至上の要因であるとする存在論における立場の一つ。その反対が、唯物論になる[1]。認識論上の立場の一つである観念論としばしば混同される。なお、仏教の唯識論と似ているが最終的な点で異なる(後述)。
概要
唯物論に対し理想主義とされる。心やその働きはあくまでも物質に還元されない独特な性質を持っているとして、物質的存在がその存在を容認されるのは意識によるものである、したがって意識が存在を決定づける。これが唯心論である。
これら思想は、古代のプロティノスに起源をもち、中世ではアウグスティヌスに見られ、近世ではライプニッツ、ヘーゲル、ショーペンハウアーなどがその説を引き継ぎ、また展開してきた。
これらはキリスト教とともに西洋を支えてきた理想的な哲学思想であったが、ヘーゲルは一方で唯物弁証法、また一方で実存哲学を自らの否定反抗として自らの中より生ぜしめたことなどから、近代に至っては観念論や理想主義でしかないという批判を生むことになった。ロワイエ=コラールなどのフランスの哲学者は「もろもろの事物には何らかの構造があり、それは認識作用の前提となる共通意識にそなわったものである」「心の中にはあらかじめ対象そのものの性格を決定するものが与えられている」と考えた。こうしたスコットランド常識学派が提示した発想をヴィクトル・クーザンはヘーゲルやシェリングの哲学と結びつけた[2]。
なお、東洋、特に仏教にも華厳経に唯心(三界唯一心)が説かれたことから、唯識論が生まれている。しかし仏教ではその識(心の作用)も仮のもので夢幻の存在(空)であるとして否定する。ここにおいて唯心論と唯識論は最終的に異なる。
関連項目
認識論(観念論・実在論)
フランス・スピリチュアリスム
唯識
中論
(ちゅうろん)、正式名称『根本中頌』[注釈 1](こんぽんちゅうじゅ、梵: Mūlamadhyamaka-kārikā, ムーラマディヤマカ・カーリカー)は、初期大乗仏教の僧・龍樹(ナーガールジュナ)の著作である。インド中観派、中国三論宗、さらにチベット仏教の依用する重要な論書である。
本文は論書というよりは、その摘要を非常に簡潔にまとめた27章の偈頌からなる詩文形式であり、注釈なしでは容易に理解できない。注釈書・論書の例は#注釈書・論書を参照。
構成
冒頭で提示される全体の要旨である「八不」(不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去)を含む立言としての「帰敬序」と、27の章から成る。各章の構成は以下の通り[1]。
帰敬序
第1章「原因(縁)の考察」(全14詩)
「縁」(四縁)の非自立性を帰謬論証
第2章「運動(去来)の考察」(全25詩)
「去るはたらき」(去法)の非自立性を帰謬論証
第3章「認識能力の考察」(全9詩)
「認識能力」(六根)と「認識対象」(六境)、並びに「識」「触」「受」「愛」「取」の非自立性を帰謬論証
第4章「集合体(蘊)の考察」(全9詩)
「物質」、並びに「受」「心」「想」の非自立性を帰謬論証
第5章「要素(界)の考察」(全8詩)
「特質」(相)と「六要素」(六大)の非自立性を帰謬論証
第6章「貪り汚れの考察」(全10詩)
「貪りに汚れること」と「貪りに汚れる人」の非自立性を帰謬論証
第7章「作られたもの(有為)の考察」(全34詩)
「生」「住」「滅」の三相、並びに「有為」「無為」の非自立性を帰謬論証
第8章「行為の考察」(全13詩)
「行為」と「行為主体」の非自立性を帰謬論証
第9章「過去存在の考察」(全12詩)
「受」に先行する主体の非自立性を帰謬論証
第10章「火と薪の考察」(全16詩)
「火」と「薪」(の例えを通じて「アートマン」や「五取蘊」)の非自立性を帰謬論証
第11章「始原・終局の考察」(全7詩)
「生」と「老・死」、並びに「始」と「終」の非自立性を帰謬論証
第12章「苦しみの考察」(全10詩)
「苦」の非自立性を帰謬論証
第13章「形成されたもの(行・有為)の考察」(全8詩)
「変化」の非自立性を帰謬論証
第14章「集合の考察」(全8詩)
「集合」の非自立性を帰謬論証
第15章「自性の考察」(全11詩)
「自性」、並びに「有」と「無」の非自立性を帰謬論証
第16章「束縛・解脱の考察」(全10詩)
「束縛」「解脱」、並びに「輪廻」「涅槃」の非自立性を帰謬論証
第17章「業と果報の考察」(全33詩)
「業」と「果報」の非自立性を帰謬論証
第18章「アートマンの考察」(全11詩)
「アートマン」の非自立性を帰謬論証
第19章「時の考察」(全6詩)
「時」(「現在」「過去」「未来」)の非自立性を帰謬論証
第20章「原因と結果の考察」(全24詩)
「原因」(「因」「縁」)と「結果」の非自立性を帰謬論証
第21章「生成と壊滅の考察」(全21詩)
「生成」と「壊滅」の非自立性を帰謬論証
第22章「如来の考察」(全16詩)
「如来」(修行者の完成形)の非自立性を帰謬論証
第23章「顛倒した見解の考察」(全25詩)
「浄」と「不浄」、「顛倒」の非自立性を帰謬論証
第24章「四諦の考察」(全40詩)
「四諦」等の非自立性を帰謬論証
第25章「涅槃の考察」(全24詩)
「涅槃」の非自立性を帰謬論証
第26章「十二支縁起の考察」(全12詩)
古典的な十二因縁(十二支縁起)、及びそこへの自説の関わりの説明
第27章「誤った見解の考察」(全30詩)
「常住」にまつわる諸説を再度批判しつつ総括
内容
『中論』は、説一切有部を中心とした諸部派の論(アビダルマ)において、様々に考察され論じられてきた、形而上的実体としてのダルマ(法)を想定する説(五位七十五法、三世実有・法体恒有など)等を、常住・常見(あるいはそれと裏腹の断滅・断見)を執した逸脱・矛盾したもの、釈迦の説いた教えの本義から外れたものとして、論駁していくことを目的としている。
その体裁は、整然と秩序立てられた論駁というよりも、「モグラ叩き」のように、そうした説の論点を1つ1つ取り上げながら、「そうした前提に則ると、矛盾する」といった帰謬論証(背理法)を重ねながら、地道に斥けていくものである。より具体的に言えば、
「(相依性)縁起」と、事物の「有・無」は両立しない
(事物が「有」でも「無」でも、「(相依性)縁起」は成立しない)
という前提の下に、論敵の主張を「有」(あるいは「無」)を主張しているものとして分類し、それを「(相依性)縁起」と両立しない主張をしているものとして斥けていく論法を用いる[2][要検証 - ノート]。
そうした地道な帰謬論証の積み重ねは、徐々に「自立的なものなど何ひとつない」という、龍樹の徹底した「無自性(空)」「相依性」(相互依存性)の思想を炙り出していくことになる。
そうした過激な考えは、むしろ従来の釈迦の説と両立せず、それを踏み越え、蹂躙し、台無しにするものではないのかという批判に対しては、ナーガールジュナは2つの真理(二諦)の区別を持ち込み、自分が示しているのは釈迦が悟った本当の深遠な真理(真諦・第一義諦)であり、同時にもう一方の世俗の真理(世俗諦)を基礎付けてすらいるが、論敵(有自性論者)はそのことが分かっておらず、釈迦の教えや自説の存立すら困難にしていることにすら気付いていないと反論する(第24章)。
さらに、真の涅槃(ニルヴァーナ)とは、一切の分別・戯論が滅した境地に他ならないこと(第25章)、そして、それこそが古典的な十二因縁(十二支縁起)の「無明」を消し去り、「逆観」(苦滅)を成立せしめるものでもあること(第26章)などを示しつつ、最後に改めて総括的な内容を挟み、釈迦を讃えて『中論』は締め括られる(第27章)。
後世への影響
インド・チベット
龍樹のこの著作から、中観派と呼ばれる、大乗仏教の一大学派が始まった。
この中観派に属するシャーンタラクシタ(寂護)、カマラシーラ(蓮華戒)、アティーシャなどのインド僧は、チベット仏教の歴史に多大な影響を与えており、特にアティーシャの影響下から、ツォンカパが出ることによって、中観帰謬論証派(プラーサンギカ派)思想と後期密教を結合した、顕密総合仏教としてのチベット仏教の性格が決定付けられることになる。
中国・日本
また一方では、この『中論』と、同じく龍樹の著作である『十二門論』、そして弟子である提婆の『百論』が中国に伝わり、「三論宗」が形成された。これは日本にも伝わり、南都六宗の一派になった。
更に、天台宗の始祖である慧文禅師も、この『中論』に大きな影響を受け、その内容を中諦・三諦といった概念で独自に継承した。
イデア論
(イデアろん、英: theory of Forms, theory of Ideas, 独: Ideenlehre)は、プラトンが説いたイデア(希: ιδέα、英: idea)に関する学説のこと[1]。 本当にこの世に実在するのはイデアであって、我々が肉体的に感覚する対象や世界とはあくまでイデアの似像にすぎない、とする[1]。
イデア論の概要
「イデア」という語は、古代ギリシャ語の動詞「idein」(見る)に由来する[1]。プラトンの哲学では、《idea》(イデア)と《eidos》(エイドス)は同義である[2][3][4][5]。eidosというのもやはりideinに由来する言葉である[6]。 ideaやeidosが哲学用語・専門用語として意味が固定したのは、弟子のアリストテレスが用いて以降であり、プラトン自身がそれらを専門用語として用いていたわけではなかったという[1]。 プラトンの説には変遷が見られる[6]。ここでは初期、中期、後期に分けて記述する。
初期
プラトンの初期の哲学は、ソクラテスが実践したphilosophy(愛智)を描くものであるが、その根本の動機というのは《良く生きる》ことであるということ、また愛智の目的(徳の「何であるか」の探求と学習)を明らかにしつつ、また「無知の知」を自覚させ、人間のpsyche(プシュケー、命、魂)を愛智の道の出発点に立たせようとする[6]。
ソクラテスが倫理的な徳目について、それが《何であるか》を問い求めたわけであるが、それに示唆を得て、ソクラテスの問いに答えるような《まさに~であるもの》あるいは《~そのもの》の存在(=イデア)を想定し、このイデアのみが知のめざすべき時空を超えた・非物体的な・永遠の実在・真実在であり、このイデア抜きにしては確実な知というのはありえない、とした[1]。
中期
中期の哲学は、『メノン』で取り上げられ『パイドン』で展開される《想起》(アナムネーシス)という考え方の導入によって始まる[6]。これは、学習というのは実は《想起》である、という説明である。つまり我々のプシュケー(魂)というのは不滅であって輪廻転生を繰り返しており[6]、もともとは霊界にいてそこでイデアを見ていたのであって、こちらの世界へと来る時にそれを忘れてしまったが、こちらの世界で肉体を使い不完全な像を見ることによりイデアを思い出しているのだ、それが学習ということだ、という考え方である。 (この《想起》という考え方によって、プラトンは「徳とは《何であるか》という問いに答えられないし、不知な対象は探求は不可能だ」とする「探求のパラドックス」は間違っているとする[6]。)
そしてプラトンはphilosophy(愛知)というのは、まさに《死の練習》なのであって、真の愛知者というのは、できるかぎり自分のプシュケーをその身体から分離解放し、プシュケーが純粋にそれ自体においてあるように努める者だ、とする[6]。そして愛知者のプシュケーが知る対象として提示されるのが《イデア》である[6]。
プシュケーの徳に関して、《美そのもの》(美のイデア)《正そのもの》(正のイデア)《善そのもの》(=善のイデア)などが提示されることで、愛知の道の全体像が提示される[6]。(《善そのもの》は、「知と真実の原因」とされ、太陽にも喩えられている[6])。
愛知者のプシュケーが、問答法によって《善そのもの》へ向かい、それを観ずることによって、自らのうちに《知と真実》をうむこと、そして《善そのもの》を頂点としたイデアを模範とすることで、自己自身である自分のプシュケーをそのイデアの似姿として形づくること、それがプラトンの思い描いたことである[6]。
イデアの種類には、様々な一般的な性質に対応する「大そのもの」「小そのもの」などが提示された[6]。「単相」「純粋」といった存在論からのものや、「知られるもの」といった認識論からのものも示された[6]。
「美そのもの」と「美しいものども」との関係は、《分有》あるいは《与り》の関係であると言われ(「イデア原因説」と呼ばれる)、 また前者が《範》であり、後者が《似像》として理解されるときは《類似》の関係だと言われる(「パラデイグマ」「範形イデア論」などと呼ばれる)[6]。
後期
中期の終わり頃に位置する『パルメニデス』ではイデアの措定の困難を取り上げ、「第三人間論」などのイデア論批判を行う。それとともに想起説などが取り下げられ、後期ではイデアやエイドスは、中期のそれとは異なったものになり、分割と総合の手続きにより新たに定義される問答法で扱われる《形相》あるいは《類》として理解されるようになる。
後世の人々
プラトンの弟子のアリストテレスは、《形相》や《類》の分割や交わりが引き起こす「1対多問題」や、定義の「一性」問題について考察しつつ、自己の哲学を確立していった[6]。
およそ500年後のプロティノスは、万物は一者(善のイデア)から流出したとした(→ネオプラトニズム)。
イデアが実在すると考える考えは後にidealism(観念論)と呼ばれるようになった。そして「実在論」(realism) の系譜に属する、とされるようになった。
仏教のさとりは本当に有りますが解説お願いします。
日蓮大聖人の法華経は本当です。修得するには大変な御修行があります。ですが修得すれば仏のような人になります。お題目、南無妙法蓮華経と3回いつもどんなときも唱えていると凄いとてつもない力が出て、お題目を唱えることは凄いことです。日蓮大聖人は立証暗黒論というものですが元寇のことも予言してます今の日本も予言なさっており中国やロシアが来ることも予言なさってます。全ての日本人が目覚め日本は助かると予言なさってますが今目覚めて立ち上がらないと痛い目をあったとき全ての日本人が目覚めるから痛い目をあわないうちに目覚め動いていかないといけないと日蓮大聖人はずっと伝えてます。痛い目とは目の前で人が日本人が殺されないと目覚めないのかという意味です。そうなってはいけないから今目覚めて行動しなければならないのです。三災七難というのも日蓮大聖人は予言なさってます。天皇のご存在のことも日蓮大聖人は分かってます。そして天皇家に仏教がまた唯合されることも予言なさってます。
法華経でしょうね、学会は悪です。私がいいますけど。
日本人にトップをやらせない。日本の宗教なのに擬態化人がやってるよ
学会は本当の法華経をやらず利権に走ったから残念な気持ちです
そもそも正宗系カルト自体が悪
学会儲は遺文の真偽問題、致命的な年代矛盾も知らず
日蓮真筆本尊も見たことが無い輩ばかりで哀れ
戒壇本尊も切り張り創作の贋作
創価はカルト
ジル・ドゥルーズ
(Gilles Deleuze, 1925年1月18日 - 1995年11月4日[1])は、フランスの哲学者。パリ第8大学で哲学の教授を務めた。20世紀のフランス現代哲学を代表する哲学者の一人であり、ジャック・デリダなどとともにポスト構造主義の時代を代表する哲学者とされる[2]。ただし、同時代のあらゆる哲学者にとって他称でしかない「ポスト構造主義」というカテゴライズについて、ドゥルーズ本人は否定している(本頁「哲学史上の意義」の節を参照)。
概説
ドゥルーズは、数学の微分概念を哲学に転用して、差異の哲学を構築し、スコトゥスの存在の一義性(これについては、アラン・バディウのドゥルーズ論に詳しい)という視点から、ヒューム、スピノザ、ベルクソンらの著作を読み解いた。ただし、アラン・ソーカルからは『知の欺瞞』において数学的概念の用い方のいい加減さを批判された(詳しくはソーカル事件を参照)。また、プルーストやカフカやマゾッホ・サドといった近代文学の読解、画家のフランシス・ベーコン論、映画論(『シネマ1, 2』)などの著作も著している。フーコーとの親交は良く知られ、彼の死後、フーコー論を著す。また、『記号と事件』に「追伸」として収められた「管理社会について」では、「フーコーが近い将来、私たちにのしかかってくると考えていた」ものとして、「管理社会」という概念を提示している。この概念は、監視カメラやデータベースなど、個人情報の大規模な集積を容易にする電子技術の発達との関連から、規律に代わる、個人の管理(コントロール)のための新たなテクノロジーの発展を予期したものである。
精神分析家で哲学者でもあるフェリックス・ガタリとの共著のなかで、戦争機械、リゾーム、器官なき身体(これは作家、劇作家のアルトーの言葉から発したもの)等の「概念」を次々と創造していった。いまだその概念の可能性のすべては汲み尽くされていないとされる。これらの理論はニーチェ、ベルクソンにその源流を持つ「生成の哲学」とも言うべきもので、日本の思想界にも大きな影響を及ぼした。浅田彰、中沢新一などのニューアカデミズムは、彼からインスピレーションを得ている。
・バールーフ・デ・スピノザ
(Baruch De Spinoza [baːˈrux spɪˈnoːzaː]、1632年11月24日 - 1677年2月21日[1])は、オランダの哲学者である。ラテン語名ベネディクトゥス・デ・スピノザ(Benedictus De Spinoza)でも知られる。デカルト、ライプニッツと並ぶ17世紀の近世合理主義哲学者として知られ、その哲学体系は代表的な汎神論と考えられてきた。また、カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルらドイツ観念論やマルクス、そしてその後の大陸哲学系現代思想へ強大な影響を与えた。
スピノザの汎神論は新プラトン主義的な一元論でもあり、後世の無神論(汎神論論争なども参照)や唯物論に強い影響を与え、または思想的準備の役割を果たした。生前のスピノザ自身も、無神論者のレッテルを貼られ異端視され、批判を浴びている。
スピノザの肖像は1970年代に流通していたオランダの最高額面の1000ギルダー紙幣に描かれていた。
概説
ドゥルーズは、数学の微分概念を哲学に転用して、差異の哲学を構築し、スコトゥスの存在の一義性(これについては、アラン・バディウのドゥルーズ論に詳しい)という視点から、ヒューム、スピノザ、ベルクソンらの著作を読み解いた。ただし、アラン・ソーカルからは『知の欺瞞』において数学的概念の用い方のいい加減さを批判された(詳しくはソーカル事件を参照)。また、プルーストやカフカやマゾッホ・サドといった近代文学の読解、画家のフランシス・ベーコン論、映画論(『シネマ1, 2』)などの著作も著している。フーコーとの親交は良く知られ、彼の死後、フーコー論を著す。また、『記号と事件』に「追伸」として収められた「管理社会について」では、「フーコーが近い将来、私たちにのしかかってくると考えていた」ものとして、「管理社会」という概念を提示している。この概念は、監視カメラやデータベースなど、個人情報の大規模な集積を容易にする電子技術の発達との関連から、規律に代わる、個人の管理(コントロール)のための新たなテクノロジーの発展を予期したものである。
精神分析家で哲学者でもあるフェリックス・ガタリとの共著のなかで、戦争機械、リゾーム、器官なき身体(これは作家、劇作家のアルトーの言葉から発したもの)等の「概念」を次々と創造していった。いまだその概念の可能性のすべては汲み尽くされていないとされる。これらの理論はニーチェ、ベルクソンにその源流を持つ「生成の哲学」とも言うべきもので、日本の思想界にも大きな影響を及ぼした。浅田彰、中沢新一などのニューアカデミズムは、彼からインスピレーションを得ている。
・ルネ・デカルト
(仏: René Descartes、1596年3月31日 - 1650年2月11日)は、フランス生まれの哲学者、数学者。合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖として知られる。
名前
ラテン語名はレナトゥス・カルテシウス (Renatus Cartesius) である。デカルト座標系(仏: système de coordonnées cartésiennes ; 英: Cartesian coordinate system)、デカルト積(デカルトせき、英: Cartesian product)のようにデカルトの名がついたものにカルテジアン(Cartesian)という表現が用いられる。デカルト主義者もカルテジアン(仏: Cartésien ; 英: Cartesian)と呼ばれる。
概要
考える主体としての自己(精神)とその存在を定式化した「我思う、ゆえに我あり」は哲学史上で最も有名な命題の一つである。そしてこの命題は、当時の保守的思想であったスコラ哲学の教えであるところの「信仰」による真理の獲得ではなく、人間の持つ「自然の光(理性)」を用いて真理を探求していこうとする近代哲学の出発点を簡潔に表現している。デカルトが「近代哲学の父」と称される所以である。
ただし、デカルトはそのすべてを信仰も根ざして考えており、著書『方法序説』においても神の存在証明を哲学的にしようと試みてさえいる。
初めて哲学書として出版した著作『方法序説』(1637年)において、冒頭が「良識 (bon sens) はこの世で最も公平に配分されているものである」という文で始まるため、思想の領域における人権宣言にも比される。
また、当時学術的な論文はラテン語で書かれるのが通例であった中で、デカルトは『方法序説』を母語であるフランス語で書いた。その後のフランス文学が「明晰かつ判明」を指標とするようになったのは、デカルトの影響が大きい、ともいわれる。
・トマス・ホッブズ
(Thomas Hobbes, 1588年4月5日 - 1679年12月4日[1])は、清教徒革命(イングランド内戦)から王政復古期にかけてのイングランドの哲学者。
17世紀の近世哲学にあって、ルネ・デカルトなどと共に機械論的世界観の先駆的哲学者の一人であり、バールーフ・デ・スピノザなどとともに唯物論の先駆的思索を行った哲学者の一人である。政治哲学者としての側面は広く周知され、人工的国家論の提唱と社会契約説により近代的な政治哲学理論を基礎づけた人物として一般的に知られる。王太子時代のイングランド王チャールズ2世の家庭教師でもあった。
概要
イングランド国教会の聖職者の子として生まれる。1588年、スペインの無敵艦隊襲来というニュースにショックを受けた母親は産気づき、予定より早く出産した。このため「恐怖と共に生まれた」といわれる。1608年にオックスフォード大学を卒業[2]した後、デヴォンシャー伯爵家(後のデヴォンシャー公家)に家庭教師として仕える。1610年から1630年代にかけて貴族の子弟とともにヨーロッパ大陸へ三度旅行し、フランスやイタリアの哲学者や科学者と交流した[2]。
清教徒革命前の1640年に自分の身を案じてフランスへ亡命[2]し、後に国王となったチャールズ2世の家庭教師を務める。最もよく知られる著作『リヴァイアサン』は、イングランド内戦が終結してオリバー・クロムウェルの統治下にあったイングランド共和国に帰国した1651年に刊行された。ベーコンやガリレオ、デカルトらと交友があった。
1655年に出版した『物体論』(De Corpore)内で円積問題の解を見つけたと公表し、数学者のジョン・ウォリスとの論争に発展した。ホッブズの哲学は公理系を元に構築する幾何学的な考え方を元にしていたが、円積問題については終始、本質を理解することができず、誤りを自覚できずに死ぬまで激しい論争を続けた(ホッブズとウォリスの論争(英語版))[要出典]。
形而上学においては唯物論の立場に立ち、その考えは『物体論』において展開された。また、デカルトから『省察』の批判を書くよう頼まれた時はその立場から批判を行なったが(デカルトは他の哲学者や神学者にも批判を頼み、ホッブズのそれは第三論駁と呼ばれる)、自身の哲学への不理解と解したデカルトからの反応は冷淡であった[3]。
・アンリ=ルイ・ベルクソン
(Henri-Louis Bergson [bɛʁksɔn]発音例、1859年10月18日 - 1941年1月4日)は、フランスの哲学者。出身はパリ。日本語では「ベルグソン」と表記されることも多いが、近年では原語に近い「ベルクソン」の表記が主流となっている。
思想
生きた現実の直観的把握を目指すその哲学的態度から、ベルクソンの哲学はジンメルなどの「生の哲学」といわれる潮流に組み入れられることが多く、「反主知主義」「実証主義を批判」などと紹介されることもある。だが実際のベルクソンは、当時の自然科学にも広く目を配りそれを自分の哲学研究にも大きく生かそうとするなど、決して実証主義の精神を軽視していたわけではない(アインシュタインが相対性理論を発表するとその論文を読み、それに反対する意図で『持続と同時性』という論文を発表したこともある)。
一方で、ベルクソンは新プラトン主義のプロティノスから大きな影響を受けていたり、晩年はカトリシズムへ帰依しようとするなど、神秘主義的な側面ももっており、その思想は一筋縄ではいかないものがある(ベルクソンは霊やテレパシーなどを論じた論文を残してもおり、それらは『精神のエネルギー』に収められている)。 因みに、1913年、英国心霊現象研究協会の会長に就任している。
こうした点から、ベルクソンの哲学は、しばしば実証主義的形而上学、経験主義的形而上学とも称される[要出典]。
・マルティン・ハイデッガー
(ドイツ語: Martin Heidegger, 1889年9月26日 - 1976年5月26日)は、ドイツの哲学者。ハイデガーとも表記される[注釈 1]。
フライブルク大学入学当初はキリスト教神学を研究し、フランツ・ブレンターノや現象学のフッサールの他、ライプニッツ、カント、そしてヘーゲルなどのドイツ観念論やキェルケゴールやニーチェらの実存主義に強い影響を受け、アリストテレスやヘラクレイトスなどの古代ギリシア哲学の解釈などを通じて独自の存在論哲学を展開した。1927年の主著『存在と時間』で存在論的解釈学により伝統的な形而上学の解体を試み、「存在の問い(die Seinsfrage)」を新しく打ち立てる事にその努力が向けられた。ヘルダーリンやトラークルの詩についての研究でも知られる。20世紀大陸哲学の潮流における最も重要な哲学者の一人とされる。その多岐に渡る成果は、ヨーロッパだけでなく、日本やラテンアメリカなど広範囲にわたって影響力を及ぼした。1930年代にナチスへ加担したこともたびたび論争を起こしている[2]。
・ジャン=ジャック・ルソー
(Jean-Jacques Rousseau、1712年6月28日 - 1778年7月2日)は、フランス語圏ジュネーヴ共和国に生まれ、主にフランスで活躍した[注釈 1]哲学者、政治哲学者、作曲家[2][3][4]。
思想
社会契約説
「民主政」も参照
先駆のトマス・ホッブズやジョン・ロックと並びルソーは、近代的な「社会契約(Social Contract)説」の論理を提唱した主要な哲学者の一人である。
まず、1755年に発表した『人間不平等起源論』において、自然状態と、理性による社会化について論じた。ホッブズの自然状態論を批判し、ホッブズの論じているような、人々が互いに道徳的関係を有して闘争状態に陥る自然状態はすでに社会状態であって自然状態ではないとした[129]。ルソーは、あくまでも「仮定」としつつも[130]、あらゆる道徳的関係(社会性)がなく、理性を持たない野生の人(自然人)が他者を認識することもなく孤立して存在している状態(孤独と自由)を自然状態として論じた[131]。無論、そこには家族などの社会もない。
ルソーは、自然状態の人間について次のように語っている。
……森の中をさまよい、器用さもなく、言語もなく、住居もなく、戦争も同盟もなく、少しも同胞を必要ともしないばかりでなく彼らを害しようとも少しも望まず、おそらくは彼らのだれをも個人的に見覚えることさえけっしてなく、未開人はごくわずかな情念にしか支配されず、自分ひとりで用がたせたので、この状態に固有の感情と知識しかもっていなかった。彼は自分の真の欲望だけを感じ、見て利益があると思うものしか眺めなかった。そして彼の知性はその虚栄心と同じように進歩しなかった。……技術は発明者とともに滅びるのがつねであった。教育も進歩もなかった。世代はいたずらに重なっていった。そして各々の世代は常に同じ点から出発するので、幾世紀もが初期のまったく粗野な状態のうちに経過した。種はすでに老いているのに、人間はいつまでも子供のままであった。
- ルソー、『人間不平等起源論』、本田喜代治、平岡昇共訳、岩波文庫、1972年、80頁。
理性によって人々が道徳的諸関係を結び、理性的で文明的な諸集団に所属することによって、その抑圧による不自由と不平等の広がる社会状態が訪れたとして、社会状態を規定する(「堕落」)[132]。自然状態の自由と平和を好意的に描き、社会状態を堕落した状態と捉えるが、もはや人間はふたたび文明を捨てて自然に戻ることができないということを認めて思弁を進める[133]。
1762年に発表した『社会契約論』において、社会契約と一般意志なる意志による政治社会の理想を論じた[134]。社会契約が今後の理想として説かれる点で、ルソーの社会契約説は、イギリスにおいて現状の政治社会がどのような目的の社会契約によって形成されたのかについて研究したホッブズやロックの社会契約説と異なる。『社会契約論』においてルソーは、「一般意志」を民意や世論といった単純な「特殊意志(個人の意志)」の総和(全体意志)としてではなく、それぞれの「特殊意志」から相殺しあう過不足を除き「相違の総和」として残された共通の社会的利益として考えていた。この社会的利益は要するに公共の福祉になるのだと説明している[135]。ルソーは、ロック的な選挙を伴う議会政治(間接民主制、代表制、代議制)とその多数決を否定し[136]、あくまでも一般意志による全体の一致を目指しているが、その理由は、ルソーが、政治社会(国家)はすべての人間の自由と平等をこそ保障する仕組みでなければならないと考えていたためである[137]。そのため、政治の一般意志への絶対服従によって、党派政治や一部の政治家による利権政治を排した真に民主的な「共和国」の樹立を求めた。ただし、ルソーが言う「共和国」とは一般的な意味での共和国ではなく、君主政体でも法治主義が徹底されていれば「共和国」ということになる[138]。ルソーの議論が導く理想は政治が一般意志に服従した人民主権(国民主権)の体制であった[139]。ただし、ルソーは一般意志による政治について、民主政の他に君主政や貴族政を排除せず、政体はあくまでも時代や国家の規模によって適するものも異なるとし[140]、社会契約による国家が君主政であるにせよ、あるいは貴族政であるにせよ、民主政であったとしても民意による支持があればそれで良く、政体は国情によって決まられるべきと考えていた。ルソーは、君主制とか共和制といった政体よりも国家を担う統治者が国民の一般意志に服従しているかどうかを重要視していたと考えられる[141]。
・トマス・ホッブズ
(Thomas Hobbes, 1588年4月5日 - 1679年12月4日[1])は、清教徒革命(イングランド内戦)から王政復古期にかけてのイングランドの哲学者。
17世紀の近世哲学にあって、ルネ・デカルトなどと共に機械論的世界観の先駆的哲学者の一人であり、バールーフ・デ・スピノザなどとともに唯物論の先駆的思索を行った哲学者の一人である。政治哲学者としての側面は広く周知され、人工的国家論の提唱と社会契約説により近代的な政治哲学理論を基礎づけた人物として一般的に知られる。王太子時代のイングランド王チャールズ2世の家庭教師でもあった。
概要
イングランド国教会の聖職者の子として生まれる。1588年、スペインの無敵艦隊襲来というニュースにショックを受けた母親は産気づき、予定より早く出産した。このため「恐怖と共に生まれた」といわれる。1608年にオックスフォード大学を卒業[2]した後、デヴォンシャー伯爵家(後のデヴォンシャー公家)に家庭教師として仕える。1610年から1630年代にかけて貴族の子弟とともにヨーロッパ大陸へ三度旅行し、フランスやイタリアの哲学者や科学者と交流した[2]。
清教徒革命前の1640年に自分の身を案じてフランスへ亡命[2]し、後に国王となったチャールズ2世の家庭教師を務める。最もよく知られる著作『リヴァイアサン』は、イングランド内戦が終結してオリバー・クロムウェルの統治下にあったイングランド共和国に帰国した1651年に刊行された。ベーコンやガリレオ、デカルトらと交友があった。
1655年に出版した『物体論』(De Corpore)内で円積問題の解を見つけたと公表し、数学者のジョン・ウォリスとの論争に発展した。ホッブズの哲学は公理系を元に構築する幾何学的な考え方を元にしていたが、円積問題については終始、本質を理解することができず、誤りを自覚できずに死ぬまで激しい論争を続けた(ホッブズとウォリスの論争(英語版))[要出典]。
形而上学においては唯物論の立場に立ち、その考えは『物体論』において展開された。また、デカルトから『省察』の批判を書くよう頼まれた時はその立場から批判を行なったが(デカルトは他の哲学者や神学者にも批判を頼み、ホッブズのそれは第三論駁と呼ばれる)、自身の哲学への不理解と解したデカルトからの反応は冷淡であった[3]。
・ジョン・ロック
(英語: John Locke FRS、1632年8月29日 - 1704年10月28日)は、イギリスの哲学者。哲学者としては、イギリス経験論の父と呼ばれ、主著『人間悟性論』(『人間知性論』)において経験論的認識論を体系化した。また、「自由主義の父」とも呼ばれ[2][3][4]、政治哲学者としての側面も非常に有名である。『統治二論(統治論二篇)』などにおける彼の政治思想は名誉革命を理論的に正当化するものとなり、その中で示された社会契約や抵抗権についての考えはアメリカ独立宣言、フランス人権宣言に大きな影響を与えた。
概要
ロックの著作の大部分は1687年から1693年の間に刊行されているが、明晰と精密、率直と的確がその特徴とされており、哲学においては、イギリス経験論の父であるだけでなく、政治学、法学においても、自然権論、社会契約の形成に、経済学においても、古典派経済学の形成に多大な影響力を与えた。
菩薩道(読み)ボサツドウ
デジタル大辞泉 「菩薩道」の意味・読み・例文・類語
ぼさつ‐どう〔‐ダウ〕【×菩×薩道】
仏語。
1 菩薩としての修行。自利・利他を兼ね備えて行う悟りへの実践。
2 大乗仏教のこと。
・菩薩
(ぼさつ)とは、ボーディ・サットヴァ(梵: बोधिसत्त्व, bodhisattva, 巴: bodhisatta)の音写である菩提薩埵(ぼだいさった)の略であり[1][注釈 1]、仏教において一般的には菩提(bodhi, 悟り)を求める衆生(薩埵, sattva)を意味する[1]。仏教では、声聞や縁覚とともに声聞と縁覚に続く修行段階を指し示す名辞として用いられた[2][3]。
原語・原義
梵名ボーディ・サットヴァのbodhiとは漢訳「菩提」であり、「菩提薩埵」の「埵」とは、「枝が垂れたように延びている、土を盛り上げて固くしたもの」を表している。
菩薩という用語が仏教成立以前から存在したか否かについての定説はないが、仏教で初めて菩薩という用語が用いられたのは釈迦の前世譚(ジャータカ)であり、釈迦が前世で辿りついた境地の意味だったとする説が有力である[注釈 2][要検証 - ノート]。
初期仏教・上座部仏教
初期仏教、パーリ仏典において菩薩(巴: bodhisatta)は悟りを開く前の釈迦本人を指している[5]。パーリ仏典では、四門出遊を経て出家した直後の釈迦(ヴィパッシン王子)はヴィパッシン菩薩(vipassī bodhisatto)と記載されている[6].
釈迦は説法の中で、若き求道者であった頃の自身を語るときには「私が啓示を得ていない bodhisatta であったころは...」というフレーズをたびたび使用していた[7]。
Mayhampi kho, mahānāma, pubbeva sambodhā, anabhisambuddhassa bodhisattasseva sato... [8]
マハーナーマ(人名)よ、私が菩提を得る前、いまだ成道していない菩薩であったとき ...
Ahampi sudaṃ bhikkhave pubbeva sambodhā anabhisambuddho bodhisattova samāno ... [7]
比丘たちよ、私もまた正覚以前のころ、未だ正覚を得ていない菩薩であったとき ...
大乗仏教
観音菩薩、12世紀、平安時代、東京国立博物館蔵
弥勒菩薩立像、13世紀、鎌倉時代、重要文化財、東京国立博物館蔵
大乗仏教は『ジャータカ』の慈悲行を行う釈迦を理想とし、修行者自身が「仏陀」になることを目ざした。このため大乗仏教の修行者はすべて菩薩と呼ばれるようになった[9]。これら修行者が守るべき戒律は菩薩戒と呼ばれる。また竜樹や世親といった高僧を菩薩号で呼ぶことも行われている[9]。
般若心経
玄奘訳の般若心経には前段に菩薩、後段に菩提薩埵と音写した2種の訳語が使い分けられている[注釈 3]。般若心経にこのような用語が使われているのは漢訳における語源学風解釈(nirukti, etymology)で、意図的に〈菩提+薩埵〉と分割したという説がある[10] 。
十地経
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華厳十地経は序章において、「十種の無上の徳あるもっともすぐれた菩薩行」を十波羅蜜としている[11]。
菩薩五十二位
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『華厳経』及び『菩薩瓔珞本業経』では、菩薩の境涯、あるいは修行の階位は、上から妙覚、等覚、十地、十廻向、十行、十住、十信の52の位にまで分けて52位を採用することが多い。
妙覚(みょうかく)
菩薩修行の階位である52位の最後の位で、等覚位の菩薩が、さらに一品(いっぽん)の無明を断じて、この位に入る。なお一切の煩悩を断じ尽くした位で、仏・如来と同一視される。
等覚(とうかく)
菩薩修行の階位である52位の中、51位であり菩薩の極位で、その智徳が略万徳円満の仏、妙覚と等しくなったという意味で等覚という。
十地(じっち、じゅうぢ)
菩薩修行の階位である52位の中、第41~50位まで。上から法雲・善想・不動・遠行・現前・難勝・焔光・発光・離垢・歓喜の10位。仏智を生成し、よく住持して動かず、あらゆる衆生を荷負し教下利益することが、大地が万物を載せ、これを潤益するからに似ているから「地」と名づく。
十廻向(じゅうえこう)
菩薩修行の位階である52位の中、第31~40位まで。上から入法界無量廻向・無縛無著解脱廻向・真如相廻向・等随順一切衆生廻向・随順一切堅固善根廻向・無尽功徳蔵廻向・至一切処廻向・等一切諸仏廻向・不壊一切廻向・救護衆生離衆生相廻向の10位。十行を終わって更に今迄に修した自利・利他のあらゆる行を、一切衆生の為に廻施すると共に、この功徳を以って仏果に振り向けて、悟境に到達せんとする位。
十行(じゅうぎょう)
菩薩修行の位階である52位の中、第21~30位まで。上から真実・善法・尊重・無著・善現・離癡乱行・無尽・無瞋根・饒益・観喜の10位。菩薩が、十住位の終に仏子たる印可を得た後、更に進んで利他の修行を完うせん為に衆生を済度することに努める位。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・方便・願・力・智の十波羅密のこと。
十住(じゅうじゅう)
菩薩修行の位階である52位の中、第11~20位まで。上から灌頂・法王子・童真・不退・正信・具足方便・生貴・修行・治地・発心の10位。十信位を経て心が真諦(しんたい)の理に安住する、という意味で「住」と名づく。あるいは菩薩の十地を十住という説もある。
十信(じゅうしん)
菩薩修行の位階である52位の中、第1~10位まで。上から願心・戒心・廻向心・不退心・定心・慧心・精進心・念心・信心の10位。仏の教法を信じて疑心のない位。
なお、十信を外凡、十住~十廻向までを内凡あるいは三賢と称し、十信~十廻向までを凡と総称する。また十地と等覚を因、妙覚を果と称し、十地~妙覚までを聖と総称し、凡と相対する。
小宮光二の菩薩コース、アラハンコースにようこそ
@@吉田徳之-b8c
あの人はアガスティアの葉の人らからねえ。
阿羅漢とは別ものでしょうね。
ちょと言質が観念論に傾きそうなので、というよりそうならざるを得ないので、そっちの補正。ミーム論のようになりそうなので、も少し原点からいうと、よくご指摘されてるのに。原点は日本語にあるんだが、日本語そのものの説明も含めて。
フェルディナン・ド・ソシュール
(Ferdinand de Saussure、1857年11月26日 - 1913年2月22日[1])は、スイスの言語学者、記号学者、哲学者。「近代言語学の父」[注釈 1]といわれている。
人物
記号論を基礎付け、後の構造主義思想[注釈 2]に影響を与えた。言語学者のルイス・イェルムスレウ、ロマーン・ヤーコブソンのほか、クロード・レヴィ=ストロース、モーリス・メルロー=ポンティ、ロラン・バルト、ジャック・ラカン、ジャン・ボードリヤール、ジュリア・クリステヴァ、ノーム・チョムスキーなど多くの思想家が、その影響を受けている。
ソシュールの言語理論
ソシュールは、言語を考察するに当たって、通時言語学/共時言語学、ラング/パロール、シニフィアン/シニフィエなどの二分法的な概念を用いた。
通時言語学と共時言語学
ソシュールは、言語学を通時言語学と共時言語学に二分した。従来の比較言語学のように、言語の歴史的側面を扱うのが「通時言語学」である。それに対して、言語の共時的(非歴史的、静態的)な構造を扱うのが「共時言語学」である。ソシュールは、その両方を研究の対象とすることで、それまでのように言語の起源や歴史的推移を問題にするだけでなく、ある一時点における言語の内的な構造も研究対象にし、それによって言語を全体的に理解しようとした[注釈 12]。
ラングとパロール
共時言語学(記号論)においては、言語の社会的側面(ラング。語彙や文法など、社会に共有される言語上の約束事。コード)と言語の個人的側面(パロール、「今日は暑い」とか「私は完璧に血抜きされた魚の刺身を食べたい」や「どこでもドアが欲しい」などといった個人的な言語の運用。メッセージ)に二分し、「ラング」を共時言語学の対象とした。
シーニュ、シニフィアンとシニフィエ
「シニフィアンとシニフィエ」も参照
ソシュールは、言語(ラング)は記号(シーニュfr:signe)の体系であるとした。ソシュールによれば、記号は、シニフィアン(たとえば、日本語の「イ・ヌ」という音の連鎖など)とシニフィエ(たとえば、「イヌ」という音の表す言葉の概念)が表裏一体となって結びついたものである。そして、このシニフィアンとシニフィエの結びつきは、恣意的なものである。つまり、「イヌ」という概念は、"Dog"(英語)というシニフィアンと結びついても、"Chien"(フランス語)というシニフィアンと結びついても、どちらでもよいということである。
二重分節
さらに、ソシュールは、音韻においても、概念においても、差異だけが意味を持ち、その言語独特の区切り方を行っていると主張する。
まず、音韻について言えば、たとえば日本語では、五十音で音を区切っている。そして、「ア」の音は、「ア」以外の音(イ、ウ、エ、オ、……)ではないものとして意味を持つ。そして、音の区別の仕方は、言語によって異なる。たとえば、日本語の音韻体系においては、英語における「r」と「l」にあたる音の区別がない。つまり、本来ならば、無限に分類できるさまざまな音を、有限数の音に分類する。そして、各言語の話者族は、それぞれ独自のやり方で(つまり、普遍的ではないやり方で)音を区分けしている。これは、"言語の音声面での恣意性"と表現される。
一方、音韻だけではなく、概念も言語によって区切られている。たとえば、「イヌ」という言葉の概念は、「イヌ」以外のすべての概念(ネコ、ネズミ、太陽、工場、川、地球……)との差異で存立している。このように、人間は、「シーニュ」という「概念の単位」によって、現実世界を切り分けているのである。そして、その切り分け方は、普遍的ではない。たとえば、日本語では虹の色を「七色」に切り分けているが、それを「三色」に切り分ける言語もある。つまり、色を表す言葉の数によって、虹の色の区切り方が違うのである。また、日本語では「マグロ」と「カツオ」を別の言葉で表現するが、英語では両方とも"tuna"である。これは、それぞれの言語を話す人々は、どの差異を区別し、どの差異を無視するかということを恣意的に選択しているのである。そして、その選択がその言語に固有の語体系を作るのであり、その語体系は、その言語の話者族に、現実世界を与える。ソシュールは、この語体系の固有性を作り出す側面を"価値"と呼んでいる。価値は、話者族の恣意による。たとえば、英語のsheepとフランス語のmoutonは、意義は同じであるが、価値は異なる。ここにおいて、ソシュールは、「各民族語は、相互に異なる固有の世界像を持つ」という言語相対論を提唱した。
このように線引きの集まりを恣意的に作るという行為は、分節と呼ばれる。そして、人間は、「現実世界の認識の体系」と「言葉を構成する音の体系」という二つの体系を"分節"によって作りあげているのである。これを二重分節という。なお、線引きが恣意的であることを、後に"差異の体系"と呼んだ評論家がいるが、それでは力点の置き方が異なるため、ソシュールの意図からは外れることになる。
ランガージュ
ソシュールは、このように音韻や概念を分節し、言語を運用する人間の能力をランガージュと呼んだ。ランガージュを持つことによって、人間は「今日は暑い」とか「鰻が食べたい」といった個人的な言語を運用(パロール)することができるようになるのである。ソシュールは、「ランガージュは、人類を他の動物から弁別する印であり、人間学的あるいは社会学的といってもよい性格を持つ能力である」と述べている。
いわゆる記号論について
ソシュールによって、恣意的な関係性という意味の 「シーニュ」の概念が指摘された。そして、このことをきっかけに、同様の恣意性が、言語学以外のさまざまな象徴や指標でも見出された。そして、この概念は、(ダルシャナを知らなかった)ヨーロッパの人々にも、遅ればせながら意識されるようになった。また、「シーニュ」の概念は、言語に関する理論にとどまらず、他の論者・評論家たちからも類推的・拡張的に利用され、次第に記号論あるいは記号学と呼ばれる一連の論・評論へと発展していくことになった。
たとえば、後の記号論者には、あるブランドに特定のイメージが関連づけられる仕方は、おおむね恣意的なものであり、他の類似ブランドとの差異の体系を形成している、ということを指摘した者もいる。たとえば、『消費社会の神話と構造』のボードリヤールがいる。
評論家たちは、映画や小説の作品を、作者の個人的な生い立ちや意図ではなく、同時代の関連作品との"差異の体系"として読み解こうとした。これは、「間テクスト性の分析」と呼ばれる分析方法であり、ロラン・バルトやジュリア・クリステヴァが使用した。しかし、これは、ソシュールの提示した概念に負うところが大きい。
また、クロード・レヴィ=ストロースは、記号論的な考え方を文化人類学の領域に導入し、構造主義思想を確立した。そして、その影響は、20世紀の哲学、数学、精神分析学、文芸評論、マルクス主義思想、生物学にまで及んでいる。
講義ノートと原資料
ソシュールは、存命中一冊の著書も出版しなかった。しかし、ソシュールには、晩年の1906年から1911年にかけて、ジュネーヴ大学において、一般言語学についての講義を計三回行ったことがあり、そのときに後にソシュールの弟子になるバイイとセシュエがまとめた『一般言語学講義』(仏: Cours de linguistique générale)がある。ただし、彼らはジュネーヴ大学の別の講義に出席していたため、直接聴講したわけではない。なお、直接講義を受けた学生による講義ノートが、エディット・パルクから第一回から第三回まで全て出版されている。
1954年頃から、ジュネーヴ公共大学図書館では、ソシュールの講義ノート等の資料が収集され始める。そして、1957年にゴデルが『一般言語学講義の原資料』を、1968年にはエングラーが『一般言語学講義』改訂版を刊行する。
日本への紹介は、小林英夫による邦訳初版が、ソッスュール述『言語學原論』と題して1928年に岡書院から出版された。その後、出版元を岩波書店に変え、1972年刊行の改訳版で『一般言語学講義』と改題出版された。丸山圭三郎は「ソシュールの思想」と「ソシュールを読む」を刊行した。彼は、ソシュールが歪曲されたまま伝えられたことを指摘した。
クロード・レヴィ=ストロース
(Claude Lévi-Strauss、1908年11月28日 - 2009年10月30日[1])は、フランスの社会人類学者、民族学者。ベルギーのブリュッセルで生まれ、フランスのパリで育った[2]。コレージュ・ド・フランスの社会人類学講座を1984年まで担当し、アメリカ先住民の神話研究を中心に研究を行った。アカデミー・フランセーズ会員。
専門分野である人類学、神話学における評価もさることながら、一般的な意味における構造主義の祖とされ[3]、彼の影響を受けた人類学以外の一連の研究者たち、ジャック・ラカン、ミシェル・フーコー、ロラン・バルト、ルイ・アルチュセールらとともに、1960年代から1980年代にかけて、現代思想としての構造主義を担った中心人物のひとり。
思想的特色
彼の人類学におけるデータ分析の方法論において中心をなすのは、言語学とりわけ、ソシュールからヤコブソンへといたる構造言語学における音韻論および、フランス社会学年報派、とりわけデュルケムの流れを汲む社会学者マルセル・モースの社会学=人類学思想の2つであるといえる。
ただし、さまざまな著作の随所で度々述べられているように、青年期に親しんだマルクス主義や、地質学への興味に見られる博物学的関心(こうした性向から、ときにゲーテが研究した自然学への親近感を表明することもある)に加え、芸術家の出入りが多い環境で育ったこともあり、西洋クラシック音楽におけるワーグナーやストラヴィンスキー、絵画におけるシュルレアリズムやキュビズムなど、同時代のアヴァンギャルド芸術思潮からの影響も多分に受けており、こうした多方面的な知識が、彼の著作を単なる人類学における論文や著書とは一線を画したものにしており、多くの言語に訳されている。
親族構造の分析-『親族の基本構造』から『親族の複合構造』へ
未開社会の婚姻規則の体系、無文字社会を贈与の問題や、記号学的立場から分析した。オーストラリア先住民(アボリジニ)と東南アジア・古代中国・インド・北東アジアの婚姻規則の体系を構造言語学のインスピレーションをもとにして統一的観点からの分析をし、博士論文となった1949年の『親族の基本構造』において自らの基本的立場を明らかにした。
この「構造」に、群論を使った数理的な解析を与えたのは、数学者のアンドレ・ヴェイユ(かのブルバキの結成メンバーであり、シモーヌ・ヴェイユの兄である)である。
「未開社会」観の変革
レヴィ=ストロースは、『野生の思考(パンセ・ソバージュ)』(1962年)などにおいて、従来の「野蛮(混沌)」から洗練された秩序が形作られたとする西洋中心主義に対し、混沌の象徴と結びつけられた「未開社会」においても一定の秩序・構造が見いだせると主張し、オリエンタリズム的見方に一石を投じた。これは、後のポストコロニアリズムで特に高く評価されている。なお、『パンセ・ソバージュLa pensée sauvage』の題は、パスカルの『パンセ』を元にしたといわれ「野生の三色すみれ」の意味もある。
関わった論争
『弁証法的理性批判』をめぐって-サルトルとの論争
1962年の『野生の思考』の最終章「歴史と弁証法」においてレヴィ=ストロースは、サルトルの実存主義を強烈に批判した。このことから、実存主義に対立し、それを乗り越えるものとしての構造主義という思潮が、ときには過剰なまでにもてはやされる契機となった。本人はその後も、センセーショナルな流行からはつねに距離をとり、10年もの歳月をかけて、ライフワークとなった4巻に及ぶ『神話論理』(『生のものと火にかけたもの』、『蜜から灰へ』、『テーブルマナーの起源』、『裸の人』)を完成させ、神話研究において不滅の業績を残した。
彼の問題意識はサルトルの実存主義という主体偏重を批判し、西洋社会における、西洋中心主義に対する批判的意識から出発している。前者に対しては、主体ではなく、主体間の構造こそが重要だと主張し(主体が使う言語は共同体社会によって生み出された構造主義的なものなので、絶対的な主体ではありえない)、後者に対しては、どのような民族においてもその民族独自の構造を持つもので、西洋側の構造でその他の構造に対して優劣をつけることなど無意味だと主張した。
デリダによる批判
橋爪大三郎の分析によると[15]、
ジャック・デリダは、従来のパロール(話し言葉)中心の言語分析(ロゴス中心主義(en:Logocentrism)、音声中心主義(en:Phonocentrism)という語をデリダは使った)に反対し、エクリチュール(文字)を重視せよと主張していた。
そのデリダから見ると、レヴィ=ストロースは音韻論を人類学に持ち込み、なおかつ社会が出来てから文字が出来るという後成説を採っているので、デリダの批判するロゴス中心主義者と映る。
そのため、デリダは、レヴィ=ストロースを批判したとされる。
しかし、同じく橋爪大三郎の指摘によれば、レヴィ=ストロースの主張とデリダの批判の間には噛み合っていない部分が多く、またレヴィ=ストロースの専門(人類学)とデリダの専門(言語分析)は必ずしも矛盾しないとされ、すなわちデリダによる批判という見解にはやや的外れな点があるとされる。
リーチによる批判
英国の社会人類学者エドマンド・リーチは、レヴィ=ストロースの親族研究を多岐に渡って批判している。しかし、小田亮の分析によると、これはリーチ自身、「基本構造」という語が、交叉イトコ婚(いとこ婚#文化人類学におけるいとこ婚)による婚姻体系ではインセスト・タブーと外婚制が裏表となっているという意味で「基本」構造と呼ばれていることを理解していないためであり、また経済的に何の利益もない「交換のための交換」が社会生成に関係するということを捉え損なっているためであるという。
詳しくは、小田亮『レヴィ=ストロース入門』(ちくま新書、2000年)と、エドマンド・リーチ『レヴィ=ストロース』(吉田禎吾訳、ちくま学芸文庫、2000年)を参照。
エピソード・来日ほか
レヴィ=ストロース(Lévi-Strauss)が姓である。ジーンズのブランドリーバイスの創始者リーヴァイ・ストラウス(Straussが姓)と似ているので、時折、関係があると誤解されることがあり、実際にリーバイス社が日本で紹介され始めた際には「レヴィ・ストロース社」とされることがあった。本人も、合衆国に出張した際、カリフォルニアのレストランで名前を告げると「pants or books?(ズボン、それとも本?)」と尋ねられたと語っている。
1955年に代表作『悲しき熱帯』を刊行し、センセーショナルに評価受容された際、ゴンクール賞を選定するアカデミー・ゴンクール(英語版)から、小説でないために『悲しき熱帯』を受賞作にできないのは、非常に残念だという旨のコミュニケが発表された。なおアカデミー・フランセーズ選出者は、賞を返上するという慣行があるらしく、仮にレヴィ=ストロースが受賞した場合、この慣行が行われていた可能性がある。
1973年にエラスムス賞を受賞。同年アカデミー・フランセーズ正会員に選ばれた。
国際交流基金の招きで1977年10月から11月に初来日、以後も1986年4月の他に数度来日し[16]、講演・シンポジウムや、日本人学者や日本学者らとの交流を行っている。日本文化を高く評価する親日家であり、1993年春の外国人叙勲で勲二等旭日重光章が授与されている。
1993年4月14-15日、NHK教育テレビ「ETV特集」で、弟子の川田順造によるロング・インタビュー「第1回 自然・人間・構造」、「第2回 日本への眼差し」を放映。のち白水社でビデオ化(別冊付)されたが絶版、未DVD。
2008年11月28日に100歳の誕生日を迎え、フランスでは記念行事が行われ、また政府はフランスで活動する人文社会科学者を対象とする「レヴィ=ストロース賞」の創設を発表。
2009年10月30日深夜にフランス東部リニュロール村の別荘で死去した。遺言により親族による密葬を経て、11月3日に代理人でもある出版社が公表した。最後の様子は、川田順造『文化を交叉させる 人類学者の眼』(青土社、2010年5月、序文レヴィ=ストロース)の著者あとがきに詳しい。後に『レヴィ=ストロース論集成』(青土社、2017年4月)を出版。
フランス語圏での伝記にドニ・ベルトレ『レヴィ=ストロース伝』(藤野邦夫訳、講談社、2011年)、また入門書にカトリーヌ・クレマン『レヴィ=ストロース』(塚本昌則訳、白水社、2014年)がある。
他の「構造主義者」と異なり、レヴィ・ストロースの文章は明晰であると評価されている。難解な言い回しを用いず、また彼の構造主義という発想の基点の一つである数学的知識に関しても誤った理解をすることなく受け入れたことで、後にフランス現代思想界を揺るがすアラン・ソーカルによる一連の批判(ソーカル事件)の対象外に置かれることとなった。
指導を受けた研究者たち
ピエール・クラストル
フランソワーズ・エリティエ=オジェ
フィリップ・デスコーラ
モーリス・ゴドリエ
ピエール・ブルデュー
ミシェル・ペラン
川田順造 関連著書多数
渡辺公三 関連著書多数
吉田禎吾 『レヴィ=ストロース 人と思想』(入門書で共著、清水書院、1991年、新版2015年)がある。
夏刈康男 社会学者
エイヴラム・ノーム・チョムスキー
(Avram Noam Chomsky、1928年12月7日 - )は、アメリカ合衆国の哲学者[1][2]、言語哲学者、言語学者、認知科学者、論理学者[3][4]。マサチューセッツ工科大学の言語学および言語哲学の研究所教授 (Institute Professor) 兼名誉教授[5]。妻は言語学者・教育学者のキャロル・チョムスキー。
人物
チョムスキーが「仮説として」唱えた、普遍文法仮説は、全ての人間の言語に「普遍的な特性がある」とし、その普遍的特性は人間が持って生まれた、すなわち生得的な、そして生物学的な特徴であるとする言語生得説による、言語をヒトの生物学的な仮説上の(心理上の)器官によるものと捉えた仮説である(言語獲得装置)。
そして、そのような仮説はいったん置くとして、その研究のために彼が導入したのが「生成文法」であった。生成文法に用いた演繹的な方法論により、チョムスキー以前の言語学に比べて飛躍的に言語研究の質と精密さを高めた。
チョムスキー以前の言語学では、フェルディナン・ド・ソシュールに代表されるヨーロッパ構造主義言語学や、レナード・ブルームフィールドらのアメリカ構造主義言語学の、言語の形態を観察・記述する構造主義的アプローチが優勢であったが、これに対しチョムスキーは言語を作り出す人間の能力に着目した点(すなわち普遍文法仮説)と、そのメカニズムをフォーマルに(形式的に)記述することを目指した生成文法というアプローチを取った点が画期的であった。より具体的に言えば、適切な言語形式を産出する能力(linguistic competence: 言語能力)と、実際に産出された言語形式(linguistic performance: 言語運用)とを区別し、前者を研究の重点としている。チョムスキー自身はソシュールの熱烈なファンであり、熱心な読者でもある。
彼以降、言語学は認知科学や計算機科学と強い親近性を獲得した。認知科学との親近性は、普遍文法仮説のように「脳と心」についての科学的な仮説と関連づけてヒトと言語について扱ったことによるといえる。もっとも後述するように、ある意味では皮肉なことに、より認知科学に近いことを自認する認知言語学はチョムスキーの、特に普遍文法仮説に批判的な立場を取っている。計算機科学との親近性は、歴史的に見て同時代に計算言語学や自然言語処理が興ったという幸運もあるが、普遍文法仮説はさておき、生成文法が言語をフォーマルな(形式的な)ものとして取り扱うことを可能とするものだったことによる。チョムスキー自身はその後もヒトの自然言語の研究に邁進するが、形式言語の理論であるチョムスキー階層は、(自然言語処理を専門とする者を除けば)多くの計算機科学者が最も良く知っているチョムスキーの業績である。
また、統語論の自律性を主張したことで、かえって意味論や語用論などの隣接分野も浮き彫りにする形となった。このあたりについてはチョムスキーがハーバード大学でジュニア・フェローとして過ごした時期の考察に端を発する。派を問わずあらゆる言語学者に「統語的にはgrammaticalだが、意味的にはnonsenseな」「統語論と意味論の境界を明らかに示すような」例文として知られる文 "Colorless green ideas sleep furiously." を示したのが彼である。
酒井邦嘉[51] は1990年代の「ミニマリスト・プログラム」への大きな変化を「一人の人が天動説と地動説の両方を作り上げるようなものである」と評していて、チョムスキーの次の言葉を紹介している。
もしあなたが孤立して、世の中の誰とも全く違っているとしたら、自分の気が変になったか、どうかしたに違いないと思い始めるでしょう。あなたが他の人々と何か違ったことを言っているという事実に負けないためには、強い自我(a big ego)が必要です。
一方でチョムスキー的な言語学には言語学の内外からの批判もある。特に言語学内の他派からの批判は「チョムスキアン」なる語の存在からもうかがえるものであり、チョムスキー以前の派閥としては前述の欧あるいは米の構造主義による言語学から、あるいは以後の派閥としては認知言語学からのものがある。認知言語学はヒトの言語能力について、言語に特化したものではなく他の能力も含む認知体系の一部として捉える立場をとっており、普遍文法仮説が言語だけを特別な能力であると仮定していることに特に批判的である。
社会哲学的には、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトやジョン・デューイから、思想的にはスペイン内戦時のカタルーニャ地方バルセロナにおける極度に民主的な労働者自治によるアナキスト革命から強い影響を受け、権威主義的な国家を批判するリバタリアン社会主義(アナキズム)に関わり、アメリカに台頭するネオコン勢力によるアフガン侵攻・イラク侵攻や、アメリカ主導のグローバル資本主義を批判している。
特に2001年のアメリカ同時多発テロ事件以降は、その傾向を強めており、政治関係の著作も多数ある。2006年にベネズエラのウゴ・チャベス大統領が、国際連合総会でアメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュを「悪魔」と批判する有名な演説をおこなった際には、チョムスキーの『覇権か、生存か――アメリカの世界戦略と人類の未来』を自ら示して、「アメリカ国民は是非この本を読むべきだ」と語り、書籍の売れ行きに貢献した。
「ポル・ポトを擁護していた過去があり、そのことを隠蔽している」とよく説明される[52]。クメール・ルージュ政権下で父親を失い、自らもアメリカに亡命したカンボジア系米国人政治学者のソパール・イヤは、チョムスキーに対して「チョムスキーがケンブリッジの肘掛け椅子に座りながら理論を研ぎ澄ましている間、私の家族は田んぼの中で亡くなった。」「私と生き残った家族にとって、クメール・ルージュ政権下での生活には、知的なお座敷遊びの道具ではない。」と批判している。[53]この件についてチョムスキー自身は、「私は国際連合においてアメリカが支援していたティモールでの虐殺について証言を行なったことがあり、そのとき、それとポル・ポトの虐殺とが類似しうることをたまたま述べた。実際それは類似していたのだ」と説明している[54]。アメリカについては、「大義 (just cause)」の名の下に虐殺を行っているとして、常々非難している[55]。
イスラエル政府やその支持者、同政府に対するアメリカの支援などに極めて批判的で、「イスラエルの支持者は実際の所、道徳的堕落の支持者にほかならない」とまで述べている[56]。こうしたことから、ユダヤ人国家としてのイスラエル建国には不支持を貫き、「ユダヤ人なりキリスト教なりイスラム国家という概念が適切とは思えない。アメリカ合衆国をキリスト教国家とするのはおかしいのではないか」としている[57]。
1980年代には、ホロコースト否認論者であるロベール・フォリソン(フランス語版)がホロコースト否認を理由として大学を解雇され、チョムスキーが友人セルジュ・ティオン(フランス語版)の頼みで、処分に抗議する文書に署名を行った[58]。その後フォリソンは自らの著書にチョムスキーの文章を序文として掲載した事が問題となった。チョムスキーは「その本の内容まで肯定したわけではない」「(過去の本で)強い言葉でホロコーストを非難している」[59]、ホロコーストを否認したからといって反ユダヤ主義者とは考えられないとコメントしている[60]
2022年3月にはロシアによるウクライナ侵攻を、アメリカ主導のイラク侵攻や1939年のドイツ・ソ連によるポーランド侵攻と肩を並べるほどの「重大な戦争犯罪」と評価した[61]。
思想
チョムスキーは自身をアナキストだと認めており、10代の頃にアナキズムに魅了されて以来その考えは変わらないと明言している。
彼はアナキズムについて「生活のあらゆる側面での権威、ヒエラルキー、支配の仕組みを探求し、特定し、それに挑戦することにおいてのみ、意味があると思っています」と言い、「これら(権威、ヒエラルキー、支配)は正当とされる理由が与えられない限りは不当なものであり、人間の自由の領域を広げるために廃絶されるべきもの」「権力には立証責任があり、それが果たせないのであれば廃絶されるべきであるという信念、これが、私のアナキズムの本質についての変わらぬ理解です」とその考えを述べている。
彼はとりわけアナルコ・サンディカリズムを政治思想の中核に据え、「高度な先進産業社会にふさわしい合理的な組織化のあり方」と評価している。
彼はアナルコ・サンディカリズムの今日的な意義について「産業化と技術の進歩が広範囲な自己管理の可能性を開く」「そこでは労働者が差し迫った問題に自ら対処する。つまり工場の指揮や管理だけではなく、経済の仕組みや社会制度に関することで、地域あるいはその範囲を超えた計画の立案に関することで、重要な実質決定を行えるような地位を得るのです」と特徴づけ、手段の機械化が進んだ現代においては、(労働者が自らの工場の運営に携わることにより)必要労働を機械に委ね、人間は自由に創造的労働に当たることができるようになると説明している。
「都市の空気は自由にする」
(としのくうきはじゆうにする、ドイツ語: Stadtluft macht frei)は、ドイツ中世都市に関する法諺(法律にまつわる格言、ことわざ)。
封建領主の法的支配下におかれていた農奴や隷属身分の手工業者が、都市へ逃れ、一定期間、領主によって引き戻しの要求がなされることなく過ごした場合、自由身分を得られたとされる(ただし、この際の「自由」とは封建領主からの解放という自由であり、近代的な人権思想を前提とする個人の自由とは異なる)。その期間は大抵の場合、1年と1日とされた。
この法慣習についての史料上の表現はさまざまであるが、19世紀半ばの法学者たちが「空気は自由にする」と言い表したことで定式化された。
この法慣習の根拠としては、権利不行使による隷属民に対する物権法的処分権(ゲヴェーレ)の喪失、都市の避難者庇護権や不入権、都市宣誓共同体の保護機能、あるいは都市に対する国王の保護支配権などに由来するものと考えられている。
参考文献
この節には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注によって参照されておらず、情報源が不明瞭です。脚注を導入して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2018年1月)
阿部謹也 『ハーメルンの笛吹き男--伝説とその世界』 筑摩書房〈ちくま文庫〉、1988年12月、66頁以下。ISBN 9784480022721
ミッタイス=リーベリッヒ 著、世良晃志郎 訳『ドイツ法制史概説(改訂版)』創文社、1971年。ISBN 978-4423740163。
Gerhard Köbler (1997). "Stadtluft macht frei". Lexikon des Mittelalters. Vol. 8. Stuttgart/Weimar: Metzler. p. 23. ISBN 9783896599087。
関連項目
封建社会
封建制
荘園#ヨーロッパの荘園
働けば自由になる(Arbeit macht frei)
「都市の空気は自由にする」は中世ヨーロッパが豊かだったからですよね~十字軍以降商業復活しますから。でも経済的に不安定になるとまぁ~た極端に走る。その行き着く先がルターでありマルクスなのかしら。
@@高見章代
そうだなあ。ゲルマン民族だからでしょうね。ルターとマルクスは自我の肥大化だと思いますねえ。
ギルド
(英: guild、独: Zunft、伊: arti)は、中世より近世にかけて西欧諸都市において商工業者の間で結成された各種の職業別組合。商人ギルド・手工業ギルド(同職ギルド)などに区分される。一般に封建制における産物とされる。現在における職能団体の源流である。
歴史
西欧の中世都市においては、都市の成立・発展に大きく寄与した大商人(遠隔地商人)によって組織された商人ギルド(英:guild Merchant、独:Zunft)が、市参事会を通じた市政運営を独占していた。しかし、商人ギルドによる市政独占に反発した手工業者たちは職業別の手工業ギルド(同職ギルド、英:craft guild、独:Zunft)を結成し、商人ギルドに対抗して市政参加を要求した。この両集団の闘争はツンフト闘争とも称され、闘争を通じて手工業者にも市政参加の道が開かれることになった。
中世都市には徒弟制度と称される厳格な身分制度が存在し、その頂点に立つ親方は職人・徒弟を指導して労働に従事させた[1]。ギルドに参加できるものは親方資格をもつものに限られていた。教会と密接なかかわりがあり、集団ごとに守護聖人をもち、その祝日などに会合を行うのが普通であった。
製品の品質・規格・価格などは厳しくギルド内で統制され、品質の維持が図られた。販売・営業・雇用および職業教育に関しても独占的な権利を有していたため、自由競争を排除してギルドの構成員が共存共栄することが可能だった。しかし、このことが各個人の自由な経済活動を阻害したともいえる。
近世の絶対王政下において各都市の自主性が失われ王権に屈していく中で、ギルドは王権に接近して特権集団として自らの利権擁護を図った。しかし徐々に市民階級が成長すると、閉鎖的・特権的なギルドへの批判が強まり、市民革命の中でギルドは解体を余儀なくされた。
しかし、遅くまで封建制が残っていたドイツではギルドあるいはその行動様式が残っており、またオットー・フォン・ビスマルクも彼らを囲い込むためにギルドに支持される職業別の社会保険制度を作り上げた。この制度は21世紀まで生き残り、ドイツ社会の行動様式を根本的に規定するものだと言われている。
・アルミニウス
(ラテン語:Arminius, 紀元前16年 - 21年)は、帝政ローマ初期のゲルマン系ケルスキ族(英語版)の族長である。トイトブルク森の戦いやゲルマニクスとの戦いに於いて、ゲルマン諸部族のリーダー(ゲルマン全部族の統一には失敗したが)として戦い、ローマによるゲルマニア征服を阻止した。アルミニウスによるこれらの働きは古代ゲルマン部族、ローマ帝国の歴史に留まらず、後世ヨーロッパにも大きな影響を与えた。
・贖宥状
(しょくゆうじょう、ラテン語: indulgentia)とは、16世紀にカトリック教会が発行した罪の償いを軽減する証明書。免償符(めんしょうふ)、贖宥符(しょくゆうふ)とも呼ばれる。
また、日本においては免罪符(めんざいふ)とも呼ばれ、「罪のゆるしを与える」意味で、責めや罪を免れるものや、行為そのものを指すこともある。
贖宥状の概念
キリスト教(カトリック教会)では、洗礼を受けた後に犯した罪は、告白(告解)によってゆるされるとしていた。西方教会で考えられた罪の償いのために必要なプロセスは三段階からなる。まず、犯した罪を悔いて反省すること(痛悔)、次に司祭に罪を告白してゆるしを得ること(告白)、最後に罪のゆるしに見合った償いをすること(償い)が必要であり、西方教会ではこの三段階によって、初めて罪が完全に償われると考えられた。古代以来、告解のあり方も変遷してきたが、一般的に課せられる「罪の償い」は重いものであった。
キリスト教に限らず、世界の多くの宗教に、宗教的に救済を得たいなら善行や功徳を積まなくてはならないとする「因果応報」や「積善説」という考え方がある[1]。カトリック教会は、救われたい人間の自由意志が救済のプロセスに重要な役割を果たすとする「自由 意志説」に基づいた救済観を認め、教会が行う施しや聖堂の改修など、教会の活動を補助するために金銭を出すことを救済への近道として奨励した[1]。
贖宥状販売の歴史的経緯
贖宥状は元々、イスラームから聖地を回復するための十字軍に従軍したものに対して贖宥を行ったことがその始まりであった。従軍できない者は寄進を行うことでこれに代えた。
教皇ボニファティウス8世の時代に聖年が行われるようになり、ローマに巡礼することで贖宥がされると説かれた。
後に教皇ボニファティウス9世の時代に、教会大分裂という時代にあって、ローマまで巡礼のできない者に、同等の効果を与えるとして贖宥状が出された。これはフランスなどの妨害で巡礼者が難儀することを考えての措置であった。その後も、様々な名目でしばしば贖宥状の販売が行われていた。
教皇レオ10世がサン・ピエトロ大聖堂の建築のための全贖宥を公示し、贖宥状購入者に全免償を与えることを布告した。中世において公益工事の推進のために贖宥状が販売されることはよく行われることであったが、この贖宥状問題が宗教改革を引き起こすことになる。
詳細は「レオ10世による贖宥状」を参照
宗教改革がヨーロッパ全域の中で特に神聖ローマ帝国(ドイツ)で起こったことには理由があった。ドイツで最も大々的に贖宥状の販売が行われたからである。この大々的な販売は当時のマクデブルク大司教位とハルバーシュタット司教(en:Bishopric of Halberstadt)位を持っていたアルブレヒト(ドイツ語版、英語版)の野望に端を発していた。彼はブランデンブルク選帝侯ヨアヒム1世の弟であり、兄の支援を受けて、選帝侯として政治的に重要なポストであったマインツ大司教位も得ようと考えた[2]。
だが本来、司教位は1人の人間が1つしか持つことしかできないものである。そのためアルブレヒトは、ローマ教皇庁から複数司教位保持の特別許可を得るため多額の献金を行うことにし、その献金をひねり出すため、フッガー家の人間の入れ知恵によって秘策を考え出した。それは自領内でサン・ピエトロ大聖堂建設献金のためという名目での贖宥状販売の独占権を獲得して稼ぐというものであった。こうして1517年、アルブレヒトは贖宥状販売のための「指導要綱」を発布し、ヨハン・テッツェルというドミニコ会員などを贖宥状販売促進のための説教師に任命した。アルブレヒトにとって贖宥状が多く売れれば自分の手元に収益が入り、献金によってローマ教皇庁の心証も良くなるという思惑であった。贖宥状は盛んに売られ、人々はテッツェルら説教師の周りに群がった。
@@高見章代
しかし、義化の問題に悩みぬいた経験を持つ聖アウグスチノ修道会員マルティン・ルターにとって、贖宥状によって罪の果たすべき償いが軽減されるというのは「人間が善行によって義となる」という発想そのものであると思えた。そしてルターが何より問題であると考えたのは、贖宥状の販売で宣伝されていた「贖宥状を買うことで、煉獄の霊魂の罪の償いが行える」ということであった。本来は罪のゆるしに必要な秘跡の授与や悔い改め無しに、金銭で贖宥状を購入することのみで煉獄の霊魂の償いが軽減される、という考え方をルターは贖宥行為の濫用であると感じた(テッツェルのものとしてよく引用される「贖宥状を購入してコインが箱にチャリンと音を立てて入ると霊魂が天国へ飛び上がる」という言葉は、この煉獄の霊魂の贖宥のことを言っている)。
この煉獄の霊魂の贖宥の可否についてはカトリック教会内でも議論が絶えず、疑問視する神学者も多かった。ルターはアルブレヒトの「指導要綱」には贖宥行為の濫用がみられるとして書簡を送り、1517年11月1日、ヴィッテンベルク大学の聖堂の扉にもその旨を記した紙を張り出し、意見交換を呼びかけた(当時の大学において聖堂の扉は学内掲示板の役割を果たしていた)。
ルターはこの一枚がどれほどの激動をヨーロッパにもたらすかまだ知らなかった。これこそが『95ヶ条の論題』である。ルターはこれを純粋に神学的な問題として考えていたことは、論題が一般庶民には読めないラテン語で書かれていたことからも明らかである。しかし、その後、神聖ローマ帝国の諸侯たちの思惑によって徐々に政治問題化し、諸侯と民衆を巻き込む宗教改革の巨大なうねりの発端、すなわちプロテスタントの勃興となった。
カトリック教会はヨーロッパ諸国に広がった宗教改革の動きに対し対抗宗教改革を行って綱紀粛正を図った。その結果、トリエント公会議の決議により贖宥状の金銭による売買は禁止されることになった。なお、贖宥状の金銭での売買は禁じられたが、発行そのものは禁止されておらず、以後も行われた。
@@高見章代
自然天然の環境になじんでたんでしょうがねえ。ドイツ人が。
シュヴァルツヴァルト(ドイツ語: Schwarzwald)は、ドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州に位置する森・山地。シュワルツワルトとも表記する[1]。
総面積は約5180平方キロ。「シュヴァルツヴァルト」とは、ドイツ語で「黒い森」を意味する。森の多くは植林されたドイツトウヒの木であり、「黒い森(シュヴァルツヴァルト)」という名称も、密集して生えるトウヒの木によって、暗く(黒く)見えることがその由来である[2]。その他、低地においてはオークやブナも生育しており、草地も点在している[3]。
地理
衛星画像
地形図
ドイツ南西部のバーデン地方に属し、北はバーデン=バーデン、東はシュトゥットガルト、南はフライブルク、西はライン川の流れを挟んでフランス中東部のアルザス地方(アルザス=ロレーヌ)との国境にある。
南北で約160キロに広がる。一番高い箇所は、フェルトベルク(ドイツ語版)(Feldberg)の山頂で、海抜1493メートルである。ドナウ川、ネッカー川など多くの川が、シュヴァルツヴァルトに水源を有している。地質学的には、この森は片麻岩を基盤として砂岩がその上に覆いかぶさった地面から構成される。
シュヴァルツヴァルトの典型的な郊外風景
主要な山
フェルトベルク(Feldberg 1,493 m)
ゼーブック(Seebuck 1,448 m)
ヘルツォーゲンホルン(Herzogenhorn 1,415 m)
ベルヒェン(Belchen 1,414 m)
トーター・マン(Toter Mann 1,321 m)
シュピースホルン(Spießhorn 1,349 m)
ベーアハルデ(Bärhalde 1,317 m)
ブレースリング(Blößling 1,309 m)
シャウインスラント(Schauinsland 1,284 m)
ハープスベルク(Habsberg 1,274 m)
ヴィースヴァルトコップフ(Wieswaldkopf 1,270 m)
ホーホコップフ(Hochkopf 1,263 m)
歴史
シュヴァルツヴァルトはフランスに隣接しておりフランスの政治的影響が強く、他のドイツ諸邦とは異なる慣習や伝統的法体系を形成してきた[4]。
シュヴァルツヴァルトでは紀元前4000年頃の居住跡が考古学的に発見されている。紀元前800年の鉄器時代頃にはケルト人の入植があり、「アブノバ神の山」(ラテン語: Abnoba mons)と呼ばれた。また、その後にスエビ族がスワビア国を建国した場所でもある。
ガイウス・ユリウス・カエサルのガリア戦争における勝利により、ガリア・ゲルマニアが征服されローマの版図に加えられ、キンジグ川(英語版)周りの要路が開発されたが、入植者はローマ人ではなくアレマン人であった[注釈 1]。古代末期には「マルキアヌスの森」(Silva Marciana)と呼ばれ、ローマ帝国の領域とその西側のマルコマンニの領域との境界とされていた。ただ、深い森に覆われ高地で冬季には厳寒となるシュヴァルツヴァルトは啓開の範囲から外れ、東方のハイデンハイムがリメスの後背地として選択された[注釈 2]。
7世紀にベネディクト会の修道士により修道院が築造されたことで徐々に定住が進んだが[6]、司教領には含まれなかった。銀と鉄の鉱物資源が発見されたことで鉱業が栄え、神聖ローマ帝国時代の10世紀の終わりから11世紀にかけてはさらに修道院による定住が行われ、聖ペーター、聖メルゲン、聖ブラージェンらの修道院が設立された。11世紀にツェーリンゲン家の勢力が伸張したが、その衰退と共に多くの封建領主の支配に服することになった。18世紀初頭のスペイン継承戦争では周辺地域がフランス軍とドイツ軍の係争地となった。
18世紀末から19世紀初頭のナポレオンの時期にバーデン辺境伯カール・フリードリヒがバーデン地方を統一し、1806年にバーデン大公国を成立させた。
バーデン大公国は1919年3月21日に国民議会によって憲法が制定され、バーデン共和国となった。第二次世界大戦後、アメリカとフランスにより分割占領された。
宗教の基本は命だと思います。
十戒の何条かに人は人を殺めてはならぬがある。
これが本当の基本ではないのでしょうか?仏教も殺生に向き合う宗教であります。それは、自然法則である死にたいする畏敬である姿勢だと思います。人は神を気取って人を殺してはならぬ。そこに救いはない。
このテーマに向き合う事が経典であるし、哲学でもあるはずです。
私は深く勉強するタイプではないけれど本質は分かってるつもりです。
寿命で亡びるのはしょうがないが人に殺められるのは受け入れられない。それが起こらない様に考え続けているだけではないのでしょうか?富の配分と言うテーマもそこに問題提起がある。だからテーマになる。
そして、更に大きく見つめれば、神様がそのようなテーマをわざと放っているのは、知的生命である我々に、科学や哲学或いは宗教的精神性等を進化させて解を出せと言うことなのかもしれない。
行動伴わない口だけで理屈こねるのはまじで意味ない
政党でhあ、参政党が出てきていますよ。お二人のお話を聞いていて「はぁ!」と、思いました!政界では、まさに参政党だは!
何これ?ただのマニア同士が盛り上がってるだけやん。
マニアックすぎてついていけない、ま、そういうチャンネルか。