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打刀が支流になったのは江戸時代からだな。戦国時代の武将が戦場でよく使ったのは槍で、槍が折れたり使えなくなった時や倒した敵の首狩り用でサブウェポンに鎧通しを着けてた。普通の刀は馬廻衆などが持っていて自分の上司の武将がやられそうな時に刀で戦ったり渡してピンチを凌いだりくらいの使い方しかされて無い。打刀の基本は神聖な美術品だからね。
1:38 初っぱなから首をかしげる事が多い大小の二本差って、平服が普通になった時代からだよな?戦国時代だと武将は合戦では槍、弓、太刀、短刀もしくは鎧通しとかじゃないか?それに、江戸期の柳生厳包(連也斎)は、大刀より脇差を好んで使ってたって話。場合によっては、脇差を二本差してたかもしれんって話。注文打ちで、肥後守秦光氏(代?)の脇差(一尺四寸、片切刃鎬造)。これと対?の大小拵で柳生拵、柳生鍔の大刀(打刀)もあり(籠釣瓶)。対馬守常光の中脇差(江戸石堂派、郷写し)が有名らしい。あとは伯耆守信高(3代)。厳包は尾張藩士で柳生を形作った人物ではあるが、必ずしも大小を差していたとは限らない。戦国時代は一番槍と称されるように、主役は槍で、槍が折れれば太刀、太刀を失えば短刀や鎧通し、短刀や鎧通しを失えば組打ち。組打ちの中で、兜を打撃武器とする事もあった。個人が扱う物の基本はこれら。鉄砲はこれの外の話。宮本武蔵(通称)が戦に参戦した若い時代も、雑兵であったという事もあるが、二本差ではないし、二刀で有名になったのも、平服での剣術が基本だったと思う。介者剣法(術)を基本とした剣術を作ったとは思えない。自分が武術、武道を嗜む中で知った内容では、二本差になったのは平服の時代(江戸時代)以降の話で、大小(刀、脇差)を差し始めたのは戦国時代までは稀で、差すとしても、研ぎ減りした太刀と短刀で、基本的に公家等と同じように、平服(狩衣、直垂など)に太刀を佩刀していたと思う。士族でも侍ではない身分や、武蔵のような兵法家、武芸者で、当時としては比較的自由な服装や、自分の考えで太刀を佩く事、刀を帯びる事が出来る者が、江戸時代より前に二本差しをしていたかもしれない。世に言う二本差は、磨上げの太刀、定寸(二尺三寸程)の刀と、磨上げの刀や脇差(二尺以下)、若しくは脇差拵の短刀を『常に帯びる』事を言うのだと思う。自分が鍛錬した中での知識では、武家社会になり、甲冑を着る事が少なくなった、『泰平の世』の平服の社会での話と思う。それに、見栄や身分を意識して『二本差』になったのは、正に江戸時代からだと思う。
切り捨て御免って 大人しく斬られる人なんて居ないから相手は逃げる逃げられたら武士は切腹しないといけないから殆ど居なかったって言うよね
2本差しはだいたい江戸時代から、勤めの武士の制服みたいなモン。鎧どおしと小刀は別だぞ。江戸以前は刀1本だし、合戦道具はだいたい槍だぞ。
新陰流の小転(こまろばし)は脇差の技。新陰流五世の連也斎は各地の刀工に多くの脇差を打たせ、それらの斬れ味を屍で試したうえで試し銘を残したことで知られる。
鬼平犯科帳で平蔵が「居合いか、なら俺の勝ちだ!!」と言って脇差しを相手に投げつけて、打刀で切るという使い方をしてて、当時感心した。
@@霧雨ヒトリ 居合や抜刀術の真価は抜きつけるときにあるので先に抜かせてしまえばよいというのは一理あるのだけど、抜かせてしまえばイージーゲームというのは間違っているw手裏剣術では常識なのだけど3間以内では物を投げたりする暇に斬り込まれるんだよね。
柳生宗矩の件で出た宗矩の肖像画はポルトガル人が描いた信長の肖像じゃね?😅
お城勤めの正式なサムライは2本差し、無職無雇用の浪人は1本差し、うP主本当に日本人?
色々間違っていますヨ。
何処の世界線のお話しですか(´・ω・`)?大小の刀を帯刀していたのは、江戸時代が始まってから、しばらくしてからです。それまでは護身用の武器だとの説があります。私はその当時生きていていないので、あくまでも現代科学や古文書のお話しです。刀(馬上太刀を含む)は使いづらく、サブウェポン以下の扱いです。大体からして長柄の槍や矛を扱うのであれば、大小の柄が邪魔になりすぎるのと、密集していたら味方の邪魔になります。それと、具足を着用していながら、邪魔になるような刀を腰に差して、自らの重量を増やすのはマイナスでしかありません。大小どちらの木刀でもいいので、帯刀して槍(四勺以上の棒)を扱ってみれば分かります。
前田利家(だったかな?)が合戦に臨むときの肖像画で、大刀を三振&脇差を一振差してるものがある
二本差しの他に 合戦では腰の裏側に刺身と言う小刀を帯びていた匕首の類で 長さは一尺程度今の身卸包丁の様な形状だった敵と密着して組み付かれた際体術で敵を転倒させて馬乗りなどで動きを封じておいて腰裏からサッと引き抜いて刺し貫く為の刀としてとても有効だった戦場でこの刀で切る事を比喩して 魚を切り身にすることを刺身にするとした説もある
重いし動き難いから2本ぐらいなだけだろw刀を100本なんて装備できんだろw逆で伝統技法の職人なんかは用途に応じて道具をものすごい数で揃えてるw常に持ち運びしないからねwこの答えは持ち運びするからでしょうね・・・でもまあ、現代で多量の道具を装備するのが流行っていたりもするが・・・ってコメしても勘違いされるんだろうなwニックスとか検索すると出てくるけど、そこそこ再生回数がある分野ですねひらすらに、めんどくさい
打刀が支流になったのは江戸時代からだな。戦国時代の武将が戦場でよく使ったのは槍で、槍が折れたり使えなくなった時や倒した敵の首狩り用でサブウェポンに鎧通しを着けてた。
普通の刀は馬廻衆などが持っていて自分の上司の武将がやられそうな時に刀で戦ったり渡してピンチを凌いだりくらいの使い方しかされて無い。打刀の基本は神聖な美術品だからね。
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初っぱなから首をかしげる事が多い
大小の二本差って、平服が普通になった時代からだよな?戦国時代だと武将は合戦では槍、弓、太刀、短刀もしくは鎧通しとかじゃないか?それに、江戸期の柳生厳包(連也斎)は、大刀より脇差を好んで使ってたって話。場合によっては、脇差を二本差してたかもしれんって話。注文打ちで、肥後守秦光氏(代?)の脇差(一尺四寸、片切刃鎬造)。これと対?の大小拵で柳生拵、柳生鍔の大刀(打刀)もあり(籠釣瓶)。対馬守常光の中脇差(江戸石堂派、郷写し)が有名らしい。あとは伯耆守信高(3代)。厳包は尾張藩士で柳生を形作った人物ではあるが、必ずしも大小を差していたとは限らない。
戦国時代は一番槍と称されるように、主役は槍で、槍が折れれば太刀、太刀を失えば短刀や鎧通し、短刀や鎧通しを失えば組打ち。組打ちの中で、兜を打撃武器とする事もあった。個人が扱う物の基本はこれら。鉄砲はこれの外の話。宮本武蔵(通称)が戦に参戦した若い時代も、雑兵であったという事もあるが、二本差ではないし、二刀で有名になったのも、平服での剣術が基本だったと思う。介者剣法(術)を基本とした剣術を作ったとは思えない。
自分が武術、武道を嗜む中で知った内容では、二本差になったのは平服の時代(江戸時代)以降の話で、大小(刀、脇差)を差し始めたのは戦国時代までは稀で、差すとしても、研ぎ減りした太刀と短刀で、基本的に公家等と同じように、平服(狩衣、直垂など)に太刀を佩刀していたと思う。士族でも侍ではない身分や、武蔵のような兵法家、武芸者で、当時としては比較的自由な服装や、自分の考えで太刀を佩く事、刀を帯びる事が出来る者が、江戸時代より前に二本差しをしていたかもしれない。世に言う二本差は、磨上げの太刀、定寸(二尺三寸程)の刀と、磨上げの刀や脇差(二尺以下)、若しくは脇差拵の短刀を『常に帯びる』事を言うのだと思う。自分が鍛錬した中での知識では、武家社会になり、甲冑を着る事が少なくなった、『泰平の世』の平服の社会での話と思う。それに、見栄や身分を意識して『二本差』になったのは、正に江戸時代からだと思う。
切り捨て御免って 大人しく斬られる人なんて居ないから相手は逃げる
逃げられたら武士は切腹しないといけないから殆ど居なかったって言うよね
2本差しはだいたい江戸時代から、勤めの武士の制服みたいなモン。鎧どおしと小刀は別だぞ。江戸以前は刀1本だし、合戦道具はだいたい槍だぞ。
新陰流の小転(こまろばし)は脇差の技。新陰流五世の連也斎は各地の刀工に多くの脇差を打たせ、それらの斬れ味を屍で試したうえで試し銘を残したことで知られる。
鬼平犯科帳で平蔵が「居合いか、なら俺の勝ちだ!!」と言って脇差しを相手に投げつけて、打刀で切るという使い方をしてて、当時感心した。
@@霧雨ヒトリ 居合や抜刀術の真価は抜きつけるときにあるので先に抜かせてしまえばよいというのは一理あるのだけど、抜かせてしまえばイージーゲームというのは間違っているw
手裏剣術では常識なのだけど3間以内では物を投げたりする暇に斬り込まれるんだよね。
柳生宗矩の件で出た宗矩の肖像画はポルトガル人が描いた信長の肖像じゃね?😅
お城勤めの正式なサムライは2本差し、無職無雇用の浪人は1本差し、うP主本当に
日本人?
色々間違っていますヨ。
何処の世界線のお話しですか(´・ω・`)?
大小の刀を帯刀していたのは、江戸時代が始まってから、しばらくしてからです。
それまでは護身用の武器だとの説があります。
私はその当時生きていていないので、あくまでも現代科学や古文書のお話しです。
刀(馬上太刀を含む)は使いづらく、サブウェポン以下の扱いです。
大体からして長柄の槍や矛を扱うのであれば、大小の柄が邪魔になりすぎるのと、密集していたら味方の邪魔になります。
それと、具足を着用していながら、邪魔になるような刀を腰に差して、自らの重量を増やすのはマイナスでしかありません。
大小どちらの木刀でもいいので、帯刀して槍(四勺以上の棒)を扱ってみれば分かります。
前田利家(だったかな?)が合戦に臨むときの肖像画で、大刀を三振&脇差を一振差してるものがある
二本差しの他に 合戦では
腰の裏側に刺身と言う小刀を帯びていた
匕首の類で 長さは一尺程度
今の身卸包丁の様な形状だった
敵と密着して組み付かれた際
体術で敵を転倒させて馬乗りなどで動きを封じておいて
腰裏からサッと引き抜いて
刺し貫く為の刀としてとても有効だった
戦場でこの刀で切る事を比喩して 魚を切り身にすることを
刺身にするとした説もある
重いし動き難いから2本ぐらいなだけだろw刀を100本なんて装備できんだろw逆で伝統技法の職人なんかは用途に応じて道具をものすごい数で揃えてるw常に持ち運びしないからねw
この答えは持ち運びするからでしょうね・・・でもまあ、現代で多量の道具を装備するのが流行っていたりもするが・・・ってコメしても勘違いされるんだろうなwニックスとか検索すると出てくるけど、そこそこ再生回数がある分野ですね
ひらすらに、めんどくさい