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「弱い方の"おだ"」こと小田氏治さんほんと好き。いつか大河ドラマ化してほしいですね。
小田氏治さんが没落しなかった、家臣達に見捨てられなかった理由...きっとめちゃくちゃいい人か、おっちょこちょいで可愛い!放っておけない!みたいな愛されキャラだったのかな...いや、愛されてて欲しい。なんかもう、赤ちゃんのお世話してるのでは?みたいな感じのノリであって欲しい(願望)
平塚の戦いでは結城の主力相手に大勝して関東諸大名に小田の武名を知らしめたり、佐竹氏から入嗣されていた佐竹義昭の弟追放するなど強かな大掾氏相手には三村城攻めで1千の兵で落として当主の大掾清幹次男の常春討ち取ってるし、本拠取られたら取り返せてる時点で戦自体は結構強いのよね 負けも多いし勝ちも多い小田も結構版図は大身で近隣の小勢力から非常に畏れられてたから、小田と事を構える時は結城・佐竹・上杉・宇都宮等の大物の支援を得てから戦うおっちょこちょいで可愛いというよりむしろやる気が空回りしてるけど熱意凄い親分気質のタイプですかね
確か、騎馬兵に関しては「ほぼ」間違いなく実在していたと思われる……みたいな研究がありました。合戦用にちゃんと訓練を受けた馬のスタミナって、まさに尋常じゃないんだそうです。
現代にも残る戦国期の馬に近いのは木曽馬ですね。木曽馬で樹海を走る動画がYou Tubeにありますが駈歩(かけあし)でもかなりの疾走感があります。在来馬は日本の気候風土に合う改良がされているので見た目以上に力強い動きと走りをします。下の動画では山の林道のような細い道を木曽馬で疾走していますが、戦国期の日本ではあちこちでこのような光景があったのだと思います。ruclips.net/video/CVQemIzZIpE/видео.html馬上武芸検証「武と馬」1、太刀、打刀の早駈け・紅葉台木曽馬牧場
かつてユーラシア大陸を疾走したモンゴル騎兵が用いたモウコノウマの馬格は日本の在来種と同等か小柄と言われているので、小さかったから甲冑武者を載せて走れなかったという説はありえないと思う。この説を提唱している研究者(笑)は馬と聞いてサラブレットを連想する方々で、馬に関しては素人同然の知識しか持ち合わせていない。サラブレットは戦地での運用を度外視したレースホースであり、非常にデリケートで怪我にも弱い。一方、アラブ馬の様なワークホースは、適度に足が速く頑丈で力があり、粗食にも轟音にもよく耐える。そもそも体格で優劣が決するのなら我々馬券師はとっくの昔に大金持ちだ(ハズレ馬券を握りしめながら)
知らなきゃよかった😂でも気になってついつい見てしまう😮
若手の研究者が目立ちたいために派手な珍説ぶち上げるのはよくあることだからなぁ桶狭間は少なくとも今川の重臣がそのタイミングで複数亡くなってるのは確かだし、岡部朝比奈あたりの動きもほぼ分かってる騎馬隊にしても全軍騎馬は無理にしても奇襲用や指揮官の視点確保用には確実に使ってただろうし
戦って日帰りだけな訳はないので、馬に物資を積んで徒歩移動して、戦場近くに泊まって馬を休ませて、次の日に騎馬隊として乗って戦ったとか、普通にありそうですが。
「本当は〜はなかった(いなかった)」は新説の定番だよね。
何故か濃姫を好きなので、長生きしててほしい…
後北条氏の場合ではあるけれど軍役状から軍勢の2~3割が騎馬なのは分かっているし日本馬のような頑丈な馬なら何の問題もなく運用できる17世紀の三十年戦争では日本馬より更に一回り小さい馬に乗ったスウェーデン軍騎兵が戦場を蹂躙したように見かけの体格だけでどうこうと言うのは根本的に間違っているのでは
桶狭間で今川の記述が残っていないのはまったく不思議な話ではなく、そもそも世界史を見ても負け戦は記録にできるだけ残さないのが普通です。(スパルタやアテネが勝利したペルシャ戦争がペルシャ側にはまったく記録がない)実質、敗北であるにもかかわらず、勝利したかのように記述することもままあります。まあ自分たちに都合の悪いことを残さないのは当たり前といえば当たり前ですね。
戦国最弱とまで言われた小田氏治は一説にはかなりお人好しで人の心配ばかりして逃げ遅れたり、些細なことで自分の城を捨てちゃったりして、本当に「普通」の人だった故に家来も氏治を放っておけなかったとか(`A`)
あれだけ有名な桶狭間の戦いが実際は無かった可能性もあるとは驚きです。
何か、物凄く驚愕しますね。ずっと事実だとばかり...。
当時の馬の中で殿様の馬とか上級武士の所有馬以外は、平時では農耕で利用されており非常に足腰の強い筋骨隆々の馬ばかりなので、鎧武者を乗せながら走り回るくらい余裕だったと思われます。現在の馬といえばサラブレットが思い浮かびますが、背は高いが細くて貧弱なイメージに引っ張られているからこんな俗説が出てきてしまうのです。
小田氏治さんは部下や領民のために自分で熱く行動するところが慕われてたのかな戦はヘタだから部下に丸投げとか冷静に様子見しようとかやってたらすぐに消えていたのかもしれない
騎馬部隊は創作物や信長の野望を始めとした戦略シミュレーションゲーム等のようなそれこそ総数で万単位を超える精強な騎馬武者は有り得なくとも、各部隊間に総大将の命令を伝える伝令部隊や横合いから敵部隊に高速で突っ込む遊撃騎馬隊など、馬の脚の速さを生かした部隊は銃火器が完全に主力になった20世紀初頭でも洋の東西を問わず必ず存在していたので、戦国時代でもやはり騎馬部隊は有ると無いとではその大名家の強さに差があったのは間違いないと思います
騎馬隊に関しては日本の馬はモンゴル馬の近類で体格も変わらないから存在を否定する要素が無くなってなかったっけ?
昔のことすぎたり情報がなかったり信ぴょう性にかけてたり、、歴史って難しくて面白いですね江戸時代のロマン大好き派に仰々しく通説ねじ曲げられてても攻められない笑
騎馬隊があったとしても農耕馬でサラブレッドみたいなシュッとして脚の速い馬は絶対にいないw
不死鳥の小田氏治のご先祖様は鎌倉殿の13人で市原隼人が演じた八田知家
歴史物 待ってました‼️🎉歴史物になると光る霊夢ちゃんの合いの手大好きです☺️
初めてコメントするしらたまです。いつも分かりやすくて楽しい動画を投稿して下さりありがとうございます!
逆に松風並みの馬がいたかについてw
桶狭間の戦いは奇襲と言うより 今でいう特殊部隊を信長は持っていたという説が好き
実をゆうと小田氏治は戦いに勝利したことも結構あるんですよね単に周りが強かっただけで(上杉謙信、結城政勝丶などなど)
ゆうと ✕いうと ○
桶狭間の戦いは、名古屋市緑区VS豊明市と形を変えて現在も続いているのですよ。
桶狭間が架空ならば織田秀敏を始めとする武将は誰と戦って討死したのか?濃姫に関しては反旗を翻したとはいえ明智光秀も下手な事は出来なかったのだろうね。
流石に桶狭間の戦いが無かったというのは奇天烈過ぎる、暗殺だとしたら義元以外の武将が復数討ち死にすることも無いだろうし、そもそも今川軍は数万を号しても合戦時は各地に分散して、義元の下には実質五千程と見られ、対する織田勢は二千程と語られる程の戦力差は無かった模樣。
騎馬兵は存在していたけど、戦国時代には段々戦法も変わって廃れていったか、あくまで戦術の一つで全てではなかったとか?
桶狭間が無かったとしたら家康はそれについてどっかのタイミングが書くでしょ
戦国のクエスチョンってどうしても有名どころじゃないと書籍が売れないから、三英傑に対する逆説ばっかりで、九州や関東の武将は「すごい人だった!」で済まされがちなんだけど。そんななかあんまり知名度ないのに謎が出まくっちゃう氏治さん…。400年経ってもカリスマがあるってことかな。
騎馬隊を主とした戦いはなかったけど、少数精鋭の特殊部隊のような運用なら可能だったと聞いたことがある
小田信雄(のぶお)っていうネプチューンのコントドラマが昔あったけどこの人が元になってたんかw
大谷吉継好きだなぁ!某戦国ゲームでも石田三成と並んで大人気キャラだったよね出自については秀吉と血が繋がってた説なんかもあった気がする
大昔の歴史なんて概ね嘉門達夫の替え歌メドレーの『見たんか?』だからなw
最近だと『徳川家康、実は志半ばで4んでて江戸幕府を開いたのは影武者』説とかが唱えられるから本当闇が深い😥
最近?何十年も前に『影武者徳川家康』なんてマンガ化してましたが・・・
歴史は勝者が記す🧐
動画では戦国時代の人身売買について一切記録がないと解説していますが「大航海時代の日本人奴隷(ルシオ・デ・ソウザ/岡美穂子(中央公論社2021初版)」には海外から見た事情がかなり詳しく描かれています。まあ日本国内での文献が無いという事でしょうが‥‥
桶狭間の戦い、万単位の大軍を二千程度の小勢が大将首をピンポイントに討ち取ったって感じですよね。逸話には「義元は御輿に乗って貴族かぶれな派手な装いだった」とありますが、何としても大将首を取らなきゃいけない戦場では逆に目立ってしまうから、今川家の格式を示すつもりでもやるべきではない。織田側の記録しかロクに無い点から、織田領に足を入れたのは侵攻=合戦目的ではなく、あくまで今川家の格式と威光を見せるアピール興行だったんじゃないかなと。だからこそ本来なら数と質ともに(義元視点で)ひよっこだった織田軍に最大級の不覚を取ってしまったのかもしれません。そして織田側も、いい旅夢気分でまともな戦支度をしてない今川軍に一発デカいの喰らわせて「織田ナメんなよ?」と今後の対今川におけるファーストインパクトを与えるつもりが、「あのアホみたいに目立ってるの義元じゃね?アレやったらイケんじゃね?」と咄嗟に方針を変えたのかも。土壇場かつ偶然的に大逆転の目を拾えて、後に信長自身もマグレ勝ちと記録に残すほどの事態で本来なら合戦という形に当てはまらないけど、名実ともに当時トップエリートだった今川義元を討ち取ったのは事実だし、箔をつける意味で「桶狭間の戦い」という「合戦」の形に昇華したのではないか…と想像しちゃいます。
その昔の小学校では「今川義元は貴族趣味でお歯黒・白粉をして蹴鞠が趣味の腑抜け」なんていうトンデモを大真面目に教える教師がいたなぁ……
今川型今川型の資料がないと言ってるけど敗戦した時に資料を残さないのはありますよ
参考にします!
桶狭間の戦いは偶然接敵した為合戦規模にならなかったってのは聞いた事あるそもそも当時の織田家の地位的に他家の書物に記載されなかったってのは可能性としてあるかも
それはない、弾正忠織田家は庶流だが熱田を支配して相当な金持ちだし軽んじられる様な立場の家ではない織田信長は桶狭間までは大したことないと思われがちだがそれこそ創作に近いそれでも桶狭間で今川義元を討って勝利したのは大金星なのは間違い無いが
織田信長が鉄砲三千丁を用いて戦ったと言われている長篠の戦いでも本当は千丁しか所持していなかったという記録が明るみになっている、、、これだと史実とは全く異なる事になるこれも疑わしいね、、、。ಠ_ಠ
小田さんは負け戦が派手なだけで、勝ち戦もちゃんとある本人の頑固さがなければな
濃姫というとヤンマガで連載中の信長が死に戻りによるタイムリープしまくってる「何度、時をくりかえしても本能寺が燃えるんじゃが!?」では相当重要なキーパーソンになってたな。
氏治が復活してくる理由は謎すぎる・・・家臣が有能だったとしても、その家臣が忠誠を誓い続ける理由が今度は謎というのは、確かに・・・領民たちの支持率も謎。このひとが現代の政治家/総理だったら・・・?
義元の海道一の弓取りは過剰評価というか、雪斎とかいう万能の外付け回路込みでの評価で、雪斎の死去後である桶狭間時点でその評価に値する能力は無いと思う
そう言えば、『解明されてない』回は今回で4連続目だな。如何にこのシリーズがこのチャンネルにおいて人気が高いかが伺える。個人的に未だに謎の事柄が知りたければ真っ先にここを当たってほしいって自信を持って言えるな。
人身売買をよくやってたのはあの超有名武将なんです。義将とも言われる越後のと.…
この話題をあげると、「他の大名もやっていたぞ!」って話題のすり替えが発生するぞw確かにこの時代にはよく有ることらしいが、直江津から大陸・半島に売っぱらって財を成していたのが生理的に受けつけんわ
話題のすり替えではなく、単なる事実だからなぁ。そのライバルとされる甲斐の方でも明確に売り飛ばした記録が残ってるし。
戦国時代の謎はまだまだあるので、いつか第二弾が見たいです。自分はまぁないとは思いますが、謙信女性説が気になり過ぎます
真実は歴史資料よりも奇なり、ですね😅
小田氏治というのは、戦国の劉備玄徳ですね。
どちらかいとえば劉邦のイメージ
13:57織田信雄(おだ・のぶかつ)13:59と14:14 安土殿(あずちどの)です。
小田氏治の話を聞く度に某吸血鬼漫画の無能だが臆病では無い漢の中の漢を思い出すのはきっと私だけじゃないはず
ふふふ、私、最弱って好きなんですよねぇ。
過去の歴史って正解は絶対に導けないんだよなぁ(¯∇¯٥)書物が残ってるにしても1から10まで全て真実とは限らんしσ( ̄▽ ̄;)だがそれがいい‼️(σ≧∀≦)σ
現代で言うなら大河ドラマの内容を真実としたようなもの。三国志演義や仮名手本忠臣蔵の内容があたかも真実のようになって居る。
小田氏治はハルウララ感があったんかな?w
騎馬隊はゲームなどで見られる騎乗しての集団戦法ではなく、指揮する将のみが騎乗して徒歩武者や近習へ命令してたんじゃないかな。武田軍や上杉軍はその割合が多かったってだけで。桶狭間は奇襲戦でなくて信長の情報戦略によって勝つべくして勝った戦であって乾坤一擲みたいな状況ではなかったと何かで知った。しかも今川軍の大軍VS織田軍の寡兵ではなくて、実際の戦闘ではほぼ互角か織田軍の方が多かったって。ちなみに三方ヶ原の三弾撃ちも無かったって言う説もあるし、騎馬突撃も連日の雨による畑の泥濘や霧で不可能だったとも。最後に個人的には竹中半兵衛の方が気になる。稲葉山城乗っ取りから秀吉に三顧の礼で…で俗説あるけど、果たしてそんなに優秀なのか?と疑問が残る。一応仕官後も秀吉に色々献策したって伝わっているけど、今孔明との異名が付くなら相応の記録があって然るべきでは?まあ、心象としては「そうであってほしい」と思っているけど。
三段撃ちは長篠では?三方ヶ原は家康がボコられた戦いだったはずw間違ってたらすみませんm(_ _)m
@@syouki6659 あ、長篠でしたね。間違ってました…スンマセン
騎馬隊だけはあってほしい
そもそも、日本の歴史そのものが謎に包まれた代物と言って良いもんだろうな。
小田氏治リアル、イオク・クジャンやん
戦国時代はの❗️わかっとることはわかっとるけど、わかっとらんことは、わかっとらんからの😂
今川義元が、何らかの方法で物故○したことは確か何だよな
素材といいBGMといい余裕で著作権違反は無知すぎるのかそういう性根なのか
馬も小さいけど人も小さかったんじゃないの?
あづちでん? 安土殿(あづちどの)と言っていただきたい。
ゆっくり(棒読み)を使うと見落としでよくそうなるけどこだわってほしいところなの分かる
今より遥かにマッチョな馬で現地まで爆速で兵を運び、荷物運びを兼ねたりしない隊長クラスの馬は一緒に先頭切って乗り込む…騎馬隊は謎でもなんでもなくない?
大坂城落城の際には多くの女中が人買いにさらわれて南国へ売られた、と聞いたことがあります。
「のぶながこうき」の読みは違和感があるなぁ。「しんちょうこうき」が一般的では?
まぁAIですから。設定がかなり面倒くさいらしいですよね。
小田さんもしかしてウソップ的な要素あったんかな
ウソップってよりかわ劉邦タイプかも
毛利元就の尼子月山城攻めとか兵農分離が進んでいない時期の攻城戦で年単位の長期包囲実行した史実がたまにあるが、その場合の兵士動員とかどうしていたんだろうか、一年も農民駆り出していたら集落崩壊して米も取れなくなりそうだが🤔
普通に女子供がやる
馬のサイズとかマチマチだしスタミナなんか調教次第でどうにでもなるし、デカいからスタミナあったなんてのも短絡的な考えすぎるぞ
血が耐えなきゃ勝ちだわな
他には車懸りの陣等の陣型についても疑問視されているね。そもそも現代と比べて連絡手段が少ない当時で整った隊列が組めたのか怪しいらしい。軍記物等で誇張されているのではという説もあるみたい。
車懸りは、陣形ではなく戦術の呼称、というのが最近の歴史家の共通見解ですね。
馬に関してはサラブレットを想像してはいけない。戦国時代の馬は小ぶりだ。これは発掘で証明されている。「鬼葦毛、小鹿毛、大葦毛、遠江鹿毛、小雲雀、河原毛、大黒、白石鹿毛」などいろいろ名前もあるが今で言うと「ポニー」なのだ。体高約120~140㎝程度の小柄な種で人間より小さい。しかし馬力はある。日本の草競馬が北海道にある。ポニーが引くのは最大100kg苛酷に見えるために日本ではあまり紹介されていない。そもそも馬に関してはJRA競走馬研究所に問い合わせればいくらでも情報はてにはいる。何故この機関を利用しない?謎と言う前に。
桶狭間ってそもそも何処よ?ってレベルだった気がする
桶狭間はまぐれだったってそういう
Goodボタン1000回押したい
名前の読みもちゃんと分かってない人ばっかりですもんね。信長は本当に「のぶなが」と読むのか?とか。分かっているのは、手紙に読みのふりがなが書いてあった最上義光くらいなのかな?
個人的にあり得ないかもだけど桶狭間以降の織田信長が今川義元じゃないかなって思う
小田氏治rustの加藤純一みたいで草
★武将かっこいい❤️❤️(///∇///)(*´∀`*)ポッ😳💦
いつも見てますいいねください!
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「弱い方の"おだ"」こと小田氏治さんほんと好き。
いつか大河ドラマ化してほしいですね。
小田氏治さんが没落しなかった、家臣達に見捨てられなかった理由...
きっとめちゃくちゃいい人か、おっちょこちょいで可愛い!放っておけない!みたいな愛されキャラだったのかな...
いや、愛されてて欲しい。なんかもう、赤ちゃんのお世話してるのでは?みたいな感じのノリであって欲しい(願望)
平塚の戦いでは結城の主力相手に大勝して関東諸大名に小田の武名を知らしめたり、佐竹氏から入嗣されていた佐竹義昭の弟追放するなど強かな大掾氏相手には三村城攻めで1千の兵で落として当主の大掾清幹次男の常春討ち取ってるし、本拠取られたら取り返せてる時点で戦自体は結構強いのよね 負けも多いし勝ちも多い
小田も結構版図は大身で近隣の小勢力から非常に畏れられてたから、小田と事を構える時は結城・佐竹・上杉・宇都宮等の大物の支援を得てから戦う
おっちょこちょいで可愛いというよりむしろやる気が空回りしてるけど熱意凄い親分気質のタイプですかね
確か、騎馬兵に関しては「ほぼ」間違いなく実在していたと思われる……みたいな研究がありました。
合戦用にちゃんと訓練を受けた馬のスタミナって、まさに尋常じゃないんだそうです。
現代にも残る戦国期の馬に近いのは木曽馬ですね。
木曽馬で樹海を走る動画がYou Tubeにありますが駈歩(かけあし)でもかなりの疾走感があります。
在来馬は日本の気候風土に合う改良がされているので見た目以上に力強い動きと走りをします。
下の動画では山の林道のような細い道を木曽馬で疾走していますが、戦国期の日本ではあちこちで
このような光景があったのだと思います。
ruclips.net/video/CVQemIzZIpE/видео.html
馬上武芸検証「武と馬」1、太刀、打刀の早駈け・紅葉台木曽馬牧場
かつてユーラシア大陸を疾走したモンゴル騎兵が用いたモウコノウマの馬格は日本の在来種と同等か小柄と言われているので、小さかったから甲冑武者を載せて走れなかったという説はありえないと思う。
この説を提唱している研究者(笑)は馬と聞いてサラブレットを連想する方々で、馬に関しては素人同然の知識しか持ち合わせていない。
サラブレットは戦地での運用を度外視したレースホースであり、非常にデリケートで怪我にも弱い。
一方、アラブ馬の様なワークホースは、適度に足が速く頑丈で力があり、粗食にも轟音にもよく耐える。
そもそも体格で優劣が決するのなら我々馬券師はとっくの昔に大金持ちだ(ハズレ馬券を握りしめながら)
知らなきゃよかった😂でも気になってついつい見てしまう😮
若手の研究者が目立ちたいために派手な珍説ぶち上げるのはよくあることだからなぁ
桶狭間は少なくとも今川の重臣がそのタイミングで複数亡くなってるのは確かだし、岡部朝比奈あたりの動きもほぼ分かってる
騎馬隊にしても全軍騎馬は無理にしても奇襲用や指揮官の視点確保用には確実に使ってただろうし
戦って日帰りだけな訳はないので、馬に物資を積んで徒歩移動して、戦場近くに泊まって馬を休ませて、次の日に騎馬隊として乗って戦ったとか、普通にありそうですが。
「本当は〜はなかった(いなかった)」は新説の定番だよね。
何故か濃姫を好きなので、長生きしててほしい…
後北条氏の場合ではあるけれど軍役状から軍勢の2~3割が騎馬なのは分かっているし
日本馬のような頑丈な馬なら何の問題もなく運用できる
17世紀の三十年戦争では日本馬より更に一回り小さい馬に乗ったスウェーデン軍騎兵が戦場を蹂躙したように
見かけの体格だけでどうこうと言うのは根本的に間違っているのでは
桶狭間で今川の記述が残っていないのはまったく不思議な話ではなく、
そもそも世界史を見ても負け戦は記録にできるだけ残さないのが普通です。
(スパルタやアテネが勝利したペルシャ戦争がペルシャ側にはまったく記録がない)
実質、敗北であるにもかかわらず、勝利したかのように記述することもままあります。
まあ自分たちに都合の悪いことを残さないのは当たり前といえば当たり前ですね。
戦国最弱とまで言われた小田氏治は一説にはかなりお人好しで人の心配ばかりして逃げ遅れたり、
些細なことで自分の城を捨てちゃったりして、本当に「普通」の人だった故に家来も氏治を放っておけなかったとか(`A`)
あれだけ有名な桶狭間の戦いが実際は無かった可能性もあるとは驚きです。
何か、物凄く驚愕しますね。ずっと事実だとばかり...。
当時の馬の中で殿様の馬とか上級武士の所有馬以外は、平時では農耕で利用されており非常に足腰の強い筋骨隆々の馬ばかりなので、鎧武者を乗せながら走り回るくらい余裕だったと思われます。現在の馬といえばサラブレットが思い浮かびますが、背は高いが細くて貧弱なイメージに引っ張られているからこんな俗説が出てきてしまうのです。
小田氏治さんは部下や領民のために自分で熱く行動するところが慕われてたのかな
戦はヘタだから部下に丸投げとか冷静に様子見しようとかやってたらすぐに消えていたのかもしれない
騎馬部隊は創作物や信長の野望を始めとした戦略シミュレーションゲーム等のようなそれこそ総数で万単位を超える精強な騎馬武者は有り得なくとも、各部隊間に総大将の命令を伝える伝令部隊や横合いから敵部隊に高速で突っ込む遊撃騎馬隊など、馬の脚の速さを生かした部隊は銃火器が完全に主力になった20世紀初頭でも洋の東西を問わず必ず存在していたので、戦国時代でもやはり騎馬部隊は有ると無いとではその大名家の強さに差があったのは間違いないと思います
騎馬隊に関しては日本の馬はモンゴル馬の近類で体格も変わらないから存在を否定する要素が無くなってなかったっけ?
昔のことすぎたり情報がなかったり信ぴょう性にかけてたり、、歴史って難しくて面白いですね
江戸時代のロマン大好き派に仰々しく通説ねじ曲げられてても攻められない笑
騎馬隊があったとしても農耕馬で
サラブレッドみたいなシュッとして脚の速い馬は絶対にいないw
不死鳥の小田氏治のご先祖様は鎌倉殿の13人で市原隼人が演じた八田知家
歴史物 待ってました‼️🎉
歴史物になると光る霊夢ちゃんの合いの手大好きです☺️
初めてコメントするしらたまです。
いつも分かりやすくて楽しい動画を投稿して下さりありがとうございます!
逆に松風並みの馬がいたかについてw
桶狭間の戦いは奇襲と言うより 今でいう特殊部隊を信長は持っていたという説が好き
実をゆうと小田氏治は戦いに勝利したことも結構あるんですよね単に周りが強かっただけで(上杉謙信、結城政勝丶などなど)
ゆうと ✕
いうと ○
桶狭間の戦いは、名古屋市緑区VS豊明市と形を変えて現在も続いているのですよ。
桶狭間が架空ならば織田秀敏を始めとする武将は誰と戦って討死したのか?
濃姫に関しては反旗を翻したとはいえ明智光秀も下手な事は出来なかったのだろうね。
流石に桶狭間の戦いが無かったというのは奇天烈過ぎる、暗殺だとしたら義元以外の武将が復数討ち死にすることも無いだろうし、そもそも今川軍は数万を号しても合戦時は各地に分散して、義元の下には実質五千程と見られ、対する織田勢は二千程と語られる程の戦力差は無かった模樣。
騎馬兵は存在していたけど、戦国時代には段々戦法も変わって廃れていったか、あくまで戦術の一つで全てではなかったとか?
桶狭間が無かったとしたら家康はそれについてどっかのタイミングが書くでしょ
戦国のクエスチョンってどうしても有名どころじゃないと書籍が売れないから、三英傑に対する逆説ばっかりで、九州や関東の武将は「すごい人だった!」で済まされがちなんだけど。そんななかあんまり知名度ないのに謎が出まくっちゃう氏治さん…。400年経ってもカリスマがあるってことかな。
騎馬隊を主とした戦いはなかったけど、少数精鋭の特殊部隊のような運用なら可能だったと聞いたことがある
小田信雄(のぶお)っていうネプチューンのコントドラマが昔あったけどこの人が元になってたんかw
大谷吉継好きだなぁ!
某戦国ゲームでも石田三成と並んで大人気キャラだったよね
出自については秀吉と血が繋がってた説なんかもあった気がする
大昔の歴史なんて概ね嘉門達夫の替え歌メドレーの『見たんか?』
だからなw
最近だと『徳川家康、実は志半ばで4んでて江戸幕府を開いたのは影武者』説とかが唱えられるから本当闇が深い😥
最近?何十年も前に『影武者徳川家康』なんてマンガ化してましたが・・・
歴史は勝者が記す🧐
動画では戦国時代の人身売買について一切記録がないと解説していますが「大航海時代の日本人奴隷(ルシオ・デ・ソウザ/岡美穂子(中央公論社2021初版)」には海外から見た事情がかなり詳しく描かれています。まあ日本国内での文献が無いという事でしょうが‥‥
桶狭間の戦い、万単位の大軍を二千程度の小勢が大将首をピンポイントに討ち取ったって感じですよね。
逸話には「義元は御輿に乗って貴族かぶれな派手な装いだった」とありますが、何としても大将首を取らなきゃいけない戦場では逆に目立ってしまうから、今川家の格式を示すつもりでもやるべきではない。
織田側の記録しかロクに無い点から、織田領に足を入れたのは侵攻=合戦目的ではなく、あくまで今川家の格式と威光を見せるアピール興行だったんじゃないかなと。
だからこそ本来なら数と質ともに(義元視点で)ひよっこだった織田軍に最大級の不覚を取ってしまったのかもしれません。
そして織田側も、いい旅夢気分でまともな戦支度をしてない今川軍に一発デカいの喰らわせて「織田ナメんなよ?」と今後の対今川におけるファーストインパクトを与えるつもりが、「あのアホみたいに目立ってるの義元じゃね?アレやったらイケんじゃね?」と咄嗟に方針を変えたのかも。
土壇場かつ偶然的に大逆転の目を拾えて、後に信長自身もマグレ勝ちと記録に残すほどの事態で本来なら合戦という形に当てはまらないけど、名実ともに当時トップエリートだった今川義元を討ち取ったのは事実だし、箔をつける意味で「桶狭間の戦い」という「合戦」の形に昇華したのではないか…と想像しちゃいます。
その昔の小学校では「今川義元は貴族趣味でお歯黒・白粉をして蹴鞠が趣味の腑抜け」なんていうトンデモを大真面目に教える教師がいたなぁ……
今川型今川型の資料がないと言ってるけど敗戦した時に資料を残さないのはありますよ
参考にします!
桶狭間の戦いは偶然接敵した為合戦規模にならなかったってのは聞いた事ある
そもそも当時の織田家の地位的に他家の書物に記載されなかったってのは可能性としてあるかも
それはない、弾正忠織田家は庶流だが熱田を支配して相当な金持ちだし軽んじられる様な立場の家ではない
織田信長は桶狭間までは大したことないと思われがちだがそれこそ創作に近い
それでも桶狭間で今川義元を討って勝利したのは大金星なのは間違い無いが
織田信長が鉄砲三千丁を用いて戦ったと言われている長篠の戦いでも本当は千丁しか所持していなかったという記録が明るみになっている、、、これだと史実とは全く異なる事になるこれも疑わしいね、、、。ಠ_ಠ
小田さんは負け戦が派手なだけで、勝ち戦もちゃんとある本人の頑固さがなければな
濃姫というとヤンマガで連載中の
信長が死に戻りによるタイムリープしまくってる
「何度、時をくりかえしても本能寺が燃えるんじゃが!?」
では相当重要なキーパーソンになってたな。
氏治が復活してくる理由は謎すぎる・・・家臣が有能だったとしても、その家臣が忠誠を誓い続ける理由が今度は謎というのは、確かに・・・領民たちの支持率も謎。このひとが現代の政治家/総理だったら・・・?
義元の海道一の弓取りは過剰評価というか、雪斎とかいう万能の外付け回路込みでの評価で、雪斎の死去後である桶狭間時点でその評価に値する能力は無いと思う
そう言えば、『解明されてない』回は今回で4連続目だな。如何にこのシリーズがこのチャンネルにおいて人気が高いかが伺える。
個人的に未だに謎の事柄が知りたければ真っ先にここを当たってほしいって自信を持って言えるな。
人身売買をよくやってたのはあの超有名武将なんです。義将とも言われる越後のと.…
この話題をあげると、「他の大名もやっていたぞ!」って話題のすり替えが発生するぞw
確かにこの時代にはよく有ることらしいが、直江津から大陸・半島に売っぱらって財を成していたのが生理的に受けつけんわ
話題のすり替えではなく、単なる事実だからなぁ。
そのライバルとされる甲斐の方でも明確に売り飛ばした記録が残ってるし。
戦国時代の謎はまだまだあるので、いつか第二弾が見たいです。自分はまぁないとは思いますが、謙信女性説が気になり過ぎます
真実は歴史資料よりも奇なり、ですね😅
小田氏治というのは、戦国の劉備玄徳ですね。
どちらかいとえば劉邦のイメージ
13:57
織田信雄(おだ・のぶかつ)
13:59と14:14
安土殿(あずちどの)
です。
小田氏治の話を聞く度に某吸血鬼漫画の無能だが臆病では無い漢の中の漢を思い出すのはきっと私だけじゃないはず
ふふふ、私、最弱って好きなんですよねぇ。
過去の歴史って正解は絶対に導けないんだよなぁ(¯∇¯٥)
書物が残ってるにしても1から10まで全て真実とは限らんし
σ( ̄▽ ̄;)
だがそれがいい‼️(σ≧∀≦)σ
現代で言うなら大河ドラマの内容を真実としたようなもの。三国志演義や仮名手本忠臣蔵の内容があたかも真実のようになって居る。
小田氏治はハルウララ感があったんかな?w
騎馬隊はゲームなどで見られる騎乗しての集団戦法ではなく、指揮する将のみが騎乗して徒歩武者や近習へ命令してたんじゃないかな。武田軍や上杉軍はその割合が多かったってだけで。
桶狭間は奇襲戦でなくて信長の情報戦略によって勝つべくして勝った戦であって乾坤一擲みたいな状況ではなかったと何かで知った。しかも今川軍の大軍VS織田軍の寡兵ではなくて、実際の戦闘ではほぼ互角か織田軍の方が多かったって。
ちなみに三方ヶ原の三弾撃ちも無かったって言う説もあるし、騎馬突撃も連日の雨による畑の泥濘や霧で不可能だったとも。
最後に個人的には竹中半兵衛の方が気になる。稲葉山城乗っ取りから秀吉に三顧の礼で…で俗説あるけど、果たしてそんなに優秀なのか?と疑問が残る。一応仕官後も秀吉に色々献策したって伝わっているけど、今孔明との異名が付くなら相応の記録があって然るべきでは?まあ、心象としては「そうであってほしい」と思っているけど。
三段撃ちは長篠では?
三方ヶ原は家康がボコられた戦いだったはずw
間違ってたらすみませんm(_ _)m
@@syouki6659 あ、長篠でしたね。間違ってました…スンマセン
騎馬隊だけはあってほしい
そもそも、日本の歴史そのものが謎に包まれた代物と言って良いもんだろうな。
小田氏治
リアル、イオク・クジャン
やん
戦国時代はの❗️わかっとることはわかっとるけど、わかっとらんことは、わかっとらんからの😂
今川義元が、何らかの方法で物故○したことは確か何だよな
素材といいBGMといい余裕で著作権違反は無知すぎるのかそういう性根なのか
馬も小さいけど人も小さかったんじゃないの?
あづちでん? 安土殿(あづちどの)と言っていただきたい。
ゆっくり(棒読み)を使うと見落としでよくそうなるけど
こだわってほしいところなの分かる
今より遥かにマッチョな馬で現地まで爆速で兵を運び、
荷物運びを兼ねたりしない隊長クラスの馬は一緒に先頭切って乗り込む…騎馬隊は謎でもなんでもなくない?
大坂城落城の際には多くの女中が人買いにさらわれて
南国へ売られた、と聞いたことがあります。
「のぶながこうき」の読みは違和感があるなぁ。「しんちょうこうき」が一般的では?
まぁAIですから。
設定がかなり面倒くさいらしいですよね。
小田さんもしかしてウソップ的な要素あったんかな
ウソップってよりかわ劉邦タイプかも
毛利元就の尼子月山城攻めとか兵農分離が進んでいない時期の攻城戦で年単位の長期包囲実行した史実がたまにあるが、その場合の兵士動員とかどうしていたんだろうか、一年も農民駆り出していたら集落崩壊して米も取れなくなりそうだが🤔
普通に女子供がやる
馬のサイズとかマチマチだしスタミナなんか調教次第でどうにでもなるし、デカいからスタミナあったなんてのも短絡的な考えすぎるぞ
血が耐えなきゃ勝ちだわな
他には車懸りの陣等の陣型についても疑問視されているね。そもそも現代と比べて連絡手段が少ない当時で整った隊列が組めたのか怪しいらしい。軍記物等で誇張されているのではという説もあるみたい。
車懸りは、陣形ではなく戦術の呼称、というのが最近の歴史家の共通見解ですね。
馬に関してはサラブレットを想像してはいけない。戦国時代の馬は小ぶりだ。これは発掘で証明されている。「鬼葦毛、小鹿毛、大葦毛、遠江鹿毛、小雲雀、河原毛、大黒、白石鹿毛」などいろいろ名前もあるが今で言うと「ポニー」なのだ。体高約120~140㎝程度の小柄な種で人間より小さい。しかし馬力はある。日本の草競馬が北海道にある。ポニーが引くのは最大100kg苛酷に見えるために日本ではあまり紹介されていない。そもそも馬に関してはJRA競走馬研究所に問い合わせればいくらでも情報はてにはいる。何故この機関を利用しない?謎と言う前に。
桶狭間ってそもそも何処よ?ってレベルだった気がする
桶狭間はまぐれだったってそういう
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名前の読みもちゃんと分かってない人ばっかりですもんね。
信長は本当に「のぶなが」と読むのか?とか。
分かっているのは、手紙に読みのふりがなが書いてあった最上義光くらいなのかな?
個人的にあり得ないかもだけど桶狭間以降の織田信長が今川義元じゃないかなって思う
小田氏治rustの加藤純一みたいで草
★武将かっこいい❤️❤️
(///∇///)(*´∀`*)ポッ😳💦
いつも見てますいいねください!
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