【ゆっくり解説】毛利輝元~悩める後継者編その2ー信長との断交(前)毛利包囲網を打破するために織田と同盟するも…

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  • Опубликовано: 28 дек 2024

Комментарии • 65

  • @matukawatositane
    @matukawatositane 6 месяцев назад +21

    信長さん他人の事情とかポイしゃちゃう外交するから毛利もそれよね

    • @水野誠一-b9l
      @水野誠一-b9l 6 месяцев назад +7

      武田信玄上杉謙信「まったくだ」

    • @ゆっくり真実の戦国史
      @ゆっくり真実の戦国史  6 месяцев назад +1

      コメントありがとうございます!そのあたりは次回で触れる予定です😄

    • @kenta-z3e
      @kenta-z3e 6 месяцев назад +3

      逆に人さまの事情とかよくよく考えて(ポイ捨てしないとか)た戦国武将いたんかな?
      多分いないと思うけど……。

    • @matukawatositane
      @matukawatositane 6 месяцев назад +6

      @@kenta-z3e 信長はなんというか松永の上に筒井置いたり、浅井を京極の家臣みたいな扱いにしちゃうタイプなので…
      信玄と手切になったのも家康が反武田包囲網を敷いてきてるのを何とかならない?って打診しても梨の礫だったからやし…

    • @水野誠一-b9l
      @水野誠一-b9l 6 месяцев назад +5

      @@matukawatositane 自分勝手な武将はあまたいるけど、「麒麟がくる」での描き方がわかりやすいけど信長ってなんか空気の読めなさが際立つんですよね。

  • @kurbel-w2r
    @kurbel-w2r 6 месяцев назад +4

    まぁ実際
    元就の戦歴というか戦に至るまでの道程を見ても積極的に戦を起こすというよりは周りの状況にさらされてお家滅亡を避けるためや主家の方針で仕方なく参加してたって感じだしなぁ。

  • @金ぴか70
    @金ぴか70 6 месяцев назад +3

    きゃー、待ってました😊動画ありがとうございます。

    • @ゆっくり真実の戦国史
      @ゆっくり真実の戦国史  6 месяцев назад

      コメントありがとうございます!楽しんでいただけましたのならありがたいです😄

  • @kenta-z3e
    @kenta-z3e 6 месяцев назад +5

    宇喜多直家(8:25)ってコロコロ主公を代えまくった挙げ句最後には秀吉傘下という形で信長配下になるんだよね……。
    節操ない!って思われがちだけどコロコロ主公代えないと生き残れない戦国のならいなんだし、代えざるを得ない理由もしょうがないけど……。
    そんで直家正室の福(春日局じゃない方)は直家没後に秀吉の愛妾になるんだよね……。

    • @ゆっくり真実の戦国史
      @ゆっくり真実の戦国史  6 месяцев назад +1

      コメントありがとうございます!戦国の国衆の行動としては当然って言えば当然なんですよね😅

  • @hidetootaki4809
    @hidetootaki4809 6 месяцев назад +1

    毛利輝元をもっと深く知りたいと思ってたので取り上げて頂いて嬉しいです!今回の動画を見たら輝元の次は元就をも手玉に取った大友宗麟を取り上げてもらいたくなりました(笑)

    • @ゆっくり真実の戦国史
      @ゆっくり真実の戦国史  6 месяцев назад

      コメントありがとうございます!大友宗麟は再評価してみたい人物の一人ですね😄😄

  • @ごんぎつね-s6b
    @ごんぎつね-s6b 6 месяцев назад +7

    ノッブ、天才ゆえの無駄を除く考えと人見知りゆえの親しい人に馴れ馴れしくなる体質が合わさってやらかしが増えるんだよなぁ

  • @フォード-i1w
    @フォード-i1w 6 месяцев назад +8

    急拡大で大大名になるってのは「こういうこと」よね…。警戒され包囲網の形成、領土がデカいけどその広い領地、身内だけで経営できる?(在地国衆らに預託しないといけない?)、大勢力同士の国境策定で境の国衆らの感情制御できる?etc...  尼子は八か国の守護とはいうものの周り全部敵になって段々版図小さくなる憂き目に遭い、武田も木曾らの機嫌損ねて…
    何気に浦上宗景の行動、宇喜多以上に梟雄なんだよなぁ→義昭・織田政権に喧嘩売り赤松政秀滅ぼし、三好三人衆と同盟し別所と毛利を攻撃→不利と見るや義昭の仲介で毛利と和睦

    • @matukawatositane
      @matukawatositane 6 месяцев назад +3

      浦上宗景は周辺勢力から宇喜多以上に危険視されてそうですよね

    • @ゆっくり真実の戦国史
      @ゆっくり真実の戦国史  6 месяцев назад

      コメントありがとうございます!小早川隆景にも不信感を爆発させた浦上君ですしね😓

  • @沙流汰彦
    @沙流汰彦 6 месяцев назад

    複雑な政治が行われていたのか知らんかったし面白い

    • @ゆっくり真実の戦国史
      @ゆっくり真実の戦国史  6 месяцев назад

      コメントありがとうございます!楽しんでいただけたのでしたら嬉しいです😄

  • @吉見正頼
    @吉見正頼 6 месяцев назад +1

    投稿お疲れ様です。今回も本当に面白かったです。毛利vs大友の戦争、どちらに義があるかと言われても答えられないです。元々、大内家分国であった豊前、筑前国と、義隆が有馬晴純を守護に推挙したり龍造寺胤栄・隆信を代官に任命した肥前国の3カ国を巻き込んで対立していました。特に激しかったのは筑前で、立花山城や高橋鑑種をめぐる戦、西国で有数の貿易拠点である博多を巡っての戦がありました。双方、やはり譲れないとこがあったので、戦になったのもあるかと思います。
     そういえば、後々河野通直と吉見広頼娘が婚姻しています。伊予出兵後は毛利・吉見・河野の結びつきが強かったとも言えるのだとも思います。
     また、義昭は毛利家分国下向後、幕府での諸免許や栄典が与えられました。例えば、石見益田氏には大外様、吉見氏には奉公衆、備後渡辺氏には毛氈鞍覆・白傘袋が与えられたりなどしました。その後も毛利氏だけではなく、上杉・武田・北条・島津・龍造寺とも義昭は音信をとっており、まだ幕府の権威は続いていたのだと思えます。
     信長との対立によって中国地方全体が対織田戦争に巻き込まれる中、毛利氏は一体どういう政策を打ち出すのか、楽しみです。
     あともう一点だけ、毛利氏の勢力図、備中は描かれていませんでしたが、実は備中は隆元の代に一国を切り取ったことを朝廷へ報告し、それを認められているので、備中は毛利氏の勢力下になっています。隆元が備中国守護に任命されているのも、幕府から備中の支配権を認められている証拠です。一応伝えておきます。

    • @ゆっくり真実の戦国史
      @ゆっくり真実の戦国史  6 месяцев назад

      コメントありがとうございます!勢力図はsengokumap.netさん作成のものを参照させていただいているんですが、備中はおっしゃるように毛利勢力圏と言えますね。

  • @メカスライム
    @メカスライム 6 месяцев назад +4

    まぁ、信長が近畿をほぼ手中にした時点で織田vs毛利は必然だったでしょうね。
    足利(なんちゃって将軍)義昭も京都追われている時点で影響力ほとんどなかっただろうし

    • @ゆっくり真実の戦国史
      @ゆっくり真実の戦国史  6 месяцев назад

      コメントありがとうございます!お互いの勢力圏がバッティングしたらモメますよね😥

  • @長野業正-j9l
    @長野業正-j9l 2 месяца назад

    この時期の大友宗麟が1番脂が乗っていたな。矢張り、宿敵元就の逝去が本人の弛緩の原因になったのかしら😅?

  • @おふ-t7z
    @おふ-t7z 6 месяцев назад +5

    ノッブのクソ雑外交で勝手に勢力圏を決められる話か!!!!!

    • @グールーメングールーメン
      @グールーメングールーメン 6 месяцев назад

      でも、総力的に勝てるからこその信のクソ雑魚外交でしょう?力がない方が譲るしかないと思うけどな

    • @ゆっくり真実の戦国史
      @ゆっくり真実の戦国史  6 месяцев назад

      コメントありがとうございます!次回でそのあたりの事情に触れていきます😄

  • @ヨーカン-q6c
    @ヨーカン-q6c 6 месяцев назад +1

    毛利は将軍の仲介による大内(陶)と尼子の和睦をぶち壊したうえで尼子をボコボコにした過去がありますけど、それも安芸と備後の尼子への引き渡しを元就が拒否したからですしね。境界を確定させるのはやはり難しいと。

    • @ゆっくり真実の戦国史
      @ゆっくり真実の戦国史  6 месяцев назад

      コメントありがとうございます!安全保障の面からも境界画定は譲るわけにはいきませんしね。

  • @伝説の麻婆豆腐
    @伝説の麻婆豆腐 6 месяцев назад +2

    現代日本でも、境界未定地域ってのが、有りますからね
    北九州では、立花道雪が毛利に当たっていたから、面倒臭いですよね

    • @ゆっくり真実の戦国史
      @ゆっくり真実の戦国史  6 месяцев назад +1

      コメントありがとうございます!味方の高橋紹運もビビらせた道雪ですしね😅

    • @kenta-z3e
      @kenta-z3e 6 месяцев назад +1

      何年か前のチコちゃんで「富士山頂上は浅間大社のものにしたから国境確定の必要なし!」っていう話やってましたよね……。
      それで現代の地図でも富士山頂上部分は県境の線引いてないという……。

  • @866083
    @866083 6 месяцев назад +1

    河野は「こうの」なんでしょうか、「かわの」が最近優勢に見えます・・・

    • @ゆっくり真実の戦国史
      @ゆっくり真実の戦国史  6 месяцев назад +4

      コメントありがとうございます!「かわの」が当時の読み方としては正しいらしいのでどうするか迷ったんですが、「伊達」も当時は「いだて」と読まれてたらしいですけど、そっちは依然として「だて」と読んでいるんですよね🤔

  • @あんざいさん
    @あんざいさん 6 месяцев назад +1

    乱世は基本 遠交近攻だから... 領土や海運、鉱物利権の争いでいずれ衝突してたとは思います。まぁ攻め手は織田側、毛利は防衛側になると思いますが...

    • @ゆっくり真実の戦国史
      @ゆっくり真実の戦国史  6 месяцев назад

      コメントありがとうございます!おっしゃるように対立は最終的には不可避だったでしょうね😔

  • @ひょうべえ
    @ひょうべえ 6 месяцев назад +2

    3:30 ご存じだと思いますが関ヶ原の戦い前後の吉川広家の文書はかなりの「いわく付き」なので取り扱いには注意が必要です。そもそも1560年代の毛利が天下を狙うなんて意識するのかも疑問ですし。まあ元就も急拡大する領土の割には毛利宗家の権力が脆弱という自覚はあったみたいなので、そういう思考をもっていたとしても不思議はありませんが。

  • @takt9831
    @takt9831 6 месяцев назад

    毛利家と大友家って戦国時代は激しく争っていますけど、それぞれの初代(家祖)の父親は義理の兄弟だったんですよね。(鎌倉殿の13人だった大江広家と中原親能)歴史を感じますね。

  • @ローラン-j4q
    @ローラン-j4q 6 месяцев назад +2

    正妻との間に子どもが出来なくて、配下の武将の妻に手を出したことだね。

  • @あぼぼです
    @あぼぼです 6 месяцев назад +1

    北九州での苦戦と国境付近の小大名たちの勢力争いのゴタゴタ
    さらに織田の都合次第で振り回される外交関係、後継いだばかりでさらに合議制で政治をしている輝元の試練は続くという状態ですね
    大友宗麟がかなり外交手腕が優れてるのが今回印象に残りました。※晩年のキリスト教狂いのイメージが強いですがやっぱりかなりのやり手ですね

    • @フォード-i1w
      @フォード-i1w 6 месяцев назад +1

      後継者問題を穏便に解決するために息子の親家を出家させようとしたが出家拒否して無断で改宗したので、親家派の関心を買う必要性出てしまう・島津がイエズス会に接近→貿易の優先権引き上げるために最後のカードを「切らざるを得なかった」・権限を義統と後見人の田原親賢に完全に移譲してからの改宗と周りに配慮しての改宗でした
      なお義統「信長が比叡山焼いても罰当たってねぇし、信長見習って寺社破壊して土地を家臣に恩賞捻出するわ!別に信じてねぇけど攻撃の口実にキリスト教便利っすわw」
      改宗後も「円斎」や「宗滴」等僧名も使ってて仏教信仰も続けてたり、宣教師に「日本語勉強とか日本文化に馴染む気が無いなら出ていけ」と圧かけてたりする→宗麟

    • @あぼぼです
      @あぼぼです 6 месяцев назад

      @@フォード-i1w どこまでが計算なのかわからない部分があるけど
      やっぱりやり手なんですなー
      とはいえ家来の女に手を出したりと性格破綻者だと、精神分析する人もいますので
      主君として仕えるのは大変そうだけど

    • @フォード-i1w
      @フォード-i1w 6 месяцев назад +1

      @@あぼぼです 家来の女に手出しってのは出典陰徳太平記(長州藩での軍記物=長年敵対してた毛利の史料 なお輝元・二の丸殿…)北肥戦誌・高橋記や九州治乱記とかの軍記物ですからね
      明治の雄藩(薩長肥)全て敵に回したからそういう意味ではずっとバイアスかけられる大名でもあり…
      人格破綻してたらそもそも家臣らに現役復帰頼まれなかったろうし、実態は文化人気質の凄い繊細な人って感じはする(病弱な話も散見されるし領民におにぎり振る舞う話とかあったり)

    • @あぼぼです
      @あぼぼです 6 месяцев назад

      @@フォード-i1w なるほど、一度九州の戦国大名の本などを読んで調べてみます。
      色々とためになりました

    • @ゆっくり真実の戦国史
      @ゆっくり真実の戦国史  6 месяцев назад

      コメントありがとうございます!毀誉褒貶ありますが大友宗麟はやはり一流の人物だったと思います。

  • @立山昌仁
    @立山昌仁 6 месяцев назад

    室町幕府最後の副将軍になった事に加えて大内家を潰して地盤を奪った毛利家としてはかつての大内義興による足利義殖の庇護及び上京を再演する事で「大内家の役割を継承した存在」である事をアピールする必要があった

    • @ゆっくり真実の戦国史
      @ゆっくり真実の戦国史  6 месяцев назад

      コメントありがとうございます!「大内の継承者」を自任することで国衆連合の盟主的立ち位置から脱却して、毛利の権威をランクアップさせる効果も狙っていそうですね。

  • @DH-bn1be
    @DH-bn1be 6 месяцев назад

    博多を放棄したのは経済的には厳しくなったけど領国を守りやすくなったのはブラスかなあと。
    とりあえず浦上、宇喜多、細川をはじめ備前、備中、備後の国衆がカオスだったので結局中央には行けなかったかなと思います。
    領国の国衆も消極的でしょうしね。
    その辺も考えるとやはり隆元の早逝は毛利にとっては大きかったんだろう。

  • @曜-u6u
    @曜-u6u 6 месяцев назад +1

    義昭は尾張 美濃 近江のどこかに幽閉したら良かったんじゃない?
    北条が古河公方を幽閉した時とおなじように

    • @ゆっくり真実の戦国史
      @ゆっくり真実の戦国史  6 месяцев назад +2

      コメントありがとうございます!そのあたりは信長の優しさなのかもしれません😮

  • @ふじ-c5r1e
    @ふじ-c5r1e 6 месяцев назад

    天下を狙うな、、、京都に兄もいくなど身近などきごとで、、大内の破綻の間接的な原因でもあるし。さらには、大内家は武闘派が戦が足らん足らんと不満を持ったので破綻したとも聞くし。天下と言うより、好戦的な行動、自分の近くだけでなく、部活全体を制約したかったのかな〜

    • @ゆっくり真実の戦国史
      @ゆっくり真実の戦国史  6 месяцев назад

      コメントありがとうございます!大内を反面教師にしてた可能性は高そうですね。

  • @佐竹ラスベガス
    @佐竹ラスベガス 6 месяцев назад

    ある程度、勢力が大きくなると周辺勢力が結託して包囲網を作り、弱体化させようとしてくる……
    北条や織田や伊達で見た光景ですね……(意図的にしろ偶然にしろ)
    大友に呼応した反毛利勢力が毛利領内の出雲にもいて、それが原因で危機的状況に陥っていた事を考えると
    実は元就が野心的に領土を広げようとしたのではなく、大内&尼子と自分にとって厄介な勢力を切り崩し排除している内にいつの間にか大大名になってしまって苦労したのかも……
    それならば後々の領土を大きくしようとするな、などの発言は領土を増やしても問題が増えるだけ、という意図を元就は輝元達に伝えたかったのかもしれませんね

    • @matukawatositane
      @matukawatositane 6 месяцев назад +1

      上洛してた大内がどういうことになったかについて詳しそうですからね元就

    • @うそねこ-e4f
      @うそねこ-e4f 6 месяцев назад +2

      ほとんどの戦国の領土争いはそれだったりしますね
      武士はメンツが一番大事なので境目の争いで簡単に引いてしまうと国人たちがサッと離れてしまうというのもありどうしてもお互い引けなくなってしまいますね

    • @ゆっくり真実の戦国史
      @ゆっくり真実の戦国史  6 месяцев назад +1

      コメントありがとうございます!島津の九州統一戦も国衆の動向に振り回された、結果的な側面が大きいですしね。

  • @ae3779
    @ae3779 6 месяцев назад

    どこで、命運が変わったのか、大江広元の四男を始祖とし、時代と共に土着したのが、中国地方。
     単なる小規模な領地しか持たない国人→山陰山陽を治める覇者にまでなった毛利氏。
     織田信長を出した織田氏は、尾張国の守護・斯波氏の家臣筋に当たる弾生忠家の出身。
     ポッと出の織田氏など、なんぞやと比較的毛並みの良い家柄もあったと思います。
     それに較べ、何方かの親かはっきりしていないものの、確実に兄弟筋ではある中原氏と大江氏。
     猶子から大友氏へ→元寇の際、本家と分家が分裂。大宰府があるため、京の都事情にある程度分かる人、と言う理由から、大友氏の分家が赴任し土着。
     時代ごとの紆余曲折から、毛利氏が九州北部を脅かし始めると、大友氏との争いも多くなってきますが。

  • @小原壽展
    @小原壽展 6 месяцев назад

    投稿お疲れ様です。大友氏と毛利氏の戦いは九州ローカルなせいか語られませんが立花道雪こと戸次鑑連が毛利三兄弟を全部相手に勝てないまでも負けない戦いを展開していますし、毛利氏からすると苦手意識が彼に対して芽生えたのでしょうか戸次鑑連が耳川の戦いに参加できなかったのは龍造寺氏と毛利氏に睨みをきかせられる武将が彼しかいなかったという事情もあります。足利義昭は毛利氏が上洛しないのは大友が妨害しているからだと判断して他国の大名への書状に大友氏は六ヶ国之凶徒と批判していたとか室町幕府の九州探題だったのが将軍に否定されたことが大友氏にダメージとなったため無理筋の耳川の戦いに追い込まれたのではと考察される学説もあるとか歴史は積み重ねですね

  • @reiko0486
    @reiko0486 6 месяцев назад

    ゆっくりが超ふわふわしてなんか酔うw

  • @山田カイチ
    @山田カイチ 6 месяцев назад

    毛利元就の教えの天下を伺うな、これは創作という話もあるんですが毛利家は実質大内家の後継であり、大内家と言えば応仁の乱と足利義稙(義尹)の時の二度も京都でブイブイ言わせたあげく滅んでるので本当に言っててもおかしくないですね。なのでのちの足利義昭を鞆に住むことを認めたのは完全にギルティ、泉下の元就激おこです。

    • @Add10Beans
      @Add10Beans 6 месяцев назад

      大内家は上洛しすぎたせいで滅んだということはないですが、足利義稙の件で元就の兄、興元が上洛の費用に耐え切れずほかの国衆たちとともに、無断帰国した挙句、そのストレスで酒におぼれ亡くなっているので、上洛にいいイメージはなかったのかもしれないですね。