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ごはん食べて礼拝するの忘れてたって話すきです☺️🎉 クリスチャンが一緒にいたら、喫茶店でもファミレスでも、どこでも教会になると思ってます😊私も聖餐式は誰でも何の飲み物でもいいと思ってますし、たまに種無しパン作ってみんなで楽しむ事もありますし、堅苦しくないのが好きですね!オリーブオイルと小麦粉と塩こねて、パリパリに焼くと、とっても美味しい、種無しパンができますよ✨
15:30のともみんのウェルチの話、とても興味深く聴きました。元々アルコールの入っていない聖餐式用に開発したんですね。
おもしろいですよね〜!
なろほど 楽しく視聴させていただきましたところで 茶道では お菓子をいただいて お茶を飲むことを セレモニーとしてやっているわけでこれは 聖餐式を示唆していると聞いたことがありますだから 茶道をやっているやっていたという人がいたら 私はつい「聖餐式というものがあってね‥‥」と説明してしまいます
茶道は聖餐式と関わりがある説ありますよね!説明すばらしいですね!
いま思うと第1コリント11章23説から31説を呼んで 厳粛な儀式でしたね。今回の話はまたまたおもしろかったです。
コメントありがとうございます!
聖餐式のやり方の教会によって違うのが面白いです。私の行っている教会では、本物のワインかジュースを選べます。それに普通のパンの他、グルテンフリーのクラッカーまであります。教会員にグルテンに超繊細な人いるからね。コロナ中では、クラッカーとほんの一滴のジュースとが使い捨て容器の中にパックになった物を使ってました。感染予防のために。
グルテンフリーおもしろいですね
ともみんさん、まさに私が思ってた疑問でした。聖餐式はバプテスマをうけてないとダメというのは、おかしいなといつも思ってます。。。。救われ、イエスさまを愛し、聖餐式を大切に思う人は参加していいと思うのです。。。。
誰であっても参加していいですよね!
英国在住のクリスチャン日本人です。いつも興味深く聴かせて頂いています。勇気あるご発言ありがとうございます。聖餐式ですが、英国の教会では大体どこもイエスを救い主と信じている人はどなたでも受けることができるようです。ここでは幼児洗礼を受けている人がかなり多いですから、洗礼を聖餐式を受ける資格?にすることは出来ないようです。
柔軟で新しい、さすが若者。良きアイデアだと共感致しました。
コメントありがとうございます
一緒にご飯会が、礼拝よりもイエス様に導かれる、洗礼受けるにまで至った、が納得でした、教会に行くハードルは低くなる😂良かったです。
とても共感しました。 そもそも、洗礼を受けてないとクリスチャンではないのでしょうか? 聖書を読み、神様を信じている 神様の御心にかなうよう生きたいと願う それだけは駄目なのかなぁ~って悩みます。 洗礼受けてるか受けていないかと区別されると、教会に行きにくくなるし、敷居がたかくなってしまいます。
イエスの時代ぶどう酒でも果汁100%のブドウジュースでも良かった訳ですがあえてぶどう酒にしたのは少しのアルコール度のあるものを飲みながらくつろいだ気持で聖餐式は出来るんだ、と言いたかったのではないかなー、なーんて個人的に思いました。パン種の入っていないパンは子供のころは美味しいと思い、よく食べていたかもしれませんが大人になるにつれ不味くて食べられません、イエスは子供の幼子の様にならなければ天の御国には入れませんと言われました、ですからパンを食べる度にイエスを思い出して子供のような清い心を持続けられたら最高です。
秋に収穫した葡萄を春まで保存して置いたら酒に変わっている。
プロテスタントの聖餐式では、毎週、毎月、年に1度などが有るらしい事を聞いたことがあります。
プロテスタントはグループや各教会によって違いますよね
普通の人の身体で食べる最後の食事だったので(復活の聖化した身体は脇腹に穴が開いてて食べられない)弟子達と別れを惜しんだ大切な食事だった。初期の集まりだと食事の際に普通にパンをさいて配って、ぶどうの絞り汁(自然にブドウの絞り汁は発酵して葡萄酒になる)を分けてた。儀礼化するのは後になる。ただ、お腹が空いている人がいて「あの集まりに行くとパンが食べられて、ぶどう酒が飲めるよ、運がいいと他の物も食べられる」という人が集まって収拾がつかなくなる。
コメントありがとうございます! 一応、補足させていただきますと、イエスは復活した後に魚とかを食べています(ルカ24:42-43)
そうですね、確かに食べておられますね。ですが、内蔵に穴が開いている状態で食べても聖化されてる身体だと平気なんですね。普通の人間として蘇生したり、甦ったりしたわけではないのでしょうね。水分や栄養を摂取する必要のない聖化した身体は不思議ですね。
聖餐式のルールは教会によって違うし、個人によっても違いますね。
そうですね〜
私が礼拝したカトリック教会では、バプテスマを受けたのならプロテスタントの方でも聖餐を受けてくださいと言われ、受けることができました。教会にもよるのですね。
カトリックですけど、基本的にプロテスタントは転会して(昔は改宗と言ってました)司祭の祝福と紹介により、カトリック信徒になるので、そこからが聖体拝領OKとなります。プロテスタントや正教会の信徒に拝領を許可するのは、命の危険があるとかのっぴきならない事情がある時のみです。したがって他教派に拝領を許可しないわけではないですが、事前に相談が必要なんです。カトリック教会で参与する時は、プロテスタントであっても未信者扱いで、合掌して祝福受けるのが一般的です。今でこそ転会というけど、1990年代までは改宗といいました。しかし受洗時と流れは一緒です。プロテスタントでも拝領できるというのはある意味正しいですが、いつでもできるわけではないという事をつけ足したいと思います。ちなみにミサの後半、拝領時に、受洗されたカトリック信徒のみ聖体拝領できる、未信者や初聖体前の子は合掌して祝福を受けよと毎回ガイドアナウンスするようになってます、こういう議論があるからなんですね。長文失礼しました。ご参考になれば幸いです。
解説ありがとうございます!
普通のプロテスタントならば警戒してカトリック教会には行かないでしょう。カトリックのミサではパンを拝む偶像礼拝の罪を犯しています。カトリックのミサなど拒絶しなければなりません。そのことは黙示録2章に遠回しに書かれていますよ。それからカトリックはマリヤ崇敬の罪ゆえに携挙されないと解釈できることも書いてあります。
@@GAB.Q-z1nマリヤ崇敬批判文書を検索
視聴していて大変楽しい回でした^_^色々な解釈が成り立つのだなぁと思いました!
聖書的な礼拝とはどんなものでしょう?
誰が真の信仰持っている人間かは神様のみが知っておられると思うからです、ですから後の人間の作った規則に縛られて良いものかどうか学識の無い私には理解が難し過ぎますね。
やっぱりウェルチだよね〜〜〜😻知らなかった〜✨
ウェルチいいですよね〜
洗礼、密教でいう、菩薩授戒にあたるのでしょうか、儀式を受けている人はそうは多くないかと、なので、仏教宗派より、クリスチャンのほうが真面目に信仰いているイメージが仏教徒からすればあります。
そうなんですね! 少なくとも日本ではクリスチャンは真剣に信じている人の割合が多いと感じます。
私が行っている教会の牧師は、第1コリント11章27〜29節の御ことばを用いて、イエス様をまだ信じていない人、信じていてもバプテスマを受けていない人は聖餐に与れないと言います。第1コリントのこの箇所はその様に摘用できるのでしょうか。ご教授頂けたら幸いです。よろしくお願い致します🙇
これは小林の意見ですが、コリント第一 11:27-29の「ふさわしくない仕方」というのは、秩序と衛生観念のことだと捉えています。コリントの全体の文脈を見ると、以下のように分析できると思います。(1)「ふさわしくない仕方」によって聖餐の食事をしていたので、病人や死人が多く出た → 伝染病の流行(2)貧乏な人がおろそかにされ、金持ちが我先にと食べたり、酔っ払っている人が大勢いた→ 秩序・風紀の乱れ(3)「仕方」というのは「順序」という意味の「セデル」のふさわしい手順を意味する可能性 → 儀式の手順の乱れ(1)は神罰とも捉えることは可能ですが、新約時代にそのような神罰が起こったことはかなり限定的であるように思います(アナニヤとサッピラ、魔術師バルイエス<エルマ>など少数の例しかない)。また、聖餐が過越の食事であったことを鑑みても、過越の食事はユダヤ人が通常行っていたものですから、イエスへの信仰がない者も行っていることになります。ユダヤ人がそれによって神罰を受けたという記述は聖書にはありません。また、マッツァやぶどう酒も通常口にするものであることから、聖餐の儀式の時のみ神罰が下るというのも考えにくいと思います。実際に、今世界中で信じていない人が聖餐の儀式を行って死んだとか病気になったという報告は聞いたことがありません。以上のことから、コリント第一11:27-29は、「エクレシアにおける過越の食事・イエスの犠牲と復活を記念して行う食事の秩序や風紀、手順が乱れた結果、衛生的な悪影響を及ぼし、伝染病が流行して多くの者が病気になり死ぬ人もいた」と考えるのが最も自然な解釈だと思います。つまり、手を洗っていないとか、きちんと加熱処理をしないで肉を食べていたとか、酒を飲みすぎて免疫力が下がった、とかそういう解釈になります。ご参考になりましたら幸いです。
@@seisholab ご返信ありがとうございます🙇なるほど、全体の文脈から分析し解釈すると確かに拓馬さんの仰るように解釈できますね。目からウロコです。クラウドチャーチのZoom集会で皆さんの意見もお聞きできたらなぁと思います。機会がありましたら集会でこのトピックを取り上げて頂けましたら幸いです。
プロテスタントでは月に1回しかやらないですよね、何でだろう?いつからなのだろう?その代わりプロテスタントでは礼拝の後に食事会がある教会が多い私はいつかぜひその食事会で聖餐式をやりたいと思っています、できれば種なしパンを焼いて、(牧師の許可があれば)
頻度はグループによって様々だと思いますが、月イチが多いですよね。なぜなんでしょうね。種なしパン、ぜひやってみてください!
プロテスタントのサクラメントは洗礼式と聖餐式の二つ。これは教会儀式であり旧約時代の祭事と同様なもの思っていました。サムエル記上13章に約束の七日待っても預言者サムエルが来ないので、代わりに燔祭をサウルは行った。遅れてきたサムエルはそれを見て、サウルに愚かなことをしたと、サウルから神が離れた聖句が浮かんでしまいます。聖餐式のような宗教的儀式を誰がやっても、旧約とのつながりをどのように解釈したら良いものなのか、、、。
サウルが咎められたのは、当時は祭司の役割だったからです。現代は「万人祭司」ですから、全員okです
@@seisholab なるほど!ガッテン。
マッツァを使うとイエスと弟子たちの過越の食事を連想するって感じですか?でも、過越の食事、種なしパンの祭の時のものですよね。しかもユダヤ人ではないし😂以前日本にいた時に行ってたところが、聖餐式にはイースト菌を入れないパンを使う事を絶対視する集まりでした。欧米で普通のふくらんでるパンでやってるよと言ったらギクシャクする感じで怖いです🥶
個人的な意見ですが、僕は思い出すためなら、動画でも言っている通り、オニギリでもファンタでも何でもいいと思うのです。しかし、儀式として要素やパフォーマンスを大切にするのであれば、やはりマッツァとぶどう酒を使った方がいいと思います。聖餐式にこだわっているのにイースト菌を使ったパンを使っているのは、聖書の記述と矛盾するのかなと思っています(たくま)。
@@seisholab たくまさん、🍙は日本ではすごくいいと思います。同じ釜の飯を食うっていう事が主イエスの意図していた事に近いでしょうから。マッツァのパリパリ感が好みならおせんべいでしょうね。イースト菌の発酵なし。ちなみに、新約聖書の使徒の中に書かれてるパンはunleavened bread ではなく、普通に食卓で食べてるパンの事をさしてるはずです。使徒20章6節で種なしパンの季節が過ぎてた事も明らかですね。
いいね👍百回したい‼️今日から家族で聖餐式込みの食事会にします😁いつも聖書に書いてない決まりだと思いながらイエス様を思いましたが、スッキリ🎶これでイエス様に感謝する事に集中できそう🙆なぜか、先週末ウェルチ2本も買ってます。今日の配信神様の導きの中と確信しました‼️いつもだけど☺
ありがとうございます!! 聖餐式+食事、いいですね! いいね100回だと偶数回でいいねが取り消されてしまうので、ぜひ奇数回おねがいします!笑
カトリック教会の礼拝では毎回聖餐式があり神父はパンを食べてぶどう酒を飲んで信徒はパンだけ食べます カトリック教会は白くて丸いウエハースのようなパンでプロテスタントはサイコロサイズの食パンをたべてぶどう酒を飲みますプロテスタントは聖餐式が月に1回の教会が多くて形式的、儀式的な事を嫌う教会は1年に1回だけの教会があります教会の決まりで聖餐式に参加できない人には礼拝の後のおやつで同じものをあげればいいです
教えていただきありがおつございます!
自分の教会は未信者さんも陪餐に預かれますよ。
そもそもユダヤ教の過ぎ越しの祭は、各家庭でやるものだから、牧師が居なければ聖餐式できないとか変ですよね、と改めて思いました。毎週聖餐式をやる教会で育ち、そこでは洗礼の有無は関係なくイエスさまを信じる人は誰でもOKでした。今の所属教会は月イチで、もし「家でも個人的にやってます」なんて言おうものなら追放されそうな勢いで儀式化してるので、残念です。もちろん洗礼受けていなければダメです。子どももある一定の年齢以下は同席することも許可されていません。法人としての事情があるのは初耳でした、理解が広がり感謝です。聖餐式は、儀式ではなくイエスさまとの親しい交わりの時間だと思ってるので、不定期ですが家でも個人的に、家族でやってます。
家族で聖餐式、とっても素敵だと思います!
あくまでもイエスが12使徒と聖餐式をやったのは後代にこの形に習って教会の信者が集った所でやると言う意図が有ったのかは疑問です、ユダを去らせた後に行なったとなると信仰を真実持っていた人のみが参加するのは相応しいし、現代の教会では左派系の牧師とか偽教師も中には居るかも知れませんから難しい問題です。いっその事聖餐式の日は集会休みにして明々個人が執り行うなり、 少人数で集まり会うなりして聖餐式やれば良いんじゃないかなーなーんて考えたりして?
おっしゃる通り、家などで個人的にやっていいですよね!
聖餐式は、その教会の『牧師カラー』の考え方が、反映される。普通は、『洗礼』を受けた人。が条件だが、『ある教会は、洗礼式受けてない人』もなんてあった。(ある意味?であるが)カトリックは、杯の飲むのは、神父のみ。プロテスタントは、パンと杯=ぶどう酒は、信徒が両方飲める。
天国でイエスと共に世界を支配する人しか口にしない。
儀式儀式が多すぎる🤔なんか~
儀式多いですよね〜
教会=敷居が高いて思ってる人は多いね敷居でもいいじゃない?
なるべくハードルを下げたいです|!
洗礼はイエス自身が直々命じられたことの一つです。もし、イエスを救い主と信じ、自分の主として受け入れたのなら、従うべきです。洗礼は信じた者としての一番最初の従順ではないでしょうか。「信じた」といいながら、「でも、洗礼はうけたくありません。」というのはどこかに問題があると思います。私は滴礼でも構わないと思います。信じることと洗礼を受けることは一緒に教えられるべきでしょうね。ですから、自分で信じたと自覚したときに洗礼も自分から受けたいと思えるようになって欲しいです。もちろん、洗礼を受けていないからと言ってその人の信仰を否定しているわけではありません。洗礼を受ける受けないでは世界が変わってしまいます。家族、友人、周りの人たちなどを憚って受けないというなら、その信仰はまだまだでしょうね。洗礼を受けたために全てを失った人たちを知っています。世界ではそのいのちさえ危うくなった人たちもいます。洗礼を受けるということはどうでもいい単なる教会の儀式ではありません。その信仰に自分のいのちを張る覚悟があるでしょうか。ルカ14章26ー33節でイエスはその覚悟を問われていると思います。また、「あなたがたは、罪と戦って、まだ、血を流すまで抵抗したことがありません。」へブル12:4ともあります。「なんとなくクリスチャンになっちゃいました。」と証された方を知っています。自分流(聖書に基づいていない)の信仰を掲げていた人、そのひとは教会の交わりに出席し、他の信者さんと同じように振舞っておられ(自分でも同じだと思っておられたんでしょう)、聖餐も受けていましたが、洗礼は絶対に受けません、と断固としていた人も知っています。これらのような人たちが、自分のいのちを張って洗礼を受け、信者として生きている人たちと同じ信仰を持っているとはおもいません。し、また、同じような信者としてみなされるべきではないと思います。クリスチャンと自白する人にはいろいろおられること十分認識しています。でも、第一コリント11章でパウロが咎めているような愛餐をしたのはどのようなクリスチャンなのでしょうか。どこかではっきりとした線を引くことができなければならないと思います。第一ヨハネ4:1‐3
ごはん食べて礼拝するの忘れてたって話すきです☺️🎉
クリスチャンが一緒にいたら、喫茶店でもファミレスでも、どこでも教会になると思ってます😊
私も聖餐式は誰でも何の飲み物でもいいと思ってますし、たまに種無しパン作ってみんなで楽しむ事もありますし、堅苦しくないのが好きですね!
オリーブオイルと小麦粉と塩こねて、パリパリに焼くと、とっても美味しい、種無しパンができますよ✨
15:30のともみんのウェルチの話、とても興味深く聴きました。元々アルコールの入っていない聖餐式用に開発したんですね。
おもしろいですよね〜!
なろほど 楽しく視聴させていただきました
ところで 茶道では お菓子をいただいて お茶を飲むことを セレモニーとしてやっているわけで
これは 聖餐式を示唆している
と聞いたことがあります
だから 茶道をやっているやっていたという人がいたら 私はつい「聖餐式というものがあってね‥‥」と説明してしまいます
茶道は聖餐式と関わりがある説ありますよね!
説明すばらしいですね!
いま思うと第1コリント
11章23説から31説を呼んで 厳粛な儀式でしたね。
今回の話はまたまたおもしろかったです。
コメントありがとうございます!
聖餐式のやり方の教会によって違うのが面白いです。私の行っている教会では、本物のワインかジュースを選べます。それに普通のパンの他、グルテンフリーのクラッカーまであります。教会員にグルテンに超繊細な人いるからね。コロナ中では、クラッカーとほんの一滴のジュースとが使い捨て容器の中にパックになった物を使ってました。感染予防のために。
グルテンフリーおもしろいですね
ともみんさん、まさに私が思ってた疑問でした。聖餐式はバプテスマをうけてないとダメというのは、おかしいなといつも思ってます。。。。救われ、イエスさまを愛し、聖餐式を大切に思う人は参加していいと思うのです。。。。
誰であっても参加していいですよね!
英国在住のクリスチャン日本人です。
いつも興味深く聴かせて頂いています。勇気あるご発言ありがとうございます。聖餐式ですが、英国の教会では大体どこもイエスを救い主と信じている人はどなたでも受けることができるようです。ここでは幼児洗礼を受けている人がかなり多いですから、洗礼を聖餐式を受ける資格?にすることは出来ないようです。
柔軟で新しい、さすが若者。良きアイデアだと共感致しました。
コメントありがとうございます
一緒にご飯会が、礼拝よりもイエス様に導かれる、洗礼受けるにまで至った、が納得でした、教会に行くハードルは低くなる😂良かったです。
コメントありがとうございます!
とても共感しました。 そもそも、洗礼を受けてないとクリスチャンではないのでしょうか?
聖書を読み、神様を信じている 神様の御心にかなうよう生きたいと願う それだけは駄目なのかなぁ~って悩みます。
洗礼受けてるか受けていないかと区別されると、教会に行きにくくなるし、敷居がたかくなってしまいます。
イエスの時代ぶどう酒でも果汁100%のブドウジュースでも良かった訳ですがあえてぶどう酒にしたのは少しのアルコール度のあるものを飲みながらくつろいだ気持で聖餐式は出来るんだ、と言いたかったのではないかなー、なーんて個人的に思いました。
パン種の入っていないパンは子供のころは美味しいと思い、よく食べていたかもしれませんが大人になるにつれ不味くて食べられません、イエスは子供の幼子の様にならなければ天の御国には入れませんと言われました、ですからパンを食べる度にイエスを思い出して子供のような清い心を持続けられたら最高です。
コメントありがとうございます!
秋に収穫した葡萄を春まで保存して置いたら酒に変わっている。
プロテスタントの聖餐式では、毎週、毎月、年に1度などが有るらしい事を聞いたことがあります。
プロテスタントはグループや各教会によって違いますよね
普通の人の身体で食べる最後の食事だったので(復活の聖化した身体は脇腹に穴が開いてて食べられない)弟子達と別れを惜しんだ大切な食事だった。初期の集まりだと食事の際に普通にパンをさいて配って、ぶどうの絞り汁(自然にブドウの絞り汁は発酵して葡萄酒になる)を分けてた。儀礼化するのは後になる。ただ、お腹が空いている人がいて「あの集まりに行くとパンが食べられて、ぶどう酒が飲めるよ、運がいいと他の物も食べられる」という人が集まって収拾がつかなくなる。
コメントありがとうございます! 一応、補足させていただきますと、イエスは復活した後に魚とかを食べています(ルカ24:42-43)
そうですね、確かに食べておられますね。ですが、内蔵に穴が開いている状態で食べても聖化されてる身体だと平気なんですね。普通の人間として蘇生したり、甦ったりしたわけではないのでしょうね。水分や栄養を摂取する必要のない聖化した身体は不思議ですね。
聖餐式のルールは教会によって違うし、個人によっても違いますね。
そうですね〜
私が礼拝したカトリック教会では、バプテスマを受けたのならプロテスタントの方でも聖餐を受けてくださいと言われ、受けることができました。教会にもよるのですね。
カトリックですけど、基本的にプロテスタントは転会して(昔は改宗と言ってました)司祭の祝福と紹介により、カトリック信徒になるので、そこからが聖体拝領OKとなります。
プロテスタントや正教会の信徒に拝領を許可するのは、命の危険があるとかのっぴきならない事情がある時のみです。
したがって他教派に拝領を許可しないわけではないですが、事前に相談が必要なんです。
カトリック教会で参与する時は、プロテスタントであっても未信者扱いで、合掌して祝福受けるのが一般的です。
今でこそ転会というけど、1990年代までは改宗といいました。しかし受洗時と流れは一緒です。
プロテスタントでも拝領できるというのはある意味正しいですが、いつでもできるわけではないという事をつけ足したいと思います。
ちなみにミサの後半、拝領時に、受洗されたカトリック信徒のみ聖体拝領できる、未信者や初聖体前の子は合掌して祝福を受けよと毎回ガイドアナウンスするようになってます、こういう議論があるからなんですね。
長文失礼しました。
ご参考になれば幸いです。
解説ありがとうございます!
コメントありがとうございます!
普通のプロテスタントならば警戒してカトリック教会には行かないでしょう。
カトリックのミサではパンを拝む偶像礼拝の罪を犯しています。カトリックのミサなど拒絶しなければなりません。
そのことは黙示録2章に遠回しに書かれていますよ。
それからカトリックはマリヤ崇敬の罪ゆえに携挙されないと解釈できることも書いてあります。
@@GAB.Q-z1n
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を検索
視聴していて大変楽しい回でした^_^
色々な解釈が成り立つのだなぁと思いました!
コメントありがとうございます!
聖書的な礼拝とはどんなものでしょう?
誰が真の信仰持っている人間かは神様のみが知っておられると思うからです、ですから後の人間の作った規則に縛られて良いものかどうか学識の無い私には理解が難し過ぎますね。
コメントありがとうございます!
やっぱりウェルチだよね〜〜〜😻
知らなかった〜✨
ウェルチいいですよね〜
洗礼、密教でいう、菩薩授戒にあたるのでしょうか、儀式を受けている人はそうは多くないかと、なので、仏教宗派より、クリスチャンのほうが真面目に信仰いているイメージが仏教徒からすればあります。
そうなんですね! 少なくとも日本ではクリスチャンは真剣に信じている人の割合が多いと感じます。
私が行っている教会の牧師は、第1コリント11章27〜29節の御ことばを用いて、イエス様をまだ信じていない人、信じていてもバプテスマを受けていない人は聖餐に与れないと言います。第1コリントのこの箇所はその様に摘用できるのでしょうか。ご教授頂けたら幸いです。よろしくお願い致します🙇
これは小林の意見ですが、コリント第一 11:27-29の「ふさわしくない仕方」というのは、秩序と衛生観念のことだと捉えています。コリントの全体の文脈を見ると、以下のように分析できると思います。
(1)「ふさわしくない仕方」によって聖餐の食事をしていたので、病人や死人が多く出た → 伝染病の流行
(2)貧乏な人がおろそかにされ、金持ちが我先にと食べたり、酔っ払っている人が大勢いた→ 秩序・風紀の乱れ
(3)「仕方」というのは「順序」という意味の「セデル」のふさわしい手順を意味する可能性 → 儀式の手順の乱れ
(1)は神罰とも捉えることは可能ですが、新約時代にそのような神罰が起こったことはかなり限定的であるように思います(アナニヤとサッピラ、魔術師バルイエス<エルマ>など少数の例しかない)。
また、聖餐が過越の食事であったことを鑑みても、過越の食事はユダヤ人が通常行っていたものですから、イエスへの信仰がない者も行っていることになります。ユダヤ人がそれによって神罰を受けたという記述は聖書にはありません。また、マッツァやぶどう酒も通常口にするものであることから、聖餐の儀式の時のみ神罰が下るというのも考えにくいと思います。実際に、今世界中で信じていない人が聖餐の儀式を行って死んだとか病気になったという報告は聞いたことがありません。
以上のことから、コリント第一11:27-29は、「エクレシアにおける過越の食事・イエスの犠牲と復活を記念して行う食事の秩序や風紀、手順が乱れた結果、衛生的な悪影響を及ぼし、伝染病が流行して多くの者が病気になり死ぬ人もいた」と考えるのが最も自然な解釈だと思います。つまり、手を洗っていないとか、きちんと加熱処理をしないで肉を食べていたとか、酒を飲みすぎて免疫力が下がった、とかそういう解釈になります。
ご参考になりましたら幸いです。
@@seisholab ご返信ありがとうございます🙇なるほど、全体の文脈から分析し解釈すると確かに拓馬さんの仰るように解釈できますね。目からウロコです。クラウドチャーチのZoom集会で皆さんの意見もお聞きできたらなぁと思います。機会がありましたら集会でこのトピックを取り上げて頂けましたら幸いです。
プロテスタントでは月に1回しかやらないですよね、何でだろう?いつからなのだろう?
その代わりプロテスタントでは礼拝の後に食事会がある教会が多い
私はいつかぜひその食事会で聖餐式をやりたいと思っています、できれば種なしパンを焼いて、(牧師の許可があれば)
頻度はグループによって様々だと思いますが、月イチが多いですよね。なぜなんでしょうね。
種なしパン、ぜひやってみてください!
プロテスタントのサクラメントは洗礼式と聖餐式の二つ。これは教会儀式であり旧約時代の祭事と同様なもの思っていました。
サムエル記上13章に約束の七日待っても預言者サムエルが来ないので、代わりに燔祭をサウルは行った。遅れてきたサムエルはそれを見て、サウルに愚かなことをしたと、サウルから神が離れた聖句が浮かんでしまいます。
聖餐式のような宗教的儀式を誰がやっても、旧約とのつながりをどのように解釈したら良いものなのか、、、。
サウルが咎められたのは、当時は祭司の役割だったからです。現代は「万人祭司」ですから、全員okです
@@seisholab
なるほど!ガッテン。
マッツァを使うとイエスと弟子たちの過越の食事を連想するって感じですか?でも、過越の食事、種なしパンの祭の時のものですよね。しかもユダヤ人ではないし😂以前日本にいた時に行ってたところが、聖餐式にはイースト菌を入れないパンを使う事を絶対視する集まりでした。欧米で普通のふくらんでるパンでやってるよと言ったらギクシャクする感じで怖いです🥶
個人的な意見ですが、僕は思い出すためなら、動画でも言っている通り、オニギリでもファンタでも何でもいいと思うのです。
しかし、儀式として要素やパフォーマンスを大切にするのであれば、やはりマッツァとぶどう酒を使った方がいいと思います。聖餐式にこだわっているのにイースト菌を使ったパンを使っているのは、聖書の記述と矛盾するのかなと思っています(たくま)。
@@seisholab たくまさん、🍙は日本ではすごくいいと思います。同じ釜の飯を食うっていう事が主イエスの意図していた事に近いでしょうから。マッツァのパリパリ感が好みならおせんべいでしょうね。イースト菌の発酵なし。ちなみに、新約聖書の使徒の中に書かれてるパンはunleavened bread ではなく、普通に食卓で食べてるパンの事をさしてるはずです。使徒20章6節で種なしパンの季節が過ぎてた事も明らかですね。
いいね👍百回したい‼️今日から家族で聖餐式込みの食事会にします😁いつも聖書に書いてない決まりだと思いながらイエス様を思いましたが、スッキリ🎶これでイエス様に感謝する事に集中できそう🙆なぜか、先週末ウェルチ2本も買ってます。今日の配信神様の導きの中と確信しました‼️いつもだけど☺
ありがとうございます!! 聖餐式+食事、いいですね!
いいね100回だと偶数回でいいねが取り消されてしまうので、ぜひ奇数回おねがいします!笑
カトリック教会の礼拝では毎回聖餐式があり神父はパンを食べてぶどう酒を飲んで信徒はパンだけ食べます カトリック教会は白くて丸いウエハースのようなパンでプロテスタントはサイコロサイズの食パンをたべてぶどう酒を飲みます
プロテスタントは聖餐式が月に1回の教会が多くて形式的、儀式的な事を嫌う教会は1年に1回だけの教会があります
教会の決まりで聖餐式に参加できない人には礼拝の後のおやつで同じものをあげればいいです
教えていただきありがおつございます!
自分の教会は未信者さんも陪餐に預かれますよ。
そもそもユダヤ教の過ぎ越しの祭は、各家庭でやるものだから、牧師が居なければ聖餐式できないとか変ですよね、と改めて思いました。
毎週聖餐式をやる教会で育ち、そこでは洗礼の有無は関係なくイエスさまを信じる人は誰でもOKでした。今の所属教会は月イチで、もし「家でも個人的にやってます」なんて言おうものなら追放されそうな勢いで儀式化してるので、残念です。もちろん洗礼受けていなければダメです。子どももある一定の年齢以下は同席することも許可されていません。
法人としての事情があるのは初耳でした、理解が広がり感謝です。
聖餐式は、儀式ではなくイエスさまとの親しい交わりの時間だと思ってるので、不定期ですが家でも個人的に、家族でやってます。
家族で聖餐式、とっても素敵だと思います!
あくまでもイエスが12使徒と聖餐式をやったのは後代にこの形に習って教会の信者が集った所でやると言う意図が有ったのかは疑問です、ユダを去らせた後に行なったとなると信仰を真実持っていた人のみが参加するのは相応しいし、現代の教会では左派系の牧師とか偽教師も中には居るかも知れませんから難しい問題です。いっその事聖餐式の日は集会休みにして明々個人が執り行うなり、 少人数で集まり会うなりして聖餐式やれば良いんじゃないかなーなーんて考えたりして?
おっしゃる通り、家などで個人的にやっていいですよね!
聖餐式は、その教会の『牧師カラー』の考え方が、反映される。普通は、『洗礼』を受けた人。が条件だが、『ある教会は、洗礼式受けてない人』もなんてあった。(ある意味?であるが)カトリックは、杯の飲むのは、神父のみ。プロテスタントは、パンと杯=ぶどう酒は、信徒が両方飲める。
コメントありがとうございます!
天国でイエスと共に世界を支配する人しか口にしない。
儀式儀式が多すぎる🤔
なんか~
儀式多いですよね〜
教会=敷居が高いて思ってる人は多いね
敷居でもいいじゃない?
なるべくハードルを下げたいです|!
洗礼はイエス自身が直々命じられたことの一つです。もし、イエスを救い主と信じ、自分の主として受け入れたのなら、従うべきです。洗礼は信じた者としての一番最初の従順ではないでしょうか。「信じた」といいながら、「でも、洗礼はうけたくありません。」というのはどこかに問題があると思います。私は滴礼でも構わないと思います。信じることと洗礼を受けることは一緒に教えられるべきでしょうね。ですから、自分で信じたと自覚したときに洗礼も自分から受けたいと思えるようになって欲しいです。もちろん、洗礼を受けていないからと言ってその人の信仰を否定しているわけではありません。洗礼を受ける受けないでは世界が変わってしまいます。家族、友人、周りの人たちなどを憚って受けないというなら、その信仰はまだまだでしょうね。洗礼を受けたために全てを失った人たちを知っています。世界ではそのいのちさえ危うくなった人たちもいます。洗礼を受けるということはどうでもいい単なる教会の儀式ではありません。その信仰に自分のいのちを張る覚悟があるでしょうか。ルカ14章26ー33節でイエスはその覚悟を問われていると思います。また、「あなたがたは、罪と戦って、まだ、血を流すまで抵抗したことがありません。」へブル12:4ともあります。「なんとなくクリスチャンになっちゃいました。」と証された方を知っています。自分流(聖書に基づいていない)の信仰を掲げていた人、そのひとは教会の交わりに出席し、他の信者さんと同じように振舞っておられ(自分でも同じだと思っておられたんでしょう)、聖餐も受けていましたが、洗礼は絶対に受けません、と断固としていた人も知っています。これらのような人たちが、自分のいのちを張って洗礼を受け、信者として生きている人たちと同じ信仰を持っているとはおもいません。し、また、同じような信者としてみなされるべきではないと思います。クリスチャンと自白する人にはいろいろおられること十分認識しています。でも、第一コリント11章でパウロが咎めているような愛餐をしたのはどのようなクリスチャンなのでしょうか。どこかではっきりとした線を引くことができなければならないと思います。第一ヨハネ4:1‐3