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設楽が原の戦いでは織田徳川連合軍に天候も味方にしてましたね。 設楽が原戦いの前日までは天候は雨、しかし、決戦当日…雨は止んだ…笑 その為、鉄砲隊や弓隊には有利な天候になったと言われてます。
実際のところは射手1人に2人ほどの従者が付き一回撃つごとに新しい火縄を射手に渡し従者2人は弾込め等を行うと言う説を見ました。確かに練度の高い射手にずっと撃たした方がムダもないと合点がいきました。あと逃げる以外は馬防柵に騎馬特攻はせずちゃんとヨイショって降りて戦ってたでしょうね
射手と的の両方が運動していると命中させにくいので、銃は固定していた方が良いという発想は自然な感じですね。戦時中、呉軍港が空襲に会い、ドックに入って修理中の軍艦は、恰好の的かと思いきや、静止した軍艦に、襲撃する敵機も直線的な運動になるのか、対空火器が良く命中して驚いたという戦記を見たことがあります。
馬場信春は信長公記に「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と称賛されてる
敵を退散させる、ではなく、敵を一大決戦に引きずり出して壊滅的打撃を与える。という目的を持って臨んだ信長がイカれ気味に凄いと思う。この武田の強兵に対して。
最近読んだ説で、鉄砲の数には圧倒差は無かった。しかし、鉛と火薬が国内生産では足りなくなっていて輸入で補っていた。堺の貿易を押さえていた信長は、弾・火薬量が群を抜いていたらしい。信長って、商業地を押さえ続けて力をつけているので凄く合点がいった。商業地・・・津島湊・熱田湊・長良川沿いの岐阜・琵琶湖に面した安土・堺湊・・・。楽市・楽座も信長以前からあった発想だけど、商業地を押さえ続ける手法から、信長の代名詞になったと考えると、これも合点がいく。わたしの中で、信長は経済大名。
信長は本願寺砦を長期間包囲し、毛利からの物資搬入も阻止したので、経済封鎖と兵站の発想はあると思います。武田も上杉も、買うカネも潤沢とは思えないし、経済封鎖もあったと思いますが、大名の自力の目安として、しばしば石高が使われるので、信長の財力と軍事費がライバルの何倍あったか分かりにくいですね。石高だと豊臣秀吉よりも徳川家康の方が大きいが、大坂城に蓄えられた金銀は、大坂の陣でも多量に残り、没収されたので徳川幕府初期の圧倒的基盤のかなりを為していたと思えます。
弾の原料もタイの鉱山から輸入していたそうですし、経済面で圧倒的に経済力で優位に立っていたと考えるのが自然ですよね
細かい事ですが「射程距離は50m」は、正しくは「有効射程距離(狙った所に弾が当たる距離)は50m」です。当時の鉄砲の最大射程距離(弾が届く最も遠い距離)は100mくらいと言われているようです。ミリオタの1人としてちょっと気になりました…
それなw
頭脳戦と言うか、勝頼は戦に置ける情報戦を軽く見過ぎてましたね。
死者6000人では無くて死傷者6000人だろう。
歴史にifはないが、勝頼が早々に撤退した場合、その後はどうなっただろうね?国力の違いで織田・徳川には勝てなかったかな?
早々に撤退したら、三河や遠江の国衆達の離反が更に加速する事になったと思います。
鳥居強右衛門の一言で長篠城が持ちこたえたのは大きかったですね。武田軍が後退できず馬防柵に突撃するしか選択肢が無くなったのですから・・・。明日の大河でどのように描かれるか楽しみです!
それに秀吉が後に言ったことですが、長篠合戦時の織田・徳川連合軍の鉄砲の数は多くても一千挺足らずだそうです。三段撃ちとか三千挺の鉄砲だとか、四百年以上の間に話がオ一バ一になってしまったようです。
最近の研究が反映されてて嬉しい
内藤昌豊がどのタイミングで亡くなったのかが気になります
日本の騎馬をサラブレッドと混同して説を唱える学者多過ぎなのよねポニーと大差ない木曽馬は人を乗せたらせいぜい時速25km前後が限界秒速7m程度なので50mを駆け抜けるだけでも9秒かかる(馬防柵や他の撃たれた馬や人が邪魔となるのでもっとかかる)つまり3段なら有効射程内で十分捉えられる弾薬が豊富にあったからこそ、入れ替わらないと撃つ場所を確保出来なかったってだけだとは思うけど、何かしらの工夫はあったんだと思うよ
信長、秀吉、家康の三英傑が相手ってどう足掻いても無理やろな…
今回もお疲れ様です。先日、長篠城跡や設楽原古戦場の馬防柵へ行って観ました。勝頼は父・信玄も落とせなかった高天神城を攻略したことで自信過剰になってしまったのかな?家臣たちの言うことに耳を貸し、一旦はそこまでにして甲斐へ戻れば、その後は変わっていたかもね。信玄以来の有能な家臣たちの言ったとおりになった。信玄なら家臣たちと同じ考えで、あんな何が仕掛けられているかわからない馬防柵めがけて必殺の騎馬隊の突入なんかしなかったと思います。相手が先に動くのを待ったでしょう。先日、行って観たら、時代劇のように広い草原を騎馬隊が馬防柵に向けて突進して行って、鉄砲隊の三段撃ちにあい、撃滅されたなんて劇画もどきの戦なんか実際に起こるわけがなく、川を挟んだ狭い場所だから三段撃ちなんかは実際になくても馬防柵からの鉄砲撃ちを浴びてやられたそうですね。鉄砲隊の三段撃ちがあって、広い草原を突進してくる騎馬隊が短時間で全滅してしまったなら、あっというまに勝敗が決まっていたでしょう。実際は両軍は何時間も戦っていますよ。
武田家は貧しい国力もあって伝統的に自転車操業で戦国を生き抜いてきた大名。織田徳川連合の僅か38,000ぽっちの援軍を前に絶対無敵の武田軍が戦わずに逃げればどうなるか?恩賞も出ない、最大の収入源である掠奪もできないとあれば三河や遠江、駿河の土豪連中はおろか信濃や上野の土豪連中、最悪の場合軍役衆までも離反して史実では1582年に起きた出来事がもっと早い段階で起こっていただろう。
高天神と違って武田が長篠を奪えてもそれを維持する事は非常に難しい。実際に信玄の死後に徳川、奥平の連合軍に奪われている。すると武田の狙いははじめから決戦にあったはずで重臣が反対したというのは疑わしいと思う。
ちゃんと撤退できるのはさすがだと思う
少なくなった人数で撤退できたのなら、何故もっと早く撤退しなかったのか?重臣達を軽く考えていたのか?勝ちに拘り過ぎた?勝頼がパニックに陥ってたのなら武田軍は悲劇だ。
私は長篠で撤退するべきだったとは思えません。 戦ったのは間違ってなかったと思います。勝頼の長篠城攻めの理由が最初から長篠城奪還だったにせよ、大岡弥四郎の内通を利用した岡崎城乗っ取り、三河と遠江の分断を狙った吉田城攻めが失敗したからだったにせよ、ここで撤退したら「武田は織田・徳川の後詰めが来ただけで恐れをなし、戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出した臆病者揃い」という風に信長や家康に喧伝され、三河や遠江、東美濃の国衆達に「武田に味方しても織田や徳川に攻められたら自分達の為に戦ってくれずに尻尾を巻いて逃げる。 しかも徳川に味方している奥平は武田から城を守った。 しかも徳川だけでなく織田も後詰めに来てくれた。 武田は弱い上に自分達を守ってくれない。 ならば自分達も奥平のように織田や徳川に味方しよう」と思われ、国衆達が武田から離反してしまうでしょう。甲斐や信濃の国衆達も、信玄や信虎、それ以前からの重税で困窮する中わざわざ遠征したのに戦果無しで撤退したら恩賞が貰えない。戦の費用は家臣や国衆達の負担であり、その出費を取り返す為に城下町や村で乱取りをしたり、人を攫って売り飛ばすのにそれができなくなる。しかも武田領の金山は当時の技術ではほとんど金が取れなくなるほど掘り尽くしていたらしいから、家臣や国衆達の出費を補填できない。当時の武士達は面子や血筋、強い事を重んじる者が多い。 しかも武田家は鎌倉時代から続く甲斐源氏の名門なのに対し信長の織田家は守護代の家臣筋、徳川も三河の土豪上がりという素性の怪しく、身分の低い卑しい家柄。鎌倉時代から続く甲斐源氏の名門・武田が素性の怪しい織田や徳川を相手に戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出したと喧伝されたら武田家だけでなく、武田家に従う家臣や国衆達の面子も丸潰れになってしまう。以上の理由から、長篠で勝頼が撤退していたらお金の無駄遣い、骨折り損のくたびれもうけに終わった家臣や国衆達が不満を抱いて何をしでかすか分からないと思います。「重税で生活が苦しい中わざわざ大金出して遠征したのに、織田・徳川の手勢が後詰めに来ただけで恐れをなして逃げて俺達の面子を潰した上になんの恩賞も無しか。 戦っていたら勝って乱取りできたのに」という風に不満を抱いた家臣や国衆達が今後従軍に応じなくなったり、反乱を起こしたり、勝頼を追放して別の誰かを担ぎ出そうとしたり、史実より早く織田・徳川に寝返る者が出るなどして武田領に大混乱が起きるとその隙に織田や徳川、もしかしたら上杉や北条にも侵攻されて武田家が史実より早く滅亡する事になったかもしれません。仮に撤退して家臣や国衆達の離反が加速しなかったとしても、武田と織田の国力差は開く一方。仕切り直した時には今以上に領土を広げて国力を増した織田が今以上の兵を率いて徳川の後詰めに来るかもしれない。 それどころか織田の方から武田領に侵攻してくるかもしれない。 そうなったら徳川も呼応して侵攻してくるだろうからもう打つ手はない。当時の武田家の状況信玄が信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めた為に信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させたらしいから、外交での織田との関係修復はほぼ無理。そのせいで織田から鉄砲や鉄砲の弾を作る為の鉛、鉄砲を使う為に必要な火薬の原料の硝石が手に入りにくくなる経済封鎖を受けている。徳川との関係修復も三方ヶ原の戦いから遡る駿河攻めの際の遺恨(今川領を分ける時の家康との約束を信玄が欲を出して破った事、家康が独断で今川と和睦して上杉や北条と組んで武田包囲網を作ろうとしていた事、家康が信長に武田と手を切るように何度も言っていたらしい事)から無理。浅井家、朝倉家が滅ぼされ、伊勢長島の一向一揆が鎮圧されて武田と対織田で連携できる相手がいなくなっている。 本願寺顕如が畿内で織田と戦っているようだが一度織田と和睦している事を考えると敗れるのは時間の問題。これらの状況を打開するにはやはりまだ織田が畿内で本願寺勢力と戦っていて、武田相手に全軍を向ける事はない中わざわざ出てきた信長や家康をここで討ち取る、討ち取れなくても織田・徳川軍に痛手を与えて「織田など恐れるほどの相手ではない」と喧伝し、織田や徳川に味方している家臣や国衆達の離反を狙えるようにしなければならない。普通に調略したところで熱田や津島、堺などの商業が発達した街を押さえ、税が安く豊かな織田を離反し、山に囲まれていて税が重く貧乏な武田に味方する者はほとんどいないでしょうから。
騎馬隊って存在がそもそも怪しいとか
5:11このエピソードで勝頼が頭脳戦に弱いとわかる。
歩兵相手に三段打ちは十分有効なんじゃないの?武田の騎馬隊はせいぜい2000くらいしかいなかったみたいだけど
武田軍はこの合戦で実戦経験豊富な中堅武将を数多く失っている。この後の武田軍が本当にもろかったのはそのせいである。事実上、長篠の戦いで武田家は終わっていた。
今年は一緒に飲もう 一人じゃ大きいココナッツ
そんな長篠の合戦を太鼓のリズムで表現したのが、こちらになります。ruclips.net/video/VBbVmBsQ0Xc/видео.html
設楽が原の戦いでは織田徳川連合軍に天候も味方にしてましたね。
設楽が原戦いの前日までは天候は雨、しかし、決戦当日…雨は止んだ…笑
その為、鉄砲隊や弓隊には有利な天候になったと言われてます。
実際のところは射手1人に2人ほどの従者が付き一回撃つごとに新しい火縄を射手に渡し従者2人は弾込め等を行うと言う説を見ました。確かに練度の高い射手にずっと撃たした方がムダもないと合点がいきました。あと逃げる以外は馬防柵に騎馬特攻はせずちゃんとヨイショって降りて戦ってたでしょうね
射手と的の両方が運動していると命中させにくいので、銃は固定していた方が良いという発想は自然な感じですね。
戦時中、呉軍港が空襲に会い、ドックに入って修理中の軍艦は、恰好の的かと思いきや、
静止した軍艦に、襲撃する敵機も直線的な運動になるのか、対空火器が良く命中して驚いたという戦記を見たことがあります。
馬場信春は信長公記に「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と称賛されてる
敵を退散させる、ではなく、敵を一大決戦に引きずり出して壊滅的打撃を与える。という目的を持って臨んだ信長がイカれ気味に凄いと思う。この武田の強兵に対して。
最近読んだ説で、鉄砲の数には圧倒差は無かった。しかし、鉛と火薬が国内生産では足りなくなっていて輸入で補っていた。堺の貿易を押さえていた信長は、弾・火薬量が群を抜いていたらしい。信長って、商業地を押さえ続けて力をつけているので凄く合点がいった。商業地・・・津島湊・熱田湊・長良川沿いの岐阜・琵琶湖に面した安土・堺湊・・・。楽市・楽座も信長以前からあった発想だけど、商業地を押さえ続ける手法から、信長の代名詞になったと考えると、これも合点がいく。わたしの中で、信長は経済大名。
信長は本願寺砦を長期間包囲し、毛利からの物資搬入も阻止したので、経済封鎖と兵站の発想はあると思います。
武田も上杉も、買うカネも潤沢とは思えないし、経済封鎖もあったと思いますが、
大名の自力の目安として、しばしば石高が使われるので、信長の財力と軍事費がライバルの何倍あったか分かりにくいですね。
石高だと豊臣秀吉よりも徳川家康の方が大きいが、大坂城に蓄えられた金銀は、大坂の陣でも多量に残り、没収されたので
徳川幕府初期の圧倒的基盤のかなりを為していたと思えます。
弾の原料もタイの鉱山から輸入していたそうですし、経済面で圧倒的に経済力で優位に立っていたと考えるのが自然ですよね
細かい事ですが「射程距離は50m」は、正しくは「有効射程距離(狙った所に弾が当たる距離)は50m」です。
当時の鉄砲の最大射程距離(弾が届く最も遠い距離)は100mくらいと言われているようです。
ミリオタの1人としてちょっと気になりました…
それなw
頭脳戦と言うか、勝頼は戦に置ける情報戦を軽く見過ぎてましたね。
死者6000人では無くて死傷者6000人だろう。
歴史にifはないが、勝頼が早々に撤退した場合、その後はどうなっただろうね?国力の違いで織田・徳川には勝てなかったかな?
早々に撤退したら、三河や遠江の国衆達の離反が更に加速する事になったと思います。
鳥居強右衛門の一言で長篠城が持ちこたえたのは大きかったですね。武田軍が後退できず馬防柵に突撃するしか選択肢が無くなったのですから・・・。明日の大河でどのように描かれるか楽しみです!
それに秀吉が後に言ったことですが、長篠合戦時の織田・徳川連合軍の鉄砲の数は多くても一千挺足らずだそうです。
三段撃ちとか三千挺の鉄砲だとか、四百年以上の間に話がオ一バ一になってしまったようです。
最近の研究が反映されてて嬉しい
内藤昌豊がどのタイミングで亡くなったのかが気になります
日本の騎馬をサラブレッドと混同して説を唱える学者多過ぎなのよね
ポニーと大差ない木曽馬は人を乗せたらせいぜい時速25km前後が限界
秒速7m程度なので50mを駆け抜けるだけでも9秒かかる(馬防柵や他の撃たれた馬や人が邪魔となるのでもっとかかる)
つまり3段なら有効射程内で十分捉えられる
弾薬が豊富にあったからこそ、入れ替わらないと撃つ場所を確保出来なかったってだけだとは思うけど、
何かしらの工夫はあったんだと思うよ
信長、秀吉、家康の三英傑が相手ってどう足掻いても無理やろな…
今回もお疲れ様です。
先日、長篠城跡や設楽原古戦場の馬防柵へ行って観ました。
勝頼は父・信玄も落とせなかった高天神城を攻略したことで自信過剰になってしまったのかな?
家臣たちの言うことに耳を貸し、一旦はそこまでにして甲斐へ戻れば、その後は変わっていたかもね。
信玄以来の有能な家臣たちの言ったとおりになった。
信玄なら家臣たちと同じ考えで、あんな何が仕掛けられているかわからない馬防柵めがけて必殺の騎馬隊の突入なんかしなかったと思います。
相手が先に動くのを待ったでしょう。
先日、行って観たら、時代劇のように広い草原を騎馬隊が馬防柵に向けて突進して行って、鉄砲隊の三段撃ちにあい、撃滅されたなんて劇画もどきの戦なんか実際に起こるわけがなく、川を挟んだ狭い場所だから三段撃ちなんかは実際になくても馬防柵からの鉄砲撃ちを浴びてやられたそうですね。
鉄砲隊の三段撃ちがあって、広い草原を突進してくる騎馬隊が短時間で全滅してしまったなら、あっというまに勝敗が決まっていたでしょう。
実際は両軍は何時間も戦っていますよ。
武田家は貧しい国力もあって伝統的に自転車操業で戦国を生き抜いてきた大名。織田徳川連合の僅か38,000ぽっちの援軍を前に絶対無敵の武田軍が戦わずに逃げればどうなるか?恩賞も出ない、最大の収入源である掠奪もできないとあれば三河や遠江、駿河の土豪連中はおろか信濃や上野の土豪連中、最悪の場合軍役衆までも離反して史実では1582年に起きた出来事がもっと早い段階で起こっていただろう。
高天神と違って武田が長篠を奪えてもそれを維持する事は非常に難しい。実際に信玄の死後に徳川、奥平の連合軍に奪われている。すると武田の狙いははじめから決戦にあったはずで重臣が反対したというのは疑わしいと思う。
ちゃんと撤退できるのはさすがだと思う
少なくなった人数で撤退できたのなら、何故もっと早く撤退しなかったのか?重臣達を軽く考えていたのか?勝ちに拘り過ぎた?勝頼がパニックに陥ってたのなら武田軍は悲劇だ。
私は長篠で撤退するべきだったとは思えません。 戦ったのは間違ってなかったと思います。
勝頼の長篠城攻めの理由が最初から長篠城奪還だったにせよ、大岡弥四郎の内通を利用した岡崎城乗っ取り、三河と遠江の分断を狙った吉田城攻めが失敗したからだったにせよ、ここで撤退したら「武田は織田・徳川の後詰めが来ただけで恐れをなし、戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出した臆病者揃い」という風に信長や家康に喧伝され、三河や遠江、東美濃の国衆達に「武田に味方しても織田や徳川に攻められたら自分達の為に戦ってくれずに尻尾を巻いて逃げる。 しかも徳川に味方している奥平は武田から城を守った。 しかも徳川だけでなく織田も後詰めに来てくれた。 武田は弱い上に自分達を守ってくれない。 ならば自分達も奥平のように織田や徳川に味方しよう」と思われ、国衆達が武田から離反してしまうでしょう。
甲斐や信濃の国衆達も、信玄や信虎、それ以前からの重税で困窮する中わざわざ遠征したのに戦果無しで撤退したら恩賞が貰えない。
戦の費用は家臣や国衆達の負担であり、その出費を取り返す為に城下町や村で乱取りをしたり、人を攫って売り飛ばすのにそれができなくなる。
しかも武田領の金山は当時の技術ではほとんど金が取れなくなるほど掘り尽くしていたらしいから、家臣や国衆達の出費を補填できない。
当時の武士達は面子や血筋、強い事を重んじる者が多い。
しかも武田家は鎌倉時代から続く甲斐源氏の名門なのに対し信長の織田家は守護代の家臣筋、徳川も三河の土豪上がりという素性の怪しく、身分の低い卑しい家柄。
鎌倉時代から続く甲斐源氏の名門・武田が素性の怪しい織田や徳川を相手に戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出したと喧伝されたら武田家だけでなく、武田家に従う家臣や国衆達の面子も丸潰れになってしまう。
以上の理由から、長篠で勝頼が撤退していたらお金の無駄遣い、骨折り損のくたびれもうけに終わった家臣や国衆達が不満を抱いて何をしでかすか分からないと思います。
「重税で生活が苦しい中わざわざ大金出して遠征したのに、織田・徳川の手勢が後詰めに来ただけで恐れをなして逃げて俺達の面子を潰した上になんの恩賞も無しか。 戦っていたら勝って乱取りできたのに」という風に不満を抱いた家臣や国衆達が今後従軍に応じなくなったり、反乱を起こしたり、勝頼を追放して別の誰かを担ぎ出そうとしたり、史実より早く織田・徳川に寝返る者が出るなどして武田領に大混乱が起きるとその隙に織田や徳川、もしかしたら上杉や北条にも侵攻されて武田家が史実より早く滅亡する事になったかもしれません。
仮に撤退して家臣や国衆達の離反が加速しなかったとしても、武田と織田の国力差は開く一方。
仕切り直した時には今以上に領土を広げて国力を増した織田が今以上の兵を率いて徳川の後詰めに来るかもしれない。 それどころか織田の方から武田領に侵攻してくるかもしれない。 そうなったら徳川も呼応して侵攻してくるだろうからもう打つ手はない。
当時の武田家の状況
信玄が信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めた為に信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させたらしいから、外交での織田との関係修復はほぼ無理。
そのせいで織田から鉄砲や鉄砲の弾を作る為の鉛、鉄砲を使う為に必要な火薬の原料の硝石が手に入りにくくなる経済封鎖を受けている。
徳川との関係修復も三方ヶ原の戦いから遡る駿河攻めの際の遺恨(今川領を分ける時の家康との約束を信玄が欲を出して破った事、家康が独断で今川と和睦して上杉や北条と組んで武田包囲網を作ろうとしていた事、家康が信長に武田と手を切るように何度も言っていたらしい事)から無理。
浅井家、朝倉家が滅ぼされ、伊勢長島の一向一揆が鎮圧されて武田と対織田で連携できる相手がいなくなっている。 本願寺顕如が畿内で織田と戦っているようだが一度織田と和睦している事を考えると敗れるのは時間の問題。
これらの状況を打開するにはやはりまだ織田が畿内で本願寺勢力と戦っていて、武田相手に全軍を向ける事はない中わざわざ出てきた信長や家康をここで討ち取る、討ち取れなくても織田・徳川軍に痛手を与えて「織田など恐れるほどの相手ではない」と喧伝し、織田や徳川に味方している家臣や国衆達の離反を狙えるようにしなければならない。
普通に調略したところで熱田や津島、堺などの商業が発達した街を押さえ、税が安く豊かな織田を離反し、山に囲まれていて税が重く貧乏な武田に味方する者はほとんどいないでしょうから。
騎馬隊って存在がそもそも怪しいとか
5:11このエピソードで勝頼が頭脳戦に弱いとわかる。
歩兵相手に三段打ちは十分有効なんじゃないの?武田の騎馬隊はせいぜい2000くらいしかいなかったみたいだけど
武田軍はこの合戦で実戦経験豊富な中堅武将を数多く失っている。
この後の武田軍が本当にもろかったのはそのせいである。
事実上、長篠の戦いで武田家は終わっていた。
今年は一緒に飲もう 一人じゃ大きいココナッツ
そんな長篠の合戦を太鼓のリズムで表現したのが、
こちらになります。
ruclips.net/video/VBbVmBsQ0Xc/видео.html