Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
ここの生まれです。三歳まで住んでいましたが、少しだけ記憶があります。4:46頃の写真に写っているアスパラのネオンサイン、我が家の二階から見えました。幼いわたしはいつもそれを見るのが好きでした。本当に懐かしい……。
毎回とても興味深く楽しみにしてます😊ずっとずっと続けてくださいね。ありがとう♡
長年勤めてきた場所です、来年で定年。感慨深いものがあります、素敵な動画をありがとうございます😊
1984~2001年まで勤務していました。私が勤務していたビルももうありません。都会の時の流れを感じますね。豊川稲荷の境内のお茶屋さんのラーメンがおいしくてよく通ってました。
懐かしいです1952年(S27)ごろの写真で、右側に弁慶掘りが写っていて、堀沿いに都電が通ています。四谷から赤様見附を通って、溜池の方まで行っている路線ですね。都電を四谷から乗って、上智大のグランド脇を通って、右側に迎賓館が見えましたネ。赤様見附までの間で一か所トンネルがありました。現在は首都高速が通っています。1967年(S42)の写真の真ん中あたりに「BROTER」の看板のある2階建ての建物がありますが、ここではブラザーのミシンや編み機を販売していて、編み物教室も行われていたそうです。私の母が通ていたと聞いています。その下に写っている2階建ての白い建物は、交番ですね。今も交番は健在のようです。懐かしい写真をありがとうございました。
1952年と67年の変化が凄まじいですね。たった15年でここまで変わるとは高度経済成長恐るべしです💦一方で67年から現在に至る57年間ではそう劇的には変わっていないのは、日々新しいものがどんどん出てくるように思える現代においては逆に意外に思えます。それだけ高度経済成長時代の世の中の移り変わりは、当時の人からすると毎日が我々の想像を絶するようなミラクルワールドだったに違いないですね😅
間もなく90歳となる母に都内の風景を見せております。懐かしいわと感慨深く拝見しております。こうして拝見できる事にとても感謝しております。これからも更新をヨロシクお願いします。
本来、江戸は水郷都市だったのに、ほとんどの河を暗渠にしてしまって殺風景になりすぎましたね。安全であることは大切ですが、風情も必要。また水のある街に戻していくような開発を、今後は進めていってほしいものです。
いつも楽しく拝見させております。ちょうど2008年頃に仕事でよく赤坂見附を通っていました。知らなかった史跡など、とてもためになりますありがとうございます。亡きお父様の撮影した同じ場所で同じ被写体を撮影して、お父様とリンクしているのですね。自分の事のように感慨深いです。
若者のイキッタ動画、調子にのった動画…やはりオトナの鑑賞に価するのはこういう動画なんだと…実感⤴️⤴️今後も頑張ってくたまさい、応援しています😃
何かを下げて優越感に浸りさらに自分からオトナの鑑賞に価するって、、
いつも有難う御座います。45年前にもなりますか、赤坂見附の交差点で交通事故にあいました。そこ頃、赤坂見附辺りはホテルニュージャパンの火事があったり大変だった記憶があります。
以前、ブログの写真用にと、四谷の迎賓館から永田町の国会議事堂~赤坂見附まで歩いたことが有ります。意外に昔からの建物や遺跡?も有って、当時いい写真が撮れたと喜んだのを覚えています。昔のものをやたら壊して新しく建て替えるのではなく、残すものは残す日本人のサガ。東京が変にコンクリートジャングルにならなかった理由が、分かったような気がしますね。😊😊😊
ロボット刑事Kのオープニングも赤坂見附でしたね(^ ^
Merci beaucoup pour cette très belle vidéo ! ✨👍🙏
その脇の都道府県会館いくことあるのに、サムネから全く想像できない過去一の難易度だった。
2:47 遠目で見ると左の石積み江戸時代のものそのままに見える毎日ランチここで食べれたらそれだけで贅沢だ😅
初期の写真は露光時間が長く動いてる物は写らなかったそうな。後から人物を書き足すのはそんな事情が有り、背景のサイズ感を知らない人が書き足すと不自然な事になるのかも知れませんね。
豊川稲荷は小さいなりにも盛りだくさんで垂れ乳イチョウや境内の茶店で食べられる茶飯おでんや立派なブロンズ製のお狐様など見るべきものも多い場所。大岡越前ゆかりの寺院ですね。
明治の平均身長は男性が157センチ、女性が147センチ(明治33年調べ)なので今と比べると10センチ以上差があるので小さく見えるのはそのためかもしれませんね。
瓦屋根の家が密集していて未舗装の道を土埃を上げて行き交う荷馬車が通る街が僅か155年後には高速道路に高層ビル群が林立する街に変化するとは凄い変化ですね。😮同じ位置とは思えません。驚きました。😮
6:19 レッドブルの宣伝カーが走っていますね〜
15年だと建物も植栽も変わってないけど、50年経つと戦後に建ったビル群ですら跡かたなく建て替わってる。さすが東京。すげーなあ。
16年前に溜池で仕事をしてたので、よく見附で飲んだりしてました。ランチのあと見附の門の跡地でまったりなんて、歴女にとってはめっちゃ羨ましい❗
明治11年5月の「紀尾井坂の変」、霞が関の自宅を出た大久保利光の馬車は、てっきり弁慶橋を渡って清水谷に向かっていったと思い込んでいました。今回の動画で弁慶橋架橋の年を知り、これまでの勘違いを知ることとなりました。
赤坂見附跡から現在の紀尾井町ガーデン(旧赤坂プリンス)の脇の道を通って行ったぽいですね。昔の写真をよく見ると色んなことが想像できますね!
寺社仏閣は、やはり都会のオアシスでもありますね。電車に乗って居ても、緑が多いのは神社かお寺のあるところだけだなぁと再開発の進んだ近年特に思います。
先月、神宮球場で大学野球観戦後、外苑前ー赤坂見附ー桜田門まで徒歩移動しました。特に三宅坂~桜田門は、車も人通りも少なく、散歩道には絶好の通りですね。
松尾芭蕉の「月日は百代の過客にして、、」を思い出した。目の前に見えている景色も移ろいの中の一瞬なんですよねえ。
赤坂見附って城門由来なんですね。。。1871年には建築部分は解体されて現存しない模様。。。今では見られないのは残念です(´・ω・`)それはさておき1967年の時点でも高層ビルが乱立しておらず空が高く見えますね!
東京いや日本で最初の超高層ビル霞が関ビルが完成したのが1968年。それ以前の東京は本当に高いビルなどなく全体的にノッペリした街でした。36階ということでたくさんの人が訪れました。かくいう小生もわざわざ見学に行ったものです。
台湾台北板橋や瀋陽旧奉天に日本保護地時代の名残りがあります
@@heartwave6469 霞ヶ関ビル→京王プラザホテル→新宿三井ビル→池袋サンシャインという順番で日本一高いビルが更新されていった記憶。いちいち訪れていました
@@かがみ純 京王プラザホテルは確か最上階にバーランジがあり下界を見下ろしながらカクテルが飲めるのが売りでその後何度かニューヨークの気分で通ったもんです。
赤坂見附駅は東京メトロの乗り換えで何度も利用しましたが、外へ出たことはありませんでした。
5:45横断歩道の跡ですかね?
はぁ、江戸城が残ってれば少しは日本の文化がもっと身近だったんだろうか...残念で仕方がない
時代が進むごとに空が遠くなってゆく…
懐かしいタナベの看板が時代を表している。今は完全子会社になっちゃった。
アスパラでやりぬこう。
@@mamiz2203 弘田三枝子さん ruclips.net/video/FVJ1hlNrFBk/видео.html
その前は「生き抜こう」でしたね。
@@mamiz2203 厚生省に叱られちゃって変えたんですよね
@@kumavich2010 さん、そうですね。他には森永製菓のエールチョコ「大きい事はいい事だ」。メーカーは忘れましたが、「私作る人、私食べる人」等も🚫になりました。
赤坂見附の石垣は移設されていたと思う。書き込みだとしても写真の縮尺はおおよそ合っているのじゃないか
溜池の写真は残ってないのでしょうか
昔のドラマや映画ではよく赤坂見附の交差点が出てきました。二重になった立体交差が現代の東京、大都会の象徴としてカットに選ばれていたのでしょうね。
赤坂はかつて若い頃1980-90年代に職場があった懐かしい場所です。
昔の写真と同じ石積みになってる部分を見たいですね
自動車の交通がほぼないのに明治時代の道が無闇に広いのって火災の延焼防止のためなんだろうな~
ここは中学校の時に通学したところです
2:46 憩いの場を横目にいつも通勤しております。
変なコメントでごめんなさい。2:14の写真には画面中央上部に大きく顔のようなものが映ってませんか?
この頃はまだ生きてたな俺も
なんか超一等地だと必ず元住人って奴がコメ欄に表れますが、ホントかよって思います笑
三歳の記憶って?、、ホントかよスゲーな、あり得ないよ。
失われた30年を実感する変化のない時代と、高度成長期の国が変わったかのような変化。日本人は変化に臆病になっているね
第一次大戦終戦後国際連盟に加盟され権益保護地と割譲された満州!万世駅や東京駅観ると奉天の煉瓦建造物に似ている!
ここの生まれです。
三歳まで住んでいましたが、少しだけ記憶があります。
4:46頃の写真に写っているアスパラのネオンサイン、我が家の二階から見えました。
幼いわたしはいつもそれを見るのが好きでした。
本当に懐かしい……。
毎回とても興味深く楽しみにしてます😊
ずっとずっと続けてくださいね。ありがとう♡
長年勤めてきた場所です、来年で定年。感慨深いものがあります、素敵な動画をありがとうございます😊
1984~2001年まで勤務していました。私が勤務していたビルももうありません。都会の時の流れを感じますね。豊川稲荷の境内のお茶屋さんのラーメンがおいしくてよく通ってました。
懐かしいです
1952年(S27)ごろの写真で、右側に弁慶掘りが写っていて、堀沿いに都電が通ています。
四谷から赤様見附を通って、溜池の方まで行っている路線ですね。
都電を四谷から乗って、上智大のグランド脇を通って、右側に迎賓館が見えましたネ。
赤様見附までの間で一か所トンネルがありました。
現在は首都高速が通っています。
1967年(S42)の写真の真ん中あたりに「BROTER」の看板のある2階建ての建物がありますが、
ここではブラザーのミシンや編み機を販売していて、編み物教室も行われていたそうです。
私の母が通ていたと聞いています。
その下に写っている2階建ての白い建物は、交番ですね。
今も交番は健在のようです。
懐かしい写真をありがとうございました。
1952年と67年の変化が凄まじいですね。たった15年でここまで変わるとは高度経済成長恐るべしです💦
一方で67年から現在に至る57年間ではそう劇的には変わっていないのは、日々新しいものがどんどん出てくるように思える現代においては逆に意外に思えます。
それだけ高度経済成長時代の世の中の移り変わりは、当時の人からすると毎日が我々の想像を絶するようなミラクルワールドだったに違いないですね😅
間もなく90歳となる母に都内の風景を見せております。
懐かしいわと感慨深く拝見しております。
こうして拝見できる事にとても感謝しております。
これからも更新をヨロシクお願いします。
本来、江戸は水郷都市だったのに、ほとんどの河を暗渠にしてしまって殺風景になりすぎましたね。安全であることは大切ですが、風情も必要。また水のある街に戻していくような開発を、今後は進めていってほしいものです。
いつも楽しく拝見させております。ちょうど2008年頃に仕事でよく赤坂見附を通っていました。知らなかった史跡など、とてもためになりますありがとうございます。
亡きお父様の撮影した同じ場所で同じ被写体を撮影して、お父様とリンクしているのですね。自分の事のように感慨深いです。
若者のイキッタ動画、調子にのった動画…やはりオトナの鑑賞に価するのはこういう動画なんだと…実感⤴️⤴️
今後も頑張ってくたまさい、応援しています😃
何かを下げて優越感に浸り
さらに自分から
オトナの鑑賞に価するって、、
いつも有難う御座います。45年前にもなりますか、赤坂見附の交差点で交通事故にあいました。そこ頃、赤坂見附辺りはホテルニュージャパンの火事があったり大変だった記憶があります。
以前、ブログの写真用にと、四谷の迎賓館から永田町の国会議事堂~赤坂見附まで歩いたことが有ります。
意外に昔からの建物や遺跡?も有って、当時いい写真が撮れたと喜んだのを覚えています。
昔のものをやたら壊して新しく建て替えるのではなく、残すものは残す日本人のサガ。
東京が変にコンクリートジャングルにならなかった理由が、分かったような気がしますね。😊😊😊
ロボット刑事Kのオープニングも赤坂見附でしたね
(^ ^
Merci beaucoup pour cette très belle vidéo ! ✨👍🙏
その脇の都道府県会館いくことあるのに、サムネから全く想像できない過去一の難易度だった。
2:47 遠目で見ると左の石積み江戸時代のものそのままに見える
毎日ランチここで食べれたらそれだけで贅沢だ😅
初期の写真は露光時間が長く動いてる物は写らなかったそうな。後から人物を書き足すのはそんな事情が有り、背景のサイズ感を知らない人が書き足すと不自然な事になるのかも知れませんね。
豊川稲荷は小さいなりにも盛りだくさんで垂れ乳イチョウや境内の茶店で食べられる茶飯おでんや立派なブロンズ製のお狐様など見るべきものも多い場所。大岡越前ゆかりの寺院ですね。
明治の平均身長は男性が157センチ、女性が147センチ(明治33年調べ)なので今と比べると10センチ以上差があるので小さく見えるのはそのためかもしれませんね。
瓦屋根の家が密集していて未舗装の道を土埃を上げて行き交う荷馬車が通る街が僅か155年後には高速道路に高層ビル群が林立する街に変化するとは凄い変化ですね。😮同じ位置とは思えません。驚きました。😮
6:19 レッドブルの宣伝カーが走っていますね〜
15年だと建物も植栽も変わってないけど、50年経つと戦後に建ったビル群ですら
跡かたなく建て替わってる。さすが東京。すげーなあ。
16年前に溜池で仕事をしてたので、よく見附で飲んだりしてました。ランチのあと見附の門の跡地でまったりなんて、歴女にとってはめっちゃ羨ましい❗
明治11年5月の「紀尾井坂の変」、霞が関の自宅を出た大久保利光の馬車は、てっきり
弁慶橋を渡って清水谷に向かっていったと思い込んでいました。今回の動画で弁慶橋
架橋の年を知り、これまでの勘違いを知ることとなりました。
赤坂見附跡から現在の紀尾井町ガーデン(旧赤坂プリンス)の脇の道を通って行ったぽいですね。
昔の写真をよく見ると色んなことが想像できますね!
寺社仏閣は、やはり都会のオアシスでもありますね。電車に乗って居ても、緑が多いのは神社かお寺のあるところだけだなぁと再開発の進んだ近年特に思います。
先月、神宮球場で大学野球観戦後、外苑前ー赤坂見附ー桜田門まで徒歩移動しました。特に三宅坂~桜田門は、車も人通りも少なく、散歩道には絶好の通りですね。
松尾芭蕉の「月日は百代の過客にして、、」を思い出した。
目の前に見えている景色も移ろいの中の一瞬なんですよねえ。
赤坂見附って城門由来なんですね。。。
1871年には建築部分は解体されて現存しない模様。。。
今では見られないのは残念です(´・ω・`)
それはさておき1967年の時点でも高層ビルが乱立しておらず空が高く見えますね!
東京いや日本で最初の超高層ビル霞が関ビルが完成したのが1968年。それ以前の東京は本当に高いビルなどなく全体的にノッペリした街でした。36階ということでたくさんの人が訪れました。かくいう小生もわざわざ見学に行ったものです。
台湾台北板橋や瀋陽旧奉天に日本保護地時代の名残りがあります
@@heartwave6469 霞ヶ関ビル→京王プラザホテル→新宿三井ビル→池袋サンシャインという順番で日本一高いビルが更新されていった記憶。いちいち訪れていました
@@かがみ純 京王プラザホテルは確か最上階にバーランジがあり下界を見下ろしながらカクテルが飲めるのが売りでその後何度かニューヨークの気分で通ったもんです。
赤坂見附駅は東京メトロの乗り換えで何度も利用しましたが、外へ出たことはありませんでした。
5:45
横断歩道の跡ですかね?
はぁ、江戸城が残ってれば少しは日本の文化がもっと身近だったんだろうか...
残念で仕方がない
時代が進むごとに空が遠くなってゆく…
懐かしいタナベの看板が時代を表している。今は完全子会社になっちゃった。
アスパラでやりぬこう。
@@mamiz2203 弘田三枝子さん ruclips.net/video/FVJ1hlNrFBk/видео.html
その前は「生き抜こう」でしたね。
@@mamiz2203 厚生省に叱られちゃって変えたんですよね
@@kumavich2010 さん、そうですね。他には森永製菓のエールチョコ「大きい事はいい事だ」。メーカーは忘れましたが、「私作る人、私食べる人」等も🚫になりました。
赤坂見附の石垣は移設されていたと思う。書き込みだとしても写真の縮尺はおおよそ合っているのじゃないか
溜池の写真は残ってないのでしょうか
昔のドラマや映画ではよく赤坂見附の交差点が出てきました。二重になった立体交差が現代の東京、大都会の象徴としてカットに選ばれていたのでしょうね。
赤坂はかつて若い頃1980-90年代に職場があった懐かしい場所です。
昔の写真と同じ石積みになってる部分を見たいですね
自動車の交通がほぼないのに明治時代の道が無闇に広いのって火災の延焼防止のためなんだろうな~
ここは中学校の時に通学したところです
2:46 憩いの場を横目にいつも通勤しております。
変なコメントでごめんなさい。2:14の写真には画面中央上部に大きく顔のようなものが映ってませんか?
この頃はまだ生きてたな俺も
なんか超一等地だと必ず元住人って奴がコメ欄に表れますが、ホントかよって思います笑
三歳の記憶って?、、ホントかよスゲーな、あり得ないよ。
失われた30年を実感する変化のない時代と、高度成長期の国が変わったかのような変化。日本人は変化に臆病になっているね
第一次大戦終戦後国際連盟に加盟され権益保護地と割譲された満州!万世駅や東京駅観ると奉天の煉瓦建造物に似ている!
長年勤めてきた場所です、来年で定年。感慨深いものがあります、素敵な動画をありがとうございます😊
長年勤めてきた場所です、来年で定年。感慨深いものがあります、素敵な動画をありがとうございます😊