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慶喜が最期に公の場に現れたのは、架け替えた日本橋のプレートを揮毫し、それを填め込む式典。明治晩年に生まれ、令和初期においてご健在であれば、日本最高齢グループでしょうが、数人ほどいらっしゃるそうですね。その中に2~3人ほど、その式典で慶喜を生で見たと証言しておられました。とはいえ、「親に背負われて、訳も分からず出掛けた」だけで「何のイベントだったかは知らない」そうだけど、壇上に「妙に品のあるお爺さんが座っていらっしゃったのは覚えている」そうでした。当然、それが誰であるかは分からなかったけれど、やがて学校に通う中で「あ、あれが慶喜だったのか!」と後付けで知ったそうです。
静岡市葵区出身です。私も祖母から慶喜さんの話を聞いたことがありまして、祖母の義母談ですが慶喜さんが自転車で首からカメラを掛けてやってて来て、田んぼで作業をしている農夫たちを撮影するのに『動くな!止まって!』←どう言ったかは分かりませんが、動きを止める様に指示するらしく、ケーキさんが来ると仕事が出来ない(笑 と、笑いながら話していたと聞き、ちょっと変わってる?けど面白い人なんだなーと言う印象でした。私が小学生の頃聞いたお話です。
とても貴重なお話しありがとう。
晩年の徳川慶喜初めて知った。この方の感性、現代人にかなり近いので、驚いている。考え方にせよ、感性にせよ、当時としてはかなり先進的な方だったんだなと思う。徳川の当主として最終的な地位の復権も獲得するなど、歴代の方々が同じ立場だったら多分できなかったであろうこともしており、本当にすごい方dったんだなと思いました。
元将軍が株式で収入を得ていたことが面白く感じました。
株式とは今回初めて聞きました。慶喜家の生活費は渋沢さんがみていた、と慶喜さんのお孫さんが言っていましたが。
You Tubeで慶喜チャンネルがあったらとか想像してしまうほど多趣味で好奇心旺盛、行動的。
水ダウで徳川慶喜を生で見た事がある人云々というのを放送していたのがもう9年くらい前かな。番組では本当に慶喜を見た事がある人がご存命でした。2023年の現在でも日本の最高齢の方は1907年生まれの116歳なので、地理的に直接見た事があるかと言えばそれはかなり難しいいでしょうけど、年代的には1913年まで存命だった最後の将軍慶喜公とまだ5年間は同じ時代を生きておられた事になり、考えてみるとスゴイですね。
偉い人だ。ぜったいに「武士の世に戻しましょう!さあ決起しましょう!」て話、いっぱい来たと思う。そのたび「うるさいなー。今、このビフテキを美味しく食べてるとこなんだから、あっち行ってなさいよ」て蹴散らしたと思う。この人は、自分が「何もしないこと」が、どんだけ日本国家のためになるのか、心底理解していたと思う。艱難辛苦に耐えるも世のため。突撃するも世のため。切腹するも世のため。学問するも世のため。そして隠遁するも世のため。明治の日本人は、本当に素晴らしい。
鳥羽伏見で反撃をすることなく、そのまま江戸に戻ったことで紀州藩や桑名藩は戦闘が回避され、姫路藩ものちに新政府に版籍奉還を提案するなど慶喜の取った一連の行動は大きい所があります。
最後の将軍と自分の生まれた時の天皇陛下・・昭和天皇と面識があったという事に個人的にはロマンを感じます。江戸時代も決して遠い昔ではないのだなというか。
徳川埋蔵金のありかを明治新政府に追及されなかったのだろうか。
@@Sachio-dw6xk あったら倒幕されてないよ。もう葵三代でハコテンになってる、だから小判を半分にしたりしてた。
慶喜さん家は家仕舞い5代で終了します。ってニュースで見た。😢
いま生きてたら、まっさきに、iPhone15pro手に入れそう..
私も生まれた時の天皇陛下は裕仁様でしたが、平成後期に生まれた世代にとって昭和天皇というのはおそらく徳川慶喜のような存在なんでしょうね
宗家との関係など、非常に面白かったです。徳川方から見ると、頼りない将軍だったかもしれませんが、日本のためには素晴らしい身の処し方ですね。超勝ち組です。ただ、慶喜中心の新しい日本も見てみたかった気もします。
地元静岡では今だに慶喜(けいき)さんと親しまれています、因みに美人に見惚れて商店に自転車で突っ込んだのは事実です
これが世にいうダイナミック入店の元祖か...
江戸に逃げ帰ったことや趣味に明け暮れたことは解せませんでしたが、あらん限りの考えの上でされた事と、終生自分の役目として天皇を慕い敬い通した事を知り大変感慨深く勉強になりました。
@@kennel4724 言われる通りかもしれませんね(;・ω・)
@@lunamond9336 静岡市在住時に撮られた写真は往時の姿を納めた貴重な資料になっています、色々と有りましたが静岡時代が一番気楽にと言っては語弊が有るかも知れないですが日々の生活を楽しく過ごされたと思います
@@lunamond9336 江戸にかえった事に否定的に言われるの可哀想
将軍としては負けたけど隠居後は政府から静岡県の予算と近い学の小遣いを支給されて道楽に没頭した人生は完全な勝ち組
本当の大政奉還は、教科書に載って無い裏話がありますよ。上杉が新政府軍に入ろうとしています。しかし長州は、上杉が天皇陛下のお気に入りなのを知っていて、上杉が和解工作をするのを恐れ断ります。そこで上杉は、天皇陛下と謁見して、海外の力を借り、スパイ行為をして卑怯なクーデターをする薩長に錦の旗印を渡すなら、上杉は最後の1人になる迄、幕府軍として戦う。そうなれば、なんの罪の無い民が沢山死にますよ。それでも構わないんですか?陛下は、御理解され、確かにその通りだ。慶喜公には、申し訳ない事をした。ただ、薩長が力で倒幕すると聞かないから、少しだけ戦って負けたフリをする欲しい。それを、慶喜公に伝えようとすると、途中で、薩摩、加賀に続いて上杉までも長州に付いたか?上杉言います。上杉は違う、最後まで幕府軍として戦う。ただ、相手の大将(天皇陛下)がお認めになったのだ。この戦にやる価値は無いと。最後の将軍慶喜公の言葉は、梅(加賀前田)じゃなかった杉(上杉)だった。260年間虐げて申し訳無かった。それに引き換え100万石も与えて、キツネ(長州毛利)一匹押さえれない。本当に情けないです。薩長、土佐、加賀で300万石。旧幕府軍、約1000万石以上。まともなら、負ける訳ありません。天皇陛下のお願いを聞いただけです。会津を落した薩長は、俺達は強い、侍に勝ったと大はしゃぎ。それを見た天皇陛下は、清(セイ)と一喝。お前達は、海外の力を借り卑怯なクーデターをしただけだ。侍を本気にさせるな。幕府軍が本気なら、お前らなんか皆殺しにされている。侍がゆずってくれただけだと仰っしゃられ、薩長は皆黙り込み下向いたとか。この清(セイ)という言葉が本当の天の声。芸人ハードゲーがセイセイセイと言って出て来ると、御半島出身の芸能人は大人しくなりますよね?天の声ですから。笑笑 長州は薩摩の50万石が欲しくて、背乗りされただけですよ。旧幕府軍からしたら、タダの裏切り者の笑い者です。笑笑 長州?稲荷じゃないですか?稲荷の大将は荼吉尼。女夜叉です。上杉は毘沙門天。毘沙門天は夜叉の王様ですからね。日中戦争の時も、大日本帝国軍だけで勝てるから、頼むからお金を貸してくれ、頼みの薩摩(海軍)が負けたら、頼むから手伝って下さい、最期には、日本を経済で世界一強い国にするから、頼むから死んでくれ?負け犬の長州は、祠から出て来るな。笑笑 慶喜公はじめ、旧幕府軍の勝ちですよ。
まさかの自動車を持っていたとは驚きです。写真も感動的ですね。素晴らしい動画です。
第一回の東京市長選挙があったとき、側近のものが、立候補なさいませと薦めたところが、市長の業務内容を聞いていた慶喜は、よくよく話しを聞いてみれば、それは江戸町奉行のようなものではないか、余がいまさらそのようなことができるか馬鹿馬鹿しい、と非常に不興であったというのも、面白いエピソードです。
ちなみにその側近は勝海舟です
@@やまなかそういちろう なるほど
「確かに一城をも守れぬ方に一市の任は少々重いでしょうな」くらい言ってやればよかったのに
途中で逃げ出すよ
@@kennel4724 論理、逆では? 「一市を守れぬ方に一城が守れるはずがない」では?
本人の意志や意図は分かりませんが、明治維新後に大人しくしていてくれたことは、日本の発展に大きく貢献してくれたと思うのです。
戊辰戦争で味方見捨てて逃げたからな反乱起こそうたって誰もついてこんやろ
慶喜が銀座にショッピングに行ったところを偶然見かけたという人がまだご存命でTVに出てたね(数年前の話)。
なんか水曜日のダウンタウンで見た気がします
現代に慶喜いたら、絶対RUclipsチャンネル立ち上げてる。初投稿 最期の将軍だけどなんか質問ある?
明治維新後、ただ趣味に明け暮れていたのかと思っていたのですが、絶妙なバランス感覚で波乱の時代を生き抜いていたのですね。
歴史を知れば知るほどこの慶喜公の偉大さがわかる。私利私欲に走らないそのままの性格でこれが日本の歴史転換点になったんだと思う。西郷隆盛とこの慶喜公は後世から振り返っても偉人だと思います。
良くも悪くも、世渡りが上手い方だったのですね。
水曜日のダウンタウンで「徳川慶喜を見たことある人まだ居る説」ていうの思い出した。マジでただの現代人
14:37長州は最初から敵だったからいいが薩摩は途中で裏切ったから嫌いってところで笑ってしまったwwやっぱりそう思ってたんだなww
関ヶ原の合戦で、家康は島津兄弟だけは逃がしてやれと指示を出しています。たった500人で、七万人を突破出来る訳ありませんから。家康は、いずれ長州が謀反を起こすだろうからと減俸もせずに恩を売り、長州がなにかしたら、薩摩と加賀とではさみ撃ちにする計画でした。薩長同盟を結んだ時の島津の城主は、かなりの重病で、西郷が薩長同盟を締結したのを床で聞き、長州、土佐と同盟?他には?日本人の大名は薩摩だけじゃないか?大義あるなら徳川に申し訳ない、と漏らしています。土佐の長宗我部は秦の始皇帝の末裔。長州は元々、朝鮮系の大内。毛利元就の正室は大内義隆の養女ですからね。上杉が、新政府軍に入ろうとすると、長州はそれを拒否。上杉は天皇陛下のお気に入りですから、自分達の思いとおりに出来ない事を恐れて。上杉は天皇陛下と謁見して、海外の力を借り、スパイ行為をして、卑怯なクーデターを起こす薩長に、錦の旗印を渡すなら、売りは最後の1人になる迄、幕府軍として戦う。そうなれば、なんのつみの無い民が巻き添えになり、沢山死にますよ。陛下はそれでも構わないんですか?と諭し、陛下も御理解されて、慶喜公には、申し訳ない事をした。ただ、薩長が力で倒幕すると聞かないから、少しだけ戦って負けたフリをして欲しい。上杉からのお願いは、慶喜公の命の保証と、新政府での重要なポストでした。上杉が慶喜公に伝えようとすると、話の途中で、加賀に続いて上杉間でもが長州に付いたか?と言い、上杉は違う。上杉は最後迄、幕府軍として闘う倒幕言うと、慶喜公は、梅(加賀の前田)じゃなかった杉(上杉)だった。260年間虐げて申し訳無かった。それに引き換え、100万毛利元就与えて狐一匹押さえれない。情けないと言っています。会津を落した薩長は、俺達は強い。侍に勝ったと大はしゃぎ。それを見た天皇陛下は、清(セイ)と一喝。幕府軍を本気にさせるな。幕府軍が本気ならお前達なんか皆されている。幕府軍は、譲ってくれただけだと仰ると、薩長は、皆黙り込み下向いたそうですよ。コレが大政奉還の事実です。義隆公は、新政府において、枢密院になっていますが、薩長が幅をきかせ真艫なことを言っても多数決で却下。アホらしなって辞めてます。だいたい、新政府軍の領地が約、250万石。旧幕府軍の領地が約1000万以上。真艫に闘って幕府軍が負ける分けてないです。私の家は上杉の流れを組みますが、父から聞かされています。日中戦争のときも、長州が旧幕府軍に、今の中国なら新政府軍だけで勝てるから、たのむからお金を貸してくれ。お前ら裏切り者だから信用がないから貸さない。そしたら、豊田左吉(トヨタの創業者)が出て来て、戦の時は俺達も手伝ったから、貸してやってくれ。ならお前に貸してやるからお前が貸してやれ。旧幕府軍は、又裏切り者の売国奴が、中国でおかしな事をやってるわ。(覚醒剤ビジネスに人体実験)。もうそろそろ、稼いだだろ?貸した金返せ。長州がまだまだ儲けたいと返さない。そのあたりから、アメリカが人体実験知り参戦準備。幕府軍と長州の板挟みになり真珠湾攻撃。オイ、中国との戦争じゃないのか?何をアメリカに戦争ふっかけた?金をかえせ。佐吉はそんな事言うなや暇があったら手伝って下さい。旧幕府軍の中堅以下の武士は南方に送られアメリカ軍に殺させて。上杉と徳川は、旧幕府軍の仲間から出撃をしない様に言われてました。いよいよ、本土が危なくなると豊田佐吉は、経済で日本を世界一強い国にするからたのむ死んでくれと。上杉の武士が沢山特攻にでています。その時佐吉は、よーし目の上のたん瘤の侍は居なくなった、借りた金も返さなくて良い、これが本当の一石二鳥だと、単身アメリカに行き、鉄鋼業をやらせて下さい。大統領は、なんだこの小汚いジジイは?ヘイヘイ私は豊田佐吉で御座います。はぁ?お前が、豊臣の御抱の百姓の豊田か?何でお前みたいな奴が出てくる?侍が何故来ない?佐吉は侍は皆死にました。だから、わたしがかわりに来ましたと。そこに、日本から連絡があり、上杉と中国が生きています。まだまだ健在ですと。佐吉は、あの2人が生きていたらワシャ帰れん、殺されるから。大統領に土下座して、何とか手土産を下さい。大統領の言葉は、お前みたいな醜い奴は見たことが無い。お前はあの男(天皇陛下)とは大違いだ。お前は侍に守って貰っていたのに、何故裏切る?彼奴等に殺されろ。大統領は思いついたんですよ。お金でハイと言わない侍よりも、脅せばお金を出すからと佐吉を犬にして日本人奴隷計画と、日本人撲滅計画を。アメリカが参戦する時に、色々な分野の学者を集めて、日本人を研究して2つだけ解明できなかったのが、侍の切腹と介錯です。何故、負けたら自ら生命を絶つのか?何故、切腹しているのに、首を落とすのか?アメリカは、大政奉還を後から知り、イギリスがインディアンみたいに殺し合いをさせて、侍が居なくなったと勘違いして参戦に踏みきってますから。佐吉は日本日本帰り、旧幕府軍に呼びつられ、日本が無くなるかしれない時に、敵国に何しに行った?旧幕府軍も、長州と裏で組んで、絵を描いてアメリカに侍をころさせる為の戦争だったと気付いてますから。土下座して、手土産があるから、手伝って下さい。手土産?まずは借りた金を遺族に返してやれ。ワシャ知らん。長州が借りた。ほう、長州が?こんな汚いヤツは殺せ殺せなり、佐吉は脱糞。何だコイツ、臭いから帰って糞して寝ろ、馬鹿野郎が。佐吉、ハイすいませんでした。オイ、今度日本に何があったら、どうする?ハイ、その時はお金はトヨタが全て負担させて貰います。それが嘘ばっか。トヨタが国のに為に何がしてますか?薩長が、何ができますか?慶喜公が薩摩嫌うの当然です。以前、お爺さんが大日本帝国軍の海軍副総司令官立ったというのと知り合い、昭和天皇度2人で写真に写っていると言うから、お前ら弱い薩長がアメリカに勝手に、戦争ふっかけやがって言ったら、確かに薩長は弱い。迷惑をお掛けしてすいませんでした。言ってましたわ。山口県出身の総理?要らないです。売国奴ですから。負け犬の遠吠えって、長州の大内が毛利元就に敗れて、百姓でも何でもやるから、切腹は勘弁歯てくれと泣きついてきた、毛利元就は困り果て、朝鮮系の大名は朝廷が決めるので、朝廷は何が百姓だ?武士は負けたら切腹だろ。だから朝鮮系は駄目だと言われるんだ。卑しい商売人になれと。毛利元就は、情けをかけて、少しの土地と大内田と名前を与えましたが、キツイ年貢を取っていたためだれも相手にせず、土地を売り商売をやってやるも失敗。居場所が無くなり、森に行き毎晩大きな声で悔しいよ〜、寂しいよ〜と叫んでいたのが、負け犬の遠吠えの由来。山口県には、海岸に稲荷が祀られてますからね。キツネが犬です。笑笑 隣の島根県には、出雲大社があり、大黒様がいて稲荷は大黒様のただの使い走りです。旧幕府軍からしたら薩摩は、稲荷に背乗りされ利用された裏切りのですね。笑笑 長くなりましたが、これが事実です。因みに、天皇陛下のセイが、本当の天の声です。芸人のハードゲーが、セイセイセイと言ってでてくると御半島出身者はおとなしなります。笑笑
素晴らしい!これまでで一番腑に落ちる慶喜動画でした!大感謝!
結局慶喜さんは生涯天皇の家臣を貫いたと思うと、全ての幕末の行為に納得がいきます。
慶喜はかなりの秀才で時勢の流れもちゃんと読める人だったのだと思います。大阪から江戸へ逃げ帰ったのも、全面的に戦いになり欧米列強に隙を作るのを避けたかったのかも。晩年は従順に徹して反政府の勢力に担ぎ上げられるのを避け、政界の世界に返り咲いたのは凄い。
大将として兵を置き去りにして自分だけ逃げ帰った将軍が優秀ですか…。聡明な天璋院篤姫や和宮から嫌われていたのは優秀だからですかね?
@@takokun414 優秀じゃなかったら死んでるんだよなぁ
優秀だったら最初から戦わないように持っていくはず。ただの臆病者。
@user-lu2zh4xp9f 慶喜は過大評価されすぎの歴史人物の一人
@@あおい-n6c9i 本人は武装解除の命令もせず、敵前逃亡のような形で逃げ帰って生き延びたが、その代わり多くの幕臣が、その後の戊辰戦争、上野戦争で亡くなってます。
すごく良い動画だったありがとうこれからみなさんのコメント見ます
なんの漫画か忘れたけど、晩年の描写で、子供たち「おじさん昔はどんな仕事をしてたの?」慶喜「昔は征夷大将軍だったんだよ」子供たち「せーいたいしょうぐん?何それ笑笑」みたいなのがあってすごい印象に残ってる
「あー、羽賀研二みたいな?」って言われてずっこける
日本の歴史を教える漫画シリーズでは?自分もよく覚えてます。
徳川慶喜は、「お家、再興!!」などという連中と関わらないように、かつての幕臣が邸宅を尋ねて来ても、絶対に面会をしなかったそうです。そしてまだ慶喜自身が爵位を持っていなかった所謂「無爵位華族」だった頃、明治天皇と会食を持ち、「東京が火の海にならなくて、良かった。」と明治天皇と共に、しみじみ回想したそうです。そして彼自身も正式に公爵という爵位を得ることが出来ました。「自分は、何もしない人で生涯を終える。」この生き方が、潔いです。
西郷が非業の最期を遂げてなかったら、ずっと嫌がらせが続いて消されてしまったと思います。
慶喜は、最も幸運な将軍だったのではないかな。水戸徳川家の7男に生まれて、御三家生まれながら家督を継ぐことも望めない境遇で、一段格下の御三卿の一橋家に養子に出されるも、降って湧いた政治的思惑で将軍に擁立されてしまう。幕府瓦解後も、将軍時代に引き立てた渋沢栄一が稀代の事業家に成長し、駿府の財政破綻を回避できた上、私的にも半ばパトロンになってくれて、渋沢設立の会社のキャピタルゲインで隠遁後も何不自由なく生きられた。
とても興味深く拝見しました。
日本が分裂しても崩壊しなかったのは慶喜さんのおかげ。
一歩間違えれば極刑も免れない時代、無駄なプライドを持たず、周囲の雑音に惑わされず、一歩引いて柔軟に対応した賢さを感じますね
面白い話をありがとうございました!
自分は明治大正を悠々自適に過ごしたし恵まれていたでしょう。ほとんどの旧幕臣は苦しい生活を強いられていたのにも関わらず静岡在住時も傍観していた。旧幕臣の方が面会に来ても会わず(勝海舟や渋沢栄一は例外)もちろん新政府に対する不満を持つ人達の旗頭にされる可能性を考えてとの事みたいですが…
晩年ストーリーは初めて知りましたが聡明、と一括りに表現するのもはばかるくらい思慮深くて、先進的で、行動力もある人だったんですね『将軍』という言葉の印象さえ変わりました
慶喜さんの面白い趣味の一つ、金属の容器に興味を持ち鋳物工場に通って金物の弁当箱の様な物を作ったそうです。其れにご飯や大好きな豚肉のおかずを詰めて風景写真を撮りにでかけたんでしょうか?
慶喜さんは、やはり尊王の志が、終生有りましたね。薩長の企てを察知してたと思います。今年の大河で、少しでも理解されれば良いですね!
幕末志士の中では最も長生きされたそうですね。写真にも凝っていたらしく、人間的な面もあってイメージとは裏腹に好きになりました。
田中光顕…..
@@真田幸村-i5e 上総請西藩主 林忠崇…。
会津藩主・松平容保は孝明天皇に忠勤、そして慶喜に佐幕だった。「なぜ誠が通じぬのか!」は容保の無念であった。だからこそ会津戦争を戦い抜き、誠を貫いた。
てか、働かなくても趣味でお金使えて、いい暮らし! 羨ましいなぁ🎉
シブやんのウルトラパワーが後ろ盾として厳然としてた。
やはり趣味や興味持つことって大事ですね人が見いだしてくれる事がありますね
きんさんぎんさんが生まれた時はまだ慶喜は静岡にいたんですね。現在、慶喜存命中に生まれた男性も世界で残り11人。世界最高齢男性が4歳まで慶喜は生きてた。
徳川慶喜が榎本征伐に行かされていたら土方歳三は死なずに済んだろうし、最後まで血みどろの戦争は回避された。最初と最後の将軍、共に偉大と感じるのは自分だけだろうか・・・
もし逆賊なるをいとわず大阪城に立てこもって籠城戦などやっておればと思えば、戦を回避した慶喜公は名君だったと思います
慶喜の江戸帰還後、慶応4年(1868年)1月12日から江戸城で開かれた評定において、小栗は榎本武揚、大鳥圭介、水野忠徳らと徹底抗戦を主張する。この時、小栗は「薩長軍が箱根を降りてきたところを陸軍で迎撃し、同時に榎本率いる旧幕府艦隊を駿河湾に突入させて艦砲射撃で後続補給部隊を壊滅させ、孤立化し補給の途絶えた薩長軍を殲滅する」という挟撃策を提案した。後に、この作戦を聞いた大村益次郎が「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかったであろう」として恐れたという逸話がある。小栗忠順のウィキペディアからもし、箱根の挟撃策が実行されていたら内乱が激化し外国勢力が日本に軍隊を送っていたかもしれない。徳川慶喜さんは日本を救ったヒーローです。
そう思います。
ビリヤードをした将軍 既に現代人
当方の墓石は日暮里、谷中に有り慶喜公の墓の近くです。美賀子夫人(乳癌で死亡)のお墓と共に並んで建立されており、もの心付いた頃から今に至るまで、当方のお墓参りの節は慶喜公のお墓にもお参りを致します。
150人しか所有者の居ない自動車の免許制度がすでにあった事に驚きだわ!
慶喜も教習所で教官にイヤミ言われながら運転覚えた?w
うちのご先祖様も徳川家に使えていて 慶喜さんに着いて 静岡へ行ったんだよなぁ~
面白かったのでチャンネル登録させて貰います🍀
戸板康二「ちょっといい話」では「ある茶会で、いろいろ世話してくれた、始終穏やかな老人がいて『あの人はどなたか?』と聞いたら徳川慶喜だった」という話があった。
『ちょっといい話』読みなおしてみよう。徳川慶喜も渋沢栄一も谷中霊園に眠っています。久しぶりに訪ねてみようかな。穴子寿司の美味しいお店にも寄ろう🎶🌷
慶喜の評価は、見方によってはいろいろと意見はあるが、個人的には家康と匹敵するくらいの知能の持ち主だったと思う。
鎌倉幕府から始まって何のビジョンもなしに政権交代したのは明治政府だけだと思います。やはり自身の欲しかない薩長だけでは無理だったと思います。やはり徳川慶喜が大人しくしていてくれたからこその明治維新だったと思います。
関ヶ原の恨みだけかな
薩長は当時欧米の属国だった。だから不平等条約改正をあえてせず何十年も放置していた。そもそも条約が不平等条約になったのは薩長が外国人にやったテロが原因。元々はアメリカは関税をイギリスが植民地に強制している関税よりも高めに設定していたけど、薩長が外国人にテロをしたから賠償金の支払いができず関税を下げないといけなかった。
@@yh6146 明治維新と不平等条約と何の関係ありますか?不平等条約を締結したの井伊直弼ではなかったですか。徳川幕府を倒せばなんとかなると甘い考えで倒したけど人材がいないそれが明治維新ですよ。
50くらいでは全く年を取ったとは言えないでしょう。幕末の慶喜はダミーで水戸から会津へ、さらに庄内、仙台と移り最後は北海道へ移り、最後まで戦ったと言う話もありますね。茨城ー水戸には慶喜は明治期に水戸にいたととる説があります。常陸太田に瑞龍山と言う寺がありますが本当はそこに祀られているとする説もあります。会津を筆頭とする奥羽越列藩同盟が成立したなら最後の将軍慶喜が参加しないわけに行かない。いや慶喜がいたから戦おうと団結したのではないかと思います。ダミーや影武者なんていくらでも作れますからね。水戸学と尊王攘夷の思想を学んだ者は簡単に自説を曲げたり、参ったと降参したりはしないものです。
これは、愚か。勝海舟が頻繁に世話していて記録があるのだから、馬鹿馬鹿しい。水戸学だから、尊皇なので、天皇家(官軍)に逆らわず、逆賊を回避したわけですよ。???
確か、慶喜の孫が出した本にのっていました。幼少期に渋沢栄一が遊びにきていたと。
渋沢栄一のお陰で儲けがあって良いと思いますよ。渋沢栄一の活躍は慶喜が取り立ててヨーロッパにも送り出してあげたのですから。渋沢栄一の優秀さもあったのだろうけど、当時なら異例の大抜擢です。渋沢が慶喜に篤い恩義を感じていても不思議ではないはずです。大儲けしたとて、徳川幕府を店じまいしなければならなかった悲しみに置き換えられるものは無いです。
晩年は鉄道にハマって撮り鉄をしていたのは知っていましたが貴族院議員やっていたことは初耳でした。かつての行政の長が立法の一議員として議場で仕事していたなんて驚きです。
本気で戦えば勝てたのに、日本人同士が戦っても外国につけいられるだけと自ら身を引いて大政奉還もした、まれに見る立派な将軍だな
趣味(好きこそものの上手なれ)でも、そのことに詳しくなり、知識を深めていると、やがて仕事人たちが寄って来る。金になるからであろう。
徳川慶喜はかなりの切れ者のような気がします。明治新政府に迎え入れるべき人だったと思います。今の庶民を生かさず殺さず税を摂取するのは明治新政府の考えがそのまま続いている。
終生上様気質だったから無理でしょう。
駿河時代に慶喜が学んだのは今川氏真の生き方だろう。氏真は桶狭間以後得意の蹴鞠を信長に披露したり、徳川、豊臣とも良好な関係を築いた。氏真も慶喜も当時としては長寿で幸せな晩年を過ごしたのは偶然ではない。政治には節度ある距離を長きに保ち、趣味を通して文化人として振舞ったのは簡単であるようでむずかしいと思われます。
最後の将軍様☆
慶喜が引かなければ、日本は外国勢力にやられてたかもしれませんね内乱なんかしてる場合ではない時代だった
何で薩長が内乱を起こしたと考えられないんですかね……?一体武器を何処から調達したんですか??
@@平安の医者 ロス
明治維新のおかげで近代国家になれたという印象が強いが幕府にも近代国家構想はあった薩長が中心か幕府が中心かという違いだけ。
YES
でも、旧幕臣らの既得権益が邪魔だから一新した方が近代化は加速したと考えます。いまの日本政府が悪い例です😂大企業や特定の人への優遇をあからさま過ぎまで、真面目に働くだけ損😢
凄く楽しそうです。
徳川慶喜の生涯について、初めて知りました。明治天皇、大正天皇、昭和天皇とも面会したことがあり、大正時代までご存命だったんですね。29歳で15代将軍となってから、約77年の人生。元将軍の晩年の収入が株式だったのもなんだか時代を感じます。日本が劇的に変化していく中心にいた人物だったんだよなと改めて実感する動画で、興味深くて面白かったです。
江戸の無血開城は、西郷隆盛がイギリス人のパークスの意見を聞いた事によるとの節がある。もし江戸、横浜が戦禍になれば薩長支援のイギリス艦隊は遠く西日本にいて間に合わないが、幕府側のフランス艦隊は横須賀に有り強力な力になる。また日英貿易が壊滅的な打撃になり、貿易上の損害は計り知れない。だから、パークスは江戸攻撃を反対する事を西郷に進言している。~~西郷は3月15日に総攻撃を予定していたが、3月9日に勝海舟の書面を受け取り中止したとなってるが、3月13日に西郷はパークスに15日は総攻撃するので援助をお願いしますと依頼している。つまり海舟の書面など相手にしてない訳だ。その時に、西郷はパークスから前述の意見を聞かされ、中止したというものである。西郷は14日に勝海舟と会見し、海舟に花を持たせた形にして、江戸攻撃をやめたというのが真相らしい。これは吉田東伍、尾佐竹猛らの研究による。~「小栗上野介の生涯」著者坂本藤良から~
決断の時には、ギリギリまで、選択肢の両方が選択肢足り得る策を進めるでしょう。単に決めてなかった。両方用意したということでは?戦の大将から、そうするでしょう。
そうじゃなくて、幕府の勝が英仏の代理戦争を危惧してフランスの支援を断ったことでイギリスが薩摩の支援を断ったという事実に西郷が愕然としたと理解している。(司馬史観)
少なくとも歴史における自らの役割を受け入れるだけの才能はありましたそれだけでも比類なき才能ですが…
尊王(水戸学)も絶対的な影響ではなかったと思います恨みながらも、新政府側の能力と可能性を認めたのでしょう将軍になる道を歩まされなければ、どんな分野でも歴史を作った人だと考えますが最後の将軍として最善の選択を演じきったのではないでしょうか
新しいもの好きという性格から大政奉還を行なったのだろうか。慶喜が生きていたらどういう気持ちで大政奉還をしたのか聞きたいなあ
これは、ナンセンス。そんな軽いもんではないでしょう。お墓を神式にしたのは、古代返りでしょ。
このときの出発地となった徳川慶喜の人生は、将軍を辞めてからの期間のほうが長かったのです。静かに趣味に没頭して生きた余生から見れば、怒濤の時代だった幕末も遠い過去のできごととなり、人生を長く感じたのかもしれません。「徳川家康の再来」とまで言われた最後の将軍、徳川慶喜が確かに徳川家康の雰囲気させるも、徳川慶喜が行ったことは結果的に新時代の手助けしました。鳥羽・伏見の戦いの敵前逃亡の件や討幕運動最大の敵として、徳川慶喜の評価には賛否両論ありません。徳川慶喜は倒幕勢力との争いでの立ち振る舞いからも分かるように江戸へ逃げたことを「逃げて来たな!」と榎本武揚の一喝され、近年では徳川慶喜の評価され無い流れです。「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一は、もともと、幕末における「尊王攘夷派」でした。しかし、倒幕のためにクーデターを試みるも失敗。その後、渋沢栄一は、亡命しようと向かった京都において新選組の近藤勇に助けられ、徳川慶喜に出会い、一橋家に仕えることになりました。そして、同家の財政改革を行うなどして、徳川慶喜にその才能を認められるように。前述した通り、下働きした渋沢栄一の生涯を語るうえで欠くことのできない徳川慶喜の存在についても、同時に描かれていくのです。好奇心旺盛でお喋り好きな渋沢栄一と、子どもでありながら、どこかクールな一面を見せた徳川慶喜は対照的でした。渋沢栄一が自身で詠んだ論語の一節である「勢衝青天攘臂躋」から取られた言葉。肘を捲って(まくって)登る」ことを意味しています。幕末から明治という激動の時代に翻弄されながらも、高い志を持ち、渋沢栄一自身の、そして日本全体の未来を切り開くために奮闘する、渋沢栄一と徳川慶喜の姿です。徳川慶喜と同様に、渋沢栄一の著作・徳川慶喜公伝に記載のある史実に基づいた逸話が描かれているのです。実際に用いられ、徳川慶喜の人となりが窺える2つの逸話をご紹介します。七男でありながら、父・徳川斉昭の期待を一身に受け、弘道館で学問と武芸の鍛錬に励んでいた徳川慶喜です。「スパルタ」と評されるほど厳しかった徳川斉昭の教育が、江戸幕府15代将軍として、30歳の若さで幕政に腕を振るった徳川慶喜の才能を育てることに繋がったと言えます。しかし、上に立つ者に必要なのは、政治手腕だけではありません。将軍の激務に耐え得るだけの体力も必要なのです。徳川慶喜の父・徳川斉昭は、「武士たるもの、心身と共に強くなければならない」と考えていたのか、現代の「健康マニア」と言えるほどの多種多様な健康法を自ら実践していました。そのなかのひとつとして、黒豆を毎朝100粒(200粒の説もあり)食べ、牛乳を飲む健康法。これは、一橋家へ養子に出した徳川慶喜に宛てて徳川斉昭が多数送った手紙の中に、「黒豆は日に200粒ずつ召し上がり、牛乳も上がり申し候よし」と記されていることから、実際に行われていた健康法であることが分かります。この当時の牛乳は、一般的な日本人にとってはあまり馴染みのなかった飲み物。ところが徳川斉昭は、水戸藩に牧場を造る計画をいち早く立て、牛乳を原料としたバターなどの加工品も試作させています。このように、よく知られていない健康法でも、厭わずに導入していた父を見習っていた徳川慶喜は、毎朝欠かさず、黒豆100粒を牛乳と共に食べていたと伝えられているのです。徳川慶喜公聞によれば、徳川慶喜は「記憶の明確なこと驚くばかり」であったと評されています。徳川慶喜が毎日食べていた黒豆の皮には、血液をサラサラに維持する効果が期待される成分「アントシアニン」が含まれており、これが、徳川慶喜の老化を防ぐことに繋がっていたのではと考えられます。黒豆100粒を毎日食べるのはなかなか大変なことですが、徳川慶喜は、この健康法を怠らなかったが故に、大政奉還や江戸無血開城など、大胆な政策を決断する聡明さは疑問だったのかもしれません。徳川慶喜が垣間見せた家臣への優しさ、前述した通り、鳥羽・伏見の戦いで敵前逃亡したことなどにより、将軍としての評価が二分している徳川慶喜。自身の家臣達には厳しく当たることも多かったため、徳川慶喜のことを嫌っていた家臣が多くいたと伝わっています。徳川慶喜がまだ将軍となる前、ペリーが日本への再来航を果たしたため、江戸幕府が激しく混乱。一方で、次期将軍候補への徳川慶喜の推挙を企む父・徳川斉昭が、旗本の息子であった「平岡円四郎」を、徳川慶喜の小姓に据えたとする内容です。そのなかで話題となったのが、少々変わり者として言われる平岡円四郎が、作法をあまり理解しておらず、ご飯ひとつ満足によそえない平岡円四郎に対して徳川慶喜は、厳しく叱責し自らお椀を持ち、ご飯の盛り方を丁寧に教えたのです。薩長連合は、「錦の御旗」と称される旗印は彼らが作り掲げています。足利時代に出され知る人は不在でした。慶喜の最後は木柱一つでした。本所亀沢町8代末孫
日本橋の文字を見ると慶喜を感じることができるから良かったと思う☺️
面白かったです・・・ところで絵画は残ってないのでしょうか・・・?
るろ剣の斎藤一の、我々も敗者という役割で明治維新を作り上げた、というセリフ好きです。
慶喜が電車に乗ってたのが驚き😮
90歳ぐらいの人がスマホとか扱ってるの見ると、子供の頃は鬼畜米英と教えられていたんだなと思って、世の中の激変についていっただけでも大変だったんだなと思う30代前半にちょんまげ頭で上様と呼ばれてた男は、晩年カメラ片手にドライブを楽しみながら、何を思っていたんだろう
ケイキさん、殿下と呼び合い仲良くなったというところ、なんか感動した。維新を経験しガラッと変わった世の中を見た方(慶喜)が将来、大戦を経験してガラッと世の中が変わるのを経験する(昭和天皇)の誕生祝いに訪れたなんて。
庶民的で優しい大正天皇との仲良しエピソードはいいですね。
徳川家で1番幸せに生きた人かもしれないね
新政府の最大の配慮に涙が出てるよ。現世で営む我々は新政府社会しか知らない。慮って憚らない配慮に現世の我々から弥栄を。
大河ドラマ徳川慶喜で、晩年の慶喜公の事取り上げていませんでしたが、この動画見ると人生を謳歌したり、渋沢栄一との友情が続いていたんですね。青天を衝けでは、取り上げるのですかね?
映像楽しく拝見いたしました。徳川慶喜という人物の評価は様々と思いますが、鳥羽伏見の敵前逃亡、というか夜逃げ、これはしてはいけなかったと思う。従った幕臣のためにも慶喜自身の名誉のためにも。そのことで旧幕府勢力が旗頭を失い分解し、内戦が長期化しなかったというのは結果論であり、慶喜本人にそこまでの視野があったのかは疑問に思います。
さすが最後の将軍様です。趣味に生きるだけの資産があったのですね。徳川宗家からの金を送られたにしては、優雅すぎる❗女関係も、お盛んで(笑)
明治維新の一番の立役者はひょっとしたらこの人かも
一番幸せな将軍だったかもな
モヤモヤします...
よく小田原の国府津のとある人の別荘で過ごしてたらしいのよね。前に借りていた家の大家さんがその隣の家だったので、今はその大家のおばあさん亡くなってるけど、もしかしたらギリ慶喜公に会ってたかもなんですよね。子供で記憶があったかは別として
世界の状況と日本を察してたのか無抵抗な慶喜。有る意味名君。
勉強になりました。
渋沢先生は、徳川家康の家訓を、よく引き合いに、出しておられました。徳川慶喜までの、平和な時代は、徳川家康の家訓が、影響しているでしょう。
ギリギリ慶喜さんに会ったことがある人がいました。「遠くから見た」
江戸城無血開城には天璋院篤姫も尽力しています。
慶喜公のお陰で今の日本国があると思います。名君として叙せられる日が早く来る事を祈ります。
歴史とは勝者側を語るものなので貴重です。とこれで、徳川家の子孫とか現在はどうなっているのでしょうか?聞いたことがありません。あれ?その動画があるんですか?
慶喜の子孫のその後と徳川本家のその後を投稿しているので良かったら御覧ください。
とりあえず大政奉還以降の慶喜は知らんかったので有益だった。
徳川慶喜や勝海舟が77歳で死んでいる。大日本帝国の誕生から滅亡までが77年。徳川を倒してまで行われた日本の近代は不思議に幕末を象徴するこの二人の寿命と一致する。何かの因縁だろうか?終戦からの77年が2022年。来年日本史をひっくり返すような大事件が起きるのではないか?77年ごとに何かが起きると歴史は語っているのかもしれない。来年に注目しよう。
面白い見解ですねRUclipsに説を上げたら伸びると思います
予想は見事に的中した。ウクライナとロシアの戦争が第三次世界大戦の引き鉄になるのか。憲法改正、軍事力増強、日本を変える重大な年になると思う。
またも予言が的中してしまった。安倍元首相が暗殺された。安倍さんは山口県出身。長州の人だ。やはり徳川家の呪いか?犯人の先祖が幕臣か会津藩士か東北雄藩の末裔ならば、冗談ではなくなる。今年は見えざる大きな力に日本は動かされているような気がする。
安倍元総理もまさかの暗殺事件もありましたね。
慶喜公が対決の選択をしていたら、江戸は火の海となり大勢の幕臣達が命を散らしたでしょう。新時代に東京を温存できなかったらその後の日本の発展はなかった、列強につけいられ今のウクライナのようになっていたかも。負ける事で彼はこの国を守った。徳川将軍家15代の集大成がかくの如き名君であったとは、歴史の妙でありますな。
無血開城後からの大河ドラマにしてもいいと思うんだけど。
とても面白い動画。知りたいことが沢山ありました。ありがとう😃🌷
待つ姿勢も長生きもまた、、似ているのですねぇ〜。
徳川慶喜を生で見た人まだギリ生きてる説!
大坂城からバックレた最低な将軍閣下じゃ。
こういう動画おもしろいですね、興味わきます。慶喜が大政奉還したあとの行動が現実的で以外でした。学校では教えてないですよね。
慶喜が最期に公の場に現れたのは、架け替えた日本橋のプレートを揮毫し、それを填め込む式典。
明治晩年に生まれ、令和初期においてご健在であれば、日本最高齢グループでしょうが、数人ほどいらっしゃるそうですね。その中に2~3人ほど、その式典で慶喜を生で見たと証言しておられました。とはいえ、「親に背負われて、訳も分からず出掛けた」だけで「何のイベントだったかは知らない」そうだけど、壇上に「妙に品のあるお爺さんが座っていらっしゃったのは覚えている」そうでした。当然、それが誰であるかは分からなかったけれど、やがて学校に通う中で「あ、あれが慶喜だったのか!」と後付けで知ったそうです。
静岡市葵区出身です。
私も祖母から慶喜さんの話を聞いたことがありまして、祖母の義母談ですが慶喜さんが自転車で首からカメラを掛けてやってて来て、田んぼで作業をしている農夫たちを撮影するのに
『動くな!止まって!』←どう言ったかは分かりませんが、動きを止める様に指示するらしく、ケーキさんが来ると仕事が出来ない(笑 と、笑いながら話していたと聞き、ちょっと変わってる?けど面白い人なんだなーと言う印象でした。私が小学生の頃聞いたお話です。
とても貴重なお話しありがとう。
晩年の徳川慶喜初めて知った。
この方の感性、現代人にかなり近いので、驚いている。
考え方にせよ、感性にせよ、当時としてはかなり先進的な方だったんだなと思う。
徳川の当主として最終的な地位の復権も獲得するなど、歴代の方々が同じ立場だったら多分できなかったであろうこともしており、本当にすごい方dったんだなと思いました。
元将軍が株式で収入を得ていたことが面白く感じました。
株式とは今回初めて聞きました。慶喜家の生活費は渋沢さんがみていた、と慶喜さんのお孫さんが言っていましたが。
You Tubeで慶喜チャンネルがあったらとか想像してしまうほど多趣味で好奇心旺盛、行動的。
水ダウで徳川慶喜を生で見た事がある人云々というのを放送していたのがもう9年くらい前かな。
番組では本当に慶喜を見た事がある人がご存命でした。
2023年の現在でも日本の最高齢の方は1907年生まれの116歳なので、地理的に直接見た事があるかと言えば
それはかなり難しいいでしょうけど、年代的には1913年まで存命だった最後の将軍慶喜公と
まだ5年間は同じ時代を生きておられた事になり、考えてみるとスゴイですね。
偉い人だ。ぜったいに「武士の世に戻しましょう!さあ決起しましょう!」て話、いっぱい来たと思う。
そのたび「うるさいなー。今、このビフテキを美味しく食べてるとこなんだから、あっち行ってなさいよ」て蹴散らしたと思う。
この人は、自分が「何もしないこと」が、どんだけ日本国家のためになるのか、心底理解していたと思う。
艱難辛苦に耐えるも世のため。突撃するも世のため。切腹するも世のため。学問するも世のため。そして隠遁するも世のため。
明治の日本人は、本当に素晴らしい。
鳥羽伏見で反撃をすることなく、そのまま江戸に戻ったことで紀州藩や桑名藩は戦闘が回避され、姫路藩ものちに新政府に版籍奉還を提案するなど慶喜の取った一連の行動は大きい所があります。
最後の将軍と自分の生まれた時の天皇陛下・・昭和天皇と面識があったという事に個人的にはロマンを感じます。江戸時代も決して遠い昔ではないのだなというか。
徳川埋蔵金のありかを明治新政府に追及されなかったのだろうか。
@@Sachio-dw6xk あったら倒幕されてないよ。
もう葵三代でハコテンになってる、だから小判を半分にしたりしてた。
慶喜さん家は家仕舞い5代で終了します。ってニュースで見た。😢
いま生きてたら、まっさきに、iPhone15pro手に入れそう..
私も生まれた時の天皇陛下は裕仁様でしたが、平成後期に生まれた世代にとって昭和天皇というのはおそらく徳川慶喜のような存在なんでしょうね
宗家との関係など、非常に面白かったです。
徳川方から見ると、頼りない将軍だったかもしれませんが、日本のためには素晴らしい身の処し方ですね。超勝ち組です。
ただ、慶喜中心の新しい日本も見てみたかった気もします。
地元静岡では今だに慶喜(けいき)さんと親しまれています、因みに美人に見惚れて商店に自転車で突っ込んだのは事実です
これが世にいうダイナミック入店の元祖か...
江戸に逃げ帰ったことや趣味に明け暮れたことは解せませんでしたが、あらん限りの考えの上でされた事と、終生自分の役目として天皇を慕い敬い通した事を知り大変感慨深く勉強になりました。
@@kennel4724 言われる通りかもしれませんね(;・ω・)
@@lunamond9336 静岡市在住時に撮られた写真は往時の姿を納めた貴重な資料になっています、色々と有りましたが静岡時代が一番気楽にと言っては語弊が有るかも知れないですが日々の生活を楽しく過ごされたと思います
@@lunamond9336
江戸にかえった事に否定的に言われるの可哀想
将軍としては負けたけど
隠居後は政府から静岡県の予算と近い学の小遣いを支給されて道楽に没頭した人生は完全な勝ち組
本当の大政奉還は、教科書に載って無い裏話がありますよ。上杉が新政府軍に入ろうとしています。しかし長州は、上杉が天皇陛下のお気に入りなのを知っていて、上杉が和解工作をするのを恐れ断ります。そこで上杉は、天皇陛下と謁見して、海外の力を借り、スパイ行為をして卑怯なクーデターをする薩長に錦の旗印を渡すなら、上杉は最後の1人になる迄、幕府軍として戦う。そうなれば、なんの罪の無い民が沢山死にますよ。それでも構わないんですか?陛下は、御理解され、確かにその通りだ。慶喜公には、申し訳ない事をした。ただ、薩長が力で倒幕すると聞かないから、少しだけ戦って負けたフリをする欲しい。それを、慶喜公に伝えようとすると、途中で、薩摩、加賀に続いて上杉までも長州に付いたか?上杉言います。上杉は違う、最後まで幕府軍として戦う。ただ、相手の大将(天皇陛下)がお認めになったのだ。この戦にやる価値は無いと。最後の将軍慶喜公の言葉は、梅(加賀前田)じゃなかった杉(上杉)だった。260年間虐げて申し訳無かった。それに引き換え100万石も与えて、キツネ(長州毛利)一匹押さえれない。本当に情けないです。薩長、土佐、加賀で300万石。旧幕府軍、約1000万石以上。まともなら、負ける訳ありません。天皇陛下のお願いを聞いただけです。会津を落した薩長は、俺達は強い、侍に勝ったと大はしゃぎ。それを見た天皇陛下は、清(セイ)と一喝。お前達は、海外の力を借り卑怯なクーデターをしただけだ。侍を本気にさせるな。幕府軍が本気なら、お前らなんか皆殺しにされている。侍がゆずってくれただけだと仰っしゃられ、薩長は皆黙り込み下向いたとか。この清(セイ)という言葉が本当の天の声。芸人ハードゲーがセイセイセイと言って出て来ると、御半島出身の芸能人は大人しくなりますよね?天の声ですから。笑笑 長州は薩摩の50万石が欲しくて、背乗りされただけですよ。旧幕府軍からしたら、タダの裏切り者の笑い者です。笑笑 長州?稲荷じゃないですか?稲荷の大将は荼吉尼。女夜叉です。上杉は毘沙門天。毘沙門天は夜叉の王様ですからね。日中戦争の時も、大日本帝国軍だけで勝てるから、頼むからお金を貸してくれ、頼みの薩摩(海軍)が負けたら、頼むから手伝って下さい、最期には、日本を経済で世界一強い国にするから、頼むから死んでくれ?負け犬の長州は、祠から出て来るな。笑笑 慶喜公はじめ、旧幕府軍の勝ちですよ。
まさかの自動車を持っていたとは驚きです。写真も感動的ですね。
素晴らしい動画です。
第一回の東京市長選挙があったとき、側近のものが、立候補なさいませと薦めたところが、市長の業務内容を聞いていた慶喜は、よくよく話しを聞いてみれば、それは江戸町奉行のようなものではないか、余がいまさらそのようなことができるか馬鹿馬鹿しい、と非常に不興であったというのも、面白いエピソードです。
ちなみにその側近は勝海舟です
@@やまなかそういちろう なるほど
「確かに一城をも守れぬ方に一市の任は少々重いでしょうな」くらい言ってやればよかったのに
途中で逃げ出すよ
@@kennel4724 論理、逆では? 「一市を守れぬ方に一城が守れるはずがない」では?
本人の意志や意図は分かりませんが、明治維新後に大人しくしていてくれたことは、日本の発展に大きく貢献してくれたと思うのです。
戊辰戦争で味方見捨てて逃げたからな
反乱起こそうたって誰もついてこんやろ
慶喜が銀座にショッピングに行ったところを偶然見かけたという人がまだご存命でTVに出てたね(数年前の話)。
なんか水曜日のダウンタウンで見た気がします
現代に慶喜いたら、絶対RUclipsチャンネル立ち上げてる。
初投稿 最期の将軍だけどなんか質問ある?
明治維新後、ただ趣味に明け暮れていたのかと思っていたのですが、
絶妙なバランス感覚で波乱の時代を生き抜いていたのですね。
歴史を知れば知るほどこの慶喜公の偉大さがわかる。私利私欲に走らないそのままの性格でこれが日本の歴史転換点になったんだと思う。西郷隆盛とこの慶喜公は後世から振り返っても偉人だと思います。
良くも悪くも、世渡りが上手い方だったのですね。
水曜日のダウンタウンで「徳川慶喜を見たことある人まだ居る説」ていうの思い出した。
マジでただの現代人
14:37
長州は最初から敵だったからいいが薩摩は途中で裏切ったから嫌いってところで笑ってしまったww
やっぱりそう思ってたんだなww
関ヶ原の合戦で、家康は島津兄弟だけは逃がしてやれと指示を出しています。たった500人で、七万人を突破出来る訳ありませんから。家康は、いずれ長州が謀反を起こすだろうからと減俸もせずに恩を売り、長州がなにかしたら、薩摩と加賀とではさみ撃ちにする計画でした。薩長同盟を結んだ時の島津の城主は、かなりの重病で、西郷が薩長同盟を締結したのを床で聞き、長州、土佐と同盟?他には?日本人の大名は薩摩だけじゃないか?大義あるなら徳川に申し訳ない、と漏らしています。土佐の長宗我部は秦の始皇帝の末裔。長州は元々、朝鮮系の大内。毛利元就の正室は大内義隆の養女ですからね。上杉が、新政府軍に入ろうとすると、長州はそれを拒否。上杉は天皇陛下のお気に入りですから、自分達の思いとおりに出来ない事を恐れて。上杉は天皇陛下と謁見して、海外の力を借り、スパイ行為をして、卑怯なクーデターを起こす薩長に、錦の旗印を渡すなら、売りは最後の1人になる迄、幕府軍として戦う。そうなれば、なんのつみの無い民が巻き添えになり、沢山死にますよ。陛下はそれでも構わないんですか?と諭し、陛下も御理解されて、慶喜公には、申し訳ない事をした。ただ、薩長が力で倒幕すると聞かないから、少しだけ戦って負けたフリをして欲しい。上杉からのお願いは、慶喜公の命の保証と、新政府での重要なポストでした。上杉が慶喜公に伝えようとすると、話の途中で、加賀に続いて上杉間でもが長州に付いたか?と言い、上杉は違う。上杉は最後迄、幕府軍として闘う倒幕言うと、慶喜公は、梅(加賀の前田)じゃなかった杉(上杉)だった。260年間虐げて申し訳無かった。それに引き換え、100万毛利元就与えて狐一匹押さえれない。情けないと言っています。会津を落した薩長は、俺達は強い。侍に勝ったと大はしゃぎ。それを見た天皇陛下は、清(セイ)と一喝。幕府軍を本気にさせるな。幕府軍が本気ならお前達なんか皆されている。幕府軍は、譲ってくれただけだと仰ると、薩長は、皆黙り込み下向いたそうですよ。コレが大政奉還の事実です。義隆公は、新政府において、枢密院になっていますが、薩長が幅をきかせ真艫なことを言っても多数決で却下。アホらしなって辞めてます。だいたい、新政府軍の領地が約、250万石。旧幕府軍の領地が約1000万以上。真艫に闘って幕府軍が負ける分けてないです。私の家は上杉の流れを組みますが、父から聞かされています。日中戦争のときも、長州が旧幕府軍に、今の中国なら新政府軍だけで勝てるから、たのむからお金を貸してくれ。お前ら裏切り者だから信用がないから貸さない。そしたら、豊田左吉(トヨタの創業者)が出て来て、戦の時は俺達も手伝ったから、貸してやってくれ。ならお前に貸してやるからお前が貸してやれ。旧幕府軍は、又裏切り者の売国奴が、中国でおかしな事をやってるわ。(覚醒剤ビジネスに人体実験)。もうそろそろ、稼いだだろ?貸した金返せ。長州がまだまだ儲けたいと返さない。そのあたりから、アメリカが人体実験知り参戦準備。幕府軍と長州の板挟みになり真珠湾攻撃。オイ、中国との戦争じゃないのか?何をアメリカに戦争ふっかけた?金をかえせ。佐吉はそんな事言うなや暇があったら手伝って下さい。旧幕府軍の中堅以下の武士は南方に送られアメリカ軍に殺させて。上杉と徳川は、旧幕府軍の仲間から出撃をしない様に言われてました。いよいよ、本土が危なくなると豊田佐吉は、経済で日本を世界一強い国にするからたのむ死んでくれと。上杉の武士が沢山特攻にでています。その時佐吉は、よーし目の上のたん瘤の侍は居なくなった、借りた金も返さなくて良い、これが本当の一石二鳥だと、単身アメリカに行き、鉄鋼業をやらせて下さい。大統領は、なんだこの小汚いジジイは?ヘイヘイ私は豊田佐吉で御座います。はぁ?お前が、豊臣の御抱の百姓の豊田か?何でお前みたいな奴が出てくる?侍が何故来ない?佐吉は侍は皆死にました。だから、わたしがかわりに来ましたと。そこに、日本から連絡があり、上杉と中国が生きています。まだまだ健在ですと。佐吉は、あの2人が生きていたらワシャ帰れん、殺されるから。大統領に土下座して、何とか手土産を下さい。大統領の言葉は、お前みたいな醜い奴は見たことが無い。お前はあの男(天皇陛下)とは大違いだ。お前は侍に守って貰っていたのに、何故裏切る?彼奴等に殺されろ。大統領は思いついたんですよ。お金でハイと言わない侍よりも、脅せばお金を出すからと佐吉を犬にして日本人奴隷計画と、日本人撲滅計画を。アメリカが参戦する時に、色々な分野の学者を集めて、日本人を研究して2つだけ解明できなかったのが、侍の切腹と介錯です。何故、負けたら自ら生命を絶つのか?何故、切腹しているのに、首を落とすのか?アメリカは、大政奉還を後から知り、イギリスがインディアンみたいに殺し合いをさせて、侍が居なくなったと勘違いして参戦に踏みきってますから。佐吉は日本日本帰り、旧幕府軍に呼びつられ、日本が無くなるかしれない時に、敵国に何しに行った?旧幕府軍も、長州と裏で組んで、絵を描いてアメリカに侍をころさせる為の戦争だったと気付いてますから。土下座して、手土産があるから、手伝って下さい。手土産?まずは借りた金を遺族に返してやれ。ワシャ知らん。長州が借りた。ほう、長州が?こんな汚いヤツは殺せ殺せなり、佐吉は脱糞。何だコイツ、臭いから帰って糞して寝ろ、馬鹿野郎が。佐吉、ハイすいませんでした。オイ、今度日本に何があったら、どうする?ハイ、その時はお金はトヨタが全て負担させて貰います。それが嘘ばっか。トヨタが国のに為に何がしてますか?薩長が、何ができますか?慶喜公が薩摩嫌うの当然です。以前、お爺さんが大日本帝国軍の海軍副総司令官立ったというのと知り合い、昭和天皇度2人で写真に写っていると言うから、お前ら弱い薩長がアメリカに勝手に、戦争ふっかけやがって言ったら、確かに薩長は弱い。迷惑をお掛けしてすいませんでした。言ってましたわ。山口県出身の総理?要らないです。売国奴ですから。負け犬の遠吠えって、長州の大内が毛利元就に敗れて、百姓でも何でもやるから、切腹は勘弁歯てくれと泣きついてきた、毛利元就は困り果て、朝鮮系の大名は朝廷が決めるので、朝廷は何が百姓だ?武士は負けたら切腹だろ。だから朝鮮系は駄目だと言われるんだ。卑しい商売人になれと。毛利元就は、情けをかけて、少しの土地と大内田と名前を与えましたが、キツイ年貢を取っていたためだれも相手にせず、土地を売り商売をやってやるも失敗。居場所が無くなり、森に行き毎晩大きな声で悔しいよ〜、寂しいよ〜と叫んでいたのが、負け犬の遠吠えの由来。山口県には、海岸に稲荷が祀られてますからね。キツネが犬です。笑笑 隣の島根県には、出雲大社があり、大黒様がいて稲荷は大黒様のただの使い走りです。旧幕府軍からしたら薩摩は、稲荷に背乗りされ利用された裏切りのですね。笑笑 長くなりましたが、これが事実です。因みに、天皇陛下のセイが、本当の天の声です。芸人のハードゲーが、セイセイセイと言ってでてくると御半島出身者はおとなしなります。笑笑
素晴らしい!これまでで一番腑に落ちる慶喜動画でした!大感謝!
結局慶喜さんは生涯天皇の家臣を貫いたと思うと、全ての幕末の行為に納得がいきます。
慶喜はかなりの秀才で時勢の流れもちゃんと読める人だったのだと思います。大阪から江戸へ逃げ帰ったのも、全面的に戦いになり欧米列強に隙を作るのを避けたかったのかも。晩年は従順に徹して反政府の勢力に担ぎ上げられるのを避け、政界の世界に返り咲いたのは凄い。
大将として兵を置き去りにして自分だけ逃げ帰った将軍が優秀ですか…。聡明な天璋院篤姫や和宮から嫌われていたのは優秀だからですかね?
@@takokun414 優秀じゃなかったら死んでるんだよなぁ
優秀だったら最初から戦わないように持っていくはず。
ただの臆病者。
@user-lu2zh4xp9f 慶喜は過大評価されすぎの歴史人物の一人
@@あおい-n6c9i 本人は武装解除の命令もせず、敵前逃亡のような形で逃げ帰って生き延びたが、その代わり多くの幕臣が、その後の戊辰戦争、上野戦争で亡くなってます。
すごく良い動画だった
ありがとう
これからみなさんのコメント見ます
なんの漫画か忘れたけど、晩年の描写で、
子供たち「おじさん昔はどんな仕事をしてたの?」
慶喜「昔は征夷大将軍だったんだよ」
子供たち「せーいたいしょうぐん?何それ笑笑」
みたいなのがあってすごい印象に残ってる
「あー、羽賀研二みたいな?」って言われてずっこける
日本の歴史を教える漫画シリーズでは?
自分もよく覚えてます。
徳川慶喜は、「お家、再興!!」などという連中と関わらないように、かつての幕臣が邸宅を尋ねて来ても、絶対に面会をしなかったそうです。そしてまだ慶喜自身が爵位を持っていなかった所謂「無爵位華族」だった頃、明治天皇と会食を持ち、「東京が火の海にならなくて、良かった。」と明治天皇と共に、しみじみ回想したそうです。そして彼自身も正式に公爵という爵位を得ることが出来ました。「自分は、何もしない人で生涯を終える。」この生き方が、潔いです。
西郷が非業の最期を遂げてなかったら、ずっと嫌がらせが続いて消されてしまったと思います。
慶喜は、最も幸運な将軍だったのではないかな。
水戸徳川家の7男に生まれて、御三家生まれながら家督を継ぐことも望めない境遇で、
一段格下の御三卿の一橋家に養子に出されるも、降って湧いた政治的思惑で将軍に擁立されてしまう。
幕府瓦解後も、将軍時代に引き立てた渋沢栄一が稀代の事業家に成長し、駿府の財政破綻を回避できた上、
私的にも半ばパトロンになってくれて、渋沢設立の会社のキャピタルゲインで隠遁後も何不自由なく生きられた。
とても興味深く拝見しました。
日本が分裂しても崩壊しなかったのは慶喜さんのおかげ。
一歩間違えれば極刑も免れない時代、無駄なプライドを持たず、
周囲の雑音に惑わされず、一歩引いて柔軟に対応した賢さを感じますね
面白い話をありがとうございました!
自分は明治大正を悠々自適に過ごしたし恵まれていたでしょう。
ほとんどの旧幕臣は苦しい生活を強いられていたのにも関わらず静岡在住時も傍観していた。
旧幕臣の方が面会に来ても会わず(勝海舟や渋沢栄一は例外)
もちろん新政府に対する不満を持つ人達の旗頭にされる可能性を考えてとの事みたいですが…
晩年ストーリーは初めて知りましたが
聡明、と一括りに表現するのもはばかるくらい
思慮深くて、先進的で、行動力もある人だったんですね
『将軍』という言葉の印象さえ変わりました
慶喜さんの面白い趣味の一つ、金属の容器に興味を持ち鋳物工場に通って
金物の弁当箱の様な物を作ったそうです。其れにご飯や大好きな豚肉のおかずを詰めて
風景写真を撮りにでかけたんでしょうか?
慶喜さんは、やはり尊王の志が、終生有りましたね。薩長の企てを察知してたと思います。今年の大河で、少しでも理解されれば良いですね!
幕末志士の中では最も長生きされたそうですね。写真にも凝っていたらしく、人間的な面もあってイメージとは裏腹に好きになりました。
田中光顕…..
@@真田幸村-i5e 上総請西藩主 林忠崇…。
会津藩主・松平容保は孝明天皇に忠勤、そして慶喜に佐幕だった。
「なぜ誠が通じぬのか!」は容保の無念であった。だからこそ会津戦争を戦い抜き、誠を貫いた。
てか、働かなくても趣味でお金使えて、いい暮らし! 羨ましいなぁ🎉
シブやんのウルトラパワーが後ろ盾として厳然としてた。
やはり趣味や興味持つことって大事ですね
人が見いだしてくれる事がありますね
きんさんぎんさんが生まれた時はまだ慶喜は静岡にいたんですね。
現在、慶喜存命中に生まれた男性も世界で残り11人。世界最高齢男性が4歳まで慶喜は生きてた。
徳川慶喜が榎本征伐に行かされていたら土方歳三は死なずに済んだろうし、最後まで血みどろの戦争は回避された。最初と最後の将軍、共に偉大と感じるのは自分だけだろうか・・・
もし逆賊なるをいとわず
大阪城に立てこもって
籠城戦などやっておればと
思えば、戦を回避した慶喜公は
名君だったと思います
慶喜の江戸帰還後、慶応4年(1868年)1月12日から江戸城で開かれた評定において、小栗は榎本武揚、大鳥圭介、水野忠徳らと徹底抗戦を主張する。この時、小栗は「薩長軍が箱根を降りてきたところを陸軍で迎撃し、同時に榎本率いる旧幕府艦隊を駿河湾に突入させて艦砲射撃で後続補給部隊を壊滅させ、孤立化し補給の途絶えた薩長軍を殲滅する」という挟撃策を提案した。後に、この作戦を聞いた大村益次郎が「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかったであろう」として恐れたという逸話がある。
小栗忠順のウィキペディアから
もし、箱根の挟撃策が実行されていたら内乱が激化し外国勢力が日本に軍隊を送っていたかもしれない。徳川慶喜さんは日本を救ったヒーローです。
そう思います。
ビリヤードをした将軍 既に現代人
当方の墓石は日暮里、谷中に有り慶喜公の墓の近くです。美賀子夫人(乳癌で死亡)のお墓と共に並んで建立されており、もの心付いた頃から今に至るまで、当方のお墓参りの節は慶喜公のお墓にもお参りを致します。
150人しか所有者の居ない自動車の免許制度がすでにあった事に驚きだわ!
慶喜も教習所で教官にイヤミ言われながら運転覚えた?w
うちのご先祖様も徳川家に使えていて 慶喜さんに着いて 静岡へ行ったんだよなぁ~
面白かったのでチャンネル登録させて貰います🍀
戸板康二「ちょっといい話」では「ある茶会で、いろいろ世話してくれた、始終穏やかな老人がいて『あの人はどなたか?』と聞いたら徳川慶喜だった」という話があった。
『ちょっといい話』読みなおしてみよう。
徳川慶喜も渋沢栄一も谷中霊園に眠っています。久しぶりに訪ねてみようかな。穴子寿司の美味しいお店にも寄ろう🎶🌷
慶喜の評価は、見方によってはいろいろと意見はあるが、個人的には家康と匹敵するくらいの知能の持ち主だったと思う。
鎌倉幕府から始まって何のビジョンもなしに政権交代したのは明治政府だけだと思います。やはり自身の欲しかない薩長だけでは無理だったと思います。やはり徳川慶喜が大人しくしていてくれたからこその明治維新だったと思います。
関ヶ原の恨みだけかな
薩長は当時欧米の属国だった。だから不平等条約改正をあえてせず何十年も放置していた。そもそも条約が不平等条約になったのは薩長が外国人にやったテロが原因。元々はアメリカは関税をイギリスが植民地に強制している関税よりも高めに設定していたけど、薩長が外国人にテロをしたから賠償金の支払いができず関税を下げないといけなかった。
@@yh6146 明治維新と不平等条約と何の関係ありますか?不平等条約を締結したの井伊直弼ではなかったですか。徳川幕府を倒せばなんとかなると甘い考えで倒したけど人材がいないそれが明治維新ですよ。
50くらいでは全く年を取ったとは言えないでしょう。幕末の慶喜はダミーで水戸から会津へ、さらに庄内、仙台と移り最後は北海道へ移り、最後まで戦ったと言う話もありますね。茨城ー水戸には慶喜は明治期に水戸にいたととる説があります。常陸太田に瑞龍山と言う寺がありますが本当はそこに祀られているとする説もあります。会津を筆頭とする奥羽越列藩同盟が成立したなら最後の将軍慶喜が参加しないわけに行かない。いや慶喜がいたから戦おうと団結したのではないかと思います。ダミーや影武者なんていくらでも作れますからね。水戸学と尊王攘夷の思想を学んだ者は簡単に自説を曲げたり、参ったと降参したりはしないものです。
これは、愚か。勝海舟が頻繁に世話していて記録があるのだから、馬鹿馬鹿しい。水戸学だから、尊皇なので、天皇家(官軍)に逆らわず、逆賊を回避したわけですよ。???
確か、慶喜の孫が出した本にのっていました。幼少期に渋沢栄一が遊びにきていたと。
渋沢栄一のお陰で儲けがあって良いと思いますよ。渋沢栄一の活躍は慶喜が取り立ててヨーロッパにも送り出してあげたのですから。
渋沢栄一の優秀さもあったのだろうけど、当時なら異例の大抜擢です。渋沢が慶喜に篤い恩義を感じていても不思議ではないはずです。
大儲けしたとて、徳川幕府を店じまいしなければならなかった悲しみに置き換えられるものは無いです。
晩年は鉄道にハマって撮り鉄をしていたのは知っていましたが貴族院議員やっていたことは初耳でした。
かつての行政の長が立法の一議員として議場で仕事していたなんて驚きです。
本気で戦えば勝てたのに、日本人同士が戦っても外国につけいられるだけと自ら身を引いて大政奉還もした、まれに見る立派な将軍だな
趣味(好きこそものの上手なれ)でも、そのことに詳しくなり、知識を深めていると、やがて仕事人たちが寄って来る。金になるからであろう。
徳川慶喜はかなりの切れ者のような気がします。明治新政府に迎え入れるべき人だったと思います。
今の庶民を生かさず殺さず税を摂取するのは明治新政府の考えがそのまま続いている。
終生上様気質だったから無理でしょう。
駿河時代に慶喜が学んだのは今川氏真の生き方だろう。氏真は桶狭間以後得意の蹴鞠を信長に披露したり、徳川、豊臣とも良好な関係を築いた。氏真も慶喜も当時としては長寿で幸せな晩年を過ごしたのは偶然ではない。政治には節度ある距離を長きに保ち、趣味を通して文化人として振舞ったのは簡単であるようでむずかしいと思われます。
最後の将軍様☆
慶喜が引かなければ、日本は外国勢力にやられてたかもしれませんね
内乱なんかしてる場合ではない時代だった
何で薩長が内乱を起こしたと考えられないんですかね……?
一体武器を何処から調達したんですか??
@@平安の医者 ロス
明治維新のおかげで近代国家になれたという印象が強いが
幕府にも近代国家構想はあった薩長が中心か幕府が中心かという違いだけ。
YES
でも、旧幕臣らの既得権益が邪魔だから一新した方が近代化は加速したと考えます。
いまの日本政府が悪い例です😂大企業や特定の人への優遇をあからさま過ぎまで、真面目に働くだけ損😢
凄く楽しそうです。
徳川慶喜の生涯について、初めて知りました。
明治天皇、大正天皇、昭和天皇とも面会したことがあり、大正時代までご存命だったんですね。
29歳で15代将軍となってから、約77年の人生。元将軍の晩年の収入が株式だったのもなんだか時代を感じます。
日本が劇的に変化していく中心にいた人物だったんだよなと改めて実感する動画で、興味深くて面白かったです。
江戸の無血開城は、西郷隆盛がイギリス人のパークスの意見を聞いた事によるとの節がある。もし江戸、横浜が戦禍になれば薩長支援のイギリス艦隊は遠く西日本にいて間に合わないが、幕府側のフランス艦隊は横須賀に有り強力な力になる。また日英貿易が壊滅的な打撃になり、貿易上の損害は計り知れない。だから、パークスは江戸攻撃を反対する事を西郷に進言している。~~西郷は3月15日に総攻撃を予定していたが、3月9日に勝海舟の書面を受け取り中止したとなってるが、3月13日に西郷はパークスに15日は総攻撃するので援助をお願いしますと依頼している。つまり海舟の書面など相手にしてない訳だ。その時に、西郷はパークスから前述の意見を聞かされ、中止したというものである。西郷は14日に勝海舟と会見し、海舟に花を持たせた形にして、江戸攻撃をやめたというのが真相らしい。これは吉田東伍、尾佐竹猛らの研究による。~「小栗上野介の生涯」著者坂本藤良から~
決断の時には、ギリギリまで、選択肢の両方が選択肢足り得る策を進めるでしょう。
単に決めてなかった。両方用意したということでは?
戦の大将から、そうするでしょう。
そうじゃなくて、幕府の勝が英仏の代理戦争を危惧してフランスの支援を断ったことでイギリスが薩摩の支援を断ったという事実に西郷が愕然としたと理解している。(司馬史観)
少なくとも歴史における自らの役割を受け入れるだけの才能はありました
それだけでも比類なき才能ですが…
尊王(水戸学)も絶対的な影響ではなかったと思います
恨みながらも、新政府側の能力と可能性を認めたのでしょう
将軍になる道を歩まされなければ、どんな分野でも歴史を作った人だと考えますが
最後の将軍として最善の選択を演じきったのではないでしょうか
新しいもの好きという性格から大政奉還を行なったのだろうか。慶喜が生きていたらどういう気持ちで大政奉還をしたのか聞きたいなあ
これは、ナンセンス。そんな軽いもんではないでしょう。
お墓を神式にしたのは、古代返りでしょ。
このときの出発地となった徳川慶喜の人生は、将軍を辞めてからの期間のほうが長かったのです。静かに趣味に没頭して生きた余生から見れば、怒濤の時代だった幕末も遠い過去のできごととなり、人生を長く感じたのかもしれません。「徳川家康の再来」とまで言われた最後の将軍、徳川慶喜が確かに徳川家康の雰囲気させるも、徳川慶喜が行ったことは結果的に新時代の手助けしました。鳥羽・伏見の戦いの敵前逃亡の件や討幕運動最大の敵として、徳川慶喜の評価には賛否両論ありません。徳川慶喜は倒幕勢力との争いでの立ち振る舞いからも分かるように江戸へ逃げたことを「逃げて来たな!」と榎本武揚の一喝され、近年では徳川慶喜の評価され無い流れです。「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一は、もともと、幕末における「尊王攘夷派」でした。しかし、倒幕のためにクーデターを試みるも失敗。その後、渋沢栄一は、亡命しようと向かった京都において新選組の近藤勇に助けられ、徳川慶喜に出会い、一橋家に仕えることになりました。そして、同家の財政改革を行うなどして、徳川慶喜にその才能を認められるように。前述した通り、下働きした渋沢栄一の生涯を語るうえで欠くことのできない徳川慶喜の存在についても、同時に描かれていくのです。好奇心旺盛でお喋り好きな渋沢栄一と、子どもでありながら、どこかクールな一面を見せた徳川慶喜は対照的でした。渋沢栄一が自身で詠んだ論語の一節である「勢衝青天攘臂躋」から取られた言葉。肘を捲って(まくって)登る」ことを意味しています。幕末から明治という激動の時代に翻弄されながらも、高い志を持ち、渋沢栄一自身の、そして日本全体の未来を切り開くために奮闘する、渋沢栄一と徳川慶喜の姿です。徳川慶喜と同様に、渋沢栄一の著作・徳川慶喜公伝に記載のある史実に基づいた逸話が描かれているのです。実際に用いられ、徳川慶喜の人となりが窺える2つの逸話をご紹介します。七男でありながら、父・徳川斉昭の期待を一身に受け、弘道館で学問と武芸の鍛錬に励んでいた徳川慶喜です。「スパルタ」と評されるほど厳しかった徳川斉昭の教育が、江戸幕府15代将軍として、30歳の若さで幕政に腕を振るった徳川慶喜の才能を育てることに繋がったと言えます。しかし、上に立つ者に必要なのは、政治手腕だけではありません。将軍の激務に耐え得るだけの体力も必要なのです。徳川慶喜の父・徳川斉昭は、「武士たるもの、心身と共に強くなければならない」と考えていたのか、現代の「健康マニア」と言えるほどの多種多様な健康法を自ら実践していました。そのなかのひとつとして、黒豆を毎朝100粒(200粒の説もあり)食べ、牛乳を飲む健康法。これは、一橋家へ養子に出した徳川慶喜に宛てて徳川斉昭が多数送った手紙の中に、「黒豆は日に200粒ずつ召し上がり、牛乳も上がり申し候よし」と記されていることから、実際に行われていた健康法であることが分かります。この当時の牛乳は、一般的な日本人にとってはあまり馴染みのなかった飲み物。ところが徳川斉昭は、水戸藩に牧場を造る計画をいち早く立て、牛乳を原料としたバターなどの加工品も試作させています。このように、よく知られていない健康法でも、厭わずに導入していた父を見習っていた徳川慶喜は、毎朝欠かさず、黒豆100粒を牛乳と共に食べていたと伝えられているのです。徳川慶喜公聞によれば、徳川慶喜は「記憶の明確なこと驚くばかり」であったと評されています。徳川慶喜が毎日食べていた黒豆の皮には、血液をサラサラに維持する効果が期待される成分「アントシアニン」が含まれており、これが、徳川慶喜の老化を防ぐことに繋がっていたのではと考えられます。黒豆100粒を毎日食べるのはなかなか大変なことですが、徳川慶喜は、この健康法を怠らなかったが故に、大政奉還や江戸無血開城など、大胆な政策を決断する聡明さは疑問だったのかもしれません。徳川慶喜が垣間見せた家臣への優しさ、前述した通り、鳥羽・伏見の戦いで敵前逃亡したことなどにより、将軍としての評価が二分している徳川慶喜。自身の家臣達には厳しく当たることも多かったため、徳川慶喜のことを嫌っていた家臣が多くいたと伝わっています。徳川慶喜がまだ将軍となる前、ペリーが日本への再来航を果たしたため、江戸幕府が激しく混乱。一方で、次期将軍候補への徳川慶喜の推挙を企む父・徳川斉昭が、旗本の息子であった「平岡円四郎」を、徳川慶喜の小姓に据えたとする内容です。そのなかで話題となったのが、少々変わり者として言われる平岡円四郎が、作法をあまり理解しておらず、ご飯ひとつ満足によそえない平岡円四郎に対して徳川慶喜は、厳しく叱責し自らお椀を持ち、ご飯の盛り方を丁寧に教えたのです。薩長連合は、「錦の御旗」と称される旗印は彼らが作り掲げています。足利時代に出され知る人は不在でした。慶喜の最後は木柱一つでした。本所亀沢町8代末孫
日本橋の文字を見ると慶喜を感じることができるから良かったと思う☺️
面白かったです・・・
ところで絵画は残ってないのでしょうか・・・?
るろ剣の斎藤一の、我々も敗者という役割で明治維新を作り上げた、というセリフ好きです。
慶喜が電車に乗ってたのが驚き😮
90歳ぐらいの人がスマホとか扱ってるの見ると、子供の頃は鬼畜米英と教えられていたんだなと思って、世の中の激変についていっただけでも大変だったんだなと思う
30代前半にちょんまげ頭で上様と呼ばれてた男は、晩年カメラ片手にドライブを楽しみながら、何を思っていたんだろう
ケイキさん、殿下と呼び合い仲良くなったというところ、
なんか感動した。
維新を経験しガラッと変わった世の中を見た方(慶喜)が
将来、大戦を経験してガラッと世の中が変わるのを経験する(昭和天皇)の
誕生祝いに訪れたなんて。
庶民的で優しい大正天皇との仲良しエピソードはいいですね。
徳川家で1番幸せに生きた人かもしれないね
新政府の最大の配慮に涙が出てるよ。
現世で営む我々は新政府社会しか知らない。
慮って憚らない配慮に現世の我々から弥栄を。
大河ドラマ徳川慶喜で、晩年の慶喜公の事取り上げていませんでしたが、この動画見ると人生を謳歌したり、渋沢栄一との友情が続いていたんですね。
青天を衝けでは、取り上げるのですかね?
映像楽しく拝見いたしました。徳川慶喜という人物の評価は様々と思いますが、鳥羽伏見の敵前逃亡、
というか夜逃げ、これはしてはいけなかったと思う。従った幕臣のためにも慶喜自身の名誉のためにも。そのことで旧幕府勢力が旗頭を失い分解し、内戦が長期化しなかったというのは結果論であり、慶喜本人にそこまでの視野があったのかは疑問に思います。
さすが最後の将軍様です。趣味に生きるだけの資産があったのですね。徳川宗家からの金を送られたにしては、優雅すぎる❗女関係も、お盛んで(笑)
明治維新の一番の立役者はひょっとしたらこの人かも
一番幸せな将軍だったかもな
モヤモヤします...
よく小田原の国府津のとある人の別荘で過ごしてたらしいのよね。前に借りていた家の大家さんがその隣の家だったので、今はその大家のおばあさん亡くなってるけど、もしかしたらギリ慶喜公に会ってたかもなんですよね。子供で記憶があったかは別として
世界の状況と日本を察してたのか無抵抗な慶喜。有る意味名君。
勉強になりました。
渋沢先生は、徳川家康の家訓を、よく引き合いに、出しておられました。徳川慶喜までの、平和な時代は、徳川家康の家訓が、影響しているでしょう。
ギリギリ慶喜さんに会ったことがある人がいました。「遠くから見た」
江戸城無血開城には天璋院篤姫も尽力しています。
慶喜公のお陰で今の日本国があると思います。名君として叙せられる日が早く来る事を祈ります。
歴史とは勝者側を語るものなので貴重です。とこれで、徳川家の子孫とか現在はどうなっているのでしょうか?聞いたことがありません。あれ?その動画があるんですか?
慶喜の子孫のその後と徳川本家のその後を投稿しているので良かったら御覧ください。
とりあえず大政奉還以降の慶喜は知らんかったので有益だった。
徳川慶喜や勝海舟が77歳で死んでいる。大日本帝国の誕生から滅亡までが77年。徳川を倒してまで行われた日本の近代は不思議に幕末を象徴するこの二人の寿命と一致する。何かの因縁だろうか?終戦からの77年が2022年。
来年日本史をひっくり返すような大事件が起きるのではないか?77年ごとに何かが起きると歴史は語っているのかもしれない。来年に注目しよう。
面白い見解ですね
RUclipsに説を上げたら伸びると思います
予想は見事に的中した。
ウクライナとロシアの戦争が第三次世界大戦の引き鉄になるのか。憲法改正、軍事力増強、日本を変える重大な年になると思う。
またも予言が的中してしまった。
安倍元首相が暗殺された。
安倍さんは山口県出身。
長州の人だ。
やはり徳川家の呪いか?
犯人の先祖が幕臣か会津藩士か東北雄藩の末裔ならば、冗談ではなくなる。
今年は見えざる大きな力に日本は動かされているような気がする。
安倍元総理もまさかの暗殺事件もありましたね。
慶喜公が対決の選択をしていたら、江戸は火の海となり大勢の幕臣達が命を散らしたでしょう。新時代に東京を温存できなかったらその後の日本の発展はなかった、列強につけいられ今のウクライナのようになっていたかも。負ける事で彼はこの国を守った。徳川将軍家15代の集大成がかくの如き名君であったとは、歴史の妙でありますな。
無血開城後からの大河ドラマにしてもいいと思うんだけど。
とても面白い動画。知りたいことが沢山ありました。ありがとう😃🌷
待つ姿勢も長生きもまた、、似ているのですねぇ〜。
徳川慶喜を生で見た人まだギリ生きてる説!
大坂城からバックレた最低な将軍閣下じゃ。
こういう動画おもしろいですね、興味わきます。慶喜が大政奉還したあとの行動が現実的で以外でした。学校では教えてないですよね。