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徳川恒孝氏が日本郵船の若手社員だった頃、加賀前田家の当主と机を並べていて、徳川と前田を部下に持つのは秀吉のほか俺だけ、と当時の上司はご満悦だったそうな。
部下の家格だけ見れば信長、秀吉と同じやねw
私の大学の後輩で、先祖が会津若松出身という者がいました。実家も福島県にあるようです。それなのか何か薩摩、長州という言葉には少し敏感でした。別段現在の鹿児島県、山口県の呼称には何の意識も無いようですが、未だ薩摩、長州には反応してしまうようでしたね。個人的に遺恨は無いようなんですけど、幼い頃から鶴ヶ城陥落、白虎隊の悲劇など代々聞かされているようで、それを思うと反応してしまうんだとか。私が大学生当時は会津戦争から約120年以上が経っていましたが、悲しい記憶はいつまでも消えないんだな、悲劇は繰り返してはいけないんだなと思いました。
一昔前は若松なんかの旧家は鹿児島出身者は「シマヅ」呼びで配偶者としては言語道断であったと聞いたことがある。会津肥後守家家中は武士団の団結が結構強く、士族出身者にはシマヅは仇敵とする見方が強かったらしい。町家になるとそこまでの怨嗟は無いけれど
会津で、「この前の戦争」と言うと、太平洋戦争(第2次世界大戦)ではなく、戊辰戦争のことらしいです。また、薩長土肥(鹿児島県・山口県・高知県・佐賀県)の人は、会津に行く時には気を遣うようです。私の先輩の妹さんは、会津に嫁ぐのに、高知県出身だというのを、ずっと隠しているそうです。
恨まれてる側の意見として、恨んでるのはこっちだ!と言いたいのだと思うよw京都では散々お世話になったなぁ〜的なwオレが恨んでるかというと、全然そんな事はないんだがw勝者側だから、未だに恨まれてるのかと思うだけwご先祖様が参加してたわけでもないが、その地域に住んでた百姓の子孫までも恨まれるってチョット理不尽だなぁ〜って思うw坊主憎けりゃ袈裟まで憎い方式の逆恨みにしか思えないのよw会津仕置きで酷い目にあったのは知ってるwつくづく人間って業の深い生きモノだよねw
会津藩のエピソードを聞くと、たとえ要領が悪くても、誠実に生きる事の大切さを教えられる。
でもさ、西南戦争では、会津藩の家老や家臣たちが官軍として参加してたよね。本来ならば、旧士族のために立ち上がった西郷隆盛の味方になるべきじゃなかったの?西郷隆盛は官軍で唯一の大将だよ。政府軍トップだった西郷さんは、負けを承知で戦った。「♬敵の大将たるものは♬古今無双の英雄で♬それに従う兵たちは♬ともに剽悍決死の士♬」これこそ武士の本懐じゃないのかね。それに比べたら、多くの家臣を死なせておいて、のほほんとしてる会津藩主って。ついでに書いておくと、、、乃木大将は、明治天皇の国葬の日に、多くの国民を死なせたことへの責任を取って、、、夫妻で自刃後追いしたぞ。
@@kazuokoyama6435 徳川への忠誠>>>…>幕藩体制の再興失脚した社長にはついてく気はあるけど。社長派の一人から社長メソッドを余すことなく詰め込んだベンチャー立ち上げると言われても二の足踏むじゃん
@@スタン捜査官 西郷隆盛は官軍で唯一の大将だよ。維新で失職した士族の働き場所のため「征韓論」を唱えたが、受け入れてもらえなかったため新政府から抜けた。当然ながら政府軍トップだった西郷さんは、負けを承知で戦った。「♬敵の大将たるものは♬古今無双の英雄で♬それに従う兵たちは♬ともに剽悍決死の士♬」これこそ武士の本懐じゃないのかね。それに比べたら、多くの家臣を死なせておいて、のほほんとしてる会津藩主って。ついでに書いておくと、、、乃木大将は、明治天皇の国葬の日に、多くの国民を死なせたことへの責任を取って、、、夫妻で自刃後追いしたぞ。
あんたのそんなカッコ悪いダサイ生き方はしたくないね、要領よく世の中を渡るのが勝者。
あんたのカッコ悪いダサイ生き方はしたくないね、要領よく世の中を渡るのが勝者。
斗南藩は飛び地で、開拓に苦労した者は北海道に新天地を求めました。屯田兵となり、西南戦争では、山鼻、琴似の元会津藩、元斗南藩の兵士は「憎き西郷軍」相手に「朝敵」という汚名を挽回するかのように奮戦します。一方、指揮官の多くは薩摩出身なので、士気は、「兵士の方が高かった」ともいわれています。これらの逸話が、「北海道の兵は強いという神話」の始まりとなり、日露戦争でも肉弾戦でロシア軍のマキシム機関銃に立ち向かい、多大な損害を被りながら辛勝します。
「憎き西郷軍」ってなんですか?今の近代日本を作った方々ですよ。少なくとも会津松平家よりも国家に対しての貢献度が高い。"西南戦争"はいわば当時の政府内部の考えの違いからの仲間割れが原因です。会津藩は幕末の財政難を乗り切る為に無断で北海道の飛び地(当時は蝦夷地)をロシアに切り売りしようとしたとか。美談だけが歴史ではない。
私も会津藩士の末裔です。誇りを持って生きております。先輩方は本当に優秀な方ばかりで、それもまた励みとなります。
@@兵衛和田 さんそれは私のコメントに対してのお話ですか?もし、そうでしたら返信差し上げますが、上げる場所をお間違えになられたのでしたら、控えさせていただきます。
@@兵衛和田 さんどこの地域にも、良いこと、悪いことは確かにあると思います。そして、和田兵衛さんは何もわからずに語っておられる方ではないと感じてもいます。ただ、失礼かもしれませんが、ならぬことはならぬの本当の意味をご存知でないように感じられるのと、個人的に私は和田さんに恨みもありませんし、なぜそのような攻撃を受けなければならないのか正直わかりません。失礼かもしれませんが、会話にならない気が致しますので、お暇いたします。
@@兵衛和田 さんなるほど、そういう流れがあってのお話なのですね。最初からそう言って頂ければ会話になるじゃないですか💧誰にでも、祖先がいて、その時代、立場により見え方は異なるものだと思います。なので、私としてもただただ薩長憎しの感情の頃もありましたが、自分が生きていく中での苦悩の中で、当時の敵方の思いがわかる部分が出てきたりなどあり、なるべくいろんな立場の方の見え方を知りたいと思うようになりました。
@@兵衛和田 さん個人的には、産みの苦しみというのがどの部分をおっしゃられているのかはわかりませんが、合祀の件、同意です。
@@兵衛和田 さん大変お待たせして申し訳ありません。〝本来の意味〟などと偉そうなことを申し上げましたが、私の解釈に過ぎないかもしれません。ただ、ここ最近はこのならぬものはならぬについて〝思考停止〟や〝時代遅れ〟などという論評が多いこともあり、自分なりに思考を深めて参りました。少々長くなりますが、せっかくご質問頂いたのでしっかりお応えしたくご容赦下さい。まず私は幸いなことに、祖先が残してくれた巻物で系譜を辿ることができ、藩の記録である会津藩家世実紀という書物の中からも祖先の生き様を知ることができた恵まれた環境にありました。そして藩校日新館の成り立ちや、その中での什の役割、武士としての生き方を、なるべくその時代背景を想像しながら学ぶことを心がけてきました。まず、〝ならぬことはならぬ〟これは確かに現代語訳すればダメなものはダメとなるかもしれません。しかし、この言葉はあくまで締めの言葉であり、和田さんもご存知の通り、その前文にかかっております。その前文というのは一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ一、弱い者をいぢめてはなりませぬ一、戸外で物を食べてはなりませぬ一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ〟これらです。あくまでこれは規律、道徳に関する部分であり、善悪の判断のつかない幼い子どもに対して、理屈以前に人の道としてしてはならないという、武士としての生き方、指針を説いたものです。今で言うところの、まだ車というものの存在を知らない小さい子に道路に飛び出してはならないと教えることと似ていると思います。引かれてからでは遅いからです。命というものもまだわからないからです。だから生きていくために理屈を理解できるようになる前に教えておくべきことという意味です。そして、戦後は自由という言葉が全面に押し出されるようになりましたが、あくまでそれは他人(仲間)との共生の中で必要な規律、ルールがあって成り立つものです。自由=無法地帯ではありません。車の話で言えば、一定の訓練を受けて、みんなと一緒に公道を走る資格を得たものだけが公道をはしることができるわけです。私は赤信号でも渡りたい、なぜ赤はダメなの?などという人間が溢れたら事故だらけです。そういうことを教えるための、ならぬものはならぬ、です。そして、あくまで国、藩というものを考えたときに、共同体として共通の認識、同じアイデンティティがないと、そもそも国も藩も成り立ちません。皇室を中心に脈々と受け継がれてきたのが日本であり、それが国体というものだとするならば、現代の価値に合わせて男女平等→女系天皇などという議論自体がそもそも日本、皇室とは何かを知らない人たちの議論と私は感じてしまうのです。そういった前にかかる部分によって意味は全く変わります。私の感覚からすれば、女系(そんな言葉は本来ありません)という時点で天皇(皇室)ではなくなり、これまで2,000年以上もの間受け継がれてきた日本という国が日本ではなくなる、つまり、ならぬものはならぬと思うのです。男女平等の話とは全く関係なく、それが日本という国なのです。それを戦後日本人は教育改革により知ることができなくなりました。世界で建国の成り立ちを知らない希少な国民になってしまったと思います。こういったことも会津藩が京都守護職で成し遂げようとしたことを考えたときに、どうしても徳川に対する部分だけがフォーカスされがちですが、実際に行ったことは天皇を御守りすることでした。孝明天皇との関係性を学ぶ中で、幕府方、新政府方以前にどちらも尊皇なのです。それが日本だからです。思想的な部分が絡む部分でもありますので、どのような印象を与えてしまったかは想像できません。しかし私は、日本人として生まれ、日本に生きている以上、日本が好きであり、いえ好き嫌い以前に日本がなければ私はおりませんので、この国をこの国の形を守りたいという思いでおります。かつて先人たちが2000年以上もの歳月をかけて守り抜いてきたものを、会津藩が天皇、そして自分たちの国を守ろうとしてきたように。だからそれを壊すものについては、ならぬことはならぬという思いです。日本が日本でなくなってはならぬと思っております。土井さんがおっしゃった理屈として成り立たない、議論する気もない、結論ありきの追い詰められて言うダメなものはダメとは、似ておりますが前提が違います。私から言わせれば、そこでダメなことはダメという言葉を使うことがならぬものなのです。確か福島みずほさんあたりも、ならぬことはならぬに感激などと完全に勘違いしたコメントをされているのを見ましたが、それは全くの見当違いであり、もう少し意味を勉強なさってから使って欲しいものだと思いました。これはあくまで、天皇をお護りしながら日本という国を規律正しく守っていくための会津武士道の根幹だったわけですから、天皇を無くしたいと思っていらっしゃる方々からしたら、その意味を知ったとき赤っ恥なのではないでしょうか。話がやや飛躍してしまいましたが、もうひとつ、私は自虐史観に苛まれた現状を打破するためにも、負けても正義を貫き、プライドを持ち続ける会津の生き方は、今の日本に必要なのではないかと感じております。ダラダラとなり、恐縮ですがこれが私なりの考えです。
松平容保は、家臣、会津の人々にたいして一生負い目を背負って暮らしたそうです。藩主の自分のせいで、大きな犠牲を追わせたことへの思いを一生持ち続けたそうです。かつては、孝明天皇より絶大な信頼を寄せられておきながら、賊軍になったのはどんなにかくちおしかったことでしょう。
ソレナ
天皇家は結局・・・以下自粛
なお、15代目は何の責任も感じず趣味に生きた模様。
私の先祖も会津藩です。父からの話では江戸詰の家老の家族だったそうです。
されだけの失政をしたのだから仕方ないね
保科正之が残した遺訓が後々、会津藩の運命を決定したのかも知れませんが会津藩藩主及び会津藩藩士の子孫達が頑張ったんだな。スゴいの一言。
現在の価値観や後の歴史から見れば「おやっ」と思うことがあるが、保科正之は幕府を守護するために為政者に都合の良い朱子学を推奨したこと以外、偉大過ぎる。因みに長州と庄内藩、宇宙の理を説く現実離れした朱子学を批判した徂徠学(荻生徂徠)を藩士に学ばせます。保科正之は「高遠以来」の家来を重用し、会津藩の家老は9家(内藤、北原、西郷など)に生まれた者でないと家老職に就けなくするなど、幕末の下級武士が活躍できない組織をつくったり、会津出身の山鹿素行を朱子学を軽んじたと言うことで国外退去(吉田松陰は山鹿流兵学の先生だった)をさせたり、密通をした男女に対して、男は「男根を切り」女は「鼻削ぎ」の刑を課したり、白岩一揆を起こした関係者が山形に出頭した際、全員を捕縛し処刑した、、、など、これは現代の価値感で見た場合の悪評であるが、寧ろ、江戸時代の日本を世界で最も平和な国にした立役者としての、柔軟で果敢な発想と施策こそ評価されるべき。例えば、源氏や鎌倉北条氏等は一族以外を滅ぶすことに執心したが、幕府開闢以来、その効果を狙ったと言われる末期養子の禁を緩和し、殉死の禁止、さらに、明暦の大火後、庶民を救済を優先し江戸城天守閣を再建させなかったことなど、幕藩体制が固まっていたこの時代、保科正之でなかったらできなかったかったのではないかと思う。藩政においても、漆栽培の奨励、備荒対策として社倉の設置したり、庶民のための学問所といわれる「稽古堂」を支援した。90歳以上(殆どいないだろう?)の老人には身分を問わず、終生一人扶持(1日あたり玄米5合)を支給し、日本の年金制度の先駆けとなる制度を作ったりしたのも泣かせるな。もし、幕末の会津藩主が正之だったら、時代に翻弄されることなく、幕府崩壊時でも、うまく乗り切ったと思う。いや、あまりに偉大過ぎる藩祖の存在こそが、会津の組織や思想を硬直化させ、養子で会津に入った容保の悲劇を生んだのかもしれないが、、、。ただ、それでも、容保は頑迷すぎた。
保科正之が幕末の徳川家や幕府を見たら何というのか。。。
山本覚馬や新島襄が登場するのは感慨深いですね。松平容保さんとその家系・御子孫、とても苦労なされたと思います。正義の観点が まさにひっくり返った時代ですからね…、大変だったと思います。八重の桜で 綾野剛さんが演じたのもとても印象的でした!
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「八重の桜」の主人公である新島八重とその兄山本覚馬、夫の新島襄について。鳥羽伏見以降、目を患って動けない山本覚馬を庇護したのは薩摩藩だった。さらに、米国に密航した新島襄と米国で出会った長州の木戸孝允(岩倉使節団に参加)はその後、新島襄に学校の設立資金を手配し、さらに、長州出身の槇村正直京都府知事を紹介した。山本覚馬が京都で活躍できたのも、新島襄が同志社を設立できたのも、ついでに八重が新島と結婚(紹介)したのもこの槇村のおかげなのに、そこは、天下のNHK、「報道しない自由」を行使したり、さらに「槇村を尊大な人物として描いた。
勝てば官軍。勝った側が自分たちの価値観が正しいとして、負けた側を朝敵に仕立て上げた。どちらが、先を取るかという話です。私は、松平容保や会津藩の人たちは、権力闘争に負けただけであり、正義は何も薩長にあったとは、思いません。その後も会津藩の人達は、本当に悲惨な生活を強いられ、気の毒だったとしか言いようがなかったと思っています。また什のおきては、現代の倫理にも一部を除いて、人としての守らなければならない教えだと思っています。そのうち、行ったことがない会津には旅行したいと思っています。
ならぬことは、ならぬことこれの本当の意味は、己の良心に従えという意味です。
権力闘争に負けただけというのは苦しい言い訳ですかね。以下の内容を読まれて会津に正義があったでしょうか?①王政復古から小御所会議での旧幕府に対する薩摩の無理難題を反故にすることに成功していた徳川慶喜の命に逆らって大軍を京都に送り、鳥羽伏見という最悪の戦いのきっかけをつくった。②鳥羽伏見以降、慶喜と朝廷に逆らって、謹慎もせず、上野や宇都宮戦争に兵を差し向けた。③世良修蔵の手紙の捏造(仙台戊辰史)し、仙台藩を激高させ、世良を含め、勝見善太郎や松野儀助、従者繁蔵、野村十郎、中村小次郎を殺害し、公家の奥羽鎮撫総督・九条道孝と醍醐忠敬が監禁した。④仙台藩家老の但木土佐が戦争回避に動き、会津藩と交渉、会津藩も新政府が求めていた「会津藩が全面的に降伏する」ことで合意を得たが、その数日後に会津藩が方針を転換して降伏を拒否し、明治新政府に、謝罪を拒否する回答書を示した。⑤先制攻撃をしたのは会津で、西郷頼母を総督として、幕府直轄領であった白河城を占領。⑥会津では薩長の内、薩摩に対しては西南戦争で恨みを果たしたが、長州は今でも許せない?と言いう声が根強いが、会津戦争の主力は薩土であり、長州の主力は北越戦争で手間取り、山縣有朋が会津に入ったのは会津の降伏の僅か4日前である。長州の蛮行は記録として残っていないし、新政府の残虐行為のほぼ全ては会津観光史学(会津若松市の商工観光部長であった宮崎十三八氏や白虎隊記念館長 早川喜代治氏、さらに、早乙女貢・星亮一などの小説家)等による捏造・誇張が多い。・白河以北一山百文と言って東北を馬鹿にした?(原敬が扇動演説の中で創作したという説が有力で、実際に薩長出身者がこの言葉を使い、誰かを嘲笑したというような資料・根拠はない)・会津藩士が埋葬されなかった(埋葬されたと言う具体的な記録「戦死屍取仕末金銭入用帳」が出てきている)・新保雪子が大垣藩に凌辱された(元白虎隊士で東大総長にまでなった山川健次郎が新保雪子に関して調べ直したところ、中野竹子戦死地と同じ涙橋で雪子が戦死した)・白虎隊も婦女隊の悲劇も、銃砲飛び交う中、薙刀で戦わるような決定をした会津藩の首脳の頑迷さが原因。・武川 信臣は 家老内藤信順の三男。彰義隊に呼応し、新政府に捕縛され「君と親の重きめぐみにくらぶれば 千引の石の責はものかは」という言う句を残した。獄中で「容保公と親の為に拷問もものとせず」なんて書いてしまうと、主君と親に累が及ぶから、こんなこと書くわけがないでしょう。現物はあるのですか?あるとしたら、それはそれで、不忠者ですが、、。・政府が会津の戦死者を埋葬させなかったというのも大ウソでした。埋葬の証拠が出てきても、会津は謝罪すらしません。⑦長年の放漫財政に加え、京都守護職就任以降の出費もあり、会津領民に重税を課しただけでなく、新潟や福島でも会津は蛮行・略奪を繰り返した。(郷土史だけでも新潟市・新津市・水原町・五泉市・小千谷市・十日町・燕市・見附市、二本松市、郡山市)、二本松に対する軍事行動は、方針が定まらない同藩への威嚇だったようですが。ただ、ビスマルクに北海道を売ろうと会津が交渉していたことが、プロシア側の資料で明らかになったことには驚きました。⑧他に例のない空前の贋金づくりを行いました。江戸深川下屋敷・若松城内西御丸蝋蔵に鋳造所を設け密造、藩への上納額は60万両(1千億円超)に達した。つ会津に正義はありますか?
松平容保実家に生写真あります元々会津藩士の子孫で先祖は松平家の側近でした親戚に白虎隊の飯沼貞吉氏西郷頼母もいます16年ほど前貞吉氏の墓参り行ったな〜
凄いですね🤩歴史好きなので、御先祖様から、色々と本当のお話をきいていらしゃると思います、ある意味、日本史は、本当の事は、闇に、明治以降は、わかりませんが、かなり 史実とは、違う事がありますから、もうかなりかなり昔昔の事は、、、、今、自分は、地元、生まれた場所から、御縁ある場所、地域の歴史を学んでおります、郷土歴史研究家として、色々教えていただければ、嬉しいです、宜しくお願い申し上げます、合掌
生き残った飯沼貞吉さんは優秀な人だったそうで。
って事は、飯沼貞吉さんと西郷頼母さんは親戚同士?
我が家にも神棚に、松平容保の写真と、保科正之の肖像画が飾ってあります。
白虎隊のお墓に入れて貰えなかった人ですね。この辺に会津の人の頭の固さが出てますね。
知らない事を色々と知れました。有り難うございます‼️
会津歴代藩公祭りで、当主・松平保久氏が松平容保公に扮して参加されますが、容保公にそっくりです。
朝敵とされた会津藩ですが、公用方の広沢安任と林三郎が西郷隆盛に嘆願書を渡すことになっていたが、薩摩の益満久之助が彰義隊の流れ玉で負傷、密談が中止になった。密談が成功すれば会津戦争は避けられたかも。西郷頼母と親しい林三郎は会津藩士で勝海舟の補佐役になり、明治以降は静岡県の要職を務めた。会津藩士の就職、子弟教育の世話、西郷頼母の3回の神官就任、松平容保の日光東照宮宮司就任は、林三郎の根回しと勝海舟の尽力があった。戦争、戦後は戦闘部隊だけではなく、西郷頼母、交渉役公用方の活躍もあった
西郷頼母って家族が自害した後、北海道にいたんですね。知らなかったです。
西郷頼母は後に霊山神社の宮司になって、その後、うちは徳川のご一門衆だったんでひいじーさんもそこの宮司やりました。
その後の戦争回避のチャンスも容保とその側近が潰したというのが事実です。『仙臺戊辰史』によると、1868年4月25日に「松平肥後守容保、その罪を悔い改め、服罪する姿勢を示して、天朝の慈悲を仰げば、寛大な処分にする場合があるので、その旨を心得違いせぬように」との通達を総督府が出したとある。そして、同29日仙台藩・米沢藩は関宿で会津への説得を試みます。仙台藩の重臣、但木土佐が「容保公の城外謹慎と鳥羽・伏見の戦いの首謀者の首級を差し出すべき」と条件提示。これに対し、会津代表の梶原平馬は「藩主の城外謹慎については応じるが、首謀者の首級を差し出すことは出来ない。なぜならば、鳥羽・伏見の戦いに関係のある者は、そのほとんどが戦死しており、生き残っているのは一両名だけである。これらの者は皆、我が藩のために忠義を尽くした者であるので、もし彼らの首を斬れば、藩内は動揺してどんな変事が起きるかもしれない。鳥羽・伏見の件については、徳川慶喜公が一身に責任を負い、その謝罪嘆願状にも「私一身の罪であって、その他の将の誤りではない」と記載して、朝廷もこれを受理しているではないか。それ故に、もし我が藩に罪があったとしても、その罪は既に消滅しており、さらに罪に問われて討伐を受ける理由はない」と粘ります。梶原の言葉を受けた但木は、「首謀者の首級を差し出さないとあっては、降伏謝罪の嘆願の取り次ぎは出来ない。例えその願いを取り次いだとしても、総督府は決してそれを許さないだろう。その時は貴藩はどうするのか?」 と尋ねると、梶原は、「その時は、会津藩士、皆死をもって領土を守るのみである」 と答えました。但木は梶原に向かって、「全藩皆死をもって戦うのと、僅かに一両人の首級をもって、会津藩の国命に換えるのと、どちらが大事であるか、よく考えるべきではないか」と言い、同じ仙台藩の真田喜平太も、「元来、臣子の罪は君父の過失でもある。貴藩が君臣の義を正すのであれば、鳥羽・伏見の一挙は慶喜公の過ちにあらず、実に容保公の罪と言うべきものではないか。また、貴殿にあっては、先達ての一挙は、藩主容保公の罪ではない。我々重臣共の罪であると言うべきではないか」と主張します。戦国時代では城主の首で家臣は放免となるのですが、朱子学の考え方た強い江戸期の朱子学では、家臣の忠義(責任を被る)が一般的な考え方なのです。梶原平馬はこの仙台藩の説得に応じ、会津藩にこの話を持ちかえります。しかし、「寛大に処する用意がある」という通達を20日間も無視し、次のような回答書を総督府に対し送り返したのです。「御沙汰ノ趣難有拝承仕候得共徳川家名成行不見届内ハ謝罪仕間敷覚悟ニ御座候間可然御沙汰奉願上候以上 陪臣松平肥後守」(日本史籍協会編『仙臺戊辰史二』より抜粋)(現代語訳 )「御沙汰の趣意はありがたく拝承いたしましたが、我々は徳川家の家名がどうなるかを見届けない内は、謝罪をするつもりはない覚悟でございますので、その旨を願い上げます。 陪臣松平肥後守(容保)」そして、前述の通り、会津側から戦いの火ぶたを切ったのです。
天皇も謎の死を遂げたり鳥羽伏見も西軍から吹っかけられたり完全に嵌められた会津。。。
徳川秀忠の息子 保科正之から松平容保にその子孫らの東北人の粘り強さ。素晴らしいご一族。
容保は秀忠の血統ではなく水戸家の血統ですね。なので現在の德川宗家は水戸家の血統になりますね。
@@user-nm4bt2tq8t さま 全ったくその通りですね保科正之殿と松平容保公は血縁はありませんね会津藩はご苦労ばかりさせられて 米国カリホルニアに入植した石碑があります。会津藩 鶴ヶ城も見事に再築されてるし白虎隊の写真に涙しました。会津藩大好き人間で、故郷の讃岐松平藩も鳥羽伏見の戦いで 朝敵になってしまった。 オレゴン在住
@@tsutaenovick1036 様保科正之公、松平容保公、直接の血の繋がりこそありませんが御両人共に素晴らしい方だと思います。容保公は藩祖正之公の教え会津家訓を律儀に守り幕府の楯となられました。慶喜さんが直前逃亡し謹慎したので会津藩がその責めを一身に受け会津藩は悲劇に見舞われますね。私も会津藩好きです。容保公は維新後もご苦労されたのに対し慶喜さんはカメラや車の運転等、趣味や子作りに没頭されたようでご苦労された容保公とは対称的ですね。
会津松平、讃岐松平共に江戸城内の席次は溜の間詰。
@@tsutaenovick1036 秀忠の血筋は義姉の照姫。容保公は、桑名藩からの養子。兄は尾張藩へ養子になり、弟が本家の桑名藩主になる。
コーヒー牛乳は、明治に生まれてたんですね。容保公の容態を回復させるために、滋養に良いものとしてコーヒーを混ぜたものにしてたとは…。
柴五郎は有名で日本の誇りです。会津武士のポリシーを貫きました。太平洋戦争後、自決したのが残念です。
柴五郎氏はうちのひいじーさんの上官でひいじーさんの為に、家の前で閲兵式やってくれたべ。
八幡 和郎によると、山川浩や柴五郎の昇進に山縣有朋が会津であるがゆえに反対したというエピソードが小説などにはあるが、少なくとも会津出身者が酷く差別されたなどと言うことは全くないそうです。たとえば、山川浩が少将になったころは皇族を別にすると陸軍大将はいないし、中将も山縣のほかいずれも薩摩の大山巌と野津道貫くらいで、山川と同じ少将には桂太郎や川上操六が前年になったばかりである。このころの少将というのは数が少なかったから、のちの大将より希少価値があったはずで、だからこそ、浩は男爵にまでなっているのである。このようにみれば、山川が冷遇されたなど言うことはありえない。あるいは、陸軍大学第一期生で大将となったのは、佐幕派の松山藩の秋山好古と沼津藩の井口省吾であって、盛岡藩出身の東条英教が佐幕派だったがゆえに大将になれなかったと英機に言い聞かせたのは息子に嘘をついただけだ。それがゆえに英機が反長州閥で陸軍内をひっかきまわしたのだから罪づくりな息子への虚言であった。そして、陸軍士官学校第七期である柴五郎と同期では、津藩の島川文八郎と佐賀藩の宇都宮太郎(代議士だった宇都宮徳馬野の父)が大将となっているが、津藩は鳥羽伏見の戦いの途中から官軍に転じた中間派だし、さらに、この二人より早く柴は大将に昇任して同期の出世頭だったのであるから、これも人事上の不利益を受けていたというのはおかしい。官僚でも山縣の懐刀である平田東助は米沢藩出身であるし、後藤新平も仙台藩である。維新直後において薩長出身などで幕末維新の変革に貢献があった者がそれなりに遇されたのは勲功に報いる意味で当然であるが、逆に、戊辰戦争で官軍にいなかったから道が閉ざされていたということは、以上のようにまったくないのである。
会津の観光協会による「白虎隊の悲劇はお城が燃えているという見違いだった」というテキトーな作り話は、唯一の蘇生者である飯沼定吉の残した書簡が明らかになって完全に否定されてたが、逆に、自刃の背景にあった「生き恥をさらしてはならない」というい会津の思想は、後日のとんでもない悲劇を生みました。即ち、会津出身の陸軍元帥、畑俊六は「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」の一節が悪名高い戦陣訓の発案者ですが、結果、太平洋戦争では、兵士だけでなく、多くの市民の命を奪ったからです。コメントにあるように、柴五郎は自決を選び、それがもとで命を落としますが、本来は絶対に命令を聞くべきはずの慶喜に逆らい、寛大は沙汰があると告知されても天皇に対し謝罪も謹慎もしなかった松平容保や、多くの軍人に死ねと命じた畑俊六は天寿を全うしたのが、なんとも複雑な心境です。
容保は養子で、当初処刑の方針だったんだけど、実の兄上たちが有力者で命乞いしてくれたんだよね 東照宮の宮司とか、ここだったら気が済むだろう?って人事がすごいね。
松平家(本多とは同族)は元々、神職の家系だからです。
@芝崎浩三 すごいですね!恐れいりました、お殿様!
@芝崎浩三 御立派な御家柄なんですね。幕府側の容保公ばかりが有名で、当時は義も大事でしょうが、王政復古から北海道開拓まで新政府に繋げた慶勝公こそ時代を作った大変な名君であられますね。現実、外圧の前で国の礎を考えるには色々とお忙しかったでしょう。。
有難うございます🍀
今度、コーヒー牛乳飲む感触が、変わります。真面目で、実直、忍耐強い人柄が、判る気が、します。会津っぽの、言葉が、ありますね。戊辰戦争のあとには、新政府との、交流も、あったようですね。私どもの居住地は、おおやま厳の墓があには山川捨松さんも眠っています。何百年たっても、伝統、教えは受け継がれていくのですね❤
「家康の子孫、初陣で討死」って週刊誌の見出しが「ウマイ!」って感動した。
保科松平家については正之の血筋、神君家康から秀忠を経て続いた真の直系が途中養子で絶えているのだけは残念と言えば残念…
松平容保は、一番徳川に誠実だったのに。
鳥羽伏見前後から、徳川慶喜にトコトン逆らいました。藩祖保科正之の遺訓を最も守らなかった藩主であったというのが事実ではありませんか?それどころか、慶喜が江戸城開城後、謹慎していたのに、会津では次のような唄が流行ったと言います。「江戸が見たくば会津へござれ、いまに会津が江戸になる」
賊軍の汚名着せられたのにその子孫が日本の歴史で活躍しまくってて何だか嬉しいなによりも賊軍の子孫が官軍しか祀ってない靖国神社の宮司候補にあがったとは意外すぎる
松平は元々、神職の家系だからです。
松平一郎氏は平民の身分なのに徳川宗家(公爵家)から嫁を迎えている。その為一郎氏の妻は公爵令嬢から平民になった。一方、一郎氏の妹は尾張徳川家に嫁いでいる(平民から侯爵夫人)なかなか面白い。
それが、血筋を守る家を守るという事ですよね。
秩父宮妃勢津子様の身内(爵位を持っていた叔父の養女になって嫁いだ)と言うことで父親の恒雄氏に爵位をという話もあったが、恒雄氏は断ったそうだ。一郎氏も同様に。
松平容大公の読み方は「かたひろ」ではなく「かたはる」では?
私の祖先も会津藩士だったそうです。父からの話しでは江戸詰の家老の家族だったそうです。
義和団事件で大活躍した柴五郎がいなかったら、日英同盟もなく、日露戦争も負けていたかも。
柴五郎氏は俺のひいじーちゃんの為に家の前で閲兵式やってくれたのです。
日露戦争には勝ったけど、賠償金もなく全て自腹、その時の借金の支払いは昭和63年まで続き完済した。人が良いのも考えもんですね。日本人の考えが、ロシア人も同じだ考えるのはやめた方がいい。昔から、日本の外交は3流なのではないでしょうか。今の林、前の河野などを見るとそのように感じますが。
柴五郎…年末時代劇SP『田原坂』でちょこっと出てたなぁ。
容保は切腹か、処刑の死罪になる予定でしたが、尾張の慶勝の嘆願書によって、謹慎になりました。
会津松平家から徳川宗家になった人って現当主の徳川恒孝氏か。子供の頃粗食だった宗家の食事に耐えかねて毎日実家にご飯を食べに帰ったり徳川宗家の当主として先祖の祭祀のために時間のやりくりに苦心したり苦労がしのばれるね。
御子孫が徳川宗家なのも、「義」を貫いた事が無縁ではないと思う。
プラシーボかもしれないが、会津は空気が凛と引き締まってる感じがしました空気の密度が違うというかあと、女性が綺麗😍
秩父宮士妃が会津松平家のから来るのが決まった際、一部の華族からブーイングが出たが東条英機が「敵は米英だ!」と一喝したという話も・・・
戊辰の役で積年の不遇を晴らしたかった外様の藩としては、官軍を名乗って京都、江戸に兵を進める上での大義名分として悪者(敵)をつくる必要があり、その格好の的となったのが会津松平家だと思います。近代史では偉人的な評価をされている人物がいますが、あのクーデターに加わって志士と言われている人物達に国を変えようという大義があったようには思えないのです。
私は薩摩出身ですが、会津藩の徳川家に忠誠を近い、お互い国の在り方、存続に命をかけた好敵手として会津を尊敬しています。
日本歴史上、最大の歴史ロマン
容保が京都守護職就任を受けたことが悲劇の始まりだったわけだけど、それには養子で藩主を継いだという彼の負い目もあったんだと思う。養子だからこそ家臣や領民に侮られまいと藩祖保科正之のの家訓に誰よりも忠実であろうとしたのではないか。
養子の辛さはあったでしょうが、そもそも、「ならぬものはならぬ」という議論を封じる藩風であったことがまずかったかも。藩祖、保科正之が「高遠以来」の家来を重用し、会津藩の家老は9家(内藤、北原、西郷など)に生まれた者でないと家老職に就けなくするなど、幕末の中・下級武士が活躍できない組織をつくりました。因みに庄内藩や長州藩は民衆から生まれた軍隊が大活躍しましたが、両藩はただ、支配者にとって都合の良い朱子学でなく、朱子学を批判してきた徂徠学(荻生徂徠)を藩校で教えてきたという違いがありました。ついでに、保科正之は会津出身の山鹿素行(古学派の祖として後世に大きな影響を残した)を朱子学を軽んじたと言うことで国外退去(吉田松陰は山鹿流兵学の先生だった)をさせてしまいました。保科は徳川幕藩体制の強固な仕掛けをつくり上げた大政治家ですが、会津の後継者たちは保科正之の柔軟な発想法を学ばなかったことが大きいと思います。
保科正之の遺訓と柔軟な発想法は相反するものとなるのでこれまた難しい。。。
保科正之の知恵、、例えば、平氏や鎌倉北条氏や一族以外を滅ぶすことに執心したが、幕府開闢以来、その効果を狙ったと言われる末期養子の禁を緩和し、殉死の禁止、さらに、明暦の大火後、庶民を救済を優先し江戸城天守閣を再建させなかったことなど、幕藩体制が固まっていたこの時代、保科正之でなかったらできなかったかったのではないかと思う。藩政においても、漆栽培の奨励、備荒対策として社倉の設置したり、庶民のための学問所といわれる「稽古堂」を支援した。90歳以上(殆どいないだろう?)の老人には身分を問わず、終生一人扶持(1日あたり玄米5合)を支給し、日本の年金制度の先駆けとなる制度を作ったりしたのも泣かせるな。やはり諸悪の根源は容保の頑迷と会津九家による藩政独占だろうか??
かっこいい!
初代保科正之により、「徳川家に忠勤、忠義を尽くさなければならない」を家訓の第一条としてきたが、その将軍慶喜が家臣たちを捨て、卑怯にも敵前逃亡的に大阪から逃げたのですが、松平容保は反対だったが、将軍の命には従わなければならず、のちに帰ってきた家臣に謝罪し、家督を譲った正に武士の鏡な人物結局、そこから会津戦争へと悲劇は続くたらればですが、将軍慶喜が逃げなかったら・・歴史は変わっていたかもしれない
庄内藩は君臣一体で町人、農民迄戦うことができ、藩内迄政府軍を引き入れてゲリラ戦も可能だった。會津藩は領民と武士とは分かれており領民の協力がないので、狭い城内町に籠城するしかなかった。
会津藩も一応、農民兵組織したらしいんですが、あんまり活躍とか聞きませんね。
会津藩では農民組織の部隊や僧侶の部隊、力士の部隊も有りました。
一応戊辰戦争時の戦力会津藩士正規軍4000人、農町民兵4000人。薩長に媚びた農民もいたけど、藩の為に戦い、協力した農民も多いのよ。
会津の不幸は容保がカネもないのに京都守護職を引き受けたこと。さらに鳥羽伏見以降の戦費も重なり、前代未聞の贋金をつくり、越後を中心に夥しい略奪行為を行い、さらにプロイセンに北海道を売り払おうとしたが、その前提に領民への過酷な年貢取り立てがあった。保科正之の時代の年貢率は40~50%と比較的高ったが、幕末の年貢率は8代藩主容敬治世の嘉永5年(1852)で53%(『近世会津の研究・上』当然、農民による一揆が先月から各地で発生し続けています。農民は「やあやあ」と叫びながら一揆を行い、会津全域で数万人に広がっています。この一揆は「ヤーヤー一揆」と呼ばれ、農民達は竹槍や鎌、なたなどを持ち、村役人や商人の屋敷を打ちこわし、年貢に関する帳簿などを焼いています。もっとも、長岡藩も無理がたたってやはり大規模な農民一揆が起こっています。だから、庄内藩と違い、会津、長岡では、農民・町民兵の目立った活躍はなかった。一方下級武士の活躍も限定的。即ち、藩祖、保科正之は信州高遠から引き連れてきた家来を重用したが、以来。会津藩の家老は9家(内藤、北原、西郷など)に生まれた者でないとわずかの例外を除いてその家老職に就くことはできなかった。少数支配は厳しい身分差別を生むが会津も例外でなはく、下級武士の活躍は殆どなかった所以である。
会津は地形が難しいから猪苗代周辺までいくと戦火とか関係ないし傍観しちゃうよね。京都守護職になり散財しちゃって藩に金もないし税率が上がってしまったら尚更。
良い!
ちなみに孝明天皇が記した宸翰には、簡単に言うと「昔のように武家と公家が協力して国を作っていこう。」って書かれていた。いわば公武合体構想であった。そして徳川慶喜は、イギリス式の議会で政治をしたいという構想があった。江藤新平はフランス式の民法で個人の自由を重んじて公正公平の法律を作ろうとしていた。彼らが国を治めていれば、その将来の日本がアメリカに宣戦布告することはなかっただろうな。会津藩が改易されたり虐殺されたりするのは明らかに長州藩の私怨だって思うわ。薩摩・長州藩のやったことは首のすげ替えと。天皇を権威に私腹を肥やしたことくらい。最近になって明らかになったことだが、「慶喜討伐の密勅」は天皇の権威を利用しようとした偽造された文書だった。士農工商も、幕府時代から変えたと言っていたがそれもウソ。江戸幕府は参勤交代で外様を苦しめてただのってのも。全部後付け。嘘っぱちだったということが分かってきた、せめて大政奉還して、京都御所で話し合いで政治が決まっていれば、その後の日本は絶対に今よりも良い国になってたわ。
ありがとうございます💮自分がずっと思っていた、疑問が納得です☺️
八幡和郎さんは「たしかに、容保は孝明天皇に忠実だったが、天皇が誰も支持しないような意見をもつときには、お諫めするのこそが忠義であろう。そうでなければ、和気清麻呂は忠臣でなく逆臣になる。そして、慶喜が方針転換し尊攘派との和解を望んだとき、容保は邪魔ものになった。といっても、慶喜も会津がいなくなると代わりがいないので、とりあえず、引き留めたのだが、ここは、隠居でもなんでもして、引き揚げるべきだった。」と藩祖の遺訓を守らず、その後トコトン、慶喜に逆らって、慶喜が江戸城を出て謹慎しているのに、会津は上野や北関東に兵を送り、謝罪も恭順もしなかった会津松平家最大の不忠をしてしまった。それから、長州藩の私怨というのは全く根拠はありません。証拠はないでしょう?分断を煽るような虚言はなりませんよ。寧ろ、幕末は会津と長州は意外と近かったというお話をします。長州藩の奥平謙輔はかつて西国を周遊していた会津の秋月悌二朗と長州で出会い、意気投合。その後、会津藩降伏後となりますが、奥平は猪苗代に謹慎中の秋月に「会津藩と敵対し戦わなければならなかった不幸を嘆き、会津藩の徳川幕府に対する忠義を讃え、今後は朝廷の為に尽くして欲しい」と言う内容の手紙を送った。因みに手紙を届けたは、河井善順という会津の真龍寺の僧侶。手紙を受け取った秋月は謙輔を会津藩への理解者として見込み、越後に居る謙輔を密かに訪ね、藩主父子の助命や会津藩士の将来について頼んだ。謙輔は秋月の期待に応えるよう努力すると約束し、さらに二人の会津少年(のちの東大総長山川健次郎と陸軍少佐になる小川亮)を書生として預かった。ついでながら、手紙を届けた川井善順は会津の真龍寺の僧侶で修学のために一時、京都の西本願寺に入るが、その際、本願寺は禁門の変の際に敗走した長州藩士を匿ったために西本願寺が京都守護職松平容保によって攻撃されそうになった際に、会津出身である善順が知己の会津藩士らに懇願して攻撃を中止させたことのある長州藩の恩人。らに、続けると、越後での会談では、奥平謙輔だけでなく、前原一誠が参加、一方、会津津藩から永岡久茂という若者が同行しています。奥平謙輔と盟友、前原一誠と萩の乱を起こしたとき、維新前後の恩義を感じた永岡ら会津藩士の実に14名がそれに呼応、千葉県庁を襲撃しようとし、失敗、首謀者の永岡久茂は、捕縛獄死、井口慎次郎、中原成業、竹村俊秀の会津藩士3名が斬罪となり、逃走した中根米七も後日、喜多方町の寺院境内で切腹したが、長州が会津に非道なことをしたなら、元会津藩士の命を懸けたこの思案橋事件が起こるはずがないでしょう。もうひとつ。飯沼貞吉は、会津飯盛山で集団自刃した白虎隊士中二番隊唯一の生存者(別の隊士の母親が集団自決している中でまだ息のある貞吉を発見し、介抱)。しかし、一命をとりとめた貞吉は不忠もののそしりを受け、会津に戻ることができません。そこで、長州藩士楢崎頼三が貞吉を長州に連れ帰り、勉学に努め、後に電子技師として大活躍、生を全うします。その楢崎ですが、残念ながら、留学先のフランスで病死しますが、彼は、若いころ、上士からなる干城隊で活躍しています。実はこの干城隊頭取だったのが前原一誠です。この動画で解説があったような長州と会津での憎しみがあったのかもしれませんが、上述のお話からすると、憎しみを乗り越えようとした当時の若者の思いがあったように思えます。いや、寧ろ、会津の憎しみは、会津での官軍による乱暴狼藉が原因だとされますが、言われている蛮行の大半は1960年代以降の会津観光史学という金儲けのためなら何でもありの捏造物語に由来し、その多くは、会津若松市の商工観光部長であった宮崎十三八氏や白虎隊記念館長 早川喜代治氏、さらに、早乙女貢・星亮一などの小説家による著作、エッセイ及び、それらを読んだり、講演を聞いた高齢者の証言に過ぎません。歴史的な資料に基づくものではありません。逆に、新潟で行われた会津藩による数々の略奪暴行や、会津藩が謹慎しないどころか、仙台藩による和睦案を拒否したと言う事実、北海道をプロイセンに売却しようとしていたこと、さらに、会津はイタリアのムッソリーニやヒトラー政権から記念碑を受領していたと言う、会津観光にとって不都合は話にはあまり触れていないように思われます。
勢津子妃が嫁ぐ時、彼女が平民出身であったことや会津藩松平家の人間であったが故か、彼女に対して「絶対に辞退するように」という手紙が届いたこともあったと、ある本で読んだことがあります。
長州閥の真崎甚三郎が『そんな話、わしが潰してやる』と息巻いていたという逸話は鶴ケ城のなかで知りました
@@shinya292 それは勢津子妃の縁談をでしょうか、それとも「辞退しろ」論をでしょうか❓️お教えください。
@@AtsushiMizobe 俺は縁談を潰すと捉えましたが
@@shinya292 確かに長州閥の人間だとしたら、そちらだと思われますね。ありがとうございました。
だから華族のおじさんの養子になってるんだよね。
戦争は悲惨だったけど、貴重な観光資源になってる。
自分の従兄が現在、岩崎弥太郎の会社のトップに居ます、代表権が在りますから会津商事にするのも可能な立場です。いま会津は日本の労働者のトップにいる🎉
当家の母の母の母が只見町の出身です…族籍は平民ですがあたしも會津の血を引いているとの自負があります。戊辰戦争は悲しいです。
松平勇男氏の長男、真隆氏は私の高校時代の同級生と記憶しております。御存命であれば今年76歳、気品あるイケメンでした。お元気なのでしようかね。
大河ドラマでやって欲しい。
藩祖保科正之から現代までを、幕末明治をメインに。
薩長も許せないけど、慶喜や春嶽他幕閣が腐り切ってたのが原因で会津はこうなってしまった。
慶喜は朝廷に奏聞状を送っています。内容は徳川の家名を残して欲しい事、会津藩含む家臣を許して欲しい事。しかし会津藩というと自分たちの行為は免罪だという内容で謝罪や恭順を示すものではなかった。また江戸城が開城された後は、会津藩は徳川の抵抗派の残党と一緒に会津藩へ逃げています。悪いのは薩長でもない、慶喜でもなく、会津藩です。現在の研究では当時の会津藩は主戦派が大多数を占めていた事がわかっています。戦争のために農民達から凶作用の米を奪っています。軍資金のために町人達からも財産を没収しています。
@user-ib2vl4rq4m金策に走る会津は北海道をプロイセンに売ろうとする証拠がドイツから出てきたし、また、領民をいじめただけでなく、郷土史だけでも新潟市・新津市・水原町・五泉市・小千谷市・十日町・燕市・見附市等の市町村史に、会津藩兵によって民衆がいかに搾取・略奪され苦しんだのかと言う記述がされている。会津鶴ヶ城西出丸で「お城打ち」と呼ばれる贋金を大量に製造し、越後商人を始め領内で使用致しました。戊辰戦争で敗れてからは、困窮した職人等が会津各地で贋金を製造し、明治政府により全国一の逮捕者が出たのは会津だったそうです。 現在も量目や材質(銀板・真鍮板・銅板)がまちまちの贋金が会津では多数見つかるほどです。明治初期、新潟港での貿易が発展しない理由として、ラウダー(英国の新潟初代領事)が簡潔に指摘した点でもあるが、贋金が出回り政府の発行する紙幣の信頼性が低い上に、港湾設備が整っていない点などを論じていますが、新潟の発展の邪魔までした会津は新潟に謝罪をしたのでしょうか?
勝海舟は幕末の植木等!スイスイ♫スーダラスイスイスイ♫生き延びたなぁ~
石垣いちごが会津松平家に関係してるのは初めて知った。会津松平家は一説によると駿河への転封も考えられていたらしいから、もしかしたらその話から会津と静岡の結び付きがあったのかもね。藩祖保科正之の父親の徳川秀忠も浜松の生まれだし。
我が家では、未だに靖国神社に行くことはできません。
人生いろいろと言ってもあの方の人生は激すぎでしたね。何一つ自慢できないつまらない自分の人生に感謝しますよ。
小説から戊辰戦争当時の明治天皇がまだ少年だったことを知り、ショックを受けた。1852年11月生まれ。1867に孝明帝のあとをつぎ、戊辰戦争1868〜。16歳?天皇絶対天下での幼帝は、世の中の人にとって恐ろしいことだったろうな。
徳川慶喜家にも慶喜の孫の時に容保の孫娘が輿入れしています。
秩父宮妃と高松宮妃が仲がよくて、高松宮妃の弟が結婚適齢期になったので、いい人いないかしらと秩父宮妃に相談したら、学習院を卒業したばかりの従妹がいる一度会ってみたらと。で、お見合い成立で一緒になったそうだ。(息子談)
普通に自分知識がないから言えることかもしれないけど顔整っててかっこいいですね…なにも知らないのにすみません…!でも、幕府を支えるのはいいこと…なのかな…?知ってる方いたら教えて欲しいです!!この方容保さんって偉い人なんですか?普通に教えて欲しいです!!よろしくお願いいたします!
ざっくり言うと、容保は幕末に京都所司代という役職について尊皇攘夷派の新撰組などを使って粛清してました。その時に主な尊皇攘夷派だった薩摩、長州両藩から恨みを買ってしまったのです。
@@comsuko2122 容保公は京都守護職です
京都の守護だから今だと東京の守護、警視庁の長官?警視庁の長官がテロから総理を守るのが良い事なのかと言われても「当然」としか。。。
外敵から日本を守る為の新型兵器を幕府を倒す為に乱用した新政府軍には協調出来ませんね、しかも戦場の跡が悲惨な状況とは、、言葉が出て来ないです。
松平容保公が日光東照宮の宮司になったのは、松平家は元々、神職の家系だったからということも有ります。うちも徳川のご一門衆でしたが、武家やめた後は神職やってました。そ言えば漫画家の、こげどんぼさんは会津藩士の子孫だそうで。
織田信長の先祖が織田剣神社の神官だったという話は知っていましたが、松平の始祖、松平親氏は時宗の僧侶だったのではなかった??
@@小栗上野介-c8v 始祖は松平家に婿入したのであります。
@pontarou01僧侶(仏教)であり、神官(神道)ではないのでは?だとすると、松平の始祖が僧侶なんだから、@pontarou01さんの説はおかしくない?
@@小栗上野介-c8v 私が読んだ本にはそう書いて有りました。うちも松平とは元は同族で家紋は立葵、賀茂社の神職やってたのです。
佐賀藩や他の班から来ると言っていましたが断ってます。会津だけで行いたかったんでしょうね。未来を見据えていますから❗️嵐
😢会津中将さまこそまことの武士 薩摩長州は大便イモテロリストだ。
戊辰戦争は未だ終わらず。3.11で帰還困難区域と数百年も汚染水は海洋投棄される。徳川慶勝と松平春嶽の京都守護職の強要はふくに悲劇をもたらした。少年隊の悲劇はその始まり。今だ戊辰戦争は終わらず。
少年隊って二本松藩の?
今の日本も幕末、維新時代の様に洗濯しなくてはいけない頃合いだなぁ!!
国内だけの話なら松平容保は、美談なのでしょう。しかし、英国の中国に仕掛けているアヘン戦争・アロー戦争を考えると、次は日本の危機だという事が理解できます。何故、徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いから急遽江戸に帰ってこられたのかということが問題なのに。その後に、徳川慶喜は松平容保をお傍に置かず、邪険にしているのです。この事からも、松平容保は、世界の動き、英国の狙いは日本植民地・日本を牛耳ることだという危機意識がなかった大バカ者だと言えます。松平容保は、会津の宝である御家来衆をことごとく死に至らしめた報いと日本を危機に貶めた報いを受けるべき者だと思いますよ。今の岸田文雄に共通した空気が漂っていますね。中国人の留学生を日本の宝だと言及した後、その留学生がスパイであり既に日本から中国に帰っている状況なのですが。また、中国の法律で、国家動員法、国家情報法などあり、日本の情報、国家機密など中国人なら中国国家から提出するように言われたら、拒めないから教える事になります。そういう実態も知ってかどうか、今の岸田、林、二階、親中派議員、公明党議員によって日本が危機にさせられているのが現状です。 自由の前に日本人としての安全保障に気配りしたいものです。明治維新からの日本の姿は、英国の東アジア戦略における日本侵略への危機意識のなさ!
大局を見る力が欠如していた思います。小さき故事にて国家を誤るなかれです。
実際に会津藩はドイツに北海道の一部の領地を売ろうとしていましたからね。会津戦争が長引いてたらドイツ軍が介入して戦局はどうなってたかわかりません。
我が国最大の茶番劇が一会桑政権が薩長とグルで奥羽越列藩同盟も!一橋慶喜はじめ松平容保と桑名藩主は兄弟!!ズブズブなシナリオを信じて血を流した者共に哀悼の意を!!
萱野の息子が自害した謎、解けないものか。
自害した理由は、会津を侮辱されたからだそうですよ。
確か実家に送った手紙に空腹だということを書き、家からの手紙が「そんなことを言うな」というものでした。その手紙を同級生に読まれて「会津の武士道とは食べ物のことか!」と言われて切腹したそうです。
NHKのプロヂューサーが松平容保のひ孫さんですか?松平アナウンサーも子孫ですか?
違います。アナウンサーの松平氏は、伊予松山藩久松松平家の家系です。
@@会津松平家の容保さん どっちにしても名家は名家。お育ちがよろしいんですね。
@@匿名-m1c8x その育ちの良いアナウンサーの松平氏は酔ってタクシーの運ちゃんを殴り逮捕されましたw 殴る際に「無礼者!」と叫んだとかw
仙台じっち会津ばっぱ、二本松あねさ白河おんつぁ。😁
徳川宗家を継ぐには、何ら問題のない優秀な血統でしょうねw。何なら八代将軍の時期に「将軍候補」に推されていても不思議ではないくらい(笑)。
会津藩は官軍だった。
確かに、本来ならば会津藩こそが官軍であったはずです。
会津は官軍??もっとスケールが大きいよ。藩祖の遺訓を破って徳川慶喜の意向を無視し、鳥羽伏見の戦いを引き起こし、慶喜が謹慎していることを横目に上野や宇都宮に会津兵を差し向けた容保。会津藩の徳川本家に対しての忠節はどこに行ったのやら?慶喜による江戸城開城後、会津では次のような唄が流行ったと言います。「江戸が見たくば会津へござれ、いまに会津が江戸になる」会津城下では、こんなざれ歌が領民に広まっていたことからも会津藩は徳川再興を謀るとの大義名分で、日本を制覇しようと企てていたのだろうか?それを裏付けるように、輪王寺宮・公現法親王が上野戦争の後、東北に脱出して奥羽越列藩同盟の盟主・東武皇帝(東武天皇)として即位していたという説が根強いが、、、。
でも京都守護職解任された時点で会津に帰ってたらとか、慶喜と一緒に帰らなかったらとは思う。
家光家康のために日光猿城を建てました男です
明治維新て紐解けば関ヶ原で冷飯を食わされた薩長の(昔の呼び方)怨み返しですね🎉頭の悪い私の間違えですね
手代木勝任て京都見廻組の佐々木只三郎の兄
なんで京都守護職なのにいきなり朝敵になってんの?
「会津中将お預りの新撰組(壬生狼狽)だ❗」の切り口上で始めた長州・土佐辺りの攘夷・勤王浪士狩り(池田屋)のご活躍が、仇と成りぬ。
長州と薩摩がクーデターを起こして朝廷を乗っ取ったからだよ。
公武合体派の孝明天皇が突然無くなった、立場逆転
その子孫で徳川宗家の徳川家広はベトナムから嫁もらったのはいいけど子供無しでしかも借金だらけの、ろくでなしじゃん!
今後どんな俳優が松平容保役を大河ドラマなどで演じるのか知らないけれど、片岡愛之助にその役は演じさせたいとおもうね。
薩長に絶対に屈しない姿勢を見事に演じてくれそうですね!
徳川松平生きておる。わしに縁あった者が将軍に変われ。容姿風貌一位。今のはなんじゃ?徳川を捨てるな。血のつながりのないものは処分をもって家再興とする。松平の爺を殺したのは誰だ?
歴史が有りますね~😂
慶喜以上に評価が難しい人物である。何故なら主導的アクションが何もない人物だからです‼️
NHKのプロデューサーで調べたら、松平〇知とタクシー・キックって何?
火影や光が入らぬように関宿城🏯では北条城とも戦い入らぬようにと年に警戒し、新撰組を張り付けました
甘利徳川家と保科井上会津松平家の間の子が将軍。掟だ、保科井上宗家と甘利徳川宗家の子家光と称し徳川救済せして、それを惣領とする。
松平カタモリの子孫が紀子さんでアキシノミヤ家に入ったと結婚当時話があったのは本当の事なんでしょうか?
違います。白虎隊で亡くなった池上さんのいとこが、紀子妃の父方の祖母、川嶋いと子さんの父池上四郎です。川嶋いと子 、旧姓池上。会津藩士の家柄です。
@@恵都子桑原 様・・・・恐れ入ります。
実家は、元々会津の商人でしたが、会津藩士に家財を根こそぎ持っていかれ没落したとか官軍に助けられたとか言われて育ったから、会津藩を礼讃するようなドラマ等には、馴染めません。
徳川の一族は大嫌いなのですが松平容保の家だけは別ですね😃尊敬しています😃
容保は藩主としては最低(重臣による度々の京都守護職就任固辞)その結果何千人の死傷者禁門の変では100万石の前田藩は途中で守備放棄、越前へ逃げる歌ではないが正に「逃げるは恥だが役に立つ」!!
保科松平家は京都守護職の費用の為に会津の民から増税、さらに新潟、郡山宿に放火略奪して怨みをかって、官軍が入ってきた時、民は官様、官様と喜んで受け入れたんだけど、ホント都合の悪い事は棚に上げて被害者ヅラしてほしくないね。
籠城中に仕込んだ子がいる件
このような身分制度からくる特権的地位がそのまま子孫に承継される制度は民主社会には馴染まない。明治維新を境とする彼らの苦労は明らかになってるが、素直には同情し難い。別の道を歩んだ多くの人たちはどうだったのであろうか?
世襲はダムだね!
勇男誤り、勇雄でした。ご容赦。
ちょっとまって、どんな校則違反よ。
薩長テロ集団
麻原松蔭に洗脳されたのが京に火をつけて帝を連れ去ろうなんて当時の建築考えたらサリン以上のテロ行為正に松蔭を尊師グルに仰いだ幕末オーム集団狂行を阻止した新撰組や会津の功績は大きい
薩摩やら長州なんてのは所詮は外国勢力のただのパシリだったんでしょ!?笑
@@fuji0073 こういう人間って幕府の後ろにフランスがついて軍事顧問を派遣したりフランス式の幕府陸軍とか作ってた事についてどう考えてるんだろう?英仏がアジアアフリカアメリカと植民地争奪戦を世界中でやり続けてる中で善意で幕府の味方でもしてくれてたとでも思ってるんだろうか?豊臣の家臣でありながら弓引いた徳川もどうなるんだ?
@@fuji0073 うん、ユ○ヤ人ね戊辰戦争なんてアメリカの南北戦争で余った武器を売るために薩長のケツ叩き始めた戦争やん
四方の海みな同胞と思ふ世になど波風の立ち騒ぐらむ。四方の海みな同胞と思ふ世になどあだ波の立ち騒ぐらむ。明治維新で同胞王朝が建国された。同胞の徳仁は同胞王朝の5代目。
容保は尾張徳川からの婿入り藩主。保守的家臣には苦労した。今思えば誰が戊辰戦争で一番得をしたか?長州?薩摩?否 江戸在住の幕臣ではなかろうか?戊辰戦争で保守的な家臣は廃除され、新政府の官僚となり、現代も実質の権力をもつ。都を東京に遷都させ、東京を世界一の経済都市へと導いた。慶喜、勝海舟、榎本らの計画倒産と言える。会津も番組のとおり、容保の子孫は徳川宗家になる。容保の嫡男の出産は、長州従軍医の山根孝中に委ねたのは奇妙な話で、山川ら優秀な士族はわさわざ長州の前原や奥平に委ねている。保守的な会津を再生するための計画倒産である。自らは東照宮の宮司となり、天寿を全うした。また番組にもあったがもう一人の息子は山田顕義の縁者の養子に送り込むという何から何まで長州頼みである。捕捉だか、白虎隊の生き残りの新沼貞吉やそれを助け長州に連れ帰った楢崎頼三とその縁者の話を知れば、会津人がいう話と真逆な真相が明らかになるだろう。
世渡りの悪い藩主がいたせいで数多くの犠牲者を生んでしまい藩主容保は明治時代に家臣の冥福を祈ることなく生活している。こんな奴が藩主とはって感じかな。
涙なしには見れませんでした。
「朝敵の汚名を着せられる」との解説ですが、鳥羽伏見の戦いの後に徳川慶喜などと共に桑名・会津両藩も正式に朝敵に指定されているので、ニュアンスとして難しいですね。間違いなく尊皇派を弾圧して殺しまくった方なので、そのまんま朝敵でしょう。
徳川宗家の息子って、インドネシア人と結婚してるんじゃなかったかな?
家広氏はベトナムの方と結婚されていますね。
野田関宿城🏯徳川家康子の旦那緒の方と竹👸国広を下がります❗️
会津はいい加減薩長と和解しろやw 何百年経ってんだよw うちの山口県出身の課長が若い頃会津に営業に行って、営業トークの流れで出身地ポロッと言ったら塩撒かれて追い出されたらしいわw
それだけ薩長に酷いことをされたからでしょ
会津戦争で戦死した会津側兵士の亡骸を見せしめで野晒しにしたからね。で、心ある方が埋葬したら見つけて掘り起こして、再度亡骸を道に置き直したから…。まぁここまでされたら、会津若松の市長も『まだ早い』て言うわな
奥方のおだいの方を妻とする舞台
徳川恒孝氏が日本郵船の若手社員だった頃、加賀前田家の当主と机を並べていて、
徳川と前田を部下に持つのは秀吉のほか俺だけ、と当時の上司はご満悦だったそうな。
部下の家格だけ見れば信長、秀吉と同じやねw
私の大学の後輩で、先祖が会津若松出身という者がいました。実家も福島県にあるようです。それなのか何か薩摩、長州という言葉には少し敏感でした。別段現在の鹿児島県、山口県の呼称には何の意識も無いようですが、未だ薩摩、長州には反応してしまうようでしたね。個人的に遺恨は無いようなんですけど、幼い頃から鶴ヶ城陥落、白虎隊の悲劇など代々聞かされているようで、それを思うと反応してしまうんだとか。私が大学生当時は会津戦争から約120年以上が経っていましたが、悲しい記憶はいつまでも消えないんだな、悲劇は繰り返してはいけないんだなと思いました。
一昔前は若松なんかの旧家は鹿児島出身者は「シマヅ」呼びで配偶者としては言語道断であったと聞いたことがある。
会津肥後守家家中は武士団の団結が結構強く、士族出身者にはシマヅは仇敵とする見方が強かったらしい。町家になるとそこまでの怨嗟は無いけれど
会津で、「この前の戦争」と言うと、太平洋戦争(第2次世界大戦)ではなく、戊辰戦争のことらしいです。
また、薩長土肥(鹿児島県・山口県・高知県・佐賀県)の人は、会津に行く時には気を遣うようです。
私の先輩の妹さんは、会津に嫁ぐのに、高知県出身だというのを、ずっと隠しているそうです。
恨まれてる側の意見として、恨んでるのはこっちだ!
と言いたいのだと思うよw
京都では散々お世話になったなぁ〜的なw
オレが恨んでるかというと、全然そんな事はないんだがw
勝者側だから、未だに恨まれてるのかと思うだけw
ご先祖様が参加してたわけでもないが、その地域に住んでた百姓の子孫までも恨まれるってチョット理不尽だなぁ〜って思うw
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い方式の逆恨みにしか思えないのよw
会津仕置きで酷い目にあったのは知ってるw
つくづく人間って業の深い生きモノだよねw
会津藩のエピソードを聞くと、たとえ要領が悪くても、誠実に生きる事の大切さを教えられる。
でもさ、西南戦争では、会津藩の家老や家臣たちが官軍として参加してたよね。
本来ならば、旧士族のために立ち上がった西郷隆盛の味方になるべきじゃなかったの?
西郷隆盛は官軍で唯一の大将だよ。
政府軍トップだった西郷さんは、負けを承知で戦った。
「♬敵の大将たるものは♬古今無双の英雄で♬それに従う兵たちは♬ともに剽悍決死の士♬」
これこそ武士の本懐じゃないのかね。
それに比べたら、多くの家臣を死なせておいて、のほほんとしてる会津藩主って。
ついでに書いておくと、、、乃木大将は、明治天皇の国葬の日に、多くの国民を死なせたことへの責任を取って、、、夫妻で自刃後追いしたぞ。
@@kazuokoyama6435
徳川への忠誠>>>…>幕藩体制の再興
失脚した社長にはついてく気はあるけど。社長派の一人から社長メソッドを余すことなく詰め込んだベンチャー立ち上げると言われても二の足踏むじゃん
@@スタン捜査官 西郷隆盛は官軍で唯一の大将だよ。
維新で失職した士族の働き場所のため「征韓論」を唱えたが、受け入れてもらえなかったため新政府から抜けた。
当然ながら政府軍トップだった西郷さんは、負けを承知で戦った。
「♬敵の大将たるものは♬古今無双の英雄で♬それに従う兵たちは♬ともに剽悍決死の士♬」
これこそ武士の本懐じゃないのかね。
それに比べたら、多くの家臣を死なせておいて、のほほんとしてる会津藩主って。
ついでに書いておくと、、、乃木大将は、明治天皇の国葬の日に、多くの国民を死なせたことへの責任を取って、、、夫妻で自刃後追いしたぞ。
あんたのそんなカッコ悪いダサイ生き方はしたくないね、要領よく世の中を渡るのが勝者。
あんたのカッコ悪いダサイ生き方はしたくないね、要領よく世の中を渡るのが勝者。
斗南藩は飛び地で、開拓に苦労した者は北海道に新天地を求めました。屯田兵となり、西南戦争では、山鼻、琴似の元会津藩、元斗南藩の兵士は「憎き西郷軍」相手に「朝敵」という汚名を挽回するかのように奮戦します。一方、指揮官の多くは薩摩出身なので、士気は、「兵士の方が高かった」ともいわれています。これらの逸話が、「北海道の兵は強いという神話」の始まりとなり、日露戦争でも肉弾戦でロシア軍のマキシム機関銃に立ち向かい、多大な損害を被りながら辛勝します。
「憎き西郷軍」ってなんですか?今の近代日本を作った方々ですよ。
少なくとも会津松平家よりも国家に対しての貢献度が高い。
"西南戦争"はいわば当時の政府内部の考えの違いからの仲間割れが原因です。
会津藩は幕末の財政難を乗り切る為に無断で北海道の飛び地(当時は蝦夷地)をロシアに切り売りしようとしたとか。美談だけが歴史ではない。
私も会津藩士の末裔です。
誇りを持って生きております。
先輩方は本当に優秀な方ばかりで、それもまた励みとなります。
@@兵衛和田 さん
それは私のコメントに対してのお話ですか?もし、そうでしたら返信差し上げますが、上げる場所をお間違えになられたのでしたら、控えさせていただきます。
@@兵衛和田 さん
どこの地域にも、良いこと、悪いことは確かにあると思います。
そして、和田兵衛さんは何もわからずに語っておられる方ではないと感じてもいます。
ただ、失礼かもしれませんが、ならぬことはならぬの本当の意味をご存知でないように感じられるのと、個人的に私は和田さんに恨みもありませんし、なぜそのような攻撃を受けなければならないのか正直わかりません。
失礼かもしれませんが、会話にならない気が致しますので、お暇いたします。
@@兵衛和田 さん
なるほど、そういう流れがあってのお話なのですね。
最初からそう言って頂ければ会話になるじゃないですか💧
誰にでも、祖先がいて、その時代、立場により見え方は異なるものだと思います。なので、私としてもただただ薩長憎しの感情の頃もありましたが、自分が生きていく中での苦悩の中で、当時の敵方の思いがわかる部分が出てきたりなどあり、なるべくいろんな立場の方の見え方を知りたいと思うようになりました。
@@兵衛和田 さん
個人的には、産みの苦しみというのがどの部分をおっしゃられているのかはわかりませんが、合祀の件、同意です。
@@兵衛和田 さん
大変お待たせして申し訳ありません。〝本来の意味〟などと偉そうなことを申し上げましたが、私の解釈に過ぎないかもしれません。
ただ、ここ最近はこのならぬものはならぬについて〝思考停止〟や〝時代遅れ〟などという論評が多いこともあり、自分なりに思考を深めて参りました。
少々長くなりますが、せっかくご質問頂いたのでしっかりお応えしたくご容赦下さい。
まず私は幸いなことに、祖先が残してくれた巻物で系譜を辿ることができ、藩の記録である会津藩家世実紀という書物の中からも祖先の生き様を知ることができた恵まれた環境にありました。
そして藩校日新館の成り立ちや、その中での什の役割、武士としての生き方を、なるべくその時代背景を想像しながら学ぶことを心がけてきました。
まず、〝ならぬことはならぬ〟
これは確かに現代語訳すればダメなものはダメとなるかもしれません。しかし、この言葉はあくまで締めの言葉であり、和田さんもご存知の通り、その前文にかかっております。
その前文というのは
一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ〟
これらです。
あくまでこれは規律、道徳に関する部分であり、善悪の判断のつかない幼い子どもに対して、理屈以前に人の道としてしてはならないという、武士としての生き方、指針を説いたものです。
今で言うところの、まだ車というものの存在を知らない小さい子に道路に飛び出してはならないと教えることと似ていると思います。
引かれてからでは遅いからです。
命というものもまだわからないからです。だから生きていくために理屈を理解できるようになる前に教えておくべきことという意味です。
そして、戦後は自由という言葉が全面に押し出されるようになりましたが、あくまでそれは他人(仲間)との共生の中で必要な規律、ルールがあって成り立つものです。自由=無法地帯ではありません。車の話で言えば、一定の訓練を受けて、みんなと一緒に公道を走る資格を得たものだけが公道をはしることができるわけです。
私は赤信号でも渡りたい、なぜ赤はダメなの?などという人間が溢れたら事故だらけです。
そういうことを教えるための、ならぬものはならぬ、です。
そして、あくまで国、藩というものを考えたときに、共同体として共通の認識、同じアイデンティティがないと、そもそも国も藩も成り立ちません。皇室を中心に脈々と受け継がれてきたのが日本であり、それが国体というものだとするならば、現代の価値に合わせて男女平等→女系天皇などという議論自体がそもそも日本、皇室とは何かを知らない人たちの議論と私は感じてしまうのです。
そういった前にかかる部分によって意味は全く変わります。
私の感覚からすれば、女系(そんな言葉は本来ありません)という時点で天皇(皇室)ではなくなり、これまで2,000年以上もの間受け継がれてきた日本という国が日本ではなくなる、つまり、ならぬものはならぬと思うのです。
男女平等の話とは全く関係なく、それが日本という国なのです。それを戦後日本人は教育改革により知ることができなくなりました。世界で建国の成り立ちを知らない希少な国民になってしまったと思います。こういったことも会津藩が京都守護職で成し遂げようとしたことを考えたときに、どうしても徳川に対する部分だけがフォーカスされがちですが、実際に行ったことは天皇を御守りすることでした。孝明天皇との関係性を学ぶ中で、幕府方、新政府方以前にどちらも尊皇なのです。それが日本だからです。思想的な部分が絡む部分でもありますので、どのような印象を与えてしまったかは想像できません。しかし私は、日本人として生まれ、日本に生きている以上、日本が好きであり、いえ好き嫌い以前に日本がなければ私はおりませんので、この国をこの国の形を守りたいという思いでおります。かつて先人たちが2000年以上もの歳月をかけて守り抜いてきたものを、会津藩が天皇、そして自分たちの国を守ろうとしてきたように。だからそれを壊すものについては、ならぬことはならぬという思いです。日本が日本でなくなってはならぬと思っております。
土井さんがおっしゃった理屈として成り立たない、議論する気もない、結論ありきの追い詰められて言うダメなものはダメとは、似ておりますが前提が違います。
私から言わせれば、そこでダメなことはダメという言葉を使うことがならぬものなのです。
確か福島みずほさんあたりも、ならぬことはならぬに感激などと完全に勘違いしたコメントをされているのを見ましたが、それは全くの見当違いであり、もう少し意味を勉強なさってから使って欲しいものだと思いました。これはあくまで、天皇をお護りしながら日本という国を規律正しく守っていくための会津武士道の根幹だったわけですから、天皇を無くしたいと思っていらっしゃる方々からしたら、その意味を知ったとき赤っ恥なのではないでしょうか。
話がやや飛躍してしまいましたが、もうひとつ、私は自虐史観に苛まれた現状を打破するためにも、負けても正義を貫き、プライドを持ち続ける会津の生き方は、今の日本に必要なのではないかと感じております。
ダラダラとなり、恐縮ですがこれが私なりの考えです。
松平容保は、家臣、会津の人々にたいして一生負い目を背負って暮らしたそうです。藩主の自分のせいで、大きな犠牲を追わせたことへの思いを一生持ち続けたそうです。かつては、孝明天皇より絶大な信頼を寄せられておきながら、賊軍になったのはどんなにかくちおしかったことでしょう。
ソレナ
天皇家は結局・・・以下自粛
なお、15代目は何の責任も感じず趣味に生きた模様。
私の先祖も会津藩です。父からの話では江戸詰の家老の家族だったそうです。
されだけの失政をしたのだから仕方ないね
保科正之が残した遺訓が後々、会津藩の運命を決定したのかも知れませんが会津藩藩主及び会津藩藩士の子孫達が頑張ったんだな。スゴいの一言。
現在の価値観や後の歴史から見れば「おやっ」と思うことがあるが、保科正之は幕府を守護するために為政者に都合の良い朱子学を推奨したこと以外、偉大過ぎる。因みに長州と庄内藩、宇宙の理を説く現実離れした朱子学を批判した徂徠学(荻生徂徠)を藩士に学ばせます。
保科正之は「高遠以来」の家来を重用し、会津藩の家老は9家(内藤、北原、西郷など)に生まれた者でないと家老職に就けなくするなど、幕末の下級武士が活躍できない組織をつくったり、会津出身の山鹿素行を朱子学を軽んじたと言うことで国外退去(吉田松陰は山鹿流兵学の先生だった)をさせたり、密通をした男女に対して、男は「男根を切り」女は「鼻削ぎ」の刑を課したり、白岩一揆を起こした関係者が山形に出頭した際、全員を捕縛し処刑した、、、など、これは現代の価値感で見た場合の悪評であるが、
寧ろ、江戸時代の日本を世界で最も平和な国にした立役者としての、柔軟で果敢な発想と施策こそ評価されるべき。
例えば、源氏や鎌倉北条氏等は一族以外を滅ぶすことに執心したが、幕府開闢以来、その効果を狙ったと言われる末期養子の禁を緩和し、殉死の禁止、さらに、明暦の大火後、庶民を救済を優先し江戸城天守閣を再建させなかったことなど、幕藩体制が固まっていたこの時代、保科正之でなかったらできなかったかったのではないかと思う。藩政においても、漆栽培の奨励、備荒対策として社倉の設置したり、庶民のための学問所といわれる「稽古堂」を支援した。90歳以上(殆どいないだろう?)の老人には身分を問わず、終生一人扶持(1日あたり玄米5合)を支給し、日本の年金制度の先駆けとなる制度を作ったりしたのも泣かせるな。
もし、幕末の会津藩主が正之だったら、時代に翻弄されることなく、幕府崩壊時でも、うまく乗り切ったと思う。いや、あまりに偉大過ぎる藩祖の存在こそが、会津の組織や思想を硬直化させ、養子で会津に入った容保の悲劇を生んだのかもしれないが、、、。ただ、それでも、容保は頑迷すぎた。
保科正之が幕末の徳川家や幕府を見たら何というのか。。。
山本覚馬や新島襄が登場するのは感慨深いですね。松平容保さんとその家系・御子孫、とても苦労なされたと思います。正義の観点が まさにひっくり返った時代ですからね…、大変だったと思います。八重の桜で 綾野剛さんが演じたのもとても印象的でした!
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「八重の桜」の主人公である新島八重とその兄山本覚馬、夫の新島襄について。鳥羽伏見以降、目を患って動けない山本覚馬を庇護したのは薩摩藩だった。さらに、米国に密航した新島襄と米国で出会った長州の木戸孝允(岩倉使節団に参加)はその後、新島襄に学校の設立資金を手配し、さらに、長州出身の槇村正直京都府知事を紹介した。山本覚馬が京都で活躍できたのも、新島襄が同志社を設立できたのも、ついでに八重が新島と結婚(紹介)したのもこの槇村のおかげなのに、そこは、天下のNHK、「報道しない自由」を行使したり、さらに「槇村を尊大な人物として描いた。
勝てば官軍。勝った側が自分たちの
価値観が正しいとして、負けた側を朝敵に仕立て上げた。どちらが、先を取るかという話です。私は、松平容保や会津藩の人たちは、権力闘争に負けただけであり、正義は何も薩長にあったとは、思いません。その後も会津藩の人達は、本当に悲惨な生活を強いられ、気の毒だったとしか言いようがなかったと思っています。また什のおきては、現代の倫理にも一部を除いて、人としての守らなければならない教えだと思っています。そのうち、行ったことがない会津には旅行したいと思っています。
ならぬことは、ならぬこと
これの本当の意味は、己の良心に従えという意味です。
権力闘争に負けただけというのは苦しい言い訳ですかね。
以下の内容を読まれて会津に正義があったでしょうか?
①王政復古から小御所会議での旧幕府に対する薩摩の無理難題を反故にすることに成功していた徳川慶喜の命に逆らって大軍を京都に送り、鳥羽伏見という最悪の戦いのきっかけをつくった。
②鳥羽伏見以降、慶喜と朝廷に逆らって、謹慎もせず、上野や宇都宮戦争に兵を差し向けた。
③世良修蔵の手紙の捏造(仙台戊辰史)し、仙台藩を激高させ、世良を含め、勝見善太郎や松野儀助、従者繁蔵、野村十郎、中村小次郎を殺害し、公家の奥羽鎮撫総督・九条道孝と醍醐忠敬が監禁した。
④仙台藩家老の但木土佐が戦争回避に動き、会津藩と交渉、会津藩も新政府が求めていた「会津藩が全面的に降伏する」ことで合意を得たが、その数日後に会津藩が方針を転換して降伏を拒否し、明治新政府に、謝罪を拒否する回答書を示した。
⑤先制攻撃をしたのは会津で、西郷頼母を総督として、幕府直轄領であった白河城を占領。
⑥会津では薩長の内、薩摩に対しては西南戦争で恨みを果たしたが、長州は今でも許せない?と言いう声が根強いが、会津戦争の主力は薩土であり、長州の主力は北越戦争で手間取り、山縣有朋が会津に入ったのは会津の降伏の僅か4日前である。長州の蛮行は記録として残っていないし、新政府の残虐行為のほぼ全ては会津観光史学(会津若松市の商工観光部長であった宮崎十三八氏や白虎隊記念館長 早川喜代治氏、さらに、早乙女貢・星亮一などの小説家)等による捏造・誇張が多い。
・白河以北一山百文と言って東北を馬鹿にした?(原敬が扇動演説の中で創作したという説が有力で、実際に薩長出身者がこの言葉を使い、誰かを嘲笑したというような資料・根拠はない)
・会津藩士が埋葬されなかった(埋葬されたと言う具体的な記録「戦死屍取仕末金銭入用帳」が出てきている)
・新保雪子が大垣藩に凌辱された(元白虎隊士で東大総長にまでなった山川健次郎が新保雪子に関して調べ直したところ、中野竹子戦死地と同じ涙橋で雪子が戦死した)
・白虎隊も婦女隊の悲劇も、銃砲飛び交う中、薙刀で戦わるような決定をした会津藩の首脳の頑迷さが原因。
・武川 信臣は 家老内藤信順の三男。彰義隊に呼応し、新政府に捕縛され「君と親の重きめぐみにくらぶれば 千引の石の責はものかは」という言う句を残した。獄中で「容保公と親の為に拷問もものとせず」なんて書いてしまうと、主君と親に累が及ぶから、こんなこと書くわけがないでしょう。現物はあるのですか?あるとしたら、それはそれで、不忠者ですが、、。
・政府が会津の戦死者を埋葬させなかったというのも大ウソでした。埋葬の証拠が出てきても、会津は謝罪すらしません。
⑦長年の放漫財政に加え、京都守護職就任以降の出費もあり、会津領民に重税を課しただけでなく、新潟や福島でも会津は蛮行・略奪を繰り返した。(郷土史だけでも新潟市・新津市・水原町・五泉市・小千谷市・十日町・燕市・見附市、二本松市、郡山市)、二本松に対する軍事行動は、方針が定まらない同藩への威嚇だったようですが。ただ、ビスマルクに北海道を売ろうと会津が交渉していたことが、プロシア側の資料で明らかになったことには驚きました。
⑧他に例のない空前の贋金づくりを行いました。江戸深川下屋敷・若松城内西御丸蝋蔵に鋳造所を設け密造、藩への上納額は60万両(1千億円超)に達した。
つ
会津に正義はありますか?
松平容保
実家に生写真あります
元々会津藩士の子孫で
先祖は松平家の側近でした
親戚に白虎隊の飯沼貞吉氏
西郷頼母もいます
16年ほど前
貞吉氏の墓参り行ったな〜
凄いですね🤩
歴史好きなので、御先祖様から、色々と本当のお話をきいていらしゃると思います、
ある意味、日本史は、
本当の事は、闇に、
明治以降は、わかりませんが、
かなり 史実とは、違う事がありますから、
もうかなりかなり昔昔の事は、、、、
今、自分は、地元、生まれた場所から、御縁ある場所、地域の歴史を学んでおります、
郷土歴史研究家として、色々教えていただければ、嬉しいです、
宜しくお願い申し上げます、合掌
生き残った飯沼貞吉さんは優秀な人だったそうで。
って事は、飯沼貞吉さんと西郷頼母さんは親戚同士?
我が家にも神棚に、松平容保の写真と、保科正之の肖像画が飾ってあります。
白虎隊のお墓に入れて貰えなかった人ですね。
この辺に会津の人の頭の固さが出てますね。
知らない事を色々と知れました。有り難うございます‼️
会津歴代藩公祭りで、当主・松平保久氏が松平容保公に扮して参加されますが、容保公にそっくりです。
朝敵とされた会津藩ですが、公用方の広沢安任と林三郎が西郷隆盛に嘆願書を渡すことになっていたが、薩摩の益満久之助が彰義隊の流れ玉で負傷、密談が中止になった。密談が成功すれば会津戦争は避けられたかも。西郷頼母と親しい林三郎は会津藩士で勝海舟の補佐役になり、明治以降は静岡県の要職を務めた。会津藩士の就職、子弟教育の世話、西郷頼母の3回の神官就任、松平容保の日光東照宮宮司就任は、林三郎の根回しと勝海舟の尽力があった。戦争、戦後は戦闘部隊だけではなく、西郷頼母、交渉役公用方の活躍もあった
西郷頼母って家族が自害した後、北海道にいたんですね。知らなかったです。
西郷頼母は後に霊山神社の宮司になって、その後、うちは徳川のご一門衆だったんでひいじーさんもそこの宮司やりました。
その後の戦争回避のチャンスも容保とその側近が潰したというのが事実です。
『仙臺戊辰史』によると、1868年4月25日に「松平肥後守容保、その罪を悔い改め、服罪する姿勢を示して、天朝の慈悲を仰げば、寛大な処分にする場合があるので、その旨を心得違いせぬように」との通達を総督府が出したとある。そして、同29日仙台藩・米沢藩は関宿で会津への説得を試みます。
仙台藩の重臣、但木土佐が「容保公の城外謹慎と鳥羽・伏見の戦いの首謀者の首級を差し出すべき」と条件提示。
これに対し、会津代表の梶原平馬は「藩主の城外謹慎については応じるが、首謀者の首級を差し出すことは出来ない。なぜならば、鳥羽・伏見の戦いに関係のある者は、そのほとんどが戦死しており、生き残っているのは一両名だけである。これらの者は皆、我が藩のために忠義を尽くした者であるので、もし彼らの首を斬れば、藩内は動揺してどんな変事が起きるかもしれない。鳥羽・伏見の件については、徳川慶喜公が一身に責任を負い、その謝罪嘆願状にも「私一身の罪であって、その他の将の誤りではない」と記載して、朝廷もこれを受理しているではないか。それ故に、もし我が藩に罪があったとしても、その罪は既に消滅しており、さらに罪に問われて討伐を受ける理由はない」と粘ります。
梶原の言葉を受けた但木は、「首謀者の首級を差し出さないとあっては、降伏謝罪の嘆願の取り次ぎは出来ない。例えその願いを取り次いだとしても、総督府は決してそれを許さないだろう。その時は貴藩はどうするのか?」 と尋ねると、梶原は、「その時は、会津藩士、皆死をもって領土を守るのみである」 と答えました。
但木は梶原に向かって、「全藩皆死をもって戦うのと、僅かに一両人の首級をもって、会津藩の国命に換えるのと、どちらが大事であるか、よく考えるべきではないか」と言い、同じ仙台藩の真田喜平太も、「元来、臣子の罪は君父の過失でもある。貴藩が君臣の義を正すのであれば、鳥羽・伏見の一挙は慶喜公の過ちにあらず、実に容保公の罪と言うべきものではないか。また、貴殿にあっては、先達ての一挙は、藩主容保公の罪ではない。我々重臣共の罪であると言うべきではないか」と主張します。戦国時代では城主の首で家臣は放免となるのですが、朱子学の考え方た強い江戸期の朱子学では、家臣の忠義(責任を被る)が一般的な考え方なのです。
梶原平馬はこの仙台藩の説得に応じ、会津藩にこの話を持ちかえります。
しかし、「寛大に処する用意がある」という通達を20日間も無視し、次のような回答書を総督府に対し送り返したのです。
「御沙汰ノ趣難有拝承仕候得共徳川家名成行不見届内ハ謝罪仕間敷覚悟ニ御座候間可然御沙汰奉願上候以上 陪臣松平肥後守」(日本史籍協会編『仙臺戊辰史二』より抜粋)
(現代語訳 )
「御沙汰の趣意はありがたく拝承いたしましたが、我々は徳川家の家名がどうなるかを見届けない内は、謝罪をするつもりはない覚悟でございますので、その旨を願い上げます。 陪臣松平肥後守(容保)」
そして、前述の通り、会津側から戦いの火ぶたを切ったのです。
天皇も謎の死を遂げたり鳥羽伏見も西軍から吹っかけられたり完全に嵌められた会津。。。
徳川秀忠の息子 保科正之から松平容保にその子孫らの東北人の粘り強さ。
素晴らしいご一族。
容保は秀忠の血統ではなく水戸家の血統ですね。なので現在の德川宗家は水戸家の血統になりますね。
@@user-nm4bt2tq8t さま 全ったくその通りですね
保科正之殿と松平容保公は血縁はありませんね
会津藩はご苦労ばかりさせられて 米国カリホルニアに入植した
石碑があります。会津藩 鶴ヶ城も見事に再築されてるし白虎隊の写真
に涙しました。会津藩大好き人間で、故郷の讃岐松平藩も鳥羽伏見の戦いで 朝敵になってしまった。 オレゴン在住
@@tsutaenovick1036 様
保科正之公、松平容保公、直接の血の繋がりこそありませんが御両人共に素晴らしい方だと思います。容保公は藩祖正之公の教え会津家訓を律儀に守り幕府の楯となられました。慶喜さんが直前逃亡し謹慎したので会津藩がその責めを一身に受け会津藩は悲劇に見舞われますね。私も会津藩好きです。容保公は維新後もご苦労されたのに対し慶喜さんはカメラや車の運転等、趣味や子作りに没頭されたようでご苦労された容保公とは対称的ですね。
会津松平、讃岐松平共に江戸城内の席次は溜の間詰。
@@tsutaenovick1036 秀忠の血筋は義姉の照姫。
容保公は、桑名藩からの養子。
兄は尾張藩へ養子になり、弟が本家の桑名藩主になる。
コーヒー牛乳は、明治に生まれてたんですね。容保公の容態を回復させるために、滋養に良いものとしてコーヒーを混ぜたものにしてたとは…。
柴五郎は有名で日本の誇りです。会津武士のポリシーを貫きました。
太平洋戦争後、自決したのが残念です。
柴五郎氏はうちのひいじーさんの上官でひいじーさんの為に、家の前で閲兵式やってくれたべ。
八幡 和郎によると、山川浩や柴五郎の昇進に山縣有朋が会津であるがゆえに反対したというエピソードが小説などにはあるが、少なくとも会津出身者が酷く差別されたなどと言うことは全くないそうです。
たとえば、山川浩が少将になったころは皇族を別にすると陸軍大将はいないし、中将も山縣のほかいずれも薩摩の大山巌と野津道貫くらいで、山川と同じ少将には桂太郎や川上操六が前年になったばかりである。このころの少将というのは数が少なかったから、のちの大将より希少価値があったはずで、だからこそ、浩は男爵にまでなっているのである。このようにみれば、山川が冷遇されたなど言うことはありえない。
あるいは、陸軍大学第一期生で大将となったのは、佐幕派の松山藩の秋山好古と沼津藩の井口省吾であって、盛岡藩出身の東条英教が佐幕派だったがゆえに大将になれなかったと英機に言い聞かせたのは息子に嘘をついただけだ。それがゆえに英機が反長州閥で陸軍内をひっかきまわしたのだから罪づくりな息子への虚言であった。
そして、陸軍士官学校第七期である柴五郎と同期では、津藩の島川文八郎と佐賀藩の宇都宮太郎(代議士だった宇都宮徳馬野の父)が大将となっているが、津藩は鳥羽伏見の戦いの途中から官軍に転じた中間派だし、さらに、この二人より早く柴は大将に昇任して同期の出世頭だったのであるから、これも人事上の不利益を受けていたというのはおかしい。官僚でも山縣の懐刀である平田東助は米沢藩出身であるし、後藤新平も仙台藩である。維新直後において薩長出身などで幕末維新の変革に貢献があった者がそれなりに遇されたのは勲功に報いる意味で当然であるが、逆に、戊辰戦争で官軍にいなかったから道が閉ざされていたということは、以上のようにまったくないのである。
会津の観光協会による「白虎隊の悲劇はお城が燃えているという見違いだった」というテキトーな作り話は、唯一の蘇生者である飯沼定吉の残した書簡が明らかになって完全に否定されてたが、逆に、自刃の背景にあった「生き恥をさらしてはならない」というい会津の思想は、後日のとんでもない悲劇を生みました。即ち、会津出身の陸軍元帥、畑俊六は「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」の一節が悪名高い戦陣訓の発案者ですが、結果、太平洋戦争では、兵士だけでなく、多くの市民の命を奪ったからです。
コメントにあるように、柴五郎は自決を選び、それがもとで命を落としますが、本来は絶対に命令を聞くべきはずの慶喜に逆らい、寛大は沙汰があると告知されても天皇に対し謝罪も謹慎もしなかった松平容保や、多くの軍人に死ねと命じた畑俊六は天寿を全うしたのが、なんとも複雑な心境です。
容保は養子で、当初処刑の方針だったんだけど、実の兄上たちが有力者で命乞いしてくれたんだよね 東照宮の宮司とか、ここだったら気が済むだろう?って人事がすごいね。
松平家(本多とは同族)は元々、神職の家系だからです。
@芝崎浩三 すごいですね!恐れいりました、お殿様!
@芝崎浩三 御立派な御家柄なんですね。幕府側の容保公ばかりが有名で、当時は義も大事でしょうが、王政復古から北海道開拓まで新政府に繋げた慶勝公こそ時代を作った大変な名君であられますね。現実、外圧の前で国の礎を考えるには色々とお忙しかったでしょう。。
有難うございます🍀
今度、コーヒー牛乳飲む感触が、変わります。真面目で、実直、忍耐強い人柄が、判る気が、します。会津っぽの、言葉が、ありますね。戊辰戦争のあとには、新政府との、交流も、あったようですね。私どもの居住地は、おおやま厳の墓があには山川捨松さんも眠っています。何百年たっても、伝統
、教えは受け継がれていくのですね❤
「家康の子孫、初陣で討死」って週刊誌の見出しが「ウマイ!」って感動した。
保科松平家については正之の血筋、神君家康から秀忠を経て続いた真の直系が途中養子で絶えているのだけは残念と言えば残念…
松平容保は、一番徳川に誠実だったのに。
鳥羽伏見前後から、徳川慶喜にトコトン逆らいました。藩祖保科正之の遺訓を最も守らなかった藩主であったというのが事実ではありませんか?それどころか、慶喜が江戸城開城後、謹慎していたのに、会津では次のような唄が流行ったと言います。
「江戸が見たくば会津へござれ、いまに会津が江戸になる」
賊軍の汚名着せられたのにその子孫が日本の歴史で活躍しまくってて何だか嬉しい
なによりも賊軍の子孫が官軍しか祀ってない靖国神社の宮司候補にあがったとは意外すぎる
松平は元々、神職の家系だからです。
松平一郎氏は平民の身分なのに徳川宗家(公爵家)から嫁を迎えている。
その為一郎氏の妻は公爵令嬢から平民になった。
一方、一郎氏の妹は尾張徳川家に嫁いでいる(平民から侯爵夫人)
なかなか面白い。
それが、血筋を守る家を守るという事ですよね。
秩父宮妃勢津子様の身内(爵位を持っていた叔父の養女になって嫁いだ)と言うことで父親の恒雄氏に爵位をという話もあったが、恒雄氏は断ったそうだ。一郎氏も同様に。
松平容大公の読み方は「かたひろ」ではなく「かたはる」では?
私の祖先も会津藩士だったそうです。父からの話しでは江戸詰の家老の家族だったそうです。
義和団事件で大活躍した柴五郎がいなかったら、日英同盟もなく、日露戦争も負けていたかも。
柴五郎氏は俺のひいじーちゃんの為に家の前で閲兵式やってくれたのです。
日露戦争には勝ったけど、賠償金もなく全て自腹、その時の借金の支払いは昭和63年まで続き完済した。
人が良いのも考えもんですね。
日本人の考えが、ロシア人も同じだ考えるのはやめた方がいい。
昔から、日本の外交は3流なのではないでしょうか。
今の林、前の河野などを見るとそのように感じますが。
柴五郎…年末時代劇SP『田原坂』でちょこっと出てたなぁ。
容保は切腹か、処刑の死罪になる予定でしたが、尾張の慶勝の嘆願書によって、謹慎になりました。
会津松平家から徳川宗家になった人って現当主の徳川恒孝氏か。
子供の頃粗食だった宗家の食事に耐えかねて毎日実家にご飯を食べに帰ったり
徳川宗家の当主として先祖の祭祀のために時間のやりくりに苦心したり
苦労がしのばれるね。
御子孫が徳川宗家なのも、「義」を貫いた事が無縁ではないと思う。
プラシーボかもしれないが、会津は空気が凛と引き締まってる感じがしました
空気の密度が違うというか
あと、女性が綺麗😍
秩父宮士妃が会津松平家のから来るのが決まった際、一部の華族からブーイングが出たが東条英機が「敵は米英だ!」と一喝したという話も・・・
戊辰の役で積年の不遇を晴らしたかった外様の藩としては、官軍を名乗って京都、江戸に兵を進める上での大義名分として悪者(敵)をつくる必要があり、その格好の的となったのが会津松平家だと思います。
近代史では偉人的な評価をされている人物がいますが、あのクーデターに加わって志士と言われている人物達に国を変えようという大義があったようには思えないのです。
私は薩摩出身ですが、会津藩の徳川家に忠誠を近い、お互い国の在り方、存続に命をかけた好敵手として会津を尊敬しています。
日本歴史上、最大の歴史ロマン
容保が京都守護職就任を受けたことが悲劇の始まりだったわけだけど、それには養子で藩主を継いだという彼の負い目もあったんだと思う。
養子だからこそ家臣や領民に侮られまいと藩祖保科正之のの家訓に誰よりも忠実であろうとしたのではないか。
養子の辛さはあったでしょうが、そもそも、「ならぬものはならぬ」という議論を封じる藩風であったことがまずかったかも。
藩祖、保科正之が「高遠以来」の家来を重用し、会津藩の家老は9家(内藤、北原、西郷など)に生まれた者でないと家老職に就けなくするなど、幕末の中・下級武士が活躍できない組織をつくりました。
因みに庄内藩や長州藩は民衆から生まれた軍隊が大活躍しましたが、両藩はただ、支配者にとって都合の良い朱子学でなく、朱子学を批判してきた徂徠学(荻生徂徠)を藩校で教えてきたという違いがありました。
ついでに、保科正之は会津出身の山鹿素行(古学派の祖として後世に大きな影響を残した)を朱子学を軽んじたと言うことで国外退去(吉田松陰は山鹿流兵学の先生だった)をさせてしまいました。
保科は徳川幕藩体制の強固な仕掛けをつくり上げた大政治家ですが、会津の後継者たちは保科正之の柔軟な発想法を学ばなかったことが大きいと思います。
保科正之の遺訓と柔軟な発想法は相反するものとなるのでこれまた難しい。。。
保科正之の知恵、、例えば、平氏や鎌倉北条氏や一族以外を滅ぶすことに執心したが、幕府開闢以来、その効果を狙ったと言われる末期養子の禁を緩和し、殉死の禁止、さらに、明暦の大火後、庶民を救済を優先し江戸城天守閣を再建させなかったことなど、幕藩体制が固まっていたこの時代、保科正之でなかったらできなかったかったのではないかと思う。藩政においても、漆栽培の奨励、備荒対策として社倉の設置したり、庶民のための学問所といわれる「稽古堂」を支援した。90歳以上(殆どいないだろう?)の老人には身分を問わず、終生一人扶持(1日あたり玄米5合)を支給し、日本の年金制度の先駆けとなる制度を作ったりしたのも泣かせるな。
やはり諸悪の根源は容保の頑迷と会津九家による藩政独占だろうか??
かっこいい!
初代保科正之により、「徳川家に忠勤、忠義を尽くさなければならない」を家訓の第一条としてきたが、その将軍慶喜が家臣たちを捨て、卑怯にも敵前逃亡的に大阪から逃げたのですが、松平容保は反対だったが、将軍の命には従わなければならず、のちに帰ってきた家臣に謝罪し、家督を譲った正に武士の鏡な人物
結局、そこから会津戦争へと悲劇は続く
たらればですが、将軍慶喜が逃げなかったら・・歴史は変わっていたかもしれない
庄内藩は君臣一体で町人、農民迄戦うことができ、藩内迄政府軍を引き入れてゲリラ戦も可能だった。
會津藩は領民と武士とは分かれており領民の協力がないので、
狭い城内町に籠城するしかなかった。
会津藩も一応、農民兵組織したらしいんですが、あんまり活躍とか聞きませんね。
会津藩では農民組織の部隊や僧侶の部隊、力士の部隊も有りました。
一応戊辰戦争時の戦力会津藩士正規軍4000人、農町民兵4000人。
薩長に媚びた農民もいたけど、藩の為に戦い、協力した農民も多いのよ。
会津の不幸は容保がカネもないのに京都守護職を引き受けたこと。さらに鳥羽伏見以降の戦費も重なり、前代未聞の贋金をつくり、越後を中心に夥しい略奪行為を行い、さらにプロイセンに北海道を売り払おうとしたが、その前提に領民への過酷な年貢取り立てがあった。保科正之の時代の年貢率は40~50%と比較的高ったが、幕末の年貢率は8代藩主容敬治世の嘉永5年(1852)で53%(『近世会津の研究・上』当然、農民による一揆が先月から各地で発生し続けています。農民は「やあやあ」と叫びながら一揆を行い、会津全域で数万人に広がっています。この一揆は「ヤーヤー一揆」と呼ばれ、農民達は竹槍や鎌、なたなどを持ち、村役人や商人の屋敷を打ちこわし、年貢に関する帳簿などを焼いています。もっとも、長岡藩も無理がたたってやはり大規模な農民一揆が起こっています。だから、庄内藩と違い、会津、長岡では、農民・町民兵の目立った活躍はなかった。
一方下級武士の活躍も限定的。即ち、藩祖、保科正之は信州高遠から引き連れてきた家来を重用したが、以来。会津藩の家老は9家(内藤、北原、西郷など)に生まれた者でないとわずかの例外を除いてその家老職に就くことはできなかった。少数支配は厳しい身分差別を生むが会津も例外でなはく、下級武士の活躍は殆どなかった所以である。
会津は地形が難しいから猪苗代周辺までいくと戦火とか関係ないし傍観しちゃうよね。
京都守護職になり散財しちゃって藩に金もないし税率が上がってしまったら尚更。
良い!
ちなみに孝明天皇が記した宸翰には、簡単に言うと「昔のように武家と公家が協力して国を作っていこう。」って書かれていた。
いわば公武合体構想であった。そして徳川慶喜は、イギリス式の議会で政治をしたいという構想があった。江藤新平はフランス式の民法で個人の自由を重んじて公正公平の法律を作ろうとしていた。
彼らが国を治めていれば、その将来の日本がアメリカに宣戦布告することはなかっただろうな。
会津藩が改易されたり虐殺されたりするのは明らかに長州藩の私怨だって思うわ。
薩摩・長州藩のやったことは首のすげ替えと。天皇を権威に私腹を肥やしたことくらい。
最近になって明らかになったことだが、「慶喜討伐の密勅」は天皇の権威を利用しようとした偽造された文書だった。士農工商も、幕府時代から変えたと言っていたがそれもウソ。江戸幕府は参勤交代で外様を苦しめてただのってのも。全部後付け。嘘っぱちだったということが分かってきた、
せめて大政奉還して、京都御所で話し合いで政治が決まっていれば、その後の日本は絶対に今よりも良い国になってたわ。
ありがとうございます💮
自分がずっと思っていた、疑問が納得です☺️
八幡和郎さんは「たしかに、容保は孝明天皇に忠実だったが、天皇が誰も支持しないような意見をもつときには、お諫めするのこそが忠義であろう。そうでなければ、和気清麻呂は忠臣でなく逆臣になる。そして、慶喜が方針転換し尊攘派との和解を望んだとき、容保は邪魔ものになった。といっても、慶喜も会津がいなくなると代わりがいないので、とりあえず、引き留めたのだが、ここは、隠居でもなんでもして、引き揚げるべきだった。」と藩祖の遺訓を守らず、その後トコトン、慶喜に逆らって、慶喜が江戸城を出て謹慎しているのに、会津は上野や北関東に兵を送り、謝罪も恭順もしなかった会津松平家最大の不忠をしてしまった。
それから、長州藩の私怨というのは全く根拠はありません。証拠はないでしょう?分断を煽るような虚言はなりませんよ。寧ろ、幕末は会津と長州は意外と近かったというお話をします。
長州藩の奥平謙輔はかつて西国を周遊していた会津の秋月悌二朗と長州で出会い、意気投合。その後、会津藩降伏後となりますが、奥平は猪苗代に謹慎中の秋月に「会津藩と敵対し戦わなければならなかった不幸を嘆き、会津藩の徳川幕府に対する忠義を讃え、今後は朝廷の為に尽くして欲しい」と言う内容の手紙を送った。因みに手紙を届けたは、河井善順という会津の真龍寺の僧侶。
手紙を受け取った秋月は謙輔を会津藩への理解者として見込み、越後に居る謙輔を密かに訪ね、藩主父子の助命や会津藩士の将来について頼んだ。謙輔は秋月の期待に応えるよう努力すると約束し、さらに二人の会津少年(のちの東大総長山川健次郎と陸軍少佐になる小川亮)を書生として預かった。
ついでながら、手紙を届けた川井善順は会津の真龍寺の僧侶で修学のために一時、京都の西本願寺に入るが、その際、本願寺は禁門の変の際に敗走した長州藩士を匿ったために西本願寺が京都守護職松平容保によって攻撃されそうになった際に、会津出身である善順が知己の会津藩士らに懇願して攻撃を中止させたことのある長州藩の恩人。
らに、続けると、越後での会談では、奥平謙輔だけでなく、前原一誠が参加、一方、会津津藩から永岡久茂という若者が同行しています。
奥平謙輔と盟友、前原一誠と萩の乱を起こしたとき、維新前後の恩義を感じた永岡ら会津藩士の実に14名がそれに呼応、千葉県庁を襲撃しようとし、失敗、首謀者の永岡久茂は、捕縛獄死、井口慎次郎、中原成業、竹村俊秀の会津藩士3名が斬罪となり、逃走した中根米七も後日、喜多方町の寺院境内で切腹したが、長州が会津に非道なことをしたなら、元会津藩士の命を懸けたこの思案橋事件が起こるはずがないでしょう。
もうひとつ。飯沼貞吉は、会津飯盛山で集団自刃した白虎隊士中二番隊唯一の生存者(別の隊士の母親が集団自決している中でまだ息のある貞吉を発見し、介抱)。しかし、一命をとりとめた貞吉は不忠もののそしりを受け、会津に戻ることができません。そこで、長州藩士楢崎頼三が貞吉を長州に連れ帰り、勉学に努め、後に電子技師として大活躍、生を全うします。その楢崎ですが、残念ながら、留学先のフランスで病死しますが、彼は、若いころ、上士からなる干城隊で活躍しています。実はこの干城隊頭取だったのが前原一誠です。
この動画で解説があったような長州と会津での憎しみがあったのかもしれませんが、上述のお話からすると、憎しみを乗り越えようとした当時の若者の思いがあったように思えます。
いや、寧ろ、会津の憎しみは、会津での官軍による乱暴狼藉が原因だとされますが、言われている蛮行の大半は1960年代以降の会津観光史学という金儲けのためなら何でもありの捏造物語に由来し、その多くは、会津若松市の商工観光部長であった宮崎十三八氏や白虎隊記念館長 早川喜代治氏、さらに、早乙女貢・星亮一などの小説家による著作、エッセイ及び、それらを読んだり、講演を聞いた高齢者の証言に過ぎません。歴史的な資料に基づくものではありません。
逆に、新潟で行われた会津藩による数々の略奪暴行や、会津藩が謹慎しないどころか、仙台藩による和睦案を拒否したと言う事実、北海道をプロイセンに売却しようとしていたこと、さらに、会津はイタリアのムッソリーニやヒトラー政権から記念碑を受領していたと言う、会津観光にとって不都合は話にはあまり触れていないように思われます。
勢津子妃が嫁ぐ時、彼女が平民出身であったことや会津藩松平家の人間であったが故か、彼女に対して「絶対に辞退するように」という手紙が届いたこともあったと、ある本で読んだことがあります。
長州閥の真崎甚三郎が『そんな話、わしが潰してやる』と息巻いていたという逸話は鶴ケ城のなかで知りました
@@shinya292
それは勢津子妃の縁談をでしょうか、それとも「辞退しろ」論をでしょうか❓️お教えください。
@@AtsushiMizobe 俺は縁談を潰すと捉えましたが
@@shinya292
確かに長州閥の人間だとしたら、そちらだと思われますね。ありがとうございました。
だから華族のおじさんの養子になってるんだよね。
戦争は悲惨だったけど、貴重な観光資源になってる。
自分の従兄が現在、岩崎弥太郎の会社のトップに居ます、代表権が在りますから会津商事にするのも可能な立場です。いま会津は日本の労働者のトップにいる🎉
当家の母の母の母が只見町の出身です…
族籍は平民ですがあたしも會津の血を引いているとの自負があります。
戊辰戦争は悲しいです。
松平勇男氏の長男、真隆氏は私の高校時代の同級生と記憶しております。御存命であれば今年76歳、気品あるイケメンでした。お元気なのでしようかね。
大河ドラマでやって欲しい。
ソレナ
藩祖保科正之から現代までを、幕末明治をメインに。
薩長も許せないけど、慶喜や春嶽他幕閣が腐り切ってたのが原因で会津はこうなってしまった。
慶喜は朝廷に奏聞状を送っています。内容は徳川の家名を残して欲しい事、会津藩含む家臣を許して欲しい事。
しかし会津藩というと自分たちの行為は免罪だという内容で謝罪や恭順を示すものではなかった。
また江戸城が開城された後は、会津藩は徳川の抵抗派の残党と一緒に会津藩へ逃げています。
悪いのは薩長でもない、慶喜でもなく、会津藩です。現在の研究では当時の会津藩は主戦派が
大多数を占めていた事がわかっています。戦争のために農民達から凶作用の米を奪っています。
軍資金のために町人達からも財産を没収しています。
@user-ib2vl4rq4m
金策に走る会津は北海道をプロイセンに売ろうとする証拠がドイツから出てきたし、また、領民をいじめただけでなく、郷土史だけでも新潟市・新津市・水原町・五泉市・小千谷市・十日町・燕市・見附市等の市町村史に、会津藩兵によって民衆がいかに搾取・略奪され苦しんだのかと言う記述がされている。
会津鶴ヶ城西出丸で「お城打ち」と呼ばれる贋金を大量に製造し、越後商人を始め領内で使用致しました。戊辰戦争で敗れてからは、困窮した職人等が会津各地で贋金を製造し、明治政府により全国一の逮捕者が出たのは会津だったそうです。 現在も量目や材質(銀板・真鍮板・銅板)がまちまちの贋金が会津では多数見つかるほどです。
明治初期、新潟港での貿易が発展しない理由として、ラウダー(英国の新潟初代領事)が簡潔に指摘した点でもあるが、贋金が出回り政府の発行する紙幣の信頼性が低い上に、港湾設備が整っていない点などを論じていますが、新潟の発展の邪魔までした会津は新潟に謝罪をしたのでしょうか?
勝海舟は幕末の植木等!
スイスイ♫スーダラスイスイスイ♫
生き延びたなぁ~
石垣いちごが会津松平家に関係してるのは初めて知った。会津松平家は一説によると駿河への転封も考えられていたらしいから、もしかしたらその話から会津と静岡の結び付きがあったのかもね。藩祖保科正之の父親の徳川秀忠も浜松の生まれだし。
我が家では、未だに靖国神社に行くことはできません。
人生いろいろと言ってもあの方の人生は激すぎでしたね。
何一つ自慢できないつまらない自分の人生に感謝しますよ。
小説から戊辰戦争当時の明治天皇がまだ少年だったことを知り、ショックを受けた。
1852年11月生まれ。1867に孝明帝のあとをつぎ、戊辰戦争1868〜。16歳?
天皇絶対天下での幼帝は、世の中の人にとって恐ろしいことだったろうな。
徳川慶喜家にも慶喜の孫の時に容保の孫娘が輿入れしています。
秩父宮妃と高松宮妃が仲がよくて、高松宮妃の弟が結婚適齢期になったので、いい人いないかしらと秩父宮妃に相談したら、学習院を卒業したばかりの従妹がいる一度会ってみたらと。で、お見合い成立で一緒になったそうだ。(息子談)
普通に自分知識がないから言えることかもしれないけど
顔整っててかっこいいですね…なにも知らないのにすみません…!
でも、幕府を支えるのはいいこと…なのかな…?
知ってる方いたら教えて欲しいです!!
この方容保さんって偉い人なんですか?
普通に教えて欲しいです!!よろしくお願いいたします!
ざっくり言うと、容保は幕末に京都所司代という役職について尊皇攘夷派の新撰組などを使って粛清してました。その時に主な尊皇攘夷派だった薩摩、長州両藩から恨みを買ってしまったのです。
@@comsuko2122 容保公は京都守護職です
京都の守護だから今だと東京の守護、警視庁の長官?
警視庁の長官がテロから総理を守るのが良い事なのかと言われても「当然」としか。。。
外敵から日本を守る為の新型兵器を幕府を倒す為に乱用した新政府軍には協調出来ませんね、しかも戦場の跡が悲惨な状況とは、、言葉が出て来ないです。
松平容保公が日光東照宮の宮司になったのは、
松平家は元々、神職の家系だったからということも有ります。
うちも徳川のご一門衆でしたが、武家やめた後は神職やってました。
そ言えば
漫画家の、こげどんぼさんは会津藩士の子孫だそうで。
織田信長の先祖が織田剣神社の神官だったという話は知っていましたが、松平の始祖、松平親氏は時宗の僧侶だったのではなかった??
@@小栗上野介-c8v
始祖は松平家に婿入したのであります。
@pontarou01
僧侶(仏教)であり、神官(神道)ではないのでは?だとすると、松平の始祖が僧侶なんだから、@pontarou01さんの説はおかしくない?
@@小栗上野介-c8v
私が読んだ本にはそう書いて有りました。
うちも松平とは元は同族で家紋は立葵、賀茂社の神職やってたのです。
佐賀藩や他の班から来ると言っていましたが断ってます。会津だけで行いたかったんでしょうね。未来を見据えていますから❗️嵐
😢会津中将さまこそまことの武士 薩摩長州は大便イモテロリストだ。
戊辰戦争は未だ終わらず。3.11で帰還困難区域と数百年も汚染水は海洋投棄される。徳川慶勝と松平春嶽の京都守護職の強要はふくに悲劇をもたらした。少年隊の悲劇はその始まり。今だ戊辰戦争は終わらず。
少年隊って二本松藩の?
今の日本も幕末、維新時代の様に洗濯しなくてはいけない頃合いだなぁ!!
国内だけの話なら松平容保は、美談なのでしょう。
しかし、英国の中国に仕掛けているアヘン戦争・アロー戦争を考えると、次は日本の危機だという事が理解できます。
何故、徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いから急遽江戸に帰ってこられたのかということが問題なのに。
その後に、徳川慶喜は松平容保をお傍に置かず、邪険にしているのです。
この事からも、松平容保は、世界の動き、英国の狙いは日本植民地・日本を牛耳ることだという危機意識がなかった大バカ者だと言えます。
松平容保は、会津の宝である御家来衆をことごとく死に至らしめた報いと日本を危機に貶めた報いを受けるべき者だと思いますよ。
今の岸田文雄に共通した空気が漂っていますね。
中国人の留学生を日本の宝だと言及した後、その留学生がスパイであり既に日本から中国に帰っている状況なのですが。
また、中国の法律で、国家動員法、国家情報法などあり、日本の情報、国家機密など中国人なら中国国家から提出するように言われたら、拒めないから教える事になります。
そういう実態も知ってかどうか、今の岸田、林、二階、親中派議員、公明党議員によって日本が危機にさせられているのが現状です。 自由の前に日本人としての安全保障に気配りしたいものです。
明治維新からの日本の姿は、英国の東アジア戦略における日本侵略への危機意識のなさ!
大局を見る力が欠如していた思います。小さき故事にて国家を誤るなかれです。
実際に会津藩はドイツに北海道の一部の領地を売ろうとしていましたからね。会津戦争が長引いてたらドイツ軍が介入して戦局はどうなってたかわかりません。
我が国最大の茶番劇が一会桑政権が薩長とグルで奥羽越列藩同盟も!一橋慶喜はじめ松平容保と桑名藩主は兄弟!!ズブズブなシナリオを信じて血を流した者共に哀悼の意を!!
萱野の息子が自害した謎、解けないものか。
自害した理由は、会津を侮辱されたからだそうですよ。
確か実家に送った手紙に空腹だということを書き、家からの手紙が「そんなことを言うな」というものでした。その手紙を同級生に読まれて「会津の武士道とは食べ物のことか!」と言われて切腹したそうです。
NHKのプロヂューサーが松平容保のひ孫さんですか?松平アナウンサーも子孫ですか?
違います。
アナウンサーの松平氏は、伊予松山藩久松松平家の家系です。
@@会津松平家の容保さん どっちにしても名家は名家。お育ちがよろしいんですね。
@@匿名-m1c8x その育ちの良いアナウンサーの松平氏は酔ってタクシーの運ちゃんを殴り逮捕されましたw 殴る際に「無礼者!」と叫んだとかw
仙台じっち会津ばっぱ、二本松あねさ白河おんつぁ。
😁
徳川宗家を継ぐには、何ら問題のない優秀な血統でしょうねw。
何なら八代将軍の時期に「将軍候補」に推されていても不思議ではないくらい(笑)。
会津藩は官軍だった。
確かに、本来ならば会津藩こそが官軍であったはずです。
会津は官軍??もっとスケールが大きいよ。藩祖の遺訓を破って徳川慶喜の意向を無視し、鳥羽伏見の戦いを引き起こし、慶喜が謹慎していることを横目に上野や宇都宮に会津兵を差し向けた容保。
会津藩の徳川本家に対しての忠節はどこに行ったのやら?
慶喜による江戸城開城後、会津では次のような唄が流行ったと言います。
「江戸が見たくば会津へござれ、いまに会津が江戸になる」
会津城下では、こんなざれ歌が領民に広まっていたことからも会津藩は徳川再興を謀るとの大義名分で、日本を制覇しようと企てていたのだろうか?
それを裏付けるように、輪王寺宮・公現法親王が上野戦争の後、東北に脱出して奥羽越列藩同盟の盟主・東武皇帝(東武天皇)として即位していたという説が根強いが、、、。
でも京都守護職解任された時点で会津に帰ってたらとか、慶喜と一緒に帰らなかったらとは思う。
家光家康のために日光猿城を建てました男です
明治維新て紐解けば
関ヶ原で冷飯を食わされた
薩長の(昔の呼び方)
怨み返しですね🎉
頭の悪い私の間違えですね
手代木勝任て京都見廻組の佐々木只三郎の兄
なんで京都守護職なのにいきなり朝敵になってんの?
「会津中将お預りの新撰組(壬生狼狽)だ❗」の切り口上で始めた長州・土佐辺りの攘夷・勤王浪士狩り(池田屋)のご活躍が、仇と成りぬ。
長州と薩摩がクーデターを起こして朝廷を乗っ取ったからだよ。
公武合体派の孝明天皇が突然無くなった、立場逆転
その子孫で徳川宗家の徳川家広はベトナムから嫁もらったのはいいけど子供無しでしかも借金だらけの、ろくでなしじゃん!
今後どんな俳優が松平容保役を大河ドラマなどで演じるのか知らないけれど、
片岡愛之助にその役は演じさせたいとおもうね。
薩長に絶対に屈しない姿勢を見事に演じてくれそうですね!
徳川松平生きておる。わしに縁あった者が将軍に変われ。容姿風貌一位。今のはなんじゃ?徳川を捨てるな。血のつながりのないものは処分をもって家再興とする。松平の爺を殺したのは誰だ?
歴史が有りますね~😂
慶喜以上に評価が難しい人物である。何故なら主導的アクションが何もない人物だからです‼️
NHKのプロデューサーで調べたら、松平〇知とタクシー・キックって何?
火影や光が入らぬように関宿城🏯では北条城とも戦い入らぬようにと年に警戒し、新撰組を張り付けました
甘利徳川家と保科井上会津松平家の間の子が将軍。掟だ、保科井上宗家と甘利徳川宗家の子家光と称し徳川救済せして、それを惣領とする。
松平カタモリの子孫が紀子さんでアキシノミヤ家に入ったと結婚当時話があったのは本当の事なんでしょうか?
違います。白虎隊で亡くなった池上さんのいとこが、紀子妃の父方の祖母、川嶋いと子さんの父池上四郎です。川嶋いと子 、旧姓池上。会津藩士の家柄です。
@@恵都子桑原 様・・・・
恐れ入ります。
実家は、元々会津の商人でしたが、会津藩士に家財を根こそぎ持っていかれ没落したとか官軍に助けられたとか言われて育ったから、会津藩を礼讃するようなドラマ等には、馴染めません。
徳川の一族は大嫌いなのですが松平容保の家だけは別ですね😃
尊敬しています😃
容保は藩主としては最低(重臣による度々の京都守護職就任固辞)その結果何千人の死傷者禁門の変では100万石の前田藩は途中で守備放棄、越前へ逃げる歌ではないが正に「逃げるは恥だが役に立つ」!!
保科松平家は京都守護職の費用の為に会津の民から増税、さらに新潟、郡山宿に放火略奪して怨みをかって、官軍が入ってきた時、民は官様、官様と喜んで受け入れたんだけど、ホント都合の悪い事は棚に上げて被害者ヅラしてほしくないね。
籠城中に仕込んだ子がいる件
このような身分制度からくる特権的地位がそのまま子孫に承継される制度は民主社会には馴染まない。明治維新を境とする彼らの苦労は明らかになってるが、素直には同情し難い。別の道を歩んだ多くの人たちはどうだったのであろうか?
世襲はダムだね!
勇男誤り、勇雄でした。ご容赦。
ちょっとまって、どんな校則違反よ。
薩長テロ集団
麻原松蔭に洗脳されたのが京に火をつけて帝を連れ去ろうなんて当時の建築考えたらサリン以上のテロ行為
正に松蔭を尊師グルに仰いだ幕末オーム集団
狂行を阻止した新撰組や会津の功績は大きい
薩摩やら長州なんてのは所詮は外国勢力のただのパシリだったんでしょ!?笑
@@fuji0073
こういう人間って幕府の後ろにフランスがついて軍事顧問を派遣したりフランス式の幕府陸軍とか作ってた事についてどう考えてるんだろう?
英仏がアジアアフリカアメリカと植民地争奪戦を世界中でやり続けてる中で善意で幕府の味方でもしてくれてたとでも思ってるんだろうか?
豊臣の家臣でありながら弓引いた徳川もどうなるんだ?
@@fuji0073
うん、ユ○ヤ人ね
戊辰戦争なんてアメリカの南北戦争で余った武器を売るために薩長のケツ叩き始めた戦争やん
四方の海みな同胞と思ふ世になど波風の立ち騒ぐらむ。四方の海みな同胞と思ふ世になどあだ波の立ち騒ぐらむ。明治維新で同胞王朝が建国された。同胞の徳仁は同胞王朝の5代目。
容保は尾張徳川からの婿入り藩主。保守的家臣には苦労した。今思えば誰が戊辰戦争で一番得をしたか?長州?薩摩?否 江戸在住の幕臣ではなかろうか?戊辰戦争で保守的な家臣は廃除され、新政府の官僚となり、現代も実質の権力をもつ。都を東京に遷都させ、東京を世界一の経済都市へと導いた。慶喜、勝海舟、榎本らの計画倒産と言える。会津も番組のとおり、容保の子孫は徳川宗家になる。容保の嫡男の出産は、長州従軍医の山根孝中に委ねたのは奇妙な話で、山川ら優秀な士族はわさわざ長州の前原や奥平に委ねている。保守的な会津を再生するための計画倒産である。自らは東照宮の宮司となり、天寿を全うした。また番組にもあったがもう一人の息子は山田顕義の縁者の養子に送り込むという何から何まで長州頼みである。
捕捉だか、白虎隊の生き残りの新沼貞吉やそれを助け長州に連れ帰った楢崎頼三とその縁者の話を知れば、会津人がいう話と真逆な真相が明らかになるだろう。
世渡りの悪い藩主がいたせいで数多くの犠牲者を生んでしまい藩主容保は明治時代に家臣の冥福を祈ることなく生活している。こんな奴が藩主とはって感じかな。
涙なしには見れませんでした。
「朝敵の汚名を着せられる」との解説ですが、鳥羽伏見の戦いの後に徳川慶喜などと共に桑名・会津両藩も正式に朝敵に指定されているので、
ニュアンスとして難しいですね。
間違いなく尊皇派を弾圧して殺しまくった方なので、そのまんま朝敵でしょう。
徳川宗家の息子って、
インドネシア人と結婚してる
んじゃなかったかな?
家広氏はベトナムの方と結婚されていますね。
野田関宿城🏯徳川家康子の旦那緒の方と竹👸国広を下がります❗️
会津はいい加減薩長と和解しろやw 何百年経ってんだよw
うちの山口県出身の課長が若い頃会津に営業に行って、営業トークの流れで出身地ポロッと言ったら塩撒かれて追い出されたらしいわw
それだけ薩長に酷いことをされたからでしょ
会津戦争で戦死した会津側兵士の亡骸を見せしめで野晒しにしたからね。で、心ある方が埋葬したら見つけて掘り起こして、再度亡骸を道に置き直したから…。まぁここまでされたら、会津若松の市長も『まだ早い』て言うわな
奥方のおだいの方を妻とする舞台