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大学数学のスタイル、数学の証明で悩んだことがあれば教えてください!
物理とか化学は現実というとてつもなく強い証拠があるので証明は軽視されがち(数学的に厳密でなくても現実にあっていれば問題ない)ですが、数学は机上だけで進むので証明というか本当に合っているのか?を抜け出すのがかなり大変というイメージがあります
物性物理化学の者です。ご意見の趣旨はわかりますが、証明は軽視されがちという表現には少々違和感があります。現象の理論的な説明が不完全でも実験事実の存在が優先されるのはそのとおりですが、逆に言うと実験自体が厳密かどうか、実験結果が統計的に有意かどうかの検証は常に求められます。自然科学には最終的に「神がそう決めたから」という逃げ道があるのに対し、数学は人間が決めたルール内で自己完結しなければならない点で、ベクトルが大きく違うように思います。数学は自然科学なのかという議論もこの辺りに起因するのでしょうか。
@@Bianchi7118 掌返しに見えるでしょうが自分もこのコメントを書いてから時間が経っているのもあって、さすがに証明を軽視しているは言いすぎだなと思います。色々雑でも使えるなら使う学問だという考え自体は今でも変わりませんが、それはそれとして変なところがあったら詰められるし、そこを更に詰めていって新たな現象を探す学問でもあるよなと今では考えています。黒体輻射や光電効果から量子力学が導かれたのもそういった姿勢の結果のように思えます。こういった「神がそう決めたから」で終わらず「どうしてこうなるんだ?」を考え続け、言葉で終わらず実験などで実証する姿勢というのが自然科学の重要なところなんじゃないかと勝手に思っています。一方で数学は「どうしてこうなるんだ?」という結果重視より「この論理は本当に正しいか?」という証明重視に感じますね。数学では出てくる結果自体は同じでも証明方法が違うなら価値がある。(数学以外の自然科学では証明方法に価値がないというわけではないですが)
素晴らしい説明です。
「線形写像は行列で表され、合成は行列の積で表されます」数学科のゼミでは「無限次元だとどうしますか?線形写像の定義はなんですか?」と言ったツッコミが入ります。
数学科卒ではないのですが、趣味で大学数学を勉強しています。今は、数学科の学部1年で学ぶ微積、線形代数、集合・位相などを勉強しています。数学書の証明を読むと、なぜこのような証明を思いつけるのだろうと思い、自分では思いつけないと落胆してしまいます。証明を読むと理解はできるのですが、まるで証明の結論が最初から分かっているような天下り的な論理展開に感じてしまうことが度々あります。証明するのに試行錯誤した証明には書かれていない泥臭い部分は見えず、余分なものをそぎ落とし理路整然と書かれた「結果」だけを見ているのでそう思うのかもしれません。もし証明を思いついた人に話が聞けるならこの数行の証明を思いつくのに何年も掛かったと言われるかもしれません。証明を読んでいて感じるこのような感覚は数学を勉強していくと徐々に変わっていくものでしょうか。お考えをお聞かせいただけますと幸いです。
横からになりますが、数学の修士の立場からお答えします。結論としては、天下り的に見える証明はいつになっても出会います。常に上手の人が居るもんだな、と思わされます。仰るように、そうした証明は先行して大きな時間を割いくださった数学徒がどこかにいたという事になります。実際に私が論文を出した経験を思うと、それは時に半年、数年単位で1つの箇所に向き合い、その周辺の具体的な情報を調べ、技術的に出来る推論は出来るだけ列挙し、ようやく証明が出来る、という場合もあります。これに対して我々は、様々に立場を取れます。嫉妬したり、羨んだり、驚いたり、感動したり、気まづくなったり、自分に落胆したり、尊敬したり、様々です。この事を思うと、殆どの人にとって、数学を厳密に学ぶ事は「激しく身の程を知ること」という側面があります。私の場合はこれを繰り返したことで、天下り的な証明を見ると目の前に挫折した数学者らの横たわる姿が想起されます。時には数学者の死体の山が見えるような時もあります。そういった時には、その道中に横たわる彼らに思いを馳せながら感謝し、巨人の肩に乗っている事を強く自覚し、彼らの忍耐と信念に祈りを捧げながら前に進んでいきます。以来、自分にできないことを出来る全ての人に対して経緯を抱きやすくなりました。あまり一般的とは言えない自分語りっぽいコメントになっしまいすみません💦
大学数学の最初の関門であるε-δ論法も非常に天下り的で初学者にはピンと来ないんですよね。どうしてそのような発想に至ったのか経緯を知りたい(先人の苦悩を追体験することで理解をより深めたい)んですが、それを教えないものだから訳が分からなくなってしまうと思うんですよ。
0:35 5:07
厳密性は甘え。漢なら、絵面的にそれっぽいイキフンがあればQ.E.D.
数学に関する疑問を調べると大体スライムさんの記事が最初に当たります笑現在数学の苦手意識から脱却するために高校数学からはじめて記号論理学を勉強しています。演習は証明の問題だけ後回しにしてしまいます。ある程度輪郭がつかめたら証明にも挑戦してみたいです。
裏付け大事、て事ですね。
定義や定理だけでなく、証明の道筋そのものも数学として非常におもしろい事柄なのでたくさん証明が書いてあるし、書いている人は「この証明のココがおもしろいんよ」と思いながら書いてるんだけど、伝わらんのよな。
ルイス・キャロルは、本名で言えば、チャールズ・ダジソンは、手品のように数学を使った。子供を、楽しませるためにね。数学って手品なんだろうね。きっと。
数学は理科みたいに実現象という枠組みがある訳じゃないから厳密さに拘るのもわかる
むしろ、よく単位とれて卒業できたなとマジ尊敬するわ…
この辺の事情については、ルイス・キャロルが、思いっきりパロってる。だから、アリスシリーズは面白い
工学部の数学は高校風でいいような
難しそう。
誤って矛盾したことを証明してしまうと爆発律より大変なことになるすぐ気づけばいいけど、数十年後、数百年後とかだと取り返しのつかないなるだから証明は厳密でないといけない
定理は難しい問題を解くためのツールとして使えること、そして完全な証明が一度与えられた定理は、道具として、二度と同じ証明をせずとも使えること。数学が苦手な人は、このスキームが理解できてないと思う。
高評価を257にしてしまってちょっと罪悪感
算数すら怪しい私が質問するのもあれなんですけどruclips.net/video/1X8npQqoGkQ/видео.htmlこの動画の是非はともかく、(一般的な)数学徒は自分が証明したり作ったりしてることの前提への疑問(哲学的?)を持ったりしないのかと思いました仮に疑問を持たないならある種の有用性(他の証明で使うとか)のために暫定的に納得してるというスタンス(理工でいう「とりあえず使えればいいじゃん※これも噂で聞いた話です」)なのかなとか疑問を持ちましたなんで疑問に思うかというと「疑い出したらキリがなくて教科書が進まないからとりあえず」て気分を持つことがあるのかなとか思ったからです自分でも何書いてるのかよくわからないので不快に思ったら申し訳ございません
>>仮に疑問を持たないならある種の有用性(他の証明で使うとか)のために暫定的に納得してるというスタンス一般的にはどうか知らないので、僕の話をしますね。僕は数学系の中では、「とりあえず使えればいいじゃん」寄りです。しかし、使って良いと思っているのは、他の数学者(先人)が証明を書いていることを信頼してるからです。また、心のどこかで自分で検証してないことに対する疑問はありますね。気になりますが、すべて基礎を自分で検証しようとすると、それだけで人生が終わるほどの時間がかかりそうです。また、自分の数学的な関心は別の所が強いので、保留しています。(自分の関心が弱いだけであって、数学基礎論が不要とは全く思いません。研究してくれている数学者たちがいるから、安心して数学ができていると思っています。)>>「疑い出したらキリがなくて教科書が進まないからとりあえず」て気分を持つことがあるのかなあると思いますよ。少なくとも僕はあります。公理の考え方は、「とりあえずここから議論する」の典型ですし。また、大学の数学科では、数学の基礎である「集合と位相」を学びます。しかしそれは「集合=ものの集まり」として出発する素朴集合論の範囲で、集合の厳密な定義(公理的集合論)や数学基礎論(数理論理)に踏み込みません。つまり、どんな専門分野(代数、幾何、解析)を学ぶのにも最低必要な程度の基礎を、「とりあえず」学ぶ形です。答えになったでしょうか。
でも工学系は証明とか厳密さぶっとばすよね。(体験談)
数学者が地雷を取り除いている横を根性で駆け抜けるのも工学者の役目
工学系は数学を使う側がほぼ100って事やろな
先生は証明も教えたいんだけど工学部の人は着いて来れないから、結局教えるの辞めちゃうっていう悲しい話がある
大学数学のスタイル、数学の証明で悩んだことがあれば教えてください!
物理とか化学は現実というとてつもなく強い証拠があるので証明は軽視されがち(数学的に厳密でなくても現実にあっていれば問題ない)ですが、数学は机上だけで進むので証明というか本当に合っているのか?を抜け出すのがかなり大変というイメージがあります
物性物理化学の者です。ご意見の趣旨はわかりますが、証明は軽視されがちという表現には少々違和感があります。現象の理論的な説明が不完全でも実験事実の存在が優先されるのはそのとおりですが、逆に言うと実験自体が厳密かどうか、実験結果が統計的に有意かどうかの検証は常に求められます。
自然科学には最終的に「神がそう決めたから」という逃げ道があるのに対し、数学は人間が決めたルール内で自己完結しなければならない点で、ベクトルが大きく違うように思います。数学は自然科学なのかという議論もこの辺りに起因するのでしょうか。
@@Bianchi7118
掌返しに見えるでしょうが自分もこのコメントを書いてから時間が経っているのもあって、さすがに証明を軽視しているは言いすぎだなと思います。
色々雑でも使えるなら使う学問だという考え自体は今でも変わりませんが、それはそれとして変なところがあったら詰められるし、そこを更に詰めていって新たな現象を探す学問でもあるよなと今では考えています。黒体輻射や光電効果から量子力学が導かれたのもそういった姿勢の結果のように思えます。
こういった「神がそう決めたから」で終わらず「どうしてこうなるんだ?」を考え続け、言葉で終わらず実験などで実証する姿勢というのが自然科学の重要なところなんじゃないかと勝手に思っています。
一方で数学は「どうしてこうなるんだ?」という結果重視より「この論理は本当に正しいか?」という証明重視に感じますね。
数学では出てくる結果自体は同じでも証明方法が違うなら価値がある。(数学以外の自然科学では証明方法に価値がないというわけではないですが)
素晴らしい説明です。
「線形写像は行列で表され、合成は行列の積で表されます」数学科のゼミでは「無限次元だとどうしますか?線形写像の定義はなんですか?」と言ったツッコミが入ります。
数学科卒ではないのですが、趣味で大学数学を勉強しています。
今は、数学科の学部1年で学ぶ微積、線形代数、集合・位相などを勉強しています。
数学書の証明を読むと、なぜこのような証明を思いつけるのだろうと思い、自分では思いつけないと落胆してしまいます。
証明を読むと理解はできるのですが、まるで証明の結論が最初から分かっているような天下り的な論理展開に感じてしまうことが度々あります。
証明するのに試行錯誤した証明には書かれていない泥臭い部分は見えず、余分なものをそぎ落とし理路整然と書かれた「結果」だけを見ているのでそう思うのかもしれません。
もし証明を思いついた人に話が聞けるならこの数行の証明を思いつくのに何年も掛かったと言われるかもしれません。
証明を読んでいて感じるこのような感覚は数学を勉強していくと徐々に変わっていくものでしょうか。
お考えをお聞かせいただけますと幸いです。
横からになりますが、数学の修士の立場からお答えします。
結論としては、天下り的に見える証明はいつになっても出会います。常に上手の人が居るもんだな、と思わされます。
仰るように、そうした証明は先行して大きな時間を割いくださった数学徒がどこかにいたという事になります。
実際に私が論文を出した経験を思うと、それは時に半年、数年単位で1つの箇所に向き合い、その周辺の具体的な情報を調べ、技術的に出来る推論は出来るだけ列挙し、ようやく証明が出来る、という場合もあります。
これに対して我々は、様々に立場を取れます。嫉妬したり、羨んだり、驚いたり、感動したり、気まづくなったり、自分に落胆したり、尊敬したり、様々です。
この事を思うと、殆どの人にとって、数学を厳密に学ぶ事は「激しく身の程を知ること」という側面があります。
私の場合はこれを繰り返したことで、天下り的な証明を見ると目の前に挫折した数学者らの横たわる姿が想起されます。
時には数学者の死体の山が見えるような時もあります。そういった時には、その道中に横たわる彼らに思いを馳せながら感謝し、巨人の肩に乗っている事を強く自覚し、彼らの忍耐と信念に祈りを捧げながら前に進んでいきます。
以来、自分にできないことを出来る全ての人に対して経緯を抱きやすくなりました。
あまり一般的とは言えない自分語りっぽいコメントになっしまいすみません💦
大学数学の最初の関門であるε-δ論法も非常に天下り的で初学者にはピンと来ないんですよね。
どうしてそのような発想に至ったのか経緯を知りたい(先人の苦悩を追体験することで理解をより深めたい)んですが、それを教えないものだから訳が分からなくなってしまうと思うんですよ。
0:35 5:07
厳密性は甘え。
漢なら、絵面的にそれっぽいイキフンがあればQ.E.D.
数学に関する疑問を調べると大体スライムさんの記事が最初に当たります笑
現在数学の苦手意識から脱却するために
高校数学からはじめて記号論理学を勉強しています。
演習は証明の問題だけ後回しにしてしまいます。ある程度輪郭がつかめたら証明にも挑戦してみたいです。
裏付け大事、て事ですね。
定義や定理だけでなく、証明の道筋そのものも数学として非常におもしろい事柄なのでたくさん証明が書いてあるし、書いている人は「この証明のココがおもしろいんよ」と思いながら書いてるんだけど、伝わらんのよな。
ルイス・キャロルは、本名で言えば、チャールズ・ダジソンは、手品のように数学を使った。子供を、楽しませるためにね。数学って手品なんだろうね。きっと。
数学は理科みたいに実現象という枠組みがある訳じゃないから厳密さに拘るのもわかる
むしろ、よく単位とれて卒業できたなとマジ尊敬するわ…
この辺の事情については、ルイス・キャロルが、思いっきりパロってる。だから、アリスシリーズは面白い
工学部の数学は高校風でいいような
難しそう。
誤って矛盾したことを証明してしまうと爆発律より大変なことになる
すぐ気づけばいいけど、数十年後、数百年後とかだと取り返しのつかないなる
だから証明は厳密でないといけない
定理は難しい問題を解くためのツールとして使えること、そして完全な証明が一度与えられた定理は、道具として、二度と同じ証明をせずとも使えること。
数学が苦手な人は、このスキームが理解できてないと思う。
高評価を257にしてしまってちょっと罪悪感
算数すら怪しい私が質問するのもあれなんですけど
ruclips.net/video/1X8npQqoGkQ/видео.html
この動画の是非はともかく、(一般的な)数学徒は自分が証明したり作ったりしてることの前提への疑問(哲学的?)を持ったりしないのかと思いました
仮に疑問を持たないならある種の有用性(他の証明で使うとか)のために暫定的に納得してるというスタンス(理工でいう「とりあえず使えればいいじゃん※これも噂で聞いた話です」)なのかなとか疑問を持ちました
なんで疑問に思うかというと「疑い出したらキリがなくて教科書が進まないからとりあえず」て気分を持つことがあるのかなとか思ったからです
自分でも何書いてるのかよくわからないので不快に思ったら申し訳ございません
>>仮に疑問を持たないならある種の有用性(他の証明で使うとか)のために暫定的に納得してるというスタンス
一般的にはどうか知らないので、僕の話をしますね。
僕は数学系の中では、「とりあえず使えればいいじゃん」寄りです。
しかし、使って良いと思っているのは、他の数学者(先人)が証明を書いていることを信頼してるからです。また、心のどこかで自分で検証してないことに対する疑問はありますね。気になりますが、すべて基礎を自分で検証しようとすると、それだけで人生が終わるほどの時間がかかりそうです。また、自分の数学的な関心は別の所が強いので、保留しています。
(自分の関心が弱いだけであって、数学基礎論が不要とは全く思いません。研究してくれている数学者たちがいるから、安心して数学ができていると思っています。)
>>「疑い出したらキリがなくて教科書が進まないからとりあえず」て気分を持つことがあるのかな
あると思いますよ。少なくとも僕はあります。
公理の考え方は、「とりあえずここから議論する」の典型ですし。
また、大学の数学科では、数学の基礎である「集合と位相」を学びます。しかしそれは「集合=ものの集まり」として出発する素朴集合論の範囲で、集合の厳密な定義(公理的集合論)や数学基礎論(数理論理)に踏み込みません。
つまり、どんな専門分野(代数、幾何、解析)を学ぶのにも最低必要な程度の基礎を、「とりあえず」学ぶ形です。
答えになったでしょうか。
でも工学系は証明とか厳密さぶっとばすよね。(体験談)
数学者が地雷を取り除いている横を根性で駆け抜けるのも工学者の役目
工学系は数学を使う側がほぼ100って事やろな
先生は証明も教えたいんだけど工学部の人は着いて来れないから、結局教えるの辞めちゃうっていう悲しい話がある
先生は証明も教えたいんだけど工学部の人は着いて来れないから、結局教えるの辞めちゃうっていう悲しい話がある