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確かに三笠川は重要な水路であったでしょうし、小船なら宝満川に乗り換えることも可能ですが、この経路は川に沿って陸路も発達していました。陸路で伊都国まで来た郡使が、敢えて不彌国から水路を使う理由が見当たりません。
コメントありがとうございます。陸路がどれほど整っていたのかはわかりませんが、陸行より水行の方が容易だったと考えるほかありません。明治時代辺りまで、大きな河川が輸送を担っていたところも多くあったようですから。
面白かったです。3世紀当時の海岸線・河川の位置が正確に分かれば、より精度の高い比定が出来そうですね。昔から河川が交通・物流網であり、天然の堀としてクニ・ムラまたは文化の境界となり、稲作にとっては最も重要な資源。不彌国の「彌」の字が特徴的だと思います。卑彌呼、狗奴国の卑彌弓呼もそうですが、倭人伝や弁辰のクニ名にも多く登場する漢字・音韻。
コメントありがとうございます。当時の海岸線などについては考古学や専門分野でかなり詳細に研究報告されています。専門家ではないのでその結果の扱いは難しいのですが、例えば、筑紫平野は海岸線がかなり内陸部まで入り込んでいて、吉野ヶ里遺跡は筑後川の河口からそう遠くない(3~4km)ところにあったように思えます。漢字の解釈もなかなか難しいですが、以前、国名を漢字の表音文字(表語文字)の視点から考えてみたことがあります。「彌」は「時が経つ」とかの意味もあるようですので、「不彌」は「時が経っていない」=「新しくできた」国なのかなと考えたのを思い出しました。今後ともよろしくお願いします。
@@J-history 古代は有明海が内部まで入り込み、筑紫平野は現在とは想像つかないぐらい狭かったようですね。戸数≒人口と解釈し、クニの人口は水田面積=食糧に依拠すると仮定すれば、邪馬台国や投馬国のような大きなクニが存在しえた場所は地理的に限られてくるように思えます。以下は農水省の有明海の干拓史に関するページですが、吉野ヶ里は現在では内陸ですが、古代では海に近かったようです。稲作の歴史は干拓の歴史なんだと改めて知りました。www.maff.go.jp/kyusyu/seibibu/kokuei/18/kantaku/index.html
@@yo2trader539 『邪馬台国は熊本にあった!』を書いたときに筑紫平野について少し調べまして、貝塚の位置から当時の筑後川の河口は現在より内陸部にあったことはもちろん、河口付近の川の流れも今より北に寄っていたのではないかと推論しました。吉野ヶ里遺跡はかなり海に近かったと思います。
今回も興味深く、愉しんでみさせていただきましたいつも、ありがとうございます❗
こちらこそ、いつもご視聴いただきありがとうございます。
今回もとても面白い内容でした!
いつもご覧いただきありがとうございます。
とても面白い見解でした。古代が好きなので頑張ってくださいね‼︎
コメントありがとうございます。比恵那珂遺跡群が邪馬台国時代の奴国の中心集落であるという見解が定着しつつあるのは残念です。考古学の世界で倭人伝の国々を比定する場合に、もっと倭人伝の内容を重視してほしいと思います。引き続きよろしくお願いします。
伊都国から東南に奴国がありますが奴国には行きません。「行く」という動詞がありません。東に不彌国があり伊都国から不彌国に行きます。不彌国へは「行く」という動詞があります。その後「水行」が出て来ますがこの「行」は動詞でなく「海上で行く」と投馬国に行けます、と紹介してるだけなのです。陳寿は優れた人物で長々語らず簡素に使い分けているのですヨ。
コメントありがとうございます。
理路整然ですね。賛同します。先月滋賀の高島市に観光した時に知識が増えたんですけど、平城京の木材は、この高島市の奥に【仙】植林をしていて、鯖街道から高島市に出て、船で材木を誘導しながら、瀬田に出て木津川でターンして平城京の北側から運んだそうです。平城京の時代でも川面は高く船が重要な交通手段だとも推測できるし、又、橋を築造する技術が伝播されていませんから、当時 橋は皆無だと考えられます。水の特性から、重力に対して水平になる力がかかり、水平は約30キロメートルですから川口などの砂防や土砂上げをしないと川面は高くなる?海進や海退も関係あるかもしれませんが、又、太平洋と日本海では、一概には、海水面を想定出来ないかも?海流が常に日本海に流れ込んでるなら、北部九州の海面は、潮の満ち引き程度の範囲で収まるのかも?しれませんね。硯とかの出土するなら、会稽からの渡来人が想像できるので、文明レベル高かったエリアなのかも?原住民を駆逐しない渡来人なら、イメージよい感じがします。御説👍です。
コメントありがとうございます。江戸時代ぐらいまで(明治に入っても)荷を運ぶのに水運が利用されていたところが多いそうです。奈良盆地も古代は木津川経由で入っていたのは間違いないと思います。硯で思い出しましたが、先日、「新発見と思われていた弥生時代(?)の文字が実が現代の油性インクのものだった」というニュースがありましたね。
@@J-history 様。捏造が1番ダメですね。基本情報が間違いなら、仮説全てが崩れてしまいます。😭
魏志倭人伝の不彌国は福岡県の兎美町だと思います。
ここしかない?ここ博多は間違いなく好古都でしょう。
コメントありがとうございます。博多=好古都説ですか。否定はしませんが、旁国の掲載順からすると好古都国はいもっと南のような気がします。引き続きよろしくお願いします。
川を上った先がみえませんので、次の展開を待ちます。 次0100行きます。
相変わらずの全部自分のルールとても面白く観てまーす
コメントありがとうございます。引き続きよろしくどうぞ。
@@J-history 後6本で全部観れます。楽しんでますよぉぉ🎶
行程の説明は国の拠点から拠点までじゃなく、国の端から次の国の端まで(スターとの帯方郡からして陸上移動の説明がなく、郡治からではなく帯方郡の南の端の海岸から出発している)投馬国への20日は帯方郡からの時間での再説明御笠川から筑後川へは陸上を数十km移動しないと行けないからこれを水行はあり得ない。1里80mとして呼子付近から伊都GC付近までが500里(40km)この先のが伊都国ここから100里(8km)で糸島峠で、福岡市早良区等が奴国更に100里(8km)で小笠木峠、この先の那珂川市方面が不弥国です。
以前にも言いましたが、一里が70m、千里が70km程度と言うのは釜山〜対馬〜壱岐〜松浦半島の何処か、を現代の地図でそれぞれ、約90km、70km、50km(末盧国が唐津市の場合)となるのを平均して一里が70mとしているのだと思います。 しかしながら、それはあくまでも地図を目にしている現代人の視点に過ぎません。 地図と言うものは地動説から始まって、正確な地球の一周の測定や、測量、そして正確な時計による南中時間の差を経度に換算する事や、地球の公転軌道の計算、自転速度の計算、人工衛星などなど人類の叡智の結晶なのです。 それを基準にして考えてはいけません。ですので、90kmも70kmも50kmも全て千里と考えるべきなのです。 つまり、千里を平均値の70kmと断定するべきではありません。 千里とはおおよそ50km〜90kmの事だとそのまま記述通りに考えるべきです。 「平均を取らなくちゃ!」などと現代人の視点を持ち込んではいけません。 すると、百里とはおおよそ5km〜9kmくらいであり、百五十里以内までを可能性と考えるなら、二百里は三百里以内までを可能性として考えるべきなのです。 すなわち、倭人伝どおりなら、二百里とは、おおよそ10km〜27km以内と考えるべきでしょう。 百里を平均値7kmと断定してはいけません。 すると、不弥国とは宇美町の事である、とよく分かります。
コメントありがとうございます。魏志倭人伝の中から1里と求めようとすると、用いることのできる数値は対馬海峡の合計3000里ぐらいしかありません(上陸後は各国の位置が確定されていないからです)。しかし、韓伝の4000里四方という記述から、朝鮮半島の東西の距離が4000里という数値を用いることができます。すると、この2つのサンプルから、大まかにではありますが、1里70メートルあたりに帰着するのではないかと思っています。
@@J-history なるほど、韓伝ですか。 そこは視点になかったです。 ですが、末盧国とはどこなのか?はミステリーだと思います。 私は呼子の近くの今津湾入り口だろうと思います。 波浪の高い玄界灘を漕ぎ渡って、波静かな今津湾に入ったところで、休息を取ったのでしょう。 陸路ではそこから東南に海岸沿いに行ってそれから川を渡って山越えをするので富士の樹海のようなジャングルを超えてゆくから方角は東南以外、わからないから東南五百里と書いたのでしょう。
@@風野小太郎-o6h 私は日本最古の水稲耕作遺跡といわれる菜畑遺跡付近の浜に上陸したと思っていますが、呼子説は根強いですね。「草木が茂って前を行く人が見えない道」については、一般的に末盧国から伊都国への道中の様子と考えられる方が多いですが、これは明らかに末盧国内に関する記述です。私は、調査隊が末盧国内を踏査したときの様子だと考えています。当時は、今より人々が山に依存して生活していた(頻繁に山に入っていた)と思いますから、末盧国から伊都国への山道はあったのだと思います(証拠はありませんが)。
@@J-history 呼子周辺上陸説はご都合主義と批判もあるでしょうが、もうすぐ目的地の伊都国に着くと言うのにわざわざ唐津市に寄り道して停泊、上陸する理由が見当たらないからです。 また陸路を行ったに、対する批判点は国賓である魏使にジャングルの難儀な山越えを強いらなくても船ですぐ目の前にある伊都国に行く方が近道かつ快適かつ短時間ですからね。 なので末盧国とは広く松浦半島の何処かである、と考えると、その中でわざわざ停泊、上陸する価値があるところとなると、波浪の高い玄界灘を渡り越えた直後の休憩地と考えるのが合理的でしょう。 すなわち、今津湾の入り口付近の停泊適地です。 そこからは伊都国までは地図上は東ですが、当時は現代のような地図は無かったのだし、陸路だと東南に伸びる海岸沿いに行く、と言う地理的な視点から東南陸行五百里と言う記述となったと思われます。 なお、現在の唐津市の市街地は大部分は当時海の底だったと考えられるので、今ほどは平地が大きくなかったと思われます。 つまり、末盧国(松浦半島周辺)の中心地としても重みは今ほどではなかったと思われます。 まぁ、これも推測ですけどね。 そして、休息上陸した後、魏使はまた船に乗ってまっすぐ伊都国に向かったのだと思います。
@@風野小太郎-o6h 末盧国は居住可能地域が狭かったと思われますから、さほど重要な国ではなかったかもしれません。しかし、位置的には重要地点であったと思います。唐津湾入り口の山頂付近に湊中野遺跡という狼煙(のろし)を上げていた遺跡があります。そこからは唐津湾内だけでなく壱岐島や糸島方面も見渡せるようです。対馬海峡を渡ってくる船をいち早く見つけ、監視する役割を担っていたと考えられます。梯儁一行に随行していた(と私が考える)倭地調査隊は、唐津湾に上陸した後、船から見えたその湊中野遺跡に登ったのだと思っています。もちろん、倭地を地理的に概観するためにです。
不弥国は、御笠川と宝満川の連絡拠点である筑紫コリドー(太宰府エリア)にあったと思います。そして、魏書の邪馬台国までの行程は、不弥国から宝満川を南に水行したと考えますし、自然だと思います。邪馬台国までの行程は不弥国までが里数記述であり、倭人は里数を知らない可能性が高いので、そこまで魏国の使者が来た当面の目的地だと思います。太宰府羅城の建造に関わる為。版築による羅城の壁の築年は西暦240年± の鑑定結果もあり、対狗奴国の、台与ら邪馬台国連合首脳部と、張政ら魏の軍事顧問団の大本営かつ、詰の城の大要塞だったのではと考えています。
コメントありがとうございます。そういう鑑定結果があるのですね。初めて聞きました。当時そのような土木技術があったとすれば、このチャンネルとしては、その時期に御笠川と宝満川をつなぐ運河が築かれていたと考えたいです。引き続きよろしくお願いします。
羅城の壁は何層かに成っており、工事毎に、版築工法で積み上げて行ったようです。水城の、基層の植物片を調べるとA.D.240年± と出たのもあるようです。羅城の反対側の宝満川近くの前畑遺跡でも、そうだったかもしれません。詳しい事は述べられませんが、調べるとすぐ情報は出てくると思います。お手数かけさせ心苦しいですが。
@@あいう工夫 ご返信ありがとうございます。なぜ水城を築いたのかが気になるところです。土塁と水濠がセットであれば、水濠の両側に土塁があれば、まさに両側から船を曳いていく運河の出来上がりとイメージできます。
私の、個人的な想像では、、、邪馬台国連合も一枚岩ではなく、呉越同舟なところがあったのかな?と考えています。邪馬台国までの行程で言うと、松浦半島→怡土郡→日向峠→奴国の墓陵地帯→都府楼あたりに到着。(不弥国?)或いは怡土郡から→糸島峠→都府楼あたりに到着。(不弥国?)これは、古代の物部氏の拠点が有った所を沿ったルートではないかと考えています。不弥国の後の南に水行で向かう筑後川河口デルタも。伊都国の官、爾支(ニキ・ニギ)は、ニニギかニギハヤヒではと考えています。そして、伊都国の一大率の警察権・検察権と持衰の祭祀なり宗教的なマージは、後の大和朝廷での物部氏の役割そのものに見え、邪馬台国時代、既にそのようなプロトタイプが有った事を示唆している様に思えます。伊都国も海人族の國の首長でしょうが、邪馬台国までのルートを見ると、博多湾沿岸勢力の阿曇氏・住吉系と、北方の宗像氏もでしょうか?それらとの接触を避けているというか、関わらせない様にしているようにも見えます。それは狗奴国と関係が有ると考えています。狗奴国は熊本平野以南と仮定すると、九州北部より狗奴国である熊本平野は鉄資源の出土で凌駕しています。阿蘇近辺から鉄が取れるという主張もありますが、私は、ほぼ朝鮮半島産の物だと考えています。つまり、海人族がより条件の良い、狗奴国と鉄をより多く取引していたのではと考えます。鉄は武器・戦略物資でもあり、ある意味「死の商人」なら、当然そうするでしょうし。ただ、狗奴国自身にある程度の海上優勢がなければ、妨害されるだけなので天草下島・長崎沖・五島列島近くまでの海上優勢が有ったのではと。そうすると、当然本拠地に近い有明海も狗奴国の海上優勢の範囲は大きいと思います。それが、邪馬台国までの行程で海路で直接、邪馬台国と投馬国に行けない理由で、何をするか判らないがウヨウヨいる博多湾沿岸やその北部の海人族のテリトリーを避け、奴国を最短距離で切り抜けたい訳なのかなと想像する事があります。実際、倭国大乱では奴国が筑紫コリドーを越えてほとんど無差別に人間を殺めている様ですし。卑弥呼死去時の混乱でもやらかしているのではと。なので、油断ならない福岡平野側にも壁は造りたくなるのでは?と思いました。長文となり、失礼しました。
@@あいう工夫 詳細なご返信をありがとうございます。このチャンネルでは狗奴国域を九州山地の南と考えていますから、そこが大きく異なると思います。狗奴国は現在通説となっているように強力な国でもなかった可能性もありますし、よく根拠として挙げられる鉄鏃についても女王国内のものと考えてよいと思っています。女王国誕生前の倭国乱や、卑弥呼没後の内乱時に使用されたとか、です。もちろん、熊本平野には強力な勢力がいたと考えています。それが邪馬台国です。あと、女王国というのは100年ほどだけ存在した連合体だと想定できますので、基本的に九州は福岡平野、筑紫平野、熊本平野の勢力が独立して存在していたようなイメージをもっています。
3世紀の稲作が南九州で可能であったかは今の環境と違ってわからないし海面も1.5メートル上昇していたようだし火山活動が少なく火山灰の影響が少なく台地が平野だったことを考慮すると米作適地だったと考えられる 鉄は交易で手に入るし(朝鮮半島の鉄、淡路島で大規模な製作所発見)特産品でなく 倭国全体の交易品を朝貢したとしても不思議ではないし コジェ島から残り5000里がどこなのかが重要とおもいます 地理的に日田しか特定できず 問題の全容解明が可能なのです
「魏志倭人伝に書かれているクニの行程・規模は今の私たちの感覚では受け入れがたいほどショボイ。それを体感しないと、この文書を理解することはできない」というのが、福岡に住む者からのアドバイスです。そして、その感覚で評価させていただくと、この説は私の正解のイメージとかなり近いです。私は単純に不弥国は春日市あたりと考えてましたけれど、そこは大差ないです。奴国は室見川流域の舌状台地(つまり吉武高木遺跡付近)と考えてよいのではないかと思います。 この時代のクニは川と平地と台地が必要なんですよ。それだけで一つのクニなんですよ。
コメントありがとうございます。福岡にお住まいとのことですが、現在と比べるとショボイかもしれませんが、比恵・那珂遺跡群とかそれにつながる西新町遺跡とか、福岡は当時の最先端地域だったと思います。女王国全体として最先端を共有できればよいわけで、必ずしも邪馬台国が最先端の窓口の国でなくてもよかったのではと思います。今後ともよろしくお願いします。
末盧国を上陸の入り口にしたことは倭人の通訳をそこで船に乗せたとか?帯方郡使側に事情があったのかもしれませんね。ただ、弥生時代には「伊都国」はまだ糸島平野になく出来たのは古墳時代と聞きましたので「魏志倭人伝」に言う「伊都国」は「大宰府」当たりを指したのかもしれません。郡使たちが実際に訪問したのは「伊都国」と「不彌国」で(魏志倭人伝に「行」という文字が書かれているのはこの2国だけ)他の国へは行っていないと思います。私は「不彌国」は確定したところが薄く色々と説があるようで博多湾近くの交通の要所ではないかと考えていましたが邪馬台国や投馬国に海路を取るのか陸路の河川を利用して行くのかわかりかねています。中国の「唐六典」によりますと1日の歩行距離は50里、水路だと100里と定めているようですので「邪馬台国」まで行くとなると水路だと10日で1000里=120㎞ 陸路1月=1500里=120㎞ 両方使うとすれば 合計240㎞先にあります。私は「邪馬台国」=「宮崎県の宮崎市」ではないかと思いますが、どうぞ頭脳明晰であられると信頼しておりますのでよろしくお願いします。
コメントありがとうございます。太宰府辺りから代々の王墓と思われる墓が明日にでも発見される可能性はありますが、現状では伊都国は糸島市というのはなかなか覆すことの難しい定説だと思っています。唐六典については後世の目安なのでなんとも言えません。宮崎説の方はけっこう多いですね。魅力的な地域ではあると思います。
宇美町に海はないので伊都国糸島から疑わないとならない 唐津柏崎から南に1万4千歩東に4万8千歩歩くと吉野ケ里斜め短里500里5万歩となる38キロ 魏使は向かわずそこから同じく東南100里短里7.6キロ久留米奴国筑後川を遡上し東行長里100里43.4キロ日田不彌国につく馬韓にもあり長里をとるのです南に陸行可能 吉野ヶ里は昔縄文海進で津があり南に海里100里水行可能なのです仮説
吉野ヶ里最初の100里を短理76メートルで7.6キロ久留米次の100里は長里は434メートルで43.4キロ日田です 自説で失礼しました
確かに三笠川は重要な水路であったでしょうし、小船なら宝満川に乗り換えることも可能ですが、この経路は川に沿って陸路も発達していました。陸路で伊都国まで来た郡使が、敢えて不彌国から水路を使う理由が見当たりません。
コメントありがとうございます。
陸路がどれほど整っていたのかはわかりませんが、陸行より水行の方が容易だったと考えるほかありません。
明治時代辺りまで、大きな河川が輸送を担っていたところも多くあったようですから。
面白かったです。3世紀当時の海岸線・河川の位置が正確に分かれば、より精度の高い比定が出来そうですね。昔から河川が交通・物流網であり、天然の堀としてクニ・ムラまたは文化の境界となり、稲作にとっては最も重要な資源。不彌国の「彌」の字が特徴的だと思います。卑彌呼、狗奴国の卑彌弓呼もそうですが、倭人伝や弁辰のクニ名にも多く登場する漢字・音韻。
コメントありがとうございます。
当時の海岸線などについては考古学や専門分野でかなり詳細に研究報告されています。専門家ではないのでその結果の扱いは難しいのですが、例えば、筑紫平野は海岸線がかなり内陸部まで入り込んでいて、吉野ヶ里遺跡は筑後川の河口からそう遠くない(3~4km)ところにあったように思えます。
漢字の解釈もなかなか難しいですが、以前、国名を漢字の表音文字(表語文字)の視点から考えてみたことがあります。「彌」は「時が経つ」とかの意味もあるようですので、「不彌」は「時が経っていない」=「新しくできた」国なのかなと考えたのを思い出しました。
今後ともよろしくお願いします。
@@J-history 古代は有明海が内部まで入り込み、筑紫平野は現在とは想像つかないぐらい狭かったようですね。戸数≒人口と解釈し、クニの人口は水田面積=食糧に依拠すると仮定すれば、邪馬台国や投馬国のような大きなクニが存在しえた場所は地理的に限られてくるように思えます。以下は農水省の有明海の干拓史に関するページですが、吉野ヶ里は現在では内陸ですが、古代では海に近かったようです。稲作の歴史は干拓の歴史なんだと改めて知りました。www.maff.go.jp/kyusyu/seibibu/kokuei/18/kantaku/index.html
@@yo2trader539
『邪馬台国は熊本にあった!』を書いたときに筑紫平野について少し調べまして、貝塚の位置から当時の筑後川の河口は現在より内陸部にあったことはもちろん、河口付近の川の流れも今より北に寄っていたのではないかと推論しました。吉野ヶ里遺跡はかなり海に近かったと思います。
今回も興味深く、愉しんでみさせていただきました
いつも、ありがとうございます❗
こちらこそ、いつもご視聴いただきありがとうございます。
今回もとても面白い内容でした!
いつもご覧いただきありがとうございます。
とても面白い見解でした。
古代が好きなので頑張ってくださいね‼︎
コメントありがとうございます。
比恵那珂遺跡群が邪馬台国時代の奴国の中心集落であるという見解が定着しつつあるのは残念です。
考古学の世界で倭人伝の国々を比定する場合に、もっと倭人伝の内容を重視してほしいと思います。
引き続きよろしくお願いします。
伊都国から東南に奴国がありますが奴国には行きません。「行く」
という動詞がありません。東に不彌国があり伊都国から不彌国に行きます。不彌国へは「行く」という動詞があります。その後「水行」が出て来ますがこの「行」は動詞でなく「海上で行く」と投馬国に行けます、と紹介してるだけなのです。陳寿は優れた人物で長々語らず簡素に使い分けているのですヨ。
コメントありがとうございます。
理路整然ですね。賛同します。先月滋賀の高島市に観光した時に知識が増えたんですけど、平城京の木材は、この高島市の奥に【仙】植林をしていて、鯖街道から高島市に出て、船で材木を誘導しながら、瀬田に出て木津川でターンして平城京の北側から運んだそうです。
平城京の時代でも川面は高く船が重要な交通手段だとも推測できるし、又、橋を築造する技術が伝播されていませんから、当時 橋は皆無だと考えられます。
水の特性から、重力に対して水平になる力がかかり、水平は約30キロメートルですから川口などの砂防や土砂上げをしないと川面は高くなる?
海進や海退も関係あるかもしれませんが、
又、太平洋と日本海では、一概には、海水面を想定出来ないかも?
海流が常に日本海に流れ込んでるなら、北部九州の海面は、潮の満ち引き程度の範囲で収まるのかも?しれませんね。
硯とかの出土するなら、会稽からの渡来人が想像できるので、文明レベル高かったエリアなのかも?原住民を駆逐しない渡来人なら、イメージよい感じがします。
御説👍です。
コメントありがとうございます。
江戸時代ぐらいまで(明治に入っても)荷を運ぶのに水運が利用されていたところが多いそうです。
奈良盆地も古代は木津川経由で入っていたのは間違いないと思います。
硯で思い出しましたが、先日、「新発見と思われていた弥生時代(?)の文字が実が現代の油性インクのものだった」というニュースがありましたね。
@@J-history 様。捏造が1番ダメですね。基本情報が間違いなら、仮説全てが崩れてしまいます。😭
魏志倭人伝の不彌国は福岡県の兎美町だと思います。
ここしかない?ここ博多は間違いなく好古都でしょう。
コメントありがとうございます。
博多=好古都説ですか。
否定はしませんが、旁国の掲載順からすると好古都国はいもっと南のような気がします。
引き続きよろしくお願いします。
川を上った先がみえませんので、次の展開を待ちます。 次0100行きます。
コメントありがとうございます。
相変わらずの全部自分のルール
とても面白く観てまーす
コメントありがとうございます。引き続きよろしくどうぞ。
@@J-history 後6本で全部観れます。
楽しんでますよぉぉ🎶
行程の説明は国の拠点から拠点までじゃなく、国の端から次の国の端まで
(スターとの帯方郡からして陸上移動の説明がなく、郡治からではなく帯方郡の南の端の海岸から出発している)
投馬国への20日は帯方郡からの時間での再説明
御笠川から筑後川へは陸上を数十km移動しないと行けないからこれを水行はあり得ない。
1里80mとして呼子付近から伊都GC付近までが500里(40km)この先のが伊都国
ここから100里(8km)で糸島峠で、福岡市早良区等が奴国
更に100里(8km)で小笠木峠、この先の那珂川市方面が不弥国です。
コメントありがとうございます。
以前にも言いましたが、一里が70m、千里が70km程度と言うのは釜山〜対馬〜壱岐〜松浦半島の何処か、を現代の地図でそれぞれ、約90km、70km、50km(末盧国が唐津市の場合)となるのを平均して一里が70mとしているのだと思います。
しかしながら、それはあくまでも地図を目にしている現代人の視点に過ぎません。
地図と言うものは地動説から始まって、正確な地球の一周の測定や、測量、そして正確な時計による南中時間の差を経度に換算する事や、地球の公転軌道の計算、自転速度の計算、人工衛星などなど人類の叡智の結晶なのです。
それを基準にして考えてはいけません。
ですので、90kmも70kmも50kmも全て千里と考えるべきなのです。
つまり、千里を平均値の70kmと断定するべきではありません。
千里とはおおよそ50km〜90kmの事だとそのまま記述通りに考えるべきです。
「平均を取らなくちゃ!」などと現代人の視点を持ち込んではいけません。
すると、百里とはおおよそ5km〜9kmくらいであり、百五十里以内までを可能性と考えるなら、二百里は三百里以内までを可能性として考えるべきなのです。
すなわち、倭人伝どおりなら、二百里とは、おおよそ10km〜27km以内と考えるべきでしょう。 百里を平均値7kmと断定してはいけません。
すると、不弥国とは宇美町の事である、とよく分かります。
コメントありがとうございます。
魏志倭人伝の中から1里と求めようとすると、用いることのできる数値は対馬海峡の合計3000里ぐらいしかありません(上陸後は各国の位置が確定されていないからです)。
しかし、韓伝の4000里四方という記述から、朝鮮半島の東西の距離が4000里という数値を用いることができます。
すると、この2つのサンプルから、大まかにではありますが、1里70メートルあたりに帰着するのではないかと思っています。
@@J-history
なるほど、韓伝ですか。
そこは視点になかったです。
ですが、末盧国とはどこなのか?
はミステリーだと思います。
私は呼子の近くの今津湾入り口だろうと思います。 波浪の高い玄界灘を漕ぎ渡って、波静かな今津湾に入ったところで、休息を取ったのでしょう。
陸路ではそこから東南に海岸沿いに行ってそれから川を渡って山越えをするので富士の樹海のようなジャングルを超えてゆくから方角は東南以外、わからないから東南五百里と書いたのでしょう。
@@風野小太郎-o6h
私は日本最古の水稲耕作遺跡といわれる菜畑遺跡付近の浜に上陸したと思っていますが、呼子説は根強いですね。
「草木が茂って前を行く人が見えない道」については、一般的に末盧国から伊都国への道中の様子と考えられる方が多いですが、これは明らかに末盧国内に関する記述です。私は、調査隊が末盧国内を踏査したときの様子だと考えています。
当時は、今より人々が山に依存して生活していた(頻繁に山に入っていた)と思いますから、末盧国から伊都国への山道はあったのだと思います(証拠はありませんが)。
@@J-history
呼子周辺上陸説はご都合主義と批判もあるでしょうが、もうすぐ目的地の伊都国に着くと言うのにわざわざ唐津市に寄り道して停泊、上陸する理由が見当たらないからです。
また陸路を行ったに、対する批判点は国賓である魏使にジャングルの難儀な山越えを強いらなくても船ですぐ目の前にある伊都国に行く方が近道かつ快適かつ短時間ですからね。
なので末盧国とは広く松浦半島の何処かである、と考えると、その中でわざわざ停泊、上陸する価値があるところとなると、波浪の高い玄界灘を渡り越えた直後の休憩地と考えるのが合理的でしょう。 すなわち、今津湾の入り口付近の停泊適地です。
そこからは伊都国までは地図上は東ですが、当時は現代のような地図は無かったのだし、陸路だと東南に伸びる海岸沿いに行く、と言う地理的な視点から東南陸行五百里と言う記述となったと思われます。
なお、現在の唐津市の市街地は大部分は当時海の底だったと考えられるので、今ほどは平地が大きくなかったと思われます。
つまり、末盧国(松浦半島周辺)の中心地としても重みは今ほどではなかったと思われます。
まぁ、これも推測ですけどね。
そして、休息上陸した後、魏使はまた船に乗ってまっすぐ伊都国に向かったのだと思います。
@@風野小太郎-o6h
末盧国は居住可能地域が狭かったと思われますから、さほど重要な国ではなかったかもしれません。しかし、位置的には重要地点であったと思います。
唐津湾入り口の山頂付近に湊中野遺跡という狼煙(のろし)を上げていた遺跡があります。そこからは唐津湾内だけでなく壱岐島や糸島方面も見渡せるようです。
対馬海峡を渡ってくる船をいち早く見つけ、監視する役割を担っていたと考えられます。
梯儁一行に随行していた(と私が考える)倭地調査隊は、唐津湾に上陸した後、船から見えたその湊中野遺跡に登ったのだと思っています。もちろん、倭地を地理的に概観するためにです。
不弥国は、御笠川と宝満川の連絡拠点である筑紫コリドー(太宰府エリア)にあったと思います。
そして、魏書の邪馬台国までの行程は、不弥国から宝満川を南に水行したと考えますし、自然だと思います。
邪馬台国までの行程は不弥国までが里数記述であり、
倭人は里数を知らない可能性が高いので、
そこまで魏国の使者が来た
当面の目的地だと思います。
太宰府羅城の建造に関わる為。
版築による羅城の壁の築年は
西暦240年± の鑑定結果もあり、
対狗奴国の、台与ら邪馬台国連合首脳部と、
張政ら魏の軍事顧問団の
大本営かつ、詰の城の大要塞だったのではと考えています。
コメントありがとうございます。
そういう鑑定結果があるのですね。初めて聞きました。
当時そのような土木技術があったとすれば、このチャンネルとしては、その時期に御笠川と宝満川をつなぐ運河が築かれていたと考えたいです。
引き続きよろしくお願いします。
羅城の壁は何層かに成っており、
工事毎に、版築工法で積み上げて行ったようです。
水城の、基層の植物片を調べるとA.D.240年± と出たのもあるようです。
羅城の反対側の宝満川近くの前畑遺跡でも、そうだったかもしれません。
詳しい事は述べられませんが、
調べるとすぐ情報は出てくると思います。
お手数かけさせ心苦しいですが。
@@あいう工夫 ご返信ありがとうございます。
なぜ水城を築いたのかが気になるところです。
土塁と水濠がセットであれば、水濠の両側に土塁があれば、まさに両側から船を曳いていく運河の出来上がりとイメージできます。
私の、個人的な想像では、、、
邪馬台国連合も一枚岩ではなく、
呉越同舟なところがあったのかな?
と考えています。
邪馬台国までの行程で言うと、
松浦半島→怡土郡→日向峠→奴国の墓陵地帯→都府楼あたりに到着。(不弥国?)
或いは怡土郡から→糸島峠→都府楼あたりに到着。(不弥国?)
これは、古代の物部氏の拠点が有った所を沿ったルートではないかと考えています。
不弥国の後の南に水行で向かう筑後川河口デルタも。
伊都国の官、爾支(ニキ・ニギ)は、
ニニギかニギハヤヒではと考えています。
そして、伊都国の一大率の警察権・検察権と持衰の祭祀なり宗教的なマージは、
後の大和朝廷での物部氏の役割そのものに見え、
邪馬台国時代、既にそのようなプロトタイプが有った事を示唆している様に思えます。
伊都国も海人族の國の首長でしょうが、邪馬台国までのルートを見ると、博多湾沿岸勢力の阿曇氏・住吉系と、北方の宗像氏もでしょうか?
それらとの接触を避けているというか、関わらせない様にしているようにも見えます。
それは狗奴国と関係が有ると考えています。
狗奴国は熊本平野以南と仮定すると、
九州北部より狗奴国である熊本平野は鉄資源の出土で凌駕しています。
阿蘇近辺から鉄が取れるという主張もありますが、
私は、ほぼ朝鮮半島産の物だと考えています。
つまり、海人族がより条件の良い、
狗奴国と鉄をより多く取引していたのではと考えます。
鉄は武器・戦略物資でもあり、ある意味「死の商人」なら、当然そうするでしょうし。
ただ、狗奴国自身にある程度の海上優勢がなければ、妨害されるだけなので天草下島・長崎沖・五島列島近くまでの海上優勢が有ったのではと。
そうすると、当然本拠地に近い有明海も狗奴国の海上優勢の範囲は大きいと思います。
それが、邪馬台国までの行程で海路で直接、邪馬台国と投馬国に行けない理由で、
何をするか判らないがウヨウヨいる博多湾沿岸やその北部の海人族のテリトリーを避け、
奴国を最短距離で切り抜けたい訳なのかなと想像する事があります。
実際、倭国大乱では奴国が筑紫コリドーを越えてほとんど無差別に人間を殺めている様ですし。
卑弥呼死去時の混乱でもやらかしているのではと。
なので、油断ならない福岡平野側にも壁は造りたくなるのでは?
と思いました。
長文となり、失礼しました。
@@あいう工夫 詳細なご返信をありがとうございます。
このチャンネルでは狗奴国域を九州山地の南と考えていますから、そこが大きく異なると思います。狗奴国は現在通説となっているように強力な国でもなかった可能性もありますし、よく根拠として挙げられる鉄鏃についても女王国内のものと考えてよいと思っています。
女王国誕生前の倭国乱や、卑弥呼没後の内乱時に使用されたとか、です。
もちろん、熊本平野には強力な勢力がいたと考えています。それが邪馬台国です。
あと、女王国というのは100年ほどだけ存在した連合体だと想定できますので、基本的に九州は福岡平野、筑紫平野、熊本平野の勢力が独立して存在していたようなイメージをもっています。
3世紀の稲作が南九州で可能であったかは今の環境と違ってわからないし海面も1.5メートル上昇していたようだし火山活動が少なく火山灰の影響が少なく台地が平野だったことを考慮すると米作適地だったと考えられる 鉄は交易で手に入るし(朝鮮半島の鉄、淡路島で大規模な製作所発見)特産品でなく 倭国全体の交易品を朝貢したとしても不思議ではないし コジェ島から残り5000里がどこなのかが重要とおもいます 地理的に日田しか特定できず 問題の全容解明が可能なのです
コメントありがとうございます。
「魏志倭人伝に書かれているクニの行程・規模は今の私たちの感覚では受け入れがたいほどショボイ。それを体感しないと、この文書を理解することはできない」というのが、福岡に住む者からのアドバイスです。そして、その感覚で評価させていただくと、この説は私の正解のイメージとかなり近いです。私は単純に不弥国は春日市あたりと考えてましたけれど、そこは大差ないです。奴国は室見川流域の舌状台地(つまり吉武高木遺跡付近)と考えてよいのではないかと思います。 この時代のクニは川と平地と台地が必要なんですよ。それだけで一つのクニなんですよ。
コメントありがとうございます。
福岡にお住まいとのことですが、現在と比べるとショボイかもしれませんが、比恵・那珂遺跡群とかそれにつながる西新町遺跡とか、福岡は当時の最先端地域だったと思います。女王国全体として最先端を共有できればよいわけで、必ずしも邪馬台国が最先端の窓口の国でなくてもよかったのではと思います。今後ともよろしくお願いします。
末盧国を上陸の入り口にしたことは倭人の通訳をそこで船に乗せたとか?帯方郡使側に事情があったのかもしれませんね。ただ、弥生時代には「伊都国」はまだ糸島平野になく
出来たのは古墳時代と聞きましたので「魏志倭人伝」に言う「伊都国」は「大宰府」当たりを指したのかもしれません。郡使たちが実際に訪問したのは「伊都国」と「不彌国」で(魏志倭人伝に「行」という文字が書かれているのはこの2国だけ)他の国へは行っていないと思います。私は「不彌国」は確定したところが薄く色々と説があるようで博多湾近くの交通の要所ではないか
と考えていましたが邪馬台国や投馬国に海路を取るのか陸路の河川を利用して行くのかわかりかねています。中国の「唐六典」によりますと1日の歩行距離は50里、水路だと100里と定めているようですので「邪馬台国」まで行くとなると水路だと10日で1000里=120㎞ 陸路1月=1500里=120㎞ 両方使うとすれば 合計240㎞先にあります。
私は「邪馬台国」=「宮崎県の宮崎市」ではないかと思いますが、どうぞ頭脳明晰であられると信頼しておりますのでよろしくお願いします。
コメントありがとうございます。
太宰府辺りから代々の王墓と思われる墓が明日にでも発見される可能性はありますが、現状では伊都国は糸島市というのはなかなか覆すことの難しい定説だと思っています。
唐六典については後世の目安なのでなんとも言えません。
宮崎説の方はけっこう多いですね。魅力的な地域ではあると思います。
宇美町に海はないので伊都国糸島から疑わないとならない 唐津柏崎から南に1万4千歩東に4万8千歩歩くと吉野ケ里斜め短里500里5万歩となる38キロ 魏使は向かわずそこから同じく東南100里短里7.6キロ久留米奴国筑後川を遡上し東行長里100里43.4キロ日田不彌国につく馬韓にもあり長里をとるのです南に陸行可能 吉野ヶ里は昔縄文海進で津があり南に海里100里水行可能なのです仮説
コメントありがとうございます。
吉野ヶ里最初の100里を短理76メートルで7.6キロ久留米次の100里は長里は434メートルで43.4キロ日田です 自説で失礼しました
コメントありがとうございます。