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邪馬国(やばこく)は、大分県中津市耶馬溪町(やばけいまち)で、巴利国(はりこく)は、福岡県朝倉市杷木町(はきまち)で、支惟国(きいこく)は、佐賀県三養基郡基山町基肄(きい)だと思います。
北九州ならさぁー 日食みれないよ。どう?考えますか?
8世紀までに起きた九州の大噴火と古史古伝の関係を長年研究している先生がいます。卑弥呼の日食も天の岩戸隠れや黄泉の国等の神話も噴火の影響で実際に起きたことだと解説していました。
商業立国Chinaの支配対象は国(塀で囲まれた町市場)と流通網、漢代には流通網は北九州まで拡大、支配地域の把握は重要なので記録に残しているのでしょう。
これで確定やろ
めちゃくちゃ面白い話でした。しかし話の節々にペチャって。実は私も娘に指摘された事がある。😂
正しい。なぜ京都奈良方面にしたい勢力がいるのかが謎。
日本の歴史を古事記や日本書紀で書いてある通り2600年としたいからでしょう。日本書紀では神武東征はBC600年となってます。もっとも日本書紀の作者は邪馬台国の事は知っていたようで、神功皇后を卑弥呼になぞらえた記述があるそうです。漢魏晋が楽浪郡や帯方郡をおいて支配していた頃、神功皇后が高句麗との戦いを鼓舞していた事になり、おかしな点もあるが愚民にはわからないだろうと、作者に誰かが指示したんだと思います。
たぶん金儲けでしょう。一般大衆の知的好奇心に火をつけて何時までも引っ張れる。以前、常駐してた掲示板にも邪馬台国に振り回される者が現れてました。それは三國志厨と並びバカにされてましたよ。
学会でそう決まっているからです。
関西人のチンケなプライドでしょどう考えても九州なのにな
奈良の考古学学会は「鹿を指して馬と」全教授が言うように決まったようです。
非常に合理的だと思う。神社の一番古いのも宮崎あたりにあると聞いたこともあるし、東の海を渡って千里にも皆倭人の国があるというのも説明が成り立つ。 狗奴国の位置も一致するし、女王国の北側に伊都国の位置も一致する。帯方郡からの距離1万2千里も一致する。しかもこれ狗邪韓国まで七千余里といっている。 水行十日、陸行一月は恐らく、出発した帯方郡からという事がば省略していて、総行程で水行10日も最初は船で移動して、九州北部に上陸して1か月もあれば行けますという意味なら十分成り立つ。 非常に自然だ。
なぜ九州説の人は畿内説を解く人を「頭がおかしい」と言い、畿内説の人は九州説の人を「頭がおかしい」と言ってしまうのか。第三者から見れはどちらも一理あって頭がおかしいとは思えない。その一点だけでも真実を見抜く力が欠如しているのでは、と思ってしまう。
卑弥呼は大陸の人の当て字だから本当は日巫女で日の巫女→太陽の巫女→天照大御神が卑弥呼で高千穂辺りに邪馬台国があった気がします
完全確定ですね!と思います。
邪馬台国の北方の国々を紹介しているくだりで、姐奴国(佐賀市)や対蘇国(鳥栖市)等があるのに、筑紫平野の中心的ポジションである久留米市付近にあたる国の紹介がないのは不思議ですね。
状況証拠を並べてまくっても邪馬台国が九州か畿内かは答えでない邪馬台国の存在していた時期とヤマト王権が確立する時期が同時期だから悩ましい邪馬台国とヤマト王権は同時期に両方とも有ったと私は想像してます
エジプト(古代イスラエル・シュメール)説 は?メソポタミア・エラム地域には、ヤマトバル などの地名が残っている。ヤマトバル とは 日本の南部方言で、 ヤマトの原。
邪馬台国、魏志倭人伝を誤記なしで地名を中国語(古代中国語も含めて)発音で読めば、大分になりますが?理由は下記です。道案内の基本は、距離と方角を言い、そのあと、そこまでの行程でかかる時間を言います。よって不彌國到着で終わりであり、何日かかるは帯方郡からの行程です。また、魏志は中国の書物であり、国名を日本語漢字読みではなく中国語発音で読むはずです。末盧國をマツラなどと絶対読みません。ムリュに近い音になります。詳細を記述したホームページはRUclipsでは載せれないので「5チャンネル 大分に邪馬台国があったらしいけど」の7番に乗せてあります。
みやま市から山鹿市にかけての山門郡で決まり
字幕つけてほしいです。
山鹿のご出身ですか、山鹿鉄道に乗ったことがありますよ。距離をどうやって測ったかを考えると、また見方が変わると思います。海峡は簡単に測れないし、12000里には三平方定理に基づくようなので、方向と距離が含まれています。221119
一時期、一寸千里法説に傾いていましたが変わってきました。海峡は簡単に測れないとおっしゃいますが、地元民でその航路を日常的に使っている人なら概算でわかるのではないでしょうか。九百五十里でもなく千百十六里でもなく千余里ですよ。これは測量で出した数字と考えますか?
@@kenn8438 返信感謝です。12000里や7000里も地元民の概算でしょうか。測量時の三平方定理の計算で割算の余りが出るので、余里で端数処理したものです。つまり、真面目に測量をしたということです。中国人の好きな、フレーズの千里や一萬里などとは区別できます。 一寸千里法の読取精度は、影ボケなので良くて100里、普通なら200里か250里程度でしょう、つまり100里、桁によっては1000里以下はないのです。倭人伝の里数は短里を76mとすると、ほぼ全てが実距離と合致します。これは偶然でしょうか。短里もgooglなしで、80:16から175里を1000里(76m)にしたことが、数学的に算出できます。230110
@@wajin5695 12000里はおそらく文献上の7000里と5000里の単純な合計です。測量して得られた数字ではありません。では7000里はどうやって得られた数字か?地元民の概算です。根拠は単純に短里で出されているからです。これは馬韓で先祖代々伝わってきた里数ととある理由から導き出しています。そして7000里の起点と終点が通説と私の説は違います。通説では狗邪韓国まで7000里と読解されていますがその訳が間違いです。これは半島西部と南部を海岸沿いに水行して半島から離岸して対海国へ向かった地点までの距離。半島南部で生活している人々が方四千里から概算で出した数字です。自分たちが生活している土地が常に見えている状態の航行です。見当はずれの数字ではないと思います。ちなみにWAJINさんは7000里は帯方郡から狗邪韓国までの距離とお思いですか?直線距離ですか?それとも水行している郡使が半島南西部でわざわざ船を下りてその地点で測量し道のりを測った距離でしょうか?次に1000里が実距離と合致するとありますが、どの点とどの点ですか?狗邪韓国から対海国へは渡れない、対海国は島も二つありどこに点を取るかで距離は大いに変わってきます。短里を76mとして千倍した直線を地図の上においてここが起点ここが終点という逆の論理からの答えではないでしょうか。また魏の使者は釜山を出発したなら海流の関係で出雲に着いたと思われますが、なぜ上陸した場所で魏の役人は測量しなかったのでしょう?大きな海を渡って距離が不明なら真っ先に出すべき里数だと思いませんか?魏志倭人伝なら魏の測量値は漏らさず載せてしかるべきです。
邪馬台国なら俺んちにあるよ
倭人伝よりも古い魏略では「女国」との表記なので..おそらく, 女wordをも含む八女、久留米(操女)や甘木(女城)の筑後川下中流あたりかと思います。ただ個人的には, 度重なる菊地彦との戦争で脊振山以北の安全で肥沃な筑紫の前原に移ったと考えますが。
九州説推しだとしても距離や方角をかなり歪曲してるように思う。魏志倭人伝を信じないと何も始まらない。末ろ国から東南500里で伊都国(熊本県辺り)そこからまた東南100里で奴国…これだと奴国は宮崎県北部になる。なんで奴国が博多湾にあるのか?
魏志倭人伝は正確です。「邪馬台国」は魏志倭人伝の中だけ?にしか出てきません。それなのに魏志倭人伝を信じない畿内論者が邪馬台国を使いたがる。大笑いです。
陳寿は正確だとおっしゃいますが、三国志を書く場合に彼が参考にした王沈や傅玄が作成した資料の信憑性についてはどうお考えでしょうか?
@ken N さん私とほぼ同じ考え方だったと記憶しています。王沈、傳玄については不勉強ですが、魏志倭人伝がパッチワークだとは知っています。それを統合編集した陳寿の面白いほどの正確さに只々感嘆しています。
@@yoshitome6648 まず前提として、yoshito meさんの卑弥呼は伊都国にいたという結論は正しいと思います。また倭人伝がパッチワークとの理解も一般的な理解の遥か上を行きます。ただそのパッチワーク編纂は陳寿は少量でその前の段階の王沈責任編纂の「魏書」の時点であらかた完成していたように思います。売っている本のほとんどが三国志は陳寿が書いたとありますがそんな一言では収まらない感じですね。
@@kenn8438 さん陳寿は最後の編集で矛盾の無い数字合わせをしたのです。私は皆さんに魏志倭人伝の答えのヒントを、只々拡散しているのです。陳寿は正確です。
@@yoshitome6648 そうですか、自分の研究だと陳寿は「魏書」や軍使の報告書を見て倭国の現状について誤解して余計なパッチワークをしたために倭人伝が不可解な文章になり、その結果後世の日本人が邪馬台国論争をしてしまっているとの見解です。ともあれ卑弥呼がいたのは伊都国説はこれからも拡散お願いします。
もう、邪馬台国論とかいいのでは?キリがないし。
もうただのエンターテインメントです。あたたかく見守ってやって下さい。
お、も、し、ろ、い。やないか。(笑) シュリーマンの例もあるし、誰か山門郡を発掘してみれば頼むデー。
邪馬台国は日高見国のことで、常陸の国。てか元動画が見つからん。
じゃあ箸墓古墳が卑弥呼のお墓説は間違んでしょうか?昔、ぼぼ確定みたいな事聞いたけど素人はいつも惑わされちゃうなぁ文献を裏付けするような考古学的出土品の発見が待たれますね。
卑弥呼の墓は「生口100人を・・」とあります。後に人間の代わりに埋葬したのが埴輪なので箸墓古墳から埴輪が出ている時点でアウトです。
うーんそこまで言われたら四国説は違うんかなぁ。
自分は倭国大乱で首都が北九州から四国へ移ったと考えています。魏志倭人伝に描写されているのは四国でしょう。辰砂、牛馬なしが根拠です。水行を河を遡ったと解釈するのも無理があります。外国勢力が近い場所に首都を置けなくなったのでしょう。
魏志倭人伝は、全て信用して読むべきです。この前提を崩した場合は、邪馬台国の位置は、全て現代人の感覚に基づいた推測に過ぎない事になってしまいます。この事を前提にして、魏志倭人伝を読んだ場合、最も重要な記述は、末羅国と、伊都国の位置関係です。現代の地図では、その方角関係は、末羅国から見て、伊都国は、北北東約20度にあります。しかし、魏志倭人伝では、南東となっています。南東というのは、真東より30度から60度、下方向と、なります。すなわち、当時の人の、特に、当時の中国人の倭国内での方向感覚は、最大で、80度程、ずれていた事になります。これに基づいて考えれば、九州は、当時の中国人のイメージでは、最大で、80度、時計方向に回転していたと言う事になります。
んなわけない全ての歴史史料は疑って読むのが前提まして現地人でもない古代中国人が書いたものならなおさら
全て信用までは賛同ですが、一般に、末盧国から伊都国までは出発地点の角度で解決済です。その後の80度?笑んなわけないです。中国の方位は昔から正確です。
@@yoshitome6648 距離だの方角だのと30年以上前の遅れた議論にかまけている九州説を尻目に畿内説は着々と考古学的成果を積み上げているぞ笑
@@KM-ix1so さん笑
@@KM-ix1so さん纏向遺跡を発掘調査された関川尚功氏が「考古学的に纏向は邪馬台国では絶対に有り得ない」と講演されてますが、彼の立ち位置は畿内説論者の間ではどうなんでしょう?考古学的に奈良の鉄鏃は福岡県の百分の一ですがどう解釈されたのでしょう?
邪馬国(やばこく)は、大分県中津市耶馬溪町(やばけいまち)で、巴利国(はりこく)は、福岡県朝倉市杷木町(はきまち)で、支惟国(きいこく)は、佐賀県三養基郡基山町基肄(きい)だと思います。
北九州ならさぁー 日食みれないよ。
どう?考えますか?
8世紀までに起きた九州の大噴火と古史古伝の関係を長年研究している先生がいます。卑弥呼の日食も天の岩戸隠れや黄泉の国等の神話も噴火の影響で実際に起きたことだと解説していました。
商業立国Chinaの支配対象は国(塀で囲まれた町市場)と流通網、漢代には流通網は北九州まで拡大、支配地域の把握は重要なので記録に残しているのでしょう。
これで確定やろ
めちゃくちゃ面白い話でした。しかし話の節々にペチャって。実は私も娘に指摘された事がある。😂
正しい。なぜ京都奈良方面にしたい勢力がいるのかが謎。
日本の歴史を古事記や日本書紀で書いてある通り2600年としたいからでしょう。
日本書紀では神武東征はBC600年となってます。
もっとも日本書紀の作者は邪馬台国の事は知っていたようで、神功皇后を卑弥呼になぞらえた記述があるそうです。漢魏晋が楽浪郡や帯方郡をおいて支配していた頃、神功皇后が高句麗との戦いを鼓舞していた事になり、おかしな点もあるが愚民にはわからないだろうと、作者に誰かが指示したんだと思います。
たぶん金儲けでしょう。一般大衆の知的好奇心に火をつけて何時までも引っ張れる。以前、常駐してた掲示板にも邪馬台国に振り回される者が現れてました。それは三國志厨と並びバカにされてましたよ。
学会でそう決まっているからです。
関西人のチンケなプライドでしょ
どう考えても九州なのにな
奈良の考古学学会は「鹿を指して馬と」
全教授が言うように決まったようです。
非常に合理的だと思う。神社の一番古いのも宮崎あたりにあると聞いたこともあるし、東の海を渡って千里にも皆倭人の国があるというのも説明が成り立つ。 狗奴国の位置も一致するし、女王国の北側に伊都国の位置も一致する。帯方郡からの距離1万2千里も一致する。しかもこれ狗邪韓国まで七千余里といっている。 水行十日、陸行一月は恐らく、出発した帯方郡からという事がば省略していて、総行程で水行10日も最初は船で移動して、九州北部に上陸して1か月もあれば行けますという意味なら十分成り立つ。 非常に自然だ。
なぜ九州説の人は畿内説を解く人を「頭がおかしい」と言い、畿内説の人は九州説の人を「頭がおかしい」と言ってしまうのか。第三者から見れはどちらも一理あって頭がおかしいとは思えない。その一点だけでも真実を見抜く力が欠如しているのでは、と思ってしまう。
卑弥呼は大陸の人の当て字だから
本当は日巫女で日の巫女→太陽の巫女→
天照大御神が卑弥呼で高千穂辺りに邪馬台国があった気がします
完全確定ですね!
と思います。
邪馬台国の北方の国々を紹介しているくだりで、姐奴国(佐賀市)や対蘇国(鳥栖市)等があるのに、筑紫平野の中心的ポジションである久留米市付近にあたる国の紹介がないのは不思議ですね。
状況証拠を並べてまくっても
邪馬台国が九州か畿内かは答えでない
邪馬台国の存在していた時期とヤマト王権が確立する時期が同時期だから悩ましい
邪馬台国とヤマト王権は同時期に両方とも有ったと私は想像してます
エジプト(古代イスラエル・シュメール)説 は?
メソポタミア・エラム地域には、ヤマトバル などの地名が残っている。
ヤマトバル とは 日本の南部方言で、 ヤマトの原。
邪馬台国、魏志倭人伝を誤記なしで地名を中国語(古代中国語も含めて)発音で読めば、大分になりますが?
理由は下記です。
道案内の基本は、距離と方角を言い、そのあと、そこまでの行程でかかる時間を言います。
よって不彌國到着で終わりであり、何日かかるは帯方郡からの行程です。
また、魏志は中国の書物であり、国名を日本語漢字読みではなく中国語発音で読むはずです。
末盧國をマツラなどと絶対読みません。ムリュに近い音になります。
詳細を記述したホームページはRUclipsでは載せれないので
「5チャンネル 大分に邪馬台国があったらしいけど」の7番に乗せてあります。
みやま市から山鹿市にかけての山門郡で決まり
字幕つけてほしいです。
山鹿のご出身ですか、山鹿鉄道に乗ったことがありますよ。距離をどうやって測ったかを考えると、また見方が変わると思います。海峡は簡単に測れないし、12000里には三平方定理に基づくようなので、方向と距離が含まれています。221119
一時期、一寸千里法説に傾いていましたが変わってきました。
海峡は簡単に測れないとおっしゃいますが、地元民でその航路を日常的に使っている人なら概算でわかるのではないでしょうか。九百五十里でもなく千百十六里でもなく千余里ですよ。これは測量で出した数字と考えますか?
@@kenn8438 返信感謝です。12000里や7000里も地元民の概算でしょうか。測量時の三平方定理の計算で割算の余りが出るので、余里で端数処理したものです。つまり、真面目に測量をしたということです。中国人の好きな、フレーズの千里や一萬里などとは区別できます。
一寸千里法の読取精度は、影ボケなので良くて100里、普通なら200里か250里程度でしょう、つまり100里、桁によっては1000里以下はないのです。
倭人伝の里数は短里を76mとすると、ほぼ全てが実距離と合致します。これは偶然でしょうか。
短里もgooglなしで、80:16から175里を1000里(76m)にしたことが、数学的に算出できます。230110
@@wajin5695
12000里はおそらく文献上の7000里と5000里の単純な合計です。測量して得られた数字ではありません。
では7000里はどうやって得られた数字か?地元民の概算です。根拠は単純に短里で出されているからです。これは馬韓で先祖代々伝わってきた里数ととある理由から導き出しています。
そして7000里の起点と終点が通説と私の説は違います。
通説では狗邪韓国まで7000里と読解されていますがその訳が間違いです。これは半島西部と南部を海岸沿いに水行して半島から離岸して対海国へ向かった地点までの距離。半島南部で生活している人々が方四千里から概算で出した数字です。自分たちが生活している土地が常に見えている状態の航行です。見当はずれの数字ではないと思います。
ちなみにWAJINさんは7000里は帯方郡から狗邪韓国までの距離とお思いですか?
直線距離ですか?それとも水行している郡使が半島南西部でわざわざ船を下りてその地点で測量し道のりを測った距離でしょうか?
次に1000里が実距離と合致するとありますが、どの点とどの点ですか?
狗邪韓国から対海国へは渡れない、対海国は島も二つありどこに点を取るかで距離は大いに変わってきます。
短里を76mとして千倍した直線を地図の上においてここが起点ここが終点という逆の論理からの答えではないでしょうか。
また魏の使者は釜山を出発したなら海流の関係で出雲に着いたと思われますが、なぜ上陸した場所で魏の役人は測量しなかったのでしょう?大きな海を渡って距離が不明なら真っ先に出すべき里数だと思いませんか?
魏志倭人伝なら魏の測量値は漏らさず載せてしかるべきです。
邪馬台国なら俺んちにあるよ
倭人伝よりも古い魏略では「女国」との表記なので..
おそらく, 女wordをも含む八女、久留米(操女)や甘木(女城)の筑後川下中流あたりかと思います。
ただ個人的には, 度重なる菊地彦との戦争で脊振山以北の安全で肥沃な筑紫の前原に移ったと考えますが。
九州説推しだとしても距離や方角をかなり歪曲してるように思う。魏志倭人伝を信じないと何も始まらない。末ろ国から東南500里で伊都国(熊本県辺り)そこからまた東南100里で奴国…これだと奴国は宮崎県北部になる。なんで奴国が博多湾にあるのか?
魏志倭人伝は正確です。
「邪馬台国」は魏志倭人伝の中だけ?
にしか出てきません。
それなのに魏志倭人伝を信じない畿内論
者が邪馬台国を使いたがる。
大笑いです。
陳寿は正確だとおっしゃいますが、三国志を書く場合に彼が参考にした王沈や傅玄が作成した資料の信憑性についてはどうお考えでしょうか?
@ken N さん
私とほぼ同じ考え方だったと記憶してい
ます。王沈、傳玄については不勉強です
が、魏志倭人伝がパッチワークだとは知
っています。
それを統合編集した陳寿の面白いほどの
正確さに只々感嘆しています。
@@yoshitome6648
まず前提として、yoshito meさんの卑弥呼は伊都国にいたという結論は正しいと思います。また倭人伝がパッチワークとの理解も一般的な理解の遥か上を行きます。ただそのパッチワーク編纂は陳寿は少量でその前の段階の王沈責任編纂の「魏書」の時点であらかた完成していたように思います。売っている本のほとんどが三国志は陳寿が書いたとありますがそんな一言では収まらない感じですね。
@@kenn8438 さん
陳寿は最後の編集で矛盾の無い数字合わ
せをしたのです。
私は皆さんに魏志倭人伝の答えのヒント
を、只々拡散しているのです。
陳寿は正確です。
@@yoshitome6648
そうですか、自分の研究だと陳寿は「魏書」や軍使の報告書を見て倭国の現状について誤解して余計なパッチワークをしたために倭人伝が不可解な文章になり、その結果後世の日本人が邪馬台国論争をしてしまっているとの見解です。
ともあれ卑弥呼がいたのは伊都国説はこれからも拡散お願いします。
もう、邪馬台国論とかいいのでは?
キリがないし。
もうただのエンターテインメントです。あたたかく見守ってやって下さい。
お、も、し、ろ、い。やないか。(笑) シュリーマンの例もあるし、誰か山門郡を発掘してみれば頼むデー。
邪馬台国は日高見国のことで、常陸の国。てか元動画が見つからん。
じゃあ箸墓古墳が卑弥呼のお墓説は間違んでしょうか?昔、ぼぼ確定みたいな事聞いたけど
素人はいつも惑わされちゃうなぁ
文献を裏付けするような考古学的出土品の発見が待たれますね。
卑弥呼の墓は「生口100人を・・」とあります。後に人間の代わりに埋葬したのが埴輪なので箸墓古墳から埴輪が出ている時点でアウトです。
うーんそこまで言われたら四国説は違うんかなぁ。
自分は倭国大乱で首都が北九州から四国へ移ったと考えています。
魏志倭人伝に描写されているのは四国でしょう。辰砂、牛馬なしが根拠です。
水行を河を遡ったと解釈するのも無理があります。外国勢力が近い場所に首都を置けなくなったのでしょう。
魏志倭人伝は、全て信用して読むべきです。この前提を崩した場合は、邪馬台国の位置は、全て現代人の感覚に基づいた推測に過ぎない事になってしまいます。この事を前提にして、魏志倭人伝を読んだ場合、最も重要な記述は、末羅国と、伊都国の位置関係です。現代の地図では、その方角関係は、末羅国から見て、伊都国は、北北東約20度にあります。しかし、魏志倭人伝では、南東となっています。南東というのは、真東より30度から60度、下方向と、なります。すなわち、当時の人の、特に、当時の中国人の倭国内での方向感覚は、最大で、80度程、ずれていた事になります。これに基づいて考えれば、九州は、当時の中国人のイメージでは、最大で、80度、時計方向に回転していたと言う事になります。
んなわけない
全ての歴史史料は疑って読むのが前提
まして現地人でもない古代中国人が書いたものならなおさら
全て信用までは賛同ですが、一般に、
末盧国から伊都国までは出発地点の角度
で解決済です。
その後の80度?笑
んなわけないです。
中国の方位は昔から正確です。
@@yoshitome6648
距離だの方角だのと30年以上前の遅れた議論にかまけている九州説を尻目に畿内説は着々と考古学的成果を積み上げているぞ笑
@@KM-ix1so さん
笑
@@KM-ix1so さん
纏向遺跡を発掘調査された関川尚功氏が
「考古学的に纏向は邪馬台国では絶対に
有り得ない」と講演されてますが、彼の
立ち位置は畿内説論者の間ではどうなん
でしょう?
考古学的に奈良の鉄鏃は福岡県の百分の
一ですがどう解釈されたのでしょう?