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重箱の隅を突っつくような、あら探しのコメばかり…「画像が間違いだ」と言ったって、コンピューター加工で苦労して つなぎ合わせて “それなりに” 再現してあるんだから雰囲気が感じ取れればそれで十分優秀なレベルだよ。
スマホを動かすと360°観られてとても楽しい。広いのですねー、迷子になりますよね、これでは。間違えると恥をかくし大名も大変だったですよね。
素晴らしい!
知らなかった、こんな感じだったんだ。ありがとうございました。
時代小説で、白書院の濡縁で剣術の上覧試合をしている場面があり、文章だけでは情景を想像できないので拝見しました。非常に分かりやすく、参考になりました。
皇居東御苑には何度も足を運んでますが凄い御殿だったんだと改めて😳次に行った時はこの動画を見ながら散策したい😊将軍になったつもりで(笑)
イベントでも実際行ったんですけどすごく迫力あったし、すごく素敵だったんですけどRUclipsでも見れるなんて感激です😭😭😭
コメントありがとうございますしかもお越しくださったんですね?重ねてお礼申し上げます第二弾も近日企画できればと思います引き続き応援宜しくお願いします
凄いなー!周りとか色々見れてビックリしました🤩
江戸城内部の想像図なんて初めて見ました。とても興味深いです。各部屋がどのような位置関係にあったのか、見取り図を加えて頂けると嬉しいです。
いやいや、こりゃいい動画にたどり着いた!
江戸城を訪ねる、素敵な旅を楽しませていただきました。
江戸城の雰囲気が感じられてとても素敵な動画でした!昨日(2024年9月15日)行ってきたんです。こういう風になってたんだな~って、もう現存しないものを感じる事が出来て、とても楽しかったです。ありがとうございました!!
いいですねえこういうの、もっと色々例えば関東大震災で倒壊した浅草の十二階(凌雲閣)とかの内部の映像とかどんなだったか見てみたいですね。
すごーい!こんな動画初めてみた
面白い♪
名古屋城御殿と同様にここまで繊細に本丸御殿の内部が分かっているのに木造復元しないのは勿体無いです。
火災で失うたびにすぐに建て直されて、それだけ職人がいたんだよな…三の丸大手門とか外桜田門から本丸へのCGを見たい!大名の気分で登城を…
江戸城は御殿と言うものが無くなっているため名古屋城に来て煌びやかさを見に来てちょ~
図面や障壁画の下絵など残っているので、ある程度は再現できるんですよね。
再建して欲しい😢😢😢
戦国時代の長禄元年(1457年)、相模国守護扇谷、上杉氏の重臣、太田道灌が江戸に城を築きました。以後、江戸は関東における政治的拠点として発展します。江戸時代に入り、城は戦いの場から政治の舞台、権力の象徴となり、取り分け江戸城は、徳川将軍家の城として、また当時の大都市、江戸のシンボルとして、比類なき地位を築きました。屏風絵、絵巻物、金箔瓦、建築図面、古文書、大型模型などを参照にして江戸城の姿を多角的に検証するとともに、焼失した「幻の天守閣」を述べます。徳川幕府3代将軍・家光には、厚い信頼を寄せた異母弟がいた。会津初代藩主、保科正之です。正之は土津公と領民に慕われ、若松城(鶴ヶ城)内の「土津神社」には今でも多くの参拝者が訪れます。保科正之は、徳川2代将軍・秀忠の子供です。しかし、秀忠の正室・お江与の嫉妬を避ける為に、その存在は隠され武田信玄の娘である見性院に預けられ、7歳で高遠藩主保科氏の養子となります。高遠氏の重臣であった保科氏は主家の没落後、武田信玄、武田勝頼、徳川家康に仕えていたが、慶長5(1600)年に高遠城を与えられて帰還、武田氏家臣の娘を母に、真田昌幸の娘を妻に持つ正光公が初代藩主となったのです。幸松丸が、後の正之はこの正光公の養子となったのです。寛永8(1631)年、21歳の正之公は高遠藩主となります。寛永11(1634)年に家光上洛に伴って異例の侍従昇進を果たした頃には、正之の出自も諸大名の知るところとなっておりました。その5年後の寛永13(1636)年には山形、次いで会津へ移るが、将軍家光からの信頼は常に厚く、幼い4代将軍家綱の補佐を遺言で命じられたほどでした。また、江戸初期に玉川上水の建設を建議するなどその手腕を存分に発揮し、葵紋と松平姓を与えられております。正之自身は憚って使用しなかった訳は、その子供の代からは松平氏を名乗り、徳川一族としての地位を築いていく考えでした。この保科正之が、現在見られる江戸城天守閣の姿と深く関わっております。明暦3(1657)年、江戸の市街地を焼き尽くす大火事が起きたました。明暦の大火です。恋わずらいで若くして亡くなった娘の遺品が出火原因とする伝承から「振袖火事」とも呼ばれる、この大火事は、江戸三大大火の中でも最大級の被害規模とされ、明治以前で我が国最大の火災でした。大火は江戸城を含む江戸の町の大半を焼き尽くし、2日後にようやく鎮火しましたが、犠牲者は3万人とも10万人とも言われます。大火の後、江戸城天守閣再建の声は当然、幕府内で起こりました。天守台のみは規模を縮小して速やかに再建されましたが、それ以上の建設は行わなかったのです。将軍補佐の地位にあった正之が強固に反対したのでした。この状況にあって最優先されるべきは何かと熟慮したのです。正之の提言により、「江戸城下の再建・復興・福祉に多くに資金が投入し、役割を終えた江戸城天守閣は天守台のみと」なったのです。泰平の世において実用的意味の薄い天守閣に代わり、延焼を防ぐ為の施設として広小路を上野に、芝及び浅草には新堀、神田川を拡張、両国橋の橋梁を架橋するなど、都市整備に財源が注ぎ込まれたのです。会津初代藩主・保科正之公が今なお名君の誉れ高い理由の一端がここにも垣間見られます。地方の各省庁官僚、地方より引っ越した都内の人達は変わっても歴史と人物は地域の資源ですね。首都圏直下型地震で関東埋没(元々は砂上の海の底が埋没谷が沢山)する事は否定出来ません。元々は埋め立て以前は海の底です。本所亀沢町8代末孫
この江戸城の障壁画の下絵はいつの時代のものですか?
6:11 松の廊下、最新の情報では襖はなく廊下は真っ暗、明かりがないと歩けない。おそらく、城内は恥でも真っ暗な廊下が広がっていたと言われている。
江戸城天守閣の再建(復元)を願う国民の賛同者の工費寄付はあってもいいと考えます
反対。皇居なのに徳川の城作ってどうする。
いゃ〜♪図面で何度も見てたので、感動しました🥹ありがとうございますm(__)m
良くできていて、樂しませいただきました細かいことですが幾つか氣になる事があつたので申し上げます長押の付け方が變です御殿建築では鴨居は黒眞塗りの付樋端になります襖(場所によつては杉戸も)には鍵錠が付きます
@user-gx8cx4kh9i 樣お讀みいただきありがたうございます
あれだけ何度も火災で焼失してしまったら大工の書き入れ時とはいえ建てるモチベーションがどんどん下がっていきそう、延焼対策も特段取られなかったのも不思議幕末の再建は外国との交渉でそれどころじゃなくほぼ手抜きだったんじゃないのかなと
ナレーションと画像がかなりずれているので修正してもらいたい
住みにくそう、冬とか絶対に寒いやつ
画像編集、見にくい。説明わからない
画像も説明も間違いだらけです。よく検証してください。
ご指摘ありがとうございます検証さらに高めていきます。またもしよろしければ今後もご指南くださいませ
間違って無いよ
ご視聴・メッセージくださりありがとうございます。
せめてどこが間違ってるかぐらい言えよ
戦国時代の長禄元年(1457年)、相模国守護扇谷、上杉氏の重臣、太田道灌が江戸に城を築きました。以後、江戸は関東における政治的拠点として発展します。江戸時代に入り、城は戦いの場から政治の舞台、権力の象徴となり、取り分け江戸城は、徳川将軍家の城として、また当時の大都市、江戸のシンボルとして、比類なき地位を築きました。屏風絵、絵巻物、金箔瓦、建築図面、古文書、大型模型などを参照にして江戸城の姿を多角的に検証するとともに、焼失した「幻の天守閣」を述べます。徳川幕府3代将軍・家光には、厚い信頼を寄せた異母弟がいた。会津初代藩主、保科正之です。正之は土津公と領民に慕われ、若松城(鶴ヶ城)内の「土津神社」には今でも多くの参拝者が訪れます。保科正之は、徳川2代将軍・秀忠の子供です。しかし、秀忠の正室・お江与の嫉妬を避ける為に、その存在は隠され武田信玄の娘である見性院に預けられ、7歳で高遠藩主保科氏の養子となります。高遠氏の重臣であった保科氏は主家の没落後、武田信玄、武田勝頼、徳川家康に仕えていたが、慶長5(1600)年に高遠城を与えられて帰還、武田氏家臣の娘を母に、真田昌幸の娘を妻に持つ正光公が初代藩主となったのです。幸松丸が、後の正之はこの正光公の養子となったのです。寛永8(1631)年、21歳の正之公は高遠藩主となります。寛永11(1634)年に家光上洛に伴って異例の侍従昇進を果たした頃には、正之の出自も諸大名の知るところとなっておりました。その5年後の寛永13(1636)年には山形、次いで会津へ移るが、将軍家光からの信頼は常に厚く、幼い4代将軍家綱の補佐を遺言で命じられたほどでした。また、江戸初期に玉川上水の建設を建議するなどその手腕を存分に発揮し、葵紋と松平姓を与えられております。正之自身は憚って使用しなかった訳は、その子供の代からは松平氏を名乗り、徳川一族としての地位を築いていく考えでした。この保科正之が、現在見られる江戸城天守閣の姿と深く関わっております。明暦3(1657)年、江戸の市街地を焼き尽くす大火事が起きたました。明暦の大火です。恋わずらいで若くして亡くなった娘の遺品が出火原因とする伝承から「振袖火事」とも呼ばれる、この大火事は、江戸三大大火の中でも最大級の被害規模とされ、明治以前で我が国最大の火災でした。大火は江戸城を含む江戸の町の大半を焼き尽くし、2日後にようやく鎮火しましたが、犠牲者は3万人とも10万人とも言われます。大火の後、江戸城天守閣再建の声は当然、幕府内で起こりました。天守台のみは規模を縮小して速やかに再建されましたが、それ以上の建設は行わなかったのです。将軍補佐の地位にあった正之が強固に反対したのでした。この状況にあって最優先されるべきは何かと熟慮したのです。正之の提言により、「江戸城下の再建・復興・福祉に多くに資金が投入し、役割を終えた江戸城天守閣は天守台のみと」なったのです。泰平の世において実用的意味の薄い天守閣に代わり、延焼を防ぐ為の施設として広小路を上野に、芝及び浅草には新堀、神田川を拡張、両国橋の橋梁を架橋するなど、都市整備に財源が注ぎ込まれたのです。会津初代藩主・保科正之公が今なお名君の誉れ高い理由の一端がここにも垣間見られます。地方の各省庁官僚、地方より引っ越した都内の人達は変わっても歴史と人物は地域の資源ですね。首都圏直下型地震で関東埋没(元々は砂上の海の底が埋没谷が沢山)する事は否定出来ません。元々は埋め立て以前は海の底です。行き違い等々の切はご容赦下さいませ。本所亀沢町6代末孫
重箱の隅を突っつくような、あら探しのコメばかり…
「画像が間違いだ」と言ったって、コンピューター加工で苦労して つなぎ合わせて “それなりに” 再現してあるんだから
雰囲気が感じ取れればそれで十分優秀なレベルだよ。
スマホを動かすと360°観られてとても楽しい。広いのですねー、迷子になりますよね、これでは。
間違えると恥をかくし大名も大変だったですよね。
素晴らしい!
知らなかった、こんな感じだったんだ。
ありがとうございました。
時代小説で、白書院の濡縁で剣術の上覧試合をしている場面があり、文章だけでは情景を想像できないので拝見しました。非常に分かりやすく、参考になりました。
皇居東御苑には何度も足を運んでますが凄い御殿だったんだと改めて😳次に行った時はこの動画を見ながら散策したい😊将軍になったつもりで(笑)
イベントでも実際行ったんですけどすごく迫力あったし、すごく素敵だったんですけどRUclipsでも見れるなんて感激です😭😭😭
コメントありがとうございます
しかもお越しくださったんですね?
重ねてお礼申し上げます
第二弾も近日企画できればと思います
引き続き応援宜しくお願いします
凄いなー!周りとか色々見れてビックリしました🤩
江戸城内部の想像図なんて初めて見ました。とても興味深いです。各部屋がどのような位置関係にあったのか、見取り図を加えて頂けると嬉しいです。
いやいや、こりゃいい動画にたどり着いた!
江戸城を訪ねる、素敵な旅を楽しませていただきました。
江戸城の雰囲気が感じられてとても素敵な動画でした!
昨日(2024年9月15日)行ってきたんです。こういう風になってたんだな~って、もう現存しないものを感じる事が出来て、とても楽しかったです。
ありがとうございました!!
いいですねえこういうの、もっと色々例えば関東大震災で倒壊した浅草の十二階(凌雲閣)とかの内部の映像とか
どんなだったか見てみたいですね。
すごーい!こんな動画初めてみた
面白い♪
名古屋城御殿と同様にここまで繊細に本丸御殿の内部が分かっているのに木造復元しないのは勿体無いです。
火災で失うたびにすぐに建て直されて、それだけ職人がいたんだよな…
三の丸大手門とか外桜田門から本丸へのCGを見たい!大名の気分で登城を…
江戸城は御殿と言うものが無くなっているため名古屋城に来て煌びやかさを見に来てちょ~
図面や障壁画の下絵など残っているので、ある程度は再現できるんですよね。
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戦国時代の長禄元年(1457年)、相模国守護扇谷、上杉氏の重臣、太田道灌が江戸に城を築きました。以後、江戸は関東における政治的拠点として発展します。江戸時代に入り、城は戦いの場から政治の舞台、権力の象徴となり、取り分け江戸城は、徳川将軍家の城として、また当時の大都市、江戸のシンボルとして、比類なき地位を築きました。屏風絵、絵巻物、金箔瓦、建築図面、古文書、大型模型などを参照にして江戸城の姿を多角的に検証するとともに、焼失した「幻の天守閣」を述べます。
徳川幕府3代将軍・家光には、厚い信頼を寄せた異母弟がいた。会津初代藩主、保科正之です。正之は土津公と領民に慕われ、若松城(鶴ヶ城)内の「土津神社」には今でも多くの参拝者が訪れます。保科正之は、徳川2代将軍・秀忠の子供です。しかし、秀忠の正室・お江与の嫉妬を避ける為に、その存在は隠され武田信玄の娘である見性院に預けられ、7歳で高遠藩主保科氏の養子となります。高遠氏の重臣であった保科氏は主家の没落後、武田信玄、武田勝頼、徳川家康に仕えていたが、慶長5(1600)年に高遠城を与えられて帰還、武田氏家臣の娘を母に、真田昌幸の娘を妻に持つ正光公が初代藩主となったのです。幸松丸が、後の正之はこの正光公の養子となったのです。寛永8(1631)年、21歳の正之公は高遠藩主となります。寛永11(1634)年に家光上洛に伴って異例の侍従昇進を果たした頃には、正之の出自も諸大名の知るところとなっておりました。その5年後の寛永13(1636)年には山形、次いで会津へ移るが、将軍家光からの信頼は常に厚く、幼い4代将軍家綱の補佐を遺言で命じられたほどでした。
また、江戸初期に玉川上水の建設を建議するなどその手腕を存分に発揮し、葵紋と松平姓を与えられております。正之自身は憚って使用しなかった訳は、その子供の代からは松平氏を名乗り、徳川一族としての地位を築いていく考えでした。この保科正之が、現在見られる江戸城天守閣の姿と深く関わっております。
明暦3(1657)年、江戸の市街地を焼き尽くす大火事が起きたました。明暦の大火です。恋わずらいで若くして亡くなった娘の遺品が出火原因とする伝承から「振袖火事」とも呼ばれる、この大火事は、江戸三大大火の中でも最大級の被害規模とされ、明治以前で我が国最大の火災でした。大火は江戸城を含む江戸の町の大半を焼き尽くし、2日後にようやく鎮火しましたが、犠牲者は3万人とも10万人とも言われます。大火の後、江戸城天守閣再建の声は当然、幕府内で起こりました。天守台のみは規模を縮小して速やかに再建されましたが、それ以上の建設は行わなかったのです。
将軍補佐の地位にあった正之が強固に反対したのでした。この状況にあって最優先されるべきは何かと熟慮したのです。
正之の提言により、「江戸城下の再建・復興・福祉に多くに資金が投入し、役割を終えた江戸城天守閣は天守台のみと」なったのです。
泰平の世において実用的意味の薄い天守閣に代わり、延焼を防ぐ為の施設として広小路を上野に、芝及び浅草には新堀、神田川を拡張、両国橋の橋梁を架橋するなど、都市整備に財源が注ぎ込まれたのです。会津初代藩主・保科正之公が今なお名君の誉れ高い理由の一端がここにも垣間見られます。
地方の各省庁官僚、地方より引っ越した都内の人達は変わっても歴史と人物は地域の資源ですね。首都圏直下型地震で関東埋没(元々は砂上の海の底が埋没谷が沢山)する事は否定出来ません。元々は埋め立て以前は海の底です。本所亀沢町8代末孫
この江戸城の障壁画の下絵はいつの時代のものですか?
6:11 松の廊下、最新の情報では襖はなく廊下は真っ暗、明かりがないと歩けない。おそらく、城内は恥でも真っ暗な廊下が広がっていたと言われている。
江戸城天守閣の再建(復元)を願う
国民の賛同者の工費寄付はあってもいいと考えます
反対。皇居なのに徳川の城作ってどうする。
いゃ〜♪
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感動しました🥹
ありがとうございますm(__)m
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御殿建築では鴨居は黒眞塗りの付樋端になります
襖(場所によつては杉戸も)には鍵錠が付きます
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ナレーションと画像がかなりずれているので修正してもらいたい
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画像も説明も間違いだらけです。よく検証してください。
ご指摘ありがとうございます
検証さらに高めていきます。
またもしよろしければ今後もご指南くださいませ
間違って無いよ
ご視聴・メッセージくださりありがとうございます。
せめてどこが間違ってるかぐらい言えよ
戦国時代の長禄元年(1457年)、相模国守護扇谷、上杉氏の重臣、太田道灌が江戸に城を築きました。以後、江戸は関東における政治的拠点として発展します。江戸時代に入り、城は戦いの場から政治の舞台、権力の象徴となり、取り分け江戸城は、徳川将軍家の城として、また当時の大都市、江戸のシンボルとして、比類なき地位を築きました。屏風絵、絵巻物、金箔瓦、建築図面、古文書、大型模型などを参照にして江戸城の姿を多角的に検証するとともに、焼失した「幻の天守閣」を述べます。
徳川幕府3代将軍・家光には、厚い信頼を寄せた異母弟がいた。会津初代藩主、保科正之です。正之は土津公と領民に慕われ、若松城(鶴ヶ城)内の「土津神社」には今でも多くの参拝者が訪れます。保科正之は、徳川2代将軍・秀忠の子供です。しかし、秀忠の正室・お江与の嫉妬を避ける為に、その存在は隠され武田信玄の娘である見性院に預けられ、7歳で高遠藩主保科氏の養子となります。高遠氏の重臣であった保科氏は主家の没落後、武田信玄、武田勝頼、徳川家康に仕えていたが、慶長5(1600)年に高遠城を与えられて帰還、武田氏家臣の娘を母に、真田昌幸の娘を妻に持つ正光公が初代藩主となったのです。幸松丸が、後の正之はこの正光公の養子となったのです。寛永8(1631)年、21歳の正之公は高遠藩主となります。寛永11(1634)年に家光上洛に伴って異例の侍従昇進を果たした頃には、正之の出自も諸大名の知るところとなっておりました。その5年後の寛永13(1636)年には山形、次いで会津へ移るが、将軍家光からの信頼は常に厚く、幼い4代将軍家綱の補佐を遺言で命じられたほどでした。
また、江戸初期に玉川上水の建設を建議するなどその手腕を存分に発揮し、葵紋と松平姓を与えられております。正之自身は憚って使用しなかった訳は、その子供の代からは松平氏を名乗り、徳川一族としての地位を築いていく考えでした。この保科正之が、現在見られる江戸城天守閣の姿と深く関わっております。
明暦3(1657)年、江戸の市街地を焼き尽くす大火事が起きたました。明暦の大火です。恋わずらいで若くして亡くなった娘の遺品が出火原因とする伝承から「振袖火事」とも呼ばれる、この大火事は、江戸三大大火の中でも最大級の被害規模とされ、明治以前で我が国最大の火災でした。大火は江戸城を含む江戸の町の大半を焼き尽くし、2日後にようやく鎮火しましたが、犠牲者は3万人とも10万人とも言われます。大火の後、江戸城天守閣再建の声は当然、幕府内で起こりました。天守台のみは規模を縮小して速やかに再建されましたが、それ以上の建設は行わなかったのです。
将軍補佐の地位にあった正之が強固に反対したのでした。この状況にあって最優先されるべきは何かと熟慮したのです。正之の提言により、「江戸城下の再建・復興・福祉に多くに資金が投入し、役割を終えた江戸城天守閣は天守台のみと」なったのです。
泰平の世において実用的意味の薄い天守閣に代わり、延焼を防ぐ為の施設として広小路を上野に、芝及び浅草には新堀、神田川を拡張、両国橋の橋梁を架橋するなど、都市整備に財源が注ぎ込まれたのです。会津初代藩主・保科正之公が今なお名君の誉れ高い理由の一端がここにも垣間見られます。
地方の各省庁官僚、地方より引っ越した都内の人達は変わっても歴史と人物は地域の資源ですね。首都圏直下型地震で関東埋没(元々は砂上の海の底が埋没谷が沢山)する事は否定出来ません。元々は埋め立て以前は海の底です。
行き違い等々の切はご容赦下さいませ。本所亀沢町6代末孫