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0:24において、「基本的には停車駅が多い」つるぎ号とありますが、敦賀延伸後のつるぎ号は各駅停車タイプの他にも速達タイプもあります。また、はくたか号はJR西日本エリア(上越妙高~金沢~敦賀間)では全て各駅停車なので、つるぎ号より停車駅が多いです。おそらく、速達タイプのつるぎ号は速達タイプのサンダーバード号の新幹線置き換えで登場したと思われます。
特急[つるぎ]&急行[きたぐに]の関係は、(上野⇔金沢)特急[北陸]&急行[能登]と同様か.
つるぎの絵入りマークはトップクラスで好きなデザインだったなぁ。
きたぐに号は、北陸から米原でも長岡でも東京方面にも重宝して、富山から名古屋への夜行のりくら号の代替も兼ねてました。
学生時代の金曜日の講義後、友人と名駅で夜遅くまで遊んだ後に「俺、実家行ってくるわ!」と言って、そのままふらっと普通電車で米原まで行って、米原から「きたぐに」で実家まで帰った。特にグリーン車はいつもガラガラだったので乗車直前でも購入できた。
新潟行きのきたぐには、新潟で8時半ごろの白新線経由羽越線の特急いなほ(酒田方面)・普通(村上方面)とも接続してて、羽越線沿線各地への用務客にも便利なダイヤが組まれていた。18シーズンにムーンライトえちごで新潟着→初電で新津折り返し→街中にある石油臭い温泉で朝風呂(当時は6時40分から一番風呂に入れて、リフレッシュした後は羽越線の水原方面や磐越線の会津方面との接続もよかった)→新津から8時過ぎの急行崩れの快速きたぐに乗車して新潟乗換で村上まで行って港で朝食というのをよくやってたが、きたぐにの車中は新潟への通勤客でかなりのラッシュになっていた。また直江津では信越線6時発の一番列車(189系快速妙高長野行き)に接続してて、長野では257系無印の快速に接続してて、松本に8時頃到着(松本からの普通列車で上諏訪には9時前到着、飯田線方面にも確か岡谷で接続)とこのあたりの北信〜中信エリアの用務にも便利なダイヤが組まれてましたね。
子供の頃に見た時刻表で、福井金沢富山と通過マークが並び続ける寝台特急つるぎ号を、とんでもなく速い列車!!!と思って見てました
つるぎ号は新潟県内(新潟、新津、加茂、東三条、見附、長岡、柏崎、直江津、糸魚川)に停車し、富山・石川・福井・滋賀の北陸線及び湖西線内を通過し、京都、新大阪、大阪に停車していた。
寝台つるぎって富山県内無停車でした急行きたぐには高岡黒部泊も停車していました
タイトルだけで分かったけどサムネでも答えが出ていた。急行を残したのは偉い。東のJRなら絶対に特急の方を残したよ。急行には楽しい思い出が沢山あった。大好きな列車だったな。まず車両が良かった。
厳密に言えば、福井駅も金沢駅にも運転停車していて、駅で時間調整をしていました。夜行急行立山4号に乗っていると福井駅で停車している寝台特急つるぎ号を見かけました。この夜行急行立山の存在も語って欲しかった。この夜行立山も敦賀駅かなり長く停車して大阪駅着を6時頃にしていました。
寝台特急北陸の金沢発上野行きは後発の信越本線経由の急行能登に高崎に先着されていたよ!能登は特急より先に上野に到着する訳にもいかず高崎で北陸の発車待ちしてたよ。
富山県民として、富山県の名峰剣岳から命名されたつるぎ号が富山に停車しないのは忸怩たる思いをしていましたが、北陸新幹線で富山発着の列車名として復活したのは嬉しかったですね。
きたぐにと路線被って廃止とは悲しいもんがありますが特急つるぎってなんか懐かしいですねしかしついこの前までサンダーバードは和倉まで乗り入れてるのもあったのにイチイチ敦賀で乗り換えって逆に面倒臭くなったような気が
ビジネス客にはぴったりのダイヤなのに、当時の廃止はもったいないことをしたものだった。
始発終着共に時間帯が良好だった。
新潟と関西の結びつきが弱くなり、関西と新潟の輸送に特化した寝台列車が維持できなくなったんだろう。
ビジネス客といっても、寝台車で寝て翌日にビジネスするのは相当辛いと思う。ろくに髭も剃れないし。
大阪~北陸って近いようで案外時間かかるんだよね。何回も車やサンダーバードで大阪~富山を行き来したけどかなりしんどかった!末期のきたぐにも何回か乗ったけど、なかなか寝心地よかったよ。
動画内で小松まで出てくるのに高岡が全く出てこなくて悲しい高岡市民
上越新幹線開業後「きたぐに」は急行であるが故に新潟から「東京ミニ周遊券」の周遊エリアまで往復する手段としても使えたし、上越新幹線と長岡で接続し直江津や糸魚川と東京方面を結ぶ始発・終着列車としても重宝した。また新潟で「いなほ」にも接続してたから「つるぎ」と比べて使い勝手が良かったんだよね。
北陸トンネル開通までは所謂杉津経由、柳ヶ瀬と同じく単線非電化の難所で、だから今庄に補機のための機関区がありました。それでも、敦賀湾を臨む景色に感動した大正天皇が、杉津駅でお召列車の発車を遅らせたという逸話が残っています。
そもそも新潟関西は昭和初期までは結びつきがあったものの、上越線や上越新幹線ができた以降新潟は関東への結びつきが強くなってます。つるぎがターゲットとしていた新潟関西の需要自体が減少し、かといって富山金沢は昼行の範囲であるので、つるぎは消えるしか無かったです。きたぐには福井や金沢までは最終列車的な需要があり、また富山新潟の短区間など複数の需要を取り込めたので、最後まで残れたとも言えます。
急行きたぐにの14系化時点では自由席5両指定席とA寝台車は1両でB寝台車が4両の11両編成です。ちなみに寝台特急つるぎが初めて食堂車を連結しながら営業休止になった列車だ。それと24系には違いないが、厳密には24系25型と言うのが正しい。なぜなら24系には3段寝台の24型があるからだ。違いはステンレス製の帯か、白帯です。もっとも24型は改造で2段寝台になったが原型は3段寝台車です。それと寝台特急つるぎはきたぐにが583系化される前までは寝台券が取りにくい列車でした。きたぐにの583系の前には急行立山が季節列車ながら583系で運行され実績を積んでいたようだ。
今では大阪、京都⇔新潟の移動は大半が飛行機を選択するのかな?
日本海号が2本で 新潟通過 急行きたぐに号 が 583系で3段寝台だけど 下段は広い そして 自由席付・・・ つるぎ号 の運命も 判る気がします・・・
そのうち、雷鳥、白鳥、といった往年の北陸本線の特急の名前が、新幹線列車として復活しそうな気がします😂
5文字の鳥の名は新幹線としてはどうでしょう?「ちょう」は間延びするような気がします
過去にはスーパーこまちがあったので、列車名が5文字以上になること自体は大して問題ないと思います
「きたぐに」と言えば「痔なんです…」
つるぎ号とはとは関係ありませんが、きたぐに号というと大泉洋さんをどうしても思い出してしまう。あの座席車付きの車両構成でなければ生まれなかったいすの夜行乗り物をネタにした企画とこれを意識したかどうかは分からないけど、夜行バスの認知度、座席の質向上のきっかけになった物で。
懐かしい!大泉洋さんだけ自由席!😂
あのムスッとした顔が面白いんですよね〜
後日談で、ヒゲの寝台に潜り込んだとか。(ホントは不正乗車)
電源の問題でしょ直流、交流60Hz、交流50Hz、また直流に戻る。機関車の用意から付け替えは大変だし、マルチな車両があれば入れ替えたいはず。
つるぎには乗ったことがありませんが、寝台客車は機関士の腕によるものか、停車・発車の時の衝撃が大きいことがあり、よく目が覚めてしまいました。2008年にきたぐにのA寝台上段に乗りましたが、停車・発車がスムーズでほとんど衝撃がありませんでした。
昭和時代から比べると末期は明らかに寝台列車の機関士の腕が落ちてました。昔はいつ走り出したかわからない程スムーズに走り出したものです。
寝台車の乗り心地に関しては、寝台特急末期になると客車と電車が逆転してて電車のほうが眠れる列車になってましたね。国鉄型客車の乗り心地は機関士の腕に依存している分、晩年は機関士の技術低下が著しく発車のたびに起こされる状況でした。それでもカシオペアだけは設計が新しい客車だけあってわりと静かな発車でした
新潟で青森行きのいなほに接続し更に青函連絡船に接続されました。日本海よりも不便でしたが時間に余裕あれば寝台料金を節約出来ました。きたぐにが電車寝台になった事が廃止の一番の理由でしょうね。
主もこの言葉を使っとるで、全く関係無い訳ではないけど『無数』と『多数』数が有っても!無くても!どちらも大杉!って言う!日本語って難しい!www
0:24において、「基本的には停車駅が多い」つるぎ号とありますが、敦賀延伸後のつるぎ号は各駅停車タイプの他にも速達タイプもあります。
また、はくたか号はJR西日本エリア(上越妙高~金沢~敦賀間)では全て各駅停車なので、つるぎ号より停車駅が多いです。
おそらく、速達タイプのつるぎ号は速達タイプのサンダーバード号の新幹線置き換えで登場したと思われます。
特急[つるぎ]&急行[きたぐに]の関係は、(上野⇔金沢)特急[北陸]&急行[能登]と同様か.
つるぎの絵入りマークはトップクラスで好きなデザインだったなぁ。
きたぐに号は、北陸から米原でも長岡でも東京方面にも重宝して、富山から名古屋への夜行のりくら号の代替も兼ねてました。
学生時代の金曜日の講義後、友人と名駅で夜遅くまで遊んだ後に「俺、実家行ってくるわ!」と言って、
そのままふらっと普通電車で米原まで行って、米原から「きたぐに」で実家まで帰った。
特にグリーン車はいつもガラガラだったので乗車直前でも購入できた。
新潟行きのきたぐには、新潟で8時半ごろの白新線経由羽越線の特急いなほ(酒田方面)・普通(村上方面)とも接続してて、羽越線沿線各地への用務客にも便利なダイヤが組まれていた。18シーズンにムーンライトえちごで新潟着→初電で新津折り返し→街中にある石油臭い温泉で朝風呂(当時は6時40分から一番風呂に入れて、リフレッシュした後は羽越線の水原方面や磐越線の会津方面との接続もよかった)→新津から8時過ぎの急行崩れの快速きたぐに乗車して新潟乗換で村上まで行って港で朝食というのをよくやってたが、きたぐにの車中は新潟への通勤客でかなりのラッシュになっていた。また直江津では信越線6時発の一番列車(189系快速妙高長野行き)に接続してて、長野では257系無印の快速に接続してて、松本に8時頃到着(松本からの普通列車で上諏訪には9時前到着、飯田線方面にも確か岡谷で接続)とこのあたりの北信〜中信エリアの用務にも便利なダイヤが組まれてましたね。
子供の頃に見た時刻表で、福井金沢富山と通過マークが並び続ける寝台特急つるぎ号を、とんでもなく速い列車!!!と思って見てました
つるぎ号は新潟県内(新潟、新津、加茂、東三条、見附、長岡、柏崎、直江津、糸魚川)に停車し、富山・石川・福井・滋賀の北陸線及び湖西線内を通過し、京都、新大阪、大阪に停車していた。
寝台つるぎって富山県内無停車でした
急行きたぐには高岡黒部泊も停車していました
タイトルだけで分かったけどサムネでも答えが出ていた。
急行を残したのは偉い。東のJRなら絶対に特急の方を残したよ。
急行には楽しい思い出が沢山あった。大好きな列車だったな。まず車両が良かった。
厳密に言えば、福井駅も金沢駅にも運転停車していて、駅で時間調整をしていました。夜行急行立山4号に乗っていると福井駅で停車している寝台特急つるぎ号を見かけました。この夜行急行立山の存在も語って欲しかった。この夜行立山も敦賀駅かなり長く停車して大阪駅着を6時頃にしていました。
寝台特急北陸の金沢発上野行きは後発の信越本線経由の急行能登に高崎に先着されていたよ!能登は特急より先に上野に到着する訳にもいかず高崎で北陸の発車待ちしてたよ。
富山県民として、富山県の名峰剣岳から命名されたつるぎ号が富山に停車しないのは忸怩たる思いをしていましたが、北陸新幹線で富山発着の列車名として復活したのは嬉しかったですね。
きたぐにと路線被って廃止とは悲しいもんがありますが特急つるぎってなんか懐かしいですね
しかしついこの前までサンダーバードは和倉まで乗り入れてるのもあったのにイチイチ敦賀で乗り換えって逆に面倒臭くなったような気が
ビジネス客にはぴったりのダイヤなのに、当時の廃止はもったいないことをしたものだった。
始発終着共に時間帯が良好だった。
新潟と関西の結びつきが弱くなり、関西と新潟の輸送に特化した寝台列車が維持できなくなったんだろう。
ビジネス客といっても、寝台車で寝て翌日にビジネスするのは相当辛いと思う。ろくに髭も剃れないし。
大阪~北陸って近いようで案外時間かかるんだよね。
何回も車やサンダーバードで大阪~富山を行き来したけどかなりしんどかった!
末期のきたぐにも何回か乗ったけど、なかなか寝心地よかったよ。
動画内で小松まで出てくるのに高岡が全く出てこなくて悲しい高岡市民
上越新幹線開業後「きたぐに」は急行であるが故に新潟から「東京ミニ周遊券」の周遊エリアまで往復する手段としても使えたし、上越新幹線と長岡で接続し直江津や糸魚川と東京方面を結ぶ始発・終着列車としても重宝した。また新潟で「いなほ」にも接続してたから「つるぎ」と比べて使い勝手が良かったんだよね。
北陸トンネル開通までは所謂杉津経由、柳ヶ瀬と同じく単線非電化の難所で、だから今庄に補機のための機関区がありました。
それでも、敦賀湾を臨む景色に感動した大正天皇が、杉津駅でお召列車の発車を遅らせたという逸話が残っています。
そもそも新潟関西は昭和初期までは結びつきがあったものの、
上越線や上越新幹線ができた以降新潟は関東への結びつきが強くなってます。
つるぎがターゲットとしていた新潟関西の需要自体が減少し、
かといって富山金沢は昼行の範囲であるので、つるぎは消えるしか無かったです。
きたぐには福井や金沢までは最終列車的な需要があり、また富山新潟の短区間など複数の需要を取り込めたので、
最後まで残れたとも言えます。
急行きたぐにの14系化時点では自由席5両指定席とA寝台車は1両でB寝台車が4両の11両編成です。ちなみに寝台特急つるぎが初めて食堂車を連結しながら営業休止になった列車だ。それと24系には違いないが、厳密には24系25型と言うのが正しい。なぜなら24系には3段寝台の24型があるからだ。違いはステンレス製の帯か、白帯です。もっとも24型は改造で2段寝台になったが原型は3段寝台車です。それと寝台特急つるぎはきたぐにが583系化される前までは寝台券が取りにくい列車でした。きたぐにの583系の前には急行立山が季節列車ながら583系で運行され実績を積んでいたようだ。
今では大阪、京都⇔新潟の移動は大半が飛行機を選択するのかな?
日本海号が2本で 新潟通過 急行きたぐに号 が 583系で3段寝台だけど 下段は広い そして 自由席付・・・
つるぎ号 の運命も 判る気がします・・・
そのうち、雷鳥、白鳥、といった往年の北陸本線の特急の名前が、新幹線列車として復活しそうな気がします😂
5文字の鳥の名は新幹線としてはどうでしょう?
「ちょう」は間延びするような気がします
過去にはスーパーこまちがあったので、列車名が5文字以上になること自体は大して問題ないと思います
「きたぐに」と言えば
「痔なんです…」
つるぎ号とはとは関係ありませんが、きたぐに号というと大泉洋さんをどうしても思い出してしまう。
あの座席車付きの車両構成でなければ生まれなかったいすの夜行乗り物をネタにした企画とこれを意識したかどうかは分からないけど、夜行バスの認知度、座席の質向上のきっかけになった物で。
懐かしい!大泉洋さんだけ自由席!😂
あのムスッとした顔が面白いんですよね〜
後日談で、ヒゲの寝台に潜り込んだとか。(ホントは不正乗車)
電源の問題でしょ
直流、交流60Hz、交流50Hz、また直流に戻る。
機関車の用意から付け替えは大変だし、マルチな車両があれば入れ替えたいはず。
つるぎには乗ったことがありませんが、寝台客車は機関士の腕によるものか、停車・発車の時の衝撃が大きいことがあり、よく目が覚めてしまいました。
2008年にきたぐにのA寝台上段に乗りましたが、停車・発車がスムーズでほとんど衝撃がありませんでした。
昭和時代から比べると末期は明らかに寝台列車の機関士の腕が落ちてました。昔はいつ走り出したかわからない程スムーズに走り出したものです。
寝台車の乗り心地に関しては、寝台特急末期になると客車と電車が逆転してて電車のほうが眠れる列車になってましたね。
国鉄型客車の乗り心地は機関士の腕に依存している分、晩年は機関士の技術低下が著しく発車のたびに起こされる状況でした。
それでもカシオペアだけは設計が新しい客車だけあってわりと静かな発車でした
新潟で青森行きのいなほに接続し更に青函連絡船に接続されました。日本海よりも不便でしたが時間に余裕あれば寝台料金を節約出来ました。きたぐにが電車寝台になった事が廃止の一番の理由でしょうね。
主もこの言葉を使っとるで、
全く関係無い訳ではないけど
『無数』と『多数』
数が有っても!無くても!
どちらも大杉!って言う!
日本語って難しい!www