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縄文時代の文化成熟度と期間の長さを考えると「向こうから渡来した」だけではなく、こちらから出発して発展し、そしてまた戻ってきたと考えるのも楽しいです。
コメントありがとうございます。私も同感です。もっとDNA分析を行い日本の縄文時代も解明したいですね。
出雲の富家に伝わる出雲口伝によるとドラヴィダ人が日本にやってきたと言っていますね。出雲族はドラヴィダ人。
コメントありがとうございます。富家、登美家=多氏がわかるように、少しずつ紹介していきます。ご期待下さい。
@@castleman4502 ありがとうございます。よろしくお願いします。
吉野ヶ里遺跡で見つかった甕棺墓の中に貝紫で染色された布が見つかっているそうですね。貝紫の染料といえば古代フェニキア人だけが製法を知っていたフェニキア人の専売品だったはずですが、そのような物が地中海から遠く離れた日本の九州で見つかるとは一体どういう事だと思われますか?あくまで推測ですが甕棺墓埋葬のルーツが地中海エリアのピトス埋葬にあった可能性が高い事を考えれば、もしかしたらフェニキア人達の一部がカルタゴ滅亡前にローマ帝国の勢力圏から逃れて日本の九州西部、および朝鮮半島南部にまで到達し、吉野ヶ里遺跡などの九州西部の弥生遺跡群を築いていった・・・という可能性はないでしょうか? またインドのタミル地方の甕棺墓も、もしかするとカルタゴを脱出したフェニキア人達がインド南端のタミル地方に船で到来した際、一部が現地に定住する事にした結果、タミル地方でだけ甕棺墓埋葬がなされるようになった・・・のかも知れないですね。
再来週は佐賀県をやります。そこである程度繫がるのでは無いかと思います☺️DNAから見た日本と世界史の繋がりもやる予定です。ご期待下さい🤗
甕棺墓埋葬のルーツについてなんですが、もしかすると南インドよりも更に遠方にあるのかも知れませんよ。南インドに甕棺墓埋葬が現れるのは紀元前数世紀ごろらしいですが、インドより西方のエジプトやクレタ島周辺、アナトリア半島などの地中海地域ではインドよりずっと昔からピトス(大甕)に遺体を入れて埋葬するという風習があったそうで画像等を見ると甕棺墓埋葬ソックリです。紀元前4世紀頃にアレクサンダー大王がインドに侵入を開始し、まさにその頃にインドで甕棺墓埋葬が行われ始めた事を考えればアレクサンダー大王の軍団がインドに地中海地域の甕棺墓(ピトス)埋葬を持ち込んだ・・と推測出来ると思うんですがどう思われますか?
コメントありがとうございます。仰る通りかもしれません。人類の流れとしてタミル人を紹介しましたが、文化として発祥はどこかというところでは無いですね。ロシア系、モンゴロイド含め、少しずつ紹介します。これでもかなり詰め込んでいるので読者目線を意識して動画作成しているんです。まだ何処から説明して、何処をもう少し詳しく説明した方が伝わるか掴みきれて無いのですけどね🐣ご指導ありがとうございます。
ドラヴィダ人の言い伝えの中に、遥か昔、島(インド亜大陸)に乗って流れ着いた。という伝承があるとか。それが、インダス川流域とメソポタミア地方に分岐して、海上交易で繋がっていたとか。北方からの異民族の南下で、アルタイ山脈の南まで移動して合流して、陸上交易に変化、交易ルートのエキスパートとして多方面で活躍したとか。日本国にまで繋がっていたとは、、私のdnaの父方とは繋がっていないけど、母方のdnaとはまんざら他人ではないのかも
@@rinkomaruta3686コメントありがとうございます。日本人が先か後かは置いて、インド、イラン、イラク、ペルシャ、トルコ、この辺りの地域は凄く共通性があるんです。女系継承なので尚更、日本人にはМの遺伝子は少ないのですがそれでも7%残ってますからね。
@@castleman4502 アレクサンダー大王といえば、自国の兵士とペルシャ女性を結婚させてギリシャ化をはかった、国際結婚のはしりみたいな御方。インドは死守してお帰り願った。
縄文時代の文化成熟度と期間の長さを考えると「向こうから渡来した」だけではなく、
こちらから出発して発展し、そしてまた戻ってきたと考えるのも楽しいです。
コメントありがとうございます。
私も同感です。
もっとDNA分析を行い日本の縄文時代も解明したいですね。
出雲の富家に伝わる出雲口伝によるとドラヴィダ人が日本にやってきたと言っていますね。出雲族はドラヴィダ人。
コメントありがとうございます。
富家、登美家=多氏がわかるように、少しずつ紹介していきます。
ご期待下さい。
@@castleman4502 ありがとうございます。よろしくお願いします。
吉野ヶ里遺跡で見つかった甕棺墓の中に貝紫で染色された布が見つかっているそうですね。貝紫の染料といえば古代フェニキア人だけが製法を知っていた
フェニキア人の専売品だったはずですが、そのような物が地中海から遠く離れた日本の九州で見つかるとは一体どういう事だと思われますか?
あくまで推測ですが甕棺墓埋葬のルーツが地中海エリアのピトス埋葬にあった可能性が高い事を考えれば、もしかしたらフェニキア人達の一部がカルタゴ滅亡前にローマ帝国の勢力圏から逃れて日本の九州西部、および朝鮮半島南部にまで到達し、吉野ヶ里遺跡などの九州西部の弥生遺跡群を築いていった・・・という可能性はないでしょうか? またインドのタミル地方の甕棺墓も、もしかするとカルタゴを脱出したフェニキア人達がインド南端のタミル地方に船で到来した際、一部が現地に定住する事にした結果、タミル地方でだけ甕棺墓埋葬がなされるようになった・・・のかも知れないですね。
再来週は佐賀県をやります。
そこである程度繫がるのでは無いかと思います☺️
DNAから見た日本と世界史の繋がりもやる予定です。
ご期待下さい🤗
甕棺墓埋葬のルーツについてなんですが、もしかすると南インドよりも更に遠方にあるのかも知れませんよ。
南インドに甕棺墓埋葬が現れるのは紀元前数世紀ごろらしいですが、インドより西方のエジプトやクレタ島周辺、アナトリア半島などの地中海地域ではインドよりずっと
昔からピトス(大甕)に遺体を入れて埋葬するという風習があったそうで画像等を見ると甕棺墓埋葬ソックリです。
紀元前4世紀頃にアレクサンダー大王がインドに侵入を開始し、まさにその頃にインドで甕棺墓埋葬が行われ始めた事を考えればアレクサンダー大王の軍団がインドに地中海地域の
甕棺墓(ピトス)埋葬を持ち込んだ・・と推測出来ると思うんですがどう思われますか?
コメントありがとうございます。
仰る通りかもしれません。
人類の流れとしてタミル人を紹介しましたが、文化として発祥はどこかというところでは無いですね。
ロシア系、モンゴロイド含め、少しずつ紹介します。これでもかなり詰め込んでいるので読者目線を意識して動画作成しているんです。まだ何処から説明して、何処をもう少し詳しく説明した方が伝わるか掴みきれて無いのですけどね🐣
ご指導ありがとうございます。
ドラヴィダ人の言い伝えの中に、遥か昔、島(インド亜大陸)に乗って流れ着いた。という伝承があるとか。
それが、インダス川流域とメソポタミア地方に分岐して、海上交易で繋がっていたとか。
北方からの異民族の南下で、アルタイ山脈の南まで移動して合流して、陸上交易に変化、交易ルートのエキスパートとして多方面で活躍したとか。
日本国にまで繋がっていたとは、、
私のdnaの父方とは繋がっていないけど、母方のdnaとはまんざら他人ではないのかも
@@rinkomaruta3686
コメントありがとうございます。日本人が先か後かは置いて、インド、イラン、イラク、ペルシャ、トルコ、この辺りの地域は凄く共通性があるんです。女系継承なので尚更、日本人にはМの遺伝子は少ないのですがそれでも7%残ってますからね。
@@castleman4502
アレクサンダー大王といえば、自国の兵士とペルシャ女性を結婚させてギリシャ化をはかった、国際結婚のはしりみたいな御方。インドは死守してお帰り願った。