昭和館オーラルヒストリー「東京大空襲を生き抜いて~濱田嘉一さんの体験談~」
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- Опубликовано: 17 окт 2024
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#B-29 #焼夷弾 #清澄庭園 #深川
【資料情報】V1R0400202167
濱田嘉一さんは、昭和12年(1937)現在の東京都江東区深川に生まれた。出征した父は2歳の時に戦死、母は区役所や町会事務所の仕事で生計を立てた。昭和20年3月9日の深夜、東京大空襲が始まる。焼夷弾が降り注ぐ中、清澄公園を目指し避難するが、途中で目にした地獄絵のような光景、空襲翌朝の焼け野原の様子、戦後の厳しい食糧難を生き抜いた体験を語る。
※ 映像を使用される場合は、昭和館図書情報部情報検索係(03-3222-2574)へご連絡下さい。
祖母は幼い父を背負ってその地獄絵を生き延びました。直接話を聞くことなく亡くなりましたので、こうしてその状況を伺い、胸が詰まりました。深川八幡様の周りの江戸っ子の粋と気風が伝わりました。動画配信ありがとうございました。
大変貴重なインタビューを拝見できました、ありがとうございました。
お話がお上手なのもあり、あっという間の22分でした。
また機会がありましたら濱田さんのお話が伺いたいです。
この方のお話に深く感動しました。貴重な動画に感謝します🙏
貴重なお話ありがとうございました。
「セミを食べれたらいいのに」「ノミになりたい」の言葉に、当時の子供たちの状況を少しではありますが想像することができました。
日本が平和であり続け、再び二度と戦争の惨禍を起こさない為には、
やられたらやり返せの考えではなく、
殺生は、しないという仏教の教えが一人一人に根付くことだと私は思います。
日本の、世界の平和を祈念します。
日本が、平和であり続ける為には、やらられたらやり返せ
の思考ではなく
殺生は、自分はしないと言う、仏教の教えに基づいた意志が必要だと私は思います。
日本が戦争していた、日本本土に
大空襲がしょっちゅう起きていた
地方にも機銃掃射、海沿いには艦砲射撃の爆撃が起きていた
こういう話の動画をあちこち観ていますが今の日本しか知らない私には信じられないのですが
爪痕、体験者の話の一致
アメリカが撮影した空襲の状況のビデオから本当に起きたことなんだと
考えると空襲警報に似たサイレンの音も怖くなってきます。
東京は信じられないくらい燃えていた
と話すのは東京の地上にいた日本人だけでなく
アメリカのB-29のパイロットが
上空からその燃えている東京の様相を見て
「東京は信じられないくらい燃えていた、人や動物が燃える臭い、家が燃える臭い、熱風と突風が起きて機内はとても暑かった
2度と同じ体験はしたくない」
と焼夷弾を投下させる側にとっても
あの夜は地獄だったと話すわけです。
まだ想像できませんが
貴重なお話を聞くことができて勉強になりました。
夜間超低空・直線飛行の敵大型爆撃機、軍艦舷側にある低空しんにゅう雷撃・戦闘機撃墜用機関砲で邀撃はできなかったのか?探照灯(サーチライト)と同軸・連動さすれば命中精度は上がったと思います。
んなもん、数%精度が改善されても意味ない。
東京大空襲や原爆投下を、被害者意識で捉えてもだめだ。
それは単にあなたの願望では?
こんなところまでわざわざ書き込んでみっともない生き様ですね