司馬炎|三国志を終わらせた男。暗君へ転落した晋の初代皇帝【三国志】

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  • Опубликовано: 29 янв 2025

Комментарии • 45

  • @rin4408
    @rin4408 4 месяца назад +12

    司馬炎について知りたかったのでありがたい‼︎

  • @岡将男
    @岡将男 19 часов назад +1

    非常に分かりやすい動画ですね。資治通鑑の翻訳をやってますが、司馬炎は曹操を反面教師にして、王を各地に派遣した結果、後の八王の乱になる。あっという間に崩壊したのも、まだまだ社会の成熟が足りなかったのだろうね。極端な軍縮も、やり過ぎたのだろう。

  • @supremekith1719
    @supremekith1719 11 дней назад +9

    司馬炎て一番楽しい人生送ってんな天寿全うしとるし

  • @楽毅YouTube
    @楽毅YouTube 4 месяца назад +5

    1年前から見てたけどまだまだがんばってほしいです!

    • @zenreki
      @zenreki  4 месяца назад +4

      ありがとうございます!
      そう言っていただけてとても嬉しいです☺️
      今後ともよろしくお願いします🙇‍♂️

    • @楽毅YouTube
      @楽毅YouTube 3 месяца назад +2

      @@zenreki 勿論です!

  • @mitoman32
    @mitoman32 2 месяца назад +2

    劉毅とのやり取り好き。大物すぎるだろ

  • @あじぃ-l5e
    @あじぃ-l5e 4 месяца назад +11

    諫言できる環境はすごい。
    燃え尽き症候群・・・あれだけの乱世を治め
    有能な者達がいてはそうなるかもしれませんねぇ~
    歴史は本当に学びになります。

  • @Mr51JUN
    @Mr51JUN 2 месяца назад +6

    父祖歴代の業績があって結果としてこの人の代で成功した、ってことですよね

    • @lionheart191
      @lionheart191 2 месяца назад +1

      まぁ曹操だかその息子高が臨終の際に司馬懿にあの世で会った時に遺恨が生まれるようなことはしないでくれよと釘刺されてるから懿の代の時点で役目は孫の役になるだろうと言伝があったとかないとかw

  • @菅原のしゅん
    @菅原のしゅん 4 месяца назад +6

    呉を滅ぼしてやる気なくなったのかな。内政でいろいろやることがあると思うのだけど
    性病は大丈夫だったのだろうか?

  • @saburiryu28go
    @saburiryu28go 11 дней назад +2

    司馬園児安世(あんよ)。女児と毎日「おままごと遊び」にドハマリ。

  • @wakka-besaid
    @wakka-besaid 4 месяца назад +4

    諫言を聞く器があるのは凄いんだけどって感じ

  • @従五位上
    @従五位上 4 месяца назад +4

    英雄色を好む

  • @藤寅-v5q
    @藤寅-v5q 4 месяца назад +11

    統一後の堕落を考えれば、コイツの才能で、天下統一出来たのでは無い。

  • @tntintuittion3504
    @tntintuittion3504 4 месяца назад +5

    統一するまでは…統一するまでは…大事な事なので二回言いました!燃え尽きたんです…やる事無いと燃え尽きるタイプだったんだと自分は思っています。

  • @saka-xhaka
    @saka-xhaka 3 месяца назад +3

    トップとしてはどうしようもないけど、個人としては幸せな人生だったのか😅

  • @松沢健太-m2w
    @松沢健太-m2w 8 дней назад +1

    天下統一後、怠けた司馬炎に対して、あの世で祖父の司馬懿が「馬鹿めが」と叫んでいそう!

    • @YH-nu7wc
      @YH-nu7wc 7 дней назад

      なお、一番恨みを持ってるのは不遇のまま飼い殺しの司馬攸かと。
      だから、息子の司馬冏はこれを恨みに思ったのか皇后を殺したり、息子の恵帝を無視して政治したりとやりたい放題に…。

  • @恋々
    @恋々 2 месяца назад +1

    晋を建てたが弱かったのか匈奴に滅ぼされた。
    その後 西普、東晋が建てられたが宋に滅ぼされている。
    (北周と陳が隋に滅ぼされるまで南北朝、五胡十六国が続く。)

  • @igagajp
    @igagajp 4 месяца назад +4

    歴史は繰り返す。。

  • @galleryTOKU
    @galleryTOKU 4 месяца назад +10

    ライバルがいないとダメだ。

    • @野々坂-f3x
      @野々坂-f3x 11 дней назад +3

      それなw仮想敵がいないと?w

  • @pontarou01
    @pontarou01 10 дней назад

    良いなー、俺もハーレムほすい

  • @ビールビール-i1j
    @ビールビール-i1j 8 дней назад +1

    そしてこの世の地獄のような五胡十六国時代へ突入

  • @田-q1z
    @田-q1z 4 месяца назад +2

    司馬昭やってください

  • @野々坂-f3x
    @野々坂-f3x 11 дней назад +3

    妾が一万人以上だとすごいな😅なんか性的に破綻してそう😅w

  • @takamii810
    @takamii810 4 месяца назад +1

    なせ、劉備は燭は魏に大敗して滅んだのでしょうか?

    • @ただの鈴木-u3b
      @ただの鈴木-u3b 2 месяца назад

      蜀漢は劉備どころか諸葛亮が没してからも数十年存続してるんだよ
      むしろ劉備時代は魏に勝ってるんだよ

    • @クマーム
      @クマーム 9 дней назад

      姜維が軍のトップになってから積極的に外征を進めたけど、結果が出ずにかえって国力を落とす事になったから。

  • @聡石橋-h1o
    @聡石橋-h1o 2 месяца назад +2

    この時代、すでに移民問題が…。😅

    • @聡石橋-h1o
      @聡石橋-h1o 2 месяца назад +2

      みんな、仲良くしたいね、理想に過ぎないかもしれないが。😢

  • @神龍-l5d
    @神龍-l5d 26 дней назад

    まあいいトコの坊っちゃんはお人好しが多いからな。
    司馬懿の遺伝子と司馬昭の権力構築からの生まれつきの育ちの良さが統一までは適切な判断力とカリスマ性として機能したのだろうな。
    もしかしたら袁紹に結構似ているのかもしれない。

  • @パタゴニアヒロシ
    @パタゴニアヒロシ День назад +1

    中国の歴史を学ぶと、自分が今後の人生どのように立ち振る舞えばいいか勉強になりますよ

  • @バタービーン-f8u
    @バタービーン-f8u Месяц назад +1

    司馬炎はイージーモードだからな。
    鎮火寸前の呉を叩くだけで天下統一出来たんだから。難易度が違いすぎる

  • @ひつじ丸-r6x
    @ひつじ丸-r6x 4 дня назад

    俺も色欲強いから、司馬炎を責める気にはなれない。
    名君ではなくとも、1万人の美女を置き、56歳まで色欲の限りを尽くせたなら男として本望だろう。

  • @税金は俺たちがつかうぞ
    @税金は俺たちがつかうぞ 2 месяца назад +1

    ほしいままって 大したこともないだろ  今のシナをみれば即理解できる

  • @税金は俺たちがつかうぞ
    @税金は俺たちがつかうぞ 2 месяца назад +2

    小日本には 叙勲者が ゴミ箱に捨てるほどいるしな~~~

  • @過ぎ-u1r
    @過ぎ-u1r 4 дня назад

    劉公嗣と ええ勝負ですなぁ 司馬安世は。

  • @卯金刀-n1q
    @卯金刀-n1q 4 месяца назад +2

    曆位散騎常侍、後軍將軍。廣城君薨,去職。喪未終。起為秘書監,掌國史。先是,朝廷議立晉書限斷,中書監荀勖謂宜以魏正始起年,著作郎王瓚欲引嘉平已下朝臣盡入晉史,于時依違未有所決。惠帝立,更使議之。謐上議,請從泰始為斷。於是事下三府,司徒王戎、司空張華、領軍將軍王衍、侍中樂廣、黃門侍郎嵇紹、國子博士謝衡皆從謐議。騎都尉濟北侯荀畯、侍中荀籓、黃門侍郎華混以為宜用正始開元。博士荀熙、刁協謂宜嘉平起年。謐重執奏戎、華之議,事遂施行。
    賈謐は、散騎常侍、後軍將軍を経験した。(賈充の妻)廣城君が死ぬと、服喪のため職を去った。喪が明ける前に、秘書監となり、國史を掌握した。
    これより先に、朝廷は晋書を制作にあたり、時代の分け方の議論があった。中書監の荀勖は、魏の正始年間(曹芳即位)を晋が起こった年とせよと言った。
    著作郎の王瓚は、嘉平年間(司馬懿のクーデター)以降の朝臣を、魏書ではなく晋書に入れよと言った。このときは、まだ結論が出なかった。
    恵帝が即位し、またこの議題を検討させた。賈謐は上議し、泰始年間(司馬炎の襲位)で区切りましょうと言った。これは三府に下され、司徒の王戎、司空の張華、領軍將軍の王衍、侍中の樂廣、黃門侍郎の嵇紹、國子博士の謝衡らは、賈謐の意見に従った。
    騎都尉で濟北侯の荀畯、侍中の荀籓、黃門侍郎の華混はかつての荀勖と同じ正始年間を主張した。博士の荀熙、刁協はかつての王瓚と同じ嘉平を主張した。賈謐は重ねて三公の王戎と張華に執奏、ついに賈謐が推す泰始年間で決着が付いた。

    西晋では曹氏から司馬氏へ天命が移ったタイミングは三説あった。正始元年(曹叡崩御)、嘉平元年(曹爽誅殺)、泰始元年(魏晋禅譲)。魏最後の天子もどの説を取るかで曹叡、曹芳、曹奐と変わる。正始説と泰始説で揉めて最終的に泰始元年を起点に晋書編纂と決定。