Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
なるほど、面白い考察です。
今まで聞いた本能寺の変の話のなかで、一番面白かったです!!
本当ですか?!めちゃくちゃ嬉しいコメントありがとうございます!
秀吉は各城に鎧とか武器とかをおいておいたんだよな。だから鎧を着たままではなく、山崎の近くまでほとんど普段着で行って近くで着替えたんだよ。
明智と長谷川は親戚ですよw明智と柳生も菅原道真公関係の親戚です。秀吉とこは没落貴族ですが平安初期は中部から信州まで真田は秀吉の一族の分家の生き残りです。ちなみに明智と豊臣も平安初期からの古い親戚です。
面白い見立てだと思います
明智憲三郎著「本能寺の変431年目の真実」と大筋が同じ。
松平信康、ね。
家康のいる堺とは目と鼻の先の摂津住吉に織田信孝の四国討伐軍1万5000がいるのに、丹波から明智光秀に家康を討たせるというのが無理筋。堺と住吉は南海電車で1駅か2駅ほどしかないぞ。
南海本線、住吉大社→住之江→七道→堺南海高野線、東住吉→沢ノ町→我孫子前→浅香山→堺東まあ多少誤差はあるけど、メチャ近いです。まして1万五千の軍が駐屯してたなら、かなり迂回しないと気付かれますね。
謀反を起こしてない同盟相手を接待と称して呼び出して誅殺するなどあまりにリスクが大きすぎる気がする。韓信だって色々嫌がらせして謀反に追い込んで殺したわけでなんの落ち度もない家康をいきなり殺して天下は取れないでしょう。
ただ信康と築山殿は武田と通じたことは黒だったそうですよ
光秀の計画的犯行なら、本能寺後の計画性のなさはどう説明がつくんだ?
説明のつかないことだらけ。
タイミングを伺っていたら予定より早い時期に好条件が揃ってしまい魔が差したようなタイミングで謀反になったとか。
あれ?これってノブやれるんじゃね?ノブやったらみんな味方してくれるよね?そんな感じってことかなww
暗殺までの計画は上手くいったけど、暗殺後の計画が外れまくった可能性もあるんじゃね?
指示をしたのはヴァリニャーノ、実行犯は黒坊主彌助。
信長は生きていたかもしれない。という意見が見当たらなかったので一票入れます。
影武者もいただろうし骨ぐらい残ると思うよねぇ。全くないとなると。
同感です。最初からそこにはいなかった。とみる方が面白いですよね。
「あ〰︎、休みたい。オレみたいな中途採用出世させてくれたけど、会長休ませてくれへんがな。んで仕事成功したら、次の仕事のハードル上げてくるしな。あれ?今会長も若社長も殆ど裸やん。いまやったらイケんちゃう?ほなオレ休めるやん。」という光秀鬱病説。
本能寺の変に家康が噛んでいるとの見解には同意しますが、1.「家忠日記」によれば家康の「神君伊賀越え」は、6月2日早朝の本能寺の変の発生から超スピード二泊三日で6月4日には三河大浜(碧南市)に到着してます。非常に高い計画性、用意周到さが伺えます。2.秀吉には子がなく、すでに信長の四男・秀勝を養子に迎えて身の安全を図っており他の織田家重臣と比べると危機感は薄かったとみられます(むしろ信長に徹底的に尽くした方がプラス)、3.(依田信蕃はじめ)武田遺臣を信長に隠れて勝手に匿ったり、家康の「謀反」はすでに武田征伐の終盤から始まっていました。なぜなら、武田征伐後、(かつての水野信元と同じく)織田信忠・織田家重臣・後北条氏に取り囲まれ、伸びしろゼロの状態に陥っていたからです。4.信長は、後継者の信忠と武田信玄六女・松姫の婚姻(信忠の付家老・河尻秀隆が甲斐一国を任されたのもセット)&北条氏直も信長の娘婿にする縁談を進めており、これが完成していたらもう家康は完全に詰み、陽の目を見ることはなかったでしょう。おそらく信忠と松姫の間に生まれた息子の誰かが甲斐武田氏の名跡を相続するプランだったのでしょう(後に家康もこの信長のプランをパクり、五男・信吉に武田家の名跡を相続させます)。当時それくらい家康は追い詰められていたということです。
詳しくコメントありがとうございます!
どうする家康の筋書きですか?。
3:13 金ヶ崎の退き口(かねがさきののきぐち)では? 浅井は清音のアサイではなく、濁音のアザイでは?
信長と光秀と秀吉や幕府や朝廷と深い細川藤孝はどこ行ったんでしょう。
上杉景勝像は徳川吉宗像じゃない?
すごく面白かったです!他の動画も拝見したいのですが、動画の二人の声が聞きづらいです😭
視聴いただきありがとうございます!
本能寺の変以前の明智光秀はそうだったとする変後の光秀のもたつきは?
秀吉は四国討伐軍を吸収して光秀と戦ったのが現実的と思う
一次史料や最近の新説資料のことは どうして話してくれないのですか??戦国に詳しくない人が聞いたら、この旧説を信じてしまい
朝倉攻めは若狭を巡っての義昭と朝倉の対立、浅井も動員されてるから織田家家臣だったと断じることはできない
興味深い動画でした。主張されている「本能寺の変」の真相については、矛盾なく理解できる説だと思いました。上方:かみがた、(金ヶ崎の)退き口:のきぐち、上野:こうずけ、中国大返し:ちゅうごくおおがえし、馬揃え:うまぞろえ、丹羽長秀:にわながひでなどの読み方を、アバターが間違えているところがあります。
ああすごいすごい 読み方なら皆知ってる
ソフト相手にマジレス草
光秀が反旗をする必要性は 全く持ってないよ。信長に機内を任され重要され、最終的に土岐源氏の再興を土岐源氏諸氏から託されていたわけで、反旗したらすべて水の泡。信長も光秀には大大名にゆくゆくなってほしい。と思ってたし。信長が光秀に中国へ応援に行く前に京都へ寄るように伝えてる。 明智軍を装う何者かに信長は襲われ そこに丁度 本物の明智軍がくる。よって、光秀が反旗をしたことになった。その後、すんごい速さで大軍で来たのは、だれかなあ??嵌められたに決まってる。
面白いですね、なるほどと思わせていただきました。^_^
結構深掘りで面白かった。! だが私の考えでは秀吉説が一番説明が付きやすいと考えています。こちらの側に立ったご意見を鶴首!。
黒田官兵衛が1枚噛んでいたので!
敵がたにスパイがいたんだろう 何か日本は明智光秀に 米国が中国がロシアが韓国が 最後にかんたんに上前はねる?
それこそ「どうする家康」の秀吉みたいに自分は(信長殺しの)手を下さずに他者が手を汚すのを待って、その仇討で秀吉が天下を~の方が納得します。
@@ryoudori 詳細内容な返事、ありがとうございます❕キリシタンは未開国占領の尖兵と理解しています。あと、事変を聞いて、間を置かずに毛利氏と和睦。大返しも、おびただしい兵力が移動するのに、何の事前準備もなく即日兵員移動が出来たこと、が私には説明が付きません!
皆たけしの首見ようぜ⤴
3代将軍家光の乳母は春日局。彼女は光秀の重臣斎藤利三の娘。家康は光秀に感謝してた事は事実でしょうね。
やはり平時の危機管理だな。納得した腑に落ちました。
朝倉攻めは足利将軍からの御教書(命令書)に基づいて織田家中・徳川家中などに動員を行ったから徳川家中が近江・越前まで出張ったんですが?信康粛清は岡崎派のクーデターを事前に叩いたのが最近のメインになっていますが?
最近のメインというか、当時の史料にそう書かれているので当時からの常識ですよね。ただ信長が美少女だったと思い込むのと同じで、創られた内容ほど人の記憶に残りやすいのです。
黒幕とまでは言えないにせよ、キーパーソンは細川幽斎(藤孝)だと思う。羽柴、徳川両家に内通していたとすれば、その後の辻褄が合う。
ナイスな考察ですね!
中国大返しは、瀬戸内海は使えないの?
確か最近の資料だと信長は信康の切腹は命じて無いのでは?徳川家中の問題として家康に事後処理を一任していた。まぁ、ここからは私の持論だが信長的には尾張の東側に居る三河衆の恨みは買いたく無かった。なので家康に任せてどんな結論だろうが容認する気だったけど、家康が忖度の仕方を間違えた……とか思ったりしてます。
興味深い動画をありがとうございます 14.6辺りで上方を じょうほう と発音されていますが 正しくは カミガタ ではないでしょか
言い間違いを挙げていたらキリがないよ。
徳川を討つ大義名分が無さすぎる事はどうお考えですか?
いろいろあったんじゃないでしょうか…
信康の切腹を要求していないのではないかという説もありますよね
確かに最後はちょっと寒かったけれどww 光秀は生き延び、家康の陰の参謀となって豊臣家を滅ぼし、やがて天海となって再び現れた、となるのが、一番ロマンを感じます。
中国大返しは、甲冑などの重装備は船で運び、兵員は軽装で歩かせたんですけどww
亀山城で出陣の準備を進める光秀の元に、「上様(信長)が『陣容を見たい。』と言っている。」と伝える森蘭丸の使者が来て、京都経由になった。
補足コメントありがとうございます!
新しい見方の萌芽を感じました。信長は武田家臣団を家来にするな!としていたにもかかわらず、甲斐周辺の統治のため、採用していますから。徳川家臣団には、足利氏系、武田氏系、北条氏系、後に織田氏系がいますから。
上杉景勝の説明の時の画像は徳川吉宗では?
ゆっくりとは言え、漢字の読み間違いが気になって動画に集中出来ねえw
浅井の裏切りに撤退を頑として勧めたのは家康と秀吉だったとかの説もあるとか。
「まさしく」である。
ウグイスを殺しとらんよ。ホトトギスやで。by信長
なかなかに面白い考察だとおもう。偉い先生方の最新の説とは異なるけど、偉い先生の最新の説が正しいとは限らない。偉い先生の最新の説は、これもまでも変わってきているし、これからも変わっていく。目撃者が生存していないのだから仕方ない。残されている資料に書かれていることが正確かどうかも分からないし、新たな資料が発見されるかも知れない。現在進行形の事件の裁判ですら誤審だらけなのだから、何百年前の事件の裁判となると困難を極める。
長谷川家と明智は親戚ですよw明智と柳生も一族です。菅原道真公から繋がるねw
上杉の肖像画、米将軍に似ている
コメントありがとうございます!
う~ん。信長って武士よりも商人寄りで接待もでき、調略や怖い戦略はあまりとってないのに、後の徳川の世で違う印象を付けられたとしか思えない・・・。家康の動き(直前の堺行や一報の前から伊賀越えに向かってった)も、秀吉の動きも怪しくって、光秀の動きに穴があり過ぎて、嵌められた感が強すぎる・・・。謀反じゃない別のシナリオに光秀が乗って、謀反するしかない状況に追い込まれた説が好き。
お市の長女茶々が浅井長政の子供じゃない説の検証をお願いしたいです。大阪弁で「チャチャを入れる」は邪魔をするの意味で、二女に「お初」という長女に付ける名前を命名したのがどうにもふに落ちません。
長政の初の姫だからとか、なんてね。
正にその通りで、誰かの子(茶々)を妊娠していたからと推察しないと「ちゃちゃ」=邪魔、「お初」=最初の子という名前の整合性が取れない。しかし公式文書にはそんなことは書いていない。だから名前の由来が謎のままです。三女は「お江」=近江で生まれたとわざわざ由来がわかる命名にしてますし。
そっち系の説だとお市は信長の妹ではなく、茶々の父親も信長だと言う事に、何百年も前でありながらデリケートですよね。
まぁ光秀、家康結託説ってなぁ後の春日ノ局の件や天海と同一人物説、日光の明智平なんて地名の件が在るんで、否定し難いはし難いかもねまぁ永遠に全部闇の中なんでピーチクパーチク楽しみまっしょい🎵
光秀=南空坊天海だった。表舞台から去った光秀は、密かに家康側近として活躍した。(続編)とても面白い考察でした。
諸説ありのミステリー次は龍馬 暗殺の見解をお願いします
ruclips.net/video/mIQJiEHh69Q/видео.html
ruclips.net/video/Inw6WGfvkwg/видео.html
あざーす!\(^-^)/
色々と…後世に書かれた2次資料とも言えない話も混じってない?? ま、いっか。。服部半蔵??が??伊賀越えを?
キリストがの侵襲を潰した秀吉、家康に感謝!
明智光秀と羽柴秀吉はライバル関係、確執があったのかな?
軍団が長距離移動の時、甲冑は脱いで供の者が運んだり、帯同の荷役部隊が運んで行きますので、現在の「大返し」を扱った戦国ドラマの様に武将達が甲冑姿で乗馬し長距離移動した訳では無く軽装で移動したそうです。特に羽柴軍団は石田三成ら支援部隊が優秀だったと云います。
信長と信長の長男がいなくなると、誰が一番得をしたか。。ですね。
スレ主さんの考えた通りだと思います。
聞き流していて、何を言ってるのかと字幕を見返した。一般に、金ヶ崎の退き口(かねがさきののきぐち)、上方(かみがた)、中国大返し(ちゅうごくおおがえし)ですね。安心して聞き流せる動画にしてもらいたい。
聞き流してやれよ
「ちゅうごくおおがえし」である。
信長は信盛には期待していたと思う林や安藤みたいにいきなり追放じゃないからね、それで追放を選んだんだから信長が激怒するのも判る話。いまさら信長による信康忙殺なんて何年前の話だよってね、家康としては舅の信長に報告しないと処分できないし、どう考えても徳川家の内紛に信長が巻き込まれただけとしか見えないな。全体的にかなり昔の話の紹介で今の説は調べていないように見えます。
秀吉の中国大返しは信長の中国出陣に備えて街道を整備したり、兵糧や武具を蓄えたりしていたからでは?秀吉は違うと思う。
付いていけない者は、おいてくぞ!
魚津城から北ノ庄城に引き返した柴田勝家の方が早かったのでは?秀吉は海岸線を移動したが柴田勝家は山道だし....結局勝った者勝ちの歴史だし。
個人的には逆だと思う。信康は家康の娘婿で、徳川本貫の三河・岡崎城主。対して家康は織田と血縁なし、新領地遠州在住。織田から見れば遠からず徳川の代替わりを狙っていたはず。家康は有能だがそれ故危険でも有る。家臣団も三河と遠州で分裂&分断する傾向が・・・石川数正が信康派で織田従属志向、酒井忠次が家康派で独立志向と考えるとその後のあれこれが説明しやすい。
なんで上杉景勝の画像が吉宗なの?
狡兎死して走狗烹らる・・・佐久間信盛はそれだった・・・
そうそうそうなんです
この時期の信長って、北陸方面軍(柴田) 四国方面軍(?)、中国方面軍(秀吉)と手広く戦っててなんか変すよね。この上徳川とも敵対するとなると、四方敵ばかりという事になる。なんか病気かもしれないですよね。
家康関連は大きな嘘は書かないけど細かい嘘は平気でつくことが判明してるし金ヶ崎は出陣してないと思うよ
家康と信長の関係は、確かに同盟相手というよりは、部下的であるというのは納得できます。それでも、何故家康を討伐するはずの光秀が、敵を切り替えたのかは、これでも説明できないと思います。もしあらかじめ家康と通じていたなら何故家康が三河に帰ってから光秀とは無関係に行動したかが説明できませんね。少なくとも光秀側から、家康に対して全く通信を行っていません。
光秀は味方してくれる予定の奴らが動かなくて説得に必死で家康どころじゃなかった。信長の悪口言い合ってた仲間と思っていた奴らに梯子外された形。そもそも家康が堺に居たのは信長が武田征伐から帰る際に盛大な接待を家康から受けてその恩に報いるためで、そこで失態をして信長に叱責されたのが光秀。声をかけられるわけがない。
しりぞき口とか、言いにくいだろw
霊夢と魔理沙のがお互い「お前」呼び合いがなんか嫌だな😢
謀反 → ぼうへん退き口 → しりぞきぐちこれはあかん
むほん、のきぐち ですね ご指摘ありがとうございます、以後気をつけます!
真相真実を誰も知らないのに強く否定出来る人達がびっくりするぐらいうらやましいね
「じょうほう」も噴飯ものである。「かみがた」である。
「檄を飛ばして」である。
残念ながら小説的な言説のつぎはぎの範囲内ですね。一次史料に基づく、あるいは反映された論文を引用できればいいのですが。
光秀の単独計画だろうね!秀光の性質が特別だったと言える!!頼朝と同じ性質だよ!!
これは現状の資料からは「定説」と言ってよいでしょう。多くの人がこれに同調、近い線を考えていると思います。これを変えるには相当の資料の出現が必須です。2023年時点での最も有力な定説を詳しく解説いただきました。ご苦労様です。
私がいつも不思議に思うのは毛利が本能寺の変を聞いた後にすぐに秀吉を追いかけ攻撃しなかったこと。仮にその追いかけ攻撃に少し時間がかかったとして、ある程度光秀と戦った秀吉の軍は長旅の後の戦いで相当疲れているだろう。つまり秀吉かもしくは光秀と勝ったほうをやっつけて天下取りができたはずなのになぜに毛利は動かなかったのか?私にとっての日本最大ミステリーです。今度このお題で動画作ってください。
吉川元広の追走案を却下したから
信長の首が見つからず秀吉は信長生存の噂を流していたので本当に信長が生存している説を信じたとしたら追撃はやり辛いと思いますよ。ただ織田家で光秀謀反の事実たが信長の生存の有無がはっきりしないので様子見して気を逃したみたいな。
@@hamham3601コメントありがとうございます。私も長年、追撃しなかったの信長の生死が不明だったからと単に思ってきたのですが、最近本能寺の変の頃の歴史動画がRUclipsでたくさんあり見てて不思議に思うのです。まずは、全く動かなかったという点です。追撃に出て あ~信長生きてた~とわかれば引っ返せばいいだけ。次に、当時はもちろん情報の伝達は遅いですけど、さすがに秀吉と光秀が戦っていたら信長の生死など気にせず、秀吉と光秀が戦ってくたびれ果てたところをやっつけに行くことはできたでしょうに。そう思いません?
「ボウヘン」など聞いたことがない。「むほん」である。
上杉の画像が徳川吉宗なのはなんか意味あるの?
興味深いが誤読が多く中身が入ってこないよう
「しょうかず」ではなく、「しょうすう」である。
家康さんは光秀リスペクト
単純に社長室長的な立場にあった光秀が自分でもやれると思い込んだだけでしょう。戦国時代なら別に珍しくない。
言うた、者勝ちの、新設。
しりぞきぐち やなく のきぐち な。 些細な事やけど扱ってるテーマ考えたら説得力無くなる
「退き」の読みは「しりぞき」→「のき」じゃないの?
そうですね。まぁ読み間違えはいつもなんで。織田信雄(おだ のぶお)って言ってたし。間違えではないですが……
@@user-uw1mk8ib1t 織田信雄は「のぶお」で正解ですよ現代読みが「のぶかつ」なだけです
それを言ったら上野(こうずけ)を(うえの)と言っている
ホトトギス
本能寺の変の黒幕は秀長説があるかなと思ってます。信康の事は徳姫と瀬名姫の関係性も一緒に解説しないと。
「他のケ」も聞いたことがない。「だいみょうけ」なら理解できる。
私は秀吉謀反説ですね。中国攻めに与えられた大軍勢を水攻めで温存しており千載一遇であり最後のチャンスでしたから。中国大返しも温存していた兵力を既に京攻めに動かしていたと考えないと物理的に説明がつきません。光秀にすれば命令通り中国に向かい既に陣を整え多勢な秀吉軍と衝突すれば敗北は必至ですから京を占拠し秀吉を迎え撃つ方がまだ勝ち目があると考えたのでしょうが、結果は御存知の通り。
信長はヨーロッパへ?本能寺の変は茶番では?
マンガの(夢幻の如く)の内容であるらしい(夢幻の如くは読んで無いから解らぬが信長関係の書籍で紹介されて居た)
木内鶴彦さんの話を思い出しました。
家康が織田家NO 2って笑わせてくれるな。
私の中の本能寺の変はですね⁉️織田信長が明智光秀の奥方に手を出そうとしたが、しかし明智光秀の奥方は織田信長を扇子で叩いてしまいそれから信長は明智光秀に辛く当たってしまうようになってしまった、それを苦にした明智光秀の奥方は病にかかり病死してしまう❗️明智光秀は側室を持たず奥方一筋だった為に奥方が亡くなった事で信長に復讐を狙っていたのだと思う⁉️そこへ本能寺に信長が手薄の手勢でいた為これは復讐チャンスと本能寺で織田信長を撃ったのだと思います💥多分ですが明智光秀には織田信長を倒して天下を狙うような、欲は無かったと思いますよそして明智光秀の看病疲れで明智光秀の奥方は亡くなったと言われてますが?はたして本当なのでしょうかね⁉️これが私の本能寺の変です⁉️
岡崎事件と本能寺の変、大河ドラマでもこの時代を扱うものなら必ず描かれるシーンですよね。様々な説があれど、どちらかというと家康は織田家よりも今川家の方から離れたかったと思います。「どうする家康」では反対でしたが。そして、今川義元の縁者である瀬名はともかく、信康はもしかしたら死なせず、名前を変えて生きながらえさせたのでは?という気もする。光秀が天海になったのと同じ程度の可能性としてはあり得るのかな?…と。
某戦国仮想戦記では、信康は天海(=光秀)の弟子・公海となっていました。
新資料が発見されない限り確かめようがない。光秀は事前準備調略無しに勝負しないんです。
韓信(関心)はするけど、納得はできない、かな。
なるほど、面白い考察です。
今まで聞いた本能寺の変の話のなかで、一番面白かったです!!
本当ですか?!めちゃくちゃ嬉しいコメントありがとうございます!
秀吉は各城に鎧とか武器とかをおいておいたんだよな。
だから鎧を着たままではなく、山崎の近くまでほとんど普段着で行って近くで着替えたんだよ。
明智と長谷川は親戚ですよw
明智と柳生も菅原道真公関係の親戚です。
秀吉とこは没落貴族ですが平安初期は中部から信州まで
真田は秀吉の一族の分家の生き残りです。
ちなみに明智と豊臣も平安初期からの古い親戚です。
面白い見立てだと思います
明智憲三郎著「本能寺の変431年目の真実」と大筋が同じ。
松平信康、ね。
家康のいる堺とは目と鼻の先の摂津住吉に織田信孝の四国討伐軍1万5000がいるのに、丹波から明智光秀に家康を討たせるというのが無理筋。堺と住吉は南海電車で1駅か2駅ほどしかないぞ。
南海本線、住吉大社→住之江→七道→堺
南海高野線、東住吉→沢ノ町→我孫子前→浅香山→堺東
まあ多少誤差はあるけど、メチャ近いです。まして1万五千の軍が駐屯してたなら、かなり迂回しないと気付かれますね。
謀反を起こしてない同盟相手を接待と称して呼び出して誅殺するなど
あまりにリスクが大きすぎる気がする。
韓信だって色々嫌がらせして謀反に追い込んで殺したわけで
なんの落ち度もない家康をいきなり殺して天下は取れないでしょう。
ただ信康と築山殿は武田と通じたことは黒だったそうですよ
光秀の計画的犯行なら、本能寺後の計画性のなさはどう説明がつくんだ?
説明のつかないことだらけ。
タイミングを伺っていたら
予定より早い時期に好条件が
揃ってしまい魔が差したような
タイミングで謀反になったとか。
あれ?これってノブやれるんじゃね?ノブやったらみんな味方してくれるよね?
そんな感じってことかなww
暗殺までの計画は上手くいったけど、暗殺後の計画が外れまくった可能性もあるんじゃね?
指示をしたのはヴァリニャーノ、実行犯は黒坊主彌助。
信長は生きていたかもしれない。という意見が見当たらなかったので一票入れます。
影武者もいただろうし骨ぐらい残ると思うよねぇ。全くないとなると。
同感です。最初からそこにはいなかった。とみる方が面白いですよね。
「あ〰︎、休みたい。オレみたいな中途採用出世させてくれたけど、会長休ませてくれへんがな。んで仕事成功したら、次の仕事のハードル上げてくるしな。あれ?今会長も若社長も殆ど裸やん。いまやったらイケんちゃう?ほなオレ休めるやん。」という光秀鬱病説。
本能寺の変に家康が噛んでいるとの見解には同意しますが、1.「家忠日記」によれば家康の「神君伊賀越え」は、6月2日早朝の本能寺の変の発生から超スピード二泊三日で6月4日には三河大浜(碧南市)に到着してます。非常に高い計画性、用意周到さが伺えます。2.秀吉には子がなく、すでに信長の四男・秀勝を養子に迎えて身の安全を図っており他の織田家重臣と比べると危機感は薄かったとみられます(むしろ信長に徹底的に尽くした方がプラス)、3.(依田信蕃はじめ)武田遺臣を信長に隠れて勝手に匿ったり、家康の「謀反」はすでに武田征伐の終盤から始まっていました。なぜなら、武田征伐後、(かつての水野信元と同じく)織田信忠・織田家重臣・後北条氏に取り囲まれ、伸びしろゼロの状態に陥っていたからです。4.信長は、後継者の信忠と武田信玄六女・松姫の婚姻(信忠の付家老・河尻秀隆が甲斐一国を任されたのもセット)&北条氏直も信長の娘婿にする縁談を進めており、これが完成していたらもう家康は完全に詰み、陽の目を見ることはなかったでしょう。おそらく信忠と松姫の間に生まれた息子の誰かが甲斐武田氏の名跡を相続するプランだったのでしょう(後に家康もこの信長のプランをパクり、五男・信吉に武田家の名跡を相続させます)。当時それくらい家康は追い詰められていたということです。
詳しくコメントありがとうございます!
どうする家康の筋書きですか?。
3:13 金ヶ崎の退き口(かねがさきののきぐち)では? 浅井は清音のアサイではなく、濁音のアザイでは?
信長と光秀と秀吉や幕府や朝廷と深い細川藤孝はどこ行ったんでしょう。
上杉景勝像は徳川吉宗像じゃない?
すごく面白かったです!
他の動画も拝見したいのですが、動画の二人の声が聞きづらいです😭
視聴いただきありがとうございます!
本能寺の変以前の明智光秀はそうだったとする
変後の光秀のもたつきは?
秀吉は四国討伐軍を吸収して光秀と戦ったのが現実的と思う
一次史料や最近の新説資料のことは どうして話してくれないのですか??
戦国に詳しくない人が聞いたら、この旧説を信じてしまい
朝倉攻めは若狭を巡っての義昭と朝倉の対立、浅井も動員されてるから織田家家臣だったと断じることはできない
興味深い動画でした。
主張されている「本能寺の変」の真相については、矛盾なく理解できる説だと思いました。
上方:かみがた、(金ヶ崎の)退き口:のきぐち、上野:こうずけ、
中国大返し:ちゅうごくおおがえし、馬揃え:うまぞろえ、丹羽長秀:にわながひで
などの読み方を、アバターが間違えているところがあります。
ああすごいすごい 読み方なら皆知ってる
ソフト相手にマジレス草
光秀が反旗をする必要性は 全く持ってないよ。信長に機内を任され重要され、最終的に土岐源氏の再興を土岐源氏諸氏から託されていたわけで、反旗したらすべて水の泡。信長も光秀には大大名にゆくゆくなってほしい。と思ってたし。
信長が光秀に中国へ応援に行く前に京都へ寄るように伝えてる。 明智軍を装う何者かに信長は襲われ そこに丁度 本物の明智軍がくる。よって、光秀が反旗をしたことになった。
その後、すんごい速さで大軍で来たのは、だれかなあ??
嵌められたに決まってる。
面白いですね、なるほどと思わせていただきました。^_^
結構深掘りで面白かった。! だが私の考えでは秀吉説が一番説明が付きやすいと考えています。
こちらの側に立ったご意見を鶴首!。
黒田官兵衛が1枚噛んでいたので!
敵がたにスパイがいたんだろう 何か日本は明智光秀に 米国が中国がロシアが韓国が 最後にかんたんに上前はねる?
それこそ「どうする家康」の秀吉みたいに自分は(信長殺しの)手を下さずに他者が手を汚すのを待って、その仇討で秀吉が天下を~の方が納得します。
@@ryoudori 詳細内容な返事、ありがとうございます❕
キリシタンは未開国占領の尖兵と理解しています。
あと、事変を聞いて、間を置かずに毛利氏と和睦。大返しも、おびただしい兵力が移動するのに、何の事前準備もなく即日兵員移動が出来たこと、が私には説明が付きません!
皆たけしの首見ようぜ⤴
3代将軍家光の乳母は春日局。彼女は光秀の重臣斎藤利三の娘。家康は光秀に感謝してた事は事実でしょうね。
やはり平時の危機管理だな。納得した腑に落ちました。
朝倉攻めは足利将軍からの御教書(命令書)に基づいて織田家中・徳川家中などに動員を行った
から徳川家中が近江・越前まで出張ったんですが?
信康粛清は岡崎派のクーデターを事前に叩いたのが最近のメインになっていますが?
最近のメインというか、当時の史料にそう書かれているので当時からの常識ですよね。
ただ信長が美少女だったと思い込むのと同じで、創られた内容ほど人の記憶に残りやすいのです。
黒幕とまでは言えないにせよ、キーパーソンは細川幽斎(藤孝)だと思う。羽柴、徳川両家に内通していたとすれば、その後の辻褄が合う。
ナイスな考察ですね!
中国大返しは、瀬戸内海は使えないの?
確か最近の資料だと信長は信康の切腹は命じて無いのでは?徳川家中の問題として家康に事後処理を一任していた。まぁ、ここからは私の持論だが信長的には尾張の東側に居る三河衆の恨みは買いたく無かった。なので家康に任せてどんな結論だろうが容認する気だったけど、家康が忖度の仕方を間違えた……とか思ったりしてます。
興味深い動画をありがとうございます 14.6辺りで上方を じょうほう と発音されていますが 正しくは カミガタ ではないでしょか
言い間違いを挙げていたらキリがないよ。
徳川を討つ大義名分が無さすぎる事はどうお考えですか?
いろいろあったんじゃないでしょうか…
信康の切腹を要求していないのではないかという説もありますよね
確かに最後はちょっと寒かったけれどww 光秀は生き延び、家康の陰の参謀となって豊臣家を滅ぼし、やがて天海となって再び現れた、となるのが、一番ロマンを感じます。
中国大返しは、甲冑などの重装備は船で運び、兵員は軽装で歩かせたんですけどww
亀山城で出陣の準備を進める光秀の元に、「上様(信長)が『陣容を見たい。』と言っている。」と伝える森蘭丸の使者が来て、京都経由になった。
補足コメントありがとうございます!
新しい見方の萌芽を感じました。信長は武田家臣団を家来にするな!としていたにもかかわらず、甲斐周辺の統治のため、採用していますから。
徳川家臣団には、足利氏系、武田氏系、北条氏系、後に織田氏系がいますから。
上杉景勝の説明の時の画像は徳川吉宗では?
ゆっくりとは言え、漢字の読み間違いが気になって動画に集中出来ねえw
浅井の裏切りに撤退を頑として勧めたのは家康と秀吉だったとかの説もあるとか。
「まさしく」である。
ウグイスを殺しとらんよ。
ホトトギスやで。
by信長
なかなかに面白い考察だとおもう。偉い先生方の最新の説とは異なるけど、偉い先生の最新の説が正しいとは限らない。偉い先生の最新の説は、これもまでも変わってきているし、これからも変わっていく。目撃者が生存していないのだから仕方ない。残されている資料に書かれていることが正確かどうかも分からないし、新たな資料が発見されるかも知れない。現在進行形の事件の裁判ですら誤審だらけなのだから、何百年前の事件の裁判となると困難を極める。
長谷川家と明智は親戚ですよw
明智と柳生も一族です。菅原道真公から繋がるねw
上杉の肖像画、米将軍に似ている
コメントありがとうございます!
う~ん。信長って武士よりも商人寄りで接待もでき、調略や怖い戦略はあまりとってないのに、後の徳川の世で違う印象を付けられたとしか思えない・・・。家康の動き(直前の堺行や一報の前から伊賀越えに向かってった)も、秀吉の動きも怪しくって、光秀の動きに穴があり過ぎて、嵌められた感が強すぎる・・・。謀反じゃない別のシナリオに光秀が乗って、謀反するしかない状況に追い込まれた説が好き。
お市の長女茶々が浅井長政の子供じゃない説の検証をお願いしたいです。大阪弁で「チャチャを入れる」は邪魔をするの意味で、二女に「お初」という長女に付ける名前を命名したのがどうにもふに落ちません。
長政の初の姫だからとか、なんてね。
正にその通りで、誰かの子(茶々)を妊娠していたからと推察しないと「ちゃちゃ」=邪魔、「お初」=最初の子という名前の整合性が取れない。しかし公式文書にはそんなことは書いていない。だから名前の由来が謎のままです。三女は「お江」=近江で生まれたとわざわざ由来がわかる命名にしてますし。
そっち系の説だとお市は信長の妹ではなく、茶々の父親も信長だと言う事に、何百年も前でありながらデリケートですよね。
まぁ光秀、家康結託説ってなぁ後の春日ノ局の件や天海と同一人物説、日光の明智平なんて地名の件が在るんで、否定し難いはし難いかもね
まぁ永遠に全部闇の中なんでピーチクパーチク楽しみまっしょい🎵
光秀=南空坊天海だった。表舞台から去った光秀は、密かに家康側近として活躍した。(続編)
とても面白い考察でした。
諸説ありのミステリー
次は龍馬 暗殺の見解を
お願いします
ruclips.net/video/mIQJiEHh69Q/видео.html
ruclips.net/video/Inw6WGfvkwg/видео.html
あざーす!\(^-^)/
色々と…後世に書かれた2次資料とも言えない話も混じってない?? ま、いっか。。服部半蔵??が??伊賀越えを?
キリストがの侵襲を潰した秀吉、家康に感謝!
明智光秀と羽柴秀吉はライバル関係、確執があったのかな?
軍団が長距離移動の時、甲冑は脱いで供の者が
運んだり、帯同の荷役部隊が運んで行きますの
で、現在の「大返し」を扱った戦国ドラマの様に
武将達が甲冑姿で乗馬し長距離移動した訳では
無く軽装で移動したそうです。特に羽柴軍団は
石田三成ら支援部隊が優秀だったと云います。
信長と信長の長男がいなくなると、誰が一番得をしたか。。ですね。
スレ主さんの考えた通りだと思います。
聞き流していて、何を言ってるのかと字幕を見返した。
一般に、
金ヶ崎の退き口(かねがさきののきぐち)、上方(かみがた)、中国大返し(ちゅうごくおおがえし)ですね。
安心して聞き流せる動画にしてもらいたい。
聞き流してやれよ
「ちゅうごくおおがえし」である。
信長は信盛には期待していたと思う林や安藤みたいにいきなり追放じゃないからね、それで追放を選んだんだから信長が激怒するのも判る話。
いまさら信長による信康忙殺なんて何年前の話だよってね、家康としては舅の信長に報告しないと処分できないし、どう考えても徳川家の内紛に信長が巻き込まれただけとしか見えないな。
全体的にかなり昔の話の紹介で今の説は調べていないように見えます。
秀吉の中国大返しは信長の中国出陣に備えて街道を整備したり、兵糧や武具を蓄えたりしていたからでは?秀吉は違うと思う。
コメントありがとうございます!
付いていけない者は、おいてくぞ!
魚津城から北ノ庄城に引き返した柴田勝家の方が早かったのでは?秀吉は海岸線を移動したが柴田勝家は山道だし....結局勝った者勝ちの歴史だし。
個人的には逆だと思う。
信康は家康の娘婿で、徳川本貫の三河・岡崎城主。対して家康は織田と血縁なし、新領地遠州在住。
織田から見れば遠からず徳川の代替わりを狙っていたはず。家康は有能だがそれ故危険でも有る。
家臣団も三河と遠州で分裂&分断する傾向が・・・
石川数正が信康派で織田従属志向、酒井忠次が家康派で独立志向と考えるとその後のあれこれが説明しやすい。
なんで上杉景勝の画像が吉宗なの?
狡兎死して走狗烹らる・・・佐久間信盛はそれだった・・・
そうそうそうなんです
この時期の信長って、北陸方面軍(柴田) 四国方面軍(?)、中国方面軍(秀吉)と手広く戦っててなんか変すよね。
この上徳川とも敵対するとなると、四方敵ばかりという事になる。なんか病気かもしれないですよね。
家康関連は大きな嘘は書かないけど細かい嘘は平気でつくことが判明してるし金ヶ崎は出陣してないと思うよ
家康と信長の関係は、確かに同盟相手というよりは、部下的であるというのは納得できます。
それでも、何故家康を討伐するはずの光秀が、敵を切り替えたのかは、これでも説明できないと思います。もしあらかじめ家康と通じていたなら何故家康が三河に帰ってから光秀とは無関係に行動したかが説明できませんね。少なくとも光秀側から、家康に対して全く通信を行っていません。
光秀は味方してくれる予定の奴らが動かなくて説得に必死で家康どころじゃなかった。信長の悪口言い合ってた仲間と思っていた奴らに梯子外された形。
そもそも家康が堺に居たのは信長が武田征伐から帰る際に盛大な接待を家康から受けてその恩に報いるためで、そこで失態をして信長に叱責されたのが光秀。声をかけられるわけがない。
しりぞき口とか、言いにくいだろw
霊夢と魔理沙のがお互い「お前」呼び合いがなんか嫌だな😢
謀反 → ぼうへん
退き口 → しりぞきぐち
これはあかん
むほん、のきぐち ですね ご指摘ありがとうございます、以後気をつけます!
真相真実を誰も知らないのに強く否定出来る人達がびっくりするぐらいうらやましいね
「じょうほう」も噴飯ものである。「かみがた」である。
「檄を飛ばして」である。
残念ながら小説的な言説のつぎはぎの範囲内ですね。一次史料に基づく、あるいは反映された論文を引用できればいいのですが。
光秀の単独計画だろうね!秀光の性質が特別だったと言える!!頼朝と同じ性質だよ!!
これは現状の資料からは「定説」と言ってよいでしょう。多くの
人がこれに同調、近い線を考えていると思います。これを変えるには相当の資料の出現が必須です。2023年時点での最も有力な定説を詳しく解説いただきました。
ご苦労様です。
私がいつも不思議に思うのは毛利が本能寺の変を聞いた後にすぐに秀吉を追いかけ攻撃しなかったこと。仮にその追いかけ攻撃に少し時間がかかったとして、ある程度光秀と戦った秀吉の軍は長旅の後の戦いで相当疲れているだろう。つまり秀吉かもしくは光秀と勝ったほうをやっつけて天下取りができたはずなのになぜに毛利は動かなかったのか?私にとっての日本最大ミステリーです。今度このお題で動画作ってください。
吉川元広の追走案を却下したから
信長の首が見つからず
秀吉は信長生存の噂を
流していたので本当に
信長が生存している説を
信じたとしたら追撃は
やり辛いと思いますよ。
ただ織田家で光秀謀反の事実たが
信長の生存の有無がはっきりしないので様子見して気を逃したみたいな。
@@hamham3601
コメントありがとうございます。私も長年、追撃しなかったの信長の生死が不明だったからと単に思ってきたのですが、最近本能寺の変の頃の歴史動画がRUclipsでたくさんあり見てて不思議に思うのです。まずは、全く動かなかったという点です。追撃に出て あ~信長生きてた~とわかれば引っ返せばいいだけ。次に、当時はもちろん情報の伝達は遅いですけど、さすがに秀吉と光秀が戦っていたら信長の生死など気にせず、秀吉と光秀が戦ってくたびれ果てたところをやっつけに行くことはできたでしょうに。そう思いません?
「ボウヘン」など聞いたことがない。「むほん」である。
上杉の画像が徳川吉宗なのはなんか意味あるの?
興味深いが誤読が多く中身が入ってこないよう
「しょうかず」ではなく、「しょうすう」である。
家康さんは
光秀リスペクト
単純に社長室長的な立場にあった光秀が自分でもやれると思い込んだだけでしょう。
戦国時代なら別に珍しくない。
言うた、者勝ちの、新設。
しりぞきぐち やなく のきぐち な。
些細な事やけど扱ってるテーマ考えたら説得力無くなる
「退き」の読みは「しりぞき」→「のき」じゃないの?
そうですね。まぁ読み間違えはいつもなんで。織田信雄(おだ のぶお)って言ってたし。間違えではないですが……
@@user-uw1mk8ib1t
織田信雄は「のぶお」で正解ですよ
現代読みが「のぶかつ」なだけです
それを言ったら上野(こうずけ)を(うえの)と言っている
ホトトギス
本能寺の変の黒幕は秀長説があるかなと思ってます。
信康の事は徳姫と瀬名姫の関係性も一緒に解説しないと。
「他のケ」も聞いたことがない。「だいみょうけ」なら理解できる。
私は秀吉謀反説ですね。中国攻めに与えられた大軍勢を水攻めで温存しており千載一遇であり最後のチャンスでしたから。中国大返しも温存していた兵力を既に京攻めに動かしていたと考えないと物理的に説明がつきません。
光秀にすれば命令通り中国に向かい既に陣を整え多勢な秀吉軍と衝突すれば敗北は必至ですから京を占拠し秀吉を迎え撃つ方がまだ勝ち目があると考えたのでしょうが、結果は御存知の通り。
信長はヨーロッパへ?
本能寺の変は茶番では?
マンガの(夢幻の如く)の内容であるらしい(夢幻の如くは読んで無いから解らぬが信長関係の書籍で紹介されて居た)
木内鶴彦さんの話を思い出しました。
家康が織田家NO 2って笑わせてくれるな。
私の中の本能寺の変は
ですね⁉️織田信長が
明智光秀の奥方に手を出そうとしたが、しかし明智光秀の奥方は織田信長を扇子で叩いてしまいそれから信長は
明智光秀に辛く当たってしまうようになってしまった、それを苦にした明智光秀の奥方は
病にかかり病死してしまう❗️明智光秀は側室を持たず奥方一筋だった為に奥方が亡くなった事で信長に復讐を狙っていたのだと思う⁉️
そこへ本能寺に信長が手薄の手勢でいた為
これは復讐チャンスと
本能寺で織田信長を撃ったのだと思います💥
多分ですが明智光秀には織田信長を倒して天下を狙うような、欲は
無かったと思いますよ
そして明智光秀の看病
疲れで明智光秀の奥方は亡くなったと言われてますが?はたして
本当なのでしょうかね⁉️これが私の本能寺の変です⁉️
岡崎事件と本能寺の変、大河ドラマでもこの時代を扱うものなら必ず描かれる
シーンですよね。
様々な説があれど、どちらかというと家康は織田家よりも今川家の方から離れたかった
と思います。「どうする家康」では反対でしたが。そして、今川義元の縁者である瀬名
はともかく、信康はもしかしたら死なせず、名前を変えて生きながらえさせたのでは?
という気もする。光秀が天海になったのと同じ程度の可能性としてはあり得るのかな?
…と。
某戦国仮想戦記では、信康は天海(=光秀)の弟子・公海となっていました。
新資料が発見されない限り確かめようがない。光秀は事前準備調略無しに勝負しないんです。
韓信(関心)はするけど、納得はできない、かな。