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色々言われてるけど、この人色んな意味で謙虚なんだよね。学習院での教育が白樺派に批判されたときは反発するでもなく、森鴎外に相談したりしてる。ただの狂気の国粋主義者ではなく真面目でちょっと古風な人なんだったんだろうね。なお、乃木神社の記念館では神社の人による白樺派への恨み言が書かれているので興味があったら探してみて。
素晴らしい動画でした。文学を志した心優しき少年は軍人となり我が子を自身の采配の果てに亡くしてしまう、、その数奇な運命は乃木坂としても名を残した。失意と誉れと葛藤の人生は重き荷物を背負いて坂道を登るがごときのような道だったのですね。
乃木が乃木坂に住んでなければ、乃木坂46は幽霊坂46だったのか
あ、あかん、どこをどういじくっても人気が出そうにない…。😅
しんみりと動画見ていたのに…(笑)
キュンキュンキュンキュンどうして…
箱根駅伝の好きなアイドルなら権太坂46
道徳やらなんやらの授業で学校にこの人の生涯を教えるべきだと思う。金・地位・名誉を全てを手に入れてたが果たして幸せだったろうか?幸せとは何ぞやと考えさせられる。
戦いに身を置くべき人ではなかったんだろうな、でも時代がそれを許さなかった。無数の後悔と苦悩を抱きながら、それでも使命を全うした、武士の心を持った強く優しいお人だったんだな。凄まじき英霊に感謝と哀悼を捧げます。
乃木神社に行った方がいい僕は去年行きました
毒親に片目潰されるわ、松陰殺しかけたレベルのスパルタで有名な玉木文之進にガン詰めされるわなんて地獄みたいな状況からよくここまで情深くて高潔な軍人に成れたなぁというのが正直な感想…司令官として有能だったかはさておいて自分には到底真似できない
仲代達夫さん演じる乃木大将、凄かった・・・😭💦乃木さんの漢詩と和歌の才能が高い。平和な時代なら文学者とか芸術家になったかも。
本当は乃木さんは文学者や漢詩の詩人になりたかったですからね。その点、両親が許さなかった、、、
色々といわれているけど、青山墓地の乃木家の墓を見てみたらいい私心など露程もない立派な方です。どうかご家族で安らかにお眠りください。
勝っても驕らず、兵を愛し、敵将に敬意を払った名将として国際的に評価が高いのに、戦後の創作のせいで無能呼ばわりされている。
せがれ二人が生存していたら、「乃木大将ファン」はもっと少なくてバッシングの嵐だったんだろうね
素晴らしい動画ですが、1912年7月30日の 明治天皇崩御に 自刃した様に 誤解しそうになるのが惜しい。 自刃は、同年の大喪の礼 9月13日でしたから。
司馬遼太郎のせいで乃木将軍を無能と思い込んでいる人が多いので何とも言えない気分になる...
WW1のヴェルダンの戦い(双方合わせて70万の犠牲)とか見てるとむしろ非常に被害抑えて速攻で要塞抑えて戦った(1万5千の犠牲)名将になるという
@@フォード-i1w同感。敢えてそれ以前に例を求めれば、クリミア戦争のセヴァストポリ攻防戦さえ三百数十日かかっている。このクリミア戦争の少し後に文明開化した国の軍隊を率いて、セヴァストポリより遥かに堅い要塞を半分以下の日数で攻略した。この時の「対壕」や「巨大攻城砲の活用」は、これ以後の要塞攻城のひとつの範となった。名将には違いないのだ。
司馬遼太郎はあれだけのものを書きながら、意外と近代の築城というものを知りませんね。例えばロシア軍が町を占拠して後ろの壁を取り壊しました。それを司馬はもう逃げる準備をしていると書いています。あれは前方で戦闘についている歩兵が退却した時に収納しやすくする為と補給をスムーズにする為、さらに敵に占拠されても後方の砲台から攻撃して、敵が留まっていられなくする為です。この時代、歩兵はあくまで機動で戦うものでした。陣地は一時的避難場所のようなものです。
@@weirdohsrodd同感。高校生のころに読んだ「坂の上の雲」の、旅順攻撃の項に、「この時代、要塞攻撃方法としてはフランスのボーバンが確立した方法が定石だった」(だからそれをやらん乃木は無能だ)とか書かれていたので、「へえ、そんなもんか? ボーバンとは誰や」と百科事典で調べてみたら、日露戦争より二百年も前に死んだ人だったと知り、ナニが「この時代定石」なもんかと呆れたのを今でも覚えています。
実在した人間を勝手に使って妄想を書く迷惑男、それが司馬
陸自の善通寺駐屯地もかつて乃木将軍が初代師団長(第11師団)を務められたため、乃木神社がありました。(近年に漏電による火災で焼失)また、資料館にも乃木将軍に関する資料や執務室があります。
先人達の生き様に涙が出ます… 。😢
乃木将軍について話す時に忘れてはいけないのが所謂カリスマ性。親父のために一丁やるか!と、兵に思わせる人間性も併せて考えた方がいい。
203高地攻略に関しては、ネガティブな意見も多いが人としては立派な人だったと思う今の政治家に乃木将軍の御心が少しでもあれば、もっといい政治ができると思う
旅順が落ちるまでに半年もの間要塞に突撃を命じて一度に何百人もの兵士兵士が倒れていくそれでも勝つために屍の道を何度も進み、結果勝利を得たが見返りに将兵15000人と最愛の息子2人が犠牲となったこんな状況を自らの目で見ていて精神がおかしくならない方が異常だろう明治天皇の後を追った際の乃木の心境を考えるととても辛い
金州城や爾霊山などの漢詩が素晴らしくて好きな人です。乃木軍は旅順攻略ばかりじゃなく奉天会戦での働きも素晴らしかった。坂の上の雲は乃木批判しつつも乃木じゃなければダメだと評価するという矛盾を強く感じた。
よく自分で腹とか喉とか心臓とか突けつよな。俺なら怖くて駄目だ。
うちの近所に「河原林少尉戦死の地」と書かれた小さな碑が立ってたから何だろうと思って調べたら乃木希典が軍旗を奪われた場所だった軍旗がそんなに大事なものなら乃木自身が持っていればよかったのにと思ったけど、河原林少尉は乃木を守るために自分が軍旗を持って戦地に残ったんじゃないかとか色々想像してしまう
植木と玉東の間くらいですかね?
一番好き子供の名前は希典にします
同じ最期になるといいね😊
阿南惟幾や石原莞爾も崇拝していた乃木希典
やはり江戸時代生まれは根性が違うわ。
この人を主役にした大河ドラマも面白いかも…
乃木希典のような武士道精神崇高な人柄。昭和天皇の教育にも尽力した。
若い人たちは乃木坂の意味を知ってほしい
なんで乃木が軍人として向いてないと断言できるのか? ステレオタイプな司馬史観だね
なぜ向いている?😮
ていうか日本人の思う有能のイメージと乃木の人格が全くあってないからだろうね乃木の長所は頑固でも忠義と信念、真面目の人だが一般日本人が評価するのは拙速果敢でやんちゃだけどツボは押さえてる人。そのギャップが乃木の過小評価に繋がっている。ちなみに海外では乃木と東郷平八郎はサムライの鑑、理想的な日本人像として大変に支持されている。日本人の自画像と世界の評価が全く噛み合ってない笑
@@MON_MOSO_MON困難な状況にあっても将兵を潰乱させず、目的を達し、私生活に於いても乱れたところがない。難儀な戦をよくあれだけの犠牲で済ませたものだよ。
愛されて育ったかわからない幼少時代とか沢山失敗してしまって不遇のひとだけどたぶん優しいひとなんだろうと伝わる。部下も息子たちのことも守れなくて明治天皇も亡くなったから生きている意味を見出せなくなったのか子供たちを亡くしたら後を追いたくなる気持ちはわかる
黒木為楨さんと野津道貫さんもお願いします。
奥元帥もお願いします。
【クロキの名は負け知らずの常勝軍としてロシア軍を大いに畏れさせた】
昭和天皇への教育が、最期のご奉公だったのでは。
恐らく昭和天皇にとっては乃木こそ理想の将軍だったと思う。
乃木さん、片眼…。知らなかった…。
左目見えないのによく軍人になって大将までになったよなぁ~(・ω・)
寺内(正毅)閣下も右手が不自由なのにも関わらず元帥府に列せられた。
大山巌元帥も、片方の眼の視力が低かったらしいが。
ネルソン提督も隻眼だった。😮
伊達政宗、山本勘助、服部半蔵など、隻眼でも名を成した人は居ます。
私も司馬史観に惑わされました。考えてみれば航空機も無い時代は歩兵が突撃するしかありません。更に後に有名になる28㌢砲は第一次攻撃の時には未だ配備されてなく、そもそも陸軍には旅順攻略の計画は無かった。それでも失敗と言われる第一次攻撃では確実に前進しており、その後は塹壕による接近を始めています。最終的に旅順のロシア軍は兵力損耗による出血で降伏に至りました。奉天の会戦でもロシア軍の背後を突く攻撃で日本の勝利に貢献しています。もし彼が軍人にならなかったら日本はどうなっていたでしょうか?
司馬遼太郎の坂の上の雲を読みましたか?司馬は乃木を軍人として有能か無能かを問うており、結果として無能と評価しているだけ。伊地知は愚者として描いているが。もし、司馬史観などあるとすれば鎌倉武士からの、日本人のこころの在り方を考察しているところにあり、その精神性が日本人のバックボーンになり得るのではないかというところである、因みに司馬は昭和軍人であり、白襷隊作戦など血反吐が吐くほど嫌悪したのであろう。司馬史観などとほざく前に「太郎のくにの物語」など読め。
@@松丸健司 失礼ながら高校生時に「坂の上の雲」は全巻読みました。明らかに乃木司令官を愚将と描いています。真に受けてクラス担任(恩師です)に感想を話したところ「乃木のせいでウチの祖父さんは死んだ」と憤っていました。当時はその様な時代でした。彼の著作は他にも何冊か読みましたが題名は失念しました。「太郎のくにの物語」も同様ですが司馬氏が時代劇から歴史小説への転換期を作ったのは確かと思います。惜しむらくは世間が彼を盛り立て過ぎた結果(NHKは最たるもの)彼自身その立場に酔ってしまったかの様に感じられた事です。日露戦争を題材に新たに判明した事実でドラマを作ろうとして遺族から抗議があったと聞いた事もあります。また司馬氏が元陸軍戦車将校なのは有名ですが逆を言えば乃木将軍を否定した教育を受けた訳でもあります。妻の父(58期故人)も話しておりました。10年程前までは乃木司令官の評価について賛否両論で否定派の方は殆ど司馬氏の信徒でした。因みに白襷隊については別宮暖朗氏の著作をお勧めします。
@@松丸健司ちょっと好奇心がある人間なら「坂の上の雲」を読んだあとで他の戦記・記録・実録に当たってみて、司馬遼太郎著作との落差にビックリするという経験は誰しもしているもんだと思っていたよ(笑)作家が面白い切り口を見つけてストーリーテルを行うのは別に非難すべき話でもなかろうが、作家の世界にドップリ浸かって事実そのものには盲目なものが「司馬史観なんぞとほざく前に」なんぞとイキリ倒しているのは、見ていて実に滑稽だ。オレの先祖は第三次の旅順総攻撃で戦死した。長男(初子)の誕生を知らせる電報を受け取った直後の出撃・戦死だったと言う。この先祖の墓碑銘は、乃木大将の字だ。子供の頃から、立派に戦死されたから立派な軍人から墓碑銘を書いていただいたと我が家の者共全員そう教わって育っている。
@@フロムフロム同感。そもそも軍人として司馬遼太郎は無能。「坂の上の雲」の中でも、「抑えの兵を置いて旅順を北上する方法がある」等々、近代戦を全く理解していない様な「ご提案」を書いている。同書の中で「攻城法としては当時ボーバンの確立した方法が一般的だった」とかかれているそのボーバンが「当時」からさえ百年以上昔の人間だと知った時には、オレは唖然とした。「殉死」には、大石橋の戦闘を引いて、乃木には惨戦になると顔を覗かせる自殺願望があり云々との解釈を並べているが、敵弾雨飛の前線付近に司令部を進めたのは(別宮さんを読まれたのならご存知だろうが)大山・児玉司令部からの命令だった。(司令部では獣医部長まで戦死。一戸兵衛などは晩年に至るまで児玉に批判的だった)落合直文の遺族との諍いは知られているが、乃木に関しても「坂の上の雲」の連載中、福田恆存から「事実と違う。公開論争望む」との申し込みを再々申し込まれたが、結局逃げ切ったのは、当時から一部では知られた話だった。乃木批判と並べて屡々司馬氏が陸軍批判のネタに挙げる「鉄の砲塔の戦車」なんぞも、砲戦車と三式戦車を間違えたのだろうとする説が強く、「そんな機械オンチを戦車兵になんぞするから負けたんだ」と極論する向きさえあるという。昭和の陸軍(の上層部)で乃木が批判的に扱われたのは、その厳格な生活態度が煙たがられたからだとも言われる。砲戦車と戦車との区別もつかぬ戦車将校がどう言おうと、乃木が旅順を落としたのは事実、後の世界に影響を与えたのが大山・児玉でなく乃木(要塞対壕、攻城砲運用等々)なのも事実である。
司馬遼太郎は所詮作家であって歴史学者ではない。彼の作品の特徴として極端に“主人公アゲ”を行う事を頭に入れておいて欲しい。“主人公アゲ”、つまり物語の主人公を盛り上げる為に(主人公の)ライバル的存在や敵対勢力を必要以上に悪し様に描く、という事だ。「坂の上の雲」で言えば秋山兄弟を盛り上げる為に乃木を下げた訳。だから司馬“史観”なんて偉そうなもんじゃない。そもそも“史観”じゃない。ただの一作家の“作劇法”に過ぎない。(因みに司馬の最大の犠牲者は「燃えよ剣」の芹沢鴨だと思っている。あれも主人公の土方歳三を盛り上げる為に芹沢を不当に貶めた。史実ではあんな酷い飲んだくれではない)
軍人としての評価は諸説あり過ぎて一概にこうだとは言い切れないけど人物としては、良くも悪くも真面目で不器用な人だったんだろうなと
乃木ファン(乃木希典)とかいうパワーワード
毒親やん
明治村に学習院で乃木さんが住まわれた官舎が保存されてます。
忠義に生きた哲学将軍と誉れ高い武人。旧知の間柄である野津元帥の息子の縁談に、末広ひろ子を紹介したら喜ばれたと言う。
夏目漱石が乃木を称えていたけど、弟子の芥川は乃木を封建主義の残党と批判していたことを覚えている。有名な文学者の間でも賛否が分かれるほど乃木の死は当時の人たちにとって衝撃だったんだろうね
強く同感。西欧的な個と、江戸期以前を引っ張った日本社会の個(主体性)の相克にキツく悩んだ夏目漱石は、乃木大将の自決を扱って「(明治天皇の)葬列御発簾の砲声を聞いて、明治という時代が永遠に去って行った気がした」「後にこの砲声と同時に乃木大将が切腹したと知った」「(聯隊旗を奪われて)数十年間苦しむのと、腹を切る刹那と、どちらが苦しいかと考えた」「乃木大将の自決を知って、自分も自殺の決意を固めた」(主人公は軍人でも何でもない、明治の知識人)と書いているのは、こうして要約すると滅茶苦茶なロジックに見えるのだが、逆にその時代での重い実感だったのだろうと思わされる。陸軍軍医の森鷗外は、やはり乃木大将の自決を知って「興津弥五右衛門の遺書」を書いた。西洋と東洋の相克に全精神で苦しんだ漱石と違い、鷗外は「江戸期の優等生が手前のアタマひとつでどこまでオノレの生を切り開けるか」みたいなところがあり、同じ題材を扱っても違うもんだと思わされるのだが、それでもやはり「一身にして二生を経る」人生を送った明治の人でなければ書けなかった作品だろうなとは思わされる。これが芥川になると、森鷗外と似た様な「アタマひとつで」的な作風であっても「殉死で死ぬのにナンで当日に写真を撮る必要があったのか」等々と、小馬鹿にした様な書き方をし始める。更に志賀直哉になると「ちょうど下女の情死でも聞いた様な気がした」と言うことになる。(武者小路実篤なんかも似た様なことを書いていた気がする)同じ素材でも年代でこれだけ捉え方や扱い方が違うのだから、明治の時代はやはり激動の時代だったのだと実感する。汽車が走ったとか戦争に勝ったとか、それだけの時代ではない。人がどう思うかどう感じるかは、それぞれ勝手なんだろう。オレにとっては芥川と志賀とは、読むには読むけど好きではない部類ではある。
いや、漱石と芥川のスタンス・思想からして当然やろとしか思わないけど
生きている事がこれ程苛烈極めた人も居なかっただろうな。神の御手で心健やかに休んで頂きたい。
武士ですね
旅順要塞陥落は203高地の帰趨に関係がないあくまでも望台の失陥によりステッセルは開城した
しかも地下から爆破。
ドラマ田原坂でも乃木の旗を奪われるシーンが出てきてる
🌴🌏🐎幕末〜明治維新後の現在の令和時代まで学ぶと大政奉還も気になりますね📱
悲運の将軍でした。陸大閥からのバッシングはやりきれない気持ちであったと思う。
乃木希典・静子夫妻が存命中に生まれた男性は残り6人。世界最高男性でさえ、3歳の時に亡くなっている。令和5年1月まで息子も存命中に生まれた人もいたが、男性は10人切ってるのはびっくりした。乃木希典も見た人当然居ないだろうし、存命中に生まれた人もほとんど居ない。完全に歴史の人になりつつある。
奥さんまで道連れにせんでよかったやろうに。
乃木将軍は有能だし個人としても聖人だしで日本に生まれてくれて感謝レベルの超人なんだよシバリョは時を越えて嫉妬したんだろう、あったこともない大先輩に笑
大義のために生きたのはわかるでもやっぱり多くの犠牲を出しすぎた正直複雑な気分by乃木坂オタク
乃木坂46って坂道シリーズだけどメンバーは乃木希典知ってんのかなあ
旅順攻囲戦で乃木の息子2人戦死した逸話に高級将校の息子もあっさり死んでしまうんだなと思った
長男の勝典少尉の戦死は南山の戦いだった。戦死の瞬間、乃木大将夫人(つまり勝典少尉の母)は「出征中の勝典が二階で本を読んでいる」気がして部屋を覗いたが勿論誰もおらず、異変を察したとの伝説がある。戦死の報が届いた時、見舞いに来た近親者を前に「乃木が日頃厳しく厳しくと申しますので、可愛がってやることもできず‥‥」と言いながら、握りしめていた手でハンカチを引きちぎっていたとの証言も残っている。母親の心を思うと、哀切である。
何か言おうと思ったけど、何も言えねぇや
要約するだけで、一筋で掴みにくい、波瀾万丈な人生を歩まれたのは、恐らく母親からの虐待が要因であろう。これは、どんなに才能があろうとその影を落とす。才能などなくても親から真の愛情を受け取って育てば、能力に応じた幸せを感ずる人生を送れるのである😢
エヴァで言う碇シンジなのか?
乃木邸から青山御所に地下道がある噂ありました!
旅順開城約成りて、敵の将軍ステッセル・・・自分生来の性格を殺して一生を終えた方かも知れない。メランコリーです。
トンでもねぇ母ちゃんやな…
乃木希典が当時は瘴癘の地だった台湾へと赴任する際に、「死んでも構わない。苦労する息子の傍にいてやりたい」と言って同行し、現地で亡くなったというから、愛情皆無というわけではなかったのだろうが、かなりキツい人ではあったらしい。この母親が怒って振り回した蚊帳の吊手が幼少期の希典の目に当たって片目の視力を失ったが、母親の恥になる話なので、この話題に触れられるのを乃木希典は大変嫌がり、黙っていたのだと言われる。静子夫人は親戚との集まりの席で「結婚して数年間も、夫が片目で片脚(西南戦争の時の負傷で片脚を引きずっていた由)なのを知らなかったのですよ」と明るく笑っていたのだとか。
乃木さんは介錯なしで自決したらしい地獄の苦しみだったらしい
玉木文之進との出会いが乃木を歴史に名を残す軍人にしたような気がする。この出会いがなければ目立たずに生涯を終えていたかもしれない。
軍人として優秀とは言えないんだろうけど、毒親育ちで大人になっても人格形成にも影響が出て、向いてないことやらされて息子2人を結果的には死に追いやる形になってしまって、どんな気持ちで生きていたんだろう。ただ明治天皇の後追い殉死したんだと思っていたけど違うんだね。救いが無い人生というか、本当に気の毒な人だと思う。
優秀でない……?(クリミア戦争時のセヴァストポリ要塞より堅牢な要塞を半年と2万にも届かない犠牲者で陥落させた)
まさに武人の鑑
😅
可哀想過ぎます❤
司馬遼太郎の作品って歴史を題材にしたフィクションでしょ〜。織豊政権の作品いくつか読みましたが、後世で否定されている事が全て書かれているような印象を受けました。
当時は物凄く流行ったんですけどね。書けば売れるし、人当たりのいい人物ではあった様ですが、本人(と奥さん)がかなりのやり手で、「内容が間違っている」との指摘を扱う出版社には「版権やらないわよ」で対抗した為に、生前には敢えて批判を扱う出版社がなかったとの噂を聞いたこともあります。小説家が面白い切り口を見つけてストーリーテリングを行うのは、必ずしも非難されるべきではありますまいが、そんなものを事実と思い込んでしまう者はやはり知的に怠惰と言われても仕方あるまいと思います。「司馬遼太郎の日露戦争」「阿川弘之の太平洋戦争」どちらも然り。
そりゃ60年代から70年代頃主に執筆してるんだから情報が古いのなんて当たり前でしょ笑加えてインターネットなんて無い時代に一個人が調査出来る量なんて限りがあるし
@@user-gw6dr1k4h5情報が古くて結果的に間違った場面描写になるのと、最初からフィクションを語るのとでは、おのずから話は全く話だ。執筆当時既に「資料が一点に偏り過ぎ」(陸大の参考書をネタ本に使ったので、参謀の「軍略」には能弁だが実態とはかけ離れている)「実名出しての創作」等々との批判は相当強かった。落合直文の遺族とは訴訟になりかけたとも聞く。(司馬氏が間違いを認めた)個人の取材能力に限りがあり云々というのも無意味だろう。それこそ個人の取材で乃木大将無能論に疑問を持った福田恆存は度々司馬遼󠄁太郎に公開論争を申し込んだが、司馬氏は逃げ切った。後に単行本の後書きで「乃木神話を信奉する向きからあれこれいわれたが、肯綮に中ることもないので無視した」とイイワケじみたことを書いている。ちょっと好奇心ある人間なら、図書館その他で日露戦争関係の資料や回想に当たってみて司馬氏の描出との落差に驚いた経験は誰しもあるのでは。乃木云々、日露戦争云々に限らず、長篠三段鉄砲(こんなものは昭和の頃に否定されていた)なんてものを「信長の独創」と称えてみせたり、別人を同一人物として扱っていたり(蒲生郷舎と横山喜内)、情報の古さ云々で済まない様な部分は相当多い。「日本人に東京志向が強いのは、平城京を見た地方律令民の感覚が残っているからではないのか」なんぞという「証明の仕様もない無茶な関連付け」が毎度頻発するのも、所詮はストーリーテラーなればこそなのだ。作家が面白い切り口を見つけて事実をもとに創作するのは、別に非難されるべきではなかろうが、それをまにうけて「いや、あの人取材してるんだから」と言うなら、そう言う者は知的に怠惰と言うべきだろう。
よっ。知的勤勉者。😊
@@草莽-b6dあなたの言っている事の論点がバラバラで何が言いたいのかわからん。 司馬の乃木批判は司馬自身の戦争体験から来る一種の拒否反応であって学術的な歴史検証の観点から批判してる訳では無いことぐらい理解出来るはずである。それに、大衆向けの小説に対して「証明の仕様もない無茶な関連付け」だと?あなた小説家に何を求めているのか?あなたは司馬遼太郎を歴史学者と勘違いしていないか?
昔の人って髭濃くて縄文系の人多いよね
ロシアは、1896年にシベリア鉄道の支線で満洲北部を通過する「東清鉄道」の敷設権の線路を敷き、鉄道を開設する権利を獲得。1898年には、旅順・大連の租借権ある国が条約により一定期間、他国の土地を借り受ける権利)と南満州鉄道の敷設権も得ています。ドイツは同じく1898年に膠州湾を、イギリスも同年に九龍半島を、フランスは翌1899年に広州湾をそれぞれ租借しています。このとき、日本は1898年に福建省の不割譲その国の領土を第三国に譲らないよう圧力をかけることを清国に約束させるに留まっており、アメリカはハワイやフィリピンへの領有地拡大に追われ中国進出に出遅れました。清国内では、1897年頃から「義和団」の活動が活発化していました。義和団は「扶清滅洋」で清国を助けて西洋列強を滅ぼす「西教排斥」のキリスト教排斥などを唱える集団で、列強の侵略により困窮した清国の民衆が支持したことから、国内各地で義和団を中心とする内政改革や外国人排斥の運動が大きくなりました。1899年山東省などで「義和団の乱」が起こり、清国の西太后がそれを支持する形で列強に宣戦布告します。これを受けて翌1900年日本軍が大多数を占める8ヵ国連合軍が出兵して清国の首都である北京を占拠。清国を降伏させました。「北清事変」と呼ばれるこの事件により、清国は列強各国に賠償金を支払うとともに軍隊の駐留権を承認させられます。そして日本軍は、活躍により列強の評価を得ることになりました。日清戦争後も、日本とロシアの緊張関係は続いていました。日本の中国大陸進出により、ロシアは自国の南下政策が日本に妨げられるのを恐れ、フランス・ドイツとともに「三国干渉」と呼ばれる勧告を行いました。列強の勢力がまだ及んでいなかった満洲に日本が進出するのと時期を同じく、ロシアも南下政策を積極化。これにより、日本とロシアの対立はさらに激化することになります満洲をめぐる外交策として、当時の日本政府内には伊藤博文や井上らによる日露協商論満州でのロシアの行動を認める代わりに、韓国における日本の優越権を認めさせると、首相の桂太郎や外務大臣の小村寿太郎らによる日英同盟論同じくロシアと対立傾向にあったイギリスと組んで、ロシアの南下を食い止めるという2つの意見がありました。伊藤博文は1901年に独自にロシアと交渉を持ったものの満足のいく回答が得られず、桂内閣は1902年ロンドンにて「日英同盟協約」の締結に至ります。この協約では、両国のいずれかが他の1国と交戦する場合には厳正中立を守り、2国以上と戦う場合には援護・参戦することなどが定められていました。これにより、日本は他の国による介入・参戦を恐れることなく、ロシアとの戦争に踏み切る準備を整えたわけです。満州占領を進めるロシアに対して、日本国内でも次第に強硬論が高まりました。非戦論や自重論もありましたが、論者はロシアを恐れる「恐露病」などと揶揄され、国内はほとんど開戦論一色に染まったのです。日本は日清戦争で得た賠償金の多くを軍事費に投入し、国民への租税増徴を行い、着々と軍事力の拡大を進めました。「韓国における日本の独占的な支配を認めさせ、満州におけるロシアの支配は鉄道経営などに限定する」日本がそういった提案を続けるもロシアは自国による満州独占の方針を変えようとせず、日本は最終提案を経て開戦の準備を行い、1904年日本は仁川沖と旅順港のロシア艦隊を奇襲し、宣戦を布告しました。日露戦争に辛くも勝利し、ポーツマス条約を締結、日本は同年9月に遼陽と沙河、1905年旅順、奉天での戦闘に勝利。いずれも厳しい戦いで、乃木希典司令官が率いた旅順攻撃は5ヵ月で3度に亘る総攻撃が行われ、日本兵130,000人の内死者59,000人の犠牲が出ます。天皇崩御後に乃木希典は夫婦共に追腹を旧乃木邸の一部分を公園としました。
旅順攻略でめちゃめちゃ部下を殺したのは変わらない
君が指揮官なら全滅だと思うよ😅
確かに日本帝国陸軍は死んだ。しかし旅順港を 抑えれないと日露戦争は、負けてた。それ位日露の軍事格差は有った。それくらい日本とロシアの全ての格差は有った。だからどの国もロシアに勝った日本を認めざるを得無いに成った。誰も出来ない事をした、お前に出来るのか?
強襲法というありふれた戦法。10年後の第一次大戦でも要塞攻略に使われている。つまり、これしかなかった。
なら兵士の犠牲を最小限で旅順を陥落させる方法を提示してください。当時でも実現可能な方法で
ロシア皇帝をやっちまうロシア人革命家をもう少し早く育てておくしかなかったな
この人も時代の犠牲者なのかもしれませんね。
【203高地】賛否両論有るが世界最強のバルチック艦隊の到着を遅れさすには 強行手段しか無かったと思います 戦士された日本兵 敵対したロシア兵の皆様方の【御冥福を御祈り申し上げます】🙇♂敬具
この方は絶対軍人には向いてなかったと思う。世が世なら有名な文学者になっていたかも
夫婦で自刃。無理心中じゃない?
💢そろそろ正しく歴史認識と後世に伝えて行って頂きたい!
自害しないように大正天皇を宜しくって言っておけよ、明治天皇よ
私は無能とは思いませんが大将としてはどうかとは思いますそれこそ樋口将軍のような鋭利な判断力とか実行力に欠けてると思います。ただ、そんなのは参謀連中の能力でどうにでもなるんですが、そこのところがね…結局児玉源太郎が乃木の下について(かなりの降格人事だけど)動かしたら、あっと言う間に状況好転したし…ただ、そのあとの乃木の武士道精神が国内外での日本の評価を上げたのは事実でしょう。だからやはり無能というのとは違うと思いますね
もし日本が日露戦争で敗北していたら、乃木希典はどうなったのだろうか?
軍人としての才覚の有無に関しては司馬遼太郎の評が正しいと個人的には思うが、乃木さんはやはりその生き方そのものが評価された…というより悪く言うと「利用された」という面が大きいと思う。
死ぬ事を美徳にしちゃダメですよ👎
やはりこの人は軍人としては無能だったと言わざるを得ない。どう後世の人間が取り繕っても司令官向きの人間ではなかった。ある程度サイコパス的性格をもった人間でないと合理的思考はできないんだろうと思います。
司馬遼太郎のファンタジー小説に毒された被害者ですね
小笠原長生に強い影響受けた戸川幸夫氏の書いた『乃木と東郷』の本は司馬私観の色眼鏡で書かれたものとは別物です。
色々言われてるけど、この人色んな意味で謙虚なんだよね。学習院での教育が白樺派に批判されたときは反発するでもなく、森鴎外に相談したりしてる。ただの狂気の国粋主義者ではなく真面目でちょっと古風な人なんだったんだろうね。なお、乃木神社の記念館では神社の人による白樺派への恨み言が書かれているので興味があったら探してみて。
素晴らしい動画でした。文学を志した心優しき少年は軍人となり我が子を自身の采配の果てに亡くしてしまう、、その数奇な運命は乃木坂としても名を残した。失意と誉れと葛藤の人生は重き荷物を背負いて坂道を登るがごときのような道だったのですね。
乃木が乃木坂に住んでなければ、乃木坂46は幽霊坂46だったのか
あ、あかん、どこをどういじくっても人気が出そうにない…。😅
しんみりと動画見ていたのに…(笑)
キュンキュンキュンキュンどうして…
箱根駅伝の好きなアイドルなら
権太坂46
道徳やらなんやらの授業で学校にこの人の生涯を教えるべきだと思う。
金・地位・名誉を全てを手に入れてたが果たして幸せだったろうか?
幸せとは何ぞやと考えさせられる。
戦いに身を置くべき人ではなかったんだろうな、でも時代がそれを許さなかった。
無数の後悔と苦悩を抱きながら、それでも使命を全うした、武士の心を持った強く優しいお人だったんだな。
凄まじき英霊に感謝と哀悼を捧げます。
乃木神社に行った方がいい
僕は去年行きました
毒親に片目潰されるわ、松陰殺しかけたレベルのスパルタで有名な玉木文之進にガン詰めされるわなんて地獄みたいな状況からよくここまで情深くて高潔な軍人に成れたなぁというのが正直な感想…
司令官として有能だったかはさておいて自分には到底真似できない
仲代達夫さん演じる乃木大将、凄かった・・・😭💦
乃木さんの漢詩と和歌の才能が高い。
平和な時代なら文学者とか芸術家になったかも。
本当は乃木さんは文学者や漢詩の詩人になりたかったですからね。その点、両親が許さなかった、、、
色々といわれているけど、青山墓地の乃木家の墓を見てみたらいい
私心など露程もない立派な方です。
どうかご家族で安らかにお眠りください。
勝っても驕らず、兵を愛し、敵将に敬意を払った名将として国際的に評価が高いのに、戦後の創作のせいで無能呼ばわりされている。
せがれ二人が生存していたら、「乃木大将ファン」はもっと少なくてバッシングの嵐だったんだろうね
素晴らしい動画ですが、1912年7月30日の 明治天皇崩御に 自刃した様に 誤解しそうになるのが惜しい。
自刃は、同年の大喪の礼 9月13日でしたから。
司馬遼太郎のせいで乃木将軍を無能と思い込んでいる人が多いので何とも言えない気分になる...
WW1のヴェルダンの戦い(双方合わせて70万の犠牲)とか見てるとむしろ非常に被害抑えて速攻で要塞抑えて戦った(1万5千の犠牲)名将になるという
@@フォード-i1w
同感。
敢えてそれ以前に例を求めれば、クリミア戦争のセヴァストポリ攻防戦さえ三百数十日かかっている。
このクリミア戦争の少し後に文明開化した国の軍隊を率いて、セヴァストポリより遥かに堅い要塞を半分以下の日数で攻略した。
この時の「対壕」や「巨大攻城砲の活用」は、これ以後の要塞攻城のひとつの範となった。
名将には違いないのだ。
司馬遼太郎はあれだけのものを書きながら、意外と近代の築城というものを知りませんね。
例えばロシア軍が町を占拠して後ろの壁を取り壊しました。それを司馬はもう逃げる準備をしていると書いています。あれは前方で戦闘についている歩兵が退却した時に収納しやすくする為と補給をスムーズにする為、さらに敵に占拠されても後方の砲台から攻撃して、敵が留まっていられなくする為です。この時代、歩兵はあくまで機動で戦うものでした。陣地は一時的避難場所のようなものです。
@@weirdohsrodd
同感。
高校生のころに読んだ「坂の上の雲」の、旅順攻撃の項に、
「この時代、要塞攻撃方法としてはフランスのボーバンが確立した方法が定石だった」
(だからそれをやらん乃木は無能だ)
とか書かれていたので、
「へえ、そんなもんか? ボーバンとは誰や」
と百科事典で調べてみたら、日露戦争より二百年も前に死んだ人だったと知り、ナニが「この時代定石」なもんかと呆れたのを今でも覚えています。
実在した人間を勝手に使って妄想を書く迷惑男、それが司馬
陸自の善通寺駐屯地もかつて乃木将軍が初代師団長(第11師団)を務められたため、乃木神社がありました。(近年に漏電による火災で焼失)
また、資料館にも乃木将軍に関する資料や執務室があります。
先人達の生き様に涙が出ます… 。😢
乃木将軍について話す時に忘れてはいけないのが所謂カリスマ性。親父のために一丁やるか!と、兵に思わせる人間性も
併せて考えた方がいい。
203高地攻略に関しては、ネガティブな意見も多いが
人としては立派な人だったと思う
今の政治家に乃木将軍の御心が少しでもあれば、もっといい政治ができると思う
旅順が落ちるまでに半年もの間要塞に突撃を命じて一度に何百人もの兵士兵士が倒れていく
それでも勝つために屍の道を何度も進み、結果勝利を得たが見返りに将兵15000人と最愛の息子2人が犠牲となった
こんな状況を自らの目で見ていて精神がおかしくならない方が異常だろう
明治天皇の後を追った際の乃木の心境を考えるととても辛い
金州城や爾霊山などの漢詩が素晴らしくて好きな人です。
乃木軍は旅順攻略ばかりじゃなく奉天会戦での働きも素晴らしかった。
坂の上の雲は乃木批判しつつも乃木じゃなければダメだと評価するという矛盾を強く感じた。
よく自分で腹とか喉とか心臓とか突けつよな。俺なら怖くて駄目だ。
うちの近所に「河原林少尉戦死の地」と書かれた小さな碑が立ってたから何だろうと思って調べたら乃木希典が軍旗を奪われた場所だった
軍旗がそんなに大事なものなら乃木自身が持っていればよかったのにと思ったけど、河原林少尉は乃木を守るために自分が軍旗を持って戦地に残ったんじゃないかとか色々想像してしまう
植木と玉東の間くらいですかね?
一番好き
子供の名前は希典にします
同じ最期になるといいね😊
阿南惟幾や石原莞爾も崇拝していた乃木希典
やはり江戸時代生まれは根性が違うわ。
この人を主役にした大河ドラマも面白いかも…
乃木希典のような武士道精神崇高な人柄。昭和天皇の教育にも尽力した。
若い人たちは乃木坂の意味を知ってほしい
なんで乃木が軍人として向いてないと断言できるのか?
ステレオタイプな司馬史観だね
なぜ向いている?😮
ていうか日本人の思う有能のイメージと乃木の人格が全くあってないからだろうね
乃木の長所は頑固でも忠義と信念、真面目の人だが一般日本人が評価するのは拙速果敢でやんちゃだけどツボは押さえてる人。
そのギャップが乃木の過小評価に繋がっている。
ちなみに海外では乃木と東郷平八郎はサムライの鑑、理想的な日本人像として大変に支持されている。日本人の自画像と世界の評価が全く噛み合ってない笑
@@MON_MOSO_MON困難な状況にあっても将兵を潰乱させず、目的を達し、私生活に於いても乱れたところがない。
難儀な戦をよくあれだけの犠牲で済ませたものだよ。
愛されて育ったかわからない幼少時代とか沢山失敗してしまって不遇のひとだけどたぶん優しいひとなんだろうと伝わる。部下も息子たちのことも守れなくて明治天皇も亡くなったから生きている意味を見出せなくなったのか
子供たちを亡くしたら後を追いたくなる気持ちはわかる
黒木為楨さんと野津道貫さんもお願いします。
奥元帥もお願いします。
【クロキの名は負け知らずの常勝軍としてロシア軍を大いに畏れさせた】
昭和天皇への教育が、最期のご奉公だったのでは。
恐らく昭和天皇にとっては乃木こそ理想の将軍だったと思う。
乃木さん、片眼…。
知らなかった…。
左目見えないのによく軍人になって大将までになったよなぁ~(・ω・)
寺内(正毅)閣下も右手が不自由なのにも関わらず元帥府に列せられた。
大山巌元帥も、片方の眼の視力が低かったらしいが。
ネルソン提督も隻眼だった。😮
伊達政宗、山本勘助、服部半蔵など、隻眼でも名を成した人は居ます。
私も司馬史観に惑わされました。
考えてみれば航空機も無い時代は歩兵が突撃するしかありません。
更に後に有名になる28㌢砲は第一次攻撃の時には未だ配備されてなく、そもそも陸軍には旅順攻略の計画は無かった。
それでも失敗と言われる第一次攻撃では確実に前進しており、その後は塹壕による接近を始めています。
最終的に旅順のロシア軍は兵力損耗による出血で降伏に至りました。
奉天の会戦でもロシア軍の背後を突く攻撃で日本の勝利に貢献しています。
もし彼が軍人にならなかったら日本はどうなっていたでしょうか?
司馬遼太郎の坂の上の雲を読みましたか?
司馬は乃木を軍人として有能か無能かを問うており、結果として無能と評価しているだけ。伊地知は愚者として描いているが。
もし、司馬史観などあるとすれば鎌倉武士からの、日本人のこころの在り方を考察しているところにあり、その精神性が日本人のバックボーンになり得るのではないかというところである、
因みに司馬は昭和軍人であり、白襷隊作戦など血反吐が吐くほど嫌悪したのであろう。
司馬史観などとほざく前に「太郎のくにの物語」など読め。
@@松丸健司 失礼ながら高校生時に「坂の上の雲」は全巻読みました。明らかに乃木司令官を愚将と描いています。真に受けてクラス担任(恩師です)に感想を話したところ「乃木のせいでウチの祖父さんは死んだ」と憤っていました。当時はその様な時代でした。彼の著作は他にも何冊か読みましたが題名は失念しました。「太郎のくにの物語」も同様ですが司馬氏が時代劇から歴史小説への転換期を作ったのは確かと思います。惜しむらくは世間が彼を盛り立て過ぎた結果(NHKは最たるもの)彼自身その立場に酔ってしまったかの様に感じられた事です。日露戦争を題材に新たに判明した事実でドラマを作ろうとして遺族から抗議があったと聞いた事もあります。また司馬氏が元陸軍戦車将校なのは有名ですが逆を言えば乃木将軍を否定した教育を受けた訳でもあります。妻の父(58期故人)も話しておりました。10年程前までは乃木司令官の評価について賛否両論で否定派の方は殆ど司馬氏の信徒でした。因みに白襷隊については別宮暖朗氏の著作をお勧めします。
@@松丸健司
ちょっと好奇心がある人間なら「坂の上の雲」を読んだあとで他の戦記・記録・実録に当たってみて、司馬遼太郎著作との落差にビックリするという経験は誰しもしているもんだと思っていたよ(笑)
作家が面白い切り口を見つけてストーリーテルを行うのは別に非難すべき話でもなかろうが、作家の世界にドップリ浸かって事実そのものには盲目なものが
「司馬史観なんぞとほざく前に」
なんぞとイキリ倒しているのは、見ていて実に滑稽だ。
オレの先祖は第三次の旅順総攻撃で戦死した。
長男(初子)の誕生を知らせる電報を受け取った直後の出撃・戦死だったと言う。
この先祖の墓碑銘は、乃木大将の字だ。
子供の頃から、立派に戦死されたから立派な軍人から墓碑銘を書いていただいたと我が家の者共全員そう教わって育っている。
@@フロムフロム
同感。
そもそも軍人として司馬遼太郎は無能。
「坂の上の雲」の中でも、
「抑えの兵を置いて旅順を北上する方法がある」
等々、近代戦を全く理解していない様な「ご提案」を書いている。
同書の中で「攻城法としては当時ボーバンの確立した方法が一般的だった」とかかれているそのボーバンが「当時」からさえ百年以上昔の人間だと知った時には、オレは唖然とした。
「殉死」には、大石橋の戦闘を引いて、乃木には惨戦になると顔を覗かせる自殺願望があり云々との解釈を並べているが、敵弾雨飛の前線付近に司令部を進めたのは(別宮さんを読まれたのならご存知だろうが)大山・児玉司令部からの命令だった。
(司令部では獣医部長まで戦死。一戸兵衛などは晩年に至るまで児玉に批判的だった)
落合直文の遺族との諍いは知られているが、乃木に関しても「坂の上の雲」の連載中、福田恆存から
「事実と違う。公開論争望む」
との申し込みを再々申し込まれたが、結局逃げ切ったのは、当時から一部では知られた話だった。
乃木批判と並べて屡々司馬氏が陸軍批判のネタに挙げる「鉄の砲塔の戦車」なんぞも、砲戦車と三式戦車を間違えたのだろうとする説が強く、
「そんな機械オンチを戦車兵になんぞするから負けたんだ」
と極論する向きさえあるという。
昭和の陸軍(の上層部)で乃木が批判的に扱われたのは、その厳格な生活態度が煙たがられたからだとも言われる。
砲戦車と戦車との区別もつかぬ戦車将校がどう言おうと、乃木が旅順を落としたのは事実、後の世界に影響を与えたのが大山・児玉でなく乃木(要塞対壕、攻城砲運用等々)なのも事実である。
司馬遼太郎は所詮作家であって歴史学者ではない。
彼の作品の特徴として極端に“主人公アゲ”を行う事を頭に入れておいて欲しい。
“主人公アゲ”、つまり物語の主人公を盛り上げる為に(主人公の)ライバル的存在や敵対勢力を必要以上に悪し様に描く、という事だ。
「坂の上の雲」で言えば秋山兄弟を盛り上げる為に乃木を下げた訳。
だから司馬“史観”なんて偉そうなもんじゃない。そもそも“史観”じゃない。ただの一作家の“作劇法”に過ぎない。
(因みに司馬の最大の犠牲者は「燃えよ剣」の芹沢鴨だと思っている。あれも主人公の土方歳三を盛り上げる為に芹沢を不当に貶めた。史実ではあんな酷い飲んだくれではない)
軍人としての評価は諸説あり過ぎて一概にこうだとは言い切れないけど
人物としては、良くも悪くも真面目で不器用な人だったんだろうなと
乃木ファン(乃木希典)
とかいうパワーワード
毒親やん
明治村に学習院で乃木さんが住まわれた官舎が保存されてます。
忠義に生きた哲学将軍と誉れ高い武人。旧知の間柄である野津元帥の息子の縁談に、末広ひろ子を紹介したら喜ばれたと言う。
夏目漱石が乃木を称えていたけど、弟子の芥川は乃木を封建主義の残党と批判していたことを覚えている。
有名な文学者の間でも賛否が分かれるほど乃木の死は当時の人たちにとって衝撃だったんだろうね
強く同感。
西欧的な個と、江戸期以前を引っ張った日本社会の個(主体性)の相克にキツく悩んだ夏目漱石は、乃木大将の自決を扱って
「(明治天皇の)葬列御発簾の砲声を聞いて、明治という時代が永遠に去って行った気がした」
「後にこの砲声と同時に乃木大将が切腹したと知った」
「(聯隊旗を奪われて)数十年間苦しむのと、腹を切る刹那と、どちらが苦しいかと考えた」
「乃木大将の自決を知って、自分も自殺の決意を固めた」
(主人公は軍人でも何でもない、明治の知識人)
と書いているのは、こうして要約すると滅茶苦茶なロジックに見えるのだが、逆にその時代での重い実感だったのだろうと思わされる。
陸軍軍医の森鷗外は、やはり乃木大将の自決を知って「興津弥五右衛門の遺書」を書いた。
西洋と東洋の相克に全精神で苦しんだ漱石と違い、鷗外は「江戸期の優等生が手前のアタマひとつでどこまでオノレの生を切り開けるか」みたいなところがあり、同じ題材を扱っても違うもんだと思わされるのだが、それでもやはり「一身にして二生を経る」人生を送った明治の人でなければ書けなかった作品だろうなとは思わされる。
これが芥川になると、森鷗外と似た様な「アタマひとつで」的な作風であっても
「殉死で死ぬのにナンで当日に写真を撮る必要があったのか」
等々と、小馬鹿にした様な書き方をし始める。
更に志賀直哉になると
「ちょうど下女の情死でも聞いた様な気がした」
と言うことになる。
(武者小路実篤なんかも似た様なことを書いていた気がする)
同じ素材でも年代でこれだけ捉え方や扱い方が違うのだから、明治の時代はやはり激動の時代だったのだと実感する。
汽車が走ったとか戦争に勝ったとか、それだけの時代ではない。
人がどう思うかどう感じるかは、それぞれ勝手なんだろう。
オレにとっては芥川と志賀とは、読むには読むけど好きではない部類ではある。
いや、漱石と芥川のスタンス・思想からして当然やろとしか思わないけど
生きている事がこれ程苛烈極めた人も居なかっただろうな。神の御手で心健やかに休んで頂きたい。
武士ですね
旅順要塞陥落は203高地の帰趨に関係がない
あくまでも望台の失陥によりステッセルは開城した
しかも地下から爆破。
ドラマ田原坂でも乃木の旗を奪われるシーンが出てきてる
🌴🌏🐎幕末〜明治維新後の現在の令和時代まで学ぶと大政奉還も気になりますね📱
悲運の将軍でした。
陸大閥からのバッシングはやりきれない気持ちであったと思う。
乃木希典・静子夫妻が存命中に生まれた男性は残り6人。世界最高男性でさえ、3歳の時に亡くなっている。
令和5年1月まで息子も存命中に生まれた人もいたが、男性は10人切ってるのはびっくりした。
乃木希典も見た人当然居ないだろうし、存命中に生まれた人もほとんど居ない。完全に歴史の人になりつつある。
奥さんまで道連れにせんでよかったやろうに。
乃木将軍は有能だし個人としても聖人だしで日本に生まれてくれて感謝レベルの超人なんだよ
シバリョは時を越えて嫉妬したんだろう、あったこともない大先輩に笑
大義のために生きたのはわかる
でもやっぱり多くの犠牲を出しすぎた
正直複雑な気分
by乃木坂オタク
乃木坂46って坂道シリーズだけどメンバーは乃木希典知ってんのかなあ
旅順攻囲戦で乃木の息子2人戦死した逸話に高級将校の息子もあっさり死んでしまうんだなと思った
長男の勝典少尉の戦死は南山の戦いだった。
戦死の瞬間、乃木大将夫人(つまり勝典少尉の母)は
「出征中の勝典が二階で本を読んでいる」
気がして部屋を覗いたが勿論誰もおらず、異変を察したとの伝説がある。
戦死の報が届いた時、見舞いに来た近親者を前に
「乃木が日頃厳しく厳しくと申しますので、可愛がってやることもできず‥‥」
と言いながら、握りしめていた手でハンカチを引きちぎっていたとの証言も残っている。
母親の心を思うと、哀切である。
何か言おうと思ったけど、何も言えねぇや
要約するだけで、一筋で掴みにくい、波瀾万丈な人生を歩まれたのは、恐らく母親からの虐待が要因であろう。これは、どんなに才能があろうとその影を落とす。才能などなくても親から真の愛情を受け取って育てば、能力に応じた幸せを感ずる人生を送れるのである😢
エヴァで言う碇シンジなのか?
乃木邸から青山御所に地下道がある噂ありました!
旅順開城約成りて、敵の将軍ステッセル・・・自分生来の性格を殺して一生を終えた方かも知れない。メランコリーです。
トンでもねぇ母ちゃんやな…
乃木希典が当時は瘴癘の地だった台湾へと赴任する際に、
「死んでも構わない。苦労する息子の傍にいてやりたい」
と言って同行し、現地で亡くなったというから、愛情皆無というわけではなかったのだろうが、かなりキツい人ではあったらしい。
この母親が怒って振り回した蚊帳の吊手が幼少期の希典の目に当たって片目の視力を失ったが、母親の恥になる話なので、この話題に触れられるのを乃木希典は大変嫌がり、黙っていたのだと言われる。
静子夫人は親戚との集まりの席で
「結婚して数年間も、夫が片目で片脚(西南戦争の時の負傷で片脚を引きずっていた由)なのを知らなかったのですよ」
と明るく笑っていたのだとか。
乃木さんは介錯なしで自決したらしい
地獄の苦しみだったらしい
玉木文之進との出会いが乃木を歴史に名を残す軍人にしたような気がする。この出会いがなければ目立たずに生涯を終えていたかもしれない。
軍人として優秀とは言えないんだろうけど、毒親育ちで大人になっても人格形成にも影響が出て、
向いてないことやらされて息子2人を結果的には死に追いやる形になってしまって、
どんな気持ちで生きていたんだろう。
ただ明治天皇の後追い殉死したんだと思っていたけど違うんだね。
救いが無い人生というか、本当に気の毒な人だと思う。
優秀でない……?(クリミア戦争時のセヴァストポリ要塞より堅牢な要塞を半年と2万にも届かない犠牲者で陥落させた)
まさに武人の鑑
😅
可哀想過ぎます❤
司馬遼太郎の作品って歴史を題材にしたフィクションでしょ〜。織豊政権の作品いくつか読みましたが、後世で否定されている事が全て書かれているような印象を受けました。
当時は物凄く流行ったんですけどね。
書けば売れるし、人当たりのいい人物ではあった様ですが、本人(と奥さん)がかなりのやり手で、
「内容が間違っている」
との指摘を扱う出版社には
「版権やらないわよ」
で対抗した為に、生前には敢えて批判を扱う出版社がなかったとの噂を聞いたこともあります。
小説家が面白い切り口を見つけてストーリーテリングを行うのは、必ずしも非難されるべきではありますまいが、そんなものを事実と思い込んでしまう者はやはり知的に怠惰と言われても仕方あるまいと思います。
「司馬遼太郎の日露戦争」
「阿川弘之の太平洋戦争」
どちらも然り。
そりゃ60年代から70年代頃主に執筆してるんだから情報が古いのなんて当たり前でしょ笑加えてインターネットなんて無い時代に一個人が調査出来る量なんて限りがあるし
@@user-gw6dr1k4h5
情報が古くて結果的に間違った場面描写になるのと、最初からフィクションを語るのとでは、おのずから話は全く話だ。
執筆当時既に
「資料が一点に偏り過ぎ」(陸大の参考書をネタ本に使ったので、参謀の「軍略」には能弁だが実態とはかけ離れている)
「実名出しての創作」
等々との批判は相当強かった。
落合直文の遺族とは訴訟になりかけたとも聞く。
(司馬氏が間違いを認めた)
個人の取材能力に限りがあり云々というのも無意味だろう。
それこそ個人の取材で乃木大将無能論に疑問を持った福田恆存は度々司馬遼󠄁太郎に公開論争を申し込んだが、司馬氏は逃げ切った。
後に単行本の後書きで「乃木神話を信奉する向きからあれこれいわれたが、肯綮に中ることもないので無視した」とイイワケじみたことを書いている。
ちょっと好奇心ある人間なら、図書館その他で日露戦争関係の資料や回想に当たってみて司馬氏の描出との落差に驚いた経験は誰しもあるのでは。
乃木云々、日露戦争云々に限らず、長篠三段鉄砲(こんなものは昭和の頃に否定されていた)なんてものを「信長の独創」と称えてみせたり、別人を同一人物として扱っていたり(蒲生郷舎と横山喜内)、情報の古さ云々で済まない様な部分は相当多い。
「日本人に東京志向が強いのは、平城京を見た地方律令民の感覚が残っているからではないのか」
なんぞという「証明の仕様もない無茶な関連付け」が毎度頻発するのも、所詮はストーリーテラーなればこそなのだ。
作家が面白い切り口を見つけて事実をもとに創作するのは、別に非難されるべきではなかろうが、それをまにうけて
「いや、あの人取材してるんだから」
と言うなら、そう言う者は知的に怠惰と言うべきだろう。
よっ。知的勤勉者。😊
@@草莽-b6dあなたの言っている事の論点がバラバラで何が言いたいのかわからん。
司馬の乃木批判は司馬自身の戦争体験から来る一種の拒否反応であって学術的な歴史検証の観点から批判してる訳では無いことぐらい理解出来るはずである。
それに、大衆向けの小説に対して「証明の仕様もない無茶な関連付け」だと?あなた小説家に何を求めているのか?あなたは司馬遼太郎を歴史学者と勘違いしていないか?
昔の人って髭濃くて縄文系の人多いよね
ロシアは、1896年にシベリア鉄道の支線で満洲北部を通過する「東清鉄道」の敷設権の線路を敷き、鉄道を開設する権利を獲得。1898年には、旅順・大連の租借権ある国が条約により一定期間、他国の土地を借り受ける権利)と南満州鉄道の敷設権も得ています。ドイツは同じく1898年に膠州湾を、イギリスも同年に九龍半島を、フランスは翌1899年に広州湾をそれぞれ租借しています。このとき、日本は1898年に福建省の不割譲その国の領土を第三国に譲らないよう圧力をかけることを清国に約束させるに留まっており、アメリカはハワイやフィリピンへの領有地拡大に追われ中国進出に出遅れました。清国内では、1897年頃から「義和団」の活動が活発化していました。義和団は「扶清滅洋」で清国を助けて西洋列強を滅ぼす「西教排斥」のキリスト教排斥などを唱える集団で、列強の侵略により困窮した清国の民衆が支持したことから、国内各地で義和団を中心とする内政改革や外国人排斥の運動が大きくなりました。1899年山東省などで「義和団の乱」が起こり、清国の西太后がそれを支持する形で列強に宣戦布告します。これを受けて翌1900年日本軍が大多数を占める8ヵ国連合軍が出兵して清国の首都である北京を占拠。清国を降伏させました。「北清事変」と呼ばれるこの事件により、清国は列強各国に賠償金を支払うとともに軍隊の駐留権を承認させられます。そして日本軍は、活躍により列強の評価を得ることになりました。日清戦争後も、日本とロシアの緊張関係は続いていました。日本の中国大陸進出により、ロシアは自国の南下政策が日本に妨げられるのを恐れ、フランス・ドイツとともに「三国干渉」と呼ばれる勧告を行いました。列強の勢力がまだ及んでいなかった満洲に日本が進出するのと時期を同じく、ロシアも南下政策を積極化。これにより、日本とロシアの対立はさらに激化することになります満洲をめぐる外交策として、当時の日本政府内には伊藤博文や井上らによる日露協商論満州でのロシアの行動を認める代わりに、韓国における日本の優越権を認めさせると、首相の桂太郎や外務大臣の小村寿太郎らによる日英同盟論同じくロシアと対立傾向にあったイギリスと組んで、ロシアの南下を食い止めるという2つの意見がありました。伊藤博文は1901年に独自にロシアと交渉を持ったものの満足のいく回答が得られず、桂内閣は1902年ロンドンにて「日英同盟協約」の締結に至ります。この協約では、両国のいずれかが他の1国と交戦する場合には厳正中立を守り、2国以上と戦う場合には援護・参戦することなどが定められていました。これにより、日本は他の国による介入・参戦を恐れることなく、ロシアとの戦争に踏み切る準備を整えたわけです。満州占領を進めるロシアに対して、日本国内でも次第に強硬論が高まりました。非戦論や自重論もありましたが、論者はロシアを恐れる「恐露病」などと揶揄され、国内はほとんど開戦論一色に染まったのです。日本は日清戦争で得た賠償金の多くを軍事費に投入し、国民への租税増徴を行い、着々と軍事力の拡大を進めました。「韓国における日本の独占的な支配を認めさせ、満州におけるロシアの支配は鉄道経営などに限定する」日本がそういった提案を続けるもロシアは自国による満州独占の方針を変えようとせず、日本は最終提案を経て開戦の準備を行い、1904年日本は仁川沖と旅順港のロシア艦隊を奇襲し、宣戦を布告しました。日露戦争に辛くも勝利し、ポーツマス条約を締結、日本は同年9月に遼陽と沙河、1905年旅順、奉天での戦闘に勝利。いずれも厳しい戦いで、乃木希典司令官が率いた旅順攻撃は5ヵ月で3度に亘る総攻撃が行われ、日本兵130,000人の内死者59,000人の犠牲が出ます。天皇崩御後に乃木希典は夫婦共に追腹を旧乃木邸の一部分を公園としました。
旅順攻略でめちゃめちゃ部下を殺したのは変わらない
君が指揮官なら全滅だと思うよ😅
確かに日本帝国陸軍は死んだ。しかし旅順港を
抑えれないと日露戦争は、負けてた。それ位日露の軍事格差は有った。それくらい日本とロシアの全ての格差は有った。だからどの国もロシアに勝った日本を認めざるを得無いに成った。誰も出来ない事をした、お前に出来るのか?
強襲法というありふれた戦法。
10年後の第一次大戦でも要塞攻略に使われている。
つまり、これしかなかった。
なら兵士の犠牲を最小限で旅順を陥落させる方法を提示してください。当時でも実現可能な方法で
ロシア皇帝をやっちまうロシア人革命家をもう少し早く育てておくしかなかったな
この人も時代の犠牲者なのかもしれませんね。
【203高地】賛否両論有るが世界最強のバルチック艦隊の到着を遅れさすには 強行手段しか無かったと思います 戦士された日本兵 敵対したロシア兵の皆様方の【御冥福を御祈り申し上げます】🙇♂敬具
この方は絶対軍人には向いてなかったと思う。
世が世なら有名な文学者になっていたかも
夫婦で自刃。無理心中じゃない?
💢そろそろ
正しく歴史認識と後世に
伝えて行って
頂きたい!
自害しないように大正天皇を宜しくって言っておけよ、明治天皇よ
私は無能とは思いませんが大将としてはどうかとは思います
それこそ樋口将軍のような鋭利な判断力とか実行力に欠けてると思います。ただ、そんなのは参謀連中の能力でどうにでもなるんですが、そこのところがね…
結局児玉源太郎が乃木の下について(かなりの降格人事だけど)動かしたら、あっと言う間に状況好転したし…
ただ、そのあとの乃木の武士道精神が国内外での日本の評価を上げたのは事実でしょう。だからやはり無能というのとは違うと思いますね
もし日本が日露戦争で敗北していたら、乃木希典はどうなったのだろうか?
軍人としての才覚の有無に関しては司馬遼太郎の評が正しいと個人的には思うが、乃木さんはやはりその生き方そのものが評価された…というより悪く言うと「利用された」という面が大きいと思う。
死ぬ事を美徳にしちゃダメですよ👎
やはりこの人は軍人としては無能だったと言わざるを得ない。どう後世の人間が取り繕っても司令官向きの人間ではなかった。ある程度サイコパス的性格をもった人間でないと合理的思考はできないんだろうと思います。
司馬遼太郎のファンタジー小説に毒された被害者ですね
小笠原長生に強い影響受けた戸川幸夫氏の書いた『乃木と東郷』の本は司馬私観の色眼鏡で書かれたものとは別物です。