【ゆっくり解説】【日本人が怖すぎ!!】世界が恐れた「鎌倉武士」がヤバすぎた…/なぜ重装弓騎兵だったのか?【元寇・文永の役・弘安の役・蒙古襲来】
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- Опубликовано: 7 сен 2024
- 今回は「鎌倉武士が重装弓騎兵の理由」を解説します!
鎌倉武士は前回好評だった動画「蒙古襲来」で登場した日本史上最強と称される武士団ですね!最近では、バーサーカーとも称されるようです…
今回は、鎌倉武士の強さの秘訣「重装弓騎兵」を切り口に、日本の甲冑や武装の強さを紐解いて解説します!
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報酬をもらえなそうだったのにわざわざ九州まで防衛に行った御家人ありがとう
そっか、得る領地も無いもんな。
良かった。モンゴルになら無くてよかった。
ありがとう。
領地を失う少弐や菊池、松浦党はそうはいかない。氏にものぐるいだろう
領土保証されてる時点で現代兵士の何倍も待遇良いけどな
報酬云々よりも、滅ぼされる可能性の方が高いから、報酬をどうこう言ってる場合じゃないだろうね。これはいつの時代も同じだと思うよ。
とりあえず飯は食えるってすると当時は来た
日本を守ってくれて感謝しかないです。
重装弓騎兵とかいう狂った装備が本当に好き
後のフルアーマーガンダムである
高校の時弓道部だったが、普通の人が打つと放物線、部員が打つと一旦地面に近づいた矢が浮きまっすぐ飛ぶようになる、道が着くように剣道も弓道も役九十度捻るような感じで縛り込み、反動で弓が1回転するさらに練習用の鏃でも車の抗張力鉄板を打ち抜ける
武士団を統率し、朝廷にも顔が効き、寺社にも協力取り次ぐ、時宗公がこの時代にいてくれて良かった!
今の日本にも 必要ですね これだけ
アメちゃんの植民地、奴隷 しかも
属国から 内からも殺られている…
戦後 80年で 大分やられた この方でも 難しいですかね
@@user-uq8sy6ge9t 何言ってんだw
何しか時宗公のナイス判断は8割方、正解だった筈🏯
私は円覚寺にある時宗公廟にお礼に行ってますよ、紫陽花の時期に。
ストレスで早くに亡くなったのでしょうねぇ…
江戸時代の侍も憧れた 最強武士鎌倉武士
江戸時代には武芸として色んな流派もありましたが 鎌倉時代は人斬りの為にあった鎌倉時代の武器。それを人斬りの為にだけに稽古を積んでいた鎌倉武士。もちろん江戸時代とは違い普段は農作業もこなし 戦もこなし 日本の戦闘員として最強だったと思います
これ、言われてみればそうなんだよな。重装でロングソードとロングボウを装備して馬に乗ってる兵士って当時は日本のサムライぐらいだったらしいね。まさに、ガラパゴス進化。
元弓道部です。
ゆみがえり→これは、ゆがえり、と読みますよん。
昔の日本の人達命をかけて日本を守ってくれてありがとう😢
今の岸田を鎌倉武士が見たら!
一刀両断だな。
冷静に考えて重装弓騎兵のコンセプトはヤバい、重い鎧きて弓放ち威力もある。改めてこの時代の武家人は職業軍人だったんだな
設計思想が戦車のソレ
@@11zxcvb29 俺が戦車だ!的な考えか
@@11zxcvb29 随伴歩兵(供回り)もいるし必要に応じて適宜騎兵を抽出して、
突破部隊を即興編成するとか士気と統率がぱねえ
@@asdfrgtyuiutds 俺がガンダムだ!みたいに言われてもw
当時の武士は肉食もしてたんで体格が現代人並みにあったとか。後の戦国時代の頃には肉食が禁止されてたせいで皆小ぶりな体格に退化してしまったらしい。
馬上からの長弓射撃による高い命中率の鎌倉武士と、
騎馬と短弓射撃による高機動力が強みのモンゴル騎兵の戦いですね。
実際、世界的に見ても馬上からのロング ボウ射撃というのは日本だけでしょう。
船で来たのだから、モンゴル側の騎兵の数はかなり少ないと思われ。
アタッカーと狙撃手、両方こなすとか変態すぎて狂おしいほど好き。敵軍視点で考えたら陸に見える敵(鎌倉武士)が全員火力強すぎるアタッカー兼狙撃手か・・・生きて帰れる気がしない。
昔から日本人の技術が良かったのですね、そのお陰で今の日本があるのですね。しかも天候までも日本側としてはついていたなんてラッキーものだね。
モンゴルの武器の「てつはう」対策の防塁や船の着岸阻止の為の乱杭など、弘安の役で幕府が設置した防御体勢にも触れて欲しかった
当時の防塁はかなり役に立ったと言っていました。防塁から長弓で元側兵士を攻撃、文永の役の時に接近戦で相手の弓に毒が塗ってあった為に苦労したから、防塁から長弓で相手を圧倒殺傷させた後に、騎馬隊と歩兵で追撃して勝利。この防塁は記念に後世に遺した方がいいです。福岡県の記念で(笑)源平合戦でも「蒙古襲来」元寇でも最初から集団戦です。
防塁や乱杭などは、主に弘安の役で使用されていたもので、今回の動画は、元寇前から、文永の役に焦点を当てた動画だったから、端折られてもしゃあなし。
ちゃんと元寇に特化した別動画がありますよ!
てつはう対策はキーポイントの1つやな。
確か、「てつはう」みたいなのは、すでに日本にあった様な、資料で見たような。
教科書等では単純な解説だろうけれど、この動画は重装弓騎兵の解説があり、大変判りやすかったです。どうもありがとうございました。
重装弓騎兵とかの用意も効果的だったと思うけど、そもそも海越えて待ち構えている敵と対峙しなくてはならない時点で、相当元軍は不利だったと感じます。
仮に海のコンディションが問題なかったとしても、見通しが良くなるから上陸前に見つかってしまいやすい。
得意の馬を使ったヒットアンドアウェイな戦法も、いちいち馬を持って上陸する暇は無いし、上陸しても海に囲まれた島国だし、封じられている。
そして、日本は鎧で防御高く刀と弓で攻撃力申し分無し。機動力や移動スピードは劣るものの、相手が向かってくるのを迎え撃つ形なので大きな影響が無い。
これでどう勝てるというのかw
元寇で襲来した兵士は高麗と南宋人がほとんどなので、
そういうモンゴル兵お得意の馬上のヒットアンドアウェイを得意としてないし
元々中国と高麗の兵士じゃそこまで士気も練度も高くないから勝てるものも勝てない
そうだよね。あの神経質でストレスに弱い馬を船に乗っけて日本まで運ぶ
だけでも相当苦労したことは、予想に難くない。まぁ、よくもそんな無理を
したもんだな、って思いますよ。
単純に長射程一方的に攻撃できる機会が多かった事も大きいと思う
元軍の短弓は弓騎兵の機動力を活かすには都合が良かったんだろうけど、騎馬が無ければそこまでだったんだろう
実際騎馬を動かすにはジャングルが多くて難しかったであろうベトナム相手にも元軍は負けてるし
神風はとどめを刺しただけで、鎌倉武士の奮戦で撃退してるんだよなぁ
沖合の元の軍船に対し夜襲までかけてるし
神風云々は報酬を払いたくなかった幕府が言い出したことよ
後に無策な帝国が特攻に言いだして、アカヒや侮日新聞は乗っかって報道とか
それにしても、元は6回も日本に親書を送ってたんだね。どんだけ日本に固執してたんだろ。あと、すぐに武力制圧を選ばなかったのは、やっぱり海越えの進軍ってリスク高いんだろうね。
元宗を「もとむね」と読まれると北条の執権にいそうな名前になってややこしいね
高麗王だから中国の廟号と同様、元宗は「げんそう」と読むんだけどね。
元寇の元側の背景などが目新しく聞けました。良かったです!二度目の襲来も詳しく聞きたかったです!
対馬の捕虜を人の盾にしたら問答無用でその盾ごと切り捨てて(武家は「近所の通行人や家畜を弓や刀のテストに使うな俵や竹でやれ」と御触書出るレベル)、そのうえ「盾にするってことは、彼奴等の捕虜を盾にすれば攻撃出来ないわけだな!」って逆に捕虜を盾にして攻めかかるレベルの戦闘狂だったとはフビライも想定外だったんだろうなあ
今の人が信長時代の人々を凄い体力してるなぁ、と思い馳せるように信長時代の人も鎌倉時代すげぇとか思ったりしたんだろうか…
昔、KOEIで「蒼き狼と白き牝鹿」ってゲームがあって、日本(鎌倉・奥州藤原)を選べるんだけど、そこでも兵種に鎌倉武士があって強かった記憶があるなぁw
(頑張れば日本で欧州まで攻め込めましたw)
夜はオルドでラッチとチョメチョメしたのですね
馬鹿も休み休み言え。
ワシの幼少の頃の遊び場が『祖原山』だった
山頂からは福岡市内全域がハッキリ見渡せる
石碑には元寇が攻めて来た時の最重要拠点と書かれてたのを思い出した
姪浜、ももち浜、赤坂等は小学中学生時代のテリトリーだった
西新には元寇からの攻めを防ぐために作られた防塁跡があるし
赤坂との中間には唐人町があって
昔から交易が盛んな土地柄なのが博多だった
それはともかく、今ワシは久留米市在住なんだが
筑後川に架かる『神代橋』が元寇対策に大きく関わってた事に驚いた
神代橋は昭和中期頃の大水害時に大勢の住人を飲み込んで『人喰い橋』の別名があるが
なるほど、大昔の筑後川は交通の難所だったんだなと。
今は神代橋は架け替わって新しくて大きくなった。
陸軍国家(遊牧民)が海越えて島国攻めすること自体そもそも無理な話なんだよな
おまけに攻めた先が変態戦闘集団の極みみたいな鎌倉武士だからな、数は限られるけど個人の戦闘力なら日本の歴史でも一番強い時代だし
勉強になりました。
ありがとうございます😔
今の日本では遺憾に思うだけで終わったろうねえ…
既に易々と大陸と半島人を国内に迎え入れて、好き勝手させてるから侵略は進みつつある
こういうのいつもの無いよう薄いの多いけど、これは濃いめで良い!
野暮かもしれないけどちょいちょい登場する鎌倉たけしさんに草生える
他にも色々読み違いあるね~!
詳細かつ新しい情報も有り、また解りやすく素晴らしい動画でした。
いまどこかの国で似たようなことやって追い返されつつある大国がありますね・・・・
しかも国境に海を挟んでいるわけでもなく、山がそびえ立っている訳でもない、
陸続きなのに追い返されているとか何とか。
バカと仲良くしてはいけない。
バカに金を与えてはいけない。
バカを身内にしてはいけない。
おもしろかった❤ 鎌倉愛が熱い皆様のコメも併せて楽しめた〜
19:13 小学校の頃から謎だった、元寇の鎌倉武士の一騎討ちの謎がやっと解けた。
子供の頃から、大弓と大太刀を構えて騎馬戦を挑む日本の戦国時代以前の騎馬武者が、わざわざ馬から降りて一対一をしかけるってどこのRPGのターン制バトルだよ?絶対にありえないwって思ってたんだ。
高麗の忠烈王は、フビライに日本進攻を進言してたよ。
高麗史 元宗十三年(1272年)に記述があります。
まぁ高麗は元に服属してから、王室がモンゴル化していったけどね。
地の利、島国の利、鎌倉御家人や武士の起点を発揮した強さが
、日本国を護った話…。日本人に生まれ後世の大和魂にDNA
を持つ事を誇らしく思う…!
補足的に
重装弓騎兵といっても相手の重装兵の鎧に比べ圧倒的に軽かったです。当時の鎧は対弓に特化しており、こちらが弓を射る時に丁度肩の部分が小さな盾の役割をします。
弓も日本長弓(射程120m).元短弓(射程80m)の差がでています。
また日本は戦術用語的に複雑地形に分類され、本来の元の戦い方が出来なかったです。
更に言うと元の半分以上が本来の元ではなく士気がとても低かったです。
主力は高麗兵。
主力は弱々の高麗兵
そのくせ日本に侵略されたって主張するばかり
因果応報だろ
あぶみ自体も元や欧州のあぶみと日本のあぶみは違ったんじゃなかったっけ?
競馬とか乗馬の馬具は今は西欧式だけど、日本て明治前までは独自の馬具を使い続けていたのは、和弓との相性もあるのかな?
モンゴル式あぶみも西洋式と同じで土踏まずの辺りを固定しているけど、日本はつま先から踵まで板状になってますね
考えたら流鏑馬の時ってあぶみの上で立ち上がって弓を構えていた記憶があるけど、元や欧米の馬上弓って輪っか状のあぶみだから立ち上がれないんじゃないでしょうか?
立ち上がって上から離れた相手を射れる鎌倉武士と、座った状態で近い距離を射る元軍では馬上弓戦で圧倒的な差があった様に思えます
日本の舌長鐙も、大陸から渡来した頃は輪鐙であった様です。
しかし弓の進化が大陸と日本では違いました。大陸は動物素材を多用した短弓ですが、日本では動物素材は劣化が速く、また調達の容易さから植物素材が主となりました。とすると、同じ威力(≒射距離、正確には矢の重さと長さにも影響されます。)を求めた場合に日本は必然的に長弓を発達させることになりました。長弓で騎射をする場合は立射の方がブレを射手が吸収でき、射界も広く取れます。必然立ちやすい鐙が求められたと思われます。
なぉ、輪鐙でも立てます。しかし日本の武士の足元は踵の無い貫(つらぬき)という履物でしたので、輪鐙では滑ってしまった事でしょう。
モンゴル側は履物は似たような物でしたが、パルティアンショットと呼ばれる
離脱時に後ろへ上体を捻りながら射掛ける騎射を得意としていたので鐙へ手を加える必然性がありませんでした。
遊牧民族は元来鐙無しで騎乗していましたから、立射という発想がそもそも出なかったのかもしれません。
説明の皆様のご苦労、「有難うございます」。
鎌倉武士と言うけれど、文永の役では元が襲来した事が京都に伝わったのは元が撤退した後であったし、弘安の役でも京都六波羅を出た幕府軍6万は間に合わなかった。
弘安の役前から石塁を築き抗戦を決定したのは、鎌倉の執権北条時宗だったが、主力となって戦ったのは、少弐一族を中心とする九州武士だった。
なので元寇を戦ったのは鎌倉武士ではなく太宰府武士と言うのが正しいと思う。
武士は、もちろん弓も使いますが、刀や槍も同じくらいに使いますよ。
元軍の船の上に乗り込んでの白兵戦もばっちりしてますし。
あと、弓の弦は「げん」ではなく「つる」です。
面白い!
鎌倉武士のDNAが自分にあると思うと悩みがちっぽけに感じました😁
チャンネル登録しときます🙆
内容が良いだけに自動読み上げ機能の精度がが惜しまれる
かみしろ→くましろ と地元つまは呼んでます
@@user-bv3eb6co8m 鎌倉武士←かまくらたけしだよ!
どこに引っかかってんだよ!
人に突っかかる前に気づけよ!
@@s-yo
そこは皆さん分かってると思いますよー!
2度目の襲来も神風は関係ないよ。近海の海底の捜査で沈んだ船が少ししか見つからないのね。つまり、逃げ帰る時に台風で沈んだのよ。
そもそも中々上陸できずに一月位海上漂ってたはず
「鎌倉たけしは違ったようだ」
確かに違うよね、でも強そうな名前
漫画の主人公の名前かよw
それ レインボーマンの先祖
たけしはガキ大将の名前?
それとも大御所芸人の名前?
重装弓騎兵最強!教科書で元寇は神風で勝ったと書いていたけれど重装弓騎兵という鎌倉武士の活躍だったんですね😆
鎌倉武士って一騎討みたいなお上品なことするかなぁ
台風はとどめで、橋頭保を築けず3か月も右往左往してれば九州に1個ぐらい台風来るさ
Kは今昔やってる事変わらないな笑
他国の虎の威を借りて日本を攻める
元寇の謝罪させないといかんな笑
被害者側は1000年云々だからな笑笑藁
捕虜にした元軍のうち南宋兵は助けたけど、高麗兵は片っ端から斬首したってエピソードが好き。
Kと組んだ方が負けるというのもこの頃からの伝統ですよね笑
K国では三別抄の反乱のおかげでろくな船を作れなかったからと言ってますがな。つまりK国のおかげらしい。まともな時間があっても船なんか造れないのに。
逆に考えるんだこいつらを他国への民度兵器として利用しようとw
早く中国に寝返ってくれないかな(笑)
元寇の背景説明が長すぎて鎌倉武士の実態に全然触れてねぇw
文永の役の要因の一つは南宋の対外貿易遮断を目的とした日本との通交に失敗したから。
この時期、江南の地に南宋が踏ん張っていて日本との間に交易が行われていた。
当時の日本の戦史資料には概ね「〇〇騎」という記述が見られるが、それは騎乗武士のことのみを指していて、それに付き従う家人や郎党、下人といった非騎乗階層を数えていない。そのため実数を測るには「騎」と記された数字の3倍以上であると見なさねばならない。
文永の役で博多一円に展開したのは総計5000騎余りとされるが、これは総勢16000人程度と推量され、対する元軍は約2万人だったし「蒙古兵」の割合は多くは無く鎌倉武士対モンゴル騎兵といった趣きでもないように思う。そもそもモンゴル騎兵=軽装弓騎兵というのは間違いで重装槍騎兵が4割を占めた。
(文永の役でのモンゴル軍の総数は25600人。当時のモンゴル軍制では2割は非戦闘員なので戦闘員は2万程度とされる。)
こういう歴史のお話し大好き!!!チャンネル登録しました!!!
鎌倉武士、まさにバーサーカー。
奈良の大仏は完成した時は金で塗られていた、それで大陸では金メッキの技術が無かったので中国からの使節団は総て金で出来てると思って驚いたらしい
流鏑馬保存会の人たちが専門家立会いのもと、当時大鎧、木曽馬に乗り、元寇絵巻のように野山で流鏑馬をやった動画を見ました。木曽馬は小柄でありながら、馬力があり、40キロぐらいのスピードが出て、流鏑馬同好会の人々は的を次から次と打ち込んでいましたが、絵巻物のように集団で元軍に突撃を繰り返していたようです。武士の重装は元軍の軽装弓兵の矢では止めることができず、絵巻のように逃げるしかない、戦車を相手にしているように感じるように思えます。
木曽馬等の和種は、山あいの日本の地形に特化していて、登坂能力はアラブ種を遥かに凌駕します。ジャンプ力もあります。小柄と思って侮ってはいけない能力があり、気が強い馬を喜んで選別してた経緯があって、今はともかく扱いは難しい馬が多いようでした。
迎撃に関しては恐ろしく強い
現代の日本でも、弓道や流鏑馬と言う形で、弓文化が残ってますが、当時の武士達が戦で、使用した剛弓はどれ程の殺傷力だったのでしょうか。
意外かもしれないが、宮崎駿アニメのもののけ姫での描写で正解だと思いますよ。当たれば首がぶっ飛ぶ。そして矢が抜けない。傷が化膿して重体に陥る。ゲンタシンがない時代では、緑膿菌が猛威を振るう。
矢先に何をつけるかでも、違ってきそうだな
毒を塗っておけば、刺されば死ぬし、
アーチェリーの矢でも、鹿討用の鏃をつけると、臓器は破壊され抜こうとすれば、体を引き裂き出血死する
神風で勝ったなんて、太平洋戦争で軍人が国民を鼓舞する為に言ったことで、実際は鎌倉武士が頑張った為ですね。
厳密に言えば、蒙古連合軍を上陸させず、海上撤退させたのは、御家人の活躍なのですが、報奨金が支払えず、撃退したのは、神風のお陰と当時鎌倉幕府が公表したのです。戦死した御家人には保証金もろくに貰えてなく、多くの御家人の代表者が、鎌倉幕府に直訴してます。。そしてこの絶対絶命な敵に勝つ奇跡を日本参謀が再び造り上げました。この報奨金とか軍人を雇う為の資金集めシステムに目を付けたのが織田信長、後に豊臣秀吉が税金の取り方を新たに造り、豊臣秀吉は大きくのし上がりました。
日本を甘く見ていたんだろうけど、
そもそも、蒙古には、海洋術があったわけじゃないし、走狗に疫病神のあ朝鮮族を使った時点で、無謀そのもの
はなから、鎌倉武士の相手じゃなかったと思うなぁ
弘安の役の日本の勝利を端折り神風で済ませやがった。許しがたい。ちゃんとしろよ。
惨殺されたり捕虜にされた壱岐対馬の民の事を思うと心がどんよりする💧
手に穴てアンタ…
撃退はできたけど鎌倉幕府は回復不能なダメージ受けちゃったからね…
今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、この元寇より100年~70年くらい前の話だったのか。
準備や防衛拠点の構築がこうをそうしたんやろうね・・攻め上ったとしてもやはりゲリラ的に反撃を受けたり慣れない土地で病人も出るだろうし補給も続くかどうか機動力の馬も使え無かった不利な要因だったかもね・・
でも恩賞がね
元軍相手に勝利しても領地も金銭も得られない
多少の捕虜は得ただろうけれど
とてもじゃないが多額の費用を掛けて国内を遠征して
陣地を築いて戦ったわけで元も取れずに大赤字
乱取りも出来なかった足軽雑兵たちも
嘸かし不満だっただろうなぁ
負ければ武士ではなくなり単なる奴隷になるだけだぞ。
最新の研究ではいくつもの沈んだ船等の遺跡や科学的検証により神風説は否定されています。(*´ω`*)
使者は偵察のためだったっていう説もあるらしいですね
元祖「大センチネル島」日本国
重装弓騎兵ってワードがかっこいい
鎌倉武士を
「かまくらたけし」
と発音している部分が修正されず放置される限り、高評価はできない。
フビライなりに気を使ってるのが笑いどころか
旨いよなエビフライ
この時代の日本勢上層部もなかなか動きを見せなかったのね
2度目の攻防のほうが激しかったのに、なぜ神風の一言で終わらせてるの? 神社の回し者?
当時の馬って今のポニー程度の大きさでですよね。
小柄な武士さん達がポニーちゃんに乗って勇猛果敢に戦い抜いたのかと思うと、なんかちょっとシュールで可愛いですね。
当時の鎌倉武士は肉食もしてたので、体格は現代とさほど変わりません
もう少し大きいですよ。足が短いけど太くてがっしりしています。登坂能力は現代のアラブ種を遥かに凌駕し、ジャンプ力も同様に凄まじい。足が短いイナリワンを想像してもらえると解りやすいと思います。イナリワンは地方競馬から中央競馬に移籍して天皇賞や有馬記念を勝った馬です。体重は350キロくらいで、サラブレッドとしてはかなり小型です。和種のかい種や木曽馬は320キロから350キロくらいですから同じくらいの馬だと解るはずです。
潮流とか海風とか「海」のことを、砂漠育ちのフビライはじめ元軍はよくわかってなかったんじゃないかなぁ。大軍なら大軍で、兵糧の確保とかあるだろうし。
元宗を「もとむね」って…。「げんそう」でしょ?
ウォンジョンwwwwwwwwwww
オーラスの解説コメントが秀逸!!(^^)!
フビライが何度も手紙をって所でペリーの声で
「おぉう…朝貢してくださぃ…朝貢してくださいよぉぉもぉ!」って再生された
重装弓騎兵の癖に槍とか太刀も持ってるから接近しても殺されると言う恐怖
3:35 ばんどう武者怖い
授業よりためになる気がする
強弓マメできてとクスネでもう大変そう
せっかく内容はおもろいのにかまくらたけしで萎える
あと2度目の元寇のことももう少し聞きたかったな〜
16:07
たしか友人やおとうと、妹の旦那などたった12人で突撃したはず。奮戦虚しく玉砕寸前で、応援来たんだよねー
重装弓騎兵って名前なんかすごく強そう(小並感)
弓騎兵がどうとか言う話はよかったのに最後は神風で勝ったとかいう埃のかぶった結論で締められてて草も生えない
「集団で矢を射かけた」を根拠に、集団戦を行っていたという解釈は少しおかしいと思います。
遠距離では集団で矢合わせし、接戦では一騎打ちに持ち込むというのが作法である以上、「集団で矢を射掛けた」からといって接戦では一騎打ちをしなかったという根拠にはならないと思います。
(元側の「騎馬は結束する」の記述も、矢合わせの事を指しているのかも知れません)
それに、軍団が高度に組織化された戦国時代ですら、鈴木眞哉先生らによって「騎乗身分は管理職である為、騎馬軍団や騎馬の集団戦なんてありえない」「だから武田騎馬軍団も存在しない」という説が提唱され、長らく主流となっています。
ましてや鎌倉時代の軍団は、各地から馳せ参じた御家人の寄せ集め集団(招集が掛かる度に、規模も集まる顔ぶれが異なる)です。小隊長や中隊長に当たるものもない為、集団戦を取りたくとも、その指揮を取れる者がいません。
部隊編成ができず、指揮系統もない状態で、どうやって集団戦が行えるのか疑問ですね。
(最初に「部隊(備え)」「兵科」「小隊長(組頭)」というものを作って集団戦法を可能にしたのは村上義清(武田信玄を2度破った男)だといわれておりますが、これは元寇から300年も後の話です)
それに、当時の御家人に取って、集団戦法というのは大変迷惑な戦法だと思います。
なぜなら、御家人は参戦しても給料がでる訳ではなく、手柄を上げた時だけ恩賞が与えられるからです。
しかし、集団戦では、勝っても手柄は指揮した組頭のものであり、個人の手柄は重視されません。恩賞目当てに来ている御家人に取っては大変迷惑な話です。
(個人の手柄を明快にする為に、矢合わせの時すら、一本一本の矢に自分の名前を書き込んでいたくらいです)
また、当時は手柄を上げた事を証明する為に、戦闘前に、親族以外の仲間に見継(証人役)を依頼する習慣がありました。見継を依頼し、そして戦う時は、その見継に自身が戦う事を知らせる為に(目撃証人になってもらう為に)、名乗りを上げる事もありました。
元寇時、御家人たちが手柄争いをして単騎で敵陣に突撃し、同時に、見継にアピールする為に名乗りを上げていたとしても、普通に在り得る事だと思います。
逆に、集団戦が行われていたというならば、目付(軍監)も組頭(部隊長)も存在しない鎌倉時代に、どうすれば、御家人たちに手柄争いをさせずに、集団行動や集団戦を取らせる事ができたのかと。こっちの説明の方が難しいと思います。
漢字の読みを間違えまくりですけれど、これってマニュアルで設定できないものなんですか?
出来ますよ
字幕部分に漢字仮名交じりの文章を入力すると、それに応じてソフト側がその読み方を自動で判別して設定してくれますが、当然完璧では無い
このとき、一旦全部の文章を入力してしまい、その際に自動で間違った読み方にされてしまった部分を、『後から』全部手作業で直すとなると
とんでもない作業量になるし、確認漏れも生じるからとんでもなくめんどくさい、でもそれをある程度防ぐ方法はあります
ちょっと一手間かけるだけ、当然完璧ではありませんが、全部手直しするよりは何十倍も楽
なのにその方法をこの制作者はとっていないから、こうなるわけです
一方、適当でも良いから動画を量産してカネだけ稼ぎたい制作者は、クオリティを上げる労力を惜しんで、量産することに全振りする
クオリティが低かろうが、量産した動画の再生さえ回れば良いので、確認もしなければ修正もしない
まぁ正直、「この制作者はちゃんとしたモノを作ろうという意識は無い」ってことですよ
重装弓騎型ギャン
俺がガキの頃には「大陸の弓は動物性接着剤が使えるので小型だが強力な弓を作れたが
日本は動物性の接着剤が使えず大型だが威力の弱い弓しか作れなかった」と言われていたな。
何から何まで日本下げ酷すぎるな。
人口の問題だったかもしれないけど、鎌倉幕府でもヨーロッパを蹂躙出来たかもね。
なんで「もとむね」?
俺が俺がで馳せ参じる九州男児ヤバいな。
単に敵陣中突っ込むより倭弓の射程長いのとヒットアンドウェイ戦術なのね。
ウクライナ侵攻以降は元寇に関する動画が増えた気がします。
今回も公平公正な動画をありがとうございます!
かまくらたけしは笑ってしまいましが^_^?
もし日本が太平洋戦争に勝ってたら、真珠湾攻撃は第一次米国征伐で支那事変は支那の役とか歴史の授業で習ってたんだろうなぁ。
松浦は「まつうら」じゃなくて「まつら」ですね
我!境仁!誉れは浜で死にました!
舷側に吊るした人間は奴隷ではなくて、食用やったらしいぞ、
エイジオブエンパイアのヤマトって騎馬弓兵脆かったよね・・・。
重装弓騎兵を再現してくれないかな
馬可愛い
世紀末元寇伝キャバクラたけし
かまくらたけし、つおい。