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子供の頃(50年超前)に読んだ「にほんのれきし」という本では最終的には「神風」で元軍艦隊は大被害に遭い逃げ帰ったとなっていたが、日本の武士達の戦いぶりも多少記されていた。夜間、停泊中の元の軍船に小舟を漕いで接近した武士達が乗り込み、船内の敵を次々に斬り殺して放火して逃げるを繰り返し敵艦隊に甚大な被害と恐怖を残して立ち去ったとか。艦隊戦でも自分達の船の帆柱を元船に切り倒し、その帆柱を渡って敵船に武士達が乗り移り次々と敵を斬り殺して船に放火して逃げるを繰り返したとか。ゲリラ戦と奇襲攻撃に長けた鎌倉武士団は世界最強か?
コメントありがとうございます😊すごいですね😳ゲリラ戦と奇襲戦が強いって最強ですね‼️
@@にっぽん歴史探検ゆっくり解説 真の日本男児ここにありの伝統を史実として後世に伝えられる話ですよね。結局今日に至るまで国家としての独立を守り通した日本人の強さと民族的優秀さをあらためて誇りに思います。命懸けで日本国を護ってくれた先人たちには感謝しかないですね😀🇯🇵
倭寇の戦法でもありますね。
九州男児の勇猛さだね。ほぼ九州の鎮西武者のみで撃退している。
ああ、学研のかな。あれはよかったね。弘安の日本の戦いの勇猛ぶりも書かれていたね
教科書の蒙古襲来絵詞は竹崎季長が元軍にやられてる場面だけが切り取って載せられてるけど、ちょっと左に行ったら元軍散々に逃げてて笑った
金色堂に収める経典を求めるのに「金」を代金として支払っていたそうですね。経典に限らず、普段から色々な物品の買い付けに「金」を使って居て、経典の時は其の規模が莫大だった為に、フビライからその話を聞いたマルコポーロが「黄金の国ジパング」としてヨーロッパに伝えたと聞いています。
コメントありがとうございます😊今も昔も、金の価値は高かったんですね😊教えてくださりありがとうございます‼️
朝鮮が日本に文化を伝えたなんて恩着せがましく言ってるが実態は貿易だと言う証拠。逆に日韓貿易の日本の黒字は富を強奪したかのように言われ、日本は賠償金以上の利益を韓国から得たと言う半島人も少なくないとか。
鎌倉武士のタフネス、今ひとたび!
元寇は高麗王の子(後の忠烈王)が1272年、自ら進んでフビライ・ハンに日本を攻めるべきと上奏したのが始まりです。高麗史の元宗十三年に記述されている。宇山卓栄さんが現代ビジネスに関連記事を上げてます、がグーグル検索してもなかなか見つからないです(笑)
モンゴル帝国は大陸国家で、地続きの大陸での戦闘では強くても、海洋国家でもないのに大陸国家が不馴れな海洋国家の行う戦術を使った事が、モンゴル帝国の敗因の一つだと思う。
コメントありがとうございます😊確かに、大陸か島国かの立地条件は大きな要因ですよね🤔
防備を固めた敵地に攻め込むのは、かなりの不利だな。
鎌倉時代の日本は恐らく海岸線まで多く森に覆われ、山や谷、湿地が沢山あった。モンゴルが得意とする騎馬戦には向かなかったし、そもそも馬を大量には運べず、大軍を上陸させる場所も無かったと思う。
コメントありがとうございます😊そういう地形だからこそ苦戦させられたんですね😅教えてくださりありがとうございます😊
草原では強いかも知れませんが、海をを渡っての戦いですからね。それに誰も指摘しないようですが、日本にやって来た兵隊の主力はモンゴル兵の服を着た朝鮮人、中国人で指揮官以上がモンゴル人だったはず。しかも、モンゴル人は船酔いに弱かったと聞いています。
コメントありがとうございます😊確かに、海を渡るだけで大変だし、船酔いに弱いとなると不利ですよね😅
世界史にもフビライ・ハンのエピソードで出て来たなモンゴルは陸を攻めるのが強くて海を攻めるのが弱い
大陸に海はないからねえ。海の戦いには慣れてないんでしょうね。
最初の手紙で北条がヘイコラしていたら、今の日本が無かったかも、ね。
ヘイコラして日本人は弱いってイメージを世界や国民に刷り込むのも政治家の仕事の1つ😂ストレス半端ないだろうなー
ヘイコラしたら、南宋を攻めろと言われるだけだな。鎌倉武士的にはそっちの方が盛り上がりそうなのがなんともだが。
南宋や高麗がどうなったかという情報は持っていたはずヘイコラしてもいい結果にはならないと誰でも分かること
84歳の少弐氏が率いた日本軍の強さあっ晴れだなぁ!
まあ、ジジイは名前だけだがな。
どの時代でもご先祖は存在してたわけで。元寇の時にご先祖様は何処で何をしていたのか?戦いに参加してたかも。とにかくどんな状況でも生き抜いてくれたんで、各時代のご先祖様には感謝しかないです!
やっぱり海は天然の要塞なんだろう。兵器が進化した現代でも簡単ではないんじゃないかな。
コメントありがとうございます😊昔のお城も堀で囲んでいたように、水の守りは堅固なものなんでしょうね😊それが海のような大きな物だとしたら、より強固なものに違いないですよね👍
島国は、およそ100個師団以上の兵力で守られた大陸の国境線と同じといいます。日本のみならず、第二次世界大戦中の英国や、国共内戦の台湾にも言えることですね。
中共が台湾を攻め落とせなかったのも兵站を維持できるだけの渡海能力が無かったから。抗戦する意思を挫くため平和主義の仮面で骨抜きにしてから、工作員を送り込んで、選挙を通じて併合する戦略に移行したんですよね。最近、何をトチくるったか武力深奥を匂わせてますが上陸部隊が悲惨なことになるだけなんですけどね・・・。
日本列島を囲む海ではメタンハイドレートが機雷のように自然爆発なんかもあったかもしれない
@@yamashita45 様 じゃ、歴史的・地政学的観点から、この先将来的にも日本では、陸続きの国境は絶対タブーですね。それと、英米のアングロサクソン系諸国を絶対敵に回してもいけない。むしろ日英同盟復活させるくらいで。(笑)
鎌倉武士って言われてるけど主力は九州各地や中国地方から集められた武士や瀬戸内などの水軍が主力。こちら九州中部でも戦いに呼ばれてて、お寺で勝利を願って祈祷したとか、こちらから行った騎馬武士が活躍とか記録があるみたい。結果勝って、祈祷の礼に朝廷の菊の御紋をつけることを許されてるお寺あるで。(幕府は戦いでお金なくて実のあるものはだせないから、お金のかからない名誉だけ与えたとの見解もある)
海岸上陸作戦で、元寇では、弓矢の補給が断絶的で日本の重装弓騎兵の餌食になったようです。第二次世界大戦ノルマンディー上陸・硫黄島でも初日の連合軍の犠牲の多くは、日本軍ドイツの銃砲の十字砲火にやられた。科学の進んだ時代でも敵国の海からの侵略が難しいか解りますね。
鎌倉時代前後の武士による「自分を誇示する行為」は、度が違い過ぎるので困る。
モンゴル「黄金の国ジパングという豊かな島を征服しよう」そう考えたのがモンゴルにとっての地獄の一丁目だということを、この時はまだ誰も知る者はいなかった・・・
ワンチャンマルコポーロにジパングのこと聞いて攻めてきた可能性ある?
しかしながらモンゴル大帝国と言うまですごい広大な領地を得たと言う!
実は鎌倉時代の武士は普段から自分の領地を守る為に日夜戦時状態だったのです。
もう一度大河かとか特集ドラマでやってくれないかなあ・・・
結局「高麗&南宋が日本の民間人を襲撃して鎌倉武士に返り討ちにあった」ってだけなんだよね…
超昔から因縁あんだよな高句麗→高麗と南宋とモンゴル帝国を混ぜ混ぜしたのが半島大陸のルーツあいつら兄弟やん😅
蒙古襲来(元寇)でターゲットとなった博多は小生の生まれ故郷で、今でも、街の至る所に当時の痕跡が残っています。防塁跡、祖原山(古戦場跡)、(敵兵を祀った)蒙古塚、また東公園には、元寇を予言した日蓮聖人の銅像や元寇資料館があり、筥崎宮には(後年)小早川隆景が奉納した大額があります。当時、鎌倉武士は、何しろ首カリ族の末裔でもあり、恩賞の証拠物である敵兵の「生首(首級)」を腰にぶら下げながら襲いかかってくる訳ですから、蒙古側は相当な恐怖だったでしょうネ。
コメントありがとうございます!生まれ故郷だったんですね❣詳しく教えてくださりありがとうございます☺今後の動画作りの参考にさせてください!
12:04 の蒔絵モンゴル軍の勇ましそうに見える3人は圧から書き足したものだそうです。
コメントありがとうございます^^そうなんですね!教えてくださりありがとうございます!☺参考にさせていただきます!
その話は私も聞きました。弱い敵に勝っても褒美が貰えないから、強い相手に苦労して戦ったんだと説明するためだとか。
最初は、左端に逃げていくモンゴル軍兵士を日本武者が馬で追う絵だったようです。そして、踏みとどまり弓で反撃するモンゴル兵士を追加したようです。激戦にして己の武勇を誇る絵にしませんとね。
だからその3人だけ不自然に濃く残ってるんだよねw 一目瞭然ww
陣を高台に構えたり、敵軍を谷間に巧妙に誘導したり、外から後ろ背部に回ったり。内陸には内陸の戦い方があるように。海洋には海洋の戦い方がある。潮流海流を味方に付けるなど。そういう意味ではモンゴル軍がいくら経験値が高かったとはいえそれは内陸での話。海のことはモンゴル軍はあまり知らなかった、ということ。逆に日本軍は海のことを熟知していた。のちの「日本海海戦」も同じ。海洋民族海洋国家が海での戦いに強いのはあたりまえ。
歴史オタのスレではとにかく鎌倉武士がヤバすぎるという例が延々上げられてたなあ
ただ一言「なめられたら殺す」
狭い海域に何百隻も船がいたら、嵐でお互いにぶつかったり波を被って沈む。これは船が頑丈でも関係ない。
コメントありがとうございます^^確かに狭い海域に何百隻も船がいたらそうなりますよね😓船の頑丈さは関係なさそうですね!
やっぱ遊牧民族が海を渡って戦いに行くなんて正気の沙汰じゃなかったという事だな。三国志演義でも曹操は赤壁の戦いの際に自分達は船に慣れてないって事を分かっていたから色々画策してたのに。
台湾やジャワ島征服も後に失敗してますし、そもそも海に出るのが間違い。
コメントありがとうございます😊確かにそうですよね😅やっぱり環境面ってかなり影響ありますよね💦
基本、遊牧民は泳げないから落ちたら終わり。
ナポレオンもヒトラーもドーバー海峡を渡れなかった。
@@Aki-cv2qz そりゃ、イギリス海軍を押さえ込めるぐらいの海軍がないと単なる集団自殺だからな。第二次大戦までなら、無敵艦隊の頃のスペインぐらいしか可能性がある国はないだろう。
この戦の件で海外のアホ反応があるけど海から来た不利さ そして神風吹いたから 鎌倉武士は何とか勝てたとか言ってる連中いますけどなら そういう連中に聞きたいけどイングランド 島国だけど海上から上陸征服 バイキングに殺られ 蹂躙され制服されてるしこれを この戦に当てはめたら 何と言えるか真実として鎌倉武士が強過ぎたって事より他はない
列島だったから縄文人の子孫等が生き延び日本文化を育み育てることができた。ちょうど武士の世になって攻めてきて、我々の先祖は侵略侵攻を食い止めることができた。
コメントありがとうございます!おっしゃる通り、日本が列島だったからこそ縄文時代から続く日本文化を育むことができましたね。ご先祖様に感謝ですね☺
昔の偏向教科書だと、100%台風だけのおかげで元軍を引き揚げさせることができました、なんて書かれてあったっけか
結局、日本人は世界一なのですね!😊
総司令官の戦争に対する認識の違いが明暗を分けたのでしょう。モンゴルからすれば、東海の中にある島国、大した武力はおろか、文明さえも怪しそうな途上国と見て軽視したものと思われます。中国の軍勢の実数については資料が残っていて、歴史書でより物語を強調する習慣があり、「実際の兵士の1/5」と言われていることからも、5万は1万、10万は2万が良いところでしょう(長安の都の人口は平城京の1/10であったことが発掘調査による都市の大きさから推定されています)。それも実線を戦う将兵だけではなく、輜重隊(食事や医療の面倒を見たり、馬や武器の管理をする係)まで含めての数なので、弘安の役でさえ本当の襲来数は2万人程度だったと見るとそれほど歴史に違和感が無くなります。「何故勝てたのか?神風が助けたから」などという説明が不要になる。対する日本側は予め十分な対策を講じていて、戦をして名をあげることで褒賞を手にし、立身出世まで約束されるとあっては、士気も高かったでしょう。まず、この前提部分についてモンゴル側の歴史を重視しすぎな点に問題があるかと思います。そして、あの朝鮮半島の連中が、「1万隻の船」を作れと言われて、正直に1万隻を用意するとは全く考えられませんし、モンゴルの命令通りに行動したかも怪しいものです。半島人と拘わったことが致命的だったかも知れません。いよいよこうなってくると、正面切って戦ったモンゴル軍は本隊の1万人程度になってきます。 そうなると、夜は戦争をせず、休息するという大陸の戦争ルールに従って「余裕の戦」をしていたモンゴル軍は、今や遅しと待ち構えていた士気高い日本の軍勢からの昼夜を問わない24時間体制の攻撃に相当に悩まされたと思われます。それも寄せ集めの他民族軍、言葉も通じないとなってくれば、最初こそはともかく、時間と共に形勢の悪くなる戦いを見て、我先にと逃げ帰ったのでは無いでしょうか。これが恐らく最大の敗因だと思っています。 優れた騎馬隊を頼りとするモンゴル軍は、遙かに長い射程の和弓を馬上から放って狙撃してくる日本兵に近寄ることも叶わず、かといって足場の悪い上陸戦で戦う術も知らず、防塁に阻まれて上陸した兵士は各個撃破される事を繰り返し、夜は海賊(水軍)の火攻めに遭い、神経をすり減らしていったと考えられます。 3ヶ月近い戦闘の最後に、「退却しようか」という考えが支配的な時期、台風の直撃を受けて「帰ることも出来ないかも知れない」という恐怖、絶対に来ない援軍を思い、将校だけが逃げ帰ったということで、ほぼ全容が理解出来ます。勿論、最初の上陸戦で五分以上の戦いをした九州の御家人達は、壱岐、対馬の犠牲者への弔い合戦の意味合いもあり、勇敢であったことが引き金だったことも想像できそうです。 もう少し兵士達のその場における「心情」を想像しながら動画を作成していただけますと、共感、理解が深まったかと思います。難しい解説だと思いますが、特に戦争の歴史となるとその場の指揮官の判断根拠が後付けになりがちですので。 それでも良い動画だと思います。
たくさんコメントありがとうございます^^色々詳しく解説ありがとうございます!参考にさせていただきます☺
結局、無事に日本海を渡った馬はせいぜい100頭くらいじゃないの?九州の武士団は5万人の兵力、そのうち1割が騎馬兵として5000騎はいた。鎌倉武士団は騎馬兵による機動打撃戦術を採用し、蒙古軍は機動力のない歩兵による集団戦術しか使えなかった。つまり鎌倉武士団が本来の蒙古軍の戦い方を採用し、馬のほとんどいない蒙古軍はついていけなかったんだろうな。騎馬戦を得意とする軍団に騎馬がほとんどいない時点で勝敗は明らかだった。
当時の日本の鎌倉武士は最強❗️敵にとっては最悪で凶悪な武力に見えてたと思います。
福岡のしかのしまですね志賀島には「クビキレ窟」だったかななんかそのままな名前の場所がありますよ
コメントありがとうございます😊そのままの名前の場所があるんですね❣️教えてくださりありがとうございます😊
騎士団の鉄鎧、盾、刀剣と武士の鎧、刀、とどっちが強いか議論があるが。鉄鎧(騎士団)
三谷幸喜…なるほど観たい。
食料がなくて高麗軍が予定よりも早く日本へ行っちゃったことや南宋軍の代表が病気だったりして統率が取れなかった、と言ったところでしょうか...海で手紙を送るの難しいなぁ
コメントありがとうございます😊海で手紙を送るのは難しいですよね😅そう考えると今は便利になりましたよね🤔
実はモンゴル帝国もベトナムには勝てなかったんだよなぁー!!
ベトナムはWW2で世界の富のを持つと言われたら米国にも勝ったぞー!!米軍が匙を投げた!!
現代のウクライナとロシアの戦いも昔のモンゴル帝国が関係している。
平和的に交易ができるレベルでの外交が行われても、その後の元の疫病での衰退を考えると海の壁のおかげで守られたのかもしれない。
鎌倉武士最強!
そりゃ船はモンゴルは不得意だよな。それだけの話。
個人的な意見ではあるけども、2回目も襲来していると言うことは、コストばかりではなく、環境負荷がとんでもないものになったのではないかと推測します。国土の犠牲の割には何の成果も得られなかったとするなら、元の力の限界がわかったのではないでしょうか?3度めの元寇をやれる程の実力はなかったんでしょう。
海が最大の防御壁の役目を果たしたんだね。仮に中国が尖閣を占領したとしても防御するのは容易くなく奪還できると思う。ただ台湾が中国になって尖閣を取られたら取り戻すのは難儀。アメリカ頼みになる。
コメントありがとうございます😊本当にその通りですね💦これから世界情勢、不安なこと多いですね😅
ちょうよしつの言う事が現実になった。日本を攻めるて事は無駄である島である、海流が荒い それが天然の防御になってる
コメントありがとうございます😊天然の防御が固いですよね💦海流やら色々条件が揃ってますよね😅
9:30実際に東京サンシャインボーイズ復活公演で、三谷さんが『蒙古襲来』を手掛けるとは…
モンゴルはインドネシアやベトナムでも敗北、叩き出されているので、まともな騎馬戦が出来ない地域では勝てなかったんだろう。
コメントありがとうございます!!モンゴルの人たちにとって騎馬戦がとても重要なポイントだったんでしょうね。地域によって力が発揮できたりできなったりしたんでしょうね💦
そりゃそうですよね。ジャングル・水田で、騎馬・戦車なんてものは、使い物になりませんからね。jp相手でも、騎馬を持ち込もうとしていた様ですね。でも上陸が困難だった、船の上では馬の餌が、確保しh織レナkt田というのは聞いたことがあります。
草原や丘状の高地でしか活動できないんですよ。兵站の設置と言う点からも地形が重要なんですね。東欧や欧州では彼らを恐れたあまり戦わずして講和を結んだ諸国が多かったため、調子に乗って日本にも仕掛けたんでしょう。思い上がりです。どこかの国と同じですね。
運動会は強そうだ
ベトナムでは泥沼のメコンデルタや山間部に誘い込まれ騎馬隊が右往左往してるとこをゲリラ部隊が襲いかかり、やられた。数百年後に子孫がアメリカ相手に戦ったと同じ戦法。
海と云う壁と 日本戦国時代の初期には 武士は「一生懸命」の意味が理解が 浸透して 日本の男は 頑張っていた。と思うよササモリ(防ぐ人)の歴史もあります
当時は一所懸命という説も有力ですよー土地のために懸命に頑張るという意味で使われてました
コメントありがとうございます😊日本の男性は、昔から頑張り屋さんだったんですね‼️ご先祖様に感謝ですね😊
九州地区は薩摩隼人といわれた勇ましい武人の地でもありますね。
南宋は海軍というか河軍が強くて金もモンゴルも苦戦してる。それが相当数来てるから馬の代わりにアテにしてたんだろうね。ま、日本は陸海山すべてエキスパートだが
使節団を殺害するのもどうかと思ったが、残虐な限りを尽くしたうえに一度負けて撤退した国から、属国になれと使節が来たら突っ込みだけで死にたくなるレベルだと思う。
コメントありがとうございます😊確かに使節団を殺害するのはどうかと思いますよね💦残酷な歴史も残されてますよね…
今の外交特権はウィーン条約で定められているけど、それ以前は明確で無く戦争を前提とした交渉で使者の首を切って相手に送り付けるなんて珍しくも無かった。敵の血祭りの生贄にされるのは覚悟しておくべきものだったのでは?
自国から敵への内通者を出させないためにも、使者を斬って断交というのは、それなりに有効。
脅しに屈しない手段として当然です。首級を獲り下は火あぶりで良い。
対馬壱岐で時間を掛けすぎたのは、日本には動員の猶予にしかなってないな。
元軍とは言っても、主力は高麗軍と南宋軍の将兵で、歴史的にも弱兵なのは明らか。馬の輸送も難しいし、精鋭モンゴル騎兵なんて連れて行けない。反乱が起きれば鎮圧する為にももったいなくて日本遠征には使えない。むしろ南宋兵、高麗兵は弱体化させれば反乱の芽を詰めるので、負けても痛くも痒くもないのが、フビライの本音。
モンゴル兵「こいつら、狂ってる!!」日本人「こいつら、狂ってる!!」
遣唐使船の話は大正か昭和の初め頃の学者さんが意図してかどうか数を間違えていてそれがそのまま継承されてるだけなんだよ。戦後だったかに疑問を感じた人が出来得る限りの古文書をしらみつぶしに精査したら難破したとされていた数の半分も無かったと公表してたとか。なぜ疑問に思ったのかと言うと元々、海洋民だった日本人がそんなに失敗を繰り返してたとは思えなかったらしい、考察すると弘法大師空海が乗った遣唐使船が難破したから他の船も…となったのかもと言うことだった、
モンゴル帝国以降彼らが表舞台に立ったのは相撲だけだった。
蒙古襲来絵巻が、元寇の状況を映像的に確認出来て良い資料になっている。それにしても、御家人(武士団)は、強かった。
当時は、功績はどう扱われていたでしようか。神社仏閣の祈祷のほうが功績があるとされたのか、気になってました。文永の役のあと、また、弘安の役のあと、鎌倉武士へ対し、朝廷から官位は出ていたのでしょうか。鎌倉幕府御家人の場合、幕府が申請しないと、そもそも官位は貰えない仕切だと思いますが。幕府上層である鎌倉将軍(鎌倉殿)や、執権や連署や探題には、官位が前例にとらわれず上がったりしたのでしようか。神社仏閣のほうが、位階が上がったり、荘園が寄進されたり、かもしれないと思っております。
コメントありがとうございます😊当時の功績はどう扱われてたんでしょうね、きちんと功績に対して評価されていて欲しいものですね😊
@@にっぽん歴史探検ゆっくり解説 様返信恐縮です。幕末の攘夷の際も、大掛かりな祈祷(将軍家茂公も、参加させられてしまう)があったわけですから、祈祷の効果は大きいと思われていたのではないかと想像します。武士たちも、守り本尊に祈ったり、戦後に所領にある神社に御礼したり、したのではと思ったりします。幕府からは、恩賞と言っても新たな土地はあるわけでもなく、やはり朝廷からの官位くらいしか思いつかないところです。
得られた報酬が渋くて幕府への思い入れが減った(無くなった)のも鎌倉幕府滅亡の一因って言われてますねなので報酬が満足に出せなかったと思われます
@@yhy1822 さまそうですね。恩賞としての土地が手に入った訳ではないですから。朝廷に要求して、官位を振る舞って貰えばよかったと思いました。家門の名誉になると思います。
@@Bluegreenred3975 当時の環境上、官位を一定層以上与えるのは貴族の血統が無いといけないと言う認識や、官位を頂いたところで飯など(今で言う給料)が増えるわけではないのでそれでは満足しなかったとうかがいますそして当時のバーサーカー武士達は海外に攻めに行くつもりで居たそうです、なので撃退後行くつもりがもう用済みと言われ不満が溜まったとも聞きました
大体、モンゴルの馬は虚勢馬を使い接近戦用の弓矢短刀が主力で鎧は革製品に主要部に少し鉄製品を使った甲冑だった。日本側大鎧で25~40キロもする頑丈な甲冑に下着の上に鎖帷子来て馬は荒馬程名馬とされ力で捩じ伏せて使いこなしたし、既に刀事態世界最強の強度切れ味最高で武士事態、人を試し切りが趣味観たいな鎌倉武士団で弓事態、長弓を好み、世界で物凄くレアな長弓重騎兵で有った訳です。モンゴル兵寄り日本兵の方が馬の扱いが上手く兵士も強かったと見られてます。モンゴル兵は平野で強いだけで日本は山岳戦と海洋国家だけ有る事で海戦も強かった結局足元にも及ばなかった訳ですね。島国では無いですが地形が似たベトナムも3回モンゴルを退けてますからね。又海洋国家のジャワにも負けてますからね。古来寄り日本は戦闘民族何ですよ。インパ―ル作戦時、世界最強のグルカ兵の師団が徴兵で集められた日本の一般兵の大隊と戦い日本は食料弾薬無しにも関わらず夜戦の切り込み白兵戦に持ち込まれ日本側は玉砕しましたがグルカ1個師団は1/3迄減らされた話しは有名ですよね。其れ丈日本人は強いですよね。大和魂があるからね。
泳げないので、海や川が怖いんですね
河野通有、こうのみちありと読むよ。
マルコ・ポール は 元(中国) に いかなかった説 があったはずです。その説では、フビライに会ってないどころか、中東までしか移動してないそうです。
高麗の諫言によって、日本侵略を考えたとも言われている。それに、船に馬を乗せていたとも言われている。そうであれば、馬が暴れたり船上で死んでいたようです。日本に侵攻した時点で既に戦力は、半分になっていたとも言われている。
その捕虜のモンゴル兵の子孫は今いるのか❔日本に❔それとも全員抹殺したからいないのかなあ❔
鷹島の掃討戦は相当に凄惨だったようです。逃げられない10万余の残兵は鷹島で塁を築いて防戦したものの追い詰められ多くが死に、生き残りの2万~3万の兵は降伏したそうですが、日本側は、捕虜を蒙古・高麗・漢(蒙古統治下の華北)の兵と、南宋の兵をはっきり区別し、前者は一人残らず全員御家人に命じて斬殺、後者は御家人に奴隷として与えたという話を聞きました。鷹島には、鷹島には、首除(くびのき)・首崎・血崎・血浦・刀の元・胴代・死浦・地獄谷・遠矢の原・前生死岩・後生死岩・供養の元・伊野利(祈り)の浜などの地名が残り、元軍10万人殲滅時の惨状を今に伝えているそうです。
二度目も‥ 同じ所に攻めて来ると‥ よく予測したもんだね‥
たくさんコメントありがとうございます😊確かに生き残ったのはラッキーホースですよね😊
当時の航海技術、渡航距離、上陸後の策源地としての適性など、上陸点は北部九州、しかも既に港湾として整備済みの博多の一択ではないかと。攻撃点が予測可能なら、防御側もかなり助かりますね。
大軍には場所を選ぶ自由なぞない。100人やそこらの海賊とは違う。
馬を何日も繋いだままだと‥ 腸閉塞を起こす確率も高いからね‥それで生き残ったのがラッキーホースですよ‥
高麗を服属させた後はモンゴル勢力は世界各地で負け続けてるベトナムで負け、インドネシアで負け、ミャンマーでは反乱軍に負けインドでも負け、マムルークにも負け、一度は勝ったポーランドやハンガリーにも負けてるあの頃のモンゴルは別に無敵じゃないし日本が退けたのなんてあの時代では特別すごいことじゃない
コメントありがとうございます😊そうなんですね❣️教えてくださりありがとうございます😊
Kの法則発動ですかね。
弘安の役のモンゴル帝国の総数 140,000〜156,989人および江南軍水夫『元史』阿剌罕伝では蒙古軍 400,000人 東路軍 40,000〜56,989人蒙古・漢軍 30,000高麗軍 9,960水夫 17,029江南軍 100,000人水夫 人数不詳軍船 4,400艘東路軍軍船 900艘江南軍軍船 3,500艘結果、日本を征服する事かなわず
@@azumam2427 さん本当に恐ろしい法則です。
やっちまったな〜今の韓国を味方につけると どこの国も 碌な事はないのかね?
まず、やっぱり大陸国は島国に弱いですよね。上陸作戦が下手ですから。それから、以前、イギリスの歴史ドキュメンタリーで、「当時最強だったイギリス騎士団と鎌倉武士団はどちらが強いか」をやってて、つまり、島国同士の最強決定戦なわけですが、真面目に考察していて、結果は、「鎌倉武士団、世界最強」となってました。「あの時代に、あれほど精強な武装集団が大量に居たのは世界で日本だけ」「騎馬隊に弓で攻撃されたらどうしようもない」などなど。モンゴルの軍隊や政治は確かに優れていましたが、日本には無理だった。ソ連もまともに上陸出来なかった。アメリカでさえ、沖縄で苦戦して、本土上陸を諦めた。
コメントありがとうございます^^イギリスの歴史ドキュメンタリーでやってたんですね☺教えてくださりありがとうございました!
@@にっぽん歴史探検ゆっくり解説 ユーチューブで細かくググれば、英語ですが、その番組を見ることが出来たと思います!
そのとおりだと思います。ソ連は、昭和20年8月15日、日本が連合国との戦争を終わらせたにも関わらず、千島列島全島の占領を試みて、占守島に上陸しました。しかしながら、占守島の日本軍守備隊の、猛烈な反撃を受けて、甚大な被害を出して、カムチャッカ半島まで逃げ去りました。ソ連は、千島列島のみならず、北海道占領も視野に入れていたのですが、士気も練度も高かった、占守島の日本軍の「自衛戦争」に、海岸線はソ連兵の屍で埋まったそうです。結局、北海道占領という、ソ連の野望は頓挫しました。ソ連は、海を渡っての上陸作戦などやった事も無いのに、その分野では経験もノウハウも豊富な、日本軍を甘くみたのが、敗因だと思います。
まあ逆も恐かったと思うよ、壱岐や対馬とかさ、今でもコクリムクリて言われてたりするんじゃないのか??
今でも逸話として残ってるのかな。言うことを聞かないとモウコ来て連れて行かれるぞなんていわれたもんだよ。
いやフビライ・ハン
もう1つの蒙古襲来(北海道・樺太)もオナシャスw
騎馬民族は当時最強で、本隊が日本を恐れたということはないと思うし、同じ大陸内なら余裕で負けたと思う。
コメントありがとうございます!!確かに、当時の騎馬民族は強かったと言われていますね。同じ大陸内であれば結果が変わっていたでしょうね☺
日清と日中日中なんて中国人が弱いからブリカス帝国が人員と武器と弾薬を支援してたから陸でも勝てないと思うよ😂フライングタイガース😂
騎馬民族だから。
上陸作戦で40万人居ようが的が4400隻まで経るなら上陸させず橋頭堡維持させず 狼煙も上げれない海の上で速やかな連携が必要な事を寄せ集めで出来る訳ないわな ましてや全員薩摩みたいなバーサーカーだろ そしてこの時代にすでに日本刀が完成してるのが何でこの時代に鋼鉄の刀があるんだよw西洋じゃエクスカリバーくらすの宝剣がそこいら中にあるようなもんだ
コメントありがとうございます😊考えれば考えるほど色んな条件が揃ってますよね😳驚かされます‼️
やっぱり武士の鎧兜の優秀さでしょう。なんたってあんた弓矢どころか槍さえも貫通しないんだから。早い話が日本の武士はターミネイターだったのですよ。🎉
蒙古軍はもうこの馬がなければ波の軍隊だったと聞いていますよ。 蒙古馬はゆれが少なく気丈だ弓を射ることが出来たため、弓を武器とした戦いで勝っていたようですね。 言ってみればクッションアブぞーバーを津行けて水平に保つことが出来る車に乗って弓を射る感じですかね。 それが何千も攻めてくれた、逃げ出すしかないでしょうね。 戦い慣れた戦国の武将達奈良が策を講じて馬を止めてしまう戦法で、闘ったかも知れませんね。 馬さえなくなれば蒙古軍はたいしたことが無いと考えられるからです。 ヨーロッパに軍隊は余りいくさ慣れしていなかったのでしょう。 実際原稿の役では日本の武将達が初回は名を名乗って弓で射られて次々鬼やられたみたいだが、2回目からは敵の0戦法を理解して、うまく立ち回ったようです。 一対一では負けなかったので、基礎体力は日本の方が上だったのでしょうね。 中国軍を追いかけ回していたようです。 とくに船への野州は敵もびっくりだったようです。 比弓での攻撃ではなすすべも無く馬ならぬ船がなくなった蒙古軍は闘わず為て逃げるほか無かったようです。 体力区も、頭脳も日本の方が上だったようですね。 蒙古軍と日本軍の本体同士が戦ったら、日本軍が勝っていたのではと思います。 彼等はわんぱたーんの騎馬戦しか出来なかったと思われますので、色んな戦法を駆使する日本軍医は揚げ足を取られて無力化される可能性が強いのです。
日本が陸続きだったら、あっという間に滅ぼされてたと思う
日本の弓は長弓で貫通力が半端ありませんし、直射力も正確で強力です。
朝鮮だけでなく日本も歴史ファンタジーを。
A型の比較的多い日本と、B型が比較的多いモンゴル 高麗では、敵わないというのも理由の一つ
鎌倉武士(イースタン・バーサーカー)
ちなみに「たけさき」が正式です
チンギスハンは、義経だったからね!
原史奈
ベトナムに救われた鎌倉幕府
二階、茂木、福田の手先は最低
モンゴルは羊や山羊に草を食わすために侵略したの?
こうしたらああしたらのタラレバなどいらない。
最強のモンゴルでも関東武士の野蛮さにはビビるんだよ
九州にいた関東武士の多くは、清盛平氏以外の平家勢と源氏の武士連合、その御家人達でかつて頼朝を支持しと言うより、清盛討伐のために同盟を結んだ旧軍団組織と言うのが正しいでしょうね。彼らを祖とする元々は貴族の出自ですから、野蛮とは違うと思いますよ。源平の戦いで鍛えた力と技が受け継がれ溢れ出ていたとともに、恩賞を期待しての活躍の場という意味も無くはないと思いますが、現にモンゴル勢が眼前に現れたことで血が沸き立ったんでしょうね。
土俵に蒙古襲来。
地球皇帝(中華)子孫本家がモンゴルを打ち破った。
ーコメです
一コメに何の意味があるのでしょうか。無駄で役に立たないコメントは止めましょう
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やはり神が宿る國なんだな
騎馬民族だからだろ?( ̄▽ ̄)船上では騎馬は使えない( ̄▽ ̄)上陸時もすぐに使えない( ̄▽ ̄)
モンゴル、討つべし!!
武士!
子供の頃(50年超前)に読んだ「にほんのれきし」という本では最終的には「神風」で元軍艦隊は大被害に遭い逃げ帰ったとなっていたが、日本の武士達の戦いぶりも多少記されていた。夜間、停泊中の元の軍船に小舟を漕いで接近した武士達が乗り込み、船内の敵を次々に斬り殺して放火して逃げるを繰り返し敵艦隊に甚大な被害と恐怖を残して立ち去ったとか。艦隊戦でも自分達の船の帆柱を元船に切り倒し、その帆柱を渡って敵船に武士達が乗り移り次々と敵を斬り殺して船に放火して逃げるを繰り返したとか。ゲリラ戦と奇襲攻撃に長けた鎌倉武士団は世界最強か?
コメントありがとうございます😊
すごいですね😳ゲリラ戦と奇襲戦が強いって最強ですね‼️
@@にっぽん歴史探検ゆっくり解説
真の日本男児ここにありの伝統を史実として後世に伝えられる話ですよね。
結局今日に至るまで国家としての独立を守り通した日本人の強さと民族的優秀さをあらためて誇りに思います。
命懸けで日本国を護ってくれた先人たちには感謝しかないですね😀🇯🇵
倭寇の戦法でもありますね。
九州男児の勇猛さだね。
ほぼ九州の鎮西武者のみで撃退している。
ああ、学研のかな。あれはよかったね。弘安の日本の戦いの勇猛ぶりも書かれていたね
教科書の蒙古襲来絵詞は竹崎季長が元軍にやられてる場面だけが切り取って載せられてるけど、ちょっと左に行ったら元軍散々に逃げてて笑った
金色堂に収める経典を求めるのに「金」を代金として支払っていたそうですね。経典に限らず、普段から色々な物品の買い付けに「金」を使って居て、経典の時は其の規模が莫大だった為に、フビライからその話を聞いたマルコポーロが「黄金の国ジパング」としてヨーロッパに伝えたと聞いています。
コメントありがとうございます😊
今も昔も、金の価値は高かったんですね😊教えてくださりありがとうございます‼️
朝鮮が日本に文化を伝えたなんて恩着せがましく言ってるが実態は貿易だと言う証拠。逆に日韓貿易の日本の黒字は富を強奪したかのように言われ、日本は賠償金以上の利益を韓国から得たと言う半島人も少なくないとか。
鎌倉武士のタフネス、今ひとたび!
元寇は高麗王の子(後の忠烈王)が1272年、自ら進んでフビライ・ハンに日本を攻めるべきと上奏したのが始まりです。
高麗史の元宗十三年に記述されている。宇山卓栄さんが現代ビジネスに関連記事を上げてます、がグーグル検索してもなかなか見つからないです(笑)
モンゴル帝国は大陸国家で、地続きの大陸での戦闘では強くても、海洋国家でもないのに大陸国家が不馴れな海洋国家の行う戦術を使った事が、モンゴル帝国の敗因の一つだと思う。
コメントありがとうございます😊
確かに、大陸か島国かの立地条件は大きな要因ですよね🤔
防備を固めた敵地に攻め込むのは、かなりの不利だな。
鎌倉時代の日本は恐らく海岸線まで多く森に覆われ、山や谷、湿地が沢山あった。モンゴルが得意とする騎馬戦には向かなかったし、そもそも馬を大量には運べず、大軍を上陸させる場所も無かったと思う。
コメントありがとうございます😊
そういう地形だからこそ苦戦させられたんですね😅教えてくださりありがとうございます😊
草原では強いかも知れませんが、海をを渡っての戦いですからね。それに誰も指摘しないようですが、日本にやって来た兵隊の主力はモンゴル兵の服を着た朝鮮人、中国人で指揮官以上がモンゴル人だったはず。しかも、モンゴル人は船酔いに弱かったと聞いています。
コメントありがとうございます😊
確かに、海を渡るだけで大変だし、船酔いに弱いとなると不利ですよね😅
世界史にもフビライ・ハンのエピソードで出て来たなモンゴルは陸を攻めるのが強くて海を攻めるのが弱い
大陸に海はないからねえ。海の戦いには慣れてないんでしょうね。
最初の手紙で北条がヘイコラしていたら、今の日本が無かったかも、ね。
ヘイコラして日本人は弱いってイメージを世界や国民に刷り込むのも政治家の仕事の1つ😂
ストレス半端ないだろうなー
ヘイコラしたら、南宋を攻めろと言われるだけだな。鎌倉武士的にはそっちの方が盛り上がりそうなのがなんともだが。
南宋や高麗がどうなったかという情報は持っていたはず
ヘイコラしてもいい結果にはならないと誰でも分かること
84歳の少弐氏が率いた日本軍の強さあっ晴れだなぁ!
まあ、ジジイは名前だけだがな。
どの時代でもご先祖は存在してたわけで。元寇の時にご先祖様は何処で何をしていたのか?
戦いに参加してたかも。
とにかくどんな状況でも生き抜いてくれたんで、各時代のご先祖様には感謝しかないです!
やっぱり海は天然の要塞なんだろう。兵器が進化した現代でも簡単ではないんじゃないかな。
コメントありがとうございます😊
昔のお城も堀で囲んでいたように、水の守りは堅固なものなんでしょうね😊
それが海のような大きな物だとしたら、より強固なものに違いないですよね👍
島国は、およそ100個師団以上の兵力で守られた大陸の国境線と同じといいます。
日本のみならず、第二次世界大戦中の英国や、国共内戦の台湾にも言えることですね。
中共が台湾を攻め落とせなかったのも兵站を維持できるだけの渡海能力が無かったから。
抗戦する意思を挫くため平和主義の仮面で骨抜きにしてから、工作員を送り込んで、選挙を通じて併合する戦略に移行したんですよね。最近、何をトチくるったか武力深奥を匂わせてますが上陸部隊が悲惨なことになるだけなんですけどね・・・。
日本列島を囲む海ではメタンハイドレートが機雷のように自然爆発なんかもあったかもしれない
@@yamashita45 様
じゃ、歴史的・地政学的観点から、この先将来的にも日本では、陸続きの国境は絶対タブーですね。それと、英米のアングロサクソン系諸国を絶対敵に回してもいけない。むしろ日英同盟復活させるくらいで。(笑)
鎌倉武士って言われてるけど主力は九州各地や中国地方から集められた武士や瀬戸内などの水軍が主力。こちら九州中部でも戦いに呼ばれてて、お寺で勝利を願って祈祷したとか、こちらから行った騎馬武士が活躍とか記録があるみたい。
結果勝って、祈祷の礼に朝廷の菊の御紋をつけることを許されてるお寺あるで。(幕府は戦いでお金なくて実のあるものはだせないから、お金のかからない名誉だけ与えたとの見解もある)
海岸上陸作戦で、元寇では、弓矢の補給が断絶的で日本の重装弓騎兵の
餌食になったようです。
第二次世界大戦ノルマンディー上陸・硫黄島でも初日の連合軍の犠牲の多くは、日本軍
ドイツの銃砲の十字砲火にやられた。科学の進んだ時代でも敵国の海からの侵略が
難しいか解りますね。
鎌倉時代前後の武士による「自分を誇示する行為」は、度が違い過ぎるので困る。
モンゴル「黄金の国ジパングという豊かな島を征服しよう」
そう考えたのがモンゴルにとっての地獄の一丁目だということを、この時はまだ誰も知る者はいなかった・・・
ワンチャンマルコポーロにジパングのこと聞いて攻めてきた可能性ある?
しかしながらモンゴル大帝国と言うまですごい広大な領地を得たと言う!
実は鎌倉時代の武士は普段から自分の領地を守る為に日夜戦時状態だったのです。
もう一度大河かとか特集ドラマでやってくれないかなあ・・・
結局「高麗&南宋が日本の民間人を襲撃して鎌倉武士に返り討ちにあった」ってだけなんだよね…
超昔から因縁あんだよな
高句麗→高麗と南宋とモンゴル帝国を混ぜ混ぜしたのが半島大陸のルーツ
あいつら兄弟やん😅
蒙古襲来(元寇)でターゲットとなった博多は小生の生まれ故郷で、今でも、街の至る所に当時の痕跡が残っています。防塁跡、祖原山(古戦場跡)、(敵兵を祀った)蒙古塚、また東公園には、元寇を予言した日蓮聖人の銅像や元寇資料館があり、筥崎宮には(後年)小早川隆景が奉納した大額があります。当時、鎌倉武士は、何しろ首カリ族の末裔でもあり、恩賞の証拠物である敵兵の「生首(首級)」を腰にぶら下げながら襲いかかってくる訳ですから、蒙古側は相当な恐怖だったでしょうネ。
コメントありがとうございます!
生まれ故郷だったんですね❣詳しく教えてくださりありがとうございます☺
今後の動画作りの参考にさせてください!
12:04 の蒔絵モンゴル軍の勇ましそうに見える3人は圧から書き足したものだそうです。
コメントありがとうございます^^
そうなんですね!教えてくださりありがとうございます!☺
参考にさせていただきます!
その話は私も聞きました。弱い敵に勝っても褒美が貰えないから、強い相手に苦労して戦ったんだと説明するためだとか。
最初は、左端に逃げていくモンゴル軍兵士を日本武者が馬で追う絵だったようです。そして、踏みとどまり弓で反撃するモンゴル兵士を追加したようです。激戦にして己の武勇を誇る絵にしませんとね。
だからその3人だけ不自然に濃く残ってるんだよねw 一目瞭然ww
陣を高台に構えたり、敵軍を谷間に巧妙に誘導したり、外から後ろ背部に回ったり。
内陸には内陸の戦い方があるように。海洋には海洋の戦い方がある。潮流海流を味方に付けるなど。
そういう意味ではモンゴル軍がいくら経験値が高かったとはいえそれは内陸での話。
海のことはモンゴル軍はあまり知らなかった、ということ。逆に日本軍は海のことを熟知していた。のちの「日本海海戦」も同じ。海洋民族海洋国家が海での戦いに強いのはあたりまえ。
歴史オタのスレではとにかく鎌倉武士がヤバすぎるという例が延々上げられてたなあ
ただ一言「なめられたら殺す」
狭い海域に何百隻も船がいたら、嵐でお互いにぶつかったり波を被って沈む。これは船が頑丈でも関係ない。
コメントありがとうございます^^
確かに狭い海域に何百隻も船がいたらそうなりますよね😓
船の頑丈さは関係なさそうですね!
やっぱ遊牧民族が海を渡って戦いに行くなんて正気の沙汰じゃなかったという事だな。三国志演義でも曹操は赤壁の戦いの際に自分達は船に慣れてないって事を分かっていたから色々画策してたのに。
台湾やジャワ島征服も後に失敗してますし、そもそも海に出るのが間違い。
コメントありがとうございます😊
確かにそうですよね😅やっぱり環境面ってかなり影響ありますよね💦
基本、遊牧民は泳げないから落ちたら終わり。
ナポレオンもヒトラーもドーバー海峡を渡れなかった。
@@Aki-cv2qz
そりゃ、イギリス海軍を押さえ込めるぐらいの海軍がないと単なる集団自殺だからな。第二次大戦までなら、無敵艦隊の頃のスペインぐらいしか可能性がある国はないだろう。
この戦の件で海外のアホ反応があるけど
海から来た不利さ そして神風吹いたから 鎌倉武士は何とか勝てたとか言ってる連中いますけど
なら そういう連中に聞きたいけど
イングランド 島国だけど海上から上陸征服 バイキングに殺られ 蹂躙され制服されてるし
これを この戦に当てはめたら 何と言えるか
真実として鎌倉武士が強過ぎたって事より他はない
列島だったから縄文人の子孫等が生き延び日本文化を育み育てることができた。ちょうど武士の世になって攻めてきて、我々の先祖は侵略侵攻を食い止めることができた。
コメントありがとうございます!
おっしゃる通り、日本が列島だったからこそ縄文時代から続く日本文化を育むことができましたね。
ご先祖様に感謝ですね☺
昔の偏向教科書だと、100%台風だけのおかげで元軍を引き揚げさせることができました、なんて書かれてあったっけか
結局、日本人は世界一なのですね!😊
総司令官の戦争に対する認識の違いが明暗を分けたのでしょう。モンゴルからすれば、東海の中にある島国、大した武力はおろか、文明さえも怪しそうな途上国と見て軽視したものと思われます。中国の軍勢の実数については資料が残っていて、歴史書でより物語を強調する習慣があり、「実際の兵士の1/5」と言われていることからも、5万は1万、10万は2万が良いところでしょう(長安の都の人口は平城京の1/10であったことが発掘調査による都市の大きさから推定されています)。それも実線を戦う将兵だけではなく、輜重隊(食事や医療の面倒を見たり、馬や武器の管理をする係)まで含めての数なので、弘安の役でさえ本当の襲来数は2万人程度だったと見るとそれほど歴史に違和感が無くなります。「何故勝てたのか?神風が助けたから」などという説明が不要になる。対する日本側は予め十分な対策を講じていて、戦をして名をあげることで褒賞を手にし、立身出世まで約束されるとあっては、士気も高かったでしょう。まず、この前提部分についてモンゴル側の歴史を重視しすぎな点に問題があるかと思います。そして、あの朝鮮半島の連中が、「1万隻の船」を作れと言われて、正直に1万隻を用意するとは全く考えられませんし、モンゴルの命令通りに行動したかも怪しいものです。半島人と拘わったことが致命的だったかも知れません。いよいよこうなってくると、正面切って戦ったモンゴル軍は本隊の1万人程度になってきます。
そうなると、夜は戦争をせず、休息するという大陸の戦争ルールに従って「余裕の戦」をしていたモンゴル軍は、今や遅しと待ち構えていた士気高い日本の軍勢からの昼夜を問わない24時間体制の攻撃に相当に悩まされたと思われます。それも寄せ集めの他民族軍、言葉も通じないとなってくれば、最初こそはともかく、時間と共に形勢の悪くなる戦いを見て、我先にと逃げ帰ったのでは無いでしょうか。これが恐らく最大の敗因だと思っています。
優れた騎馬隊を頼りとするモンゴル軍は、遙かに長い射程の和弓を馬上から放って狙撃してくる日本兵に近寄ることも叶わず、かといって足場の悪い上陸戦で戦う術も知らず、防塁に阻まれて上陸した兵士は各個撃破される事を繰り返し、夜は海賊(水軍)の火攻めに遭い、神経をすり減らしていったと考えられます。
3ヶ月近い戦闘の最後に、「退却しようか」という考えが支配的な時期、台風の直撃を受けて「帰ることも出来ないかも知れない」という恐怖、絶対に来ない援軍を思い、将校だけが逃げ帰ったということで、ほぼ全容が理解出来ます。勿論、最初の上陸戦で五分以上の戦いをした九州の御家人達は、壱岐、対馬の犠牲者への弔い合戦の意味合いもあり、勇敢であったことが引き金だったことも想像できそうです。 もう少し兵士達のその場における「心情」を想像しながら動画を作成していただけますと、共感、理解が深まったかと思います。難しい解説だと思いますが、特に戦争の歴史となるとその場の指揮官の判断根拠が後付けになりがちですので。 それでも良い動画だと思います。
たくさんコメントありがとうございます^^
色々詳しく解説ありがとうございます!参考にさせていただきます☺
結局、無事に日本海を渡った馬はせいぜい100頭くらいじゃないの?
九州の武士団は5万人の兵力、そのうち1割が騎馬兵として5000騎はいた。
鎌倉武士団は騎馬兵による機動打撃戦術を採用し、蒙古軍は機動力のない歩兵による集団戦術しか使えなかった。
つまり鎌倉武士団が本来の蒙古軍の戦い方を採用し、馬のほとんどいない蒙古軍はついていけなかったんだろうな。
騎馬戦を得意とする軍団に騎馬がほとんどいない時点で勝敗は明らかだった。
当時の日本の鎌倉武士は最強❗️敵にとっては最悪で凶悪な武力に見えてたと思います。
福岡のしかのしまですね
志賀島には「クビキレ窟」だったかな
なんかそのままな名前の場所がありますよ
コメントありがとうございます😊
そのままの名前の場所があるんですね❣️教えてくださりありがとうございます😊
騎士団の鉄鎧、盾、刀剣と武士の鎧、刀、とどっちが強いか議論があるが。鉄鎧(騎士団)
三谷幸喜…なるほど観たい。
食料がなくて高麗軍が予定よりも早く日本へ行っちゃったことや南宋軍の代表が病気だったりして統率が取れなかった、と言ったところでしょうか...海で手紙を送るの難しいなぁ
コメントありがとうございます😊
海で手紙を送るのは難しいですよね😅そう考えると今は便利になりましたよね🤔
実はモンゴル帝国もベトナムには勝てなかったんだよなぁー!!
ベトナムはWW2で世界の富のを持つと言われたら米国にも勝ったぞー!!米軍が匙を投げた!!
現代のウクライナとロシアの戦いも昔のモンゴル帝国が関係している。
平和的に交易ができるレベルでの外交が行われても、その後の元の疫病での衰退を考えると海の壁のおかげで守られたのかもしれない。
鎌倉武士最強!
そりゃ船はモンゴルは不得意だよな。
それだけの話。
個人的な意見ではあるけども、2回目も襲来していると言うことは、コストばかりではなく、
環境負荷がとんでもないものになったのではないかと推測します。
国土の犠牲の割には何の成果も得られなかったとするなら、元の力の限界がわかったのではないでしょうか?
3度めの元寇をやれる程の実力はなかったんでしょう。
海が最大の防御壁の役目を果たしたんだね。仮に中国が尖閣を占領したとしても防御するのは容易くなく奪還できると思う。ただ台湾が中国になって尖閣を取られたら取り戻すのは難儀。アメリカ頼みになる。
コメントありがとうございます😊
本当にその通りですね💦これから世界情勢、不安なこと多いですね😅
ちょうよしつの言う事が現実になった。
日本を攻めるて事は無駄である
島である、海流が荒い それが天然の
防御になってる
コメントありがとうございます😊
天然の防御が固いですよね💦海流やら色々条件が揃ってますよね😅
9:30
実際に東京サンシャインボーイズ復活公演で、三谷さんが『蒙古襲来』を手掛けるとは…
モンゴルはインドネシアやベトナムでも敗北、叩き出されているので、まともな騎馬戦が出来ない地域では勝てなかったんだろう。
コメントありがとうございます!!
モンゴルの人たちにとって騎馬戦がとても重要なポイントだったんでしょうね。
地域によって力が発揮できたりできなったりしたんでしょうね💦
そりゃそうですよね。
ジャングル・水田で、騎馬・戦車なんてものは、使い物になりませんからね。
jp相手でも、騎馬を持ち込もうとしていた様ですね。
でも上陸が困難だった、船の上では馬の餌が、確保しh織レナkt田というのは聞いたことがあります。
草原や丘状の高地でしか活動できないんですよ。兵站の設置と言う点からも地形が重要なんですね。東欧や欧州では彼らを恐れたあまり戦わずして講和を結んだ諸国が多かったため、調子に乗って日本にも仕掛けたんでしょう。思い上がりです。どこかの国と同じですね。
運動会は強そうだ
ベトナムでは泥沼のメコンデルタや山間部に誘い込まれ騎馬隊が右往左往してるとこをゲリラ部隊が襲いかかり、やられた。
数百年後に子孫がアメリカ相手に戦ったと同じ戦法。
海と云う壁と 日本戦国時代の初期には 武士は「一生懸命」の意味が理解が 浸透して 日本の男は 頑張っていた。と思うよ
ササモリ(防ぐ人)の歴史もあります
当時は一所懸命という説も有力ですよー
土地のために懸命に頑張るという意味で使われてました
コメントありがとうございます😊
日本の男性は、昔から頑張り屋さんだったんですね‼️ご先祖様に感謝ですね😊
九州地区は薩摩隼人といわれた勇ましい武人の地でもありますね。
南宋は海軍というか河軍が強くて金もモンゴルも苦戦してる。
それが相当数来てるから馬の代わりにアテにしてたんだろうね。ま、日本は陸海山すべてエキスパートだが
使節団を殺害するのもどうかと思ったが、残虐な限りを尽くしたうえに一度負けて撤退した国から、属国になれと使節が来たら突っ込みだけで死にたくなるレベルだと思う。
コメントありがとうございます😊
確かに使節団を殺害するのはどうかと思いますよね💦残酷な歴史も残されてますよね…
今の外交特権はウィーン条約で定められているけど、それ以前は明確で無く戦争を前提とした交渉で使者の首を切って相手に送り付けるなんて珍しくも無かった。敵の血祭りの生贄にされるのは覚悟しておくべきものだったのでは?
自国から敵への内通者を出させないためにも、使者を斬って断交というのは、それなりに有効。
脅しに屈しない手段として当然です。首級を獲り下は火あぶりで良い。
対馬壱岐で時間を掛けすぎたのは、日本には動員の猶予にしかなってないな。
元軍とは言っても、主力は高麗軍と南宋軍の将兵で、歴史的にも弱兵なのは明らか。馬の輸送も難しいし、精鋭モンゴル騎兵なんて連れて行けない。
反乱が起きれば鎮圧する為にももったいなくて日本遠征には使えない。
むしろ南宋兵、高麗兵は弱体化させれば反乱の芽を詰めるので、負けても痛くも痒くもないのが、フビライの本音。
モンゴル兵「こいつら、狂ってる!!」
日本人「こいつら、狂ってる!!」
遣唐使船の話は大正か昭和の初め頃の学者さんが意図してかどうか数を間違えていてそれがそのまま継承されてるだけなんだよ。戦後だったかに疑問を感じた人が出来得る限りの古文書をしらみつぶしに精査したら難破したとされていた数の半分も無かったと公表してたとか。
なぜ疑問に思ったのかと言うと元々、海洋民だった日本人がそんなに失敗を繰り返してたとは思えなかったらしい、考察すると弘法大師空海が乗った遣唐使船が難破したから他の船も…となったのかもと言うことだった、
モンゴル帝国以降彼らが表舞台に立ったのは相撲だけだった。
蒙古襲来絵巻が、元寇の状況を映像的に確認出来て良い資料になっている。それにしても、御家人(武士団)は、強かった。
当時は、功績はどう扱われていたでしようか。
神社仏閣の祈祷のほうが功績があるとされたのか、気になってました。文永の役のあと、また、弘安の役のあと、鎌倉武士へ対し、朝廷から官位は出ていたのでしょうか。鎌倉幕府御家人の場合、幕府が申請しないと、そもそも官位は貰えない仕切だと思いますが。
幕府上層である鎌倉将軍(鎌倉殿)や、執権や連署や探題には、官位が前例にとらわれず上がったりしたのでしようか。
神社仏閣のほうが、位階が上がったり、荘園が寄進されたり、かもしれないと思っております。
コメントありがとうございます😊
当時の功績はどう扱われてたんでしょうね、きちんと功績に対して評価されていて欲しいものですね😊
@@にっぽん歴史探検ゆっくり解説 様
返信恐縮です。幕末の攘夷の際も、大掛かりな祈祷(将軍家茂公も、参加させられてしまう)があったわけですから、祈祷の効果は大きいと思われていたのではないかと想像します。武士たちも、守り本尊に祈ったり、戦後に所領にある神社に御礼したり、したのではと思ったりします。
幕府からは、恩賞と言っても新たな土地はあるわけでもなく、やはり朝廷からの官位くらいしか思いつかないところです。
得られた報酬が渋くて幕府への思い入れが減った(無くなった)のも鎌倉幕府滅亡の一因って言われてますね
なので報酬が満足に出せなかったと思われます
@@yhy1822 さま
そうですね。恩賞としての土地が手に入った訳ではないですから。朝廷に要求して、官位を振る舞って貰えばよかったと思いました。家門の名誉になると思います。
@@Bluegreenred3975 当時の環境上、官位を一定層以上与えるのは貴族の血統が無いといけないと言う認識や、官位を頂いたところで飯など(今で言う給料)が増えるわけではないのでそれでは満足しなかったとうかがいます
そして当時のバーサーカー武士達は海外に攻めに行くつもりで居たそうです、なので撃退後行くつもりがもう用済みと言われ不満が溜まったとも聞きました
大体、モンゴルの馬は虚勢馬を使い接近戦用の弓矢短刀が主力で鎧は革製品に主要部に少し鉄製品を使った甲冑だった。
日本側大鎧で25~40キロもする頑丈な甲冑に下着の上に鎖帷子来て馬は荒馬程名馬とされ力で捩じ伏せて使いこなしたし、既に刀事態世界最強の強度切れ味最高で武士事態、人を試し切りが趣味観たいな鎌倉武士団で弓事態、長弓を好み、世界で物凄くレアな長弓重騎兵で有った訳です。モンゴル兵寄り日本兵の方が馬の扱いが上手く兵士も強かったと見られてます。
モンゴル兵は平野で強いだけで日本は山岳戦と海洋国家だけ有る事で海戦も強かった結局足元にも及ばなかった訳ですね。
島国では無いですが地形が似たベトナムも3回モンゴルを退けてますからね。又海洋国家のジャワにも負けてますからね。古来寄り日本は戦闘民族何ですよ。
インパ―ル作戦時、世界最強のグルカ兵の師団が徴兵で集められた日本の一般兵の大隊と戦い日本は食料弾薬無しにも関わらず夜戦の切り込み白兵戦に持ち込まれ日本側は玉砕しましたがグルカ1個師団は1/3迄減らされた話しは有名ですよね。其れ丈日本人は強いですよね。大和魂があるからね。
泳げないので、海や川が怖いんですね
河野通有、こうのみちありと読むよ。
マルコ・ポール は 元(中国) に いかなかった説 があったはずです。
その説では、フビライに会ってないどころか、中東までしか移動してないそうです。
高麗の諫言によって、日本侵略を考えたとも言われている。それに、船に馬を乗せていたとも言われている。そうであれば、馬が暴れたり船上で死んでいたようです。日本に侵攻した時点で既に戦力は、半分になっていたとも言われている。
その捕虜のモンゴル兵の子孫は今いるのか❔日本に❔それとも全員抹殺したからいないのかなあ❔
鷹島の掃討戦は相当に凄惨だったようです。逃げられない10万余の残兵は鷹島で塁を築いて防戦したものの追い詰められ多くが死に、生き残りの2万~3万の兵は降伏したそうですが、日本側は、捕虜を蒙古・高麗・漢(蒙古統治下の華北)の兵と、南宋の兵をはっきり区別し、前者は一人残らず全員御家人に命じて斬殺、後者は御家人に奴隷として与えたという話を聞きました。鷹島には、鷹島には、首除(くびのき)・首崎・血崎・血浦・刀の元・胴代・死浦・地獄谷・遠矢の原・前生死岩・後生死岩・供養の元・伊野利(祈り)の浜などの地名が残り、元軍10万人殲滅時の惨状を今に伝えているそうです。
二度目も‥ 同じ所に攻めて来ると‥ よく予測したもんだね‥
たくさんコメントありがとうございます😊
確かに生き残ったのはラッキーホースですよね😊
当時の航海技術、渡航距離、上陸後の策源地としての適性
など、上陸点は北部九州、
しかも既に港湾として整備済
みの博多の一択ではないかと。
攻撃点が予測可能なら、防御
側もかなり助かりますね。
大軍には場所を選ぶ自由なぞない。100人やそこらの海賊とは違う。
馬を何日も繋いだままだと‥ 腸閉塞を起こす確率も高いからね‥それで生き残ったのがラッキーホースですよ‥
高麗を服属させた後はモンゴル勢力は世界各地で負け続けてる
ベトナムで負け、インドネシアで負け、ミャンマーでは反乱軍に負け
インドでも負け、マムルークにも負け、一度は勝ったポーランドやハンガリーにも負けてる
あの頃のモンゴルは別に無敵じゃないし
日本が退けたのなんてあの時代では特別すごいことじゃない
コメントありがとうございます😊
そうなんですね❣️教えてくださりありがとうございます😊
Kの法則発動ですかね。
弘安の役のモンゴル帝国の総数
140,000〜156,989人および江南軍水夫
『元史』阿剌罕伝では蒙古軍 400,000人
東路軍 40,000〜56,989人
蒙古・漢軍 30,000
高麗軍 9,960
水夫 17,029
江南軍 100,000人
水夫 人数不詳
軍船 4,400艘
東路軍軍船 900艘
江南軍軍船 3,500艘
結果、日本を征服する事かなわず
@@azumam2427 さん
本当に恐ろしい法則です。
やっちまったな〜今の韓国を味方につけると どこの国も 碌な事はないのかね?
まず、やっぱり大陸国は島国に弱いですよね。上陸作戦が下手ですから。
それから、以前、イギリスの歴史ドキュメンタリーで、
「当時最強だったイギリス騎士団と鎌倉武士団はどちらが強いか」をやってて、
つまり、島国同士の最強決定戦なわけですが、真面目に考察していて、
結果は、「鎌倉武士団、世界最強」となってました。
「あの時代に、あれほど精強な武装集団が大量に居たのは世界で日本だけ」
「騎馬隊に弓で攻撃されたらどうしようもない」などなど。
モンゴルの軍隊や政治は確かに優れていましたが、日本には無理だった。
ソ連もまともに上陸出来なかった。
アメリカでさえ、沖縄で苦戦して、本土上陸を諦めた。
コメントありがとうございます^^
イギリスの歴史ドキュメンタリーでやってたんですね☺
教えてくださりありがとうございました!
@@にっぽん歴史探検ゆっくり解説 ユーチューブで細かくググれば、英語ですが、その番組を見ることが出来たと思います!
そのとおりだと思います。
ソ連は、昭和20年8月15日、日本が連合国との戦争を終わらせたにも関わらず、千島列島全島の占領を試みて、占守島に上陸しました。
しかしながら、占守島の日本軍守備隊の、猛烈な反撃を受けて、甚大な被害を出して、カムチャッカ半島まで逃げ去りました。
ソ連は、千島列島のみならず、北海道占領も視野に入れていたのですが、士気も練度も高かった、占守島の日本軍の「自衛戦争」に、海岸線はソ連兵の屍で埋まったそうです。
結局、北海道占領という、ソ連の野望は頓挫しました。
ソ連は、海を渡っての上陸作戦などやった事も無いのに、その分野では経験もノウハウも豊富な、日本軍を甘くみたのが、敗因だと思います。
まあ逆も恐かったと思うよ、
壱岐や対馬とかさ、今でも
コクリムクリて言われてたり
するんじゃないのか??
今でも逸話として残ってるのかな。言うことを聞かないとモウコ来て連れて行かれるぞなんていわれたもんだよ。
いやフビライ・ハン
もう1つの蒙古襲来(北海道・樺太)もオナシャスw
騎馬民族は当時最強で、本隊が日本を恐れたということはないと思うし、同じ大陸内なら余裕で負けたと思う。
コメントありがとうございます!!
確かに、当時の騎馬民族は強かったと言われていますね。
同じ大陸内であれば結果が変わっていたでしょうね☺
日清と日中
日中なんて中国人が弱いからブリカス帝国が人員と武器と弾薬を支援してたから陸でも勝てないと思うよ😂
フライングタイガース😂
騎馬民族だから。
上陸作戦で40万人居ようが的が4400隻まで経るなら上陸させず橋頭堡維持させず 狼煙も上げれない海の上で速やかな連携が必要な事を寄せ集めで出来る訳ないわな ましてや全員薩摩みたいなバーサーカーだろ そしてこの時代にすでに日本刀が完成してるのが何でこの時代に鋼鉄の刀があるんだよw西洋じゃエクスカリバーくらすの宝剣がそこいら中にあるようなもんだ
コメントありがとうございます😊
考えれば考えるほど色んな条件が揃ってますよね😳驚かされます‼️
やっぱり武士の鎧兜の優秀さでしょう。なんたってあんた弓矢どころか槍さえも貫通しないんだから。早い話が日本の武士はターミネイターだったのですよ。🎉
蒙古軍はもうこの馬がなければ波の軍隊だったと聞いていますよ。 蒙古馬はゆれが少なく気丈だ弓を射ることが出来たため、弓を武器とした戦いで勝っていたようですね。 言ってみればクッションアブぞーバーを津行けて水平に保つことが出来る車に乗って弓を射る感じですかね。 それが何千も攻めてくれた、逃げ出すしかないでしょうね。 戦い慣れた戦国の武将達奈良が策を講じて馬を止めてしまう戦法で、闘ったかも知れませんね。 馬さえなくなれば蒙古軍はたいしたことが無いと考えられるからです。 ヨーロッパに軍隊は余りいくさ慣れしていなかったのでしょう。 実際原稿の役では日本の武将達が初回は名を名乗って弓で射られて次々鬼やられたみたいだが、2回目からは敵の0戦法を理解して、うまく立ち回ったようです。 一対一では負けなかったので、基礎体力は日本の方が上だったのでしょうね。 中国軍を追いかけ回していたようです。 とくに船への野州は敵もびっくりだったようです。 比弓での攻撃ではなすすべも無く馬ならぬ船がなくなった蒙古軍は闘わず為て逃げるほか無かったようです。 体力区も、頭脳も日本の方が上だったようですね。
蒙古軍と日本軍の本体同士が戦ったら、日本軍が勝っていたのではと思います。 彼等はわんぱたーんの騎馬戦しか出来なかったと思われますので、色んな戦法を駆使する日本軍医は揚げ足を取られて無力化される可能性が強いのです。
日本が陸続きだったら、あっという間に滅ぼされてたと思う
日本の弓は長弓で貫通力が半端ありませんし、直射力も正確で強力です。
朝鮮だけでなく日本も歴史ファンタジーを。
A型の比較的多い日本と、B型が比較的多いモンゴル 高麗では、敵わないというのも理由の一つ
鎌倉武士(イースタン・バーサーカー)
ちなみに「たけさき」が正式です
チンギスハンは、義経だったからね!
原史奈
ベトナムに救われた鎌倉幕府
二階、茂木、福田の手先は最低
モンゴルは羊や山羊に草を食わすために侵略したの?
こうしたらああしたらのタラレバなどいらない。
最強のモンゴルでも関東武士の野蛮さにはビビるんだよ
九州にいた関東武士の多くは、清盛平氏以外の平家勢と源氏の武士連合、その御家人達でかつて頼朝を支持しと言うより、清盛討伐のために同盟を結んだ旧軍団組織と言うのが正しいでしょうね。彼らを祖とする元々は貴族の出自ですから、野蛮とは違うと思いますよ。源平の戦いで鍛えた力と技が受け継がれ溢れ出ていたとともに、恩賞を期待しての活躍の場という意味も無くはないと思いますが、現にモンゴル勢が眼前に現れたことで血が沸き立ったんでしょうね。
土俵に蒙古襲来。
地球皇帝(中華)子孫本家がモンゴルを打ち破った。
ーコメです
一コメに何の意味があるのでしょうか。
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やはり神が宿る國なんだな
騎馬民族だからだろ?( ̄▽ ̄)
船上では騎馬は使えない( ̄▽ ̄)
上陸時もすぐに使えない( ̄▽ ̄)
モンゴル、討つべし!!
武士!
高麗の諫言によって、日本侵略を考えたとも言われている。それに、船に馬を乗せていたとも言われている。そうであれば、馬が暴れたり船上で死んでいたようです。日本に侵攻した時点で既に戦力は、半分になっていたとも言われている。