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関西出身ですが50年ほど前、入社した会社で福岡の人が親父の還暦の写真を見せてくれましたが、顔に黒い斑点があり、これは炭鉱爆発でこうなったと言ってたのを思い出しました。石炭の細かい粒が顔にめり込み取れなかったそうです。貴重な歴史をありがとうございました。
娘が、福岡県立大学に進学し、田川市に御縁が出来ました。色々と歴史を知る事が出来て、とても感動しました。私は、主に山口県宇部市で育ちましたので、同じ炭鉱の町という雰囲気は懐かしかったのですが、やはり筑豊は凄い。こちらの動画で、納屋制度や中国、朝鮮の方達の事を詳しく知れて良かったです。労働者から搾取して成り上がった炭鉱王達に激しい怒りが湧いてきました!!旧伊藤伝右衛門邸、麻生太吉〜太郎の実家(2万坪!!)、等など。本当に腹が立つ!!日本の経済の礎となった炭鉱夫、炭鉱婦の皆様へ感謝申し上げます。亡くなられた方々、どうか安らかにお眠り下さい。
結果的に、汗と涙と血を流しながら、日本の発展を支えて下さった、日本や大陸出身の労働者の方々に心から感謝申し上げます。
出稼ぎ。日本の発展に寄与できたことは嬉しかったことでしょう。日本人も海外で活躍している人がいます。😊
父の話に依ると祖父は粉塵爆発に依り大正6年12月21日現宮若市貝島炭鉱大之浦坑にて亡くなったとの事。粉塵爆発後、地下水が坑内に流れ込み369名の犠牲者がでましたが、地下300m程から遺体を揚げるには水抜きから始め約3年掛かったそうです。幸いにして祖父は絹の首巻きをしていたので特定出来たと云ってました。その後、田川中学?を卒業した父はオヤジの仇とばかり通気学・地質学・測量を勉強し、添田や川崎に住み筑豊の古河鉱業系の炭坑を測量士兼保安員として長く務めました。尚 戦争ではシンガポールで捕虜になりジャングルで油田採掘の測量させられたと云ってました。私は添田で生まれました…懐かしくてたまに行き、英彦山や香春岳を眺めると泣きそうになります。炭坑で亡くなられた全ての方々へ合掌。
貴重なお話ありがとうございます。炭坑に従事され亡くなられたすべての方に合掌です。
エネルギ産業は人類の文明の基ですAIも食物もエネルギーが無いと成立しません
福岡県直方市に昔、筑豊鉱山学校がありました!炭鉱での技術者を育成する専門学校です、採鉱科機械科、電気科があったはずですが!。
私は、筑豊の小竹町で12歳まで生活していました、炭鉱節が毎朝スピーカーから流れていました、とにかく懐かしいです。
祖父母が筑豊の炭鉱で働いていました。私が聞いたそこでの暮らしは、この動画の解説とほぼ同じです。①天引きがひどい。②工具等の貸し賃をとる。③賃金は出来高で、会社の購買部専用金券で払う。④一度借金すると、膨らんで返せない。⑤逃げるとつかまって、仕置きがひどい。逃げることを決心した祖父と祖母は、ある朝いつもの出勤時間にヤマに行くふりをして家を出て、道の途中で脇にそれて必死で逃げたのだとか。家具とか残して着の身着のままで。その後、糟屋郡の志免海軍炭鉱の前身である新原炭鉱で雇ってもらい、子を9人設けました(内、長男は戦死、3人は戦中戦後に病死)。母は志免炭鉱内の海軍病院の看護婦になりました。祖父は石炭掘り、祖母は石炭とボタの選別でしたが、筑豊炭坑のタコ部屋(納屋)と志免海軍炭鉱とでは、待遇が雲泥の差だったそうです。定年時には海軍炭鉱が国鉄炭坑となっていたので「国鉄パス」をもらってました。「徴用工問題」とかを見ると、「人買いレベルの悪質な口利屋」と「あくどい納屋頭」と「あくどい経営者」と「腐敗した役人」がやらかしたんだろうな、と感じます。
ご家族のご苦労が伝わります。情報ありがとうございます。
同じ朝鮮人が騙した話なら、聞いた事あります。慰安婦もね。笑
私も、筑豊田川船尾で産まれ幼少時まで、生活していました。叔父は炭鉱、セメント工場、父親は北九州の鮮魚店に単身、母親は製麺会社、私は祖父母に預けられていました。私が筑豊田川で育ていて、祖父母の言葉で今も覚えている言葉【北の人、南の人貧しい人も、同じ人仲良く貧しくても同じ人達】この言葉を思い出しました。筑豊の人は、ハーモニカ長屋に生活し助けあい生活していました。
北の人が統一しそうですね。南の国会議員は北に押さえられているそう。😂
現代の原発労働者と同じシステムですね。ここまで酷かったとは思いもしなかったです。ありがとうございます。
昭和26年田川市夏吉糸飛ー三井の豊産の炭住で生まれ、伊田小学校通ってました。小学6年の時、三井筑豊が閉山になるので、三井三池鉱へ転勤転居しました。集団でバスに乗って、犬鳴峠の狭い道を通って荒尾の四つ山の炭住へ引っ越したのを今でも鮮明に覚えています。強く心に焼き付いているのは、糸飛の炭住から望む香春岳でした。まだ頂上が少しだけ削れた山でした。父と姉と私と3人で登って、山頂から炭住の自宅が見えて、家事をする母を見て手を振った事を覚えています。声を出しても手を振っても聞こえる訳でも無く、懐かしさがこみ上げてきます。香春岳の今は、60~70%が消えたようで、当時はまだ殆ど原型を留めてました。人生の終盤になって、もう一度、幼い頃の風景や春の風を感じてみたいと思っています。二の岳に在った、梅の花のお寺、神宮院はまだ有るのでしょうか?この時代の戦後生まれは、全員ジジババになってしまいました。でも思い出は田川の事がいつまでも、いっぱい詰まっています。
老齢期となり、貴兄の文章を我が事のように、懐かしく思い、涙が出るほどです。筑豊は心の故郷です。
懐かしい、伊田小だって、S28年高卒後、その伊田小に隣接する所に就職でした、講堂兼体育館は共同使用で、事務室の廊下を児童は通っていましたね。
やはりこの地を本当の故郷と感じてる人が居るのですね。やはり生涯の我が土地、鮭が生まれた源流の地に戻るがごとく。私も生かされて来て人生の終盤を迎える時期に思う地はかって父母が大切な人生を過ごし子供を守った場所、生活苦の中、充実した家族との幸福らしき生活を過ごした明るい光が見えます。過去の思い出、集約すると明るい光だった。過去の輝く光はまだそこに有るのか見てみたいように思います。嬉しいコメントありがとうございます。
嬉しいコメントありがとうございます。伊田小は3年生までいました。それから金川小学校へ転校し、6年生の時、三井三池の荒尾へ引っ越ししました。伊田小の隣はたしか、九大の教育学部だったと記憶してますが、違ったらすみません。伊田小は確か、教育学部の教育実習先として伊田小が指定されていたと記憶しています。正しいかどうかは分かりません。たしか講堂は共同使用だったように思います。記憶が確かではありませんが、教育大の廊下を何度も通った記憶が残っています。教育大の運動場は広く野球部(軟球)を拾って投げ返した記憶もあります。運動会の時、教育大の体操部員が小学校の運動会で演技を見せてくれた事も覚えており、運動場に相撲場を作って、力士の地方巡業が行われた事も覚えています。たしか栃若の時代だったかな?
嬉しいコメントですね。ありがとう。毎日の生活に苦しそうだった父母も今思えば、まだ若く、子供も3人居て、本当は充実した幸福感もあったように思います。子供にとって涙があふれそうな思い出ばかりです。
この動画こそ後生に残したい。素晴らしい内容です。隠しきれない「シェ」の発音がまた良し。
私はS33年頃田川から福岡に転勤しました。その頃「オゥ」「カネダ」「ヒロオカ」の言葉をまた、神様、仏様、稲尾様の言葉が聞こえました。平和台球場の内野席は板木材が二本並べられた素朴なものでした。一時、鳥飼住宅に、ナイターの照明が遠くから見えましたよ、鳥飼の一つ先の城西橋には中西監督が住んでおられた様でした。
ありがとうございます。三度の海峡、人間の條件、氷点などの物語の理解が深まりました。祖父が鐘紡女工の全部屋に畳が敷かれた事を嬉しそうに話していた事も思い出しました。現在マンション群が建ち、見る影は無くなりましたが、逃亡防止の為の一本道が大阪拘置所の南側に有った事も、重ねて思い出しました。扇情的で無く、淡々とも取れる詩情溢れる語りが、冒頭の歌の巧さと共立しているのですね。
懐かしい思い出ありがとうございます。
長文失礼いたします祖母の家に帰省した際、田川の石炭記念館に行った話をすると、祖母が当時の思い出話をして下さいました(私は知らなかったのですが、祖母は田川の地主の家系だったようです)両親から、炭鉱の人とは仲良くするなと強く厳命されていたようです祖母は半分嫉妬のようなものだと笑っていましたが、納屋制度を知ると、そう言い渡した両親の気持ちも良くわかりますいずれにせよ、炭鉱という一大産業が出来ても、皆喜んでいるわけでは無かったと知れたのは大変大きな学びになりました
コメントありがとうございます。当時の労働事情はすべて力関係だったので弱者には過酷でもそれが当たり前だったのでしょうね。
あなたの祖母の親は、酷い人間ですね。身分差別をする浅はかな人間なんですね。人を職業や、立場で差別するなんて…なんて薄っぺらい思考なんでしょう😩
山を越えた隣町に住んでいます。たまにドライブしますが深く考えず通っていた町の歴史がとても勉強になりました。
親父が貝島炭鉱で働いてました。新竪坑が昭和48年採掘不能で閉山となり、北九州に移住しました。まだ一歳でしたが。
思い出ありがとうございます。
懐かしいのと悲しい気持ちです。5歳まで筑穂町大分炭鉱炭住に住んでました。父が元鉱夫で我が家の倉庫にはダイナマイトの箱とか線路をカットしたのがありました。閉山とともに福岡市に引っ越してきましたが、たまに筑豊地区に行くと青春の門の映画がよみがえってきます。
新ちゃんの唄もよかったですね😊
当時の人々を想うと、さぞ苦しかっただろうと涙が出てきます…。一所懸命頑張ってきて下さった先人のお陰で、今の生活があるのだと本当に感謝でいっぱいです。当時の生活がよく解る詳しい解説をどうもありがとうございました🙇♀️🙏
父方、秦氏のルーツ田川‼️こんな過酷な労働で命を繋いでくれて感謝しかない。ありがとうございます♪涙が出ます😭。父が何故?持ち家にこだわり家🏠を自分の命に替えても守ってくれたか意味が深く理解できる動画🎥でした。何故?北九州は荒くれ者がたくさんいるのか理解しました。本当に父が自ら語れない歴史を教えてくださりありがとうございました。
ありがとうございました。田川郡添田町に18歳までいました。全ての画像に涙が出るほどでした。
西添田駅から少し添田方向に戻った所に踏切、その側に種物屋がありました。S18年(当時9歳)の暮れに佐世保から「藤江氏の魚楽園」下の荒平村に疎開、S19年?に村の青年団に連れられて英彦山に、早朝に出かけ丘を二つほど超え下った先に種物屋がありお茶の接待を受け暖をとって西添田駅から汽車に乗りました。種物屋は更地になっており一抹の寂しさを感じました。S51年の或日農学部の先生と話した折、その種物屋さんが話題になりました。
その踏切は豆塚の踏切と言います。昔は遮断機を上げ下げする係の方も居て、往来の盛んな踏切でした。確か原田種苗店と言ったかと思います。子供の頃毎日そこを通って学校に通った懐かしい場所です。記憶がだんだん鮮明になってきました。投稿ありがとうございます。
筑豊で、田川と飯塚に面する市に住んでいます。炭坑節は盆踊りの定番でしたが、発症が三池炭鉱ではないというのはかなりの驚きでした。自分の住んでいるところも、飯塚や田川には及ばないでしょうが、かつては炭坑で賑わった市でボタ山もあります。。炭坑で働く事は危険と隣り合わせだ、というくらいは分かっているつもりでしたが、そこまでの過酷な労働状況だったとは。。色々と考えさせれる、とても為になる動画でした。
田川と飯塚に接しているというと嘉麻市ですか?
やはり出てきた麻生さん••••
先祖は搾取して、財を築いた。
飯塚在住です。恥ずかしいながら納屋制度については初めて知りました。大変勉強になりました。
お役に立てて良かったです😊
大変為に成りました、ありがうございます。日本遺産炭鉄港ガイド登録者で、自ら北炭夕張炭鉱鉱業所管轄の坑内で働きました。
こちらこそありがとうございます。お仕事されたことに感謝申し上げます。
きつくなると田川炭鉱博物館に行っています、労働環境は少しずつ良い方向に変わっていってますがシステム自体は昔といっちょんかわりませんね。貴重なお話有難うございました。
貴重な証言に感謝です。
母方の実家が後藤寺で、小学生の頃、毎年夏休みになると1ヶ月間預けられてたので田川には凄く思い入れがあります。うちの祖父も炭鉱会社の社長だったみたいです。かなり金回りが良かったとか。志免もそうですが、その頃はボタ山がチラホラあり、その景色を見ながらゲーラを飛ばしてましたが、気付いたら1つも残ってませんね。後藤寺商店街も西友が建つまではまだ賑わってました。その西友も今はローソンになってますが。何も無くて寂しい町ですが、自分にとってはいつまでも暖かい町です。ってか歌素晴らしい!
当時の社長さんの懐は半端なかったようで、羨ましいです😊ボタ山で焼き芋したことが懐かしいです💦ありがとうございます😊
麻生太郎氏のようなセレブもこうして財を築いた家の出ですね。
先祖は搾取をして、財を築いた。
因みに母方祖父は卵酒ぐらいしか飲めない下戸なので借金と無縁の人生でした。
同じように炭鉱で働きながら、帰ればノンビリ出来る男性と違い、座る間もなく家事に追われる女性の大変さは、農家の嫁達と同じですね。子供も、安産ならまだしも、何日も苦しみ抜く難産もあったろうし、生理の処理はどうしたのか?女性側から見た炭鉱の生活は、もっと過酷だったんだろうな。
北九州の近世歴史、興味深く視聴させていただきました、ありがとうございます。
タコ部屋は北海道だけではないのを改めて知りました。ありがとうございます。道産子で日鉄系の会社に勤めていたので興味があります。
筑豊の炭坑節の一つは「香春岳から見下ろせば...」というくだりから始まると記憶してます。おっしゃるとおり炭坑節もかなりたくさんのバージョンがあるらしいので、これが赤坂小梅のバージョンなのかどうかわかりませんが。実を言うと私の祖父の兄、つまり私の大叔父にあたる人 (私が生まれたころはすでに亡くなっていたので会ったことはない) は麻生に出入りする納屋頭 (私の記憶では私の母が「労務長」とも言っていたような) で飯塚の街では知らない人はいないくらいの人物だったそうです。労務制度がなくなってからは飯塚の繁華街にある大きな旅館の経営者になったようで、この旅館もつい最近までビジネスホテルとして経営されて、そのあとは介護施設になり、最近やっと廃業になり建物ともになくなりました。私の祖父なんて一応麻生に勤めていることになってはいたのですが「遊び人」つまり定職に就かずぶらぶらしている不届きものだったらしく、お兄ちゃんの威を借りて街で肩で風をきって歩いていたとかなんとか。(小心者で喧嘩なんかはできないダメ男だったそうですが) 正直言って自分の親族親戚にこういう人がいると思うとあまりいい気分にはなりませんね。それから私が子供のころに私の友達が住んでいる飯塚病院のすぐ南側にあるすすけたハーモニカ長屋がならぶもともと炭住だった集落には、その地区の人が利用できる銭湯 (たぶん入浴料無料) があって、そこはまだ男女混浴だったですね。その時私が小学校低学年だったので、すでに昭和50年すぎていたはずなんですが。だから麻生太郎が総理大臣になったときは正直「なんでこんなクソ家族の息子が...」って思ってましたね。そのころは納屋頭というのは麻生会社の直属の従業員だと思ってましたから。(しかし納屋制度だけでなく、麻生の職員が直接朝鮮人労働者をリンチしたとかいうスキャンダルもあったようですが)これは炭鉱とは直接関係ない話ですが、私が中学生のころ (同じクラスではなかったですが) 同学年の生徒の二人はヤクザの息子で、その一人のお父さんは服役中だったんだとか。私はもう30年以上飯塚に住んでなく、たまに実家に顔をみせに帰って来るくらいですが、どんなに街がクリーンになったとしても飯塚に戻りたいとは全然思わないですね。
漆生炭鉱が懐かしい❗因みに 福知山は小4年で遠足で登りました。
なんなんですかねぇ、このクオリティ。NHKなんでしょうか?いつもありがとうございます。楽しませてもらっています。
励みになるコメントありがとうございます😃
数ヶ月前、田川、川崎を訪れましたが、軽自動車はヤンママか老人、セダンはガラの悪い男性、という風に乗る人間がキレイに別れていたのは驚きでした。
私も 川崎町に住んでいました‼️ 田川工業出身で 仕事は 放射線技師をしています 懐かしいです ありがとうございます
五木寛之の「青春の門」の舞台ですね。その象徴の香春岳には懐かしさと哀愁があります。
福岡の叔父が田川と福岡市で医師をしております。ですが、私は田川を全く知りませんので、動画を拝見しました。ありがとう御座います。
この歌を聞くとよいとまけの歌を思い出します!家族のため真っ黒になりながら石炭を掘り出していた。つい最近まで地元の方は洗濯物が洗っても白くならなかった。それだけ空気が汚かった。大牟田にいた甥っ子は喘息で幼くしてなくなりました
感慨に耽る動画でした。ありがとうございます。
お役に立ててよかったです😀
「地底で血と汗を……」の文字に、中元寺川の底が抜け未だ上がらぬ労働者をフト思い出し生きていればこその幸せを痛感しますね。S26年頃?、当時高校生だった頃の在りし日を思い出しています。
大変勉強になりました。福岡生まれ、四十代です。
ごんちゃん、ありがとうございます。私は北九州市八幡枝光の出身の1951年生まれのものです。私のところは製鉄の町でした。筑豊とは違う世界でしたが、隣接するということで何時も筑豊の空気は感じていました。物心ついてから製鉄の歴史、筑豊の歴史に興味を持ちましたが本格的に調べる機会はありませんでした。これを機会に少し勉強してみたいと思っています。中学の体育の先生は筑豊出身の男性で何かの機会に炭坑節を歌ってくれました。私が知っている歌詞と違い興味を覚えました。また叔母さんが飯塚に一時住んだことがあり、遊びに行った時、炭住の風呂に行きました。只でした。私の直接的な筑豊との接点はこんなものですが、今は筑豊の歴史、製鉄の歴史について知りたいです。ありがとうございました。
とても見ごたえがあり、わかりやすかったです。搾取する側に怒りを感じます。家事もせずDVなんて一部だけだったと信じたいです。冒頭の歌お上手でした
お役に立ててよかったです、ありがとうございます😀
知らないことたくさんでした、ゴンちゃん、いつもありがとうー!
お役に立ててよかったです😊
伊田駅って今こんなのなの?上弓削田生まれ川崎町育ちの今茨城県民です。子供の頃、神幸祭では伊田駅川向うで謎の化け物屋敷(ロクロッ首とか)などの怪しい出し物を見て育っています。想い出も今は昔。たまに帰ると昔を探しています。日の出町にあった東洋劇場とかターミナル会館(映画館)とか。後藤寺の町も変わり、池尻の長屋もボタ山も無くなり「昔」はこうやってなくなるのだろうかと思ったりします。
わあ、懐かしいです。見世物小屋。橋を背にして右側にあった光景まで覚えています。小学校低学年でしたが笑。神幸、花火大会、、ふる里は懐かしい限りです。
懐かしい時代、美味しい御菓子屋さんがありました。青春の門の舞台。
田川饅頭か、黒ダイヤでは無いですか?伊田の駅前に今でもお店がありますよ。
素晴らしい動画をありがとうございました。納屋制度について全くしりませんでした。かの炭鉱王も納屋頭の出とは。
借金(奨学金)を背負わせて働かせる構図は今でも続いてますね
母方祖父は湾岸労働者から炭鉱夫に転職した理由がまさにそれだったそうです。腰を傷めて10年で炭鉱夫を辞めたからか納屋制度のことを知りませんでした。松原の盆踊りは三井炭鉱と歌ってたのが懐かしいです。
昔は産業が無かったからこういう所に次男三男達が・・・又満州や朝鮮にも田畑求めて行ったんですよね~戦後になって変わって来たね~ほんとに今を生きてるだけで幸せですね~詳しい情報ありがとうございました
S24年10月?川崎中学3年の社会科見学で古河大峰炭鉱の坑内にカンテラを下げて入り水平坑道まで、此処から更に数ヶ所に分かれ地底での石炭採掘との説明がありました。大手の炭鉱は安全対策が採られている実感がありました。S26年10月?、島廻炭鉱住宅に住む同じ年のNさん(定時制)が当直の折、事務所での話しの成り行きで、入って見るの誘いで坑内に、カンテラ下げて歩いて採掘していた所に行きました。Nさんがカンテラ消してみて、真っ暗闇、瞬間座り込み安定確保でしたね、同時に恐怖心が、暫くの感じでした。坑道を上る時、頭上をゴーと音がします、地底は坑道が交差している旨でした。後刻、責任者の方から大目玉を頂戴でした。
貴重なお話しありがとうございました。私は大峰中学校からすぐの添田町真木です。トンネルを出てすぐの所に18歳まで住んでいました。大峰炭鉱や島廻炭鉱など懐かしい名前を思い出しました。貴重なお話ありがとうございました。
@@山崎敏憲-z9e 真木ですか、懐かしいねトンネルを境に添田でしたね。
田川市松原地区の盆踊りでは歌詞は三井炭鉱になってましたよ!炭鉱節は田川の歌と聞いた事があります!
昭和40年頃の盆踊りでも三井炭鉱でした。その煙突のある鎮西社宅に住んでいたのですが子供でしたので、炭坑節がふる里の唄だったと気づいたのは50歳頃です。懐かしい限りです。
何かノスタルジーを感じます、五木寛之の「青春の門」の物語の内容が理解できました、自分は飯塚へ行き公開されている伝右衛門邸を見物しました、非公開の麻生家の塀の中は地元の人さえ知らな想像の世界だとか?戸畑若松遠賀川と映画や小説に登場、松山市吉藤村出身の男の生き様等も、全て石炭と関わる人々の絡みが描かれたものである事が良く理解できた、教科では教えられなかった事ばかり、田川へも一度行って見たいものです
私は現田川市役所の所にあった田川中央高校をS28年に卒後、伊田市内に就職、上席には栄町に廓をもつお嬢さんでした、豊前川崎から汽車通勤でした、待ち時間がある時など廓に隣接するたばこ屋で時間潰し、お嬢さんのお父さんに見つかると来てはいけないと何度もお叱りを受けました。「青春の門」は栄町が草稿基点で大学にも行けた”信介”?さんに憧れみたいなものを思った時がありましたね。
ゴンちゃんさん、いつも興味深いお話をありがとうございます!爆破事故の写真を昭和の頃、ニュース記事が学校に貼られ、子供心にショックだった記憶が有ります昭和43年生まれの私は、夏祭りにヤグラを組み賑やかだった盆踊りに必ず流れる炭鉱節が好きでした三池炭鉱の部分は削って、他の言葉で、歌われていた様な?🌕女性も一糸纏わぬ姿で、炭鉱の仕事をした、切なくも、日本人の底力を感じますね。子連れの採掘や炭鉱美人の写真を出された方の本や、ユネスコ文化遺産に登録された山本作兵衛さんの記録から遠い昔の富国強兵の時代を学びます動画で詳しく教えて頂き、学びとなります。保存させて頂きます炭鉱跡と共に、九州、特に、大陸の窓口、門司に行きたいなぁ。赤鬼グラバーの話を本で読みましたが、これ程、搾取が有ったとは!先祖達は搾取の中を耐えて、現代の私達の今の幸せを繋いでくれたのですね私の住む神奈川では、天明期は、我らが金治郎さんが、飢饉対策に奔走していた時期です。日本は狭いと言われますが、広いですね福岡弁も聞かせてください
地元にもかろうじて幼稚園児の頃までボタ山がありましたね。炭住はまだまだ現役で何棟も建ってました。石炭拾いにお袋と行ったのが懐かしい。
石炭拾いですか!懐かしいな~😊
火事も出たし?青春の門の中に書かれてたンだっけ??風の強い日だとか?チロチロとボタ山が赤くなるらし。しかも、ボタ山は、地の底のナンカで、何も知らずに砂遊びするおさなごを飲み込んで、命をとる、という。命がけで働いてなんとか育てたくとも、なんのための命がけなんかも、わからなくなる、という。
オフクロと一緒に、小さなカゴを背負いボタ山にいってました。たしか石炭の事をオコリと云ってたような?
懐かしい風景。田川を捨てたつもりでも、結局は自分は田川の人間で懐かしさとやり残したことをやり遂げるため、すぐにでも帰省したいと心から思う。でも、しばらくは帰れない。
石炭の背景にそのようなことがあったこと、知ることができて良かったです。そこまで壮絶なものとは思っていませんでした。歌も幼い頃から記憶にありながら、本来の深い意味を知ると感慨深いものがあります。ありがとうございます!
いろいろ思い出して涙が出ました・・
こういう背景と現代に続く韓国などからの難癖と正しく向き合わざるをえないんだなぁと思いました。ところで、さらっと動画タイトルなどに「朝鮮人捕虜」なる文言が出てくるのですが、特に説明がないまま、この当時の実情に有耶無耶と一緒くたに語られてしまっているわけですが、詳しい解説を期待いたします。(´・ω・`)
私(当時11歳)の父はS20年の終戦後ラバウルから復員しました、職業軍人の就職活動は大変でしたね。大手の炭鉱に就職でしたが職員住宅でなく一般の炭鉱鉱員の長屋、前には朝鮮人が住むと言う現実でした。2年後?隣接の中程度の炭鉱に移り古い職員住宅に住みました。「過酷な朝鮮人労働者」の表現に怒りみたいな感じを覚えます。軍艦島の映画が韓国人監督で作成がある様ですが「軍艦島の四季」が長崎市の広報がありますので何度も何度も紹介して欲しいね。軍艦島の四季を鑑賞後に過酷とする労働の実態を知って欲しいと思うばかりです。海の中にある端島で坑内で仕事をするのは差別など無いはずです、感情的に動く韓国人、間違った動きでは島が吹っ飛びますからね。
@@f4802 さん宛 大変貴重なご経験談を書いていただきましてありがとうございます(*゚∀゚)ノ自分たち朝鮮人だけが虐げられたと言いまくる"一部"の韓国人、そして時としてそれを"韓国の総意"として難癖をつけてくる韓国。この明らかに、さも問題をこじれさせようとする韓国というものは本当に始末が悪いですよね。避けたいのは山々ですが、我々の隣人の実態と向き合い続けるしかないのだなぁと改めて思います。嘘つきを無視するだけで済むのであれば、どんなに楽なことだろうか。
@@ochitarou K国は被害者意識が強く、プライドも高くの印象が目立ちます。
@@f4802さん宛 なるほど。被害者意識(過剰な)と(無駄に)高いプライドですね。朝鮮人全員とまでは言いませんが、ホントそうですよね。己の主観を顧みない人物ってのは、「無自覚な虚言癖」とほぼ同じだと思うのですが、私が20年近く彼らを観察した朝鮮人の実態は、「子供のまま成長しないのだ」と結論付けています。つまり、我々日本人は原則として、対等な人間同士の話しかけをついついやってしまいますが、実は「面子に配慮しつつ赤子を大人扱いしなければいけない」というのが答えなのだろうなぁと思っています。かつて先代?のローマ法王が韓国人に対して「魂から生まれ変わることを期待する」と言うような言葉を残しているのですが、私もそう思います。
何故か書き込めないので書き込みテストとして書き込みます。なんでだろう(゚Д゚;≡;゚Д゚)
え〰️😲大牟田だと思ってました!そして、宴会の時などに歌ったご陽気な唄と思ってました…こんな過酷で重労働…【もと唄】残して下さっている関係者の皆様に感謝🙇
ウチにも『納屋・しのや』と言っていた小さな農具や蜜柑の備蓄倉庫がありました。不思議な祖父の姿を覚えています。錠前?南京錠?数字が並んでるクルクルまわして暗証番号のような小さな鍵があったのですけどね、祖父の姿がね。私が後ろに居ります事をしってたと思うのですが、その鍵を何とも表現出来ない姿で、しばらく手のひらの上にのせていたか?何かでした。何度かはその鍵をかけていたこともあったような気がしましたが、ソレはホントに記憶にある中では片手の指で足りるほど。風が強かったり台風だったりの時は扉は閉めたりもしていましたが、鍵をかけていたのは、ほとんどありませんでした。まあ、その頃、普段の自宅も鍵などかけない家でしたし、ご近所さんも、おんなじでしたので。父の実母の兄様は、地の底から出て来た、男なり。
筑豊ではないですが、実家が宇美で、炭坑の竪坑や実家裏のボタ山を幼い頃から見てました。こうして福岡の炭坑の歴史を知れて本当に良かったです。
中学3年の時に父親の転勤で三井三池炭鉱のある大牟田市に転校しました。その前年三川坑の粉塵爆発で死者が多数並べられたと聞きました。大学を卒業し社会に出て三十才近くになってから炭鉱で働いた人々や家族の方々に人間としての尊敬の念を持つようになりました。生きていくということはああいうことだなと。
ありがとうございます。生まれ故郷が田川の方城です。懐かしいもう一度行きたい。
今は飯塚在住ですが、父の仕事の都合で田川の桜町に一時住んでいました。祖父母は猪位金の炭鉱住宅の払下げの社宅に住んでいました。幼稚園から小学校の低学年までよく当時の国鉄後藤寺線に乗って遊びに行った記憶があります。炭鉱の引き込み線が道路沿いにあり蒸気機関車が通る度に手を振ってはしゃいでいました。さらに私は田川中央中学校に勤務した時にまだ祖母が1人暮らしをしていたのので時々顔を店に行っていました。祖父母はと父はすでに他界し、その住宅も数年前に土地と共に企業に売却して今ではその駐車場となっています。そういった意味では田川は第二の故郷です。とても懐かしい思いで拝見させていただきました。
筑豊は子供が遊べる環境が他町違って、ダイナミックでしたね😀
俺の曾祖父は田川市の隣村で天秤棒で魚売り(川魚)をしていましたが田川は海からは遠いうえに河川は鉱毒のせいで魚がいなかった為、曾祖父の持って行った魚がよく売れたそうです
いつもながら、詳しくて分かりやすい解説 ありがとうございます。 ゴンちゃんの『炭坑節』も最高でしたよ♡
いや~恥ずかしいです💦ありがとうございます😊
懐かしい田川の風景でした。百円坂にあった三井の職員社宅に住んでいたことがあります。百円坂クラブで宴会、麻雀をやったことがある最後の世代です。クラブの玄関口には山本作兵衛さんの絵画が飾ってありました。
近くに会社町という珍しい場所がありますね😊田川をもっと時間かけて歩いてみたいです😊
その後、三池に転勤、三井石炭の清算を担当。その頃の上司は今癌で闘病中です。漢気のある親分肌の社長、長生きして欲しいと思っています。田川の会社町、昔その周りに長屋の鉱員社宅があったんじゃないでしょうか。三井の社宅ですね。
工事が進行中で昔の風景は様変わりしつつあります💦
また、懐かしい風景をお願いします。楽しみにして、応援しています。
炭住の購買で金券で買うとは町の3割高。
三池炭鉱の部分ですが、月が出た出た月が出た♪うちのお山の上に出た♪が元唄だったと思います。
あの時代は 石炭=黒いダイヤ 花と龍などがあります アフガンで殺された 中村医師はその孫
中村医師惜しい方を失いましたアフガニスタンの未来は暗いです
え?ゴンちゃんさん、歌うま!!
良い声、上手い歌。
田川で伝承されてた?炭坑節では「三井炭鉱(三井田川炭鉱のこと?)の上に出た~♬(炭坑節の煙突もたぶん三井の2本煙突だったのかも)」でした。
この金で成り上がった今の麻生太郎氏にはあまりいい気はされない人も多いことでしょう。
私は田川郡香春町出身の被差別部落出身の現在59歳の男性でございます。わたしは日本国籍の先祖代々、日本国民でございます。そんな私が、幼少からの見識を申せば日本国民は現在の韓国及び北朝鮮人をチョンチョンといつて戒めておりました。人間が差別した世論調整と現実に私は生き字引として物申したい。人が人を奴隷化して現在にあります。香春岳ボタ山、我が故郷にありて過去の外国人労働者に対して筑豊川男意気、自由と平等を田川から世界に✨愛しき、、、、、、、、、、✨
酒を飲んで自動車を運転するのは伝統なのかな?
「19:00」S40年代の後藤寺商店の写真、大月堂など懐かしいですね、私はS28年3月田川中央高校卒(現在田川市役所)、伊田市内に就職です。S33年?、福岡に転勤でした。当時の住まいは後藤寺より二つ先の豊前川崎・島廻炭住でした。初めてこの商店街を通ったのはS21年?(12歳)、に丸山公園に花見にでかけました。
たくさんの思い出をお持ちですね😊
@@fm1 高校生の頃、ボタ山での石炭拾いです、結構勾配はきつく足元安定の重心に気を張ながらの格好でした、へっぴり腰です。動画で納屋制度を知る度に思い当たる所があり様々な小さな炭鉱を知り小さな炭鉱ほど安全対策が等閑にされたんだろうと思いますね。
後藤寺の丸山公園、懐かしいですねー西田川高校もなくなりましたね。
@@山崎敏憲-z9e 西田川高校がなくなりましたか、寂しいね。
丸山公園にお花見に母と行った事を思い出しました。西田川高校はもうなくなるのですね。井上陽水も寂しそうですよ。
リアルなカイジの世界ですね
知れば知る程、悲しい歴史だ!筑豊の女性や子供の犠牲で繁栄したした訳だ!
五木寛之の(青春の門)の舞台だ!九州女のど根性が判るな!
カイジの班長みたいなのがいたってことか
田川市は、田川郡全てと嘉麻市と大任町、添田町、川崎町、赤村と合併して北九州空港に車で行きやすくて便利な立地をアピールしたほうが良さそうだけど?まだまだそういうところだけは当時の炭鉱夫と知性は全く変わらない地域だと思うます。
祖父は戦争から復員後、貝島炭鉱で働き、そこで知り合った同僚の方とも仲良くしていましたね。母が幼い頃、祖母とお歳暮やお中元持って貝島山荘(百合野山荘)に行った話をしていました。巴門があって、凄い邸宅だったよと。今どうなっているかは私もわかりませんが、福岡市内にも貝島の別邸があって今は料亭だか何かになってますよね。炭坑節。直方市で子供時代を過ごしたので、体育祭や盆踊りで炭坑節を踊った記憶があります。😊そういえば幼馴染のお父様は、塵肺で入院されていたのを覚えていますねえ…😢
納屋にもいろいろあったようで、豪勢によろしくやっていたうちもあれば、カツカツなうちもあった様ですね山本作兵衛翁も「親父は大納屋をやっていたけど、麻生はカスリが安いから兄貴が坑内大工に下りてどうにか食わせてた」「兄貴は賃上げ闘争を扇動した嫌疑で半年ぶちこまれた」なんて書いてますし自分のうちを悪くは書けなかった事情もあるでしょうが
う〜わ。リアル、帝愛地下ペリカの世界が現実にあったんだ。
炭鉱節は三池炭鉱ではなく、三井炭鉱の上に出た出たですよ
上半身裸ということは暑くて服を着ていられなかった環境ってこと?
地の底は、聞きましたところですと、高湿度、かつ、地の底からの熱で、かなりの高温だそうです。
懐かしい映像🤔有り難うございます、小さい頃は近くに山が有り三井の幼稚園に通ってた記憶も、中学に上がる頃は寂れて来て人口も減って目に見えて過疎化に😓卒業後に家具店に就職し寮住まいの時に近所の酒屋に気難しい婆さんが、口癖が時代が時代なら口も聞け無いと😅人が良い店長(息子)に聞くと香春岳城主の姫の孫と言う事で、今は時代が違うだろと思った記憶が(元田川市民)
主人が田川市出身です。毎年、田川に里帰りしてますよ😊
取材してよくわかりました。田川はいい所ですね😊
飯塚は「ガンガン行こうぜ!」気質の方が多いのでそのパワーに圧倒されます。大らかなで大雑把な感じがしますが曲がったことが嫌いな面もあるのでそこだけは注意です。それとお酒が好きな方も多いのでお呼ばれされた時、お酒を持っていくと喜ばれると思います。
パソナの原型。😰
いつの時代も人材会社は儲かりますよね。ただ、当時は人夫管理はトラブルだらけで、必要悪だったかもですね。
北海道の炭鉱夫のほうが、全然マシっぽそう。環境が
宮若のトヨタ工場では今も派遣バイトが同じように売店で絞り取られてる。腕に着けたリングでなんでも買い物出来て天引きだから、食い詰めカイジみたいな現実をみて、こんなところに永くいては駄目だと思いました。
寿命も短い❗じん肺が酷かった蓮
炭坑節 どこから田川の話が大牟田 三池炭坑の話しになったのですかねえ?戦後、三池の労働幹部が東京で呑み明かして、広めたと聞いています。オリジナルの歌詞は三池炭坑ではなく、三井炭坑?
民謡は口頭伝承による傾向が強いので、発祥地や唄い手の正確性にイマイチ欠ける傾向がありますが、炭坑節は田川が発祥でよいかと思います😀
違うチャンネル配信様の説明では三橋美智也氏がレコード発売時、三井だと企業名だから三池したとかそんな様な説明でした
普通にプロの仕事。。。
炭鉱はリアルなカイジの世界。資本家と労働者の世界。現代人では想像もできないことです。しかし、古代に目を向けて筑豊にこそ、天皇陛下はおられたのだから、田川は鷹羽にもどして、英彦山を中心に、筑豊の歴史をとりもどすことです。
いつの時代にも人の上に立って生き延びる奴はいるんだねどんな死に方を、したのか見てみたい
勉強になりました。
デカンショ節の『デカンショ!デカンショ!で半年暮らす♪』というフレーズもその実、本当の本当は、朝鮮人に炭鉱で穴を掘らせておけば、半年は遊んで暮らせるという意味だと阪大在学中に教授から聞いたことがあります。本当に多くの方々の犠牲があって現在があるんですよね。ありがとうございました。
炭鉱労働者は朝鮮人ばかりじゃありませんよね
関西出身ですが50年ほど前、入社した会社で福岡の人が親父の還暦の写真を見せてくれましたが、顔に黒い斑点があり、これは炭鉱爆発でこうなったと言ってたのを思い出しました。
石炭の細かい粒が顔にめり込み取れなかったそうです。
貴重な歴史をありがとうございました。
娘が、福岡県立大学に進学し、田川市に御縁が出来ました。色々と歴史を知る事が出来て、とても感動しました。私は、主に山口県宇部市で育ちましたので、同じ炭鉱の町という雰囲気は懐かしかったのですが、やはり筑豊は凄い。こちらの動画で、納屋制度や中国、朝鮮の方達の事を詳しく知れて良かったです。労働者から搾取して成り上がった炭鉱王達に激しい怒りが湧いてきました!!旧伊藤伝右衛門邸、麻生太吉〜太郎の実家(2万坪!!)、等など。本当に腹が立つ!!日本の経済の礎となった炭鉱夫、炭鉱婦の皆様へ感謝申し上げます。亡くなられた方々、どうか安らかにお眠り下さい。
結果的に、汗と涙と血を流しながら、日本の発展を支えて下さった、日本や大陸出身の労働者の方々に心から感謝申し上げます。
出稼ぎ。日本の発展に寄与できたことは嬉しかったことでしょう。日本人も海外で活躍している人がいます。😊
父の話に依ると祖父は粉塵爆発に依り大正6年12月21日現宮若市貝島炭鉱大之浦坑にて亡くなったとの事。粉塵爆発後、地下水が坑内に流れ込み369名の犠牲者がでましたが、地下300m程から遺体を揚げるには水抜きから始め約3年掛かったそうです。幸いにして祖父は絹の首巻きをしていたので特定出来たと云ってました。その後、田川中学?を卒業した父はオヤジの仇とばかり通気学・地質学・測量を勉強し、添田や川崎に住み筑豊の古河鉱業系の炭坑を測量士兼保安員として長く務めました。尚 戦争ではシンガポールで捕虜になりジャングルで油田採掘の測量させられたと云ってました。私は添田で生まれました…懐かしくてたまに行き、英彦山や香春岳を眺めると泣きそうになります。炭坑で亡くなられた全ての方々へ合掌。
貴重なお話ありがとうございます。炭坑に従事され亡くなられたすべての方に合掌です。
エネルギ産業は
人類の文明の基です
AIも食物も
エネルギーが無いと成立しません
福岡県直方市に昔、筑豊鉱山学校がありました!
炭鉱での技術者を育成する専門学校です、採鉱科
機械科、電気科があったはずですが!。
私は、筑豊の小竹町で12歳まで生活していました、炭鉱節が毎朝スピーカーから流れていました、とにかく懐かしいです。
祖父母が筑豊の炭鉱で働いていました。私が聞いたそこでの暮らしは、この動画の解説とほぼ同じです。
①天引きがひどい。②工具等の貸し賃をとる。③賃金は出来高で、会社の購買部専用金券で払う。④一度借金すると、膨らんで返せない。⑤逃げるとつかまって、仕置きがひどい。
逃げることを決心した祖父と祖母は、ある朝いつもの出勤時間にヤマに行くふりをして家を出て、道の途中で脇にそれて必死で逃げたのだとか。家具とか残して着の身着のままで。
その後、糟屋郡の志免海軍炭鉱の前身である新原炭鉱で雇ってもらい、子を9人設けました(内、長男は戦死、3人は戦中戦後に病死)。母は志免炭鉱内の海軍病院の看護婦になりました。
祖父は石炭掘り、祖母は石炭とボタの選別でしたが、筑豊炭坑のタコ部屋(納屋)と志免海軍炭鉱とでは、待遇が雲泥の差だったそうです。定年時には海軍炭鉱が国鉄炭坑となっていたので「国鉄パス」をもらってました。
「徴用工問題」とかを見ると、「人買いレベルの悪質な口利屋」と「あくどい納屋頭」と「あくどい経営者」と「腐敗した役人」がやらかしたんだろうな、と感じます。
ご家族のご苦労が伝わります。情報ありがとうございます。
同じ朝鮮人が騙した話なら、聞いた事あります。慰安婦もね。笑
私も、筑豊田川船尾で産まれ幼少時まで、生活していました。叔父は炭鉱、セメント工場、父親は北九州の鮮魚店に単身、母親は製麺会社、私は祖父母に預けられていました。私が筑豊田川で育ていて、祖父母の言葉で今も覚えている言葉【北の人、南の人
貧しい人も、同じ人仲良く貧しくても同じ人達】この言葉を思い出しました。
筑豊の人は、ハーモニカ長屋に生活し助けあい生活していました。
北の人が統一しそうですね。南の国会議員は北に押さえられているそう。😂
現代の原発労働者と同じシステムですね。ここまで酷かったとは思いもしなかったです。ありがとうございます。
昭和26年田川市夏吉糸飛ー三井の豊産の炭住で生まれ、伊田小学校通ってました。
小学6年の時、三井筑豊が閉山になるので、三井三池鉱へ転勤転居しました。
集団でバスに乗って、犬鳴峠の狭い道を通って荒尾の四つ山の炭住へ引っ越したのを今でも鮮明に覚えています。
強く心に焼き付いているのは、糸飛の炭住から望む香春岳でした。まだ頂上が少しだけ削れた山でした。
父と姉と私と3人で登って、山頂から炭住の自宅が見えて、家事をする母を見て手を振った事を覚えています。
声を出しても手を振っても聞こえる訳でも無く、懐かしさがこみ上げてきます。
香春岳の今は、60~70%が消えたようで、当時はまだ殆ど原型を留めてました。
人生の終盤になって、もう一度、幼い頃の風景や春の風を感じてみたいと思っています。
二の岳に在った、梅の花のお寺、神宮院はまだ有るのでしょうか?
この時代の戦後生まれは、全員ジジババになってしまいました。でも思い出は田川の事がいつまでも、いっぱい詰まっています。
老齢期となり、貴兄の文章を我が事のように、懐かしく思い、涙が出るほどです。
筑豊は心の故郷です。
懐かしい、伊田小だって、S28年高卒後、その伊田小に隣接する所に就職でした、講堂兼体育館は共同使用で、事務室の廊下を児童は通っていましたね。
やはりこの地を本当の故郷と感じてる人が居るのですね。
やはり生涯の我が土地、鮭が生まれた源流の地に戻るがごとく。
私も生かされて来て人生の終盤を迎える時期に思う地はかって父母が大切な人生を過ごし
子供を守った場所、生活苦の中、充実した家族との幸福らしき生活を過ごした明るい光が見えます。
過去の思い出、集約すると明るい光だった。過去の輝く光はまだそこに有るのか見てみたいように思います。嬉しいコメントありがとうございます。
嬉しいコメントありがとうございます。
伊田小は3年生までいました。それから金川小学校へ転校し、6年生の時、三井三池の荒尾へ引っ越ししました。伊田小の隣はたしか、九大の教育学部だったと記憶してますが、違ったらすみません。
伊田小は確か、教育学部の教育実習先として伊田小が指定されていたと記憶しています。
正しいかどうかは分かりません。たしか講堂は共同使用だったように思います。記憶が確かではありませんが、教育大の廊下を何度も通った記憶が残っています。教育大の運動場は広く野球部(軟球)を拾って投げ返した記憶もあります。運動会の時、教育大の体操部員が小学校の運動会で演技を見せてくれた事も覚えており、運動場に相撲場を作って、力士の地方巡業が行われた事も覚えています。たしか栃若の時代だったかな?
嬉しいコメントですね。ありがとう。
毎日の生活に苦しそうだった父母も今思えば、まだ若く、子供も3人居て、本当は充実した幸福感もあったように思います。子供にとって涙があふれそうな思い出ばかりです。
この動画こそ後生に残したい。素晴らしい内容です。隠しきれない「シェ」の発音がまた良し。
私はS33年頃田川から福岡に転勤しました。
その頃「オゥ」「カネダ」「ヒロオカ」の言葉を
また、神様、仏様、稲尾様の言葉が聞こえました。平和台球場の内野席は板木材が二本並べられた素朴なものでした。
一時、鳥飼住宅に、ナイターの照明が遠くから見えましたよ、鳥飼の一つ先の城西橋には中西監督が住んでおられた様でした。
ありがとうございます。
三度の海峡、人間の條件、氷点などの物語の理解が深まりました。
祖父が鐘紡女工の全部屋に畳が敷かれた事を嬉しそうに話していた事も思い出しました。
現在マンション群が建ち、見る影は無くなりましたが、逃亡防止の為の一本道が大阪拘置所の南側に有った事も、重ねて思い出しました。
扇情的で無く、淡々とも取れる詩情溢れる語りが、冒頭の歌の巧さと共立しているのですね。
懐かしい思い出ありがとうございます。
長文失礼いたします
祖母の家に帰省した際、田川の石炭記念館に行った話をすると、祖母が当時の思い出話をして下さいました(私は知らなかったのですが、祖母は田川の地主の家系だったようです)
両親から、炭鉱の人とは仲良くするなと強く厳命されていたようです
祖母は半分嫉妬のようなものだと笑っていましたが、納屋制度を知ると、そう言い渡した両親の気持ちも良くわかります
いずれにせよ、炭鉱という一大産業が出来ても、皆喜んでいるわけでは無かったと知れたのは大変大きな学びになりました
コメントありがとうございます。当時の労働事情はすべて力関係だったので弱者には過酷でもそれが当たり前だったのでしょうね。
あなたの祖母の親は、酷い人間ですね。身分差別をする浅はかな人間なんですね。人を職業や、立場で差別するなんて…なんて薄っぺらい思考なんでしょう😩
山を越えた隣町に住んでいます。たまにドライブしますが深く考えず通っていた町の歴史がとても勉強になりました。
親父が貝島炭鉱で働いてました。
新竪坑が昭和48年採掘不能で閉山となり、北九州に移住しました。まだ一歳でしたが。
思い出ありがとうございます。
懐かしいのと悲しい気持ちです。5歳まで筑穂町大分炭鉱炭住に
住んでました。父が元鉱夫で我が家の倉庫にはダイナマイトの箱とか線路をカットしたのがありました。閉山とともに福岡市に引っ越してきましたが、たまに筑豊地区に行くと青春の門の映画がよみがえってきます。
新ちゃんの唄もよかったですね😊
当時の人々を想うと、さぞ苦しかっただろうと涙が出てきます…。
一所懸命頑張ってきて下さった先人のお陰で、今の生活があるのだと本当に感謝でいっぱいです。
当時の生活がよく解る詳しい解説をどうもありがとうございました🙇♀️🙏
父方、秦氏のルーツ田川‼️
こんな過酷な労働で命を繋いでくれて感謝しかない。
ありがとうございます♪
涙が出ます😭。
父が何故?持ち家にこだわり家🏠を自分の命に替えても守ってくれたか意味が深く理解できる動画🎥でした。
何故?北九州は荒くれ者がたくさんいるのか理解しました。
本当に父が自ら語れない歴史を教えてくださりありがとうございました。
ありがとうございました。田川郡添田町に18歳までいました。
全ての画像に涙が出るほどでした。
西添田駅から少し添田方向に戻った所に踏切、その側に種物屋がありました。
S18年(当時9歳)の暮れに佐世保から「藤江氏の魚楽園」下の荒平村に疎開、S19年?に村の青年団に連れられて英彦山に、早朝に出かけ丘を二つほど超え下った先に種物屋がありお茶の接待を受け暖をとって西添田駅から汽車に乗りました。
種物屋は更地になっており一抹の寂しさを感じました。S51年の或日農学部の先生と話した折、その種物屋さんが話題になりました。
その踏切は豆塚の踏切と言います。昔は遮断機を上げ下げする係の方も居て、往来の盛んな踏切でした。
確か原田種苗店と言ったかと思います。
子供の頃毎日そこを通って学校に通った懐かしい場所です。
記憶がだんだん鮮明になってきました。
投稿ありがとうございます。
筑豊で、田川と飯塚に面する市に住んでいます。
炭坑節は盆踊りの定番でしたが、発症が三池炭鉱ではないというのはかなりの驚きでした。
自分の住んでいるところも、飯塚や田川には及ばないでしょうが、かつては炭坑で賑わった市でボタ山もあります。。
炭坑で働く事は危険と隣り合わせだ、というくらいは分かっているつもりでしたが、そこまでの過酷な労働状況だったとは。。
色々と考えさせれる、とても為になる動画でした。
田川と飯塚に接しているというと嘉麻市ですか?
やはり出てきた麻生さん••••
先祖は搾取して、財を築いた。
飯塚在住です。恥ずかしいながら納屋制度については初めて知りました。大変勉強になりました。
お役に立てて良かったです😊
大変為に成りました、ありがうございます。
日本遺産炭鉄港ガイド登録者で、自ら北炭夕張炭鉱鉱業所管轄の坑内で働きました。
こちらこそありがとうございます。お仕事されたことに感謝申し上げます。
きつくなると田川炭鉱博物館に行っています、労働環境は少しずつ良い方向に変わっていってますがシステム自体は昔といっちょんかわりませんね。
貴重なお話有難うございました。
貴重な証言に感謝です。
母方の実家が後藤寺で、小学生の頃、毎年夏休みになると1ヶ月間預けられてたので田川には凄く思い入れがあります。うちの祖父も炭鉱会社の社長だったみたいです。かなり金回りが良かったとか。
志免もそうですが、その頃はボタ山がチラホラあり、その景色を見ながらゲーラを飛ばしてましたが、気付いたら1つも残ってませんね。後藤寺商店街も西友が建つまではまだ賑わってました。その西友も今はローソンになってますが。何も無くて寂しい町ですが、自分にとってはいつまでも暖かい町です。
ってか歌素晴らしい!
当時の社長さんの懐は半端なかったようで、羨ましいです😊ボタ山で焼き芋したことが懐かしいです💦ありがとうございます😊
麻生太郎氏のようなセレブもこうして財を築いた家の出ですね。
先祖は搾取をして、財を築いた。
因みに母方祖父は卵酒ぐらいしか飲めない下戸なので借金と無縁の人生でした。
同じように炭鉱で働きながら、帰ればノンビリ出来る男性と違い、座る間もなく家事に追われる女性の大変さは、農家の嫁達と同じですね。子供も、安産ならまだしも、何日も苦しみ抜く難産もあったろうし、生理の処理はどうしたのか?女性側から見た炭鉱の生活は、もっと過酷だったんだろうな。
北九州の近世歴史、興味深く視聴させていただきました、ありがとうございます。
タコ部屋は北海道だけではないのを改めて知りました。ありがとうございます。道産子で日鉄系の会社に勤めていたので興味があります。
筑豊の炭坑節の一つは「香春岳から見下ろせば...」というくだりから始まると記憶してます。おっしゃるとおり炭坑節もかなりたくさんのバージョンがあるらしいので、これが赤坂小梅のバージョンなのかどうかわかりませんが。
実を言うと私の祖父の兄、つまり私の大叔父にあたる人 (私が生まれたころはすでに亡くなっていたので会ったことはない) は麻生に出入りする納屋頭 (私の記憶では私の母が「労務長」とも言っていたような) で飯塚の街では知らない人はいないくらいの人物だったそうです。労務制度がなくなってからは飯塚の繁華街にある大きな旅館の経営者になったようで、この旅館もつい最近までビジネスホテルとして経営されて、そのあとは介護施設になり、最近やっと廃業になり建物ともになくなりました。私の祖父なんて一応麻生に勤めていることになってはいたのですが「遊び人」つまり定職に就かずぶらぶらしている不届きものだったらしく、お兄ちゃんの威を借りて街で肩で風をきって歩いていたとかなんとか。(小心者で喧嘩なんかはできないダメ男だったそうですが) 正直言って自分の親族親戚にこういう人がいると思うとあまりいい気分にはなりませんね。
それから私が子供のころに私の友達が住んでいる飯塚病院のすぐ南側にあるすすけたハーモニカ長屋がならぶもともと炭住だった集落には、その地区の人が利用できる銭湯 (たぶん入浴料無料) があって、そこはまだ男女混浴だったですね。その時私が小学校低学年だったので、すでに昭和50年すぎていたはずなんですが。
だから麻生太郎が総理大臣になったときは正直「なんでこんなクソ家族の息子が...」って思ってましたね。そのころは納屋頭というのは麻生会社の直属の従業員だと思ってましたから。(しかし納屋制度だけでなく、麻生の職員が直接朝鮮人労働者をリンチしたとかいうスキャンダルもあったようですが)
これは炭鉱とは直接関係ない話ですが、私が中学生のころ (同じクラスではなかったですが) 同学年の生徒の二人はヤクザの息子で、その一人のお父さんは服役中だったんだとか。
私はもう30年以上飯塚に住んでなく、たまに実家に顔をみせに帰って来るくらいですが、どんなに街がクリーンになったとしても飯塚に戻りたいとは全然思わないですね。
漆生炭鉱が懐かしい❗
因みに 福知山は小4年で遠足で登りました。
なんなんですかねぇ、このクオリティ。
NHKなんでしょうか?
いつもありがとうございます。
楽しませてもらっています。
励みになるコメントありがとうございます😃
数ヶ月前、田川、川崎を訪れましたが、軽自動車はヤンママか老人、セダンはガラの悪い男性、という風に乗る人間がキレイに別れていたのは驚きでした。
私も 川崎町に住んでいました‼️ 田川工業出身で 仕事は 放射線技師をしています 懐かしいです ありがとうございます
五木寛之の「青春の門」の舞台ですね。その象徴の香春岳には懐かしさと哀愁があります。
福岡の叔父が田川と福岡市で医師をしております。ですが、私は田川を全く知りませんので、動画を拝見しました。ありがとう御座います。
この歌を聞くとよいとまけの歌を思い出します!家族のため真っ黒になりながら石炭を掘り出していた。つい最近まで地元の方は洗濯物が洗っても白くならなかった。それだけ空気が汚かった。大牟田にいた甥っ子は喘息で幼くしてなくなりました
感慨に耽る動画でした。
ありがとうございます。
お役に立ててよかったです😀
「地底で血と汗を……」の文字に、中元寺川の底が抜け未だ上がらぬ労働者をフト思い出し生きていればこその幸せを痛感しますね。
S26年頃?、当時高校生だった頃の在りし日を思い出しています。
大変勉強になりました。福岡生まれ、四十代です。
ごんちゃん、ありがとうございます。
私は北九州市八幡枝光の出身の1951年生まれのものです。
私のところは製鉄の町でした。
筑豊とは違う世界でしたが、隣接するということで何時も筑豊の空気は感じていました。
物心ついてから製鉄の歴史、筑豊の歴史に興味を持ちましたが本格的に調べる機会はありませんでした。
これを機会に少し勉強してみたいと思っています。
中学の体育の先生は筑豊出身の男性で何かの機会に炭坑節を歌ってくれました。私が知っている歌詞と違い興味を覚えました。
また叔母さんが飯塚に一時住んだことがあり、遊びに行った時、炭住の風呂に行きました。只でした。
私の直接的な筑豊との接点はこんなものですが、今は筑豊の歴史、製鉄の歴史について知りたいです。ありがとうございました。
とても見ごたえがあり、わかりやすかったです。搾取する側に怒りを感じます。家事もせずDVなんて一部だけだったと信じたいです。冒頭の歌お上手でした
お役に立ててよかったです、ありがとうございます😀
知らないことたくさんでした、ゴンちゃん、いつもありがとうー!
お役に立ててよかったです😊
伊田駅って今こんなのなの?上弓削田生まれ川崎町育ちの今茨城県民です。
子供の頃、神幸祭では伊田駅川向うで謎の化け物屋敷(ロクロッ首とか)などの怪しい出し物を見て育っています。
想い出も今は昔。たまに帰ると昔を探しています。日の出町にあった東洋劇場とかターミナル会館(映画館)とか。
後藤寺の町も変わり、池尻の長屋もボタ山も無くなり「昔」はこうやってなくなるのだろうかと思ったりします。
わあ、懐かしいです。見世物小屋。橋を背にして右側にあった光景まで覚えています。小学校低学年でしたが笑。
神幸、花火大会、、
ふる里は懐かしい限りです。
懐かしい時代、美味しい御菓子屋さんがありました。青春の門の舞台。
田川饅頭か、黒ダイヤでは無いですか?
伊田の駅前に今でもお店がありますよ。
素晴らしい動画をありがとうございました。
納屋制度について全くしりませんでした。
かの炭鉱王も納屋頭の出とは。
借金(奨学金)を背負わせて働かせる構図は今でも続いてますね
母方祖父は湾岸労働者から炭鉱夫に転職した理由がまさにそれだったそうです。腰を傷めて10年で炭鉱夫を辞めたからか納屋制度のことを知りませんでした。松原の盆踊りは三井炭鉱と歌ってたのが懐かしいです。
昔は産業が無かったからこういう所に次男三男達が・・・
又満州や朝鮮にも田畑求めて行ったんですよね~
戦後になって変わって来たね~
ほんとに今を生きてるだけで幸せですね~
詳しい情報ありがとうございました
S24年10月?川崎中学3年の社会科見学で古河大峰炭鉱の坑内にカンテラを下げて入り水平坑道まで、此処から更に数ヶ所に分かれ地底での石炭採掘との説明がありました。大手の炭鉱は安全対策が採られている実感がありました。
S26年10月?、島廻炭鉱住宅に住む同じ年のNさん(定時制)が当直の折、事務所での話しの成り行きで、入って見るの誘いで坑内に、カンテラ下げて歩いて採掘していた所に行きました。
Nさんがカンテラ消してみて、真っ暗闇、瞬間座り込み安定確保でしたね、同時に恐怖心が、暫くの感じでした。坑道を上る時、頭上をゴーと音がします、地底は坑道が交差している旨でした。
後刻、責任者の方から大目玉を頂戴でした。
貴重なお話しありがとうございました。
私は大峰中学校からすぐの添田町真木です。トンネルを出てすぐの所に18歳まで住んでいました。
大峰炭鉱や島廻炭鉱など懐かしい名前を思い出しました。
貴重なお話ありがとうございました。
@@山崎敏憲-z9e 真木ですか、懐かしいねトンネルを境に添田でしたね。
田川市松原地区の盆踊りでは歌詞は三井炭鉱になってましたよ!
炭鉱節は田川の歌と聞いた事があります!
昭和40年頃の盆踊りでも三井炭鉱でした。その煙突のある鎮西社宅に住んでいたのですが子供でしたので、炭坑節がふる里の唄だったと気づいたのは50歳頃です。懐かしい限りです。
何かノスタルジーを感じます、五木寛之の「青春の門」の物語の内容が理解できました、自分は飯塚へ行き
公開されている伝右衛門邸を見物しました、非公開の麻生家の塀の中は地元の人さえ知らな想像の世界だとか?
戸畑若松遠賀川と映画や小説に登場、松山市吉藤村出身の男の生き様等も、全て石炭と関わる人々の絡みが描かれたもの
である事が良く理解できた、教科では教えられなかった事ばかり、田川へも一度行って見たいものです
私は現田川市役所の所にあった田川中央高校をS28年に卒後、伊田市内に就職、上席には栄町に廓をもつお嬢さんでした、豊前川崎から汽車通勤でした、待ち時間がある時など廓に隣接するたばこ屋で時間潰し、お嬢さんのお父さんに見つかると来てはいけないと何度もお叱りを受けました。
「青春の門」は栄町が草稿基点で大学にも行けた”信介”?さんに憧れみたいなものを思った時がありましたね。
ゴンちゃんさん、いつも興味深いお話を
ありがとうございます!
爆破事故の写真を昭和の頃、ニュース記事が学校に貼られ、子供心にショックだった記憶が有ります
昭和43年生まれの私は、夏祭りに
ヤグラを組み賑やかだった盆踊りに必ず流れる
炭鉱節が好きでした
三池炭鉱の部分は削って、他の言葉で、歌われていた様な?🌕
女性も一糸纏わぬ姿で、炭鉱の仕事をした、切なくも、日本人の底力を感じますね。子連れの採掘や炭鉱美人の写真を出された方の本や、ユネスコ文化遺産に登録された山本作兵衛さんの記録から
遠い昔の富国強兵の時代を学びます
動画で詳しく教えて頂き、学びとなります。
保存させて頂きます
炭鉱跡と共に、九州、特に、大陸の窓口、門司に行きたいなぁ。
赤鬼グラバーの話を本で読みましたが、これ程、搾取が有ったとは!先祖達は搾取の中を耐えて、現代の私達の今の幸せを繋いでくれたのですね
私の住む神奈川では、天明期は、我らが金治郎さんが、飢饉対策に奔走していた時期です。日本は狭いと言われますが、広いですね
福岡弁も聞かせてください
地元にもかろうじて幼稚園児の頃までボタ山がありましたね。
炭住はまだまだ現役で何棟も建ってました。
石炭拾いにお袋と行ったのが懐かしい。
石炭拾いですか!懐かしいな~😊
火事も出たし?青春の門の中に書かれてたンだっけ??風の強い日だとか?チロチロとボタ山が赤くなるらし。
しかも、ボタ山は、地の底のナンカで、何も知らずに砂遊びするおさなごを飲み込んで、命をとる、という。命がけで働いてなんとか育てたくとも、なんのための命がけなんかも、わからなくなる、という。
オフクロと一緒に、小さなカゴを背負いボタ山にいってました。たしか石炭の事をオコリと云ってたような?
懐かしい風景。田川を捨てたつもりでも、結局は自分は田川の人間で懐かしさとやり残したことをやり遂げるため、すぐにでも帰省したいと心から思う。でも、しばらくは帰れない。
石炭の背景にそのようなことがあったこと、知ることができて良かったです。そこまで壮絶なものとは思っていませんでした。
歌も幼い頃から記憶にありながら、本来の深い意味を知ると感慨深いものがあります。
ありがとうございます!
いろいろ思い出して涙が出ました・・
こういう背景と現代に続く韓国などからの難癖と正しく向き合わざるをえないんだなぁと思いました。ところで、さらっと動画タイトルなどに「朝鮮人捕虜」なる文言が出てくるのですが、特に説明がないまま、この当時の実情に有耶無耶と一緒くたに語られてしまっているわけですが、詳しい解説を期待いたします。(´・ω・`)
私(当時11歳)の父はS20年の終戦後ラバウルから復員しました、職業軍人の就職活動は大変でしたね。
大手の炭鉱に就職でしたが職員住宅でなく一般の炭鉱鉱員の長屋、前には朝鮮人が住むと言う現実でした。
2年後?隣接の中程度の炭鉱に移り古い職員住宅に住みました。
「過酷な朝鮮人労働者」の表現に怒りみたいな感じを覚えます。
軍艦島の映画が韓国人監督で作成がある様ですが「軍艦島の四季」が長崎市の広報がありますので何度も何度も紹介して欲しいね。
軍艦島の四季を鑑賞後に過酷とする労働の実態を知って欲しいと思うばかりです。
海の中にある端島で坑内で仕事をするのは差別など無いはずです、感情的に動く韓国人、間違った動きでは島が吹っ飛びますからね。
@@f4802 さん宛 大変貴重なご経験談を書いていただきましてありがとうございます(*゚∀゚)ノ
自分たち朝鮮人だけが虐げられたと言いまくる"一部"の韓国人、そして時としてそれを"韓国の総意"として難癖をつけてくる韓国。
この明らかに、さも問題をこじれさせようとする韓国というものは本当に始末が悪いですよね。避けたいのは山々ですが、我々の隣人の実態と向き合い続けるしかないのだなぁと改めて思います。
嘘つきを無視するだけで済むのであれば、どんなに楽なことだろうか。
@@ochitarou K国は被害者意識が強く、プライドも高くの印象が目立ちます。
@@f4802さん宛 なるほど。被害者意識(過剰な)と(無駄に)高いプライドですね。朝鮮人全員とまでは言いませんが、ホントそうですよね。
己の主観を顧みない人物ってのは、「無自覚な虚言癖」とほぼ同じだと思うのですが、私が20年近く彼らを観察した朝鮮人の実態は、「子供のまま成長しないのだ」と結論付けています。つまり、我々日本人は原則として、対等な人間同士の話しかけをついついやってしまいますが、実は「面子に配慮しつつ赤子を大人扱いしなければいけない」というのが答えなのだろうなぁと思っています。
かつて先代?のローマ法王が韓国人に対して「魂から生まれ変わることを期待する」と言うような言葉を残しているのですが、私もそう思います。
何故か書き込めないので書き込みテストとして書き込みます。なんでだろう(゚Д゚;≡;゚Д゚)
え〰️😲大牟田だと思ってました!
そして、宴会の時などに歌ったご陽気な唄と思ってました…こんな過酷で重労働…【もと唄】残して下さっている関係者の皆様に感謝🙇
ウチにも『納屋・しのや』と言っていた小さな農具や蜜柑の備蓄倉庫がありました。
不思議な祖父の姿を覚えています。
錠前?南京錠?数字が並んでるクルクルまわして暗証番号のような小さな鍵があったのですけどね、祖父の姿がね。私が後ろに居ります事をしってたと思うのですが、その鍵を何とも表現出来ない姿で、しばらく手のひらの上にのせていたか?何かでした。何度かはその鍵をかけていたこともあったような気がしましたが、ソレはホントに記憶にある中では片手の指で足りるほど。風が強かったり台風だったりの時は扉は閉めたりもしていましたが、鍵をかけていたのは、ほとんどありませんでした。まあ、その頃、普段の自宅も鍵などかけない家でしたし、ご近所さんも、おんなじでしたので。
父の実母の兄様は、地の底から出て来た、男なり。
筑豊ではないですが、実家が宇美で、炭坑の竪坑や実家裏のボタ山を幼い頃から見てました。
こうして福岡の炭坑の歴史を知れて本当に良かったです。
中学3年の時に父親の転勤で三井三池炭鉱のある大牟田市に転校しました。その前年三川坑の粉塵爆発で死者が多数並べられたと聞きました。大学を卒業し社会に出て三十才近くになってから炭鉱で働いた人々や家族の方々に人間としての尊敬の念を持つようになりました。生きていくということはああいうことだなと。
ありがとうございます。生まれ故郷が田川の方城です。懐かしいもう一度行きたい。
今は飯塚在住ですが、父の仕事の都合で田川の桜町に一時住んでいました。祖父母は猪位金の炭鉱住宅の払下げの社宅に住んでいました。幼稚園から小学校の低学年までよく当時の国鉄後藤寺線に乗って遊びに行った記憶があります。炭鉱の引き込み線が道路沿いにあり蒸気機関車が通る度に手を振ってはしゃいでいました。さらに私は田川中央中学校に勤務した時にまだ祖母が1人暮らしをしていたのので時々顔を店に行っていました。祖父母はと父はすでに他界し、その住宅も数年前に土地と共に企業に売却して今ではその駐車場となっています。そういった意味では田川は第二の故郷です。とても懐かしい思いで拝見させていただきました。
筑豊は子供が遊べる環境が他町違って、ダイナミックでしたね😀
俺の曾祖父は田川市の隣村で
天秤棒で魚売り(川魚)
をしていましたが
田川は海からは遠いうえに
河川は鉱毒のせいで魚が
いなかった為、曾祖父の
持って行った魚がよく
売れたそうです
いつもながら、詳しくて分かりやすい解説 ありがとうございます。 ゴンちゃんの『炭坑節』も最高でしたよ♡
いや~恥ずかしいです💦ありがとうございます😊
懐かしい田川の風景でした。百円坂にあった三井の職員社宅に住んでいたことがあります。百円坂クラブで宴会、麻雀をやったことがある最後の世代です。クラブの玄関口には山本作兵衛さんの絵画が飾ってありました。
近くに会社町という珍しい場所がありますね😊田川をもっと時間かけて歩いてみたいです😊
その後、三池に転勤、三井石炭の清算を担当。その頃の上司は今癌で闘病中です。漢気のある親分肌の社長、長生きして欲しいと思っています。
田川の会社町、昔その周りに長屋の鉱員社宅があったんじゃないでしょうか。三井の社宅ですね。
工事が進行中で昔の風景は様変わりしつつあります💦
また、懐かしい風景をお願いします。楽しみにして、応援しています。
炭住の購買で金券で買うとは町の3割高。
三池炭鉱の部分ですが、
月が出た出た月が出た♪うちのお山の上に出た♪
が元唄だったと思います。
あの時代は 石炭=黒いダイヤ 花と龍などがあります アフガンで殺された 中村医師はその孫
中村医師
惜しい方を失いました
アフガニスタンの未来は暗いです
え?ゴンちゃんさん、歌うま!!
良い声、上手い歌。
田川で伝承されてた?炭坑節では「三井炭鉱(三井田川炭鉱のこと?)の上に出た~♬(炭坑節の煙突もたぶん三井の2本煙突だったのかも)」でした。
この金で成り上がった今の麻生太郎氏にはあまりいい気はされない人も多いことでしょう。
私は田川郡香春町出身の被差別部落出身の現在59歳の男性でございます。
わたしは日本国籍の先祖代々、日本国民でございます。
そんな私が、幼少からの見識を申せば日本国民は現在の韓国及び北朝鮮人をチョンチョンといつて戒めておりました。人間が差別した世論調整と現実に私は生き字引として物申したい。
人が人を奴隷化して現在にあります。香春岳ボタ山、我が故郷にありて過去の外国人労働者に対して筑豊川男意気、自由と平等を田川から世界に✨
愛しき、、、、、、、、、、✨
酒を飲んで自動車を運転するのは伝統なのかな?
「19:00」S40年代の後藤寺商店の写真、大月堂など懐かしいですね、私はS28年3月田川中央高校卒(現在田川市役所)、伊田市内に就職です。S33年?、福岡に転勤でした。
当時の住まいは後藤寺より二つ先の豊前川崎・島廻炭住でした。初めてこの商店街を通ったのはS21年?(12歳)、に丸山公園に花見にでかけました。
たくさんの思い出をお持ちですね😊
@@fm1 高校生の頃、ボタ山での石炭拾いです、結構勾配はきつく足元安定の重心に気を張ながらの格好でした、へっぴり腰です。
動画で納屋制度を知る度に思い当たる所があり様々な小さな炭鉱を知り小さな炭鉱ほど安全対策が等閑にされたんだろうと思いますね。
後藤寺の丸山公園、懐かしいですねー
西田川高校もなくなりましたね。
@@山崎敏憲-z9e 西田川高校がなくなりましたか、寂しいね。
丸山公園にお花見に母と行った事を思い出しました。
西田川高校はもうなくなるのですね。
井上陽水も寂しそうですよ。
リアルなカイジの世界ですね
知れば知る程、悲しい歴史だ!筑豊の女性や子供の犠牲で繁栄したした訳だ!
五木寛之の(青春の門)の舞台だ!九州女のど根性が判るな!
カイジの班長みたいなのがいたってことか
田川市は、田川郡全てと嘉麻市と大任町、添田町、川崎町、赤村と合併して
北九州空港に車で行きやすくて便利な立地をアピールしたほうが良さそうだけど?
まだまだそういうところだけは当時の炭鉱夫と知性は全く変わらない地域だと思うます。
祖父は戦争から復員後、貝島炭鉱で働き、そこで知り合った同僚の方とも仲良くしていましたね。
母が幼い頃、祖母とお歳暮やお中元持って
貝島山荘(百合野山荘)に行った話をしていました。
巴門があって、凄い邸宅だったよと。
今どうなっているかは私もわかりませんが、
福岡市内にも貝島の別邸があって
今は料亭だか何かになってますよね。
炭坑節。直方市で子供時代を過ごしたので、
体育祭や盆踊りで炭坑節を踊った記憶があります。😊
そういえば幼馴染のお父様は、塵肺で入院されていたのを覚えていますねえ…😢
納屋にもいろいろあったようで、豪勢によろしくやっていたうちもあれば、カツカツなうちもあった様ですね
山本作兵衛翁も「親父は大納屋をやっていたけど、麻生はカスリが安いから兄貴が坑内大工に下りてどうにか食わせてた」「兄貴は賃上げ闘争を扇動した嫌疑で半年ぶちこまれた」なんて書いてますし
自分のうちを悪くは書けなかった事情もあるでしょうが
う〜わ。リアル、帝愛地下ペリカの世界が現実にあったんだ。
炭鉱節は三池炭鉱ではなく、三井炭鉱の上に出た出たですよ
上半身裸ということは暑くて服を着ていられなかった環境ってこと?
地の底は、聞きましたところですと、高湿度、かつ、地の底からの熱で、かなりの高温だそうです。
懐かしい映像🤔有り難うございます、小さい頃は近くに山が有り三井の幼稚園に通ってた記憶も、中学に上がる頃は寂れて来て人口も減って目に見えて過疎化に😓卒業後に家具店に就職し寮住まいの時に近所の酒屋に気難しい婆さんが、口癖が時代が時代なら口も聞け無いと😅人が良い店長(息子)に聞くと香春岳城主の姫の孫と言う事で、今は時代が違うだろと思った記憶が(元田川市民)
主人が田川市出身です。毎年、田川に里帰りしてますよ😊
取材してよくわかりました。田川はいい所ですね😊
飯塚は「ガンガン行こうぜ!」気質の方が多いのでそのパワーに圧倒されます。大らかなで大雑把な感じがしますが曲がったことが嫌いな面もあるのでそこだけは注意です。それとお酒が好きな方も多いのでお呼ばれされた時、お酒を持っていくと喜ばれると思います。
パソナの原型。😰
いつの時代も人材会社は儲かりますよね。ただ、当時は人夫管理はトラブルだらけで、必要悪だったかもですね。
北海道の炭鉱夫のほうが、全然マシっぽそう。環境が
宮若のトヨタ工場では今も派遣バイトが同じように売店で絞り取られてる。
腕に着けたリングでなんでも買い物出来て天引きだから、食い詰めカイジみたいな現実をみて、こんなところに永くいては駄目だと思いました。
寿命も短い❗じん肺が酷かった蓮
炭坑節 どこから田川の話が大牟田 三池炭坑の話しになったのですかねえ?
戦後、三池の労働幹部が東京で呑み明かして、広めたと聞いています。オリジナルの歌詞は三池炭坑ではなく、三井炭坑?
民謡は口頭伝承による傾向が強いので、発祥地や唄い手の正確性にイマイチ欠ける傾向がありますが、炭坑節は田川が発祥でよいかと思います😀
違うチャンネル配信様の説明では三橋美智也氏がレコード発売時、三井だと企業名だから三池したとかそんな様な説明でした
普通にプロの仕事。。。
炭鉱はリアルなカイジの世界。資本家と労働者の世界。現代人では想像もできないことです。しかし、古代に目を向けて
筑豊にこそ、天皇陛下はおられたのだから、田川は鷹羽にもどして、英彦山を中心に、筑豊の歴史をとりもどすことです。
いつの時代にも人の上に立って生き延びる奴はいるんだね
どんな死に方を、したのか見てみたい
勉強になりました。
デカンショ節の『デカンショ!デカンショ!で半年暮らす♪』というフレーズもその実、本当の本当は、朝鮮人に炭鉱で穴を掘らせておけば、半年は遊んで暮らせるという意味だと阪大在学中に教授から聞いたことがあります。本当に多くの方々の犠牲があって現在があるんですよね。ありがとうございました。
炭鉱労働者は朝鮮人ばかりじゃありませんよね