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作者様がこんな分かりやすい解説動画を出してるとは思わなかったw
なんか「本当の自分」について悩んでたからこの本読んでちょっと楽になった。
いろんな人がいるんだなあとコメントとか見てると感じる。むしろ、私は分人っぽく小さい頃から無意識に生きてきてきてるから、枠にはめてくれる言葉がある発見の喜びがあるけど、みんなこんなもんだと思ってた。全然そうじゃない人がいてびっくりした。言葉で箱を作ってくれたことで可視化できますね
無意識にそうやって生きて来た中で核となる弱く小さな自分が本物だと思っていました。大変楽になりました。面白いです☆ありがとうございました。
「本当の自分」幻想 高1現代の国語でやりました!
他者を介しての自己肯定、なるほど!
本を読んで、分人という考え方を気に入っています。周りの人に分人について話すこともあるのですが、今後はこの動画も紹介したいなと。さらに理解の深まるわかりやすい動画でした!
ほんとーにわかりやすいです!全教科こんな感じに解説してほしい!
分人という考え方は"ドラマツルギー"と似ているなと感じたのですが、寧ろ少し違っていますね。ドラマツルギーの場合は、様々な仮面を使い分けることで自らを演じており、そこには軸となる自己がありますが、分人主義の場合は、あくまで他者との関わり合いの中に自己を見出しているのであって、他者とは不可分であるということですね。
たまたまこの動画を見ることになったのですがとても感銘を受けました。新しい友達を作る気がなかったのですが、出会いを増やしてみようかとふと思いました
わかりやす!なにこれ
自分の捉え方は様々あるけど、結局それを受け入れられるかどうか、つまり自己受容が一番大切な気がする。
本を読んで生きやすくなった。
文人は、本当の自分は認めない、文人化の新しい人生が良いです❤
漱石の「個人主義」と「則天去私」を検索したらなぜかこの動画が出てきました。かろうじてSEで食べていますが、1つの情報システムが接続システムやユーザごとに電文やGUI等個別のIF仕様や権限で異なる挙動をするのに似ている気がします。ワンネスと分け御霊のようなスピリチュアルとのつながりも感じました。
分人全体を客観的に眺め、それらを分析する主体は誰なのでしょうか?分析の結果、ある分人を好ましいと思う主体は誰なのでしょうか?少なくとも分人全体に何らかの共通した人格がないと、動画のような考察は成立しない気がします。(動画で描いている視点はどれか特定の分人のものではないはずです)そしておぼろげにでも共通性があるなら、それを「本当の私」と呼んでもよいと思います。ただこの意味での「本当の私」は対人的には意味を持たないので、よりよく生きるための思想としての分人主義には取るに足らないと思います。哲学的には意味があると思います。
私も同意します。そもそも、人の条件として、それは自分であるか自分でないかの二通りなので、ある状態(自分の中心)を考えつつ、それを持たない、という仮定に対する否定を定義に加えるということは、起こりもしないことにそれが起こったならこう対処すると言うことを常に行動しているというくらい、無理のある状態ではないかと思います。また、自分の中心がないなら、そこに関しては定義も存在しないはずです。明らかにあるものを否定することを条件に加えています。また、中心と周辺の関係は円の中心と円周の関係と同じで、中心があってこその円周の出現の関係です。すると分人主義は、2,3,4を肯定しつつ、1を否定する、という本末転倒の矛盾を孕んでいないでしょうか?
これ国語でやってわけわからんかったからたすかったわ
他者を介していない分人が好きなのですが、どうしたら良いでしょうか?
「個人から分人へ」というとアンチ個人主義にも聞こえるが、分人にとっての愛が「他者を通した自己肯定」で、この人にとって他者がどうかという問題はそれに対する自己がどうなのかって問題にすりかわっちゃうわけだから、むしろスーパー個人主義じゃね?と思う。個人主義社会に適応してる考え方だからこれからそういう人はますます増えるんだろうけど、それは単に器用なやつがますます得をするだけであって、真面目で不器用なやつほど割を食うシステムをわざわざ「主義」という名前をつけて推進するという自覚があってやってるかはこの人の小説読んだ記憶がないから知らん。
集団主義と個人主義なら、国家の利益と個人の人権のいずれを優先するか等、どちらの立場をとるかなど政治思想において差がでる。個人主義と分人主義も内面的な話だけでなく、「主義」である以上は政治思想として違いが現れて良いと思う。たとえば、「不貞行為という私生活上のトラブルによって政治を左右するのは個人主義的であり分人主義に反する」のように。声優の裏名義とかも「別名義や建前上別人でも兼業は認めない」や「同じ名義を使わせないこと自体が差別」はいずれも個人主義的だけど、「別名義や建前上別人での兼業を認めれば差別ではない」は分人主義的。
国語の授業でやりました
鈴木健の分人民主主義とは名称が似てるだけで全然違う概念?
なるほど。わからん。
面白いですね。極めて曖昧な、日本的見方です。が、「分人」化したあと、さらに、自身を否定することで、わたし、になるのでは。つまり、完全な無化。よって、わたしはわたしでないことで、わたし、になることが出来ますから、非在としての中心は、ある、と考えます。つまり、それが、敢えて言えば本来的アイデンティティではないでしょうか。
🤔💙🌱
結果的にそうなっているような気もしますけど、いちいちそのようなこと考えて他人とつきあったり、他人とつきあった後でいちいちそのようなこと考えるような生き方は、ちょっと疲れそうで、ノイローゼになりそうで、もう少しカンタンにならないですかね?(;^ω^)というか、キャラの分裂を連想させる分人ではなくて、やっぱり本当の自分というのがあって、それぞれの場面場面で、自分の多様性で柔軟に対応していく的な考えではやっていけないんですか?
すみません私がコメントを読んで感じたことなんですがnaru様が本当の自分を中心に臨機応変に対応していることに違和感がないのであればそれでいいのではと思います。分人の考え方はその臨機応変に対応している自分と本当の自分の乖離が苦しみや悩みの原因になっている人に有用な考え方だと認識しています。私は臨機応変に対応している人格が偽りの人格で、偽っている自分が納得できないとか、「本当の自分」を表現できていないことが人に嘘をついているようで嫌だとかそういった悩みがあったので分人の考え方はとても有用でした。逆にnaru様が分人の考え方が悩みの種になってしまうようであれば無理に取り入れようとしなくてもいいのかなと思いました!
横から失礼しますが、それだと分人主義はある種の心の障害の治療概念ということになり人間学ではなく精神の治療学で医学理論というようなことになりそうですが。
いわゆる正規?の精神状態と、そうでない精神状態があり、その後者の状態を説明するのが分人主義、というような。
@@KHpaku やさしいコメントありがとうございます。KHpakuさんの「臨機応変に対応している人格が偽りの人格で」というのは言い過ぎというか言葉が乱暴だと思いました。臨機応変のすべてが偽りなのでしょうか?そんなことはないと思います。要するに「人に嘘をついている自分」が嫌なのであって、そうであれば「なるべく」(←コレが重要!!)「人に嘘をつかない」ようにすることが大切な気がします。「人に嘘をついている」分人はいつまでも好きになれないと思いますし、その分人はいつまでもつらいと思いますがそれはどうするのですか?無視ですか?相手もどんどん勘違いしていくと思いますけど、分人がしてることと割り切れるのでしょうか?まあ、口で言うほど簡単じゃないとは思いますが、私の場合は、「嘘を求められている」と感じた時は、なるべく席をはずしたり、当たり障りのない言動でお茶を濁したりして、「なるべく」「人に嘘をつかない」ようにしています。もちろん、場合によってはうまくいかないこともありますが、まあ、後々、ゆっくりと修正していくように、嘘を重ねないようにしたいと思っています。うまくいかなくったって、半分は相手の責任と割り切ってもいいと思います。最近、ジャニーズ問題でとばっちりを受けている山下達郎モンダイで、親友が「達郎があんなヤツだったとは思わなかった」「ひどいよね」「もう達郎は聴かない」と言ってくることがありましたが、達郎が大好きな私は「そうだよね」とは「なるべく」言わないようにしました。「まあね、でも今疑惑を持たれてるのはジャニーさんだよね。真実がどうだったのか、どこにどんなモンダイがあったのか、もう少し明らかになってからじゃないと何とも言えないな」「達郎だって性加害があったとすれば、問題外だと言ってるわけで」とか言って安易に同調することは避けます。別にジャニーさんや達郎の件で意見が違おうが、親友は親友ですもんね。これでこじれたら、ほとぼりが冷めるまでちょっと距離を置いとこうと思います。KHpakuさんが言ってくれたように、こういうつきあい方というか生き方に分人は必要ないのかもしれません。要は自分を生きやすくすることが大切ですので、なるべくシンプルなのがいいと思うのです。まあ、私の考え方ではありますが・・・\(^o^)/
行きずらい…
一歩浅いか。まぁこんな当たり前なことを分人主義と名付けて自分の手柄のように気取らなくていいんじゃないか、なんだか特別に聞こえる。でもそのやり方で物事を発表するのが楽しんだろうかな。ま批判すると俺が身動き取れなくなっちゃうのか、やめよう。まぁ、一つの単語に収めちゃうと特別で信仰するようで日本人は嫌う気がしてね。常識に落とし込みたいような優しい口調で解説してるんならそれは合わないと思った。自己と社会的な関わり合いについて話してる一つの動画だね。
思いつきで言えば個人主義とか類人主義とか、新しくいろんな主義を立てて何を信仰してるのか選べるわけで、主義にした時点で対立を生むことになるだろうし。無意識的に暮らしの中でみんなが感じてるものを掘り出して自分が名前をつけた。分人主義を使うにしても平野啓一郎から何かを学びたい人からすれば参考になるだろうけれども、社会的に一般化するとしたらその単語を出したらゾッとされるだろうね。「人間関係の中に本当の自分を見出す」とどの入り口からみてどの結論に行き着くのか思考体系の型が決められてしまっているのは少し危険なところで、人が何かを気づき得る思考体系を教える側が染めちゃってることでもあるからねそこら辺をちゃんと説明して初めて扱えるものですかね。
作者様がこんな分かりやすい解説動画を出してるとは思わなかったw
なんか「本当の自分」について悩んでたからこの本読んでちょっと楽になった。
いろんな人がいるんだなあとコメントとか見てると感じる。
むしろ、私は分人っぽく小さい頃から無意識に生きてきてきてるから、枠にはめてくれる言葉がある発見の喜びがあるけど、みんなこんなもんだと思ってた。
全然そうじゃない人がいてびっくりした。
言葉で箱を作ってくれたことで可視化できますね
無意識にそうやって生きて来た中で
核となる弱く小さな自分が本物だと思っていました。大変楽になりました。
面白いです☆ありがとうございました。
「本当の自分」幻想 高1現代の国語でやりました!
他者を介しての自己肯定、なるほど!
本を読んで、分人という考え方を気に入っています。周りの人に分人について話すこともあるのですが、今後はこの動画も紹介したいなと。さらに理解の深まるわかりやすい動画でした!
ほんとーにわかりやすいです!全教科こんな感じに解説してほしい!
分人という考え方は"ドラマツルギー"と似ているなと感じたのですが、寧ろ少し違っていますね。
ドラマツルギーの場合は、様々な仮面を使い分けることで自らを演じており、そこには軸となる自己がありますが、
分人主義の場合は、あくまで他者との関わり合いの中に自己を見出しているのであって、他者とは不可分であるということですね。
たまたまこの動画を見ることになったのですがとても感銘を受けました。
新しい友達を作る気がなかったのですが、出会いを増やしてみようかとふと思いました
わかりやす!なにこれ
自分の捉え方は様々あるけど、結局それを受け入れられるかどうか、つまり自己受容が一番大切な気がする。
本を読んで生きやすくなった。
文人は、本当の自分は認めない、文人化の新しい人生が良いです❤
漱石の「個人主義」と「則天去私」を検索したらなぜかこの動画が出てきました。
かろうじてSEで食べていますが、1つの情報システムが接続システムやユーザごとに電文やGUI等個別のIF仕様や権限で異なる挙動をするのに似ている気がします。
ワンネスと分け御霊のようなスピリチュアルとのつながりも感じました。
分人全体を客観的に眺め、それらを分析する主体は誰なのでしょうか?
分析の結果、ある分人を好ましいと思う主体は誰なのでしょうか?
少なくとも分人全体に何らかの共通した人格がないと、動画のような考察は成立しない気がします。
(動画で描いている視点はどれか特定の分人のものではないはずです)
そしておぼろげにでも共通性があるなら、それを「本当の私」と呼んでもよいと思います。
ただこの意味での「本当の私」は対人的には意味を持たないので、よりよく生きるための思想としての分人主義には取るに足らないと思います。
哲学的には意味があると思います。
私も同意します。
そもそも、人の条件として、それは自分であるか自分でないかの二通りなので、ある状態(自分の中心)を考えつつ、それを持たない、という仮定に対する否定を定義に加えるということは、起こりもしないことにそれが起こったならこう対処すると言うことを常に行動しているというくらい、無理のある状態ではないかと思います。
また、自分の中心がないなら、そこに関しては定義も存在しないはずです。明らかにあるものを否定することを条件に加えています。
また、中心と周辺の関係は円の中心と円周の関係と同じで、中心があってこその円周の出現の関係です。すると分人主義は、2,3,4を肯定しつつ、1を否定する、という本末転倒の矛盾を孕んでいないでしょうか?
これ国語でやってわけわからんかったからたすかったわ
他者を介していない分人が好きなのですが、どうしたら良いでしょうか?
「個人から分人へ」というとアンチ個人主義にも聞こえるが、分人にとっての愛が「他者を通した自己肯定」で、この人にとって他者がどうかという問題はそれに対する自己がどうなのかって問題にすりかわっちゃうわけだから、むしろスーパー個人主義じゃね?と思う。
個人主義社会に適応してる考え方だからこれからそういう人はますます増えるんだろうけど、それは単に器用なやつがますます得をするだけであって、真面目で不器用なやつほど割を食うシステムをわざわざ「主義」という名前をつけて推進するという自覚があってやってるかはこの人の小説読んだ記憶がないから知らん。
集団主義と個人主義なら、国家の利益と個人の人権のいずれを優先するか等、どちらの立場をとるかなど政治思想において差がでる。個人主義と分人主義も内面的な話だけでなく、「主義」である以上は政治思想として違いが現れて良いと思う。
たとえば、「不貞行為という私生活上のトラブルによって政治を左右するのは個人主義的であり分人主義に反する」のように。
声優の裏名義とかも「別名義や建前上別人でも兼業は認めない」や「同じ名義を使わせないこと自体が差別」はいずれも個人主義的だけど、「別名義や建前上別人での兼業を認めれば差別ではない」は分人主義的。
国語の授業でやりました
鈴木健の分人民主主義とは名称が似てるだけで全然違う概念?
なるほど。わからん。
面白いですね。極めて曖昧な、日本的見方です。が、「分人」化したあと、さらに、自身を否定することで、わたし、になるのでは。つまり、完全な無化。
よって、わたしはわたしでないことで、わたし、になることが出来ますから、非在としての中心は、ある、と考えます。つまり、それが、敢えて言えば本来的アイデンティティではないでしょうか。
🤔💙🌱
結果的にそうなっているような気もしますけど、いちいちそのようなこと考えて他人とつきあったり、他人とつきあった後でいちいちそのようなこと考えるような生き方は、ちょっと疲れそうで、ノイローゼになりそうで、もう少しカンタンにならないですかね?(;^ω^)
というか、キャラの分裂を連想させる分人ではなくて、やっぱり本当の自分というのがあって、それぞれの場面場面で、自分の多様性で柔軟に対応していく的な考えではやっていけないんですか?
すみません私がコメントを読んで感じたことなんですが
naru様が本当の自分を中心に臨機応変に対応していることに違和感がないのであればそれでいいのではと思います。
分人の考え方はその臨機応変に対応している自分と本当の自分の乖離が苦しみや悩みの原因になっている人に有用な考え方だと認識しています。
私は臨機応変に対応している人格が偽りの人格で、偽っている自分が納得できないとか、「本当の自分」を表現できていないことが人に嘘をついているようで嫌だとかそういった悩みがあったので分人の考え方はとても有用でした。
逆にnaru様が分人の考え方が悩みの種になってしまうようであれば無理に取り入れようとしなくてもいいのかなと思いました!
横から失礼しますが、それだと分人主義はある種の心の障害の治療概念ということになり人間学ではなく精神の治療学で医学理論というようなことになりそうですが。
いわゆる正規?の精神状態と、そうでない精神状態があり、その後者の状態を説明するのが分人主義、というような。
@@KHpaku やさしいコメントありがとうございます。
KHpakuさんの「臨機応変に対応している人格が偽りの人格で」というのは言い過ぎというか言葉が乱暴だと思いました。臨機応変のすべてが偽りなのでしょうか?そんなことはないと思います。
要するに「人に嘘をついている自分」が嫌なのであって、そうであれば「なるべく」(←コレが重要!!)「人に嘘をつかない」ようにすることが大切な気がします。
「人に嘘をついている」分人はいつまでも好きになれないと思いますし、その分人はいつまでもつらいと思いますがそれはどうするのですか?無視ですか?相手もどんどん勘違いしていくと思いますけど、分人がしてることと割り切れるのでしょうか?
まあ、口で言うほど簡単じゃないとは思いますが、私の場合は、「嘘を求められている」と感じた時は、なるべく席をはずしたり、当たり障りのない言動でお茶を濁したりして、「なるべく」「人に嘘をつかない」ようにしています。
もちろん、場合によってはうまくいかないこともありますが、まあ、後々、ゆっくりと修正していくように、嘘を重ねないようにしたいと思っています。
うまくいかなくったって、半分は相手の責任と割り切ってもいいと思います。
最近、ジャニーズ問題でとばっちりを受けている山下達郎モンダイで、親友が「達郎があんなヤツだったとは思わなかった」「ひどいよね」「もう達郎は聴かない」と言ってくることがありましたが、達郎が大好きな私は「そうだよね」とは「なるべく」言わないようにしました。「まあね、でも今疑惑を持たれてるのはジャニーさんだよね。真実がどうだったのか、どこにどんなモンダイがあったのか、もう少し明らかになってからじゃないと何とも言えないな」「達郎だって性加害があったとすれば、問題外だと言ってるわけで」とか言って安易に同調することは避けます。別にジャニーさんや達郎の件で意見が違おうが、親友は親友ですもんね。これでこじれたら、ほとぼりが冷めるまでちょっと距離を置いとこうと思います。
KHpakuさんが言ってくれたように、こういうつきあい方というか生き方に分人は必要ないのかもしれません。
要は自分を生きやすくすることが大切ですので、なるべくシンプルなのがいいと思うのです。
まあ、私の考え方ではありますが・・・\(^o^)/
行きずらい…
一歩浅いか。まぁこんな当たり前なことを分人主義と名付けて自分の手柄のように気取らなくていいんじゃないか、なんだか特別に聞こえる。でもそのやり方で物事を発表するのが楽しんだろうかな。
ま批判すると俺が身動き取れなくなっちゃうのか、やめよう。まぁ、一つの単語に収めちゃうと特別で信仰するようで日本人は嫌う気がしてね。常識に落とし込みたいような優しい口調で解説してるんならそれは合わないと思った。自己と社会的な関わり合いについて話してる一つの動画だね。
思いつきで言えば個人主義とか類人主義とか、新しくいろんな主義を立てて何を信仰してるのか選べるわけで、主義にした時点で対立を生むことになるだろうし。
無意識的に暮らしの中でみんなが感じてるものを掘り出して自分が名前をつけた。
分人主義を使うにしても平野啓一郎から何かを学びたい人からすれば参考になるだろうけれども、社会的に一般化するとしたらその単語を出したらゾッとされるだろうね。
「人間関係の中に本当の自分を見出す」とどの入り口からみてどの結論に行き着くのか思考体系の型が決められてしまっているのは少し危険なところで、人が何かを気づき得る思考体系を教える側が染めちゃってることでもあるからね
そこら辺をちゃんと説明して初めて扱えるものですかね。