第367回「観音さまとは?」2022/1/8【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

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  • Опубликовано: 25 дек 2024
  • 本日の管長日記は、「観音さまとは?」です。
    最後に一日のはじまりを整える、呼吸瞑想がございます。
    本日もよろしくお願いいたします。
     
     
    ■管長日記「観音さまとは?」
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    観音さまのような人だという言葉を用いることがあります。
    或いは、まるで菩薩のような人だという言葉を用いることもあります。
    いずれにしても、やさしく思いやりの深い、私利私欲の全く無い人のことを言うのでありましょう。
    もともと仏教には、仏さまといえば、お釈迦さまお一人でありました。
    そして菩薩というのは、仏陀になる前のお釈迦さまのことを言うものでありました。
    菩薩というのは、菩提を求める者というのが本来の意味であります。
    悟りを求めて修行していたお釈迦さまを指した言葉でありました。
    そこから、更に仏教が発展していって、悟りを開いて更に人々を救おうとされる仏を菩薩と呼ぶようになっていったのでした。
    仏さまといっても大乗仏教になると、阿弥陀如来、薬師如来、大日如来とさまざまな仏さまが登場するようになります。
    菩薩も、観世音菩薩、地蔵菩薩、勢至菩薩などたくさんの菩薩方が現れるようになります。
    松原泰道先生は、「釈迦以外の仏菩薩は、釈迦の悟りの内容と修行の様子を表したもの」だと分かりやすく教えてくださっています。
    観音さまというのはどういう菩薩でありましょうか。
    大乗仏教に現れる様々な菩薩の中でもとても人気のある菩薩であります。
    日本においても、浅草の観音さま、清水の観音さまというと、大勢の方がお参りにいっています。
    観世音菩薩というのは、『観音経』に、
    「無量百千万億の人々がどのような苦悩を受けていても、もし観世音菩薩の名を聞いて一心に称えるならば、菩薩はただちに、その声を観じて苦しみから解き放ちます。
    「南無観世音菩薩」の名号を通して祈るならば、菩薩の威神力によって、たとえ大火のなかにあっても焼かれることなく救いだされます。川で大水に流されるようなときでも、浅瀬にたどりつくでしょう」
    と説かれています。
    五世紀のはじめ頃にインドを訪れた僧に法顕という人がいます。
    その法顕の書いた『法顕伝』には「摩訶衍の人は、般若波羅蜜、文殊師利、香世音等を供養する」と書かれています。
    また法顕が、海路より帰国する時には、暴風暴雨にあったのですが、商人たちがみな恐れおののいているなかを、法顕のみ一人一心に観世音菩薩を念じていて、その難を免れたというのです。
    大乗仏教の早い頃から、観音さまが信仰されて、中国へも伝わっていたと推察されます。
    『観音経』で説かれる観世音菩薩も『般若心経』に出てくる観自在菩薩も、その原語は同じであります。
    一般に鳩摩羅什の旧訳が「観世音菩薩」で、玄奘三蔵の新訳が「観自在菩薩」であると言われています。
    観世音というのは、救いを求める世の人々の声を観察して、救済するという意味であります。
    観自在というのは、その観察することが自在であることを表しています。
    「観世音」「観自在」いずれにしても「観」という字がついていて、それは観察するということです。
    この観察こそが観音の本質です。なにをどう観察するのでしょうか。
    お釈迦さまが悟りを開いたあと、しばらく説法をするのためらわれていた時がありました。それを梵天が勧請して説法を始められたのでした。
    その時に、お釈迦さまは「梵天王の勧請を知りて、衆生に対する哀憐の心を生じ、覚者の眼をもって、世間を眺めたもうた。そこには、塵垢おおい者もあり、塵垢すくない者もあった。」(増谷文雄『阿含経典による仏教の根本聖典』大蔵出版)とありますように、慈悲の眼でこの世に生きる人々を御覧になったのでした。
    この観察こそが観世音の観察の原型であると考察されたのが渡辺章悟先生であります。(渡辺章悟『般若心経 テクスト・思想・文化』大法輪閣)
    まさしく炯眼であります。この慈悲のまなざしを更に具現化したのが観音さまにほかなりません。
    だとすれば、まさに松原泰道先生がお示しのように、観音さまはお釈迦さまの慈悲の心を表したものにほかなりません。
    そして更に大乗仏教では、その慈悲の心を人は皆誰しも具えているのだと説くのであります。
    そこで釈宗演老師は『観音経講話』のなかで、
    「私自身が観世音菩薩の現われである。」
    と説かれているのです。
    何も宗演老師のような特別な方だけではありません。
    宗演老師は、「我々は人間であって、観音の現われではない、とこう思う人もあるかもしれない。しかし、私に云わせると、どうしても我々は観世音菩薩の現われであると、明らかに云い得ると思う。」
    と説かれいています。
    それはどういうことかというと、
    「やはり我々は、もとより生まれながらにして大慈悲心をもっているのである」
    と示して下さっています。
    この慈悲の心が観音さまの心であります。
    観自在菩薩が登場する般若心経で、説かれる空にしても、単なるゼロや無ではありません。
    自我中心の物の見方、自己中心の欲望を否定して、本来持って生まれた慈悲の心に目覚めるのであります。
    一人一人の仏心、慈悲心こそが観音さまです。
    そして銘々一人一人が観音さまであったと気がつくことが、観音さまを信仰する一番の功徳であります。
     
     
    横田南嶺
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