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伊那佐山、ありがとうございます♪ここが本来の【国譲り】でしょうね、第一次物部東征時にウマシマジ(神武)軍が通ったとき、大田田根子の先導により、この地に住んでいた井光の子孫たち(吉野の丹生族)が恭順の意を示したということでしょう。初代大王の妃【井光】を出した人たちであり、勿論、磯城王朝の元で暮らしていた部族です。この【伊那佐山】の【イナサ】が国譲りのタケミカヅチの言葉【否(いな)?然(さ)?】に使われ、出雲の【稲佐浜】の名やタケヒナドリの別名【イナセハギ】になっただろうと思います。こちらの伊那佐山の方が先であろうと思うのは、本当は【稲佐浜】では国譲りは行われていないからです。タケミカヅチが剣を逆さまにしてその上に座るというのも突拍子もない話ですが、それよりも何よりも、出雲王国は大国主や事代主の時代より更に400年近く続いており、全く国は譲っていないからです。あのお話はヤマト政権が出来るきっかけを説明しているものであり、とても重要なシーンです。なので、敢えて創作して、その裏にある意味を残したのです。それに【国譲り】を本当に迫られた宇陀の人たちのこの地域の神名備の名を重ねてあると思います。八咫烏神社の場所では、伊那佐山を神名備山として、春分秋分の日にはそこから昇る太陽を拝し、大祭が行われていただろうと推測できます。少なくとも磯城王朝時代は決定的ですが、それ以前、縄文時代も行われていた可能性があります。第二次東征以降も、三輪山から伊勢までの倭姫の巡幸ルート上にこの地域が入りますが、その時も神名備は伊那佐山だったかも知れないですね。
伊那佐山は登って見るといろいろ納得できる感じです途中に大きな池が二つありました勿論多少は人工的に手は加えてると思いますが元からの池の基はあった感じですどこの山からの伏流水かは分かりませんが水は重要だっただろうと思いますあと、いまだに熊野に回った意味が消化出来てなく、更に北山川経由も怪しいし宇陀から井光に引き返したのではなく、宇陀から何かの理由で井光にわざわざ行った理由は水銀に絡む事だったのでは無いかと思いますどうも、そう考えると物部勢には余裕があったのでは無いかとも思えるし熊野まで迎えには行って無い様に思いますし元々熊野には徐福系の先住民が居たのでは無いかとかそんな気もしています何れにしてもあの辺り結構気に入ってます見落としてる所も有りますので近々また行こうと思っています
@@kanji-kun1280さま安曇族や熊襲などが黒潮に乗って、この辺りにも来ていたでしょうね。徐福族となると、紀元前3世紀以降ですが、徐福の足となった海人族は、既にこの地にいたかも知れません。井光は当然、水銀朱を採集流通させていた部族であろうと思います。大田田根子が物部との中に立って、仲介をしたために受け入れたのではと感じます。紀伊半島の水資源ですが、【大台ケ原】が全国でも有数の雨量が多い地域だそうです。紀伊半島の甕壺です。
【登美家の系図】富士林さんの本からですね。この【建津乃身】のカッコ内にもう一つ【大賀茂津身】とあるはずです。この人、超重要人物です。わたしは富士林さんのこの部分にはちょっと異論があるのですね。何故なら、第二次東征時の登美家の当主がこの【大賀茂津身】なのです。富士林さんの図ですと、大田田根子と同年代に見えますね。ですが、どう考えても、大田田根子→第一次東征大賀茂津身→第二次東征です。ここで三輪高宮家の系図を見てみます。天日方奇日方命 |飯肩巣見命 |建甕尻命 |豊御氣主命 |大御氣主命 |阿田賀田須命→宗像へ建飯賀田須命 |大田田根子命💜 |大御氣持命 |大鴨積命❤️→(鴨君・賀茂朝臣祖)大部主命 |大友主命💛→(神君・大神朝臣祖)という具合に繋がります。💜大田田根子の孫の代が❤大鴨積です。これですと、時代的にはぴったりです。第二次東征時には登美家は三輪山を追い出され、山城国へ避難します。ですが、その一部がもう一度三輪山を奪還するのです。大部主→大友主💛と続く血統がヤマトに戻り、大物主神を祀り、三輪山祭祀を続けてゆく家系です。一方、大賀茂津身は【山城国】の方へ拠点を移し、この家系が後に平安遷都を画策し、実行するのです。賀茂神社の社家になる人たちですね。ですので、第二次東征時に2つの血統に分かれるのです。平安遷都にあたって、三輪山伝説は丹塗矢伝説としてリニューアルされて賀茂神社の御由緒となります。三輪山伝説は玉依姫が初代皇后タタラ五十鈴姫を大物主神との間にもうける話です。丹塗矢伝説は玉依姫が別雷命を火雷大神との間にもうけます。この別雷命がクシヒカタにあたります。賀茂神社の御由緒では、玉依姫の父が【賀茂建角身】となっています。この場合、【三島溝杭耳】のことですね。ですので、【賀茂建角身】=【八咫烏】とは①三島溝杭耳②大田田根子③大賀茂津身の3人が重なっていると思います。①は村雲の時代の建角身 ヤマト政権創設を導きます。 玉依姫を生んだという意味で。②は第一次東征時の建角身 神武天皇を導きます。③は第二次東征時の建角身 都を山城国(平安京)へ導きます。 賀茂氏の祖です。神武天皇が何人も重なっているように建角身も複数いるというのが個人的な考えです。
確かに、ご説明のご考察を理解するには少し時間が必要ですが建角身が何人もいると言うのは、私もそうでは無いかと思います又、ツノミとフツノミタマが最初から引っかかってて何処かでモヤってますそれにしてもいろいろありがとうございます勉強になります
創作物語に基づき創建された神社及び祭神、物部一次・二次東征に因む架空の天皇など、芋掘りにはロマン溢れますが、真実の歴史探求に期待しています。
芋掘りにそれ程ロマンは感じませんが、歴史考察はロマンだと思っています歴史は人間の歴史ですので過去の真実は永遠に分かる事は無いとも思っています意味の無い事の意味? 禅問答の様ですが最近そんな事も有りかと思ったりもしていますコメントありがとうございました
伊那佐山、ありがとうございます♪
ここが本来の【国譲り】でしょうね、
第一次物部東征時に
ウマシマジ(神武)軍が通ったとき、
大田田根子の先導により、
この地に住んでいた
井光の子孫たち
(吉野の丹生族)が
恭順の意を示したということでしょう。
初代大王の妃【井光】を出した
人たちであり、
勿論、磯城王朝の元で
暮らしていた部族です。
この【伊那佐山】の【イナサ】が
国譲りのタケミカヅチの言葉
【否(いな)?然(さ)?】
に使われ、
出雲の【稲佐浜】の名や
タケヒナドリの別名
【イナセハギ】に
なっただろうと思います。
こちらの伊那佐山の方が
先であろうと思うのは、
本当は【稲佐浜】では
国譲りは行われていないからです。
タケミカヅチが
剣を逆さまにして
その上に座るというのも
突拍子もない話ですが、
それよりも何よりも、
出雲王国は
大国主や事代主の時代より
更に400年近く続いており、
全く国は譲っていないからです。
あのお話は
ヤマト政権が出来るきっかけを
説明しているものであり、
とても重要なシーンです。
なので、敢えて創作して、
その裏にある意味を残したのです。
それに【国譲り】を
本当に迫られた宇陀の人たちの
この地域の神名備の名を
重ねてあると思います。
八咫烏神社の場所では、
伊那佐山を神名備山として、
春分秋分の日には
そこから昇る太陽を拝し、
大祭が行われていただろうと
推測できます。
少なくとも磯城王朝時代は
決定的ですが、
それ以前、縄文時代も
行われていた可能性があります。
第二次東征以降も、
三輪山から伊勢までの
倭姫の巡幸ルート上に
この地域が入りますが、
その時も神名備は伊那佐山だったかも
知れないですね。
伊那佐山は登って見るといろいろ納得できる感じです
途中に大きな池が二つありました
勿論多少は人工的に手は加えてると思いますが元からの池の基はあった感じです
どこの山からの伏流水かは分かりませんが
水は重要だっただろうと思います
あと、いまだに熊野に回った意味が消化出来てなく、更に北山川経由も怪しいし
宇陀から井光に引き返したのではなく、宇陀から何かの理由で井光にわざわざ行った
理由は水銀に絡む事だったのでは無いかと思います
どうも、そう考えると物部勢には余裕があったのでは無いかとも思えるし
熊野まで迎えには行って無い様に思いますし
元々熊野には徐福系の先住民が居たのでは無いかとか
そんな気もしています
何れにしてもあの辺り結構気に入ってます
見落としてる所も有りますので近々また行こうと思っています
@@kanji-kun1280さま
安曇族や熊襲などが
黒潮に乗って、
この辺りにも来ていたでしょうね。
徐福族となると、
紀元前3世紀以降ですが、
徐福の足となった海人族は、
既にこの地にいたかも知れません。
井光は当然、水銀朱を
採集流通させていた部族であろうと
思います。
大田田根子が物部との中に立って、
仲介をしたために
受け入れたのではと感じます。
紀伊半島の水資源ですが、
【大台ケ原】が
全国でも有数の
雨量が多い地域だそうです。
紀伊半島の甕壺です。
【登美家の系図】
富士林さんの本からですね。
この【建津乃身】のカッコ内に
もう一つ【大賀茂津身】と
あるはずです。
この人、
超重要人物です。
わたしは富士林さんの
この部分には
ちょっと異論があるのですね。
何故なら、
第二次東征時の登美家の当主が
この【大賀茂津身】なのです。
富士林さんの図ですと、
大田田根子と同年代に見えますね。
ですが、どう考えても、
大田田根子→第一次東征
大賀茂津身→第二次東征
です。
ここで三輪高宮家の系図を
見てみます。
天日方奇日方命
|
飯肩巣見命
|
建甕尻命
|
豊御氣主命
|
大御氣主命
|
阿田賀田須命→宗像へ
建飯賀田須命
|
大田田根子命💜
|
大御氣持命
|
大鴨積命❤️→(鴨君・賀茂朝臣祖)
大部主命
|
大友主命💛→(神君・大神朝臣祖)
という具合に繋がります。
💜大田田根子の孫の代が
❤大鴨積です。
これですと、
時代的にはぴったりです。
第二次東征時には
登美家は三輪山を追い出され、
山城国へ避難します。
ですが、
その一部がもう一度
三輪山を奪還するのです。
大部主→大友主💛
と続く血統が
ヤマトに戻り、
大物主神を祀り、
三輪山祭祀を続けてゆく家系です。
一方、大賀茂津身は
【山城国】の方へ拠点を移し、
この家系が後に
平安遷都を画策し、実行するのです。
賀茂神社の社家になる人たちですね。
ですので、
第二次東征時に
2つの血統に分かれるのです。
平安遷都にあたって、
三輪山伝説は
丹塗矢伝説として
リニューアルされて
賀茂神社の御由緒となります。
三輪山伝説は
玉依姫が初代皇后タタラ五十鈴姫を
大物主神との間にもうける話です。
丹塗矢伝説は
玉依姫が別雷命を
火雷大神との間に
もうけます。
この別雷命がクシヒカタにあたります。
賀茂神社の御由緒では、
玉依姫の父が
【賀茂建角身】となっています。
この場合、
【三島溝杭耳】のことですね。
ですので、
【賀茂建角身】=【八咫烏】とは
①三島溝杭耳
②大田田根子
③大賀茂津身
の3人が重なっていると思います。
①は村雲の時代の建角身
ヤマト政権創設を導きます。
玉依姫を生んだという意味で。
②は第一次東征時の建角身
神武天皇を導きます。
③は第二次東征時の建角身
都を山城国(平安京)へ導きます。
賀茂氏の祖です。
神武天皇が何人も重なっているように
建角身も複数いるというのが
個人的な考えです。
確かに、ご説明のご考察を理解するには少し時間が必要ですが
建角身が何人もいると言うのは、私もそうでは無いかと思います
又、ツノミとフツノミタマが最初から引っかかってて何処かでモヤってます
それにしてもいろいろありがとうございます
勉強になります
創作物語に基づき創建された神社及び祭神、物部一次・二次東征に因む架空の天皇など、芋掘りにはロマン溢れますが、真実の歴史探求に期待しています。
芋掘りにそれ程ロマンは感じませんが、歴史考察はロマンだと思っています
歴史は人間の歴史ですので過去の真実は永遠に分かる事は無いとも思っています
意味の無い事の意味? 禅問答の様ですが最近そんな事も有りかと
思ったりもしています
コメントありがとうございました