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オルガンチーノ一行の30人余は湖上から坂本城へ赴いているw これは信者の中に光秀の小姓の叔父が居たことから庇護を得るべくその伝手を頼ったのだけど、光秀の坂本帰還の直前には同城を離れている。そして京へ戻ろうとするのだが、その際に明智光慶は一行が無事に京へたどり着けるように護衛を付けると申し出ており、記録にはこの護衛が「非常に主だった侍者」であるとのみされていて名は伝わっていない。清州会議でどのような会話があったかを記した史料は無い。多聞院日記などがわずかにその結果と会議の2日後になっても信雄と信孝の軍勢がにらみ合ってたと伝えるのみである。濃姫は美濃攻略完了までは生きていたのがほぼ確実。信長はこの際に斎藤氏の女性と家宝の壺を巡って揉め事を起こしているのだけど、その顛末を伝える史料は信長の正室が斎藤氏の女であることを示唆している。実は信長の息子たちで一番キリスト教にシンパシーを持っていたのは信忠で、自らの治める岐阜に教会を建てるように再三要請するなどしており、岐阜より先に安土に修道院が建てられたことをひどく残念がったとまでいう。そしてフロイスは信忠の次のような言を書き残している。「宣教師たちが側室禁止という戒律について今少し柔軟になったならば自分はためらうことなく入信するであろう」
秀信です。信秀は、蘇祖父
オルガンチーノ一行の30人余は湖上から坂本城へ赴いているw これは信者の中に光秀の小姓の叔父が居たことから庇護を得るべくその伝手を頼ったのだけど、光秀の坂本帰還の直前には同城を離れている。
そして京へ戻ろうとするのだが、その際に明智光慶は一行が無事に京へたどり着けるように護衛を付けると申し出ており、記録にはこの護衛が「非常に主だった侍者」であるとのみされていて名は伝わっていない。
清州会議でどのような会話があったかを記した史料は無い。
多聞院日記などがわずかにその結果と会議の2日後になっても信雄と信孝の軍勢がにらみ合ってたと伝えるのみである。
濃姫は美濃攻略完了までは生きていたのがほぼ確実。信長はこの際に斎藤氏の女性と家宝の壺を巡って揉め事を起こしているのだけど、その顛末を伝える史料は信長の正室が斎藤氏の女であることを示唆している。
実は信長の息子たちで一番キリスト教にシンパシーを持っていたのは信忠で、自らの治める岐阜に教会を建てるように再三要請するなどしており、岐阜より先に安土に修道院が建てられたことをひどく残念がったとまでいう。
そしてフロイスは信忠の次のような言を書き残している。
「宣教師たちが側室禁止という戒律について今少し柔軟になったならば自分はためらうことなく入信するであろう」
秀信です。信秀は、蘇祖父