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あまり注目されないが、朝廷の位階で見るのも面白いと思う。家康と秀吉の位階は、小牧長久手のときは 家康>秀吉、翌年に秀吉は従1位・関白となり 家康<秀吉となって逆転。織田家を中心とした家康と秀吉の立場の違いは形骸化、朝廷を中心とした立場(位階)は逆転、家康が秀吉と戦う名分が無くなった。その上で、家の存亡の懸念も消された。それに要した期間が2年。
戦国時代を通して位階や官職は重視されるべきでしょうね。なんとなく箔がつくというレベルで名乗りたがるものではなかったでしょうね。そこや義を踏まえないと、国人衆の雪崩現象も理解出来ないと思います。ちょっと脱線しますが、将軍家と鎌倉公方家の違いにも留意した方が各地の流れの違いが整理出来ると思う。将軍家の跡目争いは後援者次第=細川家次第だった時代が(細川家の内紛で)終わっても、その時々の畿内の実権者次第で跡目争いは決着したのに対して、鎌倉公方家は根拠地を変えても影響力を保持し延々と跡目争い出来た。この違いは鎌倉幕府が朝廷から将軍を迎えながら実権は執権北条家が握るのに対して、戦国時代の室町幕府では武士に将軍決定権が移った事から来ているのではないか。つまり、この事をキチンと認識出来た畿内周辺の戦国大名は将軍の権威なんて認めていない(位階は公家への貢物次第で手に入る)のに対して、関東では次期将軍になり得る公方家は(実質的な管領決定権でもって)権威であり続けられた。
@@bokoboko446 脱線ついでに書きます。鎌倉公方から古河へ拠点を移さざる得なくなってから3代目までに、身内同士で3回争いが続いていました。その争いに元の宿敵、関東管領と結んで(この頃の関東管領上杉氏も身内同士での後継者争いの真っ只中)両者身内同士で熾烈な陣取り合戦を、およそ100年位やって、足利幕府同様次第に影響力は落ちていきます。そこで畿内同様、新興の後北条氏の台頭で更に勢力図が変わり、目まぐるしく敵味方が変わる状態に陥ります。更に悪い事に影響力の落ちた古河公方に見切りをつけ、独自に動いた佐竹氏を中心とした日立の諸将が古河公方から独立して離れていきます。更に、公方内で別の公方(小弓)が誕生して、古河公方の影響力は落ちていきます。この様に足利将軍家同様、鎌倉公方の影響力はみるみる衰退していきます。最終的には名だけ残る形で後北条氏に屈服してなくなります。結局は名ばかりの争いから分裂、消滅(足利幕府より前に)してしまう悲惨な結果になった公方家
条件交渉で突っ張るところと折れるところのバランス取りが上手だったってことだな。闇雲に折れるのは弱腰だが、かといって突っ張り過ぎると小田原征伐みたいな全面戦争になってしまう。
色白美人のさおりさん、今回は、艶っぽいよ!!やはり、百姓上がりの豊臣秀吉に臣従するのは、我慢できなかった!!
さおりさん。素敵て
同じ『臣従』でも交渉次第でできるだけいい扱い受けられますからね。淀や秀頼は過剰なプライド暴走し、大坂の陣の破滅を招きお気の毒です。(合掌)ありがとうございました!
一応野戦では勝てた局面もあるし簡単に臣従すれば家中がね
この頃の徳川家は信濃(飯田、諏訪方面)甲斐をようやく抑えた程度だから、秀吉と長く争い続けるつもりはなかったけど、徳川側から折れれば負けを認める事になるから、簡単には折れる訳にはいかないですよね。だからといって、秀吉と延々戦い続ける軍事力はない訳だし、落とし所をどうするか悩んでいたでしょう。一方の秀吉側も震災の影響や抑えたばかりの四国平定、九州からの援軍要請など、徳川だけに構って居られない状況だし、悩んだ事だろうね
案内人のさおりさん。めっちゃ好きやねん
さおりさん見れて良かった♥
余り言われないがかなり重大な要因として、1585年の3月に癰(腫物が悪化したもの)で数か月、政務をとることが不可能になったことがあると思う抗生物質がない当時、癰は死に至る病で幼い長丸(後の秀忠)しかいない徳川家は家督相続も含め大混乱したのは想像に難くない。信康事件は僅か6年前でその時も重臣を切腹追放するなど徳川家の中央集権は道半ば。史料には残っていないが家督騒動みたいのがあったとしてもおかしくないその家中騒動を沈静化して家中を纏めなおすのに発症から半年はかかったとみると、交渉に時間がかかったのも止むを得ない
家康が臣従していなければ九州は島津氏、四国は長宗我部氏が制覇していた可能性が高いその世界も面白そう
家康が武田勝頼の二の舞コースになりそうなんですが軍役による領国疲弊に石川数正出奔があったし。
臣従する事は決めてたんじゃないかな?問題はその後にどう動ける立場を得るかを計っていたのでは?既に天下を狙っていた気がするから駆け引きに時間を掛けるのは惜しくない。
三河は軍役と天災で餓死者が出るほど酷い有様だし旧武田領は一揆やら真田の抵抗やらで大変だしで外交は後回しになってただけじゃないかな
そんなに時間掛かったとも思わないけどなぁ…時系列見たら妥当なタイミングだと思うけど
最も大きな理由は良い条件を提示するのを待っていただと思います。秀吉がこの種の政略家であることは家康もわかっていたはずです。
こんばんは!
今度は秀吉の堪忍袋の緒が切れなかった理由の考察をお願いします(^o^)/
大地震で徳川攻略用に用意した20万人分の兵糧、兵備を失ってしまった四国で長宗我部はなんとか抑えたが九州では島津が東北では伊達が勢力を拡大中北条は健在・・・・これで家康が主導して北条ー伊達との三国同盟でも組まれたら厄介極まりない(既に徳川-北条同盟は結成されている)20万人分の軍備を整えるのに数年掛かる。いっそ徳川を抱き込めば北条も毛利のように傘下に付くかもしれない。って思惑があったのかもな
西軍対東軍構想もしかしたらあったのかもな~もしかしてだけど。実際、北条は家康に援軍送りますよ?と連絡してるし、あとは上杉さえ徳川側につけば・・・
戦国時代を色々な角度から考察されているのはいいのですが、内容かぶってきてネタぎれ感が戦国に絞らず歴史の細道って銘うってるのでしたら戦国時代に限らず、もっと他の時代も掘り下げては?ま、戦国時代が一番受けがよいのもあるでしょうけど。ただの見る側の立場でよけいな事いってすみません。けっこう掘り下げられてるものがあったりするのでその分より他のあまり知られていない時代にも期待した次第です。
4:35「シミュ」レーションと言っていることに感心しました。「シュミ」レーションと言う日本人が多いため。
simulationなのでシミュと読まないとおかしくなりますな。シュミでは変。
家臣団が臣従を良しとしなかったからでしょ。 小牧・長久手で勝ってるから、勝てる相手に武功を立てたくてしょうがないのが家臣団。 家臣が精強な家は統制が難しい。 統制に失敗して滅んだのが浅井、武田。 かろうじて統制して家が残ったのが徳川、上杉、島津。 家臣に振り回されるのが大名の宿命。
こんばんは、さおりさん。
あの世で秀吉「あの時徳川を叩き潰しておけば秀頼は死なずに済んだのに😢」政宗「そしたらワイが天下取ってたから」
腹の探りあい…。高く売りたかったのでしょう。
自分を高く売りたかったから?
家康潰しておけば良かったのに
自分を高く売る為か、まだ逆転シナリオが有るか模索をしてた?
かわいい女の子うつってる
家康と秀吉では格が違う。家康は信長の同盟者だけど秀吉は信長のいち家臣
たぬきだから耐えて待つ考えて待つ。私なら騙しうちしてでも家族を犠牲にしてでも家康は殺すね。
ちょうど今真田丸を見ているんだけど、この話だわ。
あまり注目されないが、朝廷の位階で見るのも面白いと思う。家康と秀吉の位階は、小牧長久手のときは 家康>秀吉、翌年に秀吉は従1位・関白となり 家康<秀吉となって逆転。
織田家を中心とした家康と秀吉の立場の違いは形骸化、朝廷を中心とした立場(位階)は逆転、家康が秀吉と戦う名分が無くなった。その上で、家の存亡の懸念も消された。それに要した期間が2年。
戦国時代を通して位階や官職は重視されるべきでしょうね。
なんとなく箔がつくというレベルで名乗りたがるものではなかったでしょうね。
そこや義を踏まえないと、国人衆の雪崩現象も理解出来ないと思います。
ちょっと脱線しますが、将軍家と鎌倉公方家の違いにも留意した方が各地の流れの違いが整理出来ると思う。
将軍家の跡目争いは後援者次第=細川家次第だった時代が(細川家の内紛で)終わっても、その時々の畿内の実権者次第で跡目争いは決着したのに対して、鎌倉公方家は根拠地を変えても影響力を保持し延々と跡目争い出来た。
この違いは鎌倉幕府が朝廷から将軍を迎えながら実権は執権北条家が握るのに対して、戦国時代の室町幕府では武士に将軍決定権が移った事から来ているのではないか。
つまり、この事をキチンと認識出来た畿内周辺の戦国大名は将軍の権威なんて認めていない(位階は公家への貢物次第で手に入る)のに対して、関東では次期将軍になり得る公方家は(実質的な管領決定権でもって)権威であり続けられた。
@@bokoboko446 脱線ついでに書きます。鎌倉公方から古河へ拠点を移さざる得なくなってから3代目までに、身内同士で3回争いが続いていました。その争いに元の宿敵、関東管領と結んで(この頃の関東管領上杉氏も身内同士での後継者争いの真っ只中)両者身内同士で熾烈な陣取り合戦を、およそ100年位やって、足利幕府同様次第に影響力は落ちていきます。そこで畿内同様、新興の後北条氏の台頭で更に勢力図が変わり、目まぐるしく敵味方が変わる状態に陥ります。
更に悪い事に影響力の落ちた古河公方に見切りをつけ、独自に動いた佐竹氏を中心とした日立の諸将が古河公方から独立して離れていきます。更に、公方内で別の公方(小弓)が誕生して、古河公方の影響力は落ちていきます。
この様に足利将軍家同様、鎌倉公方の影響力はみるみる衰退していきます。最終的には名だけ残る形で後北条氏に屈服してなくなります。結局は名ばかりの争いから分裂、消滅(足利幕府より前に)してしまう悲惨な結果になった公方家
条件交渉で突っ張るところと折れるところのバランス取りが上手だったってことだな。
闇雲に折れるのは弱腰だが、かといって突っ張り過ぎると小田原征伐みたいな全面戦争になってしまう。
色白美人のさおりさん、今回は、艶っぽいよ!!
やはり、百姓上がりの豊臣秀吉に臣従するのは、我慢できなかった!!
さおりさん。素敵て
同じ『臣従』でも交渉次第でできるだけいい扱い受けられますからね。淀や秀頼は過剰なプライド暴走し、大坂の陣の破滅を招きお気の毒です。(合掌)ありがとうございました!
一応野戦では勝てた局面もあるし簡単に臣従すれば家中がね
この頃の徳川家は信濃(飯田、諏訪方面)甲斐をようやく抑えた程度だから、秀吉と長く争い続けるつもりはなかったけど、徳川側から折れれば負けを認める事になるから、簡単には折れる訳にはいかないですよね。
だからといって、秀吉と延々戦い続ける軍事力はない訳だし、落とし所をどうするか悩んでいたでしょう。
一方の秀吉側も震災の影響や抑えたばかりの四国平定、九州からの援軍要請など、徳川だけに構って居られない状況だし、悩んだ事だろうね
案内人のさおりさん。めっちゃ好きやねん
さおりさん
見れて良かった♥
余り言われないがかなり重大な要因として、1585年の3月に癰(腫物が悪化したもの)で数か月、政務をとることが不可能になったことがあると思う
抗生物質がない当時、癰は死に至る病で幼い長丸(後の秀忠)しかいない徳川家は家督相続も含め大混乱したのは想像に難くない。信康事件は僅か6年前でその時も重臣を切腹追放するなど徳川家の中央集権は道半ば。史料には残っていないが家督騒動みたいのがあったとしてもおかしくない
その家中騒動を沈静化して家中を纏めなおすのに発症から半年はかかったとみると、交渉に時間がかかったのも止むを得ない
家康が臣従していなければ
九州は島津氏、四国は長宗我部氏が制覇していた可能性が高い
その世界も面白そう
家康が武田勝頼の二の舞コースになりそうなんですが
軍役による領国疲弊に石川数正出奔があったし。
臣従する事は決めてたんじゃないかな?
問題はその後にどう動ける立場を得るかを計っていたのでは?
既に天下を狙っていた気がするから駆け引きに時間を掛けるのは惜しくない。
三河は軍役と天災で餓死者が出るほど酷い有様だし旧武田領は一揆やら真田の抵抗やらで大変だしで外交は後回しになってただけじゃないかな
そんなに時間掛かったとも思わないけどなぁ…
時系列見たら妥当なタイミングだと思うけど
最も大きな理由は良い条件を提示するのを待っていただと思います。秀吉がこの種の政略家であることは家康もわかっていたはずです。
こんばんは!
今度は秀吉の堪忍袋の緒が切れなかった理由の考察をお願いします(^o^)/
大地震で徳川攻略用に用意した20万人分の兵糧、兵備を失ってしまった
四国で長宗我部はなんとか抑えたが九州では島津が東北では伊達が勢力を拡大中
北条は健在・・・・これで家康が主導して北条ー伊達との三国同盟でも組まれたら
厄介極まりない(既に徳川-北条同盟は結成されている)
20万人分の軍備を整えるのに数年掛かる。いっそ徳川を抱き込めば北条も毛利の
ように傘下に付くかもしれない。って思惑があったのかもな
西軍対東軍構想もしかしたらあったのかもな~もしかしてだけど。実際、北条は家康に援軍送りますよ?と連絡してるし、あとは上杉さえ徳川側につけば・・・
戦国時代を色々な角度から考察されているのはいいのですが、内容かぶってきてネタぎれ感が
戦国に絞らず歴史の細道って銘うってるのでしたら戦国時代に限らず、もっと他の時代も掘り下げては?ま、戦国時代が一番受けがよいのもあるでしょうけど。
ただの見る側の立場でよけいな事いってすみません。けっこう掘り下げられてるものがあったりするのでその分より他のあまり知られていない時代にも期待した次第です。
4:35
「シミュ」レーションと言っていることに感心しました。
「シュミ」レーションと言う日本人が多いため。
simulation
なのでシミュと読まないとおかしくなりますな。シュミでは変。
家臣団が臣従を良しとしなかったからでしょ。 小牧・長久手で勝ってるから、勝てる相手に武功を立てたくてしょうがないのが家臣団。 家臣が精強な家は統制が難しい。 統制に失敗して滅んだのが浅井、武田。 かろうじて統制して家が残ったのが徳川、上杉、島津。 家臣に振り回されるのが大名の宿命。
こんばんは、さおりさん。
あの世で秀吉「あの時徳川を叩き潰しておけば秀頼は死なずに済んだのに😢」
政宗「そしたらワイが天下取ってたから」
腹の探りあい…。高く売りたかったのでしょう。
自分を高く売りたかったから?
家康潰しておけば良かったのに
自分を高く売る為か、
まだ逆転シナリオが有るか
模索をしてた?
かわいい女の子うつってる
家康と秀吉では格が違う。家康は信長の同盟者だけど秀吉は信長のいち家臣
たぬきだから
耐えて待つ考えて待つ。私なら騙しうちしてでも家族を犠牲にしてでも家康は殺すね。
ちょうど今真田丸を見ているんだけど、この話だわ。