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光成氏の研究や谷口氏の本には関ヶ原後に吉川と輝元が関係が悪くなったというよりも、それよりも前から家中内での輝元への権力強化やそれに家中での反発する勢力も、関ヶ原が終わるまで関係していたという研究もありますね。
元就が台頭する前までは 吉川とは同輩むしろ 応仁の乱で 吉川は 鬼吉川と言われたくらい活躍した
やる覚悟決めたのに味方が負けたら呑気に降伏だもんな
吉川家は6代藩主の経永で藩主・広家の血が絶えてしまうんです。あとは養子でつないでいくんですが、三本の矢の本系以外の血筋が絶えるのは悲しいですね…
7代目は輝元の血を引く徳山藩からの養子ですので紛れもなく一族ですが、元春-広家の系統が途絶えたのは残念です。
昔の山口県の地図見たら、「岩国領」と書かれていたのを覚えています。やはり毛利本家からは冷遇されていたんですね。名将吉川元春の家系が冷遇されていたのは、ほんとに残念です😢
立花と島津らと一緒に、大坂で籠城戦してたらと思いますね。
確か東海道筋遠州に鎌倉時代、分家した吉川家があり、江戸時代参勤交代中に両吉川家は交流を持っていました。その吉川家と交信した記録が参考に出来れば、もっと深読み出来たのではありませんか?東海道筋の吉川家は困窮していたらしく、岩国の吉川家から支援を受けたらしいですね。また、毛利秀元は、吉川広家によって「宰相殿の空弁当」と世上揶揄された心理的鬱屈は消せない物と思います。
現在の御子孫(殿様のご子孫&ビーマイベイビー)も、近所に住んでて積雪で車がスリップした際助けてあげた関係らしい。ちなみに両者とも面識は無いとのこと・・
大軍の毛利が一枚岩で関ヶ原本戦にでれば有利な地形に陣取れた西軍で日和見だった小早川含む裏切りはなく、長宗我部の軍もまともに機能しおまけに徳川の二万の軍勢は秀忠の遅参で不参加だった。少なくとも1日での決着はなかっただろうし、その間に西軍の立花宗茂ら別働隊と東軍は秀忠が関ヶ原に着陣し戦況はさらに混沌としていただろう。これらすべてのプラスをぶち壊したのが広家である。小早川含む調略勢は確かに巧みな家康に丸められていただろうが、それでも裏切るにも戦況を鑑みる必要があり、毛利が動いていれば迂闊に動けなかったはずだ。そもそも、毛利宗家を守るために取った行動とされるが、この時点で毛利元就の築いた毛利両川体制は小早川を秀秋が継いだことで瓦解していた。よく広家が毛利を思ってやったことと美談かされるが、そもそも本当に毛利を守るためだったのか怪しいところだ、宗家当主輝元が独断だったとはいえ西軍総帥に着くと下した判断に見切りをつけて命令無視の独断行動をそれも黙ってやっていた時点で忠臣どころか不忠ものと裏切りものと罵られても仕方ない。長篠後に宗家当主の勝頼を見限り、己の氏族が武田の名を継ぐことを条件に織田徳川に寝返った穴山梅雪とよく似てる。
輝元に総大将の器に在らず、家臣団も強者は皆無、武闘は吉川軍団が主力。吉川広家が総大将なら勝てたかも?でも安国寺恵瓊がそれを是非とはしなかったでしょうね。
そもそも秀元も関ヶ原の合戦の当日に徳川が通過するのを黙認していたという説がある。それなのに秀元は大名扱いで吉川は家臣扱い。
秀元はもともと本家跡継ぎとして豊臣秀吉の時代から重視されていましたからねだから、徳川家も秀元流は他の大名より待遇もいい
秀元の息子(光広)・孫(綱元)と徳川将軍の偏諱を賜わっており、支藩ながら萩本家並みの待遇です。秀元の元来の官位・政治力からも広家が抵抗するのも難儀だったことでしょう。
きょうの視点、おもしろかったb ほかにも(比較的)マイナー武将についての考察動画みてみたいです。
そもそも輝元はガチで戦う覚悟が有れば大阪城から出て出陣しろよと言いたいのですがね。吉川広家の親父の元春は秀吉大嫌いで広家も石田三成嫌いだったんだろう。新説関ヶ原の戦いだと瞬時に小早川秀秋が裏切って石田三成以下瞬殺された。
関ヶ原の戦いのときに秀元軍は広家軍を蹴散らして参戦できなかったのかな。
秀元が内応を知っていた説もあって、徳川が関ヶ原に向かう時に毛利の前を通過したのに秀元が何もしなかったという話がある。
ちなみに、江戸期以降の岩国領において参勤交代の義務はありませんでした。自らの当主交代時と、将軍の代替わり時に萩藩の許可を得て参勤していました。幕府から正式な藩として認められたこともありません。領地朱印状が発給されたことがないからです。岩国が藩として認められたのも明治政府によってでした。あと、岩国領の江戸屋敷ですが拝領屋敷ではなく、自費で購入したものですのでこちらも諸侯の家格にあらず、といったところでしょうか。概ね我々が、幕藩体制といわれる統治制度が確定する寛文印知の頃には吉川家を大名、支藩とみなす者はいなかったわけです。
主君に背いて余計なことを
歴史好きあるある 吉川(よしかわ)さんをきっかわさんって言ってしまう もしくはきっかわ と期待してしまう
毛利の重臣達も東軍武将達に働きがけてました。広家だけ言われるのは可哀想ですね〜
本戦ではまともに戦っていない毛利家。結局120万石をあっさり諦めて36万石に落ち着くのですが。その間も家中では葛藤はあったと思います。しかし、そこまで徳川の威光が天下に定まっていたということなのでしょうか。。。
広家期は毛利の執政みたいなもんやもんね
輝ちゃん、西軍側として御活躍の様ですね。その後に御家騒動に発展しなかった物だけれど?、煮えきらぬ結果を招いてたのね。
広家の内応は毛利本家も知っていたと聞いたことがあります。立藩後の一大名と毛利家の中の家老という関係改善は何とか出来なかったものか…。それとも一大名としての切り離しを望まなかったのか…。
まぁ関ヶ原以降は毛利宗家、吉川家は苦渋の日々だったでしょうが、幕末には倒幕に成功してますからね。やはり関ヶ原では戦わない方がよかったかと・・・。
関ヶ原で戦ってても 輝元の器量では 勝てる要素が無いしね。戦わなくて正解だったんじゃない。👍️
@@愛知カンチャン さん確かに負けて滅亡するよりは良かったと思いますね。祖父や叔父達が偉大すぎるのもなかなか酷ですね。
小早川は跡継ぎがいなくて断絶して吉川は毛利とギスギスした関係であれば脅威ではないだろうね。
従兄弟同士は仲が悪いモノ輝元と広家この2人の対立に間になる人がいないその意味でも2人の叔父である隆景がいないのがマイナスに
両家とも、毛利元就の子達なんだが、やはり、毛利家が宗家なので、吉川広家としては、毛利本家が消滅するようなことは、何としても、阻止したかった!!
さおりさん、こんばんは
大道寺盛昌やって欲しいです
毛利両川は、常に不完全燃焼的な感じ。大大名的な華々しさが皆無で残念。
毛利元就は領地経営を最重要視し 天下を挑むなと教えていたからではないですか。
利を得たいが戦いたくない毛利輝元。秀頼とそっくりやん😂民主主義的で優しいってことなのか?
家康の藩内分断政策で吉川家は毛利本家からは冷遇されたね。その後、岩国藩吉川家は似た境遇の紀伊田辺藩安藤家(紀州徳川家附家老)などと独立した藩への昇格運動を続けたが、毛利本家の妨害などで上手く運ばなかった。動画の通り、正式に独立したのは維新後の話。┐(´д`)┌ヤレヤレ
そりゃ裏で勝手なことしちゃ駄目だね吉川は最悪だ
しかし吉川が徳川と通じていなければ 毛利は無くなっていた。毛利は吉川家に感謝すべきだけどな。
広家が邪魔しなければもしかして豊臣が勝利したかもしれんだろう、またそう考える人が多くいた、だから広家は大人しくならざるえなかったのでは
輝元の意向でしょう
そんな呑気な時間かかるの大戦してたら北九州周防長門は黒田官兵衛に落とされてたよ
吉川広家は毛利家の為を思って家康に頭を下げて毛利家を守ってくれたんだから感謝がないね、本来なら輝元は広家に相談するべきではありませんか?恵瓊の話聞いて輝元は広家や家臣達に話し合っていたら違っていたかもしれませんよ。
毛利さんも娘の子も良いが、まだ小さいので。娶ったのがお宅なので、宗家からはそうなのかもね。どうも嫁さんの価値で決まるらしい。それをいうなら、宗家はお宅の価値をそう言いたいだけ。笑われているのは自分じゃなくて、お宅さんの価値だということですよ。
私とさおりさんの微妙な関係❤
光成氏の研究や谷口氏の本には関ヶ原後に吉川と輝元が関係が悪くなったというよりも、それよりも前から家中内での輝元への権力強化やそれに家中での反発する勢力も、関ヶ原が終わるまで関係していたという研究もありますね。
元就が台頭する前までは 吉川とは同輩
むしろ 応仁の乱で 吉川は 鬼吉川と言われたくらい活躍した
やる覚悟決めたのに
味方が負けたら呑気に降伏だもんな
吉川家は6代藩主の経永で藩主・広家の血が絶えてしまうんです。
あとは養子でつないでいくんですが、三本の矢の本系以外の血筋が絶えるのは悲しいですね…
7代目は輝元の血を引く徳山藩からの養子ですので紛れもなく一族ですが、元春-広家の系統が途絶えたのは残念です。
昔の山口県の地図見たら、「岩国領」と書かれていたのを覚えています。やはり毛利本家からは冷遇されていたんですね。名将吉川元春の家系が冷遇されていたのは、ほんとに残念です😢
立花と島津らと一緒に、
大坂で籠城戦してたらと
思いますね。
確か東海道筋遠州に鎌倉時代、分家した吉川家があり、江戸時代参勤交代中に両吉川家は交流を持っていました。
その吉川家と交信した記録が参考に出来れば、もっと深読み出来たのではありませんか?
東海道筋の吉川家は困窮していたらしく、岩国の吉川家から支援を受けたらしいですね。
また、毛利秀元は、吉川広家によって「宰相殿の空弁当」と世上揶揄された心理的鬱屈は消せない物と思います。
現在の御子孫(殿様のご子孫&ビーマイベイビー)も、近所に住んでて積雪で車がスリップした際助けてあげた関係らしい。
ちなみに両者とも面識は無いとのこと・・
大軍の毛利が一枚岩で関ヶ原本戦にでれば有利な地形に陣取れた西軍で日和見だった小早川含む裏切りはなく、長宗我部の軍もまともに機能しおまけに徳川の二万の軍勢は秀忠の遅参で不参加だった。
少なくとも1日での決着はなかっただろうし、その間に西軍の立花宗茂ら別働隊と東軍は秀忠が関ヶ原に着陣し戦況はさらに混沌としていただろう。
これらすべてのプラスをぶち壊したのが広家である。
小早川含む調略勢は確かに巧みな家康に丸められていただろうが、それでも裏切るにも戦況を鑑みる必要があり、毛利が動いていれば迂闊に動けなかったはずだ。
そもそも、毛利宗家を守るために取った行動とされるが、この時点で毛利元就の築いた毛利両川体制は小早川を秀秋が継いだことで瓦解していた。
よく広家が毛利を思ってやったことと美談かされるが、そもそも本当に毛利を守るためだったのか怪しいところだ、宗家当主輝元が独断だったとはいえ西軍総帥に着くと下した判断に見切りをつけて命令無視の独断行動をそれも黙ってやっていた時点で忠臣どころか不忠ものと裏切りものと罵られても仕方ない。
長篠後に宗家当主の勝頼を見限り、己の氏族が武田の名を継ぐことを条件に織田徳川に寝返った穴山梅雪とよく似てる。
輝元に総大将の器に在らず、家臣団も強者は皆無、武闘は吉川軍団が主力。吉川広家が総大将なら勝てたかも?でも安国寺恵瓊がそれを是非とはしなかったでしょうね。
そもそも秀元も関ヶ原の合戦の当日に徳川が通過するのを黙認していたという説がある。それなのに秀元は大名扱いで吉川は家臣扱い。
秀元はもともと本家跡継ぎとして豊臣秀吉の時代から重視されていましたからね
だから、徳川家も秀元流は他の大名より待遇もいい
秀元の息子(光広)・孫(綱元)と徳川将軍の偏諱を賜わっており、支藩ながら萩本家並みの待遇です。秀元の元来の官位・政治力からも広家が抵抗するのも難儀だったことでしょう。
きょうの視点、おもしろかったb ほかにも(比較的)マイナー武将についての考察動画みてみたいです。
そもそも輝元はガチで戦う覚悟が有れば大阪城から出て出陣しろよと言いたいのですがね。
吉川広家の親父の元春は秀吉大嫌いで広家も石田三成嫌いだったんだろう。
新説関ヶ原の戦いだと瞬時に小早川秀秋が裏切って石田三成以下瞬殺された。
関ヶ原の戦いのときに秀元軍は広家軍を蹴散らして参戦できなかったのかな。
秀元が内応を知っていた説もあって、徳川が関ヶ原に向かう時に毛利の前を通過したのに秀元が何もしなかったという話がある。
ちなみに、江戸期以降の岩国領において参勤交代の義務はありませんでした。自らの当主交代時と、将軍の代替わり時に萩藩の許可を得て参勤していました。幕府から正式な藩として認められたこともありません。領地朱印状が発給されたことがないからです。岩国が藩として認められたのも明治政府によってでした。あと、岩国領の江戸屋敷ですが拝領屋敷ではなく、自費で購入したものですのでこちらも諸侯の家格にあらず、といったところでしょうか。
概ね我々が、幕藩体制といわれる統治制度が確定する寛文印知の頃には吉川家を大名、支藩とみなす者はいなかったわけです。
主君に背いて余計なことを
歴史好きあるある 吉川(よしかわ)さんをきっかわさんって言ってしまう もしくはきっかわ と期待してしまう
毛利の重臣達も東軍武将達に働きがけてました。広家だけ言われるのは可哀想ですね〜
本戦ではまともに戦っていない毛利家。
結局120万石をあっさり諦めて36万石に落ち着くのですが。
その間も家中では葛藤はあったと思います。
しかし、そこまで徳川の威光が天下に定まっていたということなのでしょうか。。。
広家期は毛利の執政みたいなもんやもんね
輝ちゃん、西軍側として御活躍の様ですね。その後に御家騒動に発展しなかった物だけれど?、煮えきらぬ結果を招いてたのね。
広家の内応は毛利本家も知っていたと聞いたことがあります。立藩後の一大名と毛利家の中の家老という関係改善は何とか出来なかったものか…。それとも一大名としての切り離しを望まなかったのか…。
まぁ関ヶ原以降は毛利宗家、吉川家は苦渋の日々だったでしょうが、幕末には倒幕に成功してますからね。やはり関ヶ原では戦わない方がよかったかと・・・。
関ヶ原で戦ってても 輝元の器量では 勝てる要素が無いしね。戦わなくて正解だったんじゃない。👍️
@@愛知カンチャン さん
確かに負けて滅亡するよりは良かったと思いますね。祖父や叔父達が偉大すぎるのもなかなか酷ですね。
小早川は跡継ぎがいなくて断絶して吉川は毛利とギスギスした関係であれば脅威ではないだろうね。
従兄弟同士は
仲が悪いモノ
輝元と広家
この2人の対立に
間になる人がいない
その意味でも
2人の叔父である
隆景がいないのが
マイナスに
両家とも、毛利元就の子達なんだが、やはり、毛利家が宗家なので、吉川広家としては、毛利本家が消滅するようなことは、何としても、阻止したかった!!
さおりさん、こんばんは
大道寺盛昌やって欲しいです
毛利両川は、常に不完全燃焼的な感じ。大大名的な華々しさが皆無で残念。
毛利元就は領地経営を最重要視し 天下を挑むなと教えていたからではないですか。
利を得たいが戦いたくない毛利輝元。
秀頼とそっくりやん😂
民主主義的で優しいってことなのか?
家康の藩内分断政策で吉川家は毛利本家からは冷遇されたね。その後、岩国藩吉川家は似た境遇の紀伊田辺藩安藤家(紀州徳川家附家老)などと独立した藩への昇格運動を続けたが、毛利本家の妨害などで上手く運ばなかった。動画の通り、正式に独立したのは維新後の話。┐(´д`)┌ヤレヤレ
そりゃ裏で勝手なことしちゃ駄目だね
吉川は最悪だ
しかし吉川が徳川と通じていなければ 毛利は無くなっていた。毛利は吉川家に感謝すべきだけどな。
広家が邪魔しなければもしかして豊臣が勝利したかもしれんだろう、またそう考える人が多くいた、だから広家は大人しくならざるえなかったのでは
輝元の意向でしょう
そんな呑気な時間かかるの大戦してたら北九州周防長門は黒田官兵衛に落とされてたよ
吉川広家は毛利家の為を思って家康に頭を下げて毛利家を守ってくれたんだから感謝がないね、本来なら輝元は広家に相談するべきではありませんか?恵瓊の話聞いて輝元は広家や家臣達に話し合っていたら違っていたかもしれませんよ。
毛利さんも娘の子も良いが、まだ小さいので。娶ったのがお宅なので、宗家からはそうなのかもね。どうも嫁さんの価値で決まるらしい。それをいうなら、宗家はお宅の価値をそう言いたいだけ。笑われているのは自分じゃなくて、お宅さんの価値だということですよ。
私とさおりさんの微妙な関係❤