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if は 無理筋でも楽しんだ者勝ち。秀次、秀長、辺りが存命ならば全く違う歴史になりそう。
利家と秀長についてはもし存命ならそもそも関ヶ原の合戦が起きていなかったと思う。黒田官兵衛が西に居れば黒田長政も東にいない事になるだろうから、かなり面白い展開になっていたかも。まあでも西に武将が集まらなかった理由が三成の人望の無さだとすると、三成以外が指揮していれば大大名クラスなら誰であっても善戦したor起きなかったって可能性が結構高そう。福島正則とか加藤清正とかは三成憎しでやってた感もあるし。
そもそも、利家存命中は家康も大きな行動を起こしてないので、影響力は明らかですね。
そりゃ、豊臣秀頼でしょう。
@@yi4383 さんその通り!「千成瓢箪」には、刃向かえないのが、西国大名たち。
@@capsawa63 官兵衛は気持ちは西寄りだったかも知れない。家康が長政の右手を握りしきりに感謝していたと知ると、長政に対し「お前の左手は何をしていたのだ!?」つまり空いた手に短刀でも持って刺せただろうと叱り飛ばし、叱られた長政は凹むばかりだったそうです。
淀を亡きものにしても秀頼を総大将として担ぎ出してれば 加藤清正 福島正則の抑えとしていい勝負できたんじゃない??
総大将軍監「豊臣秀頼」、大将「毛利、上杉、宇喜多」、参謀宰相「真田昌幸、直江兼続」
島津義弘はもともと家康派でしたが、領地における「庄内の乱」などを要因に、多数の兵数を率いることができなかった上、西日本の大名の多くが西軍に味方したため、西軍に所属せざるを得なかった経緯があります。そのため、もし多数の兵を揃えることができたのなら、間違いなく東軍に所属していたでしょう。
島津義弘公は徳川家康との密約通り、二条城防衛のため、二条城に向ったが、城代鳥居氏に追い返され、挙げ句の果てには迫って来た西軍と一戦構える戦力もなかった。それで仕方なく西軍に加わった。私の母方は尾張徳川家の連枝で(分家)高須家で「島津家かろの合意文書」のオリジナルをシッカリみてますよ。
@@浩三芝崎さま。鳥居元忠が城代を務めていたのは二条城でしたっけ?私は伏見城だったと記憶してます。間違ってたらすみません(^^ゞ
@@yasu5987 様私もどちらだったから、記憶が定かでございません。間違っていたなら申しわけありません。ただ!島津義弘公としてはドタンバまて迷ったようちですよ。
家康派は兄の義久で義弘は秀吉や石田三成と懇意であった事で最初から西軍派だったとも言われてますね(現に上杉に島津は西軍にお味方しますとの書状が現存)秀吉に好かれる一方、豊臣嫌いの義久の間で板挟みになってたようで相当苦労してたみたいですね
@@真島吾郎-i2r 伏見防衛を断られたことで心置きなく西軍に入ることができましたね
秀次がいれば関ヶ原も起きてはいない気がしますが、それでも秀長総大将の関ヶ原は想像を掻き立てられます。
そもそも、利家や秀長が生きてれば関ヶ原の戦い自体起こってない。強いて言えば、強引にでも西側が秀頼を担ぎ上げていれば、東軍の加藤や福島、秀吉子飼いの武将達は参戦しないし、その分時間稼いで立花宗茂が間に合えば勝てそう。
関ヶ原時点で生存している武将に限定して考察すべき
それはそう。じゃないと利家・秀長、それに秀次等生きてたらそもそも関ヶ原の合戦自体起こらなかったのでは?の議論まで戻ってしまう気もする。
西軍の総大将として 豊臣秀頼が出てこない限り、 西軍は 勝てないと思います😤これなら 福島正則 や加藤清正が西軍に寝返る可能性が大きい石田三成 も「秀頼様のため挙兵 」と言っておきながら、実際の 豊臣秀頼は、お飾りとして 大阪城にいただけ、これでは豊臣恩顧の大名は動かせない😰「豊臣秀頼 自ら 西軍の総大将」として動いてれば 関ヶ原は西軍が勝ったと思います
そも淀殿が東軍側やしなぁ
旗だけでも詐称すればよかったかも
@@akirakitahara3752 マジで、それだけでも 西軍が勝ったかもしれませんね😄
@@キングダムマニア こうやって秀頼出陣の可能性を考えると、史実では秀頼が手中に無く、上杉征伐に参加している諸将の妻子は大阪にいるみたいなところから関ヶ原勝利までもって行った家康はやばいわ
@@matukawatositane ええ、家康は、やばい人だから 天下取れたんだと思いますよ😄嫌われものの 石田三成がどう でしゃばる とか、 人格込みで計算してたと思いますね淀殿とかの人格も込みで色々 計算してたと思いますよ家康は、戦場の戦術だけでなく戦略の面でも、 「西軍への調略による切り崩し」も凄いもんで、 関ヶ原の合戦直前に むちゃくちゃの枚数の手紙書いて、 送って ますからね関ヶ原って正直あれ 「手紙調略と寝返りのみ」で、勝利してるようなもんで、どんだけ人の心読めるんだよ⁉️家康公は…😱多分 「豊臣秀頼は絶対お飾りにされる」まで読んでいたのでは?だから戦争という博打を平気で撃ってきたんだと思いますいつもケチで、慎重なのに絶対勝てると踏んだ時のあの果断な行動力本当に家康公は、やばい人です天下を取るべくして取ったレベルの才能の持ち主だと思います諸将の人質も、結果「家康にプラスになる」をなんらかの勘で完全に見通した上でやったんじゃないかな?
たとえ大将が石田三成でも、あくまで「豊臣家vs徳川家」の構図に持っていければ十分に勝てたと、私は思います。そのようにさせなかった家康が上手だった、、、と言われてしまえばその通りですが。裏を返すと、豊臣家はここでその形を取らなかったことが、十数年後の運命を決めたのだと思います。
根回し大事ってわかる歴史ですよね
まがりなりにも朝廷にも秀頼にも公務としての許可を得て豊臣政権の公式かつ正式な行事として体裁を整えた会津征伐とは違い、内府弾劾は不在の隙を突いた騙し討ちも同然の決起ですし。これに乗っちゃったら要するに「秀頼の身柄さえ抑えれば何を言ってもやっても良い」という悪しき前例を作ることになるから乗りたくても乗れなかったというのもあるんでは。
西軍の総大将は毛利輝元。石田三成ではありません
そりゃあ、もちろん豊臣秀頼が総大将になっていれば、東軍に加わっていた豊臣恩顧の大名も手出しできなくなって逆に秀頼様にお味方しますといって東軍に攻撃していただろう?
毛利がもっと家内で団結して輝元が総大将として積極的で動いてれば結果は違ったかも知れないですね。三成は嫌われものと言っても、大谷吉継、直江兼続、島勝猛、真田昌幸、佐竹義宣のような将を引きつける不思議な魅力もある。
結局毛利も西軍としての活動より西国の覇者に向けてっていう…
元就「天下狙うな器じゃない」隆景「天下狙うな器じゃない野心持つな」輝元「野心持つで!!」広家・家臣団「あっ(察し)」仮に隆景が存命だったら安国寺恵瓊は誅殺、輝元はボコボコにされて広家はパシリにされてそう
@@susa2439 思いっきり徳川派に舵切ってた可能性が大だと思う。小早川隆景が存命だったら家康も毛利家への接し方も全然違ってただろうしな。いIFとして毛利・黒田(如水)による九州・中国連合もあったかもな。
「もしも話し」楽しいですね。あーだこーだと思いを巡らせるのが面白い☺
吉川元春、小早川隆景が元就ぐらいの寿命であればどうなっていたか毛利隆元が長寿ならどうなっていたか
元春って秀吉嫌いじゃなかった?
イフの話したら血眼になりながら怒る奴いるけど議論が盛り上がるのはイフ話やと思うこれからも続けてほしい
そもそもが諸説ありますしね。(^_^;)
秀頼が総大将だったら、そもそもが豊臣臣下の内部戦争という構図が崩れるから関ヶ原で家康に大義名分がなくなる。
豊臣秀頼しか勝たん関ヶ原の参加した大名の殆んどが豊臣恩顧の大名ばかり
関ヶ原に出てくればその時点で勝敗はつきますよね。戦の能力云々関係なしに…。でも動画はたぶん意図する所はそこではないんだろうなって思いますw
そもそも総大将になって勝てる見込みのある人が当時存命だったら家康が仕掛けてないからなあ、、、あとは輝元大将に据えないと毛利が加担しなそうという、、、
秀長、利家、氏郷以外思い浮かびません。その時点で残念です。
秀長利家氏郷そして小早川がいたら関ヶ原は起きてはないと思う。豊臣が領土を維持していたかは微妙だが
秀長がいたら石田三成をなだめていたと思うし、家康も下手に動いて無かったと思う。
黒田官兵衛がありなら。。。希望で真田昌幸これが上田城じゃなくて関ヶ原にいたら。。。もちろん、東軍の勢力が凄いことになりますが、もっと面白い戦いになったと思います
真田昌幸は平地では勝てんよ。籠城戦、地の利を活かした作戦は評価が高いけど、関ヶ原の戦いに於いて、指揮を取らせても所詮謀将、誰も言う事聞かないわ
上杉景勝を総大将に必ず官兵衛を西軍に加えることができれば勝てる少なくとも僅か1日で終わることはない
景勝は北にいるので本軍総大将…ってのは無理な気がします…
@@NOBBU_ たしかに景勝は東国の要なので中央の戦の総大将になるのはきついかもですね ただ革籠原の戦いが起こり会津征伐軍をはねかえし最上領、越後を抑えることができれば慶長版奥羽越列藩同盟の総大将として関東とやりあうことができたかもしれない
よくよく考えるとそうですねとはいえ毛利は全く動かず毛利 上杉 くらいしかでも総大将になれそうな人物はいないですよね豊臣家臣団の誰かでは家康とは貼り得ない
@@shivt3014 うーん。それは本戦が一日で決着がつかないことが必要ですよね、、、1番いいのは自分たち全滅を覚悟して徳川本軍を真田と共に挟撃するのが良かったと思ってます。まぁ不可能ですけど😂
昌幸は動きますかね仮にできても漁夫の利パターンで裏切りそう笑
豊臣秀次 豊臣秀長 を入れるのはナンセンスかと思います関ヶ原の戦いは 徳川対豊臣 ではなく豊臣家家臣団の内部抗争でありそれをタクミに利用した家康の策略前田利家が生きていれば関ヶ原の戦いは起きなかったとは思いますね他は誰がやっても同じです武士は格が必要立花 あたりでは誰も従わないなので 三成も 毛利を総大将にしたわけです因みに 島津は 内部抗争が本国で起こり 関ヶ原の戦い に出るのが厳しかったこの内部抗争は徳川家康が糸を引いたと言われている
非常に難解なテーマです史実で考えるのであれば西軍の中で家康に対抗できる大名は存在しないと考えますそれ以外なら中立の豊臣秀頼、東軍の黒田官兵衛そして伊達政宗、加藤清正+福士正則の連合が唯一対抗できるかと思います前田利家、豊臣秀長が存在しているのなら家康の独断はできませんし関ヶ原も起きないでしょう
伊達政宗にやらかしてほしかった
秀次が生きていたら、秀吉が織田家を兄弟の中を裂いたように、家康も同じようにしたことでしょう。三成が担がない方を正統性をぶちあげて数年後には秀吉がしたように、乗っ取りをした可能性は有りますね。
利家亡き後、跡継ぎの利長がもう少しマシな感覚なら前田、上杉連合は結成が容易だったはずで、そうなれば関ケ原自体が起きていた可能性が低い。
関が原は豊臣家の家臣と家臣の戦という建前があるから成立したもので,仮に三成が秀頼を総大将に立てることに成功していたら合戦は成立していなかったでしょう。豊臣恩顧の大名が離反するのは確実ですし、そもそも上杉討伐自体が強行できたかどうか。そういう意味では秀次・秀長が存命だったらというifは関が原に関しては成立しないかと。逆に言うと他は(前田も含めて)毛利輝元と似たり寄ったりの結末だったと思います。
Hajime利家なんて家臣団五大老の中で頭ひとつ抜けてるんだから徳川や上杉で対抗できるわけ無いじゃん。残りの四人全員で団結でもしない限り豊臣家中は全員利家方に着いて終わりだよ。
利家、秀長、秀次が生きていたら関ケ原の戦い自体が起こっていない可能性が高いと思いますが、それはさておき、家康に伍することができて総大将が務まって豊臣政権での影響力が高い武将と言えば、黒田官兵衛、小早川隆景あたりでしょうかね。
この中には無いですが、小早川隆景を選びます。
亡くなってるのは承知の上でですか?
@@bristol_._VPN さんへ、もちろん知ってます。動画では亡くなった利家や秀次を入れてるので選びました。関ヶ原の存命中限定だったら島津義弘を選びます。
隆景は毛利家臣というスタンスを貫くと思いますので、輝元大将隆景存命verって感じですかね!
@@yuhi383 さんへ、仰有る通りですね。隆景の存在は必要不可欠で有り替えが利かない程に得難い名将ですね。
秀頼が大将で関ヶ原に出てくれば加藤、福島はあんなに奮闘せず毛利も戦闘に加わり小早川も裏切らなかった筈。
秀頼が陣頭に立って姿を現すだけで、東軍の将兵はその場で全員、武器を置いてひれ伏したかもしれないと思うが、どうだろうか?
@@MMKK-gk4if 福島正則あたりは武器置くどころが反転して東軍に突っ込んだと思う笑
家康は前田利家がしぬのを待って動いているので生きてたら何もおこらずやっぱりしんでから動いてたでしょうねえ。秀次と秀長はどちらも生きてたら家康は敵対しないでしょうからないかなと。島津と立花宗茂はワンチャンありますが勝てるまではいかなかったかなと。でもどちらかが本気で参戦が間に合っていたら家康もまた秀忠の到着をまってたでしょうから開戦できなかったか、戦ってても双方の被害はもっと大きくなって、その後に大きく影響していたのではないかと思います。そもそもこれって豊臣政権の内紛ですから、その中の名実ともにトップの家康VS誰かな時点で家康の負けはないかなと思います。
毛利家が本気でやっていれば、西軍が勝っていたよ!!小早川秀秋じゃなく、隆景がいたら普通に西軍が勝っているよ!!
せめて安国寺恵瓊と毛利秀元が吉川広家の前に布陣してくれてたらなあ。あと、宇喜多秀家が本来の家臣団を率いていたら。
小早川隆景が生きていれば家康は立たなかったと思いますよ。
豊臣秀長、前田利家、小早川隆景この3人の誰か1人でも生きていれば…
@@broooockそれな😢まぁその三人が生きてる限り家康はそんなことできないやろうなー…
関ケ原では誰が総大将であろうと、最善で膠着だろうなあ、大阪の陣までに秀頼公が所信表明できたなら、結果は徳川幕府だろうけど、なにかしら起きたかもしれない
ifシリーズ好き!次は朝鮮出兵についてやってもらいたいです。
立花宗茂だったら島津義弘と一緒に家康本陣突入してたんじゃないかな?
吉川広家が足止めしてた連中が参戦、小早川秀秋が西軍につく、これ位やってようやくある程度は渡り合えるか?ってレベルだと思うわ
このifの根本的間違い関が原決戦の時点で東軍の勝ち西軍が五分に持ち込むには、近江八幡まで引いて戦える度量が求められる当時、そんな武将は西軍には幾人かいるかと思われるがその際の最大の問題は、たとえ有能な人材が主将についたからと言って、全軍が下知に従わなければ勝てないという事。そして、全軍が下知に従うような人材が西軍にはいない一方で東軍にはいたというのが全てだろう。
船木祥啓まあ関ヶ原の大草原で戦わなければ大規模野戦が実現できないので、ifを語るにしては派手さに欠けるというのと、野戦ができなければ手柄を立てにくいので諸将の指揮が下がるというのがある。合戦がたった一日で終わっていなければどう転ぶかはまだ分からなかったので、とりあえずは数日間持ち堪えることですかね。徳川本軍の進軍は遅れていたのでかなり猶予が有るし。
途中に石田三成の佐和山城が有り、攻め込まれる。そんなことはさせはしないのは関ヶ原合戦で、佐和山城を攻めると言われて野戦に出て来ている
利家・秀次・秀長、誰か1人でも存命だったならそもそも合戦は起きない・起こせない。上記3人以外の場合なら誰が大将でも戦を止められないし、家康には勝てないでしょう。
秀勝は?どうなの?
@@佑亮-p3m 官位は高いが秀勝ではムリでしょう。他にも官兵衛やら宇喜多・隆景等の名を挙げてる方もいらっしゃいますが…私的に全て論外ですね。
毛利輝元が大阪から松尾山に陣取ってやる気満々だったら毛利一族がやる気だす。さらには+長曾我部+朽木とか日和見ザコもほとんどがごっそり西軍についていい勝負になりそうな気もするんですよね
@@inoueinoue7281 輝元は家康と比較し領土は半分以下、武将としての『器』は更にその半分以下…到底勝ち目は無いと思います。毛利を語るなら先ず閥閲録をお読み下さい。一級史料です。復刻版ならネットで数万円で購入可能です。
島津義弘か立花宗茂
秀次が生きてたら家康は動けなかったでしょうね。なので秀次事件って実は家康が秀吉に何かしら吹き込んでた可能性を私は感じてます。
黒田如水かぁ、面白いですね、関ヶ原を利用しようと企んだ人物がトップとなれば動きも変わってくるでしょうねー、
動きを見てる限り毛利と変わらなかったと思われますが…ただもう少しマシな戦いはしたでしょうねー
ガチが気になる。石田三成が七将による襲撃事件の過程で落命していた場合の、豊臣政権や家康の天下取りの行方の考察を御願いします。
見てみたい。
なろうにその設定の小説が有ったよ。慶長動乱記~もしも石田三成が慶長四年の襲撃事件の際に死んでいたら?~
そもそも利家が生きていれば関ヶ原の戦いは無かったですよね。それは秀長の場合もそうだと思いますが、、、。
関ヶ原の戦いなんてのが起きた時点で西軍は結構詰んでたよな。秀頼がある程度成長してて総大将をかってでてくれれば可能性出てくるかもしれないけど、大坂の陣の時のように茶々が横槍を入れてきそう。
茶々だけに「ちゃちゃ入れる」
つまらないダジャレはさておき茶々の横槍が入ったのは間違いないですね
今回のifは誰がいてもやはり厳しそう。家康を「朝敵」「賊軍」レベルにおとしめることができたら、ワンチャンいけるかもと思いました。戦争や政治には「大義名分」がいかに大切か痛感しました。
いっそ、小早川秀秋。
それは案外に面白そうですね。秀秋みずから関白代行して、下知を下して五奉行署名したら官軍ですね。ただし秀秋の自主的が前提ですが。
「みな、わしのことをうつけと思っておろう。内府も少々アメとムチをくれてやればわしが簡単に寝返るものとなめておったであろう。しかしわしは内府どのの誘いに乗ったふりをして、今のような状況がくるのを待っておったのだ。徳川軍は前に出すぎた! 今こそ山を駆け下りる時ぞ! 南にはひそかに長曾我部どのに山を降りて貰って逃げ道を塞いで貰っておる。ゆくぞ!」
確かに裏切ることもないし案外間違いないかもですね笑
石田三成でも勝てる秀頼様出陣の噂を流させて千成瓢箪をかっぱらってでも本陣に置く勝ってしまえばなんとでもなる。毛利が総大将になっただけでも凄いと思うな。毛利家がバラバラなのが痛い
逆に石田三成が総大将でなかったら、もうちょっと苦戦したと思う。秀頼が戦場に出て、真田や島津の意見を採用していたら家康は危なかった。
関ケ原戦は淀殿派と高台院派の対立の結果でもあるから、初めから西軍に勝機は無かったかもしれないね。
合戦を起こさず家康の寿命をひたすら死ぬまでまとうホトトギスでw
黒田官兵衛を総大将にして全指揮権を与えてたらわからんかったかも。あの時代、家康と同等の采配力なのは官兵衛くらいやろ
隠居してて家としても大きくない官兵衛が全軍指揮出来るのか問題
@@matukawatositane 黒田官兵衛が征夷大将軍になるじゃね?それは西軍勝ちなのか。
@@grant.leauvas そもこの時代では征夷大将軍には足利一門しかなれんからなぁ…
官兵衛さんて関ケ原合戦のどさくさに紛れて九州の大部分支配下にしちゃったらしいですね。しかも自軍の正規軍は息子の長正に預けて徳川連合に出払っており金で急遽集めた烏合の衆みたいな軍団でそれを実行したっていうんだから恐ろしい。 まあ息子長正が家康側についちゃってるから西軍に味方はなさそうだけれども
作戦として大谷吉継が埋伏の毒として当初の予定通り東軍についたフリをして、関ヶ原で裏切って家康の本陣に突っ込んでたらワンチャンありましたかね😮
大谷吉継は疑われすぎますな宇喜多秀家あたりですかねー
生きていれば前田利家が西軍大将で勝ってた
家康に対抗しうる唯一の人物だったしな
利家死亡⇒跡継ぎ息子の利長への家康のイチャモン⇒マツさんの人質前田家無力化はなかったし、その後の上杉家へのイチャモン⇒切れた直江状による家康軍の上杉討伐も恐らくはなかったでしょうから関ケ原の戦いも発生してないと思います、慎重な家康は硬派で人望もある利家なくなるまでチャンスを待ち続けたんじゃあ?もしも家康に先に寿命がきたらそれまでと割り切って
ぶっちゃけ利家にそんな器ないと思います大将として大戦率いた経験ないですし秀吉亡き後の養子縁組問題で家康と対立した時も結局家康の元に訪れて和解=事実上徳川に屈服していますので
前田は戦をする気が無くお荷物。無用の大名、扱いに困る大名
関ケ原の時にすでに死んでいた武将をここで上げるのはやや反則と思うが・・・
三成が黒田官兵衛をうまく使えそうにもないし上杉は遠いし宇喜多の秀家は坊ちゃんだし誰も居ないと思いますw
関ヶ原では小勢だが精強な嶋津を率いる猛将(戦バカ)でし歴戦の古強者の島津義弘を総大将に据えて見たら抜群の采配でうまく行けば勝てたかも。
島津なら戦力的には申し分ないけど、島津家は豊臣政権にあまり興味が無かったからなぁ。関ケ原戦もいつのまにか巻き込まれたようだし、淀殿のためにそこまで熱心に戦わないかも。
参戦した将から選ばないとスタートラインが違ってしまう。
参戦した武将の中なら島津義弘一択ですね。朝鮮の役での指揮も良かったし結果だが3百しかいない状態からのあの退き口は現場での素晴らしい指揮と戦術がなせた技戦後の交渉では兄義久が主だったとされるがこの交渉でも領地を一石も失わずに済んでいる。結果論から関ヶ原参戦の武将の中では島津の指揮が1番可能性はあった。
武家官位から考えれば史実通りの毛利輝元か、それ以外なら宇喜多秀家以外考えられないのが厳しいところ石田三成が戦後の責任押し付けられて色々言われますが治部ごときでは各諸侯に命令する権限もないし聞くとも思えませんそのような制度にしたのは秀吉なので仕方ないでしょう
西軍は、初め石田三成隊と大谷刑部隊だけで押していたぐらいだ。秀頼が、秀頼だけが勝てる大将なんだ。加藤清正や福島正則は、本気で豊家の為に東軍に加勢した。秀頼が西軍の総大将、もしくは関ヶ原に輿に乗って千成瓢箪の馬印を上げてでてくれば、清正も正則も確実に寝返った。従って、西軍の勝ち。
関ヶ原の戦いが始まった時点でどうしようもない。家康に夜襲を掛けるか、会津討伐後まで待つしかなかった。
会津討伐から引き換えして関ヶ原に向かう時に上杉が追い討ちをかければ歴史はまた違ってたと思います
@@たいき-n1t 上杉が追い打ちをかけたら背後から伊達と最上が…だから上杉は実際に会津から動けなかったわけで
半兵衛の息子を登用していたら岐阜城は簡単に落ちなかった。細川ガラシャを死なせたのもまずかった。
豊臣秀頼だけでしょ。豊臣vs徳川にならない限り厳しい。内情はともかく上杉討伐が秀頼の名代として家康が動いている以上現実味は薄いけど。
島津義弘と言いたいところだけど、兵数を率いすぎた時って島津家による九州統一戦みたいに目立った戦果がないんですよね最大の戦果を挙げたとされる泗川の戦いでも兵が8000程度なので、寡兵かつ1万程度かそれ以下の兵数が一番最強になると思います(というか庄内の乱以降ではガチで出せても1万程度でしょう)兵数1万程度では戦場では無双でしょうが、政治的な立場がないので総大将は無理でしょうね
大将は知らんが、大津城攻めで足止め食った立花宗茂が殆ど失わなかった15,000の手勢を連れて間に合っていればボイコット島津義弘も奮戦したかもしれないし、それを見た寝返り勢は転身見送ったかもしれないとは言われてるな
宗茂が率いた4000ってのは柳川領内からすればほとんど限界を超えた動員だそうだし、立花だけで15000も集めれないと思う。あと宗茂自身の言葉で「人それぞれ率いるのに向いた数がある。自分は2000人くらいが丁度いい」って言ってたくらい、1万超えて縦横に動かして戦ができる人間は、日本では数えるくらいしかいないからなぁ…
言ってたわ。 宗茂語録では有名な奴なのに失念してたとなると鎮西仲間が来て義弘が早期に動いたところで造反組は結局寝返ったかも...
総大将毛利輝元•大将宇喜多秀家•軍師黒田如水•後方支援石田三成•大谷吉継の布陣なら対抗出来るかも
淀殿がいなければ、秀頼出陣が実現し、豊臣恩顧の武将たちは東軍を離れ西軍勝利でしょう。
立花宗茂は、別動画で小早川秀秋が西軍につく場合のキーパーソン的な扱いだったな。優柔不断な秀秋の監視役として大谷吉継と同じような場所に布陣していれば、宗茂の武勇に恐れをなした秀秋は家康を裏切り、当然宗茂も一緒に家康の陣に斬り込むだろうから吉川広家や吉継配下の4将といった西軍側の日和見組も傍観し続けたり家康側につくわけにはいかなくなり…という事に。
バテレンが日本狙ってる時代だから、もし西軍が勝ってたら、或いは長期戦となってたらヤバかったかもね。
ifで誰かが存命していたら・・・だったら沢山いるけど、関ヶ原存命武将から探すのは結構難儀ですね。関ヶ原時点での最善策は秀頼が家康と三成に惣無事令を出すべきだったと思います。三成は間違いなく従うでしょうし、家康も表向きには強硬し辛いでしょう。仮に戦を強硬したとしても、三成が兵を引いて秀頼から惣無事令が出たら、福島正則や加藤清正、黒田長政あたりが家康に協力して豊富に刃を向けるとも思えませんし。豊富(特に淀殿)が自家の置かれている立場を理解せずに胡座をかいた所を家康に漬け込まれましたね。
こういう思考遊戯は面白いですね。エンタメ的には黒田官兵衛が三成の要請と自分の野望で家康と真っ向勝負!が見たいです。
イフ話でもそもそも西軍が勝とうと思えば1日で決着をつけなければいけない。東軍にも3万を超える秀忠の別動隊もいたから。大阪で石田三成が構えて現場で立花宗茂、島津義弘あたりの現場の戦術眼が鋭いのに指揮を任せていればもしかしたらあったかもねー
疫病神の石田三成が一切関わらないこと
それは無理なんだよなぁ家康は戦を起こすために三成を利用する必要があったわけだし
@@もふもふ-x4p 無理ゲーで草
岐阜城落ちた時点で「総大将に腹を切らせな示しがつかん、でも毛利とは和睦で話がついとる…せや!三成が首謀者やったことで手打ちにしよう!」だったから「いつの間にか総大将になってしまってた」「またしても何も知らない大泉洋状態」だからねぇ…→三成
黒田官兵衛くらいかな?生きてりゃ前田利家
おー最後の銅像は浜松市にある「徳川家康像」じゃないですか😊
豊臣が勝つとしたら秀長が存命、官兵衛が味方につくこれが最低条件。どちらもいないとなると勝利は難しい。
既に亡くなっていた人は無しでしょう。そんなことしたら、何でもありになってしまう象〜
豊臣秀頼公‼️ 大阪の陣でも 大将旗を掲げていれば💪
もしもの話だからね。大将は秀次で副将を前田利家として、軍師に黒田官兵衛、真田昌幸、直江兼続を置き軍師の序列は官兵衛、昌幸、兼続の順にして昌幸、兼続は官兵衛が自己の天下のために動くことをけん制させ、更には三成に兵糧や軍費の徴収に当たらせればかなりの布陣かとこうなれば、三成憎しで東軍についた豊臣恩顧の武将は西側に寝返りしたであろうな。家康はこうなると相当の人材を集めなくては対抗不能となる為もしかして戦いそのものが無くなってしまうかな。
兼続は後方支援でいいかと、軍師も昌幸だけで何とかなった気がする
関ヶ原合戦前、島津義弘と石田三成の6000人の軍勢で、…徳川家康の陣へ夜襲を掛けるべきだったと思います‼️なら1日で終わらなかった。
石田三成でも勝てたと思う、伏見城に戦力持ってかれ過ぎたのと陣配置が悪すぎた立花軍が間に合ってたら陣配置も変わってたし押し切れたと思うまぁあとは淀姫を縛り上げて牢にいれてたら勝てた(秀頼出陣で)
戦略的には間違いなかったが兵を失いすぎたのは戦術の問題もあるだろうしそもそも上から目線の三成にどれだけの人望があったか…幹部を大谷など三成の友達で固めてあとはただ豊臣に忠誠高い地方の大名を利用しただけイフだから島津や立花が出てくるが秀頼以外でだとそのあたりの大名に現場指揮取らせないと確実に勝てない
@@あさやかたやは 義弘公が軍勢連れて来れなかったのも敗因ですよね、前日の軍議で義弘公と吉継公が奇襲を提案したのにそれを拒否真田昌幸公が危惧した通りになってしまいましたよね
近代史専攻の外国人に関ヶ原布陣図を見せたら再軍が勝ったんでしょ?っていうくらいには配置は良かったはずですがー?
案内人のさおりさんが総大将。めっちゃ好きやねん
帰蝶様の生まれ変わりかと思います。
真面目にやりなさい😡
豊臣秀頼です!
すみません、ガチ西軍に小西行長がぬけてます。彼は三成閥だし、宇喜多直家元家臣とはいえ秀家の家臣でなく肥後半国24万石の領主(三成より多い)。朝鮮出兵で清正とは別に先駆けしたのになぜか武将として評価が低いですが(維新の西郷びいきがアンチ大久保を作ったみたいに、清正びいきがアンチ行長作ったやも?)、関ヶ原は正面から東軍を迎え撃ち、奮戦してます!だから三成や恵瓊とともに戦後処刑されてますし…お願いですから入れてあげてください。可哀想すぎる(´;ω;`)
堺の商人ではどうしようもないです。
私的に西軍の総大将として三成が神輿として上げるべき人物だったのは(毛利)輝元ではなく、亡き信長の孫であり正統な後継者であった三法師こと織田秀信だと思う。
西軍の大将は豊臣秀頼君の1択。但し、大阪城より出陣いないと厳しい。秀長、秀次、利家いづれも生きていれば関ケ原事態起こって無いのではないか?。と思う。ifの話は余り好きではないけど、どの話も考えれば考えるほど、起こるべくして起こり、結果も当然のようにその結果になる、ラプラスの悪魔を信じたくは無いけどそう感じてしまいます。
仮に家康が途中落命していても、代わりの「徳川」が江戸幕府をひらく事になったり、三成が秀吉に抜擢されなくても、代理三成が見つかり、歴史の流れは大きくは変わらないのかな…とも思います。
石田三成だから関ヶ原の戦いがあるんでね。それ以外の場合、まず、家康がどう動くか?考えないといけません。
西軍に秀長秀次前田利家三人いて軍師に黒田官兵衛真田昌幸島津義弘そして秀頼をお飾り大将にすれば家康に負けないでしょう
思ったけど当時石田三成は蟄居の身だったし総大将でもなかった。つまり三成が西軍の有力諸将の1人…というだけでダメだったのでは?あの人がいる限り自分が指揮を執る!!ってなりそうですしね…ってことはあの人の性格から変える必要がありそう?www←自分は三成アンチではないですよ( ̄▽ ̄;)
豊臣秀頼一択w
西軍の人員から誰を出しても無理だな。最大戦力で総大将毛利にやる気無し、豊臣秀長、秀次、前田利家は死んでるから論外、島津義弘も徳川方で参戦したはずなのに城に入れて貰えず生き残る為に西軍についたので総大将はない。そもそも家康側の黒田も無い。戦の大儀が豊臣家の為にと両方が言ってるので豊臣秀頼も担ぎ出せない。可能性としてはやる気満々の毛利という前提で、毛利輝元大阪城より出陣、石田光成はメインから外れて田辺かどっか別な戦場へ、秀頼から徳川を討てとの命令を受けて逆賊討伐と出来れば豊臣恩顧の連中が寝返るかも知れない。でも始まった時には結果が見えていたからなぁ。
私も前田利家だったら勝ったと思います🇯🇵人望カリスマが有る前田利家ならやと思う🇯🇵ただ石田三成を前田利家は嫌いやから…西軍に付く可能性は低いかなぁ〜…総大将でも断ってたかも😢
利家や秀次、秀長の1人でも存命ならば、そもそも関ヶ原は起こっていないのとちゃいますか?
凄いメンバーですね。豊臣秀次、前田利家、豊臣秀長はそもそも生きていれば東西の形は変わっていたので別ですが、島津義弘、立花宗茂、黒田如水、この三人だけでも相応の兵数で関ヶ原にいれば、むしろ圧勝していたでしょう。三成がそういった政治力があればそもそも家康に持って行かれることも無かったと思いますが。直前の義弘の夜襲策は創作とも言われていますが、その他でも寡兵とは言えその判断力を重用していれば。まあ実際は義弘すら裏で籠絡されていたわけで、一部の「お友達」しか動かせなかった三成の甘さはかなりのものでした。長宗我部盛親にしても、きっちりと家督相続を認めていれば大兵を動員できたかもしれず、それだけでも南宮山から単独で山を降りて家康を挟撃できたでしょうね。
西軍で総大将たる器があり、実績もあり、大軍を保持している武将として挙げれば上杉景勝次いで宇喜多秀家。人物だけで挙げれば立花宗茂、島津義弘、真田昌幸、毛利秀元、大谷吉継ぐらいかな。
ちょっとゲームの影響を受けすぎでわ(汗)
ゲームの影響抜きで大谷吉継や島津義弘や立花宗茂、真田昌幸は実績もあり間違いないかと…
秀次、秀長、前田利家くらいでないと、権威としてだめだと思う。島津や立花が有能なのは間違いないが、大将としてではなく一部隊としての活躍の方がしっくりくる。小早川隆景が長生きして、五大老に並ぶほどになっていたら、毛利輝元とセットで可能性があったかも?
立花と島津の共闘があれば普通に勝てましたな。
大軍率いるとなれば、大谷吉継でしょうねやっぱり。立花宗茂は数千までならいいでしょうけど。
始めから大坂城に籠っていた毛利が秀頼とともに参陣すれば勝っていたでしょう。なんなら猛反対するであろう母親の淀君は軟禁するなりして強引にやってもよかった それくらいのターニングポイント。そうすれば家康は攻める口実を失い、東軍の武将からも離反者がでた。できるなら、東方の大名に家康討伐の勅命をだして挟撃すれば、それで家康は詰んでいた。ただ、家康が凄いのはそういう状況をつくらせず、たった一日で決着をつけたところ。
秀次総大将であれば伊達も西軍、上杉と共闘って可能性もあったかもそうなれ佐竹もそれに参加...たやすく関東を家康は明けれなかっただろうな関が原自体起こらなかったかも
普通に関ヶ原で負けた後でも、大坂城を毛利輝元さんが開城しないで籠城していれば、少なくとも徳川家康さんの天下にはなって無かったと思う~朝鮮出兵で実戦経験を豊富に積んだ西国武士たち10万騎が籠城したら大坂城を落とすことは実質不可能ですからね~
秀頼は関ヶ原当時は7歳だから、総大将にする場合、後見人が誰かが大事でしょ。三成が担いでも、反三成派に「秀頼様はたぶらかされている。お救いしなければ。」って話になって、豊臣家臣からは、顰蹙を買うだけでしょ。
if は 無理筋でも楽しんだ者勝ち。
秀次、秀長、辺りが存命ならば
全く違う歴史になりそう。
利家と秀長についてはもし存命ならそもそも関ヶ原の合戦が起きていなかったと思う。
黒田官兵衛が西に居れば黒田長政も東にいない事になるだろうから、かなり面白い展開になっていたかも。
まあでも西に武将が集まらなかった理由が三成の人望の無さだとすると、三成以外が指揮していれば大大名クラスなら誰であっても善戦したor起きなかったって可能性が結構高そう。
福島正則とか加藤清正とかは三成憎しでやってた感もあるし。
そもそも、利家存命中は家康も大きな行動を起こしてないので、影響力は明らかですね。
そりゃ、豊臣秀頼でしょう。
@@yi4383 さん
その通り!「千成瓢箪」には、刃向かえないのが、西国大名たち。
@@capsawa63
官兵衛は気持ちは西寄りだったかも知れない。
家康が長政の右手を握りしきりに感謝していたと知ると、長政に対し「お前の左手は何をしていたのだ!?」つまり空いた手に短刀でも持って刺せただろうと叱り飛ばし、叱られた長政は凹むばかりだったそうです。
淀を亡きものにしても秀頼を総大将として担ぎ出してれば 加藤清正 福島正則の抑えとしていい勝負できたんじゃない??
総大将軍監「豊臣秀頼」、大将「毛利、上杉、宇喜多」、参謀宰相「真田昌幸、直江兼続」
島津義弘はもともと家康派でしたが、領地における「庄内の乱」などを要因に、多数の兵数を率いることができなかった上、西日本の大名の多くが西軍に味方したため、西軍に所属せざるを得なかった経緯があります。そのため、もし多数の兵を揃えることができたのなら、間違いなく東軍に所属していたでしょう。
島津義弘公は徳川家康との密約通り、二条城防衛のため、二条城に向ったが、城代鳥居氏に追い返され、挙げ句の果てには迫って来た西軍と一戦構える戦力もなかった。
それで仕方なく西軍に加わった。私の母方は尾張徳川家の連枝で(分家)高須家で
「島津家かろの合意文書」のオリジナルをシッカリみてますよ。
@@浩三芝崎さま。
鳥居元忠が城代を務めていたのは二条城でしたっけ?
私は伏見城だったと記憶してます。
間違ってたらすみません(^^ゞ
@@yasu5987 様
私もどちらだったから、記憶が定かでございません。間違っていたなら申しわけありません。ただ!島津義弘公としてはドタンバまて迷ったようちですよ。
家康派は兄の義久で義弘は秀吉や石田三成と懇意であった事で最初から西軍派だったとも言われてますね(現に上杉に島津は西軍にお味方しますとの書状が現存)
秀吉に好かれる一方、豊臣嫌いの義久の間で板挟みになってたようで相当苦労してたみたいですね
@@真島吾郎-i2r 伏見防衛を断られたことで心置きなく西軍に入ることができましたね
秀次がいれば関ヶ原も起きてはいない気がしますが、それでも秀長総大将の関ヶ原は想像を掻き立てられます。
そもそも、利家や秀長が生きてれば関ヶ原の戦い自体起こってない。
強いて言えば、強引にでも西側が秀頼を担ぎ上げていれば、東軍の加藤や福島、秀吉子飼いの武将達は参戦しないし、その分時間稼いで立花宗茂が間に合えば勝てそう。
関ヶ原時点で生存している武将に限定して考察すべき
それはそう。じゃないと利家・秀長、それに秀次等生きてたらそもそも関ヶ原の合戦自体起こらなかったのでは?の議論まで戻ってしまう気もする。
西軍の総大将として 豊臣秀頼が出てこない限り、 西軍は 勝てないと思います😤
これなら 福島正則 や加藤清正が西軍に寝返る可能性が大きい
石田三成 も「秀頼様のため挙兵 」と言っておきながら、
実際の 豊臣秀頼は、お飾りとして 大阪城にいただけ、
これでは豊臣恩顧の大名は動かせない😰
「豊臣秀頼 自ら 西軍の総大将」として動いてれば 関ヶ原は西軍が勝ったと思います
そも淀殿が東軍側やしなぁ
旗だけでも詐称すればよかったかも
@@akirakitahara3752
マジで、それだけでも 西軍が勝ったかもしれませんね😄
@@キングダムマニア こうやって秀頼出陣の可能性を考えると、史実では秀頼が手中に無く、上杉征伐に参加している諸将の妻子は大阪にいるみたいなところから関ヶ原勝利までもって行った家康はやばいわ
@@matukawatositane
ええ、家康は、やばい人だから 天下取れたんだと思いますよ😄
嫌われものの 石田三成がどう でしゃばる とか、 人格込みで計算してたと思いますね
淀殿とかの人格も込みで色々 計算してたと思いますよ
家康は、戦場の戦術だけでなく戦略の面でも、 「西軍への調略による切り崩し」も凄いもんで、 関ヶ原の合戦直前に むちゃくちゃの枚数の手紙書いて、 送って ますからね
関ヶ原って正直あれ 「手紙調略と寝返りのみ」で、勝利してるようなもんで、
どんだけ人の心読めるんだよ⁉️家康公は…😱
多分 「豊臣秀頼は絶対お飾りにされる」まで読んでいたのでは?
だから戦争という博打を平気で撃ってきたんだと思います
いつもケチで、慎重なのに
絶対勝てると踏んだ時のあの果断な行動力
本当に家康公は、やばい人です
天下を取るべくして取ったレベルの才能の持ち主だと思います
諸将の人質も、結果「家康にプラスになる」をなんらかの勘で完全に見通した上でやったんじゃないかな?
たとえ大将が石田三成でも、あくまで「豊臣家vs徳川家」の構図に持っていければ十分に勝てたと、私は思います。そのようにさせなかった家康が上手だった、、、と言われてしまえばその通りですが。
裏を返すと、豊臣家はここでその形を取らなかったことが、十数年後の運命を決めたのだと思います。
根回し大事ってわかる歴史ですよね
そりゃ、豊臣秀頼でしょう。
まがりなりにも朝廷にも秀頼にも公務としての許可を得て豊臣政権の公式かつ正式な行事として体裁を整えた会津征伐とは違い、内府弾劾は不在の隙を突いた騙し討ちも同然の決起ですし。
これに乗っちゃったら要するに「秀頼の身柄さえ抑えれば何を言ってもやっても良い」という悪しき前例を作ることになるから乗りたくても乗れなかったというのもあるんでは。
西軍の総大将は毛利輝元。石田三成ではありません
そりゃあ、もちろん豊臣秀頼が総大将になっていれば、東軍に加わっていた豊臣恩顧の大名も手出しできなくなって
逆に秀頼様にお味方しますといって東軍に攻撃していただろう?
毛利がもっと家内で団結して輝元が総大将として積極的で動いてれば結果は違ったかも知れないですね。
三成は嫌われものと言っても、大谷吉継、直江兼続、島勝猛、真田昌幸、佐竹義宣のような将を引きつける不思議な魅力もある。
結局毛利も西軍としての活動より西国の覇者に向けてっていう…
元就「天下狙うな器じゃない」
隆景「天下狙うな器じゃない野心持つな」
輝元「野心持つで!!」
広家・家臣団「あっ(察し)」
仮に隆景が存命だったら安国寺恵瓊は誅殺、輝元はボコボコにされて広家はパシリにされてそう
@@susa2439 思いっきり徳川派に舵切ってた可能性が大だと思う。
小早川隆景が存命だったら家康も毛利家への接し方も全然違ってただろうしな。
いIFとして毛利・黒田(如水)による九州・中国連合もあったかもな。
「もしも話し」楽しいですね。
あーだこーだと思いを巡らせるのが面白い☺
吉川元春、小早川隆景が元就ぐらいの寿命であればどうなっていたか毛利隆元が長寿ならどうなっていたか
元春って秀吉嫌いじゃなかった?
イフの話したら血眼になりながら怒る奴いるけど議論が盛り上がるのはイフ話やと思う
これからも続けてほしい
そもそもが諸説ありますしね。(^_^;)
秀頼が総大将だったら、そもそもが豊臣臣下の内部戦争という構図が崩れるから関ヶ原で家康に大義名分がなくなる。
豊臣秀頼しか勝たん
関ヶ原の参加した
大名の殆んどが
豊臣恩顧の大名
ばかり
関ヶ原に出てくればその時点で勝敗はつきますよね。戦の能力云々関係なしに…。
でも動画はたぶん意図する所はそこではないんだろうなって思いますw
そもそも総大将になって勝てる見込みのある人が当時存命だったら家康が仕掛けてないからなあ、、、
あとは輝元大将に据えないと毛利が加担しなそうという、、、
秀長、利家、氏郷以外思い浮かびません。その時点で残念です。
秀長利家氏郷そして小早川がいたら関ヶ原は起きてはないと思う。
豊臣が領土を維持していたかは微妙だが
秀長がいたら石田三成をなだめていたと思うし、家康も下手に動いて無かったと思う。
黒田官兵衛がありなら。。。
希望で
真田昌幸
これが上田城じゃなくて
関ヶ原にいたら。。。
もちろん、東軍の勢力が凄いことになりますが、もっと面白い戦いになったと思います
真田昌幸は平地では勝てんよ。籠城戦、地の利を活かした作戦は評価が高いけど、関ヶ原の戦いに於いて、指揮を取らせても所詮謀将、誰も言う事聞かないわ
上杉景勝を総大将に
必ず官兵衛を西軍に加えることができれば
勝てる少なくとも僅か1日で終わることはない
景勝は北にいるので本軍総大将…ってのは無理な気がします…
@@NOBBU_ たしかに景勝は東国の要なので中央の戦の総大将になるのはきついかもですね ただ革籠原の戦いが起こり会津征伐軍をはねかえし最上領、越後を抑えることができれば慶長版奥羽越列藩同盟の総大将として関東とやりあうことができたかもしれない
よくよく考えるとそうですね
とはいえ毛利は全く動かず
毛利 上杉 くらいしかでも総大将になれそうな人物はいないですよね
豊臣家臣団の誰かでは家康とは貼り得ない
@@shivt3014
うーん。それは本戦が一日で決着がつかないことが必要ですよね、、、1番いいのは自分たち全滅を覚悟して徳川本軍を真田と共に挟撃するのが良かったと思ってます。まぁ不可能ですけど😂
昌幸は動きますかね
仮にできても漁夫の利パターンで
裏切りそう笑
豊臣秀次 豊臣秀長 を入れるのはナンセンスかと思います
関ヶ原の戦いは 徳川対豊臣 ではなく
豊臣家家臣団の内部抗争であり
それをタクミに利用した家康の策略
前田利家が生きていれば
関ヶ原の戦いは起きなかったとは思いますね
他は誰がやっても同じです
武士は格が必要
立花 あたりでは誰も従わない
なので 三成も 毛利を総大将にしたわけです
因みに 島津は 内部抗争が本国で起こり 関ヶ原の戦い に出るのが厳しかった
この内部抗争は徳川家康が糸を引いたと言われている
非常に難解なテーマです
史実で考えるのであれば西軍の中で家康に対抗できる大名は存在しないと考えます
それ以外なら中立の豊臣秀頼、東軍の黒田官兵衛そして伊達政宗、加藤清正+福士正則の連合が唯一対抗できるかと思います
前田利家、豊臣秀長が存在しているのなら家康の独断はできませんし関ヶ原も起きないでしょう
伊達政宗にやらかしてほしかった
秀次が生きていたら、秀吉が織田家を兄弟の中を裂いたように、家康も同じようにしたことでしょう。
三成が担がない方を正統性をぶちあげて数年後には秀吉がしたように、乗っ取りをした可能性は有りますね。
利家亡き後、跡継ぎの利長がもう少しマシな感覚なら前田、上杉連合は結成が容易だったはずで、そうなれば関ケ原自体が起きていた可能性が低い。
関が原は豊臣家の家臣と家臣の戦という建前があるから成立したもので,仮に三成が秀頼を総大将に立てることに成功していたら合戦は成立していなかったでしょう。豊臣恩顧の大名が離反するのは確実ですし、そもそも上杉討伐自体が強行できたかどうか。そういう意味では秀次・秀長が存命だったらというifは関が原に関しては成立しないかと。逆に言うと他は(前田も含めて)毛利輝元と似たり寄ったりの結末だったと思います。
Hajime
利家なんて家臣団五大老の中で頭ひとつ抜けてるんだから徳川や上杉で対抗できるわけ無いじゃん。
残りの四人全員で団結でもしない限り豊臣家中は全員利家方に着いて終わりだよ。
利家、秀長、秀次が生きていたら関ケ原の戦い自体が起こっていない可能性が高いと思いますが、
それはさておき、家康に伍することができて総大将が務まって豊臣政権での影響力が高い武将と言えば、
黒田官兵衛、小早川隆景あたりでしょうかね。
この中には無いですが、
小早川隆景を選びます。
亡くなってるのは承知の上でですか?
@@bristol_._VPN さんへ、
もちろん知ってます。
動画では亡くなった利家や秀次を
入れてるので選びました。
関ヶ原の存命中限定だったら
島津義弘を選びます。
隆景は毛利家臣というスタンスを貫くと思いますので、輝元大将隆景存命verって感じですかね!
@@yuhi383 さんへ、
仰有る通りですね。
隆景の存在は必要不可欠で有り
替えが利かない程に得難い名将ですね。
秀頼が大将で関ヶ原に出てくれば加藤、福島はあんなに奮闘せず毛利も戦闘に加わり小早川も裏切らなかった筈。
秀頼が陣頭に立って姿を現すだけで、東軍の将兵はその場で全員、武器を置いてひれ伏したかもしれないと思うが、どうだろうか?
@@MMKK-gk4if 福島正則あたりは武器置くどころが反転して東軍に突っ込んだと思う笑
家康は前田利家がしぬのを待って動いているので生きてたら何もおこらずやっぱりしんでから動いてたでしょうねえ。秀次と秀長はどちらも生きてたら家康は敵対しないでしょうからないかなと。島津と立花宗茂はワンチャンありますが勝てるまではいかなかったかなと。でもどちらかが本気で参戦が間に合っていたら家康もまた秀忠の到着をまってたでしょうから開戦できなかったか、戦ってても双方の被害はもっと大きくなって、その後に大きく影響していたのではないかと思います。そもそもこれって豊臣政権の内紛ですから、その中の名実ともにトップの家康VS誰かな時点で家康の負けはないかなと思います。
毛利家が本気でやっていれば、西軍が勝っていたよ!!小早川秀秋じゃなく、隆景がいたら普通に西軍が勝っているよ!!
せめて安国寺恵瓊と毛利秀元が吉川広家の前に布陣してくれてたらなあ。
あと、宇喜多秀家が本来の家臣団を率いていたら。
小早川隆景が生きていれば家康は立たなかったと思いますよ。
豊臣秀長、前田利家、小早川隆景
この3人の誰か1人でも生きていれば…
@@broooockそれな😢
まぁその三人が生きてる限り家康はそんなことできないやろうなー…
関ケ原では誰が総大将であろうと、最善で膠着だろうなあ、大阪の陣までに秀頼公が所信表明できたなら、結果は徳川幕府だろうけど、なにかしら起きたかもしれない
ifシリーズ好き!次は朝鮮出兵についてやってもらいたいです。
立花宗茂だったら島津義弘と一緒に家康本陣突入してたんじゃないかな?
吉川広家が足止めしてた連中が参戦、小早川秀秋が西軍につく、これ位やってようやくある程度は渡り合えるか?ってレベルだと思うわ
このifの根本的間違い
関が原決戦の時点で東軍の勝ち
西軍が五分に持ち込むには、近江八幡まで引いて戦える度量が求められる
当時、そんな武将は西軍には幾人かいるかと思われるが
その際の最大の問題は、たとえ有能な人材が主将についたからと言って、全軍が下知に従わなければ勝てないという事。
そして、全軍が下知に従うような人材が西軍にはいない
一方で東軍にはいたというのが全てだろう。
船木祥啓
まあ関ヶ原の大草原で戦わなければ大規模野戦が実現できないので、ifを語るにしては派手さに欠けるというのと、野戦ができなければ手柄を立てにくいので諸将の指揮が下がるというのがある。
合戦がたった一日で終わっていなければどう転ぶかはまだ分からなかったので、とりあえずは数日間持ち堪えることですかね。徳川本軍の進軍は遅れていたのでかなり猶予が有るし。
途中に石田三成の佐和山城が有り、攻め込まれる。そんなことはさせはしないのは関ヶ原合戦で、佐和山城を攻めると言われて野戦に出て来ている
利家・秀次・秀長、誰か1人でも存命だったならそもそも合戦は起きない・起こせない。
上記3人以外の場合なら誰が大将でも戦を止められないし、家康には勝てないでしょう。
秀勝は?どうなの?
@@佑亮-p3m 官位は高いが秀勝ではムリでしょう。他にも官兵衛やら宇喜多・隆景等の名を挙げてる方もいらっしゃいますが…私的に全て論外ですね。
毛利輝元が大阪から松尾山に陣取ってやる気満々だったら毛利一族がやる気だす。さらには+長曾我部+朽木とか日和見ザコもほとんどがごっそり西軍についていい勝負になりそうな気もするんですよね
@@inoueinoue7281 輝元は家康と比較し領土は半分以下、武将としての『器』は更にその半分以下…到底勝ち目は無いと思います。毛利を語るなら先ず閥閲録をお読み下さい。一級史料です。復刻版ならネットで数万円で購入可能です。
島津義弘か立花宗茂
秀次が生きてたら家康は動けなかったでしょうね。
なので秀次事件って実は家康が秀吉に何かしら吹き込んでた可能性を私は感じてます。
黒田如水かぁ、面白いですね、
関ヶ原を利用しようと企んだ人物がトップとなれば動きも変わってくるでしょうねー、
動きを見てる限り毛利と変わらなかったと思われますが…
ただもう少しマシな戦いはしたでしょうねー
ガチが気になる。石田三成が七将による襲撃事件の過程で落命していた場合の、豊臣政権や家康の天下取りの行方の考察を御願いします。
見てみたい。
なろうにその設定の小説が有ったよ。慶長動乱記~もしも石田三成が慶長四年の襲撃事件の際に死んでいたら?~
そもそも利家が生きていれば関ヶ原の戦いは無かったですよね。それは秀長の場合もそうだと思いますが、、、。
関ヶ原の戦いなんてのが起きた時点で西軍は結構詰んでたよな。
秀頼がある程度成長してて総大将をかってでてくれれば可能性出てくるかもしれないけど、
大坂の陣の時のように茶々が横槍を入れてきそう。
茶々だけに「ちゃちゃ入れる」
つまらないダジャレはさておき茶々の横槍が入ったのは間違いないですね
今回のifは誰がいてもやはり厳しそう。家康を「朝敵」「賊軍」レベルにおとしめることができたら、ワンチャンいけるかもと思いました。
戦争や政治には「大義名分」がいかに大切か痛感しました。
いっそ、小早川秀秋。
それは案外に面白そうですね。
秀秋みずから関白代行して、下知を下して五奉行署名したら官軍ですね。ただし秀秋の自主的が前提ですが。
「みな、わしのことをうつけと思っておろう。内府も少々アメとムチをくれてやればわしが簡単に寝返るものとなめておったであろう。しかしわしは内府どのの誘いに乗ったふりをして、今のような状況がくるのを待っておったのだ。徳川軍は前に出すぎた! 今こそ山を駆け下りる時ぞ! 南にはひそかに長曾我部どのに山を降りて貰って逃げ道を塞いで貰っておる。ゆくぞ!」
確かに裏切ることもないし案外間違いないかもですね笑
石田三成でも勝てる
秀頼様出陣の噂を流させて千成瓢箪をかっぱらってでも本陣に置く
勝ってしまえばなんとでもなる。
毛利が総大将になっただけでも凄いと思うな。
毛利家がバラバラなのが痛い
逆に石田三成が総大将でなかったら、もうちょっと苦戦したと思う。
秀頼が戦場に出て、真田や島津の意見を採用していたら家康は危なかった。
関ケ原戦は淀殿派と高台院派の対立の結果でもあるから、初めから西軍に勝機は無かったかもしれないね。
合戦を起こさず家康の寿命をひたすら死ぬまでまとうホトトギスでw
黒田官兵衛を総大将にして全指揮権を与えてたらわからんかったかも。あの時代、家康と同等の采配力なのは官兵衛くらいやろ
隠居してて家としても大きくない官兵衛が全軍指揮出来るのか問題
@@matukawatositane 黒田官兵衛が征夷大将軍になるじゃね?それは西軍勝ちなのか。
@@grant.leauvas そもこの時代では征夷大将軍には足利一門しかなれんからなぁ…
官兵衛さんて関ケ原合戦のどさくさに紛れて九州の大部分支配下にしちゃったらしいですね。しかも自軍の正規軍は息子の長正に預けて徳川連合に出払っており金で急遽集めた烏合の衆みたいな軍団でそれを実行したっていうんだから恐ろしい。 まあ息子長正が家康側についちゃってるから西軍に味方はなさそうだけれども
作戦として大谷吉継が埋伏の毒として当初の予定通り東軍についたフリをして、関ヶ原で裏切って家康の本陣に突っ込んでたらワンチャンありましたかね😮
大谷吉継は疑われすぎますな
宇喜多秀家あたりですかねー
生きていれば前田利家が西軍大将で勝ってた
家康に対抗しうる唯一の人物だったしな
利家死亡⇒跡継ぎ息子の利長への家康のイチャモン⇒マツさんの人質前田家無力化はなかったし、その後の上杉家へのイチャモン⇒切れた直江状による家康軍の上杉討伐も恐らくはなかったでしょうから関ケ原の戦いも発生してないと思います、慎重な家康は硬派で人望もある利家なくなるまでチャンスを待ち続けたんじゃあ?もしも家康に先に寿命がきたらそれまでと割り切って
ぶっちゃけ利家にそんな器ないと思います
大将として大戦率いた経験ないですし秀吉亡き後の養子縁組問題で家康と対立した時も結局家康の元に訪れて和解=事実上徳川に屈服していますので
前田は戦をする気が無くお荷物。無用の大名、扱いに困る大名
関ケ原の時にすでに死んでいた武将をここで上げるのはやや反則と思うが・・・
三成が黒田官兵衛をうまく使えそうにもないし
上杉は遠いし
宇喜多の秀家は坊ちゃんだし
誰も居ないと思いますw
関ヶ原では小勢だが精強な嶋津を率いる猛将(戦バカ)でし歴戦の古強者の島津義弘を総大将に据えて見たら抜群の采配でうまく行けば勝てたかも。
島津なら戦力的には申し分ないけど、島津家は豊臣政権にあまり興味が無かったからなぁ。関ケ原戦もいつのまにか巻き込まれたようだし、淀殿のためにそこまで熱心に戦わないかも。
参戦した将から選ばないとスタートラインが違ってしまう。
参戦した武将の中なら島津義弘一択ですね。朝鮮の役での指揮も良かったし結果だが3百しかいない状態からのあの退き口は現場での素晴らしい指揮と戦術がなせた技戦後の交渉では兄義久が主だったとされるがこの交渉でも領地を一石も失わずに済んでいる。
結果論から関ヶ原参戦の武将の中では島津の指揮が1番可能性はあった。
武家官位から考えれば史実通りの毛利輝元か、それ以外なら宇喜多秀家以外考えられないのが厳しいところ
石田三成が戦後の責任押し付けられて色々言われますが治部ごときでは各諸侯に命令する権限もないし聞くとも思えません
そのような制度にしたのは秀吉なので仕方ないでしょう
西軍は、初め石田三成隊と大谷刑部隊だけで押していたぐらいだ。
秀頼が、秀頼だけが勝てる大将なんだ。加藤清正や福島正則は、本気で豊家の為に東軍に加勢した。
秀頼が西軍の総大将、もしくは関ヶ原に輿に乗って千成瓢箪の馬印を上げてでてくれば、清正も正則も確実に寝返った。従って、西軍の勝ち。
関ヶ原の戦いが始まった時点でどうしようもない。
家康に夜襲を掛けるか、会津討伐後まで待つしかなかった。
会津討伐から引き換えして関ヶ原に向かう時に上杉が追い討ちをかければ歴史はまた違ってたと思います
@@たいき-n1t
上杉が追い打ちをかけたら背後から伊達と最上が…
だから上杉は実際に会津から動けなかったわけで
半兵衛の息子を登用していたら岐阜城は簡単に落ちなかった。細川ガラシャを死なせたのもまずかった。
豊臣秀頼だけでしょ。豊臣vs徳川にならない限り厳しい。内情はともかく上杉討伐が秀頼の名代として家康が動いている以上現実味は薄いけど。
島津義弘と言いたいところだけど、兵数を率いすぎた時って島津家による九州統一戦みたいに目立った戦果がないんですよね
最大の戦果を挙げたとされる泗川の戦いでも兵が8000程度なので、寡兵かつ1万程度かそれ以下の兵数が一番最強になると思います(というか庄内の乱以降ではガチで出せても1万程度でしょう)
兵数1万程度では戦場では無双でしょうが、政治的な立場がないので総大将は無理でしょうね
大将は知らんが、大津城攻めで足止め食った立花宗茂が殆ど失わなかった15,000の手勢を連れて間に合っていればボイコット島津義弘も奮戦したかもしれないし、それを見た寝返り勢は転身見送ったかもしれないとは言われてるな
宗茂が率いた4000ってのは柳川領内からすればほとんど限界を超えた動員だそうだし、立花だけで15000も集めれないと思う。
あと宗茂自身の言葉で「人それぞれ率いるのに向いた数がある。自分は2000人くらいが丁度いい」って言ってたくらい、1万超えて縦横に動かして戦ができる人間は、日本では数えるくらいしかいないからなぁ…
言ってたわ。 宗茂語録では有名な奴なのに失念してた
となると鎮西仲間が来て義弘が早期に動いたところで造反組は結局寝返ったかも...
総大将毛利輝元•大将宇喜多秀家•軍師黒田如水•後方支援石田三成•大谷吉継の布陣なら対抗出来るかも
淀殿がいなければ、秀頼出陣が実現し、豊臣恩顧の武将たちは東軍を離れ西軍勝利でしょう。
立花宗茂は、別動画で小早川秀秋が西軍につく場合のキーパーソン的な扱いだったな。
優柔不断な秀秋の監視役として大谷吉継と同じような場所に布陣していれば、宗茂の武勇に恐れをなした秀秋は家康を裏切り、当然宗茂も一緒に家康の陣に斬り込むだろうから吉川広家や吉継配下の4将といった西軍側の日和見組も傍観し続けたり家康側につくわけにはいかなくなり…という事に。
バテレンが日本狙ってる時代だから、もし西軍が勝ってたら、或いは長期戦となってたらヤバかったかもね。
ifで誰かが存命していたら・・・だったら沢山いるけど、関ヶ原存命武将から探すのは結構難儀ですね。
関ヶ原時点での最善策は秀頼が家康と三成に惣無事令を出すべきだったと思います。
三成は間違いなく従うでしょうし、家康も表向きには強硬し辛いでしょう。仮に戦を強硬したとしても、三成が兵を引いて秀頼から惣無事令が出たら、福島正則や加藤清正、黒田長政あたりが家康に協力して豊富に刃を向けるとも思えませんし。
豊富(特に淀殿)が自家の置かれている立場を理解せずに胡座をかいた所を家康に漬け込まれましたね。
こういう思考遊戯は面白いですね。エンタメ的には黒田官兵衛が三成の要請と自分の野望で家康と真っ向勝負!が見たいです。
イフ話でもそもそも西軍が勝とうと思えば1日で決着をつけなければいけない。東軍にも3万を超える秀忠の別動隊もいたから。大阪で石田三成が構えて現場で立花宗茂、島津義弘あたりの現場の戦術眼が鋭いのに指揮を任せていればもしかしたらあったかもねー
疫病神の石田三成が一切関わらないこと
それは無理なんだよなぁ
家康は戦を起こすために三成を利用する必要があったわけだし
@@もふもふ-x4p 無理ゲーで草
岐阜城落ちた時点で「総大将に腹を切らせな示しがつかん、でも毛利とは和睦で話がついとる…せや!三成が首謀者やったことで手打ちにしよう!」だったから「いつの間にか総大将になってしまってた」「またしても何も知らない大泉洋状態」だからねぇ…→三成
黒田官兵衛くらいかな?
生きてりゃ前田利家
おー最後の銅像は浜松市にある「徳川家康像」じゃないですか😊
豊臣が勝つとしたら秀長が存命、官兵衛が味方につくこれが最低条件。どちらもいないとなると勝利は難しい。
既に亡くなっていた人は無しでしょう。そんなことしたら、何でもありになってしまう象〜
豊臣秀頼公‼️ 大阪の陣でも 大将旗を掲げていれば💪
もしもの話だからね。大将は秀次で副将を前田利家として、軍師に黒田官兵衛、真田昌幸、直江兼続を置き軍師の序列は官兵衛、昌幸、兼続の順にして昌幸、兼続は官兵衛が自己の天下のために動くことをけん制させ、更には三成に兵糧や軍費の徴収に当たらせればかなりの布陣かとこうなれば、三成憎しで東軍についた豊臣恩顧の武将は西側に寝返りしたであろうな。家康はこうなると相当の人材を集めなくては対抗不能となる為もしかして戦いそのものが無くなってしまうかな。
兼続は後方支援でいいかと、軍師も昌幸だけで何とかなった気がする
関ヶ原合戦前、島津義弘と石田三成の6000人の軍勢で、…徳川家康の陣へ夜襲を掛けるべきだったと思います‼️なら1日で終わらなかった。
石田三成でも勝てたと思う、
伏見城に戦力持ってかれ過ぎたのと陣配置が悪すぎた
立花軍が間に合ってたら陣配置も変わってたし押し切れたと思う
まぁあとは淀姫を縛り上げて牢にいれてたら勝てた(秀頼出陣で)
戦略的には間違いなかったが兵を失いすぎたのは戦術の問題もあるだろうしそもそも上から目線の三成にどれだけの人望があったか…幹部を大谷など三成の友達で固めてあとはただ豊臣に忠誠高い地方の大名を利用しただけイフだから島津や立花が出てくるが秀頼以外でだとそのあたりの大名に現場指揮取らせないと確実に勝てない
@@あさやかたやは 義弘公が軍勢連れて来れなかったのも敗因ですよね、
前日の軍議で義弘公と吉継公が奇襲を提案したのにそれを拒否
真田昌幸公が危惧した通りになってしまいましたよね
近代史専攻の外国人に関ヶ原布陣図を見せたら再軍が勝ったんでしょ?っていうくらいには配置は良かったはずですがー?
案内人のさおりさんが総大将。めっちゃ好きやねん
帰蝶様の生まれ変わりかと思います。
真面目にやりなさい😡
豊臣秀頼です!
すみません、ガチ西軍に小西行長がぬけてます。彼は三成閥だし、宇喜多直家元家臣とはいえ秀家の家臣でなく肥後半国24万石の領主(三成より多い)。朝鮮出兵で清正とは別に先駆けしたのになぜか武将として評価が低いですが(維新の西郷びいきがアンチ大久保を作ったみたいに、清正びいきがアンチ行長作ったやも?)、関ヶ原は正面から東軍を迎え撃ち、奮戦してます!だから三成や恵瓊とともに戦後処刑されてますし…
お願いですから入れてあげてください。可哀想すぎる(´;ω;`)
堺の商人ではどうしようもないです。
私的に西軍の総大将として三成が神輿として上げるべき人物だったのは(毛利)輝元ではなく、亡き信長の孫であり正統な後継者であった三法師こと織田秀信だと思う。
西軍の大将は豊臣秀頼君の1択。
但し、大阪城より出陣いないと厳しい。
秀長、秀次、利家いづれも生きていれば関ケ原事態起こって無いのではないか?。と思う。
ifの話は余り好きではないけど、
どの話も考えれば考えるほど、起こるべくして起こり、結果も当然のようにその結果になる、
ラプラスの悪魔を信じたくは無いけどそう感じてしまいます。
仮に家康が途中落命していても、代わりの「徳川」が江戸幕府をひらく事になったり、三成が秀吉に抜擢されなくても、代理三成が見つかり、歴史の流れは大きくは変わらないのかな…
とも思います。
石田三成だから
関ヶ原の戦い
があるんでね。
それ以外の場合、まず、家康がどう動くか?
考えないといけません。
西軍に秀長秀次前田利家三人いて軍師に黒田官兵衛真田昌幸島津義弘そして秀頼をお飾り大将にすれば家康に負けないでしょう
思ったけど当時石田三成は蟄居の身だったし総大将でもなかった。つまり三成が西軍の有力諸将の1人…というだけでダメだったのでは?あの人がいる限り自分が指揮を執る!!ってなりそうですしね…ってことはあの人の性格から変える必要がありそう?www←自分は三成アンチではないですよ( ̄▽ ̄;)
豊臣秀頼一択w
西軍の人員から誰を出しても無理だな。
最大戦力で総大将毛利にやる気無し、豊臣秀長、秀次、前田利家は死んでるから論外、島津義弘も徳川方で参戦したはずなのに城に入れて貰えず生き残る為に西軍についたので総大将はない。
そもそも家康側の黒田も無い。
戦の大儀が豊臣家の為にと両方が言ってるので豊臣秀頼も担ぎ出せない。
可能性としてはやる気満々の毛利という前提で、毛利輝元大阪城より出陣、石田光成はメインから外れて田辺かどっか別な戦場へ、秀頼から徳川を討てとの命令を受けて逆賊討伐と出来れば豊臣恩顧の連中が寝返るかも知れない。
でも始まった時には結果が見えていたからなぁ。
私も前田利家だったら勝ったと思います🇯🇵
人望カリスマが有る前田利家ならやと思う🇯🇵
ただ石田三成を前田利家は嫌いやから…西軍に付く可能性は低いかなぁ〜…総大将でも断ってたかも😢
利家や秀次、秀長の1人でも存命ならば、そもそも関ヶ原は起こっていないのとちゃいますか?
凄いメンバーですね。豊臣秀次、前田利家、豊臣秀長はそもそも生きていれば東西の形は変わっていたので別ですが、島津義弘、立花宗茂、黒田如水、この三人だけでも相応の兵数で関ヶ原にいれば、むしろ圧勝していたでしょう。三成がそういった政治力があればそもそも家康に持って行かれることも無かったと思いますが。直前の義弘の夜襲策は創作とも言われていますが、その他でも寡兵とは言えその判断力を重用していれば。まあ実際は義弘すら裏で籠絡されていたわけで、一部の「お友達」しか動かせなかった三成の甘さはかなりのものでした。長宗我部盛親にしても、きっちりと家督相続を認めていれば大兵を動員できたかもしれず、それだけでも南宮山から単独で山を降りて家康を挟撃できたでしょうね。
西軍で総大将たる器があり、実績もあり、大軍を保持している武将として挙げれば上杉景勝次いで宇喜多秀家。人物だけで挙げれば立花宗茂、島津義弘、真田昌幸、毛利秀元、大谷吉継ぐらいかな。
ちょっとゲームの影響を受けすぎでわ(汗)
ゲームの影響抜きで大谷吉継や島津義弘や立花宗茂、真田昌幸は実績もあり間違いないかと…
秀次、秀長、前田利家くらいでないと、権威としてだめだと思う。
島津や立花が有能なのは間違いないが、大将としてではなく一部隊としての活躍の方がしっくりくる。
小早川隆景が長生きして、五大老に並ぶほどになっていたら、毛利輝元とセットで可能性があったかも?
立花と島津の共闘があれば普通に勝てましたな。
大軍率いるとなれば、大谷吉継でしょうねやっぱり。立花宗茂は数千までならいいでしょうけど。
始めから大坂城に籠っていた毛利が秀頼とともに参陣すれば勝っていたでしょう。なんなら猛反対するであろう母親の淀君は軟禁するなりして強引にやってもよかった それくらいのターニングポイント。
そうすれば家康は攻める口実を失い、東軍の武将からも離反者がでた。
できるなら、東方の大名に家康討伐の勅命をだして挟撃すれば、それで家康は詰んでいた。
ただ、家康が凄いのはそういう状況をつくらせず、たった一日で決着をつけたところ。
秀次総大将であれば伊達も西軍、上杉と共闘って可能性もあったかも
そうなれ佐竹もそれに参加...たやすく関東を家康は明けれなかっただろうな
関が原自体起こらなかったかも
普通に関ヶ原で負けた後でも、大坂城を毛利輝元さんが開城しないで籠城していれば、少なくとも徳川家康さんの天下にはなって無かったと思う~
朝鮮出兵で実戦経験を豊富に積んだ西国武士たち10万騎が籠城したら大坂城を落とすことは実質不可能ですからね~
秀頼は関ヶ原当時は7歳だから、総大将にする場合、後見人が誰かが大事でしょ。
三成が担いでも、反三成派に「秀頼様はたぶらかされている。お救いしなければ。」って話になって、
豊臣家臣からは、顰蹙を買うだけでしょ。