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自分も薩摩藩を見習って各種税金や社会保険料を250年分割で支払いたいです。
令和の調所広郷だな
世間はそれを脱税と呼んで非難すんやで
子孫良い迷惑で草
@@nana-xn4rm 政権転覆させればチャラにできるで
長州藩は長門・周防の2カ国だから周防も領地に入れないと。
加賀藩は木材、製塩、火薬、漆器、絹織物等もありましたので実質の経済力は、かなりあったと思われます。木材資源を守る為に、山林保護をしていました。鉱山もありました。他にも家老に本多家がいたので幕府とも友好関係でした。その経済力を背景に、幕末には強力な海軍や陸軍を有してましたが藩が佐幕Vs攘夷と割れてたので活躍が出来ませんでした。
尾張藩には木曽の木材、半田の酒や酢、瀬戸の焼き物あり実質120万石以上あり、江戸時代に藩内で一揆が無かったらしい。
加賀藩は硝石もある、五箇山産硝石は当時最高品質である意味ブランド品扱いの品だった
仙台藩には内部で角田や白石など1万石以上の大名が治めている領地もありますね特に角田は町に移行した時の初代町長が領主様、城のあった場所には公立高校が建っているなど特に存在感がありますね
仙台藩はあまりに米に頼り過ぎた経済体制だったために、飢饉の際には武士階級にまで餓死者が出る(これは他藩では見られない)ような貧窮ぶりだった一方で、豊作が続くと積年の借金が一気に返済できたようです。仙台が「杜の都」と呼ばれたのは、藩士が飢饉になっても困窮しないように武家地(藩士の屋敷)に建材や燃料に使える樹木(スギ・マツ・キリ等)や、食べ物が成るような樹木(ナシ・クワ・クリ・リンゴ等)を多く植えたために、城下町が樹木で埋め尽くされたかのように見えたことによるものです。
江戸時代にリンゴ🍎は無い。笑
@@zebra2082 説明が足らず、申し訳ありません。当時のリンゴは、明治時代に欧米より輸入され現在一般に広く流通している「西洋リンゴ」ではなく、平安時代から栽培されていた小ぶりな「ワリンゴ」のことです。
東北全般的に中身はどこも終わってますから同じ万石でも下々の負担は半端ないからそもそも昭和になっても出稼ぎしてた地域が何を言ってるの?って感想です
アワビやナマコの俵ものを売って儲けていたのでは?
@@zebra2082 恥かいたな、謝罪しろよ 無知君www
石川県民だが加賀百万石っていうのは富山とかも含めた加賀藩のことだから石川県が何でもかんでも100万石って謳うのはなんか違うと思う。
前田家の特徴は他藩の三倍にも及ぶ計算部隊ですね。家臣には各々の領地経営をさせず、このテクノクラートが藩を纏めて運営している為、藩内で統一した政策が行えており、藩政が赤字になってないという割とぶっ飛んだ藩ですね。
その真逆が仙台藩ですね。62万石の領地のうち藩主が直接統治できたのは半分ほどで、残りは「一門(例:角田石川家、亘理伊達家、水沢伊達家等)」や「一家(例・片倉家・亘理家・大條家)」といった数千石~万石単位の領地を有する有力家臣が統治していました。その一門・一家の力が強すぎて起きたのが、有名な「伊達騒動」です。それでも「裕福藩」と言われたのは、実高が100万石と表高62万石の1.6倍ほどあった上に、収穫されたコメの大半を大消費地・江戸(当然物価が高い)で売ったことで収入が多かったことによるものです。ただ、飢饉が発生すると実高が50万石とか10万石まで落ち込むことがあったために一転して藩財政が窮乏し、農民はおろか武士階級まで餓死者が出たほどの悲惨な状況になっていました。
赤字になってないは暴論すぎるだろ(笑)
18:13蝋燭の原料は漆か櫨の実だけど、漆は東日本、櫨は西日本で成長しやすい。歴史小説でけっこう間違われやすい。
日本に住んでるのにね
@@有吉弘之-e2j知ってる人なんてほぼいないし仕方なくね
薩摩藩に課された三川(木曽川、長良川、揖斐川)分流工事。これは江戸幕府終焉の遠因の一つですね。
この時、薩摩に対する幕府の仕打ちに反発する尾張藩士も多かったそうですから。幕末に尾張藩が薩長寄りになった遠因です。
薩摩義士は今でも海津辺りでは語り継がれています
佐竹氏の久保田藩は表高20万の実高45万と聞いたことがあります。初代藩主佐竹義宣が関ヶ原の戦い後50数万石から20石への減封を受けた後新田開発などに尽力した結果実高を大きく伸ばすことができたらしいです。
品種改良で寒冷地での稲作が格段に良くなったからでしょ仙台も同じ理屈でも青森までは無理だった
薩摩藩は、藩主は裕福だったかも知れないけれど領民は年貢が重すぎて貧しい生活をしていたとか・・・
金沢の人が100万石を前面に押し出すたびに「でも60万石は越中だからうちじゃん」と思ってしまう富山県民です
加賀能登越中100万石というのが正しいですよね。
@@やひ-o6rリズム感がいい笑
👏🏻👏🏻👏🏻👏🏻👏🏻👏🏻👏🏻
支配されてたし、しょうがないよね
紀州藩と言えば、紀伊国屋文左衛門のミカン船が有名だけど、鯨と銅鉱山もかなりの財源になったの。
鯨は捨てるところがないと言われるほど利用する方法が多く、油や肉だけではなく骨やヒゲ板まですべて捨てることなく利用してきたから、一頭捕獲するだけで相当な収入になったものと思われます。
@@toyo-rex4899 ご協力ありがとうございます。時代劇に登場するような、櫛や羽織を太地町の博物館で見たことがあります。
あと有名どころでは加藤清正がいた時の肥後藩かな。小麦からパンを作ることに着目して海外貿易にで手に入れた硝石を更に転売貿易して公共事業を増やしたり城作ってもその作業は農業に支障がない程度の時期でなおかつ賃金払っていたとか
測りの枡の大きさが時代によって変わる。古い枡で測り幕府に申請すると、幕府により普請事業の負担を小さく出来る。
薩摩は、太閤検地の時に「こんだけ武士がいて強いなら石高これだけあるよね?」って決めつけられたのも大きいかもねお陰で郷中と郷士(半士半農)ができ、幕末の偉人輩出や全国有数の農業県鹿児島の基礎を築くことに成功したわけだけど
米作りに適さない薩摩でそれはキツいですね。サツマイモは採れたらしいけどそれも吉宗の時代まで待たないといけないし領土は広いけど当時から貧乏だった可能性もありますね。
太閤検地は石田三成が島津が提出した家屋表とかから現地に行かずに卓上で算出したもので重税にせざるをえない体制だったから若干本来は東軍寄りのスタンスだったのもあるし、関ケ原での所領安堵も島津の外交的勝利の反面、その軍役やら重税維持しろという強烈なペナルティだったのかなって(関ケ原終わった辺りに加藤清正と戦闘したりやらかしもあり) 上杉とか毛利とかはキャパオーバーになって減封で逆に救われて幕末まで存続できたし
@@フォード-i1w 島津の御家存続と引き換えに税制維持を強いられた、か...転封された方が藩主も領民も幸せだったんかなぁ... 島津も九州統一目前まで行ったはいいけど、略奪と領地急拡大で軍が破綻しそうだったらしいからなぁ
検地は薩摩藩がやったんだよ。
だから奄美諸島を侵略し琉球国を傀儡国家にして、奄美諸島に砂糖を作らせ穀物を作らせ無かった。島民を絞り、砂糖の利益を蝕んだ。琉球国も中国との交易を続けさし薩摩の役人を常駐させ、傀儡国家として幕末迄続く。西郷隆盛が奄美大島に来た時に、薩摩の殿様は「民の為に考えている」と説いたが島民は「我らは民にも入って無い」と言った話しは有名です。
加賀藩や仙台藩は裕福な割には薩長とは幕末が対照的な結果だよね
1石は10斗、1斗は10升、居酒屋の前に飾っている酒樽が小さい物で3斗大きい物で5斗くらいです。1俵は3斗半くらい入るので、石高を測る単位と勘違いしてる方がいるが、藩によって違いが有るので精確ではないです。
頼宣を紀州に転封させたのは秀忠だったような
そういえば秀忠ーーーーーー関ケ原遅刻将軍がーーーーーーー
芸州藩主福島正則の改易があって、紀州藩主だった浅野長晟が芸州に、駿府藩主だった徳川頼宣が紀州に、駿府藩主には徳川忠長がなるという玉突き事故的な転封があった。
海外交易が許されていた表高6万石 実高25万石の唐津藩老中になる為に、わざわざ実高6万石の浜松藩に移った水野忠邦
明けましておめでとうございます。紀州藩、松前藩、特徴ある藩でしたね。ニシンは松前船で関西に運ばれました。薩摩藩、琉球貿易で儲けました。調書氏は藩政改革上手でしたね。なにか、経営改革した藩は幕末につれ力つけましたね。
国とタメ張れるようになるにはカネがあるか否かという、なんとも身も蓋もない話お陰で官軍にはなれたけど
琉球からの収入なんて大した事無かったんだが。
琉球国に進出して奄美諸島を琉球国から略奪し砂糖の生産をさせその収益は大きかった。琉球国から年貢は取っていたか不明だが、朝鮮半島へ兵を出した時には実質的に負担金を請求して居る。琉球国へ薩摩が兵を出すのは徳川の時代に成ってからだから、実質的に秀吉の時代から薩摩は圧力をかけていた事になる。砂糖は貴重品だから収益は薩摩に取って大きかったと思われる。
@@栄健 琉球との直接取引だと大した額じゃないだろうけど日本じゃ出回らない南蛮の品が、琉球経由で安く手に入るからね薩摩はそれを転売して大儲けしてんのよ
@@Y.H-g9g それが大した額じゃ無いと言っているんだが・・・薩摩藩を支えたのは奄美の黒糖だよ。
足利尊氏・源頼朝「一応、我らも乱世を終わらせたんだよなぁ」
尊氏は南北朝の動乱の要因の一つだからむしろ乱世を誘発させた戦犯だと思ふ
家康「足利は他の大名の力強すぎだし、源頼朝の子孫殺されてるし、反面教師としてワシはしっかりしよ」
尊氏は火に油を注いだようです。
尊氏は南北朝の動乱のまま世を去ってしまい、乱世を終わらせたのは足利義満ですよ
庄内藩もすごいぞ
領民が藩主交代に反対してお上に直訴しようとして酒井家に止められた
加賀藩も武士は多く居たのですが、幕末に天皇方か幕府方か殿様は幕府方に付きなさいと云って援軍を送ったのですが、家老と思いますが、どちらにも付かないと判断して引き上げて来て幕府軍は負けるきっかけを作りました。これは殿様はどうする事も出来なかったらしい。徳川方も前田家が反乱を起こして敵に回ったと考えて慶喜様も戦場から逃げて帰えられたらしい。
加賀百万石って石高にブーストかかってるからね。京の都に近いと割増なのよ。あと魚介類も石高換算してるからね。単純に米じゃない。
薩摩藩は紀州藩と並ぶ重税藩(八公二民)、藩士も貧しかったので(仙台藩と並び武士身分が多すぎという問題もあるが)、あまりお金持ちという印象はないね。確かに琉球を使った密貿易、奄美諸島のサトウキビ栽培による激しい収奪など、他の藩にはない独自の収入源とかはあるけど。
加賀藩ネタです 加賀藩は富山の薬売りを全国に広めてお得意様を作り、各家庭に富山の薬箱を設置して担当者が定期的に周り外貨を稼いでいました。そのお陰で外貨を大量に獲得し財政は潤い他の大名に貸し出しをするほどになっていました。返済できない大名には無理に返済を迫ってはいけないとの前田利家からの教えを貫き、他の大名からの信頼も厚く味方も多かったそうです。徳川家康の重臣の本多家からも家老を受け入れ、徳川家に内情を見せて反乱の意思無しを幕府に分るようにしていたそうです。
富山の売薬は加賀藩で生み出されたわけでなく富山藩発祥です。富山藩は加賀藩より10万石を内分分知して発足した藩であり加賀藩とは深いつながりを持っていますが、あくまで別の藩です。売薬は富山藩が本家・加賀藩に頼り切った財政から脱却するために編み出された産業です。富山藩は越中国富山城を中心に領地がありましたが、分藩の際に生産性の低い領地と加賀藩で余剰気味になった藩士を押し付ける形で発足しており、慢性的な財政不足に陥っていました。2代藩主・前田正甫は元々薬学に興味を持っていたことから産業奨励のために藩独自の特産品を生み出すべく、それをもとに「売薬・配置薬」のシステムを構築して以後富山藩の一大事業となりました。
尾張藩は独特ですね😅。尾張藩の補佐だった犬山成瀬氏(後の犬山藩)の居城「犬山城」も2004年まで個人の所有でしたし😅。
明けましておめでとうございます。🐇🎍🎌毎回楽しく視聴させていただいています。
明けましておめでとうございます🐇🎍🎌
ありがとうございます!
明けましておめでとうございます。🐇🎍🎌今年もよろしくお願いします!
返信ありがとうございます。こちらこそ宜しくお願いします
返信むちゃむちゃありがとうございます
返信ありがとうございます。丁寧にありがとうございます。嬉しいです💐💐💐💐
返信ありがとうございます。お正月はいかがおすごしですか?。
裕福すぎるとは・・・・・少々タイトル詐欺
過ぎない貧乏含みの丁度いい裕福ってのが有るのかねえ?
当時は貧乏な藩が大半でしたからね。察するに他よりは裕福って感じ?豪商の方が裕福な生活を送ってたのでは?
乱世を終了させたには信長公と秀吉公。
薩摩藩の治水工事は到底無理なことをやらせて財政的に疲弊させる目的があったのだけど交易したり琉球締め付けたりして倒幕していく超危険な藩で。
そもそもが関ヶ原で超少数なのに大将目指して突進突破するやばい奴ら
尾張が終わりうまい、
加賀前田藩は百万石たが、外様大名なので幕府に目をつけられないように、袷の着物の表は地味に施し、裏地を派手にしました。本郷の東大敷地内は元は加賀百万石の江戸屋敷跡で、確か11代将軍徳川家斉公の息女迎え入れるために、赤門建てたと仄聞で知りました。薩摩藩は密貿易で稼ぎ、幕府の隠密は事実知ったのですが、幕閣達は不問に付した様です。琉球藩は、薩摩藩と清(中国)の二重支配下でした。家老の調所広郷の藩の財政改革で、密貿易で立て直したのですが、幕府の陰謀か藩内の問題かわかりませんが、責任取って切腹。ただ調所広郷の息子は切腹免れ、藩内で優遇されたと聞きました。松前藩は、5年に1度の参勤交代(対馬藩は3年に1度:間違ったらすいません)。魚介類の加工品で儲けていました。いりこ(なまこの干物)とか鰊とかですね。長州藩は米や和食·蝋燭等で儲け、藩政改革に乗り出した家老の村田清風は、関門海峡渡る船に目をつけ、通行料取ります。下関は港町として重要な拠点で、関門海峡は潮の流れ早く座礁事故の絶えない海峡でした。長州藩の歴代藩主の年始の言葉は、必ず「関ヶ原を忘れるな」でした。関ヶ原の戦いで苦杯舐めた恨みを、決して忘れるなと家臣達に言い聞かせました。薩摩と長州は藩の財政改革の成功で、莫大な資金得て薩長同盟結び、倒幕に舵取り切りました。徳川家康は関ケ原の戦いで島津の大脱走(負け戦とわかり、関ヶ原突っ切って逃走)を見て、「徳川を倒すのは島津だ! 島津の動きに目を光らせろ!」と予見。敵将ながら、命賭してまで逃げ延びようとした島津の大胆不敵な行動に、家康は「徳川の世の後は、島津が天下握る」と察知したのでしょう。実際に家康の予見通りになったので、家康の炯眼の鋭さに感心しました。
琉球藩というのは存在しません。琉球は独立国で、中国とは正式に冊封関係を結んでおり、西洋諸国とも条約を結んでいましたが、薩摩(島津)とは正式(公的)な主従関係はありません。島津は琉球に関する公的な肩書きはありません。江戸幕府も琉球を独立国として遇し、琉球の官人、廷臣)たちは江戸城では公家と同じく殿上の間に伺候しました。琉球の官人たちが江戸城本丸御殿に上がるときは大目付が出迎え、将軍に御目見えした後は老中が殿上の間まで来て会釈をしました。饗応席は殿上の間や柳の間です。薩摩藩士のような陪臣の扱いではありません。元服前の少年(楽童子、雲上童子)でさえも薩摩の家老より格上でした。
@@渡名喜守太 ご指摘ありがとうございます。
@@コロッケそば-f2k わざわざご返信有難うございます。
伊達藩の範囲が少し違うような(陸中の一部も伊達藩)
人吉藩なんかかなり裕福だったみたいですぜ?米が余って、それで米焼酎造りに精を出せて、それがさらに名物になったとか...
長州藩の藩財政は凄いと言わざるを得ない。幕末の2度の長州征伐を撥ね退け倒幕まで持って行っただけの事はありますね。東北の山間にある会津藩では勝負にならなかったでしょうな。
防長三白、四白?紙塩の生産性と北前、瀬戸内航路の優位性が他藩よりも抜きん出てたのかな
尾張は木曽川上流の木曽ヒノキの産地が飛び地になっていて、木曽ヒノキを木曽川で尾張に流して、取引を独占してましたよね。ヒノキの力仕事のために、鰻(熱田のひつまぶし)が食べられたのでは・・・。加賀や仙台は冷害の年もあったと思う。薩摩藩は裏貿易が有名ですよね。
木曽ヒノキの収入は多かったのですが、安土桃山時代から江戸初期の乱獲でハゲ山状態が多くなり土砂崩れや鉄砲水で流域全体がかなりの損害を受ける事が多かったです。山の整備が進んで頻度は少なくなりましたが大雨で河の氾濫は毎年起きていました。見た目以上にお金が掛かっています。
琉球経由の中国貿易の文物を領外に売れればもっと利益上げられたのになぁ...
長州藩毛利家もかなり裕福な大名だけど。
明治初頭には内高百万石弱ありましたもんね(うろ覚え)
徳川御三家の水戸藩が出て来ない。やはり、貧乏藩だったって事なのね…
水戸藩は表高より実高が少ない上に、藩主が江戸定府のため江戸藩邸の運営費が他藩より多くかかったり、明治時代まで続く「大日本史」の編纂に多くの費用がかかったためです。
徳川光圀の「偕楽園」造りの費用を増税、年貢を上げる事で捻出したとか😳
@@toyo-rex4899 さま「大日本史」そうでしたね。水戸藩が頑張って日本中の歴史を聞いてまわり、歴史書物を歴代で作ったお陰で、私達は沢山の歴史を知る事が出来たのですよね。感謝しなきゃ。
@@畑野よしゆき さま「偕楽園」の中に池を造らなきゃいけなかったらしいですが、水戸藩はお金が無いから、目の前にある千波湖の場所までを偕楽園の領地に入れて、池を造らずに節約したそうです。(ブラタモリで言ってた)。
名古屋と紀伊とは真逆
伊達政宗は杜の都の基礎を作ったんやな。
佐賀、鍋島藩がぬけてる。明治2年には88万石あったらしい。
加賀は身内で分ける前は最大125万石とも言われている
年具は藩に収められたが、藩は幕府に上納するシステムでは無かったはずだが・・・薩摩藩が困窮したのは既に66万両の借金を背負っていたのに幕府に木曽三川の治水工事を命じられ、工事中に薩摩藩士51名が自害、33名が病死し家老・平田靱負も自害するほどの負担を強いられた。これらの莫大な出費により百万両に及ぶ借金を背負った薩摩藩は、借金を100年で返済するという、踏み倒しを行う上に、奄美への砂糖黍強制労働で僅か5万石の生産力が無い奄美から黒糖の生産で年30万石を収奪したんだよ。(薩摩藩の石高は90万石)
藩は幕府に上納するシステムでは無かったけど、代わりに「参勤交代」(幕府に対する「軍役」とも言える)や「御手伝普請」(幕府の命令で大規模な土木建築工事を行う。人員や費用は藩持ち)により、藩の財力を「削ぐ」システムがありました。
@@toyo-rex4899 手伝い普請は一過性の物だろ。宝永の富士山噴火でも一部の藩が出仕しただけでしょ。参勤交代如きで藩が疲弊しないほど奄美からの黒糖利益は大きかった訳だ。
加賀と尾張は仲良しだと思いたい
球磨川流域を領地とした相良藩(人吉藩)は、表高は2万2千石と言われていたけれど、実際は10万石を超えていたそうです。山間部に隠し田をたくさん持っていて、米が大量に採れたのだとか。その米を米のまま流通させると幕府に怪しまれるので、その換金手段として造られたのが今の球磨焼酎(米焼酎)なのだそうです。
徳川頼宣が駿府から紀伊に変わったのは、兄秀忠の命令だったのでは?
その通りです。頼宜が紀州に入部したのは1619年で家康は1616年に既に亡くなっていました。従って家康が命令することはできるはずがありません。
できの良い?と思われていた弟を駿河に。そのあおりで紀州に大阪ほか畿内や西国監視、京の守護も合わせ等々で紀州へ。かな。正しくは歴史をお調べ下さい‼️
今日の動画は、地理半分、歴史半分ずつだな。
五大老だった米沢藩🌸前田利益(慶次)直江状…15:01達、最上と敵対?💨we lost summer(関ヶ原8:20近江の蛍大名?)武士の時代ではなくな?戊辰戦争では仲裁役…
奄美でも冬になると紅葉が見られるが、これは薩摩藩が蝋を採る為に島にハゼを植える事を強制したんだよな。島では」「ハジギミ」と言っているけどね。
津軽「検地したら南部より石高高かったww」南部「お前絶対許さないからな」江戸時代末期津軽「何か南部が幕府についてがら空きだから攻めるか」南部「糞が!」
繁栄を続ける加賀藩の隣国で困窮しすぎて初めて藩札を発行した家柄だけの藩があったな..(地元)
あの藩は支藩の分封と相続の混乱から所領を大幅に減らしており、当初は67万石だったのが50万石→52.5万石→45万石→47.5万石→25万石→30万石→32万石となって明治維新を迎えます。その間に3代藩主が大坂の陣で使った片鎌槍の大名行列の際の使用を禁じられたり、江戸城の詰間が大廊下から大広間へ格下げしたりと、扱いが粗雑になっていきました。
@@toyo-rex4899 そうなんですよね二代藩主は将軍に反抗したし..
海沿いの藩が多いというところに特徴があると思います。網野善彦氏が『日本の歴史を読み直す』で述べていたように、日本の諸地域の経済状況は農本主義的な見方からではなく、東アジアとの交易関係などから考えるべきですね。一般的に貧しい農村と考えられてきた地域が実は商業を通して潤う都市だった、なんてことがあります。
伊達家は幕末で宇和島伊達藩の方が活躍して維新後の爵位も宇和島伊達家が上
仙台藩は親幕府だったからな。
うちは5000石だったけど大名扱いされ参勤交代させられてたけどな
喜連川さん? 本当‼️? 足利15代将軍の末裔さん。‼️させられて?自ら江戸へ。でしょう。😉
吉良家のような高家ですか?
@@Hoittony 高家より2ランク下です。
紀州徳川の駿府から関西への移封は、頼宣のお兄さん、2代将軍秀忠の命令では?
ダメだ、ここのコメ欄全然読む気が起きねえ
平民共は地獄の時代がみんな好きだよね
加賀前田家、薩摩島津家、仙台伊達家、尾張徳川家、紀伊徳川家、長門毛利家、松前家
薩摩藩は琉球を支配下に置いてたからその貿易で儲けてたとかは聞きますね。
和歌山県入っていてとても嬉しかったですそれより薩摩ーーーーーー何やってんだよ
江戸時代が長く続いたのは、ただ単に武士、庶民が戦に疲れた為である。つまり鎌倉から戦国時代まで
薩摩藩は偽の1両をつくっていたんじゃなかった?調所のことを西郷さんは嫌っていたというけど、調所がいなければ維新の立役者になれたかどうか。
いずれにせよ立役者になれたよ。簡単な話、英国に屈服して英国からの武器と金銭的援助あるから、ほぼ確実に維新は成り立つ
不況の時に政府が質素倹約する緊縮財政はおかしい。不況の時は財政支出で公共事業する方が正しい。
長崎奉行も密売してた!
我らが薩摩、クソ性格悪くて草。
水野家時代の福山藩
申し訳ないけど本当に薩摩藩には良いイメージがない(笑)
石高の表と実だけでなく、文化振興策もコスト・副作用以上の見返りがなければ、浪費と断罪されるんだよねぇ。現代ではオリンピックや万博がそうなんじゃないかと何度も指摘されているのに、歴史を学ばずブレーキが壊れている。
260年間続いた江戸時代、藩にはそれぞれ浮き沈みの時期があるのを調べよう幕末には大藩でも苦しいのがほとんどだよ
質問失礼します 1:40辺りに流れてる音楽名前が知りたいのですが良ければ教えて欲しいです!
薩摩がケチでさつまいもの苗が他藩に流出するのを禁止してた。もしさつまいもが全国に広まっていたら餓死者も少なかったのに。
伊達政宗とは先祖が共通で遠縁の親戚になる
政宗の戦闘手腕はともかく、政治手腕は間違いなく一流。
鳥取藩も、江戸時代は、水害多かったから、32万石の割には、貧乏だったようだ。実は、治水対策で、使いすぎた。しかも、大名がまだ9歳という幼子。
ちなみに廃藩置県後に鳥取藩の多くの武士が追放同然に北海道の釧路近隣に移住することになる。北海道の開拓の例に漏れず、犠牲者も少なくなく、彼らのしかばねは釧路発展の礎となったとされる。彼ら元武士が住み着いたその集落が鳥取村となり、のちに鳥取町となるが、1949年に釧路市に編入される。だから今でも釧路には鳥取という地名がある。
江戸時代前半の井原西鶴による『西鶴織留』には加賀米はまずいと記されているようですが。
徳川家康が乱世を終わらせたってのは少し引っかかるな、乱世は豊臣秀吉の天下統一で終わったのを徳川家康が乱世を再び乱れさせて終わらせたってだけで私は家康が嫌いですね
調所氏の子孫と知り合いですやっぱりやり手です。
新年明けましておめでとうございます、今年も宜しくお願いします。甲乙差が?
返信めちゃくちゃありがとうございます。嬉しいです🌸🌸🌸🌸🌸
逆に全国の藩で一番貧乏だったのは、ぶっちぎりで水戸徳川家。(家柄と格式で無理やり藩にされた喜連川藩を除く)
水戸藩貧乏なの光國さんのせい。
18世紀中頃だと米沢藩が水戸藩以上の貧乏藩だったと思います。8代藩主・上杉重定が「借金で首が回らないので、領地と領民を幕府に返上します=大名をやめます」と検討していたほど。さすがに周囲の説得で断念し、ほどなく養子の治憲(鷹山)が当主となって藩政改革を実施し、半世紀かけて借金を完済したようです。
鳥取藩も、水害対策が多かったということで、治水対策で、貧乏だと思った。32万石にもかかわらず、水害が多かった。
ドラマ水戸黄門では金持ち藩とか言う台詞が有りますけど時代考証適当ですなあ。まあドラマだしなあ?
なんで裕福なのか書いてほしいなぁ。紀州藩は江戸の木炭の専売特許権があったとか
大飢饉でも餓死者を出さず、戊辰戦争では新政府軍相手に無双した、庄内藩は?
庄内の大商人、本間さんのおかげでかなり裕福だったと思います。裕福な藩の共通点は沿岸沿いで海運を充分に活用できたのが大きいと思います。いくら特産品を開発しても江戸や大阪で売らないとあまり儲からない。陸路より海路の方がコストが低いので利益率は有利なのが大きいと思います。
@@0721-b9f にしん蕎麦は北海道、酒田、京都で名物なんですよね!やはり北前船は繁栄をもたらしたんですね?
@@0721-b9f 本間家は14万石の庄内藩の一領民でありながら、コメの収穫高で換算して10万石以上の土地を所有していましたからね。大名は1万石の領地を有すればなれましたから、石高基準で本間家は大名と同等クラスの経済基盤を有するということになります。
加賀百万石って聞いた事あるから何となく裕福なのかなーと(・∀・)
前田利常は三代目、二代目は利長ですよ。
前田利家を藩祖、前田利長を初代藩主、前田利常を2代藩主とするのが一般的かと。
@@あんもち-b3r なるほど、幕藩体制という意味からするとそうですね。
前田利常は、3代藩主であり、2代藩主は、前田利長です。
今初めて見たのですが、自分もそこを突っ込みたかったwうp主、訂正しないんですね
江戸幕府ができた時利家は亡くなっていたので藩祖が利家で初代は利長と言うことでは?
紀州藩の裕福さをまだまだ調査不足だな、紀州藩の実高は100万石あったよ、何故なら、薩摩の琉球貿易に噛んで、薩摩から上納金を取り、砂糖、塩とふんだんに扱っていた
前田家に関しては失礼ながらどうにも上辺だけなかんじがします前田家に関しては無視できないのは北前船の存在北前船では有名な時国家がありますがほかにも多大な財をなした北前船商家がいくつもあって、いまもその名残を残している前田藩政に無関係だったというのはむしろ不自然あと、前田家は一時期群馬のほうにも枝藩がありました
コメントの最後は、上野七日市藩のことですね。前田利家の五男・利孝が大坂の陣での戦功により、幕府より上野国七日市に1万石を新たに賜ったことから始まった藩で、幕末まで存続しています。本家の金沢藩からの内分分知でないほか徳川将軍家との血縁もないため、他の前田家の3藩(金沢藩・富山藩・大聖寺藩)が「松平」姓を名乗っていたのに対し、七日市藩は公でも「前田」姓を名乗っていました。
『富山の薬売り』で収入の他、情報収集もしていたり。北前船からか、造船所を作って幕末に自前で軍艦を作ったり。
加賀藩の前田利常は2代目当主ではありません、3代目です・・・2代目は利長です。利長は兄で、弟の利常は異母兄弟です。
前田利家は藩祖で、前田利長を初代藩主、前田利常を2代藩主とするのが一般的かと。
@@あんもち-b3r 石川県では、2代利長公、3代利常公となっています。書籍についても、ほとんどがこの表現になっています。
こう見ると家康が諸侯の力を削いだのは正しかったんだなその後の努力で実高を付け力を得たわけだし
まあやり過ぎた藩には約300年後にキッチリやり返される訳ですけどね😑
真面目に新田開発したところが良かったのだと思います。
金沢城見りゃ分かる!
薩摩藩の中国貿易に関しては琉球(沖縄)を中間貿易にしてたのかな?正直うーん?とは思うけどね。
デタラメ多いな例えば薩摩藩の四分の一が士族だけど、全国の四分の一が薩摩藩って事はないだろ?そもそも薩摩藩は薩摩、大隅、日向の一部が領地、
藩は江戸時代以降の呼称です。(まあ明治期の4年だけ)
紀州藩は山がちな地形で稲作に向かないから領地の広大さの割に石高が低い=貧しいんだ。八公二民の重税を課してなんとか御三家の格に見合う収入を確保していた。
関東の方ですか?
薩摩藩?? 今ではビリから数えた方が早いほどショボくなってるよな😅😅😅
分からんのは、、、なんで破産するような尾張藩が裕福なんだ?
自分も薩摩藩を見習って各種税金や社会保険料を250年分割で支払いたいです。
令和の調所広郷だな
世間はそれを脱税と呼んで非難すんやで
子孫良い迷惑で草
@@nana-xn4rm 政権転覆させればチャラにできるで
長州藩は長門・周防の2カ国だから周防も領地に入れないと。
加賀藩は木材、製塩、火薬、漆器、絹織物等もありましたので実質の経済力は、かなりあったと思われます。
木材資源を守る為に、山林保護をしていました。鉱山もありました。他にも家老に本多家がいたので幕府とも友好関係でした。
その経済力を背景に、幕末には強力な海軍や陸軍を有してましたが藩が佐幕Vs攘夷と割れてたので活躍が出来ませんでした。
尾張藩には木曽の木材、半田の酒や酢、瀬戸の焼き物あり実質120万石以上あり、江戸時代に藩内で一揆が無かったらしい。
加賀藩は硝石もある、五箇山産硝石は当時最高品質である意味ブランド品扱いの品だった
仙台藩には内部で角田や白石など1万石以上の大名が治めている領地もありますね
特に角田は町に移行した時の初代町長が領主様、城のあった場所には公立高校が建っているなど特に存在感がありますね
仙台藩はあまりに米に頼り過ぎた経済体制だったために、飢饉の際には武士階級にまで餓死者が出る(これは他藩では見られない)ような貧窮ぶりだった一方で、豊作が続くと積年の借金が一気に返済できたようです。
仙台が「杜の都」と呼ばれたのは、藩士が飢饉になっても困窮しないように武家地(藩士の屋敷)に建材や燃料に使える樹木(スギ・マツ・キリ等)や、食べ物が成るような樹木(ナシ・クワ・クリ・リンゴ等)を多く植えたために、城下町が樹木で埋め尽くされたかのように見えたことによるものです。
江戸時代にリンゴ🍎は無い。笑
@@zebra2082 説明が足らず、申し訳ありません。
当時のリンゴは、明治時代に欧米より輸入され現在一般に広く流通している「西洋リンゴ」ではなく、平安時代から栽培されていた小ぶりな「ワリンゴ」のことです。
東北全般的に中身はどこも終わってますから
同じ万石でも下々の負担は半端ないから
そもそも昭和になっても出稼ぎしてた地域が何を言ってるの?って感想です
アワビやナマコの俵ものを売って儲けていたのでは?
@@zebra2082
恥かいたな、謝罪しろよ 無知君www
石川県民だが加賀百万石っていうのは富山とかも含めた加賀藩のことだから石川県が何でもかんでも100万石って謳うのはなんか違うと思う。
前田家の特徴は他藩の三倍にも及ぶ計算部隊ですね。
家臣には各々の領地経営をさせず、このテクノクラートが藩を纏めて運営している為、藩内で統一した政策が行えており、藩政が赤字になってないという割とぶっ飛んだ藩ですね。
その真逆が仙台藩ですね。
62万石の領地のうち藩主が直接統治できたのは半分ほどで、残りは「一門(例:角田石川家、亘理伊達家、水沢伊達家等)」や「一家(例・片倉家・亘理家・大條家)」といった数千石~万石単位の領地を有する有力家臣が統治していました。その一門・一家の力が強すぎて起きたのが、有名な「伊達騒動」です。
それでも「裕福藩」と言われたのは、実高が100万石と表高62万石の1.6倍ほどあった上に、収穫されたコメの大半を大消費地・江戸(当然物価が高い)で売ったことで収入が多かったことによるものです。ただ、飢饉が発生すると実高が50万石とか10万石まで落ち込むことがあったために一転して藩財政が窮乏し、農民はおろか武士階級まで餓死者が出たほどの悲惨な状況になっていました。
赤字になってないは暴論すぎるだろ(笑)
18:13
蝋燭の原料は漆か櫨の実だけど、漆は東日本、櫨は西日本で成長しやすい。歴史小説でけっこう間違われやすい。
日本に住んでるのにね
@@有吉弘之-e2j知ってる人なんてほぼいないし仕方なくね
薩摩藩に課された三川(木曽川、長良川、揖斐川)分流工事。
これは江戸幕府終焉の遠因の一つですね。
この時、薩摩に対する幕府の仕打ちに反発する尾張藩士も多かったそうですから。
幕末に尾張藩が薩長寄りになった遠因です。
薩摩義士は今でも海津辺りでは語り継がれています
佐竹氏の久保田藩は表高20万の実高45万と聞いたことがあります。初代藩主佐竹義宣が関ヶ原の戦い後50数万石から20石への減封を受けた後新田開発などに尽力した結果実高を大きく伸ばすことができたらしいです。
品種改良で寒冷地での稲作が格段に良くなったからでしょ
仙台も同じ理屈でも
青森までは無理だった
薩摩藩は、藩主は裕福だったかも知れないけれど領民は年貢が重すぎて貧しい生活をしていたとか・・・
金沢の人が100万石を前面に押し出すたびに「でも60万石は越中だからうちじゃん」と思ってしまう富山県民です
加賀能登越中100万石というのが正しいですよね。
@@やひ-o6r
リズム感がいい笑
👏🏻👏🏻👏🏻👏🏻👏🏻👏🏻👏🏻
支配されてたし、しょうがないよね
紀州藩と言えば、紀伊国屋文左衛門のミカン船が有名だけど、鯨と銅鉱山もかなりの財源になったの。
鯨は捨てるところがないと言われるほど利用する方法が多く、油や肉だけではなく骨やヒゲ板まですべて捨てることなく利用してきたから、一頭捕獲するだけで相当な収入になったものと思われます。
@@toyo-rex4899 ご協力ありがとうございます。時代劇に登場するような、櫛や羽織を太地町の博物館で見たことがあります。
あと有名どころでは加藤清正がいた時の肥後藩かな。
小麦からパンを作ることに着目して海外貿易にで手に入れた硝石を更に転売貿易して公共事業を増やしたり城作ってもその作業は農業に支障がない程度の時期でなおかつ賃金払っていたとか
測りの枡の大きさが時代によって変わる。古い枡で測り幕府に申請すると、幕府により普請事業の負担を小さく出来る。
薩摩は、太閤検地の時に「こんだけ武士がいて強いなら石高これだけあるよね?」って決めつけられたのも大きいかもね
お陰で郷中と郷士(半士半農)ができ、幕末の偉人輩出や全国有数の農業県鹿児島の基礎を築くことに成功したわけだけど
米作りに適さない薩摩でそれはキツいですね。サツマイモは採れたらしいけどそれも吉宗の時代まで待たないといけないし領土は広いけど当時から貧乏だった可能性もありますね。
太閤検地は石田三成が島津が提出した家屋表とかから現地に行かずに卓上で算出したもので重税にせざるをえない体制だったから若干本来は東軍寄りのスタンスだったのもあるし、関ケ原での所領安堵も島津の外交的勝利の反面、その軍役やら重税維持しろという強烈なペナルティだったのかなって(関ケ原終わった辺りに加藤清正と戦闘したりやらかしもあり) 上杉とか毛利とかはキャパオーバーになって減封で逆に救われて幕末まで存続できたし
@@フォード-i1w 島津の御家存続と引き換えに税制維持を強いられた、か...
転封された方が藩主も領民も幸せだったんかなぁ...
島津も九州統一目前まで行ったはいいけど、略奪と領地急拡大で軍が破綻しそうだったらしいからなぁ
検地は薩摩藩がやったんだよ。
だから奄美諸島を侵略し琉球国を傀儡国家にして、奄美諸島に砂糖を作らせ穀物を作らせ無かった。島民を絞り、砂糖の利益を蝕んだ。琉球国も中国との交易を続けさし薩摩の役人を常駐させ、傀儡国家として幕末迄続く。西郷隆盛が奄美大島に来た時に、薩摩の殿様は「民の為に考えている」と説いたが島民は「我らは民にも入って無い」と言った話しは有名です。
加賀藩や仙台藩は裕福な割には薩長とは幕末が対照的な結果だよね
1石は10斗、1斗は10升、居酒屋の前に飾っている酒樽が小さい物で3斗大きい物で5斗くらいです。1俵は3斗半くらい入るので、石高を測る単位と勘違いしてる方がいるが、藩によって違いが有るので精確ではないです。
頼宣を紀州に転封させたのは秀忠だったような
そういえば秀忠ーーーーーー関ケ原遅刻将軍がーーーーーーー
芸州藩主福島正則の改易があって、紀州藩主だった浅野長晟が芸州に、駿府藩主だった徳川頼宣が紀州に、駿府藩主には徳川忠長がなるという玉突き事故的な転封があった。
海外交易が許されていた表高6万石 実高25万石の唐津藩
老中になる為に、わざわざ実高6万石の浜松藩に移った水野忠邦
明けましておめでとうございます。
紀州藩、松前藩、特徴ある藩でしたね。
ニシンは松前船で関西に運ばれました。
薩摩藩、琉球貿易で儲けました。
調書氏は藩政改革上手でしたね。
なにか、経営改革した藩は幕末につれ力つけましたね。
国とタメ張れるようになるにはカネがあるか否かという、なんとも身も蓋もない話
お陰で官軍にはなれたけど
琉球からの収入なんて大した事無かったんだが。
琉球国に進出して奄美諸島を琉球国から略奪し砂糖の生産をさせその収益は大きかった。琉球国から年貢は取っていたか不明だが、朝鮮半島へ兵を出した時には実質的に負担金を請求して居る。琉球国へ薩摩が兵を出すのは徳川の時代に成ってからだから、実質的に秀吉の時代から薩摩は圧力をかけていた事になる。砂糖は貴重品だから収益は薩摩に取って大きかったと思われる。
@@栄健
琉球との直接取引だと大した額じゃないだろうけど
日本じゃ出回らない南蛮の品が、琉球経由で安く手に入るからね
薩摩はそれを転売して大儲けしてんのよ
@@Y.H-g9g それが大した額じゃ無いと言っているんだが・・・
薩摩藩を支えたのは奄美の黒糖だよ。
足利尊氏・源頼朝
「一応、我らも乱世を終わらせたんだよなぁ」
尊氏は南北朝の動乱の要因の一つだからむしろ乱世を誘発させた戦犯だと思ふ
家康「足利は他の大名の力強すぎだし、源頼朝の子孫殺されてるし、反面教師としてワシはしっかりしよ」
尊氏は火に油を注いだようです。
尊氏は南北朝の動乱のまま世を去ってしまい、乱世を終わらせたのは足利義満ですよ
庄内藩もすごいぞ
領民が藩主交代に反対してお上に直訴しようとして酒井家に止められた
加賀藩も武士は多く居たのですが、幕末に天皇方か幕府方か殿様は幕府方に付きなさいと云って援軍を送ったのですが、家老と思いますが、どちらにも付かないと判断して引き上げて来て幕府軍は負けるきっかけを作りました。これは殿様はどうする事も出来なかったらしい。徳川方も前田家が反乱を起こして敵に回ったと考えて慶喜様も戦場から逃げて帰えられたらしい。
加賀百万石って石高にブーストかかってるからね。京の都に近いと割増なのよ。あと魚介類も石高換算してるからね。単純に米じゃない。
薩摩藩は紀州藩と並ぶ重税藩(八公二民)、藩士も貧しかったので(仙台藩と並び武士身分が多すぎという問題もあるが)、あまりお金持ちという印象はないね。確かに琉球を使った密貿易、奄美諸島のサトウキビ栽培による激しい収奪など、他の藩にはない独自の収入源とかはあるけど。
加賀藩ネタです 加賀藩は富山の薬売りを全国に広めてお得意様を作り、各家庭に富山の薬箱を設置して担当者が定期的に周り外貨を稼いでいました。
そのお陰で外貨を大量に獲得し財政は潤い他の大名に貸し出しをするほどになっていました。
返済できない大名には無理に返済を迫ってはいけないとの前田利家からの教えを貫き、他の大名からの信頼も厚く味方も多かったそうです。
徳川家康の重臣の本多家からも家老を受け入れ、徳川家に内情を見せて反乱の意思無しを幕府に分るようにしていたそうです。
富山の売薬は加賀藩で生み出されたわけでなく富山藩発祥です。富山藩は加賀藩より10万石を内分分知して発足した藩であり加賀藩とは深いつながりを持っていますが、あくまで別の藩です。売薬は富山藩が本家・加賀藩に頼り切った財政から脱却するために編み出された産業です。
富山藩は越中国富山城を中心に領地がありましたが、分藩の際に生産性の低い領地と加賀藩で余剰気味になった藩士を押し付ける形で発足しており、慢性的な財政不足に陥っていました。2代藩主・前田正甫は元々薬学に興味を持っていたことから産業奨励のために藩独自の特産品を生み出すべく、それをもとに「売薬・配置薬」のシステムを構築して以後富山藩の一大事業となりました。
尾張藩は独特ですね😅。
尾張藩の補佐だった犬山成瀬氏(後の犬山藩)の居城「犬山城」も2004年まで個人の所有でしたし😅。
明けましておめでとうございます。🐇🎍🎌
毎回楽しく視聴させていただいています。
明けましておめでとうございます🐇🎍🎌
ありがとうございます!
明けましておめでとうございます。🐇🎍🎌
今年もよろしくお願いします!
返信ありがとうございます。こちらこそ宜しくお願いします
返信むちゃむちゃありがとうございます
返信ありがとうございます。丁寧にありがとうございます。嬉しいです💐💐💐💐
返信ありがとうございます。お正月はいかがおすごしですか?。
裕福すぎるとは・・・・・少々タイトル詐欺
過ぎない貧乏含みの丁度いい裕福ってのが有るのかねえ?
当時は貧乏な藩が大半でしたからね。察するに他よりは裕福って感じ?豪商の方が裕福な生活を送ってたのでは?
乱世を終了させたには信長公と秀吉公。
薩摩藩の治水工事は到底無理なことをやらせて財政的に疲弊させる目的があったのだけど交易したり琉球締め付けたりして倒幕していく超危険な藩で。
そもそもが関ヶ原で超少数なのに大将目指して突進突破するやばい奴ら
尾張が終わりうまい、
加賀前田藩は百万石たが、外様大名なので幕府に目をつけられないように、袷の着物の表は地味に施し、裏地を派手にしました。
本郷の東大敷地内は元は加賀百万石の江戸屋敷跡で、確か11代将軍徳川家斉公の息女迎え入れるために、赤門建てたと仄聞で知りました。
薩摩藩は密貿易で稼ぎ、幕府の隠密は事実知ったのですが、幕閣達は不問に付した様です。
琉球藩は、薩摩藩と清(中国)の二重支配下でした。
家老の調所広郷の藩の財政改革で、密貿易で立て直したのですが、幕府の陰謀か藩内の問題かわかりませんが、責任取って切腹。
ただ調所広郷の息子は切腹免れ、藩内で優遇されたと聞きました。
松前藩は、5年に1度の参勤交代(対馬藩は3年に1度:間違ったらすいません)。魚介類の加工品で儲けていました。いりこ(なまこの干物)とか鰊とかですね。
長州藩は米や和食·蝋燭等で儲け、藩政改革に乗り出した家老の村田清風は、関門海峡渡る船に目をつけ、通行料取ります。
下関は港町として重要な拠点で、関門海峡は潮の流れ早く座礁事故の絶えない海峡でした。
長州藩の歴代藩主の年始の言葉は、必ず「関ヶ原を忘れるな」でした。
関ヶ原の戦いで苦杯舐めた恨みを、決して忘れるなと家臣達に言い聞かせました。
薩摩と長州は藩の財政改革の成功で、莫大な資金得て薩長同盟結び、倒幕に舵取り切りました。
徳川家康は関ケ原の戦いで島津の大脱走(負け戦とわかり、関ヶ原突っ切って逃走)を見て、「徳川を倒すのは島津だ! 島津の動きに目を光らせろ!」と予見。
敵将ながら、命賭してまで逃げ延びようとした島津の大胆不敵な行動に、家康は「徳川の世の後は、島津が天下握る」と察知したのでしょう。
実際に家康の予見通りになったので、家康の炯眼の鋭さに感心しました。
琉球藩というのは存在しません。
琉球は独立国で、中国とは正式に冊封関係を結んでおり、西洋諸国とも条約を結んでいましたが、薩摩(島津)とは正式(公的)な主従関係はありません。
島津は琉球に関する公的な肩書きはありません。
江戸幕府も琉球を独立国として遇し、琉球の官人、廷臣)たちは江戸城では公家と同じく殿上の間に伺候しました。
琉球の官人たちが江戸城本丸御殿に上がるときは大目付が出迎え、将軍に御目見えした後は老中が殿上の間まで来て会釈をしました。
饗応席は殿上の間や柳の間です。
薩摩藩士のような陪臣の扱いではありません。
元服前の少年(楽童子、雲上童子)でさえも薩摩の家老より格上でした。
@@渡名喜守太 ご指摘ありがとうございます。
@@コロッケそば-f2k
わざわざご返信有難うございます。
伊達藩の範囲が少し違うような(陸中の一部も伊達藩)
人吉藩なんかかなり裕福だったみたいですぜ?
米が余って、それで米焼酎造りに精を出せて、それがさらに名物になったとか...
長州藩の藩財政は凄いと言わざるを得ない。
幕末の2度の長州征伐を撥ね退け倒幕まで持って行っただけの事はありますね。
東北の山間にある会津藩では勝負にならなかったでしょうな。
防長三白、四白?紙塩の生産性と北前、瀬戸内航路の優位性が他藩よりも抜きん出てたのかな
尾張は木曽川上流の木曽ヒノキの産地が飛び地になっていて、木曽ヒノキを木曽川で尾張に流して、取引を独占してましたよね。ヒノキの力仕事のために、鰻(熱田のひつまぶし)が食べられたのでは・・・。加賀や仙台は冷害の年もあったと思う。薩摩藩は裏貿易が有名ですよね。
木曽ヒノキの収入は多かったのですが、安土桃山時代から江戸初期の乱獲でハゲ山状態が多くなり土砂崩れや鉄砲水で流域全体がかなりの損害を受ける事が多かったです。山の整備が進んで頻度は少なくなりましたが大雨で河の氾濫は毎年起きていました。見た目以上にお金が掛かっています。
琉球経由の中国貿易の文物を領外に売れればもっと利益上げられたのになぁ...
長州藩毛利家もかなり裕福な大名だけど。
明治初頭には内高百万石弱ありましたもんね(うろ覚え)
徳川御三家の水戸藩が出て来ない。やはり、貧乏藩だったって事なのね…
水戸藩は表高より実高が少ない上に、藩主が江戸定府のため江戸藩邸の運営費が他藩より多くかかったり、明治時代まで続く「大日本史」の編纂に多くの費用がかかったためです。
徳川光圀の「偕楽園」造りの費用を増税、年貢を上げる事で捻出したとか😳
@@toyo-rex4899 さま
「大日本史」そうでしたね。
水戸藩が頑張って日本中の歴史を聞いてまわり、歴史書物を歴代で作ったお陰で、私達は沢山の歴史を知る事が出来たのですよね。感謝しなきゃ。
@@畑野よしゆき さま
「偕楽園」の中に池を造らなきゃいけなかったらしいですが、水戸藩はお金が無いから、目の前にある千波湖の場所までを偕楽園の領地に入れて、池を造らずに節約したそうです。(ブラタモリで言ってた)。
名古屋と紀伊とは真逆
伊達政宗は杜の都の基礎を作ったんやな。
佐賀、鍋島藩がぬけてる。明治2年には88万石あったらしい。
加賀は身内で分ける前は最大125万石とも言われている
年具は藩に収められたが、藩は幕府に上納するシステムでは無かったはずだが・・・
薩摩藩が困窮したのは既に66万両の借金を背負っていたのに幕府に木曽三川の治水工事を命じられ、
工事中に薩摩藩士51名が自害、33名が病死し家老・平田靱負も自害するほどの負担を強いられた。
これらの莫大な出費により百万両に及ぶ借金を背負った薩摩藩は、借金を100年で返済するという、
踏み倒しを行う上に、奄美への砂糖黍強制労働で僅か5万石の生産力が無い奄美から黒糖の生産で
年30万石を収奪したんだよ。(薩摩藩の石高は90万石)
藩は幕府に上納するシステムでは無かったけど、代わりに「参勤交代」(幕府に対する「軍役」とも言える)や「御手伝普請」(幕府の命令で大規模な土木建築工事を行う。人員や費用は藩持ち)により、藩の財力を「削ぐ」システムがありました。
@@toyo-rex4899 手伝い普請は一過性の物だろ。宝永の富士山噴火でも一部の藩が出仕しただけでしょ。
参勤交代如きで藩が疲弊しないほど奄美からの黒糖利益は大きかった訳だ。
加賀と尾張は仲良しだと思いたい
球磨川流域を領地とした相良藩(人吉藩)は、表高は2万2千石と言われていたけれど、実際は10万石を超えていたそうです。山間部に隠し田をたくさん持っていて、米が大量に採れたのだとか。その米を米のまま流通させると幕府に怪しまれるので、その換金手段として造られたのが今の球磨焼酎(米焼酎)なのだそうです。
徳川頼宣が駿府から紀伊に変わったのは、兄秀忠の命令だったのでは?
その通りです。頼宜が紀州に入部したのは1619年で家康は1616年に既に亡くなっていました。従って家康が命令することはできるはずがありません。
できの良い?と思われていた弟を駿河に。そのあおりで紀州に大阪ほか畿内や西国監視、京の守護も合わせ等々で紀州へ。かな。正しくは歴史を
お調べ下さい‼️
今日の動画は、地理半分、歴史半分ずつだな。
五大老だった米沢藩🌸前田利益(慶次)直江状…15:01達、最上と敵対?💨we lost summer(関ヶ原8:20近江の蛍大名?)武士の時代ではなくな?戊辰戦争では仲裁役…
奄美でも冬になると紅葉が見られるが、
これは薩摩藩が蝋を採る為に島にハゼを植える事を強制したんだよな。
島では」「ハジギミ」と言っているけどね。
津軽「検地したら南部より石高高かったww」
南部「お前絶対許さないからな」
江戸時代末期津軽「何か南部が幕府についてがら空きだから攻めるか」
南部「糞が!」
繁栄を続ける加賀藩の隣国で困窮しすぎて初めて藩札を発行した家柄だけの藩があったな..(地元)
あの藩は支藩の分封と相続の混乱から所領を大幅に減らしており、当初は67万石だったのが50万石→52.5万石→45万石→47.5万石→25万石→30万石→32万石となって明治維新を迎えます。
その間に3代藩主が大坂の陣で使った片鎌槍の大名行列の際の使用を禁じられたり、江戸城の詰間が大廊下から大広間へ格下げしたりと、扱いが粗雑になっていきました。
@@toyo-rex4899 そうなんですよね
二代藩主は将軍に反抗したし..
海沿いの藩が多いというところに特徴があると思います。網野善彦氏が『日本の歴史を読み直す』で述べていたように、日本の諸地域の経済状況は農本主義的な見方からではなく、東アジアとの交易関係などから考えるべきですね。一般的に貧しい農村と考えられてきた地域が実は商業を通して潤う都市だった、なんてことがあります。
伊達家は幕末で宇和島伊達藩の方が活躍して維新後の爵位も宇和島伊達家が上
仙台藩は親幕府だったからな。
うちは5000石だったけど大名扱いされ参勤交代させられてたけどな
喜連川さん? 本当‼️? 足利15代将軍の末裔さん。‼️させられて?
自ら江戸へ。でしょう。😉
吉良家のような高家ですか?
@@Hoittony 高家より2ランク下です。
紀州徳川の駿府から関西への移封は、頼宣のお兄さん、2代将軍秀忠の命令では?
ダメだ、ここのコメ欄全然読む気が起きねえ
平民共は地獄の時代がみんな好きだよね
加賀前田家、薩摩島津家、仙台伊達家、尾張徳川家、紀伊徳川家、長門毛利家、松前家
薩摩藩は琉球を支配下に置いてたからその貿易で儲けてたとかは聞きますね。
和歌山県入っていてとても嬉しかったですそれより薩摩ーーーーーー何やってんだよ
江戸時代が長く続いたのは、ただ単に武士、庶民が戦に疲れた為である。つまり
鎌倉から戦国時代まで
薩摩藩は偽の1両をつくっていたんじゃなかった?調所のことを西郷さんは嫌っていたというけど、調所がいなければ維新の立役者になれたかどうか。
いずれにせよ立役者になれたよ。
簡単な話、英国に屈服して英国からの武器と金銭的援助あるから、
ほぼ確実に維新は成り立つ
不況の時に政府が質素倹約する緊縮財政はおかしい。不況の時は財政支出で公共事業する方が正しい。
長崎奉行も密売してた!
我らが薩摩、クソ性格悪くて草。
水野家時代の福山藩
申し訳ないけど本当に薩摩藩には良いイメージがない(笑)
石高の表と実だけでなく、文化振興策もコスト・副作用以上の見返りがなければ、浪費と断罪されるんだよねぇ。
現代ではオリンピックや万博がそうなんじゃないかと何度も指摘されているのに、歴史を学ばずブレーキが壊れている。
260年間続いた江戸時代、藩にはそれぞれ浮き沈みの時期があるのを調べよう
幕末には大藩でも苦しいのがほとんどだよ
質問失礼します 1:40辺りに流れてる音楽名前が知りたいのですが良ければ教えて欲しいです!
薩摩がケチでさつまいもの苗が他藩に流出するのを禁止してた。
もしさつまいもが全国に広まっていたら餓死者も少なかったのに。
伊達政宗とは先祖が共通で遠縁の親戚になる
政宗の戦闘手腕はともかく、政治手腕は間違いなく一流。
鳥取藩も、江戸時代は、水害多かったから、32万石の割には、貧乏だったようだ。
実は、治水対策で、使いすぎた。
しかも、大名がまだ9歳という幼子。
ちなみに廃藩置県後に鳥取藩の多くの武士が追放同然に北海道の釧路近隣に移住することになる。
北海道の開拓の例に漏れず、犠牲者も少なくなく、彼らのしかばねは釧路発展の礎となったとされる。
彼ら元武士が住み着いたその集落が鳥取村となり、のちに鳥取町となるが、1949年に釧路市に編入される。
だから今でも釧路には鳥取という地名がある。
江戸時代前半の井原西鶴による『西鶴織留』には加賀米はまずいと記されているようですが。
徳川家康が乱世を終わらせたってのは少し引っかかるな、乱世は豊臣秀吉の天下統一で終わったのを徳川家康が乱世を再び乱れさせて終わらせたってだけで私は家康が嫌いですね
調所氏の子孫と知り合いですやっぱりやり手です。
新年明けましておめでとうございます、今年も宜しくお願いします。甲乙差が?
返信めちゃくちゃありがとうございます。嬉しいです🌸🌸🌸🌸🌸
逆に全国の藩で一番貧乏だったのは、ぶっちぎりで水戸徳川家。
(家柄と格式で無理やり藩にされた喜連川藩を除く)
水戸藩貧乏なの光國さんのせい。
18世紀中頃だと米沢藩が水戸藩以上の貧乏藩だったと思います。8代藩主・上杉重定が「借金で首が回らないので、領地と領民を幕府に返上します=大名をやめます」と検討していたほど。さすがに周囲の説得で断念し、ほどなく養子の治憲(鷹山)が当主となって藩政改革を実施し、半世紀かけて借金を完済したようです。
鳥取藩も、水害対策が多かったということで、治水対策で、貧乏だと思った。
32万石にもかかわらず、水害が多かった。
ドラマ水戸黄門では金持ち藩とか言う台詞が有りますけど時代考証適当ですなあ。まあドラマだしなあ?
なんで裕福なのか書いてほしいなぁ。
紀州藩は江戸の木炭の専売特許権があったとか
大飢饉でも餓死者を出さず、戊辰戦争では新政府軍相手に無双した、庄内藩は?
庄内の大商人、本間さんのおかげでかなり裕福だったと思います。
裕福な藩の共通点は沿岸沿いで海運を充分に活用できたのが大きいと思います。いくら特産品を開発しても江戸や大阪で売らないとあまり儲からない。陸路より海路の方がコストが低いので利益率は有利なのが大きいと思います。
@@0721-b9f にしん蕎麦は北海道、酒田、京都で名物なんですよね!
やはり北前船は繁栄をもたらしたんですね?
@@0721-b9f 本間家は14万石の庄内藩の一領民でありながら、コメの収穫高で換算して10万石以上の土地を所有していましたからね。大名は1万石の領地を有すればなれましたから、石高基準で本間家は大名と同等クラスの経済基盤を有するということになります。
加賀百万石って聞いた事あるから何となく裕福なのかなーと(・∀・)
前田利常は三代目、二代目は利長ですよ。
前田利家を藩祖、前田利長を初代藩主、前田利常を2代藩主とするのが一般的かと。
@@あんもち-b3r なるほど、幕藩体制という意味からするとそうですね。
前田利常は、3代藩主であり、2代藩主は、前田利長です。
今初めて見たのですが、自分もそこを突っ込みたかったw
うp主、訂正しないんですね
江戸幕府ができた時利家は亡くなっていたので藩祖が利家で初代は利長と言うことでは?
紀州藩の裕福さをまだまだ調査不足だな、紀州藩の実高は100万石あったよ、何故なら、薩摩の琉球貿易に噛んで、薩摩から上納金を取り、砂糖、塩とふんだんに扱っていた
前田家に関しては失礼ながらどうにも上辺だけなかんじがします
前田家に関しては無視できないのは北前船の存在
北前船では有名な時国家がありますがほかにも多大な財をなした北前船商家がいくつもあって、いまもその名残を残している
前田藩政に無関係だったというのはむしろ不自然
あと、前田家は一時期群馬のほうにも枝藩がありました
コメントの最後は、上野七日市藩のことですね。
前田利家の五男・利孝が大坂の陣での戦功により、幕府より上野国七日市に1万石を新たに賜ったことから始まった藩で、幕末まで存続しています。
本家の金沢藩からの内分分知でないほか徳川将軍家との血縁もないため、他の前田家の3藩(金沢藩・富山藩・大聖寺藩)が「松平」姓を名乗っていたのに対し、七日市藩は公でも「前田」姓を名乗っていました。
『富山の薬売り』で収入の他、情報収集もしていたり。
北前船からか、造船所を作って幕末に自前で軍艦を作ったり。
加賀藩の前田利常は2代目当主ではありません、3代目です・・・2代目は利長です。
利長は兄で、弟の利常は異母兄弟です。
前田利家は藩祖で、前田利長を初代藩主、前田利常を2代藩主とするのが一般的かと。
@@あんもち-b3r 石川県では、2代利長公、3代利常公となっています。
書籍についても、ほとんどがこの表現になっています。
こう見ると家康が諸侯の力を削いだのは正しかったんだな
その後の努力で実高を付け力を得たわけだし
まあやり過ぎた藩には約300年後にキッチリやり返される訳ですけどね😑
真面目に新田開発したところが良かったのだと思います。
金沢城見りゃ分かる!
薩摩藩の中国貿易に関しては
琉球(沖縄)を中間貿易にしてたのかな?
正直うーん?とは思うけどね。
デタラメ多いな
例えば薩摩藩の四分の一が士族だけど、全国の四分の一が薩摩藩って事はないだろ?
そもそも薩摩藩は薩摩、大隅、日向の一部が領地、
藩は江戸時代以降の呼称です。(まあ明治期の4年だけ)
紀州藩は山がちな地形で稲作に向かないから領地の広大さの割に石高が低い=貧しいんだ。八公二民の重税を課してなんとか御三家の格に見合う収入を確保していた。
関東の方ですか?
薩摩藩?? 今ではビリから数えた方が早いほどショボくなってるよな😅😅😅
分からんのは、、、
なんで破産するような尾張藩が裕福なんだ?