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参勤交代は楽しそうですね。パレードみたいなのが目の前を通り抜けて行くのを思えば、沿道で診ている皆さんは楽しみだったでしょうね。
スーパーサンクスありがとうございます!励みになります お江戸いいねスタッフ一同
@@ilikeedo 私の先祖(祖父の祖父)は奥三河の住人ですが、江戸に旅する時にアルバイト的に大名行列に加わった(旅籠宿に入る前に)そうです。
@@bsawada9698 道中は、着物をはしょり駆け足で動き、旅籠に近づく前に綺麗な格好をして慇懃をもって「片寄れ」と行列していたから貴方の祖先は、支給されたきれいな着物を着てアルバイトをしていなんでしょうね。ちなみに「したに~」と言うのは自分の領地内だけ。ほかの藩主が納めていた領民は「他藩の殿様には、なんの敬いもないから、立ったり道路に胡坐をかいて行列を見学していました
自分が聞いた範囲では大名行政が通る時には膝を付いて頭を下げ、絶対に行列を見てはならなかったはず。なので庶民は見つからないよう遠巻きにして眺めていたそうです。救急車が通る時に一般車が道を譲るのと同じですよ。誰でも近くに近付けると暗殺される危険があるでしょ。
@@注射星人 大名行列には先発隊がいて まず行列が通る街道の町民らに人差し指を口に持っていき「シ~シ~」と静かにしてくださいと伝え、行列が通るときには土下座するように求めていました他藩を通るとき、自分の領地でない故、自分の権力は履行できないのですから、仕方がないことです、ちなみに「シ~」というのは、現在でも静かに」という意味でつかわれていますが起原は大名行列から発したものです。TVや映画の大名行列は随分と脚色されています、大名行列中に暗殺する・・・他藩の大名を暗殺しても民・百姓には何の得にもなりません。九州の大名が静岡で暗殺されても静岡県民には損得なしです。
加賀藩の参勤交代の書物を読んだことがある、金沢~江戸まで13日間、宿泊場所を他の藩と取り合いしたり、宿の主人、名主からの接待を一切受けなかったとか(返礼が大変だったのが理由)富山の黒部川が氾濫するので上流に橋を架けたとか(その橋の名残が、残っている)糸魚川の宿先の酒の蔵元で「お酒を出され飲んでみると、非常にうまい」という事で「加賀の井」と加賀の名を使う事を許したとか・・・とにかく面白く読んだ、今から20年以上も前だが、まだ憶えている・・・加賀の井は現在も糸魚川市に現存しており、10年前にそこへ行き、先代ご主人に色々とお話を聞いて、歴史を実感した。
徳川幕府の思惑とは別に、街道が整備され、運輸通信が発達するきっかけになった。明治維新に日本が権力集中の国民国家へ容易に移行できたのも、参勤交代で、全国の領主が江戸に集まったからだと言える。
解説ありがとうございます、参勤交代は大名側が勝手に始めた上に、勝手に派手にしました。よく大名行列はずっと土下座しないといけないという誤解が広まっていますが、大名行列は娯楽の少なかった当時の数少ない娯楽であり、ずっと土下座してたらせっかく大名側がアルバイトまで雇って着飾らせているのに、その様子を見る事ができないのです。つまり大名行列は基本土下座せずに見物する事が出来ました(御三家など例外あり)、しかもみんな楽しみにしていた娯楽なので「武鑑」という大名行列ガイドブック片手に見物人が沢山いました。それに横切ったら問答無用で斬られる訳ではありません、生麦事件は度重なる警告にも従わず下馬せずに行列を逆行した上久光の駕籠近くまで来てしまったのでやむなく斬りました。
江戸では見物対象ですが、流石に国許では地元の殿様には土下座必須だと思います。通過していく殿様にはどうだったのだろう? あ、そこ、道中で金かかる行列なんか組まないとか身もふたもないこと言わない。
@@水野誠一-b9l さま国許ではさまざまで、土下座を強要してくる場合もあればそうでない場合もあったようです。先頭から最後尾まで土下座せずとも、藩主の乗る駕籠が通る時くらいは土下座していたと思われます。
@@y0910 詳しい解説ありがとうございます。なるほど、やはり藩によるのですね。
@@水野誠一-b9l 道中でも人の目があるところではキッチリしてたみたいですよ。幾つかの泊まる予定の場所には監視役みたいなのもいたらしいですし。
残業は従業員が自発的にやっていたもので、残っている資料からは会社はその量を減らすように指示していたと、歴史家は語るんでしょうね😊
そうなる。
参勤交代を生で見たかったなぁ、、
室町時代も基本守護は在京、在鎌倉だったので、豊臣政権も江戸幕府もこの慣例を引き継いでいますね。平清盛の時代も、地方の領主が京や清盛の膝下に住んでいました。さらにさかのぼれば、王朝国家時代には「遙任」といって、現地へ赴任せず在京のまま地方長官である「国司」となる例があります。遙任しない場合でも国司は京から派遣されるので、最終的には京へ還ります。基本現地人は国司にはなりません。律令自体が中央集権である中国の制度であるので、その系譜を引き継ぐ武家のシステムもそれを模倣したものとなります。つまり実態はどうあれ建前としては、地方官(諸大名)は中央(幕府)から派遣されるのが基本であり、在京(在江戸)が本来あるべき姿で、そこから勤務として地方に出張下向するというのが正しい構図となります。
参勤交代の旅費より、江戸で藩主、家族、藩士が暮らす江戸藩邸が使う金が難題だった。大名は参府すると江戸に留め置かれるため、滞在費が金食い虫となるその金策に走り回るのは国許。苦労して徴収した年貢の大半が、一方的に江戸藩邸に吸い上げられていく。その結果、どの藩も江戸藩邸と国許の間に深刻な確執できた。 庄内藩、第7代藩主 酒井忠徳は江戸で生まれ育った。この忠徳が18歳で初めて入部することになった(国から江戸へ向かうことを参府、江戸から国へ帰ることを入部という)だが、江戸藩邸では大名行列を率いて旅をする費用を調達する見込みが立たない。にもかかわらず、重臣たちは見切り発車して江戸を出立してしまった。不足分は国許が工面して、旅の途中に届ける手はずだった。ところが、福島まで来て旅費が尽き、しかも国から金が届かない。万事休すとなった藩の重臣が忠徳に窮状を打ち明けると、忠徳は14万石の藩がなんたる不如意(経済的に苦しいこと)と涙を流したという。江戸で生まれ育った殿様は、国許の状況が分かってなかったようだ。
参勤交代については、以前DJ日本史で取り上げられ、ほーりーとまっちゃんがメリット、デメリット等に゙ついて楽しいトークバトルを繰り広げられたのが印象的で記憶に残っていますなので、おおよそは理解していたつもりでしたが、今回の動画で参勤交代が大名と領民の繫がりを弱めた。ということは初めて知りました!なるほど勉強になりました😄ありがとうございます🙇今回も素晴らしい動画でした
参勤交代の中にパフォーマーが隠れていたんですか、知らなかった。有難うございました。
今回も面白かったです。戦のない時代に入ったら大名が自分をアピールできることは見栄ですものね。参勤交代での地方活性化は吉宗以降になると、地方ごとの名産品。なーんてのも出てきて、それが大都市圏に輸入して地方の特色が出てきて令和の今でも続いてる。って考えると歴史を感じます。現在は、便利になって高速化が進んだおかげで地方がどんどん廃れてしまう要因に。バランスって難しいですよね。
加賀前田家は幕末まで参勤交代の規模を維持し続けたとはもはや意地の張り合い。
ありがとうございます。間違ったまま覚えてました。またそう信じてました。
江戸時代の参勤交代の独特の歩き方があったというのは初めて知りました現代でも軍隊が更新するとき「グースステップ(ガチョウ足行進)」をしてるのとおなじですね
都市対抗野球は野球版勝ち抜き参勤だし、高校野球は江戸ではなく甲子園での参勤。おらが藩の企業、高校が躍り上がって応援団パフォーマーと盛り上がる儀式
ありがとうございます!
スーパーサンクスありがとうございます、励みになります! お江戸いいねスタッフ一同
大名の忠誠心を試す場であることが分かっているから、初期はいざ鎌倉ばりに大名も必死になって参勤。中期以降、取り潰される心配が少なくなったら今度は大名同士の格式の張り合い。そのお陰で街道は整備されて、大名が辿る道を逆に行けば幕府軍の反乱鎮圧のルートになる。そこまでは良かったが、幕府側もこんなに江戸幕府が長く続いて経済発展するとは思ってなかったら、年を追うごとに参勤や江戸滞在の費用が馬鹿にならなくなり、その金が庶民の経済に回って、余計に武士の生活が苦しくなることまでは予測出来なかったんだろう。結果として反乱は起きなかったが、幕府と大名の体力は削られ、雄藩の増長を招くことになる。何だかニワトリが先か卵が先かみたいな話じゃないのかな。
参勤交代についての制度が出来るまでの経緯を知ることができ、様々な部分でプラスの効果をもたらしたことも分かり、大変に良い学びとなりました。参勤交代には、戦国の世のような争いを避けるための意味もあった話が凄く印象的でした👍
今までここで言う大名窮乏説を信じてました。個人の感想とか推理とかではなく、信頼に値する一次資料、二次資料で解説してもらうとなるほどって感じです。「真実はこれだ!」とか言いつつ根拠も調査も全くない動画を垂れ流している人は是非参考にしてほしいです。うっかり信じちゃって困るんですよ。
足軽クラスはレンタル。大名同士もプライドをかけて豪勢さを争ったのでしょうね。
森鴎外の澁江抽斎を読んでたら、参勤交代で江戸に行ってた人間と、田舎(弘前)に留まった人間との間には、学問や文化にたいする意識の違いが生まれてたみたい。今でいえば、おしゃれな帰国子女を見る時の、あの羨望と嫉妬が入り交じったような感じかな?
いつの楽しみにしています。勝海舟と西郷隆盛の言葉が通じたので、江戸無血開城がなされたのではないか、という説もありますね。参勤交代により、地方の侍たちが江戸言葉に通じていた、というメリットもありそうです。
日本のマーチングや集団パフォーマンスが海外で高い評価を得ているが、その基礎は参勤交代にあるのかもしれない。
タイムスリップして参覲交代見てみたいです😊
参勤交代な
@@野末貴之 参覲交代も間違いではありませんよ😆
最後のドイツ人医師ケンペルの記録、時代劇でよくある「下に〜下に〜」ですね。聞いているだけで想像出来てしまうので思わず笑ってしまいました。
地元の家老さんが書いた日記を地元の博物館の研究員さんが本にして下さったのを読むと江戸で生まれて地元に初めて帰る若君の帰郷状況によると今の旅行代理店みたいな業者がいて本陣のダブルブッキングとか行列の人数が足りないから人を貸すとか。また本陣に挨拶をしに来た地元の実力者にきちんとお礼を返していて、予定のなかった人が急に挨拶に来ても「リストに載ってないからダメ」みたいに断られたり、朝早く出発したりするときに提灯用の蝋燭を追加で頼んだ時はきちんと請求され、支払いもしていたそうで時代劇に見るような武士の横暴さは全くなかったようでびっくりしました。
いつも勉強になる投稿、ありがとう😊 参勤交代は記事にもあるとおり、大名家を窮乏させるための幕府の施策だと思っていました。臣下の礼を尽くすために大名側から始まったとは、まさに目から鱗の思いです。😅
非常に良い声でものすごく聴きやすくまた、勉強になりました😊ありがとうございます!参勤交代のリアル楽しかったです!
そういう意味で、現在でも参覲はありますね。
参勤交代があったお陰で五街道や宿場町や遊廓などの色街が出来て今に遺る観光地になって町人文化が日本全国に拡がっている
質問!日光よりも北には、街道が無かったの?
質問!京都よりも西には、街道が無かったの?
参勤交代は大名の財政~ を学校で習った世代なので興味深く面白い動画でした。動画を視聴して思ったのは、メンツの問題とお役所仕事って感じですね。財政難でもメンツでやめれないし、ずっとやってきたから辞めれなくなっているのは現代のお役所仕事そのまんま。辞めたほうがいいんじゃね? となってもやり続けて非効率化を招くのはもう国民性なのかも。
慶長12年(1607)~1811年(文化8)の間の朝鮮通信使の接待を命じられた御馳走役大名の過度な接待と同じ価値基準なのかと感じました。朝鮮通信使の接待全般を取り仕切る対馬藩よりあまり豪華な接待をしないよう達しがあったのに、各藩が競い合って豪華な接待をしたのは、将軍家へのアピールだったのかなと思いました。大変勉強になりました。ありがとうございます。
面白い仮説ですね!
オススメに登場して初めてこのチャンネルの動画を観ましたがわかりやすくて面白かったです。他の動画もチェックしたいと思います!
そもそも、武家政権の徳川幕府。それを支えているのも各地に配した地方武家政権の藩。言い換えればまるっと全国は軍事政権の集合体。それぞれに課せられた軍役の一つとして行軍の演習としての参勤交代の旅。それが証に参勤交代の際の行列の出で立ちがまんま、軍団の行軍の様相ですから。
DJ日本史でも言っていましたが、幕府が参勤交代を質素にするように言ったのには驚きました‼️
機械で読み聞かせのとんでも単語記事でないので とても感じよく 日本語だなあ!!!! 知りたいこと!すごく納得しました。
ほーりー、分かりやすい!!!
今まで参勤交代というものを誤解していました。新たな視点を教えていただき,ありがとうございます。参勤交代により,日本の中で情報交換ができて,結果的に日本と言う国の力が強くなったのだろうと思います。
武士は食わねど高楊枝っていう精神が根底にあったんでしょうね
歩行法の記述や浮世絵は、いわゆる「ナンバ歩き」的歩行法の具体的な記述例ではないかと思われ、興味深いです。あと、かつての「大名窮乏化説」の拡散の理由や原因も知りたいですね。
最近はリモートワークで参勤交代も楽になりましたね
もっと前、例えば秀吉時代の「妻子を人質として在府させる」とかが始まり? 大規模に集めたのは秀吉からね参勤交代は最初は外様大名だけだった、その意味では、治水、江戸城などの天下普請に命令は外様の財政を削るのが目的では?(いずれも費用は大名の負担、薩摩の木曽川・三川の堤防での経済の困窮は有名 東海道は四日市~名古屋は船です それぐらいの難所)瀬戸内海は船はOKだったけど、大阪から江戸までは徒歩、伊達家だって仙台掘(江東区)ってのが江戸にあって、米廻船の航海ルートは確立してたけど、大名行列は徒歩本隊以外に従者がいる(本隊が50人なら、全体では150人とかってなる)、本陣は格安だけど、その他の人の宿、メシは普通のお値段だからねえ 結果として、大名は貧乏になったあの有名な喜連川藩主は旗本交代寄合で参勤交代は無いから、伊達家の参勤交代を領地で待ち受けて泊まらせるのが大切なお仕事だったそれぐらいに金はを使う (伊達家の出自はその土地だからとまらないってのも・・・って理由もあったとか)喜連川藩はたったの5,000石 位無しの大名とも呼ばれてて 足利氏に繋がる門で、京の朝廷に上洛した時の典礼も詳しかったとか
こんばんは。参勤交代って、各地の大名の見栄の張り合いだったと云うのは驚きでした。また、江戸時代の面白い情報を楽しみにしてます。
逆に考えたら、十字軍の中近東への遠征で、あちらの文化なども持ち帰り、西ヨーロッパにもペルシャ製品なども広がった側面も有ります
NHKのチコちゃんの番組だと参勤交代は家光がビビりだったからさせたと言ってたけど、解説を聞くと元々風習があったけど、それまで決まり事がなかったルールを決めただけみたいですね。それにしても大名側が派手な行列を好んでいたのは意外でした。街道を通るときは毎回お祭りみたいな感じだったんでしょうね
元を言えば秀吉の時に各大名がご機嫌伺いに勝手にやったのが始まりだとか。家光の時に、我々が思う様な参勤交代が始まったというなら正しいのかもしれませんが。
@@sansei9津軽藩には「マジ遠いし雪つらみ。勘弁してくんね?」秀吉「おk」みたいなやりとりもあったみたいですしね。昔から挨拶は忠義を示す儀式ですよね。
初めて見ました。面白いですね〜チャンネル登録もしましたよ
学者や専門家など、色々な説や解釈もあって然るべきだけど100年後くらいしたら、この方の説が定説となっても良いのじゃないかと思えるほどとても楽しいね!
江戸時代の参勤交代は大名の反抗をやめさせ平和の仕組みを作りたい、大きな国家体制の初めてのシステムだと思います。交通、文化、物流、文化の交流など大きな経済効果が生れます。又大名達の政府への忠信や物の考え方、挨拶などを通じて日本の国の体力が完成したと思います。今の日本も東京に政府や経済機構があるのはその意味でも理解出来ます。こうした映像で解説は勉強になり当時の様子が分かり大変な苦労も分かりました。感謝です。
素人ながら感じてましたが、江戸での集中情報収集は大きかったでしょうね。江戸は三河の殿様が川の流れまで変えて無理くり開拓したニュータウンですが、おかげでいまだに大ヒットしてる。日本の団結力はこんな感じで生まれたのでしょうし、明治大正昭和、ネット社会の今でもそれほど変わらない気がする。人数不足で地方は衰退してますがね。スーツ君が旧街道を自転車で走破したのも面白いです。
日本のおもてなしの心は、参勤交代の宿場町で発展したんじゃないかなって思ってます。今の日本にとっては良い精度だったのではないでしょうか。
今回の動画は、特におもしろかったでーす!パフォーマーオモロー😊
楽しく拝見しました。 武士たちも争いがなくなって日常から開放されることを求めていたのでは、そしてやっぱり長旅なので少し趣向を凝らして退屈さをしのいでいたのは面白いですね。 江戸時代の情報共有や最新の文化を知るためには参勤交代は重要な役目をしていたことがよくわかりました。 五街道の整備も宿場町の発展もこれが寄与していたのはすごいことです。
田舎の方の街道沿いの古い屋敷とか訪れると、この部屋は殿様が泊まっていった部屋だとか、褒美にこの品を置いていったとか、領地の視察に来てたのではなく参勤交代の途中で毎回立ち寄ってた形跡が残ってますね。 ペース配分見入ると自分の藩内はゆっくり進んでにぎりぎりまで泊まって富を分配し、他藩のところは素早く通り抜けるとかやってたみたいですね。
大名窮乏化説を信じていました。決して誤解ではなく、そう学校で習ったからです。中学、高校(1955年生なので大昔)の頃は先生の言うことは正しいと信じていたからです。しかし歴史ほど定説が覆される学問は無いですね。何の為に必死に暗記したか分からない。
説明を聞いていると、「参勤は大名が好きにやり始めたので幕府側の意図ではない」と言う印象を持ち、違和感を抱きました。秀吉も北条や伊達に対して参じるように求め、それに対する行く行かないで揉めているわけですから、もし「徳川には従うけど、江戸幕府から来いって言われてないから行きません」なんて言ったら第二第三の大坂の役が起きていたんじゃないでしょうか?
すごく見やすく、分かりやすくてとても面白いです!登録しました!
参勤する武士は一日約40㌔移動するので常に小走りだったそうです。殿様も粗籠より馬に乗ってたみたいです!参勤には金が掛かるので小藩の譜代大名は役職に就き参勤を免れてたそうです。
宿代を節約するために小走りだったそうですね。
国の発展には道路等の整備が重要で日本の発展には田中角栄の新幹線や高速道路の建設も重要でベトナム等の発展の遅れは道路整備の遅れが指摘されている。
40年前の入試でも否定する問題が出てたほどなんですね私もだいぶ前に読んだ覚えがあります。数十年も間違った歴史を放置していたわけで、日本の学会もしくは教育界はわざとやってたのかな?
大名側の意地と見栄なんですね😅ところで小名ってどんな立場の方でしょうか⁉️
五万石未満が小名らしいです
内容も声も素晴らしい😁歴史は苦手教科でした😅ほーりーさんが先生だったら寝ないで楽しい教科になったかも!参勤交代自体詳しくないんですが、諸々の事情で狙いではなくとも結果的に幕府にも地方にもwin winな神制度だったんですね!移動中は、まさに軍隊の行軍のように感じました!
江戸幕府の政治や政策・制度がそんなに非合理でひどいものだったっら、270年も続かなかったはずなんですよね。しかもその殆どの期間が転嫁泰平であり、文化が成熟しいるんだから。
加賀・能登石川県あたりは海岸の家々までも整備され優雅さに目を奪われる
それだけ大名達がお金を落としていったと言うことですね!
それはすなわち、道中の旅籠に落ちたお金ですねっ……皆んな喜びますねっ…🤗
ですよねー強大な権力者に擦り寄って恩恵を得ようとし、ライバルが数百人もいれば目立つためにいろいろなことをする。浪費は権力の減衰にも繋がるが、経済効果もあって庶民の生活は向上する。小学生ですら、派閥作って力を得ようとするんです。そりゃ当然ですよ。
260年も続いたから五街道の街々が発展して、各地の名産が生まれ、衣装も発展し、日本文化が完成したといっていいよね。素晴らしい制度だった。
もし参勤交代が無かったらを考えると、時代を経る毎に徳川幕府への帰属意識もどんどん薄れて行って戦国時代に逆戻りしていたかもしれないなと思います
土佐の山内一豊が初めに参勤を願い出た!と云う説を何かで読んだ記憶があります。
映画「超高速参勤交代」を思い出しました
行進パフォーマンスは時代によらず不思議ですね。現代でも軍隊の大腕を真っ直ぐに伸ばして振りながら歩く姿は人形のようで滑稽ですし、真横を向いて歩いたり、上半身を止めて下半身だけ動かして歩くのは疲れるだけで行進を進める意味はないですからパフォーマンスでしかないです。武士も軍人も行進のパフォーマンスは昔も今も滑稽ですね。
実情、最先端で大都会の江戸に身を置きたい・触れたい自由意思と、自国や自身の力を顕示したい大名の顕示欲の機会、言わば参勤交代と言うより参顕交代(全国大名パレード的意味合い)が実状だったと言う事か。
ねえ〜、その時が来たら、パレードしようよ~!(by PrincessPrincess)
京都には 来てたけど 大阪の文楽って見ないのかな?
人とモノ、金が流通するのだからよい制度だと思う。結果、道の整備と沿線が潤うあれ、今と同じだw
確かに「見える・見えない」はすごく大事
大名は必ず国元に帰らなければならなかったんですか?江戸に常駐はダメなんですかね?
目から鱗で勉強になりました! ありがとうございます!
幕府はそんな風にせい、とは命令を出していないとしても、他藩に遅れを取らぬ様に、やはり無理して行列を整え、ある意味見栄を張って行われていたのでは?多くの藩もこれが財政難を助長する悩みの種だったのは事実なのではないでしょうか。
間接的に御触れをだしていたかな
その通りです事実ですが、それは結果であって目的ではなかったのです。
歴史だとインパクト重視で通説をことさら否定して「・・・は誤解!」「・・・は無かった!」と声高に言う人が出てくるけど、それもどうかと思うんですよね0か100かで有ったか無かったで論じられるほど歴史の事柄は単純ではないし当初の目的と違ったとしても結果として見たらそうなった、ということもよくある逆に「・・・は無かった!」に引きずられて却って誤ったイメージを持ってしまってる例も散見されるし歴史を正確に学びたい人間としては何事も短絡しないようにしたいですね
下に下にの掛け声は御三家だけの大名行列だとか、詳しく分かってくると面白いですよね。
参勤交代って大変なものだとばかり思ってました。いろんなメリットもあったんですね。何でこんな面白い話を学校ではしてくれないんだろーって思いました
小学校の時にならって明らかにデメリットよりもメリット(動画内で語られている街道や経済効果・情報共有等)が勝っているやん。なんでそれを教えないの?と一人モンモンとしてました。大人になってやっぱり間違えてなかった事が改めて理解できた時は教育機関もいい加減なんだな~と苦笑いしてました。
ホーリー待ってました。(あえて敬称略)DJ日本史以外で勉強できて幸せです。 他のサイトにはない切り口をお願いします。 着物姿もお待ちしています。
前方後円墳、ピラミッドは失業対策だった説が今は有力ですね。
ピラミッドは子供の時に習ってた時から、奴隷にこんな立派で計算され尽くされた物が出来るのかと疑問に思ってたな。
裏から見ると藩内のお百姓さんの負担は??道中の地域活性化は相当なもの、宿場町でのお宿成金は存在したのですか?
優秀な農家(米の収穫高や付加価値の多い作物を作れる農家)は今で言うヘッドハンティングにあってた。いつの時代でも地方の下っ端役人はキツイんですよ・・・そうでない農家の人達は今の私達が想像する悲惨な農民ってのは不作・凶作でのイメージと思った方がいいかと。 コンギョ?あぁ北朝鮮のポップな軍歌・・・えっ違う? 根拠は各農村に昔からある祭りや各地域にあった古民家。大体食うや食わずの地域で定期的に祭りや見世物小屋が開催されると思います?各地で町人文化による独特の物産や名産品が出てくると思います?
鎌倉や室町幕府も大名は将軍の側に仕えるのが当然ですからむしろ国元に帰れる方が負担は少ないかもしれませんね
室町の時は余りに将軍の側に居続けたせいで代理で支配してた国人の方が力が強くなって下克上が起こったとか。信長の織田家も同じ。
日本国は文化レベルが高かったと思う。ミシュランガイド的な本も発行されてたんだよね?
各大名が見栄を張ってる様がおかしい。しかし街道庶民や江戸庶民が潤うのは良かった。
武鑑が欲しい
現代でも憧れの大東京とかいって、田舎から続々と人が集まってくるわけでこれと同じで、お前らたまには帰れよってのが実態だったわけですね
見栄は貧しくさせるだけで無意味ですよね。派手に自分を見せるくらいなら別のことで有意義に使ったほうがいい。
漠然とは知ってたが詳細を知らなかったこともある。将軍のご機嫌取り→大名同士の見栄張り→財政負担→結果として反乱防止や街道物流の発展。跡継ぎが江戸に住むのは情報だけでなく領地への愛着も薄める。一所懸命は過去のものとなったろう。当初の目的と違う結果になるのは携帯電話からスマホへの変遷でも見られることだと思う
貧乏にさせる側面はやっぱりあったんじゃないのかな。同時に途中の宿場含め、経済効果を期待してたんじゃないのかな。
いろいろ言われるのは、「徳川が良政であってはいけない」という思惑の下なんでしょうな。「鎖国」なんて言葉も
そう、ずぅっと変に思ってたことでした。教科書にあったように「大名を疲弊させるため」の参勤交代ならまず大名が嫌がると思うし、お付きの者と数人で馬に乗って行けば済むことだろし、そういう「キセル」みたいなことをやって幕府に怒られた大名とか、はたまた不平やサボタージュして問題や事件になったような事例が必ずあったはずですよね。いわば武士階級にとっての「お祭り」みたいな意味も含まれてたってことですね。長年のもやっとした疑問が解決できました。 ありがとうございます。
見栄を張る余裕もない貧乏な大名も、幾つかの場所ごとに見張り役が居たので「キセル」をすることが出来なかったらしいです。まあ鼻薬嗅がせれば別でしょうが。
加賀藩財政について、1石=1両とすると100万石×8万円=800億円で片道が4億円だと0.5%の旅費交通費か。さほどの負担でもないような、
世界史上、最も偉大な公共事業
やっぱり豊かな知識に裏付けされた解説は無駄が無く分かりやすいですね。DJ日本史も応援してますよ〜。(松村さんのフォローもお見事!)
日本人て江戸の昔っから日本人なんすね😌温故知新♪
守護や地頭である地方大名の力を結果的に弱める事が目的なのであまり変わらないかな。結論は。これを年中やる訳ですからね。本来地方行政官レベルで良いしね、送ってくるのは。それでも費用をかけたのは大名同士のメンツ確保。それを幕府だって分かっていたでしょうから、ダブスタと言えます。
なるほど、パフォーマーを雇っていたのですかぁ。
現代の文系サラリーマントップな考えやったんや 創始者の意思をくまない 使用人は何時の時代も同じ
こんにちは!ホーリーさん参勤交代に関する動画は沢山出回っていますが、ホーリーさんの動画の秀逸な処は大名窮乏化説を結果であり目的で無いと否定して居る部分ですね。確かに成る程と思うのですが、一つ疑問が有ります。幕府は大名が自ら自主的に始めた参勤交代制度を何故に武家諸法度の中で成文化して義務化する必要が有ったのでしょう?自分が思うには参勤交代制度を義務化する事で参勤交代の主導権を幕府が握る目的が有ったのではないでしょうか、しれっと行列にお金を使いすぎるのは駄目だよ、何て書いて居ますが1635年の時点でこのまま参勤交代が続くと近い将来藩財政がひっ迫するだろう事は幕府側は予測していたと思います。大名窮乏化が目的では無いにしても参勤交代を義務化した時点で窮乏化は必然だったし幕府側は見て見ぬふりをしている。参勤交代の義務化は幕府側の狡猾さが良く判る。
参勤交代の当初の目的はやはり大名の窮乏化と徳川幕府への忠誠であったと思いますよ。その制度が、ある程度目的を果たして地方の大名が幕府に逆らえるほどの軍事力、経済力を持てなくなった後はやめられなくなる。参勤交代をやめると言えば謀反を疑われる。そして50年、100年、200年と続けば当初は考えていなかったメリット、デメリットが出てきても当然のこと。大名の子息に江戸の最先端教育を受けさせたって、いかにも東京大学の思いつきそうなこじつけ。幕府に都合のいい洗脳教育の側面もありそう。別に世の中が平和になり文化の発展に寄与したことを否定するわけではない。まさに結果オーライ。
この動画を観た範囲では、大名窮乏化が目的でないとするには弱いと思いました。主な目的ではなくとも目的の一つではあったのではないかと。幕府のだしたもっと質素にしろとの令もこういうのは生かさずころさずが基本ですし。木曽三川の治水を薩摩藩にやらせた例もありますし、特に外様大名の力を削ぎたいという欲求はあったのでは。
@@Paseri8dan大名窮乏化は大名行列よりも普請(天下普請)の方が大きかったみたいです。 大きなところでも何十万両と掛かる上に、ケチ付けられてグダグダ引き延ばされる可能性もあったとか。しかも全大名に平等に課すわけじゃなくて恣意的に行う事が出来たから。
参勤交代は楽しそうですね。
パレードみたいなのが目の前を通り抜けて行くのを
思えば、沿道で診ている皆さんは楽しみだったでしょうね。
スーパーサンクスありがとうございます!励みになります お江戸いいねスタッフ一同
@@ilikeedo 私の先祖(祖父の祖父)は奥三河の住人ですが、江戸に旅する時にアルバイト的に大名行列に加わった(旅籠宿に入る前に)そうです。
@@bsawada9698 道中は、着物をはしょり駆け足で動き、旅籠に近づく前に綺麗な格好をして慇懃をもって「片寄れ」と行列していたから
貴方の祖先は、支給されたきれいな着物を着てアルバイトをしていなんでしょうね。ちなみに「したに~」と言うのは自分の領地内だけ。ほかの藩主が納めていた領民は「他藩の殿様には、なんの敬いもないから、立ったり
道路に胡坐をかいて行列を見学していました
自分が聞いた範囲では大名行政が通る時には膝を付いて頭を下げ、絶対に行列を見てはならなかったはず。
なので庶民は見つからないよう遠巻きにして眺めていたそうです。
救急車が通る時に一般車が道を譲るのと同じですよ。
誰でも近くに近付けると暗殺される危険があるでしょ。
@@注射星人 大名行列には先発隊が
いて まず行列が通る街道の町民らに
人差し指を口に持っていき「シ~シ~」と静かにしてくださいと伝え、行列が通るときには土下座するように求めていました
他藩を通るとき、自分の領地でない故、自分の権力は履行できないのですから、仕方がないことです、
ちなみに「シ~」というのは、現在でも静かに」という意味でつかわれていますが
起原は大名行列から発したものです。
TVや映画の大名行列は随分と脚色されています、大名行列中に暗殺する・・・他藩の大名を暗殺しても民・百姓には何の得にもなりません。九州の大名が静岡で暗殺されても静岡県民には損得なしです。
加賀藩の参勤交代の書物を読んだことがある、金沢~江戸まで13日間、宿泊場所を他の藩と取り合いしたり、宿の主人、名主からの接待を一切受けなかったとか(返礼が大変だったのが理由)富山の黒部川が氾濫するので上流に橋を架けたとか(その橋の名残が、残っている)糸魚川の宿先の酒の蔵元で「お酒を出され飲んでみると、非常にうまい」という事で「加賀の井」と加賀の名を使う事を許したとか・・・とにかく面白く読んだ、
今から20年以上も前だが、まだ憶えている・・・加賀の井は現在も糸魚川市に現存しており、10年前にそこへ行き、先代ご主人に色々とお話を聞いて、歴史を実感した。
徳川幕府の思惑とは別に、
街道が整備され、運輸通信が
発達するきっかけになった。
明治維新に日本が権力集中の
国民国家へ容易に移行できたのも、
参勤交代で、全国の領主が江戸に集まったからだと言える。
解説ありがとうございます、参勤交代は大名側が勝手に始めた上に、勝手に派手にしました。
よく大名行列はずっと土下座しないといけないという誤解が広まっていますが、大名行列は娯楽の少なかった当時の数少ない娯楽であり、ずっと土下座してたらせっかく大名側がアルバイトまで雇って着飾らせているのに、その様子を見る事ができないのです。
つまり大名行列は基本土下座せずに見物する事が出来ました(御三家など例外あり)、しかもみんな楽しみにしていた娯楽なので「武鑑」という大名行列ガイドブック片手に見物人が沢山いました。
それに横切ったら問答無用で斬られる訳ではありません、生麦事件は度重なる警告にも従わず下馬せずに行列を逆行した上久光の駕籠近くまで来てしまったのでやむなく斬りました。
江戸では見物対象ですが、流石に国許では地元の殿様には土下座必須だと思います。通過していく殿様にはどうだったのだろう? あ、そこ、道中で金かかる行列なんか組まないとか身もふたもないこと言わない。
@@水野誠一-b9l さま
国許ではさまざまで、土下座を強要してくる場合もあればそうでない場合もあったようです。
先頭から最後尾まで土下座せずとも、藩主の乗る駕籠が通る時くらいは土下座していたと思われます。
@@y0910 詳しい解説ありがとうございます。なるほど、やはり藩によるのですね。
@@水野誠一-b9l 道中でも人の目があるところではキッチリしてたみたいですよ。幾つかの泊まる予定の場所には監視役みたいなのもいたらしいですし。
残業は従業員が自発的にやっていたもので、残っている資料からは会社はその量を減らすように指示していたと、歴史家は語るんでしょうね😊
そうなる。
参勤交代を生で見たかったなぁ、、
室町時代も基本守護は在京、在鎌倉だったので、豊臣政権も江戸幕府もこの慣例を引き継いでいますね。平清盛の時代も、地方の領主が京や清盛の膝下に住んでいました。さらにさかのぼれば、王朝国家時代には「遙任」といって、現地へ赴任せず在京のまま地方長官である「国司」となる例があります。遙任しない場合でも国司は京から派遣されるので、最終的には京へ還ります。基本現地人は国司にはなりません。律令自体が中央集権である中国の制度であるので、その系譜を引き継ぐ武家のシステムもそれを模倣したものとなります。つまり実態はどうあれ建前としては、地方官(諸大名)は中央(幕府)から派遣されるのが基本であり、在京(在江戸)が本来あるべき姿で、そこから勤務として地方に出張下向するというのが正しい構図となります。
参勤交代の旅費より、江戸で藩主、家族、藩士が暮らす江戸藩邸が使う金が難題だった。
大名は参府すると江戸に留め置かれるため、滞在費が金食い虫となる
その金策に走り回るのは国許。
苦労して徴収した年貢の大半が、一方的に江戸藩邸に吸い上げられていく。
その結果、どの藩も江戸藩邸と国許の間に深刻な確執できた。
庄内藩、第7代藩主 酒井忠徳は江戸で生まれ育った。
この忠徳が18歳で初めて入部することになった(国から江戸へ向かうことを参府、江戸から国へ帰ることを入部という)
だが、江戸藩邸では大名行列を率いて旅をする費用を調達する見込みが立たない。
にもかかわらず、重臣たちは見切り発車して江戸を出立してしまった。
不足分は国許が工面して、旅の途中に届ける手はずだった。
ところが、福島まで来て旅費が尽き、しかも国から金が届かない。
万事休すとなった藩の重臣が忠徳に窮状を打ち明けると、忠徳は14万石の藩がなんたる不如意(経済的に苦しいこと)と涙を流したという。
江戸で生まれ育った殿様は、国許の状況が分かってなかったようだ。
参勤交代については、以前DJ日本史で取り上げられ、ほーりーとまっちゃんがメリット、デメリット等に゙ついて楽しいトークバトルを繰り広げられたのが印象的で記憶に残っていますなので、おおよそは理解していたつもりでしたが、今回の動画で参勤交代が大名と領民の繫がりを弱めた。ということは初めて知りました!なるほど勉強になりました😄ありがとうございます🙇今回も素晴らしい動画でした
参勤交代の中にパフォーマーが隠れていたんですか、知らなかった。有難うございました。
今回も面白かったです。
戦のない時代に入ったら大名が自分をアピールできることは見栄ですものね。
参勤交代での地方活性化は吉宗以降になると、地方ごとの名産品。
なーんてのも出てきて、それが大都市圏に輸入して地方の特色が出てきて
令和の今でも続いてる。って考えると歴史を感じます。
現在は、便利になって高速化が進んだおかげで地方がどんどん廃れてしまう要因に。
バランスって難しいですよね。
加賀前田家は幕末まで参勤交代の規模を維持し続けたとはもはや意地の張り合い。
ありがとうございます。間違ったまま覚えてました。またそう信じてました。
江戸時代の参勤交代の独特の歩き方があったというのは初めて知りました
現代でも軍隊が更新するとき「グースステップ(ガチョウ足行進)」をしてるのとおなじですね
都市対抗野球は野球版勝ち抜き参勤だし、高校野球は江戸ではなく甲子園での参勤。おらが藩の企業、高校が躍り上がって応援団パフォーマーと盛り上がる儀式
ありがとうございます!
スーパーサンクスありがとうございます、励みになります! お江戸いいねスタッフ一同
大名の忠誠心を試す場であることが分かっているから、初期はいざ鎌倉ばりに大名も必死になって参勤。中期以降、取り潰される心配が少なくなったら今度は大名同士の格式の張り合い。
そのお陰で街道は整備されて、大名が辿る道を逆に行けば幕府軍の反乱鎮圧のルートになる。
そこまでは良かったが、幕府側もこんなに江戸幕府が長く続いて経済発展するとは思ってなかったら、
年を追うごとに参勤や江戸滞在の費用が馬鹿にならなくなり、その金が庶民の経済に回って、余計に武士の生活が苦しくなることまでは予測出来なかったんだろう。
結果として反乱は起きなかったが、幕府と大名の体力は削られ、雄藩の増長を招くことになる。
何だかニワトリが先か卵が先かみたいな話じゃないのかな。
参勤交代についての制度が出来るまでの経緯を知ることができ、様々な部分でプラスの効果をもたらしたことも分かり、大変に良い学びとなりました。参勤交代には、戦国の世のような争いを避けるための意味もあった話が凄く印象的でした👍
今までここで言う大名窮乏説を信じてました。
個人の感想とか推理とかではなく、信頼に値する一次資料、二次資料で解説してもらうとなるほどって感じです。
「真実はこれだ!」とか言いつつ根拠も調査も全くない動画を垂れ流している人は是非参考にしてほしいです。
うっかり信じちゃって困るんですよ。
足軽クラスはレンタル。大名同士もプライドをかけて豪勢さを争ったのでしょうね。
森鴎外の澁江抽斎を読んでたら、参勤交代で江戸に行ってた人間と、田舎(弘前)に留まった人間との間には、学問や文化にたいする意識の違いが生まれてたみたい。今でいえば、おしゃれな帰国子女を見る時の、あの羨望と嫉妬が入り交じったような感じかな?
いつの楽しみにしています。
勝海舟と西郷隆盛の言葉が通じたので、江戸無血開城がなされたのではないか、という説もありますね。参勤交代により、地方の侍たちが江戸言葉に通じていた、というメリットもありそうです。
日本のマーチングや集団パフォーマンスが海外で高い評価を得ているが、その基礎は参勤交代にあるのかもしれない。
タイムスリップして参覲交代見てみたいです😊
参勤交代な
@@野末貴之 参覲交代も間違いではありませんよ😆
最後のドイツ人医師ケンペルの記録、時代劇でよくある「下に〜下に〜」ですね。聞いているだけで想像出来てしまうので思わず笑ってしまいました。
地元の家老さんが書いた日記を地元の博物館の研究員さんが本にして下さったのを読むと江戸で生まれて地元に初めて帰る若君の帰郷状況によると今の旅行代理店みたいな業者がいて本陣のダブルブッキングとか行列の人数が足りないから人を貸すとか。
また本陣に挨拶をしに来た地元の実力者にきちんとお礼を返していて、予定のなかった人が急に挨拶に来ても「リストに載ってないからダメ」みたいに断られたり、朝早く出発したりするときに提灯用の蝋燭を追加で頼んだ時はきちんと請求され、支払いもしていたそうで時代劇に見るような武士の横暴さは全くなかったようでびっくりしました。
いつも勉強になる投稿、ありがとう😊 参勤交代は記事にもあるとおり、大名家を窮乏させるための幕府の施策だと思っていました。臣下の礼を尽くすために大名側から始まったとは、まさに目から鱗の思いです。😅
非常に良い声でものすごく聴きやすくまた、勉強になりました😊ありがとうございます!参勤交代のリアル楽しかったです!
そういう意味で、現在でも参覲はありますね。
参勤交代があったお陰で五街道や宿場町や遊廓などの色街が出来て今に遺る観光地になって町人文化が日本全国に拡がっている
質問!日光よりも北には、
街道が無かったの?
質問!
京都よりも西には、街道が無かったの?
参勤交代は大名の財政~ を学校で習った世代なので興味深く面白い動画でした。動画を視聴して思ったのは、メンツの問題とお役所仕事って感じですね。財政難でもメンツでやめれないし、ずっとやってきたから辞めれなくなっているのは現代のお役所仕事そのまんま。辞めたほうがいいんじゃね? となってもやり続けて非効率化を招くのはもう国民性なのかも。
慶長12年(1607)~1811年(文化8)の間の朝鮮通信使の接待を命じられた御馳走役大名の過度な接待と同じ価値基準なのかと感じました。朝鮮通信使の接待全般を取り仕切る対馬藩よりあまり豪華な接待をしないよう達しがあったのに、各藩が競い合って豪華な接待をしたのは、将軍家へのアピールだったのかなと思いました。大変勉強になりました。ありがとうございます。
面白い仮説ですね!
オススメに登場して初めてこのチャンネルの動画を観ましたが
わかりやすくて面白かったです。他の動画もチェックしたいと思います!
そもそも、武家政権の徳川幕府。
それを支えているのも各地に配した
地方武家政権の藩。
言い換えれば
まるっと全国は
軍事政権の集合体。
それぞれに課せられた軍役の一つとして
行軍の演習としての
参勤交代の旅。
それが証に
参勤交代の際の行列の
出で立ちが
まんま、軍団の行軍の様相ですから。
DJ日本史でも言っていましたが、幕府が参勤交代を質素にするように言ったのには驚きました‼️
機械で読み聞かせのとんでも単語記事でないので とても感じよく 日本語だなあ!!!! 知りたいこと!すごく納得しました。
ほーりー、分かりやすい!!!
今まで参勤交代というものを誤解していました。新たな視点を教えていただき,ありがとうございます。
参勤交代により,日本の中で情報交換ができて,結果的に日本と言う国の力が強くなったのだろうと思います。
武士は食わねど高楊枝っていう精神が根底にあったんでしょうね
歩行法の記述や浮世絵は、いわゆる「ナンバ歩き」的歩行法の具体的な記述例ではないかと思われ、興味深いです。
あと、かつての「大名窮乏化説」の拡散の理由や原因も知りたいですね。
最近はリモートワークで参勤交代も楽になりましたね
もっと前、例えば秀吉時代の「妻子を人質として在府させる」とかが始まり? 大規模に集めたのは秀吉からね
参勤交代は最初は外様大名だけだった、その意味では、治水、江戸城などの天下普請に命令は外様の財政を削るのが目的では?
(いずれも費用は大名の負担、薩摩の木曽川・三川の堤防での経済の困窮は有名 東海道は四日市~名古屋は船です それぐらいの難所)
瀬戸内海は船はOKだったけど、大阪から江戸までは徒歩、
伊達家だって仙台掘(江東区)ってのが江戸にあって、米廻船の航海ルートは確立してたけど、大名行列は徒歩
本隊以外に従者がいる(本隊が50人なら、全体では150人とかってなる)、本陣は格安だけど、
その他の人の宿、メシは普通のお値段だからねえ 結果として、大名は貧乏になった
あの有名な喜連川藩主は旗本交代寄合で参勤交代は無いから、伊達家の参勤交代を領地で待ち受けて泊まらせるのが大切なお仕事だった
それぐらいに金はを使う (伊達家の出自はその土地だからとまらないってのも・・・って理由もあったとか)
喜連川藩はたったの5,000石 位無しの大名とも呼ばれてて 足利氏に繋がる門で、京の朝廷に上洛した時の典礼も詳しかったとか
こんばんは。
参勤交代って、各地の大名の見栄の張り合いだったと云うのは驚きでした。
また、江戸時代の面白い情報を楽しみにしてます。
逆に考えたら、十字軍の中近東への遠征で、あちらの文化なども持ち帰り、西ヨーロッパにもペルシャ製品なども広がった側面も有ります
NHKのチコちゃんの番組だと参勤交代は家光がビビりだったからさせたと言ってたけど、解説を聞くと元々風習があったけど、それまで決まり事がなかったルールを決めただけみたいですね。
それにしても大名側が派手な行列を好んでいたのは意外でした。
街道を通るときは毎回お祭りみたいな感じだったんでしょうね
元を言えば秀吉の時に各大名がご機嫌伺いに勝手にやったのが始まりだとか。
家光の時に、我々が思う様な参勤交代が始まったというなら正しいのかもしれませんが。
@@sansei9津軽藩には「マジ遠いし雪つらみ。勘弁してくんね?」秀吉「おk」みたいなやりとりもあったみたいですしね。昔から挨拶は忠義を示す儀式ですよね。
初めて見ました。
面白いですね〜
チャンネル登録もしましたよ
学者や専門家など、色々な説や解釈もあって然るべきだけど
100年後くらいしたら、この方の説が定説となっても良いのじゃないかと思えるほど
とても楽しいね!
江戸時代の参勤交代は大名の反抗をやめさせ平和の仕組みを作りたい、大きな国家体制の初めてのシステムだと思います。交通、文化、物流、文化の交流など大きな経済効果が生れます。又大名達の政府への忠信や物の考え方、挨拶などを通じて日本の国の体力が完成したと思います。今の日本も東京に政府や経済機構があるのはその意味でも理解出来ます。こうした映像で解説は勉強になり当時の様子が分かり大変な苦労も分かりました。感謝です。
素人ながら感じてましたが、江戸での集中情報収集は大きかったでしょうね。
江戸は三河の殿様が川の流れまで変えて無理くり開拓したニュータウンですが、おかげでいまだに大ヒットしてる。
日本の団結力はこんな感じで生まれたのでしょうし、明治大正昭和、ネット社会の今でもそれほど変わらない気がする。
人数不足で地方は衰退してますがね。
スーツ君が旧街道を自転車で走破したのも面白いです。
日本のおもてなしの心は、参勤交代の宿場町で発展したんじゃないかなって思ってます。
今の日本にとっては良い精度だったのではないでしょうか。
今回の動画は、特におもしろかったでーす!パフォーマーオモロー😊
楽しく拝見しました。 武士たちも争いがなくなって日常から開放されることを求めていたのでは、そしてやっぱり長旅なので少し趣向を凝らして退屈さをしのいでいたのは面白いですね。 江戸時代の情報共有や最新の文化を知るためには参勤交代は重要な役目をしていたことがよくわかりました。 五街道の整備も宿場町の発展もこれが寄与していたのはすごいことです。
田舎の方の街道沿いの古い屋敷とか訪れると、この部屋は殿様が泊まっていった部屋だとか、褒美にこの品を置いていったとか、領地の視察に来てたのではなく参勤交代の途中で毎回立ち寄ってた形跡が残ってますね。 ペース配分見入ると自分の藩内はゆっくり進んでにぎりぎりまで泊まって富を分配し、他藩のところは素早く通り抜けるとかやってたみたいですね。
大名窮乏化説を信じていました。決して誤解ではなく、そう学校で習ったからです。中学、高校(1955年生なので大昔)の頃は先生の言うことは正しいと信じていたからです。しかし歴史ほど定説が覆される学問は無いですね。何の為に必死に暗記したか分からない。
説明を聞いていると、「参勤は大名が好きにやり始めたので幕府側の意図ではない」と言う印象を持ち、違和感を抱きました。
秀吉も北条や伊達に対して参じるように求め、それに対する行く行かないで揉めているわけですから、もし「徳川には従うけど、江戸幕府から来いって言われてないから行きません」なんて言ったら第二第三の大坂の役が起きていたんじゃないでしょうか?
すごく見やすく、分かりやすくてとても面白いです!
登録しました!
参勤する武士は一日約40㌔移動するので常に小走りだったそうです。殿様も粗籠より馬に乗ってたみたいです!参勤には金が掛かるので小藩の譜代大名は役職に就き参勤を免れてたそうです。
宿代を節約するために小走りだったそうですね。
国の発展には道路等の整備が重要で日本の発展には田中角栄の新幹線や高速道路の建設も重要でベトナム等の発展の遅れは道路整備の遅れが指摘されている。
40年前の入試でも否定する問題が出てたほどなんですね
私もだいぶ前に読んだ覚えがあります。
数十年も間違った歴史を放置していたわけで、日本の学会もしくは教育界はわざとやってたのかな?
大名側の意地と見栄なんですね😅
ところで小名ってどんな立場の方でしょうか⁉️
五万石未満が小名らしいです
内容も声も素晴らしい😁歴史は苦手教科でした😅
ほーりーさんが先生だったら寝ないで楽しい教科になったかも!
参勤交代自体詳しくないんですが、諸々の事情で狙いではなくとも
結果的に幕府にも地方にもwin winな神制度だったんですね!
移動中は、まさに軍隊の行軍のように感じました!
江戸幕府の政治や政策・制度がそんなに非合理でひどいものだったっら、270年も続かなかったはずなんですよね。
しかもその殆どの期間が転嫁泰平であり、文化が成熟しいるんだから。
加賀・能登石川県あたりは海岸の家々までも整備され優雅さに目を奪われる
それだけ大名達がお金を落としていったと言うことですね!
それはすなわち、道中の旅籠に落ちたお金ですねっ……皆んな喜びますねっ…🤗
ですよねー
強大な権力者に擦り寄って恩恵を得ようとし、ライバルが数百人もいれば目立つためにいろいろなことをする。
浪費は権力の減衰にも繋がるが、経済効果もあって庶民の生活は向上する。
小学生ですら、派閥作って力を得ようとするんです。そりゃ当然ですよ。
260年も続いたから五街道の街々が発展して、各地の名産が生まれ、衣装も発展し、日本文化が完成したといっていいよね。素晴らしい制度だった。
もし参勤交代が無かったらを考えると、時代を経る毎に徳川幕府への帰属意識もどんどん薄れて行って戦国時代に逆戻りしていたかもしれないなと思います
土佐の山内一豊が初めに参勤を願い出た!
と云う説を何かで読んだ記憶があります。
映画「超高速参勤交代」を思い出しました
行進パフォーマンスは時代によらず不思議ですね。
現代でも軍隊の大腕を真っ直ぐに伸ばして振りながら歩く姿は人形のようで滑稽ですし、真横を向いて歩いたり、上半身を止めて下半身だけ動かして歩くのは疲れるだけで行進を進める意味はないですからパフォーマンスでしかないです。
武士も軍人も行進のパフォーマンスは昔も今も滑稽ですね。
実情、最先端で大都会の江戸に身を置きたい・触れたい自由意思と、自国や自身の力を顕示したい大名の顕示欲の機会、言わば参勤交代と言うより参顕交代(全国大名パレード的意味合い)が実状だったと言う事か。
ねえ〜、その時が来たら、
パレードしようよ~!
(by PrincessPrincess)
京都には 来てたけど 大阪の文楽って見ないのかな?
人とモノ、金が流通するのだからよい制度だと思う。
結果、道の整備と沿線が潤う
あれ、今と同じだw
確かに「見える・見えない」はすごく大事
大名は必ず国元に帰らなければならなかったんですか?江戸に常駐はダメなんですかね?
目から鱗で勉強になりました! ありがとうございます!
幕府はそんな風にせい、とは命令を出していないとしても、他藩に遅れを取らぬ様に、やはり無理して行列を整え、ある意味見栄を張って行われていたのでは?
多くの藩もこれが財政難を助長する悩みの種だったのは事実なのではないでしょうか。
間接的に御触れをだしていたかな
その通りです事実ですが、それは結果であって目的ではなかったのです。
歴史だとインパクト重視で通説をことさら否定して「・・・は誤解!」「・・・は無かった!」と声高に言う人が出てくるけど、それもどうかと思うんですよね
0か100かで有ったか無かったで論じられるほど歴史の事柄は単純ではないし
当初の目的と違ったとしても結果として見たらそうなった、ということもよくある
逆に「・・・は無かった!」に引きずられて却って誤ったイメージを持ってしまってる例も散見されるし
歴史を正確に学びたい人間としては何事も短絡しないようにしたいですね
下に下にの掛け声は御三家だけの大名行列だとか、詳しく分かってくると面白いですよね。
参勤交代って大変なものだとばかり思ってました。いろんなメリットもあったんですね。
何でこんな面白い話を学校ではしてくれないんだろーって思いました
小学校の時にならって明らかにデメリットよりもメリット(動画内で語られている街道や経済効果・情報共有等)が勝っているやん。なんでそれを教えないの?と一人モンモンとしてました。大人になってやっぱり間違えてなかった事が改めて理解できた時は教育機関もいい加減なんだな~と苦笑いしてました。
ホーリー待ってました。(あえて敬称略)DJ日本史以外で勉強できて幸せです。 他のサイトにはない切り口をお願いします。 着物姿もお待ちしています。
前方後円墳、ピラミッドは失業対策だった説が今は有力ですね。
ピラミッドは子供の時に習ってた時から、奴隷にこんな立派で計算され尽くされた物が出来るのかと疑問に思ってたな。
裏から見ると藩内のお百姓さんの負担は??道中の地域活性化は相当なもの、宿場町でのお宿成金は存在したのですか?
優秀な農家(米の収穫高や付加価値の多い作物を作れる農家)は今で言うヘッドハンティングにあってた。いつの時代でも地方の下っ端役人はキツイんですよ・・・そうでない農家の人達は今の私達が想像する悲惨な農民ってのは不作・凶作でのイメージと思った方がいいかと。
コンギョ?あぁ北朝鮮のポップな軍歌・・・えっ違う?
根拠は各農村に昔からある祭りや各地域にあった古民家。大体食うや食わずの地域で定期的に祭りや見世物小屋が開催されると思います?各地で町人文化による独特の物産や名産品が出てくると思います?
鎌倉や室町幕府も大名は将軍の側に仕えるのが当然ですから
むしろ国元に帰れる方が負担は少ないかもしれませんね
室町の時は余りに将軍の側に居続けたせいで代理で支配してた国人の方が力が強くなって下克上が起こったとか。信長の織田家も同じ。
日本国は文化レベルが高かったと思う。
ミシュランガイド的な本も発行されてたんだよね?
各大名が見栄を張ってる様がおかしい。しかし街道庶民や江戸庶民が潤うのは良かった。
武鑑が欲しい
現代でも憧れの大東京とかいって、田舎から続々と人が集まってくるわけで
これと同じで、お前らたまには帰れよってのが実態だったわけですね
見栄は貧しくさせるだけで無意味ですよね。派手に自分を見せるくらいなら別のことで有意義に使ったほうがいい。
漠然とは知ってたが詳細を知らなかったこともある。将軍のご機嫌取り→大名同士の見栄張り→財政負担→結果として反乱防止や街道物流の発展。跡継ぎが江戸に住むのは情報だけでなく領地への愛着も薄める。一所懸命は過去のものとなったろう。当初の目的と違う結果になるのは携帯電話からスマホへの変遷でも見られることだと思う
貧乏にさせる側面はやっぱりあったんじゃないのかな。同時に途中の宿場含め、経済効果を期待してたんじゃないのかな。
いろいろ言われるのは、「徳川が良政であってはいけない」という思惑の下なんでしょうな。「鎖国」なんて言葉も
そう、ずぅっと変に思ってたことでした。
教科書にあったように「大名を疲弊させるため」の参勤交代ならまず大名が嫌がると思うし、お付きの者と数人で馬に乗って行けば済むことだろし、そういう「キセル」みたいなことをやって幕府に怒られた大名とか、はたまた不平やサボタージュして問題や事件になったような事例が必ずあったはずですよね。
いわば武士階級にとっての「お祭り」みたいな意味も含まれてたってことですね。
長年のもやっとした疑問が解決できました。 ありがとうございます。
見栄を張る余裕もない貧乏な大名も、幾つかの場所ごとに見張り役が居たので「キセル」をすることが出来なかったらしいです。
まあ鼻薬嗅がせれば別でしょうが。
加賀藩財政について、1石=1両とすると100万石×8万円=800億円で片道が4億円だと0.5%の旅費交通費か。さほどの負担でもないような、
世界史上、最も偉大な公共事業
やっぱり豊かな知識に裏付けされた解説は無駄が無く分かりやすいですね。
DJ日本史も応援してますよ〜。(松村さんのフォローもお見事!)
日本人て江戸の昔っから日本人なんすね😌温故知新♪
守護や地頭である地方大名の力を結果的に弱める事が目的なのであまり変わらないかな。結論は。
これを年中やる訳ですからね。本来地方行政官レベルで良いしね、送ってくるのは。
それでも費用をかけたのは大名同士のメンツ確保。それを幕府だって分かっていたでしょうから、ダブスタと言えます。
なるほど、パフォーマーを雇っていたのですかぁ。
現代の文系サラリーマントップな考えやったんや
創始者の意思をくまない 使用人は何時の時代も同じ
こんにちは!ホーリーさん
参勤交代に関する動画は沢山出回っていますが、ホーリーさんの動画の秀逸な処は大名窮乏化説を結果であり目的で無いと否定して居る部分ですね。
確かに成る程と思うのです
が、一つ疑問が有ります。幕府は大名が自ら自主的に始めた参勤交代制度を何故に武家諸法度の中で成文化して義務化する必要が有ったのでしょう?自分が思うには参勤交代制度を義務化する事で参勤交代の主導権を幕府が握る目的が有ったのではないでしょうか、しれっと行列にお金を使いすぎるのは駄目だよ、何て書いて居ますが1635年の時点でこのまま参勤交代が続くと近い将来藩財政がひっ迫するだろう事は幕府側は予測していたと思います。大名窮乏化が目的では無いにしても参勤交代を義務化した時点で窮乏化は必然だったし幕府側は見て見ぬふりをしている。参勤交代の義務化は幕府側の狡猾さが良く判る。
参勤交代の当初の目的はやはり大名の窮乏化と徳川幕府への忠誠であったと思いますよ。その制度が、ある程度目的を果たして地方の大名が幕府に逆らえるほどの軍事力、経済力を持てなくなった後はやめられなくなる。参勤交代をやめると言えば謀反を疑われる。そして50年、100年、200年と続けば当初は考えていなかったメリット、デメリットが出てきても当然のこと。大名の子息に江戸の最先端教育を受けさせたって、いかにも東京大学の思いつきそうなこじつけ。
幕府に都合のいい洗脳教育の側面もありそう。
別に世の中が平和になり文化の発展に寄与したことを否定するわけではない。
まさに結果オーライ。
この動画を観た範囲では、大名窮乏化が目的でないとするには弱いと思いました。主な目的ではなくとも目的の一つではあったのではないかと。幕府のだしたもっと質素にしろとの令もこういうのは生かさずころさずが基本ですし。木曽三川の治水を薩摩藩にやらせた例もありますし、特に外様大名の力を削ぎたいという欲求はあったのでは。
@@Paseri8dan大名窮乏化は大名行列よりも普請(天下普請)の方が大きかったみたいです。
大きなところでも何十万両と掛かる上に、ケチ付けられてグダグダ引き延ばされる可能性もあったとか。
しかも全大名に平等に課すわけじゃなくて恣意的に行う事が出来たから。