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ありがとうございます!
いつもありがとうございます。大変励みになります
なんと水曜のこんな時間に新作が! 明日がつらいけど見てしまう。。
創作物では幕末の出世頭、たたき上げの星と称されることも多い川路聖謨だけど、16歳で筆算吟味合格、20歳前後で旗本昇進だからどれだけ才気に溢れた人だったんだろうと思う。
凄い仕事だ! ご苦労であった! 今の時代にこんな事に拘りを持って動画を作れることは称賛の価するぜ!
時代劇の登場人物で具体例を出して貰えると、参考になるのと同時に興味も増して良いなー、と♪
勉強になりました
Thanksありがとうございます。励みになります
おおっ新作だ!
旗本も上から下がありますね。高い役職に就けるのは高い石高で次第に序列で就ける役職が決まっていて、下っ端だと大した役職に就けませんこれは譜代や外様から旗本になった家も変わりがありませんね。
岩松家は禄高が120石しか無かったのに徳川家と同祖(新田一族)という理由で格式が高家並みの交代寄合だった。
大概順では上位ながら布衣役、下位ながら諸大夫みたいな歪な序列もあったみたいですね
旗本といえば、番方と役方の違いも面白いよね。火盗改めは番方で、町奉行は役方という……
基礎知識がしっかりしているので、子どもにもおすすめ出来るチャンネル😊空想夢想娯楽チャンネルの多くは、浅い知識を挟まずに娯楽に徹してくれれば良いのに。。。明らかな間違いを入れてくるから、子どもにおすすめ出来ないのが残念。
うぽつです。大概順のこと初めて知りました。勉強になります。
今までご苦労さまでした! ごゆっくりお休み下さい!
こういう序列って単に権威や格の問題だけじゃなく、指揮命令系統にも関わってくるからある程度は大事なんだよねぇ
例えば松本藩戸田家は序列からすると席次が破格の待遇。このように特別扱いの武家も存在する。御家人であっても。
勝海舟が、あそこまで出世できたのは、本人も日本も奇跡だったんですね
後は、五代綱吉の側用人として幕政に君臨した柳沢吉保も実家は160石の小旗本だった上に何と庶子だったしね。そこから最終的に父祖の地である甲斐の地の過半を治める大名にまで出世した例も。そういえば、何方も爵位は伯爵で、一説に吉保の正室は、その時には綱吉の子を既に孕んでいたと言う話もありますから、勝海舟と同じく主君の子を後継に据えた事になりますね。
勝の母親の親戚が大奥年寄の瀧山だったからと言うのもあるのでは?
@@mako9574おじいさんか゚検校貸しで得たお金で幕臣株買ってサムライに成ったはず
親父は検校の息子で、御家人株を三百両で手に入れ、海舟は千両積んで旗本株を手に入れたとか。検校は、盲目の按摩や鍼灸師を統括する最高位だけど、今で言う福祉?の観点から金貸し業を営む事が認められていて、金には不自由する事は無かったとか。幕末は富裕な町人や農民が武士の株を手に入れ、侍になる者が多かっんだって。彰義隊のNO2の天野八郎も、農民出身。
今回も勉強になりました
この役付け順位を覚えるだけで大変そう。統括するための組織だろうけど腐敗とか不満は貯まる。
とても勉強になりました。
よく調べましたね。データベース作って欲しい。見回るだけでも大変だ。
佐賀藩は20歳過ぎまで勉強させられて、成績で出世出来た。格差があり家柄も残るが家禄は低目に抑えられたので、勉学に励んだ。維新後には多くの実務官僚を送り出す。
「耳嚢」で知られる根岸肥前守鎮衛も、川路聖謨と同じような道を辿ってますね。
武官の役職の椅子は名門が牛耳るから、文官の役を求めるのが普通だった。なのでこの頃から塾があり、採用試験のお受験戦争が繰り広げられていたのであった。
これを見ると、幕末とはいえ御家人出身の勝海舟がいかに異例中の異例の大出世だったかわかる。
勝海舟は幕末混乱期から出世したが、勝海舟より前の寛政の改革の頃に蝦夷地探検で名を上げた近藤重蔵は、御謁見以下の御家人で与力の家に生まれたが、老中松平定信が人材登用に御家人の学問吟味試験に合格(この時の御家人試験でトップ合格は狂歌師で有名な太田蜀山人)して幕府が蝦夷地にロシア船が来航するので、幕府は蝦夷地調査に乗り出し、近藤重蔵は積極的に参加して、蝦夷地及び北方領土地域を探検して、その功績で御家人から旗本に成ったが、近藤重蔵の傲慢な性格で幕府から嫌われて閑職に回されてしまい、息子が屋敷の境界争いで隣家の住民と対立して殺傷騒ぎを起こしてお家は改易、騒動を起こした息子は八丈島に流罪で、近藤重蔵は近江の大溝藩に配流に成った。
しかも勝海舟は元は武士じゃありませんしね。ひい爺さんは越後の農民でしたし。坂本龍馬、榎本武揚、渋沢栄一、新選組の面々、それに樋口一葉(の父)と、幕末から明治は薩長土肥だけでなく旧体制側にも「成り上がり」がたくさんいたわけで。農民や商人から金その他の力で武士になれた。
家で決まるのはスタートだけで、あとは実力主義だから。まあ、その下駄がとてつもなく高いんで、それをクリアした勝は確かにすごいんですが。
@@73motoさまでも、近藤富蔵が「八丈実記」を残し、縁地社が刊行してくれたので、当時の離島の生活が分かりますね。井伏鱒二もこれを参考に「青ヶ島大概記」を書けたし。
@@竜涎香-g9o 近藤富蔵は八丈島に遠島に成って宇喜多秀家の末裔の女性と結婚して明治を成って赦免されたが家族が居るのて生涯島に残った。
鎌倉時代の武士にとって閑職に就かされる事は死よりも屈辱的な事とされたと習っていたけど、平和な江戸時代になってもその概念は変わらなかったんだろうな。むしろ人口も閑職も増えた分、屈辱に塗れた武士も増える一方だったのかも知れない。
@@yamakawa-chu-sho 旗本の大半は小普請でタダ飯ぐらい
動画で話しがでてきた 川路は単に優秀なだけではなく、その努力も図抜けてました。要職についた頃の彼は 午前2時には起床して書類作成、空が白むと刀と槍の素振りを2000回ずつ、その後 登城。夕方5時過ぎに帰宅後、来客対応し、その後夜中まで再び書類作成のルーチンだったようです。睡眠時間は あのナポレオンと同じぐらいだったようです。
室町幕府も将軍家が自ら壊さない限り家格秩序は壊れなかった(信長ですら管領辞退)、誰も必ず足利の血統を担いでた点でも武士の意識そのものを支配した家格社会。職業単位で家も縛り付ける(管領は細川畠山斯波、四職は赤松京極山名一色以外NO、探題は東北は大崎、九州は渋川以外ダメ)し、朝廷も九条とか今出川とかの苗字の時点で最終官位上限が決まる江戸時代も延長線だったし、黒船来航以降の幕末は家格しのごの言ってられない状況だったんだなって→御書院番で交代寄合の蒔田広孝が大名+京都見回り組就任等
微禄で食べるのがやっとだけど暇だけはある旗本なんて人も多かったのかな。
ちなみに長谷川平蔵の屋敷って後で遠山金四郎も同じ所に住んでるんだよな。銀平飯科帳知識だけど
同じ「士」であっても、これだけの苦労がありましたね。
一番出世したのは柳沢吉保かなぁ陪臣旗本530石から15万石はなかなかいないだろう
吉保って陪臣(館林藩士)だけど、元は武田旧臣系の幕府旗本でしたっけ?
田沼意次ってどうなのよ。親父は確か紀州藩の、一介の足軽の家柄だったんじゃなかったっけ。そこから老中職。ヒエー…。😮
@@ツカちゃん-e6w紀州要人・幕府若年寄・御側御用人・郡上事件主任監査者と歴任しまくってるからな
知識が広がります
資料によると旗本とか御家人とかって公文書には書かれず「万石以上万石以下」「お目見え以上お目見え以下」っていうデリケートな扱いだった・・・という説を何かの本で読んだな
遠国奉行の特集をお願いします。
江戸時代、各地の大名はどれくらい名前が知られていたのか気になる上杉鷹山は「遠く及ばない才覚」と称賛する兄の名は、僻遠の地にいるから知られていないだけと言っていたらしいし
足高の制が制定されるまで役高>禄高の場合禄高が役高まで上がってしまう。
動画を視聴するのが遅れました。申し訳ございません。今回は幕臣でも旗本と御家人の違い、その中の細々とした身分と収入面と家格に大きな格差があったのですね。一応御家人身分で家格はそれなりの御家人斬九郎が無役で赤貧という表現が相応しいのに、江戸町奉行配下で御目見得役でも無い騎馬与力の更に下の身分の同心に過ぎない中村主水が、市井の人々からの付け届けや舞いないで、それなりの生活を過ごせていた事など。詳しい一覧表ですが老眼には厳しい細かさです。動画内で取り上げる身分ごとに拡大図があれば助かります。それでは次回の動画を楽しみにしています。季節的に江戸市中における初夏真夏の風物詩や過ごし方など如何でしょうか?
大変だったんね。。そこへ来て諸国漫遊してるぼんぼんが突然訪ねて来て表面上だけで裁いていくの、だったら根本の生活なんとかしてくれよってなるなw 大人になると見方違ってくるなw
今まで、誤解していましたね。民間編集だったこともびっくりですね。
江戸時代の武器の位置づけや扱いなどの解説をリクエストしたい。たとえば薙刀なんかは大奥モノのドラマなんかで女性が使ってることが多いけど、大名行列で薙刀を掲げるには幕府の許可が必要でごく限られた名家にだけゆるされてたっぽいけど、その理由やら具体的にどう扱われていたとかチョット調べてもサッパリわからない。
大概順って、ざっくりとした序列だとばかり‥
江戸時代に武家以外の家に生まれ武士として出世した人が知りたいと思っています。全員だと調べる事が大変だと思いますので代表的な人を幾つか挙げて頂けると嬉しいです。特に幕末などの吐出した才能が求められなかった時代で出生した人はかなりの傑物のように想像しています。
三河以来に加えて、駿河遠江、甲斐。北条氏の旧臣もいるし。なんと言っても5代綱吉や6代家宣にくっついてきた家来が旗本の数をどんと増やしてる。仕事の数より侍の数が多すぎる、幕府でも諸大名でも…
組織の動脈硬化とはよく言ったものですね…
日付は江戸城内で帯刀が許されていました
目付ですよね⁉️
幕府が開かれて200年も過ぎれば米で給料を貰うのは、物価高に対応できず😅主水の様な回り同心は(御家人)、見回り先のお店から心付けを貰う代わりに、多少の問題に目をつぶってもらった。だよね、越後屋さん😂
旗本で1番家禄が低かったのは平野家(15石)で、諸藩では下級武士に相当するこんな低禄でも幕府直参の殿様。萩藩には平安時代からの武家で家禄200石の又家来がいても、「家の格」で言えば旗本の平野家以下。不思議な世界だよね。
平野家の15石は自分の家所有の田畑だったそうですね。
歴史解説見るまでは殿様ってもっといい暮らししてるものだと思ってた
大岡越前も旗本の家だったが徳川吉宗に抜擢されて最終的に一万石の大名に出世した。田沼意次は父親が徳川吉宗が紀州藩主時代から仕えて居て吉宗が将軍に成ったので江戸に行き旗本になり最終的に大名に成り老中に成った。
田沼の親父は紀州藩の足軽
誰かbgmの詳細や曲名を教えてください
低い旗本を〈小旗本(こっぱたもと)〉と言ってバカにしていたのは時代劇に出てくるねw
御家人の序列と出世も知りたいですな。
単純にこの表が欲しいと思った元がある?手作り?
武士の世:武士にとって気苦労の多い時代
質問です。町奉行所の同心は袴の着用も許されない下級役人ですが、江戸期においては相対的に地位を向上(下賤とかじゃなく実質面で重視された?)させたという理解で良いのでしょうか?町奉行は現代の東京都知事 兼 高等裁判所判事 兼 消防局局長みたいなものだと思いますが、奉行・与力・同心の格差がめちゃくちゃ大きいものの、見廻り同心の実入りは下級役人としては良い。身分による付き合い出費も少ない。町奉行所の役人の詳細等の動画も期待します。また、身分出費と役料との収支比較で、名誉だけど出費が増えて赤字になる役、名誉とは関係が無いが実利が大きい役、等、総覧的に見られたら面白いと思います。大坂常番の人数が、配下含めてめちゃくちゃ少ない。これは初期に比べてどんどん減らされた結果でしょうか?町奉行所を強化して、経済に明るい人を起用して法整備すれば税収も増えただろうな思います。先物取引を禁止抑制したり罪人扱いするなど、幕府失政の見本みたいな事をやらかしましたからね。
ニートもこの時代だったら「家禄ガチャのせいでお役に付けねー」って言っていられたのにね
9500石の横田さん「舐めとるなお前」
徳川綱吉甲府宰相の小姓から、徳川綱吉が五代目将軍に成ったことで、幕閣に入り込み、最後は、大老格までに出世した柳沢吉保は、他に類を見ないであろう😮🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉
旗本奴の水野十郎左衛門は家禄だけで食っていけるから仕事するの嫌だったパターン?
十郎左衛門て、あの徳川1の凶暴な水野勝成(後福山十万石)の一族の末裔なんだって。さもありなん。一族は、すぐ激してトラブルを起こす人間が多かったとか。血って怖いね。戦国時代なら良かったんだろうけど。
令外官というのが大量にあったにしても公家政権はこういう名称の機関を設置しその機関の権限はこうで役職はこういう名称で定員はそれぞれ何人と成文法で定めてたけど武家政権は何でそういう法典を制定しなかったんでしょうか?
大概順を参照してるとは中々勉強してますね長谷川平蔵宣以と遠山金四郎景元は全く格が違います同じ川向こうの本所という場末に屋敷がありましたが遠山家は町奉行就任後に江戸市中に移転しますが長谷川家は場末の本所のままでしたから小普請とは言え松平残九郎は譜代席の御家人、中村主水は幕府役人の最下層の町奉行同心町奉行同心は武士身分ですが侍扱いされないので残九郎と主水が同席する事はあり得ません勝海舟に言及されている方がいましたが彼が就いた役職は全て幕末に新設された物でしかも『並』や『格』という注釈付きの臨時職です御家人からの人間としては村垣淡路守や川路聖謨などが勘定奉行にまでなり勝海舟とは別格の役職に就いています、勝海舟の場合幕臣のくせに明治になってからあちこちでホラを吹きまくったので大物だったと勘違いしている方が多いですね咸臨丸での渡米でも艦長役として全く役に立たず帰国した後も彼は将軍家から褒美どころかお目通りもなかったのが史実です明治になってから幕臣の集まりで偉そうにしていたら栗本鋤雲から叱責されたというのは有名な話です
殿達もお願いします!!
きたきたきたきたきた~
川路聖謨といえば仙石騒動
来た来た
『旗本退屈男』は無役ながら1200石とりで、かつ剣術の達人。こういう人は文官時代の江戸では活躍できないのも、ある意味リアルw せめて幕末だったらなぁw
徳田新之助は貧乏でも旗本だから、将軍にお目見えできるってことか(仮の話)
世子ではなくて三男坊ですからお目見えできなかったのでは?
土佐から田舎の漁師見習いから幕臣になった中浜万次郎。
戦場を駆けていた武士が年月とともに形を重視して貴族化してゆく。幕末には馬にも乗れない旗本もいたとかw
それだけ長く平和が続いたって事でしょうね。
殿様、殿様とおだてられ😛社長、社長とおだてられ🤪 ほいほいのるのは考えもの🤨
全員集めて、悪に立ち向かう🇺🇸映画みたいのは止めて欲しいな🤨 主の解説に👂️を傾けよう🤔
幕臣も大変だねぇ・・
早乙女主水介は?
元禄期の旗本。右太衛門御大は「禄は低けれど直参旗本」と言っているが1200石。無役。屋敷は本所割下水。
おいしい役職は長崎奉行、勘定奉行、その他勘定方、目付あたりか。
動画を見ていて思わずタレントのほい けんたさんの本名を調べてしまいました【本名:塩田 謙一〈しおた けんいち〉】でした
この番組は分かりやすいように「江戸町奉行」と呼ぶけど、正しくは江戸のみ単に「町奉行」と呼ばれた!
封建社会なので親ガチャ、家ガチャはデカかったんですね下っ端な方が出世すると経費が掛かるから限界がある
私財をなげうつ事もあったでしょうし、下手に身分の低いお金が無い人を簡単には大役に付けれなかったでしょうね。幕府も予算は限られてますし。
先祖以来の家禄が基本で、昇給も無いんだから、どうやって暮らしてたのか?下手にバイトも出来なかったらしいしね。時代が進むにつれ、経済のパイはデカくなるのに、基本昇給無し。御役に付かないと、役職手当も無いし。娘の身売りも、恥ずべき事ではなく、寧ろ孝行だったなどという話も聞いた事有ります。地方の家中では、半知借上げなどは当たり前で、侍の実状は悲惨だったとか。😢
@@ツカちゃん-e6w 御家人は内職が認められてましたが旗本は堂々と内職することが出来ず、絵や書道に通じている人は趣味で書いていたら町人が「譲ってほしい」と言って来たから譲ると、お礼にお金を置いて行った。と言う体で副業したり歌や踊りが得意な人物は、武士同士の宴席などでかくし芸をするという体で芸人を呼ぶには費用を抑えたいときなどに代打と言う形で披露して謝礼を貰うなどしていたようです。
@@あぼぼです 有難う御座います。しかし、そんな程度では、暮しの足しになったとは思えず?です。確か、仰る通り武士ながらプロの幇間になった人がいると聞いた事有ります。又幕末〜明治以降で、大名に次ぐ様な大身の子女が、遊女と迄はいかずとも、芸妓になったとか、一介の鉄道員で終えたとか、工員になったとか遠縁の老人に聞いた事有ります。世間に流布されるウソ八百は、戦後特に酷い様で目に余るレベルとか。昨今の官僚公務員と武士を同列に見る馬鹿が居ますが、嘆かわしく存じます。
勝家は少禄でも元から(小吉さん以前から)旗本だったよ。なんでみんな勝家は御家人だったと誤解しているんだろう?まあ少禄でさらに小普請のド貧乏だったからだね
勝海舟の曽祖父は非人の座頭です幕末は金成侍でも町人・百姓出身なら認められた時代でしたが非人出身は差別されバカにされました勝海舟は『並』や『格』がつくような新しい職にしか就けず要職には就任出来ませんでしたね彼は大ホラ吹きで有名でしたから話4分の1位がちょうど良いかも明治時代の徳川将軍家家臣の集まりでも旗本と同席が許されませんでした
江戸幕府の行政を現在の政治家、省庁官僚に勉強させて下さい。幕末の行政の行き詰まりが現在とマッチしていると思いませんか?👍
11代将軍、徳川家斉は多くの側室を持ち17人の側室に54人の子を産ませている。歴代将軍の中でも贅沢な生活を送るようになった。大奥は3000人近くの女性を抱え巨大化、浪費に浪費を繰り返したため、幕府の財政は一気に傾き、幕政の腐敗・綱紀の乱れなどが横行する。飢饉などもあり、多くの餓死者も出した。地方では幕政に対する不満が各地で上がり、大坂では大塩平八郎の乱、越後では生田万の乱をはじめとする世直し型の様相を帯びる反乱が相次いだ。もっと前から行き詰ってる。
マッチしているとは全く思いません。律令制の役人は、隣国の両班に相似ですよ。政治屋も(特別公務員:)役人も、世間と逆行して、事ある如に、お手盛りのベアアップ。定年退職しても、俗に言う「ワタリ」で天下りを繰り返し、その都度高額の退職金をせしめるという、自分さえ良ければ無問題ですよ。そこには民草&国家への忠誠すら無い。当に「用日用民」です。だから国が行き詰まってしまうんですよ。国と民が豊かに発展成長し世界に貢献等とは微塵も考えてない。明治以来、王政復古で政官業の貴族階級のみが栄える、民草は肥し。そのアンチテーゼとして、悪党が起こり武士の世となって行ったのよ。
ありがとうございます!
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凄い仕事だ! ご苦労であった! 今の時代にこんな事に拘りを持って動画を作れることは称賛の価するぜ!
時代劇の登場人物で具体例を出して貰えると、参考になるのと同時に興味も増して良いなー、と♪
勉強になりました
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これは譜代や外様から旗本になった家も変わりがありませんね。
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大概順では上位ながら布衣役、下位ながら諸大夫みたいな歪な序列もあったみたいですね
旗本といえば、番方と役方の違いも面白いよね。火盗改めは番方で、町奉行は役方という……
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こういう序列って単に権威や格の問題だけじゃなく、指揮命令系統にも関わってくるからある程度は大事なんだよねぇ
例えば松本藩戸田家は序列からすると席次が破格の待遇。
このように特別扱いの武家も存在する。
御家人であっても。
勝海舟が、あそこまで出世できたのは、本人も日本も奇跡だったんですね
後は、五代綱吉の側用人として幕政に君臨した柳沢吉保も実家は160石の小旗本だった上に何と庶子だったしね。
そこから最終的に父祖の地である甲斐の地の過半を治める大名にまで出世した例も。
そういえば、何方も爵位は伯爵で、一説に吉保の正室は、その時には綱吉の子を既に孕んでいたと言う話もありますから、勝海舟と同じく主君の子を後継に据えた事になりますね。
勝の母親の親戚が大奥年寄の瀧山だったからと言うのもあるのでは?
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親父は検校の息子で、御家人株を三百両で手に入れ、海舟は千両積んで旗本株を手に入れたとか。検校は、盲目の按摩や鍼灸師を統括する最高位だけど、今で言う福祉?の観点から金貸し業を営む事が認められていて、金には不自由する事は無かったとか。幕末は富裕な町人や農民が武士の株を手に入れ、侍になる者が多かっんだって。彰義隊のNO2の天野八郎も、農民出身。
今回も勉強になりました
この役付け順位を覚えるだけで大変そう。統括するための組織だろうけど腐敗とか不満は貯まる。
とても勉強になりました。
よく調べましたね。データベース作って欲しい。見回るだけでも大変だ。
佐賀藩は20歳過ぎまで勉強させられて、成績で出世出来た。
格差があり家柄も残るが家禄は低目に抑えられたので、勉学に励んだ。
維新後には多くの実務官僚を送り出す。
「耳嚢」で知られる根岸肥前守鎮衛も、川路聖謨と同じような道を辿ってますね。
武官の役職の椅子は名門が牛耳るから、文官の役を求めるのが普通だった。
なのでこの頃から塾があり、採用試験のお受験戦争が繰り広げられていたのであった。
これを見ると、幕末とはいえ御家人出身の勝海舟がいかに異例中の異例の大出世だったかわかる。
勝海舟は幕末混乱期から出世したが、勝海舟より前の寛政の改革の頃に蝦夷地探検で名を上げた近藤重蔵は、御謁見以下の御家人で与力の家に生まれたが、老中松平定信が人材登用に御家人の学問吟味試験に合格(この時の御家人試験でトップ合格は狂歌師で有名な太田蜀山人)して幕府が蝦夷地にロシア船が来航するので、幕府は蝦夷地調査に乗り出し、近藤重蔵は積極的に参加して、蝦夷地及び北方領土地域を探検して、その功績で御家人から旗本に成ったが、近藤重蔵の傲慢な性格で幕府から嫌われて閑職に回されてしまい、息子が屋敷の境界争いで隣家の住民と対立して殺傷騒ぎを起こしてお家は改易、騒動を起こした息子は八丈島に流罪で、近藤重蔵は近江の大溝藩に配流に成った。
しかも勝海舟は元は武士じゃありませんしね。ひい爺さんは越後の農民でしたし。
坂本龍馬、榎本武揚、渋沢栄一、新選組の面々、それに樋口一葉(の父)と、幕末から明治は薩長土肥だけでなく旧体制側にも「成り上がり」がたくさんいたわけで。農民や商人から金その他の力で武士になれた。
家で決まるのはスタートだけで、あとは実力主義だから。まあ、その下駄がとてつもなく高いんで、それをクリアした勝は確かにすごいんですが。
@@73motoさま
でも、近藤富蔵が「八丈実記」を残し、縁地社が刊行してくれたので、当時の離島の生活が分かりますね。
井伏鱒二もこれを参考に「青ヶ島大概記」を書けたし。
@@竜涎香-g9o 近藤富蔵は八丈島に遠島に成って宇喜多秀家の末裔の女性と結婚して明治を成って赦免されたが家族が居るのて生涯島に残った。
鎌倉時代の武士にとって閑職に就かされる事は死よりも屈辱的な事とされたと習っていたけど、平和な江戸時代になってもその概念は変わらなかったんだろうな。
むしろ人口も閑職も増えた分、屈辱に塗れた武士も増える一方だったのかも知れない。
@@yamakawa-chu-sho 旗本の大半は小普請でタダ飯ぐらい
動画で話しがでてきた 川路は単に優秀なだけではなく、その努力も図抜けてました。
要職についた頃の彼は 午前2時には起床して書類作成、空が白むと刀と槍の素振りを2000回ずつ、その後 登城。
夕方5時過ぎに帰宅後、来客対応し、その後夜中まで再び書類作成のルーチンだったようです。
睡眠時間は あのナポレオンと同じぐらいだったようです。
室町幕府も将軍家が自ら壊さない限り家格秩序は壊れなかった(信長ですら管領辞退)、誰も必ず足利の血統を担いでた点でも武士の意識そのものを支配した家格社会。職業単位で家も縛り付ける(管領は細川畠山斯波、四職は赤松京極山名一色以外NO、探題は東北は大崎、九州は渋川以外ダメ)し、朝廷も九条とか今出川とかの苗字の時点で最終官位上限が決まる
江戸時代も延長線だったし、黒船来航以降の幕末は家格しのごの言ってられない状況だったんだなって→御書院番で交代寄合の蒔田広孝が大名+京都見回り組就任等
微禄で食べるのがやっとだけど暇だけはある旗本なんて人も多かったのかな。
ちなみに長谷川平蔵の屋敷って後で遠山金四郎も同じ所に住んでるんだよな。
銀平飯科帳知識だけど
同じ「士」であっても、これだけの苦労がありましたね。
一番出世したのは柳沢吉保かなぁ
陪臣旗本530石から15万石はなかなかいないだろう
吉保って陪臣(館林藩士)だけど、元は武田旧臣系の幕府旗本でしたっけ?
田沼意次ってどうなのよ。親父は確か紀州藩の、一介の足軽の家柄だったんじゃなかったっけ。そこから老中職。ヒエー…。😮
@@ツカちゃん-e6w紀州要人・幕府若年寄・御側御用人・郡上事件主任監査者と歴任しまくってるからな
知識が広がります
資料によると旗本とか御家人とかって公文書には書かれず「万石以上万石以下」「お目見え以上お目見え以下」っていうデリケートな扱いだった・・・という説を何かの本で読んだな
遠国奉行の特集をお願いします。
江戸時代、各地の大名はどれくらい名前が知られていたのか気になる
上杉鷹山は「遠く及ばない才覚」と称賛する兄の名は、僻遠の地にいるから知られていないだけと言っていたらしいし
足高の制が制定されるまで役高>禄高の場合禄高が役高まで上がってしまう。
動画を視聴するのが遅れました。申し訳ございません。
今回は幕臣でも旗本と御家人の違い、その中の細々とした身分と収入面と家格に大きな格差があったのですね。一応御家人身分で家格はそれなりの御家人斬九郎が無役で赤貧という表現が相応しいのに、江戸町奉行配下で御目見得役でも無い騎馬与力の更に下の身分の同心に過ぎない中村主水が、市井の人々からの付け届けや舞いないで、それなりの生活を過ごせていた事など。
詳しい一覧表ですが老眼には厳しい細かさです。動画内で取り上げる身分ごとに拡大図があれば助かります。
それでは次回の動画を楽しみにしています。季節的に江戸市中における初夏真夏の風物詩や過ごし方など如何でしょうか?
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今まで、誤解していましたね。
民間編集だったこともびっくりですね。
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たとえば薙刀なんかは大奥モノのドラマなんかで女性が使ってることが多いけど、大名行列で薙刀を掲げるには幕府の許可が必要でごく限られた名家にだけゆるされてたっぽいけど、その理由やら具体的にどう扱われていたとかチョット調べてもサッパリわからない。
大概順って、ざっくりとした序列だとばかり‥
江戸時代に武家以外の家に生まれ武士として出世した人が知りたいと思っています。全員だと調べる事が大変だと思いますので代表的な人を幾つか挙げて頂けると嬉しいです。特に幕末などの吐出した才能が求められなかった時代で出生した人はかなりの傑物のように想像しています。
三河以来に加えて、駿河遠江、甲斐。北条氏の旧臣もいるし。なんと言っても5代綱吉や6代家宣にくっついてきた家来が旗本の数をどんと増やしてる。
仕事の数より侍の数が多すぎる、幕府でも諸大名でも…
組織の動脈硬化とはよく言ったものですね…
日付は江戸城内で帯刀が許されていました
目付ですよね⁉️
幕府が開かれて200年も過ぎれば米で給料を貰うのは、物価高に対応できず😅主水の様な回り同心は(御家人)、見回り先のお店から心付けを貰う代わりに、多少の問題に目をつぶってもらった。だよね、越後屋さん😂
旗本で1番家禄が低かったのは平野家(15石)で、諸藩では下級武士に相当するこんな低禄でも幕府直参の殿様。
萩藩には平安時代からの武家で家禄200石の又家来がいても、「家の格」で言えば旗本の平野家以下。不思議な世界だよね。
平野家の15石は自分の家所有の田畑だったそうですね。
歴史解説見るまでは殿様ってもっといい暮らししてるものだと思ってた
大岡越前も旗本の家だったが徳川吉宗に抜擢されて最終的に一万石の大名に出世した。田沼意次は父親が徳川吉宗が紀州藩主時代から仕えて居て吉宗が将軍に成ったので江戸に行き旗本になり最終的に大名に成り老中に成った。
田沼の親父は紀州藩の足軽
誰かbgmの詳細や曲名を教えてください
低い旗本を〈小旗本(こっぱたもと)〉と言ってバカにしていたのは時代劇に出てくるねw
御家人の序列と出世も知りたいですな。
単純にこの表が欲しいと思った
元がある?手作り?
武士の世:武士にとって気苦労の多い時代
質問です。
町奉行所の同心は袴の着用も許されない下級役人ですが、江戸期においては相対的に地位を向上(下賤とかじゃなく実質面で重視された?)させたという理解で良いのでしょうか?
町奉行は現代の東京都知事 兼 高等裁判所判事 兼 消防局局長みたいなものだと思いますが、奉行・与力・同心の格差がめちゃくちゃ大きいものの、見廻り同心の実入りは下級役人としては良い。
身分による付き合い出費も少ない。
町奉行所の役人の詳細等の動画も期待します。
また、身分出費と役料との収支比較で、名誉だけど出費が増えて赤字になる役、名誉とは関係が無いが実利が大きい役、等、総覧的に見られたら面白いと思います。
大坂常番の人数が、配下含めてめちゃくちゃ少ない。
これは初期に比べてどんどん減らされた結果でしょうか?
町奉行所を強化して、経済に明るい人を起用して法整備すれば税収も増えただろうな思います。
先物取引を禁止抑制したり罪人扱いするなど、幕府失政の見本みたいな事をやらかしましたからね。
ニートもこの時代だったら「家禄ガチャのせいでお役に付けねー」って言っていられたのにね
9500石の横田さん「舐めとるなお前」
徳川綱吉甲府宰相の小姓から、徳川綱吉が五代目将軍に成ったことで、幕閣に入り込み、最後は、大老格までに出世した柳沢吉保は、他に類を見ないであろう😮🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉
旗本奴の水野十郎左衛門は家禄だけで食っていけるから仕事するの嫌だったパターン?
十郎左衛門て、あの徳川1の凶暴な水野勝成(後福山十万石)の一族の末裔なんだって。さもありなん。一族は、すぐ激してトラブルを起こす人間が多かったとか。血って怖いね。戦国時代なら良かったんだろうけど。
令外官というのが大量にあったにしても公家政権はこういう名称の機関を設置しその機関の権限はこうで役職はこういう名称で定員はそれぞれ何人と成文法で定めてたけど武家政権は何でそういう法典を制定しなかったんでしょうか?
大概順を参照してるとは中々勉強してますね
長谷川平蔵宣以と遠山金四郎景元は全く格が違います
同じ川向こうの本所という場末に屋敷がありましたが遠山家は町奉行就任後に江戸市中に移転しますが長谷川家は場末の本所のままでしたから
小普請とは言え松平残九郎は譜代席の御家人、中村主水は幕府役人の最下層の町奉行同心
町奉行同心は武士身分ですが侍扱いされないので残九郎と主水が同席する事はあり得ません
勝海舟に言及されている方がいましたが彼が就いた役職は全て幕末に新設された物でしかも『並』や『格』という注釈付きの臨時職です
御家人からの人間としては村垣淡路守や川路聖謨などが勘定奉行にまでなり勝海舟とは別格の役職に就いています、勝海舟の場合幕臣のくせに明治になってからあちこちでホラを吹きまくったので大物だったと勘違いしている方が多いですね
咸臨丸での渡米でも艦長役として全く役に立たず帰国した後も彼は将軍家から褒美どころかお目通りもなかったのが史実です
明治になってから幕臣の集まりで偉そうにしていたら栗本鋤雲から叱責されたというのは有名な話です
殿達もお願いします!!
きたきたきたきたきた~
川路聖謨といえば仙石騒動
来た来た
『旗本退屈男』は無役ながら1200石とりで、かつ剣術の達人。こういう人は文官時代の江戸では活躍できないのも、ある意味リアルw せめて幕末だったらなぁw
徳田新之助は貧乏でも旗本だから、将軍にお目見えできるってことか(仮の話)
世子ではなくて三男坊ですからお目見えできなかったのでは?
土佐から田舎の漁師見習いから幕臣になった中浜万次郎。
戦場を駆けていた武士が年月とともに形を重視して貴族化してゆく。幕末には馬にも乗れない旗本もいたとかw
それだけ長く平和が続いたって事でしょうね。
殿様、殿様とおだてられ😛
社長、社長とおだてられ🤪
ほいほいのるのは考えもの🤨
全員集めて、悪に立ち向かう🇺🇸映画
みたいのは止めて欲しいな🤨
主の解説に👂️を傾けよう🤔
幕臣も大変だねぇ・・
早乙女主水介は?
元禄期の旗本。
右太衛門御大は「禄は低けれど直参旗本」と言っているが1200石。
無役。屋敷は本所割下水。
おいしい役職は長崎奉行、勘定奉行、その他勘定方、目付あたりか。
動画を見ていて思わずタレントのほい けんたさんの本名を調べてしまいました【本名:塩田 謙一〈しおた けんいち〉】でした
この番組は分かりやすいように「江戸町奉行」と呼ぶけど、正しくは江戸のみ単に「町奉行」と呼ばれた!
封建社会なので親ガチャ、家ガチャはデカかったんですね
下っ端な方が出世すると経費が掛かるから限界がある
私財をなげうつ事もあったでしょうし、下手に身分の低いお金が無い人を簡単には大役に付けれなかったでしょうね。幕府も予算は限られてますし。
先祖以来の家禄が基本で、昇給も無いんだから、どうやって暮らしてたのか?下手にバイトも出来なかったらしいしね。時代が進むにつれ、経済のパイはデカくなるのに、基本昇給無し。御役に付かないと、役職手当も無いし。娘の身売りも、恥ずべき事ではなく、寧ろ孝行だったなどという話も聞いた事有ります。地方の家中では、半知借上げなどは当たり前で、侍の実状は悲惨だったとか。😢
@@ツカちゃん-e6w
御家人は内職が認められてましたが旗本は堂々と内職することが出来ず、絵や書道に通じている人は
趣味で書いていたら町人が「譲ってほしい」と言って来たから譲ると、お礼にお金を置いて行った。と言う体で副業したり
歌や踊りが得意な人物は、武士同士の宴席などでかくし芸をするという体で
芸人を呼ぶには費用を抑えたいときなどに代打と言う形で披露して謝礼を貰うなどしていたようです。
@@あぼぼです 有難う御座います。しかし、そんな程度では、暮しの足しになったとは思えず?です。確か、仰る通り武士ながらプロの幇間になった人がいると聞いた事有ります。又幕末〜明治以降で、大名に次ぐ様な大身の子女が、遊女と迄はいかずとも、芸妓になったとか、一介の鉄道員で終えたとか、工員になったとか遠縁の老人に聞いた事有ります。世間に流布されるウソ八百は、戦後特に酷い様で目に余るレベルとか。昨今の官僚公務員と武士を同列に見る馬鹿が居ますが、嘆かわしく存じます。
勝家は少禄でも元から(小吉さん以前から)旗本だったよ。なんでみんな勝家は御家人だったと誤解しているんだろう?まあ少禄でさらに小普請のド貧乏だったからだね
勝海舟の曽祖父は非人の座頭です
幕末は金成侍でも町人・百姓出身なら認められた時代でしたが非人出身は差別されバカにされました
勝海舟は『並』や『格』がつくような新しい職にしか就けず要職には就任出来ませんでしたね
彼は大ホラ吹きで有名でしたから話4分の1位がちょうど良いかも
明治時代の徳川将軍家家臣の集まりでも旗本と同席が許されませんでした
江戸幕府の行政を現在の政治家、省庁官僚に勉強させて下さい。幕末の行政の行き詰まりが現在とマッチしていると思いませんか?👍
11代将軍、徳川家斉は多くの側室を持ち17人の側室に54人の子を産ませている。
歴代将軍の中でも贅沢な生活を送るようになった。
大奥は3000人近くの女性を抱え巨大化、浪費に浪費を繰り返したため、幕府の財政は一気に傾き、幕政の腐敗・綱紀の乱れなどが横行する。
飢饉などもあり、多くの餓死者も出した。
地方では幕政に対する不満が各地で上がり、大坂では大塩平八郎の乱、越後では生田万の乱をはじめとする世直し型の様相を帯びる反乱が相次いだ。
もっと前から行き詰ってる。
マッチしているとは全く思いません。律令制の役人は、隣国の両班に相似ですよ。政治屋も(特別公務員:)役人も、世間と逆行して、事ある如に、お手盛りのベアアップ。定年退職しても、俗に言う「ワタリ」で天下りを繰り返し、その都度高額の退職金をせしめるという、自分さえ良ければ無問題ですよ。そこには民草&国家への忠誠すら無い。当に「用日用民」です。だから国が行き詰まってしまうんですよ。国と民が豊かに発展成長し世界に貢献等とは微塵も考えてない。明治以来、王政復古で政官業の貴族階級のみが栄える、民草は肥し。そのアンチテーゼとして、悪党が起こり武士の世となって行ったのよ。
来た来た