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【台本協力】富谷昭夫先生x.com/TomiyaAkio【参考文献】◯〈現在〉という謎: 時間の空間化批判www.valuebooks.jp/bp/VS0055396059◯量子力学10講amzn.to/4az65vs◯谷村先生のサイト「一物理学者が観た哲学」やそれへの返答に対しての反応がまとまっている。www.phys.cs.i.nagoya-u.ac.jp/~tanimura/philosophy/works.html【サポーターコミュニティはこちら!】yurugakuto.com/tetsu【公式Twitter】 ゆる哲学ラジオのTwitterアカウントがあるので、是非フォローしてください!⇨ twitter.com/yuru_philosophy【おたよりフォーム】 皆様からの楽しいおたよりをお待ちしています!⇨ forms.gle/n72HW8ZAaAZu5TM96
祖母がカーキ色のリュックを上げると言うので貰ったら鮮やかなオレンジ色でした。不思議に思っていたらおそらく祖母は柿色のリュックのつもりだったようです。シニフィエもシニフィアンも間違っていた訳ですね。
おもしろすぎ
谷村ノートと森田ノートをザーッと読んだ感じ、「現象」もそうだが、「世界」も哲学と物理学で全然意味が違うというのもすれ違いの原因だなぁ、と思った。哲学用語としての「世界」、範囲広すぎ。谷村さんの使ってる「世界」はあくまで科学的手法によって観測できるものであり、物理的な出来事によってのみ変化する世界のことを指してるようだけど、森田さんのような哲学者が使う「世界」は概念的な操作や、我々が一度思考するだけでも“変化している”と見做せるような世界を想定しているから、例えば「世界に影響を与える」というような言い回しに関してものすごい齟齬が発生するんだ、と思った。
どこで学んだか覚えてないけどなぜか僕のカーキ色の理解がミリタリー寄りで、妻と大喧嘩になったことがあります
この動画を見て最初に連想したのが正に夫婦喧嘩だったw アタリマエじゃない物をアタリマエだと思い込んでる人はすぐ感情が爆発するんで。
カーキ迷彩(オリーブ迷彩にカーキ色を足したもの)を緑色の迷彩だと思い込んだアパレル側のミスですよね。
現象の認知は情報(量)に強く影響を受けるが情報化が強く、文化の発展の端では当たり前なんて意味を持たないある意味で発見が絶えず起きていて不安定な感情を抱く物理学は構造的な裏打ちみたいなもので(現象に対する数値化など)それに類似したものに拠り所を求めがちになる
自分も当時谷村ノート問題から『〈現在〉という謎』を読みましたが、物理学者と哲学者の間で用語の使用方法にすれ違いが起きているのも然ることながら、哲学者サイドが数学や物理を全く勉強せずに数学・物理の領域に足を踏み入れてトンチンカンなことを言い続けていて頭を抱えた記憶があります特に森田氏の「円周率を読みあげる男」の話は理学博士号を取ったとは信じられないほど輪をかけてひどい
ゆる言語学のさらにゆるリスナーだから、シニフィアンって聞いたことあるなって思ったけど水野さんが、あーーーーん!って言ってた以上のことが出てこなくて困ってる。
物自体というのはまさに諸個人の認識のすれ違いから逆算して発想されているんだよね。それに哲学者は物理学を人間の主観的な認識に依存してるからといって腐してるわけではなく、「主観的現象」を取り扱う物理学を基本的に普遍的に妥当なものと考えている。多くの哲学者は谷村ノートを「全く仰る通り!」と読んだのではないかか。
物理学は前提として普遍な物理現象があると仮定して進めるとしなければ人類の科学文明が発展しないので言わば哲学を無視するしかない
物理学は三人称の記述。そこでの青色は一人称的感覚ではなく光の波長帯のニックネームにすぎない一方哲学(現象学)は三人称記述「物自体」を諦めて一人称記述「現象」に特化せんとした方法論のどちらが正しいかではなく、おそらくはどちらも有効なのだろうねしかし一方における正しさは他方において「正しさを問われるべき対象」にすらならない記述の在り方に伴う「正しさ」のねじれ構造について、我々は未だに無知の中にいるそしてその無知を解き明かすのはおそらく物理学でもなければ哲学でもない
こんなコメントがしたかった…
観測装置で光の波長を測れば、誰がやっても同じ数値になりますよ。そもそも、同じ色、同じものを見つめてるときに、これは〇〇なんだよと言って、色の概念などを覚えて育つのが人間です。その際に、実際の見え方が違ってたとしても同じ概念として共通認識が作られます。ですから、人によって見え方が違ってたとしても、概念に違いが生じることはありえませんし、この動画の二人の説明もただの素人の勘違いです。
@@虎崎衛門-w2p 客観的に見れば(=三人称記述では)それは全く正しいのです。青色が私にどんな風に感じられているのかは問題とはなりません(=問題にはできません)一人称的感覚は三人称記述の対象外であって語ることができないんです。無理に語ったところで無意味な命題ができるだけなので一方、私にとって青色感覚はリアルに存在するわけです直接経験ですから、私にとっては私の色覚聴覚味覚痛覚の存在以上に確実なものはないとも言えますこの確実性を貫けば一人称記述となりますそこで正しいと言えるものは色覚等私のクオリアの存在のみで、今度は客観的な物体の存在も他者の色覚も他者の存在も記述の対象外となってしまいます三人称記述での正しさがあり、一人称記述での正しさがある。しかしその正しさは両立しないんですよね一方が正しければ、もう一方は記述の対象外として退けなければならないという
@@ひぐまびっち 一人称と三人称の正しさは両立できますよ。将来的に眼球を機械に置き換えれば、見え方の違いはなくせます。不可能みたいに言ってますが、それは単に肉体的な違いによるものです。 人の脳が概念をどのように解釈して、どのように記憶するのかは、厳密には人それぞれ違うはずですが、色の概念に関して言えば100%機械で補正が可能です。 それともう一度言いますが、物理哲学で扱う現象には、あなたが言う一人称はまったくの無関係です。物理哲学は現実の現象を扱う学問では無いので、人の肉体的な違いによる観測の違いは無関係です。物理哲学があつかうのは、仮想の思考実験の現象です。そうやって作られた理論が現実世界の現象と一致してるかどうか、要するに理論の正しさはまた別の問題です。 もっと言えば、例えば相対性理論におけるアインシュタイン時空の時間や空間の概念がどのようなものか、人によって理解の仕方が違ってる可能性があるので、同じ理論について語る場合でも人によって違ってる可能性はあります。しかし、数値や式が人によって違うと言うことはあり得ません。理論を正確に100%違わず説明するためには数値や式を使えば良いだけです。この式に実在性を持たせようとするから、人によって時間や空間のイメージが違ってる可能性が生じます。では時間や空間という言葉は会話の中で使えないのかというとそれは問題とはなりません。なぜなら、時間や空間とは、ローレンツ変換の式のことであると、お互い理解してるので、その式が違って見えると言うことはありえないので問題とはなりません。 量子力学や相対性理論でよく会話が食い違いますよね。これも同じ理由です。式や数値をよく理解してない素人が、無理やり言葉で理解したつもりになってるために生じる、違いです。 現実の現象を観測する実験物理学の分野でも一人称はまったくの無関係です。観測装置で測った数値が何を意味するのかを扱う学問なので、数値が人によって違って見えると言うことはありえません。
@@虎崎衛門-w2p いやだからそう言ってるじゃないですか、三人称記述に一人称の入る余地はないってさらに科学もまた三人称記述ですから、科学的な考察に一人称は入る余地がありませんたとえば私の歯痛について三人称記述で説明することはできます。歯磨きを怠り虫歯になった、それで痛覚神経細胞の発火云々としかしその説明そのものはちっとも痛くありません。痛覚について分析したり説明することは三人称記述であって一人称記述ではないんです一人称記述とは人それぞれってことではなく、私のクオリアだけで構成された世界を指すものですから(蛇足)これまでは分かりやすく一人称としましたが、実は正確にはゼロ人称の記述なんですクオリアは主体-客体に分解分析できませんから、クオリア世界には行動主体たる私すらいないことになりますだから独我論ですらない、唯クオリア論とでもいうべき世界観ですそこで言えるのはこの(私の)クオリアの成立(存在)、そのリアルな確実性のみとなります
このすれ違いは実際に誰かと対話するときに感じている。「こういう現象が起こっている」と言うより「このように現象している」と言うほうが嘘がないような感じがする。
この世界を説明するときに、哲学者は演繹的に説明しようとしていて、物理学者は帰納的に説明しようとしているから噛み合わないのかなと感じた。「物自体には到達出来ない」というのも、我々が意思疎通出来てる時点で物自体と哲学用語としての現象には何らかの関係性があるのは明らかで、であれば現象から物自体を探る事も不可能では無いと物理学者なら考えると思う。
ごもっともです!実際現代哲学には「もしカントの言う通りならば、なぜ分かり得ない物自体は我々に干渉してこようとするのか?(関係を持つのか?)」という流れがあります。僕もここはまだ勉強中です。
@@yurutetsugaku 哲学をよく知らないので見当違いな返答になると思いますけれども…「関係を持つ」というのがキーのように感じます。関係を持つと相互に作用します、相互作用があるならそこに存在がある、あるいは存在が造られることになります。つまりそこに「意味」が創造される…のではないか。何が言いたいかというと、人間というものは意味を創造する存在である、ということ…
「古典力学は極端な高速や大質量になると破綻する」という事実は存在するが、「実生活の上では古典力学は非常に優れた近似」みたいなことと対比できそうな気がした実際のところクオリア反転(量子力学)みたいなことは起きているのかもしれないけど、今(主観的)現象として起きていることを分析する(=古典力学を探求する)ことは非常に役に立つし、面白いことだよね、みたいな
哲学は既存の言葉を通常とは全く違う意味で使うことがよくあるからそういう言葉は最初に定義しておかないと全く意味のない議論になる。哲学あるあるだし、やる前から分かってるはずだけどな
面白かったです。こういう方向性のテーマまた観たいです!
「避けられないすれ違い」って言葉、自己矛盾してそうで面白いw
物理学のような領域においては、今のところ現象を客観的なものとして扱っても問題なく成り立っているように見える。本当は主観-客観の一致は証明できず、実証科学が嘯く客観性でさえも、最も確からしい間主観的確信に過ぎない。過ぎないが、多くの物理現象が古典力学系の範囲で説明できるように、物理学が客観性を前提としても成り立っているように見えるうちは、現象を客観的に捉えても物理学においては問題ない、ということだと思う。
26:49 ゆる天文の伏線回収
哲学は、物理学を含め全ての学問が正しいと説明するために必要なのだよ
観測装置としては欠陥のある人間自体の性能の評価を思考で行おうとしているのが哲学人間を可能な限り排して数値と式で評価を行おうとしているのが物理学みたいなイメージを抱きました
現象 客観 比較 可変心象 主観 唯一 不変現象を心象で説明もできるし心象を現象で説明もできちゃう
谷村ノートを読んでみたらだいぶ正論でワロタ 何より一方的な哲学否定ではなく、良い部分や将来的な展望なども含めて、色々検討しているのが良いなあと。「諸学問は哲学から生まれたのだ、と言える資格を持つ人が日本にいるのか?(それを言えるのは西洋人だけでは?)」という記述が気になってたけど、あとがきの部分だから実際にはあんまり関係なかった。本文が大事。
クオリアって言葉は聞いたことあるけど哲学的「現象」はこれのことなのかな
お〜、谷村先生ご自身がXでこの動画についてコメントしている!
ありがたいことです。
自分も科学的な教育を受けてきたので、現象は客観的なものという立場でした。色の例で言うとおそらくそもそもの定義部分が違って、450nmの波長の光=青と読んでおり、個体差による受け取り方は考慮していない気がします。なのでそもそも個体による知覚の差があっても語弊が生まれないように定量的に定義するのが物理学。真実はいつも一つなのです。一方哲学では物理学でいう観測者の方の目線を優先して定義していると思うので、私が青と呼ぶもの自体が青であり、仮に別人の脳に入って世界を知覚した場合に680nmの光(通常赤と呼ばれる色)を見た時に青だと感じたらそれは青色として扱うのが哲学的立場なのだな。お二人の会話を聞いて素人ながらに感じました。真実は観測者の数だけ存在する。というイメージなのでしょうか?一般名詞で言う"正義"みたいな扱いなのでしょうか。
違います。450nmの波長を観測装置で測れば、誰が測っても450という数値に違いが生じることはあり得ません。そもそも、人が色の概念をどうやって覚えるのかをまず考えてください。これが赤色なんだと言って、教える側と教わる側の二人が同じ色を見ているはずです。この時、二人が違う見え方をしていたとしても、同じ赤色として共通認識の概念が作られます。そうやって、同じ環境、同じものを見て共通認識の概念を沢山身に着けて人は成長します。ですから、実際の見え方が人によって違ってたとしても、共通認識の概念に違いが生じることはありえません。 この動画の二人はド素人の勘違いさんなので、真に受けない方が良いです。
@@虎崎衛門-w2p素人で恐縮なのですが、同じ赤色として共通認識があったとしても、赤の見え方が両者で異なるのは普通に問題にすべきなのでは
23:35 そう、この話は高校生の頃夏のクラスキャンプで星空を見ながらした!みんなで。我ながらよい青春をおくったなぁ
25:12 脳みそから電線つないでも 電流が感知できるだけでどんな色を感知してるか示せない(電流の波形から 人間の感じてる色相を分析できるかもしれないけど)(その色相(電流波形)がそれぞれ個人と集団で同一なのかも分析しないといけない)色々な話が聞けて勉強になります。解説してくださって、感謝申し上げます。
哲学が好きすぎて主観的現象が当たり前になってるあまりに世間や物理学者が唯物論的な考え方が根元にあるのを忘れてた。
物と現象、一般的には普遍的に存在する「物」が物理法則に基づいて動くのが「現象」ととらえているように思います。しかし場の量子論では、物は現象であるととらえていると思います。物質も質量も素粒子も、すべて現象だと考えています。その意味で物理学は唯物論ではなく唯現象論と言うべきかも知れない。
その陥っていた境地は大乗仏教でいうところの「法我見」に相当しそうですね
シニフィアーーーン!
シニフィエーーーッ!???
「楽しんごが出てくる方が音」ちゃんと履修していて偉い!!
23:33 これな、中学生のときに思いついた。45年前か。「よって痛みも言葉で共有できない」という理屈を言っていた。
シュレディンガーはこう言った.「電子とは存在がほとんど疑い得ない仮説に過ぎない.」つまり電子は客観ではなく主観的仮説である.物理学は観測可能なことのみを扱うと言った時点で物理学は主観的である. 哲学者と物理学者が間違えているのは多数の主観が積もり積もって客観に近づいていくのだということを知らないということである.物理学は多数の追試実験で同じ観測結果を得たことで客観的事実に近付いていくとする.しかしそれはあくまでも近似であり確度の高い仮説に過ぎない.客観的現象は神の視点でしか存在しない. 我々人間にとって現象は常に主観的なのだ.
マジでそう。
谷村ノートを読んでいないので的外れかもしれませんが…。物理学者の態度としては、“現象”の背後にあるメカニズムを理論モデルを使って理解するのですが、そのモデルを疑う必要がない(モデルと実際に観測されるものに差異がある、複数のモデルの間に矛盾がある、などを見出せない)限りモデルは“有用である”として、疑うことに価値を見出しません。この態度がないと物理学の実践ができずトンデモおじさん化します。(※注:トンデモおじさんは物理学界隈で使われる専門用語)“主観的な現象”の背後に客観的な何かがあるのかどうかという問題も、コミュニケーションに齟齬がない限りは同様に問題視しないと思います。(そして、そういった齟齬がなるべくないように測定手段や概念を作り擦り合わせることに腐心してきているはずです。)哲学者が物理学者と議論する時は、“現象”の意味するものの擦り合わせだけでなく、まずこの前提をわかった上で崩してくれないと話ができない気がします。
現象を観測装置で測れば、誰がやっても同じ数値になりますよ。数値が違う数値に見える馬鹿は居ませんよね。そして肉眼で測る馬鹿もいませんから、人によって違いが生じることもありえません。現象を物理学で扱えない、なんてこともありません。 物理学が扱う現象とは、現実のことでは無いですよ。物理学が扱う現象とは、仮想上の思考実験のことです。そうやって作られた仮想的な現象が現実世界と一致するかどうかはまた別の話ですし、実験して確認する必要があります。量子論も相対性理論も、〇〇理論と呼ばれるものはすべて物理哲学の分野です。あたりまえですが、物理哲学=仮想上の理論です。
重機に限らず車界隈でも「カメ」「カメった」といいますねシャコタン(車高を落とすこと)しすぎて轍やコインパーキングの板などに腹を擦り動けなくなる頭のあれな人たちが毎年居ます
現象学の話キターーーーー!!!!!!
興味深いお話で最後まで拝見しました。ありがとうございます。お話を伺って何の専門家でもないわたしが感じたことを述べさせていただきます。主観的な認知はカントの時代にはわからなかったが、現代科学では例えば色の認知では今では3つの視神経の働きによるものとして客観的に観察して個人差を(完全ではないと思いますが)定量化することができます。今日の話題にはなかったけど時間の認知も然り。その事実を見ないで主観的現象と客観的現象の両方の視点があるという論は今では乱暴な論と言えるのではないかと感じました。わたしはこの動画を拝見して、哲学者の主観的現象に対する認知は、現代科学で積み上げられた客観的データ(これが根拠が硬固ならそれを真理と仮定するのがなんの分野であろうが“学”としての立場だと思います)をベースに、再検証が必要なのではないかと率直に感じました。
タイトルの圧倒的な吸引力!!!
そういうサムネ小学校の頃めっちゃ妄想してた。。アツいぜ
哲学者は潜水艦の窓に映る景色を額縁の絵画のごとく眺めているし、物理学者は潜水艦を操縦して海を探索している。
おもしろすぎたカーキ色ってそうだったんだ…
物理も仮定の話だから物自体には触れられません。波長の話か感覚器官の話かに絞れば喧嘩になる可能性は存在しません。
カーキとベージュはほとんどファッション業界の専門用語に近くて、芸学でb年狂してた20歳になるくらいになってもそんな絵の具に出会ったことが無かったから、具体的にどんな色なのかのイメージが無かった。後々、「柿の葉の色みたいだからカーキ」で無理やり覚えた。ベージュは肌色っぽいの、で覚えてたけど今は肌色って言葉も使わないんだよねぇ。
現象論って、何冊か読んだんですけどなかなか 腹落ちしないんですよね😢今回、期待します😊
カーキといえば砂漠の色、妻がカーキ色っていうから、それオリーブ色だろって言ったら喧嘩になったな
ちなみにですが、手品界隈では現象のことはeffectと呼ばれます
カントは限界を設定することでむしろ世界に社会に人間に優しくあろうとしたのに違いない❤
みんなが思うカーキ色ってモスグリーンなんだ、、、じゃあモスグリーンって言ってよ、、、
モスグリーンって言うとちょっと緑っぽすぎるのかもしれない。もっとグレー寄りみたい。
@@aetos382 改めてカーキ色調べたら水彩絵の具を全色溶かしたみたいな色してますね、、、
カーキ論争気になり過ぎて親にラインしました(笑)自分は土ぼこりの方でずっと認識してたので、親に言われて学習したんだろうなと思い、服飾系もやっていた母親に確認したところ、緑の方を指されました。昔からそうだったかと聞いたところ、昔からそうだったと言われたので、相当長く服飾系では緑の方をカーキと呼ぶので定着しているよう。
グルーのパラドックスを思い浮かべました
現代の物理学と比べてしまうと哲学は学問というより娯楽に近いと思う
物理を否定しないとか言っておきながら、「物理学者は~状態が完全に同一であれば意識状態も同一であると信じているが、そのような心身一元論が完全に正当化されたわけではない」とか「~絶対的同時性が存在しないことが証明されたわけではない」とか「時間が経過するならば時間に始まりがある」なんて言ってきたらそりゃぶちギレるわな。こいつ何も聞いてなかったんだなってなる。
カーキ色、昔は砂漠の砂みたいな色を思ってたけど、最近は迷彩色の緑を表すんだなぁと修正されていました。なるほど、界隈が違ったのですか。
哲学側としては 哲学の現象概念で、物理学の対象(現象)を説明できると思う(哲学は 基礎的な学を自負する以上 これができなければ 考えがたりないとも言えるだろう)。哲学(現象学)の立場からは、現象は主観的でしかあり得ないと言える(物自体は定義上論理的に現象にならないから)。そして 物理学の対象は より具体的な現象の抽象度を上げることで、取り出されているはずである。そもそも日常的な現象(哲学の言うような現象)も決して特別なものではない。多くの人は ふつう犬を「犬」という類より細かなものとしてその都度認知しないであろう。犬ですら細部を捨てて現象する(もちろん同時に細部を帯同しているので犬が2匹現れたらそれを区別することもできる。がここでは茶色と白からなる犬的シルエットの物体ではなく、犬だと思っていることがあるという話)。物理学は意識的にかつ意図的にもっと質的な特徴を削って捨てて、扱いやすい現象を取り出していると言えるだろう。それはもはや(古典よりも後の物理学においては)感覚器官においてよりも知性(計算など?)によってのみ現れることのできる(出会うことができる)現象なのかなぁと思う。でもそれは物自体ではない。
もし仮に 物理学が 原子からなる世界観/世界像を与えたとして(実際かつてそうしたと思うが)、それは より(われわれの生活上の意味のレベルよりもはるかに)細かなレベルで物自体を (ある意味で)現象させていることになる。でもそれが物自体と一致していると表明することは不可能であるはずだ。なぜなら、現象と現象とは記憶や同時に現象することで見比べることができるが、物自体と現象とはそれができないからである。
茶よりをチャーキ色、緑よりをリョーキ色と設定すればすれ違いはなくなります。(会議の場限定の造語でも良い)同様に哲学で扱う「現象」を『哲象』、物理学で扱う「現象」を『物象』、(造語なので何でも良いが)とすればよいのでは?
思いついた「…それは…」のパターン。「そう考えたのなら、それは、そうでしょうねぇ」「考えるとかなしに、それは、そうでしょうねぇ」「たぶん、それは、そうでしょうねぇ」「それは、どうでもいい」「それは、わからない」…_”それ”が指すものを”現象”にするとどのパターン_ になるか…私は最初は2番目で後1番目かな。
例え間接的にしか捉えられなくとも合意が得られれば学問として成り立ちそうな気はします
このようなトラブルが起こらないように、日本語には「事実」の他に「真実(考えの数だけ十人十色)または(事実+感情)」って言葉があるんだと思っていたのに、、「真実は一つ」という言葉が大流行して、意味合いが;;、「事実」と「真実」って、どう違うの??って、疑問になったり、表現し辛くなったかも?;って思ったりしました^^;、
哲学 - 形而上の分野を形而下で扱えるようにする役割を担う - 人間が持つ感覚・認知を用いて、形而上を創出する。創出とは散らばっている「何か」を感覚・認知でもってまとめ上げるような行動を指す。 - この時点では実験可能な状態ではないため、下記項目のようなことからの想像を発端としているのではないかと仮定 - 経験からの推測 - 観察からの推測 - 現象それぞれを比較しての共通項の洗い出しというような過程を経て「新規概念の創造」を行っているように感じるのです(私としては、重要なのは「概念が無ければ学問として…もっと言うなら「何か(概念になる前の現象)」について取り扱うことが不可能(若しくは著しく非効率)なのではないか?」ということです) 哲学の重要な役割・意義として、形而上学的な領域を物理学的な領域で扱える事柄に変換する役割を果たすものであると推察する。哲学は、人間の感覚や認識を用いて、散在する現象を収集し、定式化することによって、新しい概念を創造するものであると考える。このプロセスは、最初は実験的に実行可能なものではなく、経験からの推論、観察、現象間の共通性の識別、法則の識別を伴う。現象の研究を可能にし、あるいは効率的にするためには、概念の創造が極めて重要であると考えている。(注、あくまで私視点からの哲学の役割の一部)
雪国の地元では「カメになる」は一般で頻出します。自動車の腹が雪面に乗り上げてタイヤが空転して動けなくなる状態です。
昔、ミリタリー色の強いロボットもののラノベを読んでカーキ色を誤解してたの思い出した
カーキ色って言葉は軍服の色で最初に聞いたから緑っぽい色は連想されないな
ミリタリー好きではありませんがカーキ色は黄土色を思い浮かべます。父が予備自衛官だったのが影響しているのかも、、
かの名作「バオー来訪者」のバオー武装現象(バオー・アームド・フェノメノン)は、どちらかというと哲学的な現象だったのかな?
この世のすべては哲学の対象であるべきなので物理は成立しないって言っちゃう哲学者はいないと思けど、最近、意識は存在しないと言ってる哲学者がいることを知り、もう少し脳科学をキャッチアップすればいいのにと思った。まあ、カントが物理学が成立する理由を考えているのならその解説に期待したいところです。しかし、それだけ食い違ってたら喧嘩にすらならなそうだけど、それでも喧嘩したなら相当に不毛だったのだろう。チラと谷村ノートの目次を見た記憶では物理学者も現時点は相対論によって相対的なものであって絶対的なものではないと主観的な現在を否定してた気がする。でも物理学者とて人間であって主観を持っているから現時点という認識はあるはず。それが矛盾なく成立する理由については考えてもいいと思うのだが。いや違うか、それは脳科学者の仕事なのでくだんのシンポジウムは呼ぶ学者のジャンルを間違えたのだろう。そういえば脳科学者も意識は存在しないと言ってたなあ。。。
「色の感覚」についての議論を「クオリア」と呼ぶ、というのはカントとは別の文脈なんですか?
物理学でいう現象は測定結果のことです。測定は誰が測定しても(同じ状況なら)同じ結果が得られるように決められています。なので色に関して言えば、「波長400nmの電磁波が検出された」という事は誰にとっても同意出来る事です。このように、物理学は測定されるものだけを扱う分野なので現象(測定結果)は客観的です。なぜ測定結果が誰にとっても同一なのかと問われればそれは謎としか言いようがありません。もしそのようでなければ宇宙の構造は矛盾を孕んでいる事になり、宇宙は存在し得ないと思います。また、物理学では測定結果は客観的ですが、その解釈は観測者ごとに異なってもいいです。面白い例は特殊相対性理論の「ガレージのパラドックス」というものですが説明が面倒なのでここではしません。つまらない例だと、落ちている人は地球の目線では人が地球に近付いて来ていて、人の目線では地球が人に近付いて来ています。お互いに解釈が違っていますが、人と地球の距離という測定結果が徐々に短くなっているという事は客観的です。物理学が面白いのは、観測者ごとに異なる体験をするのが織り込み済みで無矛盾な体系になってる事です。例えば、ドップラー効果によって光や音の感じ方は観測者と波源の速度差に依存することなどが分かりやすいです。
義務教育レベルのカントすらしらない物理学者なんているのか?相手が重機界隈の人間だとわかってて"カメ"の意味を知っていたら何を言いたいのか理解できるように、文脈で判断出来そうだけどな主観的な現象とか計測器の数値は共通の現象というように異なったシニフィエを指したいならシニフィアンを変えればいい"現象"の意味でケンカしてたらほんと程度が低い
服を白で揃えられてるのは偶然だと思いますがなんかオシャレw
背景の黒も相まってラーメンズっぽい
理学部の学生としては色の話あたりから色々突っ込みたいけど、取り敢えず哲学者の方々には「科学の領域で扱えるのは反証可能性があるものだけ」という事を理解して頂きたい。仮にAさんとBさんが見てる世界が色調が反転した物だとしても、それを否定的にも肯定的にも証明しようがないので科学で扱えない。
モノが人間に3Dデータを1-1対応で読み取らせるバーコードなのだとすれば、林檎も物質波も共にバーコードであるはずだが、哲学者は林檎をバーコード, 物質波を3Dデータだと言っているように見える
物理側から見れば、やっぱり哲学が言葉遊びをしているように見えてしまいますねぇ。物体の色だって、物の形状だって、物理測定をすれば客観的な数値として確定されます。観測による客観数値に対して「どのような人文学的(精神的)意味付けを行うか?」が哲学が扱う範囲なのではないですかね?この様に、哲学が扱う範囲の輪郭をどう捉えるのか?、言葉遊びでは無い哲学は何なのか? を提供しながら話をしないと、結局は視聴者が煙に巻かれてしまうだけのように思います。
タミヤのプラカラーのカーキ色を連想するから服屋でウインドブレーカー選ぶときに妻と揉めた記憶ある。ちなみに量子力学まで踏み込むと現象と言う言葉は理解出来ません。
うわ、谷村さんの名前が出てきた
素朴な感覚として、物理と哲学の間に、数学が入り込みそうな気がするのですが、、投げやりな質問恐縮ですが、数理哲学あたりってどんな発展してるんでしょうか?
哲学で現象を説明すると仏教での【空】の理論の様になり、人間が認識している世界は一元的で、二元的に【主体と客体】は本質的には分離出来ないんですかね!?
絵画でスーパーリアリズムというジャンル?がありますが、そもそも「リアリズム」という言葉自体が哲学ではあり得ないということなのでしょうか?
「現象」はカントを読まない人には、何のことやら、だろうね。カントVS物理学は「人間の知性には形式がある」VS「人間の知性に形式はない」」の戦いなのかね。二律背反が正しいかどうかは、それほど重要でなく、「形式がある」ということが正しいのかどうか、だよね。
「現象」という言葉を物理学者が受け止める意味と哲学者が受け止める意味が違うというのはショックでした。これからは誰を相手に語っているのかを確認しながら言葉を使用しなくてはならないと感じました。わたくしは宮沢賢治さんの『春と修羅』序の《わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です》という出だしの一文が大好きなのですがこの言葉を物理学者が聞くのと哲学者が聞くのでは全然違った解釈になってしまうのでしょう。提案としては哲学者の「現象」は「心象」とし物理学者の「現象」は「事象」とするという使い分けをしたらどうでしょう。あくまで日本語の問題ですが。「心象」「事象」それぞれにも事情はおありでしょうけれど。
交通信号機の青って、緑色ではなく、たまぁに青色に見えることあるんよ。
人間は仏教的には5根から認識が出来るだけで、魂的な不変な実態が無い(諸法無我?)。なので、人間はお互いの共通認識において客観的事実が必要なんでしょう。
哲学vs物理学の大ゲンカは現象か? 現象という言葉は、そう軽いものではないのだな
物自体には到達できないから現象だけを扱う、それはいいのだがそこから出発して何が言えるようになるのかが問題。
たとえば、3Dスキャナで物体を読み取って、3Dプリンタで出力すると、元の物体と同じような形ができる。オリジナルとコピーでは違うかもしれないが、形という点ではほぼ同じ。これは哲学、物理学のカテゴリーに関わらず、形という実体を普遍的に実現できていること。17世紀の科学革命では、実用的科学を発展させるために商人や貴族が科学者に金を出した。現在でも実用という視点から哲学と物理学を見直すべき。
谷村ノートを読んでいないので真意は解りませんが、谷村さんが「現象は客観的なもの」と言ったというのは意外です。量子力学は「観測」という概念無しでは成り立たず、その観測は当然、主観的でしょう。そして、主観的な観測によって得られる現象も主観的だと思います。相対論で考えても、絶対空間・絶対時間は無く、観測者が現象に関わっているので、その現象は主観的と見るべきではないでしょうか。私は「主観的」を勘違いしている?
それは観測者が主観的なのであって、観測したものは客観的(観測者にみられているので)になります。私たちは赤色を主観的に観測することができず、あくまで光の反射を見ているにすぎません。量子力学も量子を客観的にしか観測できないためコペンハーゲン解釈みたいなことになる。量子の動き(現象)を観測器(量子そのものではない、つまり客観的なもの)で確認することを私たちは観測と呼んでいます。
物理学では観測者ごとに(客観的な)現象の解釈は異なりますが、無矛盾に同意出来るようになってます分かりやすい例だと、車と新幹線が正面衝突した時に、車の目線では新幹線が車にぶつかっていて、新幹線の目線では車が新幹線にぶつかってきてます。お互いに解釈が違いますが、「ぶつかった」という現象そのものはお互いに同意できます。そしてお互いにとっての現象の見え方の違いは物理学という無矛盾な体系によって説明出来ます。
それは、「主観的」では無いですね。物理に「主観」という概念はありません。あくまで、観測者の場所(観測条件)が異なっている、として数式上に表されます。
Dragon Night シニフィアン カント 現象学 哲学と物理 箱推し回
話題になってたやつだ
クオリアと(哲学的/主観的)現象って違うの?似た概念なの?
主観と客観は必ずしも一致しないとは限らないと思ってる。そしてやっぱり客体があると自分は信じている。とはいえ主体なくしてそれを受け取ることが出来ないのも感覚的にわかる。まあ主体なくても可能かもしれないという疑いはあってもいいけど。我思う、だけど我ありか我なしかわかんないと。哲学者にも主観派客観派両方居るの知ってるからあまりにもこの物理学者の見識が狭いとは思ったけど(仕方ない)、主観派は確かに説明しないといけないね。あと種の定義のあとわざわざカメの話をしていたけどどっちも同じアナロジーだと思った。同音衝突、同音異義語だし。むしろカメは文脈で区別出来る場合が多そう。色の話はよくあるけどこれは違いがAさんが言う赤とBさんが言う赤が文脈で区別出来にくいこと多いからいい例。ついでに音もそれぞれの個体で聴こえてる音が違うはずなのに絶対音感って言う絶対という言葉が使われてるのあんまよくないですよね。相対音感じゃね?とか思うけど、これはすでにある言葉だし...。絶対とか相対とかいう言葉がちょっと特殊な使われ方しててもうがんじがらめ。名前つけるときどうにかならなかったの?と思ってる。匂い味触感諸々この問題あるだろうけど。最後に気になるのは物理学者はこの回答で満足できるの?ってのが聞きたい。化学畑を出て諸哲学も齧ってる自分からすると学問としてどっちも素朴ながら意義を感じる。諸制度や文明の発展にどちらも貢献してると知ってるから。ただ往々にして所謂理系は哲学を嫌ってる印象がある。哲学側はむしろ他の学問をリスペクトしていると思ってる。そこの溝なんとか埋めてほしい。哲学から他の学問生まれたとかいい気になってマウント取ってる奴はそもそも哲学にわかでしょ。確かにそれはあるかもだけど、科学の発展を待ってからやっと始まる哲学もある。つまり哲学から生まれる学問もあれば、他の学問から生まれてる哲学もある。互いが互いを産みあっている。それに最初の学問ってほんとに哲学なのか?素朴レベルな算数とかもありそうだけど。まあそれはいい。科学哲学少しでも齧ってれば哲学も真理探究に余念がないことはわかる。どうか仲良く殴り合い成長したい。あとやっぱ哲学って人の名前出てくるな〜カントが言ってたとか、誰々が言うにはとか。引用だから当たり前だけど。むしろ名前出さない方が不適切か。
絶対音感は、個々人がこれがCだ、Dだと思う音が過去と現在で一致しているという同一性みたいなものを、絶対的な音感だとしているんじゃないの?ヘルツが442だろうと、432であろうと絶対音には変わりない
眼鏡丸のほうが似合ってますよ
すれ違いで片付けるなら つまるところ 学問なんてものも 宗教みたいなもんなんだな 神が違うので教義も違うみたいなもんなんだな
哲学における色の話、色盲者がいるのに彼らを話に出さないのはなんなん?そっちの方が近いし分かり易くない?
ぜったいおもしろいやつーー
ねこ カフェ界隈とワーキン界隈
僕は物理の側の人間だけど、哲学やってる人と話したことがあって、どんな目的意識でやってるのか結局最後まで分からなかった物理をやる人には自然をより深く理解したいっていう動機があるけど、哲学をする人は一体何を知りたいんだ?
5分前仮説やシミュレーション仮説を、現在の科学が取り扱わないのと似てますね。科学的には、主観だろうが客観だろうが、ある現象を計測した結果と、法則が常に合致するのなら、虚構だろうが歪んだ認識であろうが、どうでも良い事なんでしょう。
物理学では、ものを扱い。哲学では、精神を扱うからでは?精神すなわち、思考です。生命体は思考によって現象化するなんて、考えるなどできません。考えること、すなわち、現象世界。順番を別れるとしたら、相当な観察力がないとだめです。見つけようとしているものは、同じもの。
初めて見たけど、面白そうだけどテロップとかデザインがチカチカしすぎて見れない…もう少し改善してほしい
パトナム回、おねしゃす
23:42 信号の色を 青とか緑というけど 合わせて「青信号」っていう感じ?25:25 認識の前提が違うってことだよね? 用語の違いって コペルニクス的転回で合ってる? 種の起源が そもそも客観的な共通理解可能性はあっても 絶対的分類があるわけじゃないみたいなのとにてる?多分日本的にすると、 財政赤字が大変だっていう人と {政府とかメディア} 重税で生活が大変だっていう人 {国民、国民生活} みたいなもの?将来世代の負担を減らす方法 {方法論 目的論 ?陰謀論?} {たぶん 功利主義 哲学の数理変換} 税負担率 30% と 50%の 差 1 現役世代が 前世代を介護する 年金制度 {物理学 _ 労働力を農業につかうか 介護に使うか} 1.1 現役世代の労働力を 次世代に使うか 前世代に使うか 1 将来世代を全滅させる 将来世代の負担は存在しない {哲学、数論 存在論}
7:54
哲学『主観的現象を研究するわ』物理学『じゃーこっちは客観的現象研究するからよろしく』これでいんじゃないの?どちらの業界のこともしらないけど
この二つの学問は、本質的には同じものでしょう。人間の脳という 出られない枠組みと認知機能の中で、“なるべく” 客観的に世界を捉える試み。特に、物理学側が量子力学(観測問題)に到達した以後は。本質的には、より同じになった。 …逆に、歴史学w 等は、最も遠い領域ですね。主観的,感情的,受動的,発達障碍者的。定義によっては学問ですらない。「あなたが語っている それ は、あなたがニンゲンでなくても そう なのですか?」という質問に対してNOである分野は、学問 (理,識,知) とは言えない。(NOであると認められない,はぐらかす場合は、論外。)
…上記、各学問が その定義をきちんと満たしていた場合 の話です。勿論。哲学 は、才能に左右される側面がある(それこそ物理学もですが)からなのか、哲学専攻を名乗る人物が 全く哲学していない事がある。ただの、“過去の哲学者に詳しい人” という場合が散見されます。それは単なる人類史、歴史学です。霊長類1種が形成した文化の話の1つに過ぎません。残念過ぎる。音楽を 作曲 も 演奏 もしないのに、音楽を名乗っている様な体たらくです。
【台本協力】
富谷昭夫先生
x.com/TomiyaAkio
【参考文献】
◯〈現在〉という謎: 時間の空間化批判
www.valuebooks.jp/bp/VS0055396059
◯量子力学10講
amzn.to/4az65vs
◯谷村先生のサイト
「一物理学者が観た哲学」やそれへの返答に対しての反応がまとまっている。
www.phys.cs.i.nagoya-u.ac.jp/~tanimura/philosophy/works.html
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祖母がカーキ色のリュックを上げると言うので貰ったら鮮やかなオレンジ色でした。
不思議に思っていたらおそらく祖母は柿色のリュックのつもりだったようです。
シニフィエもシニフィアンも間違っていた訳ですね。
おもしろすぎ
谷村ノートと森田ノートをザーッと読んだ感じ、「現象」もそうだが、「世界」も哲学と物理学で全然意味が違うというのもすれ違いの原因だなぁ、と思った。哲学用語としての「世界」、範囲広すぎ。
谷村さんの使ってる「世界」はあくまで科学的手法によって観測できるものであり、物理的な出来事によってのみ変化する世界のことを指してるようだけど、森田さんのような哲学者が使う「世界」は概念的な操作や、我々が一度思考するだけでも“変化している”と見做せるような世界を想定しているから、例えば「世界に影響を与える」というような言い回しに関してものすごい齟齬が発生するんだ、と思った。
どこで学んだか覚えてないけどなぜか僕のカーキ色の理解がミリタリー寄りで、妻と大喧嘩になったことがあります
この動画を見て最初に連想したのが正に夫婦喧嘩だったw
アタリマエじゃない物をアタリマエだと思い込んでる人はすぐ感情が爆発するんで。
カーキ迷彩(オリーブ迷彩にカーキ色を足したもの)を緑色の迷彩だと思い込んだアパレル側のミスですよね。
現象の認知は情報(量)に強く影響を受けるが
情報化が強く、文化の発展の端では当たり前なんて意味を持たない
ある意味で発見が絶えず起きていて不安定な感情を抱く
物理学は構造的な裏打ちみたいなもので(現象に対する数値化など)
それに類似したものに拠り所を求めがちになる
自分も当時谷村ノート問題から『〈現在〉という謎』を読みましたが、物理学者と哲学者の間で用語の使用方法にすれ違いが起きているのも然ることながら、哲学者サイドが数学や物理を全く勉強せずに数学・物理の領域に足を踏み入れてトンチンカンなことを言い続けていて頭を抱えた記憶があります
特に森田氏の「円周率を読みあげる男」の話は理学博士号を取ったとは信じられないほど輪をかけてひどい
ゆる言語学のさらにゆるリスナーだから、シニフィアンって聞いたことあるなって思ったけど水野さんが、あーーーーん!って言ってた以上のことが出てこなくて困ってる。
物自体というのはまさに諸個人の認識のすれ違いから逆算して発想されているんだよね。
それに哲学者は物理学を人間の主観的な認識に依存してるからといって腐してるわけではなく、
「主観的現象」を取り扱う物理学を基本的に普遍的に妥当なものと考えている。
多くの哲学者は谷村ノートを「全く仰る通り!」と読んだのではないかか。
物理学は前提として
普遍な物理現象があると仮定して進める
としなければ人類の科学文明が発展しないので言わば哲学を無視するしかない
物理学は三人称の記述。そこでの青色は一人称的感覚ではなく光の波長帯のニックネームにすぎない
一方哲学(現象学)は三人称記述「物自体」を諦めて一人称記述「現象」に特化せんとした
方法論のどちらが正しいかではなく、おそらくはどちらも有効なのだろうね
しかし一方における正しさは他方において「正しさを問われるべき対象」にすらならない
記述の在り方に伴う「正しさ」のねじれ構造について、我々は未だに無知の中にいる
そしてその無知を解き明かすのはおそらく物理学でもなければ哲学でもない
こんなコメントがしたかった…
観測装置で光の波長を測れば、誰がやっても同じ数値になりますよ。そもそも、同じ色、同じものを見つめてるときに、これは〇〇なんだよと言って、色の概念などを覚えて育つのが人間です。その際に、実際の見え方が違ってたとしても同じ概念として共通認識が作られます。ですから、人によって見え方が違ってたとしても、概念に違いが生じることはありえませんし、この動画の二人の説明もただの素人の勘違いです。
@@虎崎衛門-w2p
客観的に見れば(=三人称記述では)それは全く正しいのです。青色が私にどんな風に感じられているのかは問題とはなりません(=問題にはできません)
一人称的感覚は三人称記述の対象外であって語ることができないんです。無理に語ったところで無意味な命題ができるだけなので
一方、私にとって青色感覚はリアルに存在するわけです
直接経験ですから、私にとっては私の色覚聴覚味覚痛覚の存在以上に確実なものはないとも言えます
この確実性を貫けば一人称記述となります
そこで正しいと言えるものは色覚等私のクオリアの存在のみで、今度は客観的な物体の存在も他者の色覚も他者の存在も記述の対象外となってしまいます
三人称記述での正しさがあり、一人称記述での正しさがある。しかしその正しさは両立しないんですよね
一方が正しければ、もう一方は記述の対象外として退けなければならないという
@@ひぐまびっち 一人称と三人称の正しさは両立できますよ。将来的に眼球を機械に置き換えれば、見え方の違いはなくせます。不可能みたいに言ってますが、それは単に肉体的な違いによるものです。
人の脳が概念をどのように解釈して、どのように記憶するのかは、厳密には人それぞれ違うはずですが、色の概念に関して言えば100%機械で補正が可能です。
それともう一度言いますが、物理哲学で扱う現象には、あなたが言う一人称はまったくの無関係です。物理哲学は現実の現象を扱う学問では無いので、人の肉体的な違いによる観測の違いは無関係です。物理哲学があつかうのは、仮想の思考実験の現象です。そうやって作られた理論が現実世界の現象と一致してるかどうか、要するに理論の正しさはまた別の問題です。
もっと言えば、例えば相対性理論におけるアインシュタイン時空の時間や空間の概念がどのようなものか、人によって理解の仕方が違ってる可能性があるので、同じ理論について語る場合でも人によって違ってる可能性はあります。しかし、数値や式が人によって違うと言うことはあり得ません。理論を正確に100%違わず説明するためには数値や式を使えば良いだけです。この式に実在性を持たせようとするから、人によって時間や空間のイメージが違ってる可能性が生じます。では時間や空間という言葉は会話の中で使えないのかというとそれは問題とはなりません。なぜなら、時間や空間とは、ローレンツ変換の式のことであると、お互い理解してるので、その式が違って見えると言うことはありえないので問題とはなりません。
量子力学や相対性理論でよく会話が食い違いますよね。これも同じ理由です。式や数値をよく理解してない素人が、無理やり言葉で理解したつもりになってるために生じる、違いです。
現実の現象を観測する実験物理学の分野でも一人称はまったくの無関係です。観測装置で測った数値が何を意味するのかを扱う学問なので、数値が人によって違って見えると言うことはありえません。
@@虎崎衛門-w2p
いやだからそう言ってるじゃないですか、三人称記述に一人称の入る余地はないって
さらに科学もまた三人称記述ですから、科学的な考察に一人称は入る余地がありません
たとえば私の歯痛について三人称記述で説明することはできます。歯磨きを怠り虫歯になった、それで痛覚神経細胞の発火云々と
しかしその説明そのものはちっとも痛くありません。痛覚について分析したり説明することは三人称記述であって一人称記述ではないんです
一人称記述とは人それぞれってことではなく、私のクオリアだけで構成された世界を指すものですから
(蛇足)これまでは分かりやすく一人称としましたが、実は正確にはゼロ人称の記述なんです
クオリアは主体-客体に分解分析できませんから、クオリア世界には行動主体たる私すらいないことになります
だから独我論ですらない、唯クオリア論とでもいうべき世界観です
そこで言えるのはこの(私の)クオリアの成立(存在)、そのリアルな確実性のみとなります
このすれ違いは実際に誰かと対話するときに感じている。「こういう現象が起こっている」と言うより「このように現象している」と言うほうが嘘がないような感じがする。
この世界を説明するときに、哲学者は演繹的に説明しようとしていて、物理学者は帰納的に説明しようとしているから噛み合わないのかなと感じた。
「物自体には到達出来ない」というのも、我々が意思疎通出来てる時点で物自体と哲学用語としての現象には何らかの関係性があるのは明らかで、であれば現象から物自体を探る事も不可能では無いと物理学者なら考えると思う。
ごもっともです!実際現代哲学には「もしカントの言う通りならば、なぜ分かり得ない物自体は我々に干渉してこようとするのか?(関係を持つのか?)」という流れがあります。僕もここはまだ勉強中です。
@@yurutetsugaku 哲学をよく知らないので見当違いな返答になると思いますけれども…
「関係を持つ」というのがキーのように感じます。関係を持つと相互に作用します、相互作用があるならそこに存在がある、あるいは存在が造られることになります。つまりそこに「意味」が創造される…のではないか。何が言いたいかというと、人間というものは意味を創造する存在である、ということ…
「古典力学は極端な高速や大質量になると破綻する」という事実は存在するが、「実生活の上では古典力学は非常に優れた近似」みたいなことと対比できそうな気がした
実際のところクオリア反転(量子力学)みたいなことは起きているのかもしれないけど、今(主観的)現象として起きていることを分析する(=古典力学を探求する)ことは非常に役に立つし、面白いことだよね、みたいな
哲学は既存の言葉を通常とは全く違う意味で使うことがよくあるから
そういう言葉は最初に定義しておかないと全く意味のない議論になる。
哲学あるあるだし、やる前から分かってるはずだけどな
面白かったです。こういう方向性のテーマまた観たいです!
「避けられないすれ違い」って言葉、自己矛盾してそうで面白いw
物理学のような領域においては、今のところ現象を客観的なものとして扱っても問題なく成り立っているように見える。本当は主観-客観の一致は証明できず、実証科学が嘯く客観性でさえも、最も確からしい間主観的確信に過ぎない。過ぎないが、多くの物理現象が古典力学系の範囲で説明できるように、物理学が客観性を前提としても成り立っているように見えるうちは、現象を客観的に捉えても物理学においては問題ない、ということだと思う。
26:49 ゆる天文の伏線回収
哲学は、物理学を含め全ての学問が正しいと説明するために必要なのだよ
観測装置としては欠陥のある人間自体の性能の評価を思考で行おうとしているのが哲学
人間を可能な限り排して数値と式で評価を行おうとしているのが物理学
みたいなイメージを抱きました
現象 客観 比較 可変
心象 主観 唯一 不変
現象を心象で説明もできるし
心象を現象で説明もできちゃう
谷村ノートを読んでみたらだいぶ正論でワロタ 何より一方的な哲学否定ではなく、良い部分や将来的な展望なども含めて、色々検討しているのが良いなあと。
「諸学問は哲学から生まれたのだ、と言える資格を持つ人が日本にいるのか?(それを言えるのは西洋人だけでは?)」という記述が気になってたけど、あとがきの部分だから実際にはあんまり関係なかった。本文が大事。
クオリアって言葉は聞いたことあるけど哲学的「現象」はこれのことなのかな
お〜、谷村先生ご自身がXでこの動画についてコメントしている!
ありがたいことです。
自分も科学的な教育を受けてきたので、現象は客観的なものという立場でした。
色の例で言うとおそらくそもそもの定義部分が違って、450nmの波長の光=青と読んでおり、個体差による受け取り方は考慮していない気がします。なのでそもそも個体による知覚の差があっても語弊が生まれないように定量的に定義するのが物理学。真実はいつも一つなのです。
一方哲学では物理学でいう観測者の方の目線を優先して定義していると思うので、私が青と呼ぶもの自体が青であり、仮に別人の脳に入って世界を知覚した場合に680nmの光(通常赤と呼ばれる色)を見た時に青だと感じたらそれは青色として扱うのが哲学的立場なのだな。お二人の会話を聞いて素人ながらに感じました。真実は観測者の数だけ存在する。というイメージなのでしょうか?
一般名詞で言う"正義"みたいな扱いなのでしょうか。
違います。450nmの波長を観測装置で測れば、誰が測っても450という数値に違いが生じることはあり得ません。そもそも、人が色の概念をどうやって覚えるのかをまず考えてください。これが赤色なんだと言って、教える側と教わる側の二人が同じ色を見ているはずです。この時、二人が違う見え方をしていたとしても、同じ赤色として共通認識の概念が作られます。そうやって、同じ環境、同じものを見て共通認識の概念を沢山身に着けて人は成長します。ですから、実際の見え方が人によって違ってたとしても、共通認識の概念に違いが生じることはありえません。
この動画の二人はド素人の勘違いさんなので、真に受けない方が良いです。
@@虎崎衛門-w2p素人で恐縮なのですが、同じ赤色として共通認識があったとしても、赤の見え方が両者で異なるのは普通に問題にすべきなのでは
23:35
そう、この話は高校生の頃夏のクラスキャンプで星空を見ながらした!みんなで。
我ながらよい青春をおくったなぁ
25:12 脳みそから電線つないでも 電流が感知できるだけでどんな色を感知してるか示せない
(電流の波形から 人間の感じてる色相を分析できるかもしれないけど)
(その色相(電流波形)がそれぞれ個人と集団で同一なのかも分析しないといけない)
色々な話が聞けて勉強になります。解説してくださって、感謝申し上げます。
哲学が好きすぎて主観的現象が当たり前になってるあまりに世間や物理学者が唯物論的な考え方が根元にあるのを忘れてた。
物と現象、一般的には普遍的に存在する「物」が物理法則に基づいて動くのが「現象」ととらえているように思います。しかし場の量子論では、物は現象であるととらえていると思います。物質も質量も素粒子も、すべて現象だと考えています。その意味で物理学は唯物論ではなく唯現象論と言うべきかも知れない。
その陥っていた境地は大乗仏教でいうところの「法我見」に相当しそうですね
シニフィアーーーン!
シニフィエーーーッ!???
「楽しんごが出てくる方が音」
ちゃんと履修していて偉い!!
23:33 これな、中学生のときに思いついた。45年前か。「よって痛みも言葉で共有できない」という理屈を言っていた。
シュレディンガーはこう言った.
「電子とは存在がほとんど疑い得ない仮説に過ぎない.」
つまり電子は客観ではなく主観的仮説である.
物理学は観測可能なことのみを扱うと言った時点で物理学は主観的である.
哲学者と物理学者が間違えているのは多数の主観が積もり積もって客観に近づいていくのだということを知らないということである.
物理学は多数の追試実験で同じ観測結果を得たことで客観的事実に近付いていくとする.しかしそれはあくまでも近似であり確度の高い仮説に過ぎない.
客観的現象は神の視点でしか存在しない. 我々人間にとって現象は常に主観的なのだ.
マジでそう。
谷村ノートを読んでいないので的外れかもしれませんが…。
物理学者の態度としては、“現象”の背後にあるメカニズムを理論モデルを使って理解するのですが、そのモデルを疑う必要がない(モデルと実際に観測されるものに差異がある、複数のモデルの間に矛盾がある、などを見出せない)限りモデルは“有用である”として、疑うことに価値を見出しません。この態度がないと物理学の実践ができずトンデモおじさん化します。(※注:トンデモおじさんは物理学界隈で使われる専門用語)
“主観的な現象”の背後に客観的な何かがあるのかどうかという問題も、コミュニケーションに齟齬がない限りは同様に問題視しないと思います。(そして、そういった齟齬がなるべくないように測定手段や概念を作り擦り合わせることに腐心してきているはずです。)
哲学者が物理学者と議論する時は、“現象”の意味するものの擦り合わせだけでなく、まずこの前提をわかった上で崩してくれないと話ができない気がします。
現象を観測装置で測れば、誰がやっても同じ数値になりますよ。数値が違う数値に見える馬鹿は居ませんよね。そして肉眼で測る馬鹿もいませんから、人によって違いが生じることもありえません。現象を物理学で扱えない、なんてこともありません。
物理学が扱う現象とは、現実のことでは無いですよ。物理学が扱う現象とは、仮想上の思考実験のことです。そうやって作られた仮想的な現象が現実世界と一致するかどうかはまた別の話ですし、実験して確認する必要があります。量子論も相対性理論も、〇〇理論と呼ばれるものはすべて物理哲学の分野です。あたりまえですが、物理哲学=仮想上の理論です。
重機に限らず車界隈でも「カメ」「カメった」といいますね
シャコタン(車高を落とすこと)しすぎて轍やコインパーキングの板などに腹を擦り動けなくなる頭のあれな人たちが毎年居ます
現象学の話キターーーーー!!!!!!
興味深いお話で最後まで拝見しました。ありがとうございます。
お話を伺って何の専門家でもないわたしが感じたことを述べさせていただきます。
主観的な認知はカントの時代にはわからなかったが、現代科学では例えば色の認知では今では3つの視神経の働きによるものとして客観的に観察して個人差を(完全ではないと思いますが)定量化することができます。今日の話題にはなかったけど時間の認知も然り。その事実を見ないで主観的現象と客観的現象の両方の視点があるという論は今では乱暴な論と言えるのではないかと感じました。わたしはこの動画を拝見して、哲学者の主観的現象に対する認知は、現代科学で積み上げられた客観的データ(これが根拠が硬固ならそれを真理と仮定するのがなんの分野であろうが“学”としての立場だと思います)をベースに、再検証が必要なのではないかと率直に感じました。
タイトルの圧倒的な吸引力!!!
そういうサムネ小学校の頃めっちゃ妄想してた。。アツいぜ
哲学者は潜水艦の窓に映る景色を額縁の絵画のごとく眺めているし、物理学者は潜水艦を操縦して海を探索している。
おもしろすぎた
カーキ色ってそうだったんだ…
物理も仮定の話だから物自体には触れられません。波長の話か感覚器官の話かに絞れば喧嘩になる可能性は存在しません。
カーキとベージュはほとんどファッション業界の専門用語に近くて、芸学でb年狂してた20歳になるくらいになってもそんな絵の具に出会ったことが無かったから、具体的にどんな色なのかのイメージが無かった。後々、「柿の葉の色みたいだからカーキ」で無理やり覚えた。ベージュは肌色っぽいの、で覚えてたけど今は肌色って言葉も使わないんだよねぇ。
現象論って、何冊か読んだんですけど
なかなか 腹落ちしないんですよね😢
今回、期待します😊
カーキといえば砂漠の色、妻がカーキ色っていうから、それオリーブ色だろって言ったら喧嘩になったな
ちなみにですが、手品界隈では現象のことはeffectと呼ばれます
カントは限界を設定することでむしろ世界に社会に人間に優しくあろうとしたのに違いない❤
みんなが思うカーキ色ってモスグリーンなんだ、、、
じゃあモスグリーンって言ってよ、、、
モスグリーンって言うとちょっと緑っぽすぎるのかもしれない。もっとグレー寄りみたい。
@@aetos382
改めてカーキ色調べたら水彩絵の具を全色溶かしたみたいな色してますね、、、
カーキ論争気になり過ぎて親にラインしました(笑)
自分は土ぼこりの方でずっと認識してたので、親に言われて学習したんだろうなと思い、服飾系もやっていた母親に確認したところ、緑の方を指されました。
昔からそうだったかと聞いたところ、昔からそうだったと言われたので、相当長く服飾系では緑の方をカーキと呼ぶので定着しているよう。
グルーのパラドックスを思い浮かべました
現代の物理学と比べてしまうと哲学は学問というより娯楽に近いと思う
物理を否定しないとか言っておきながら、「物理学者は~状態が完全に同一であれば意識状態も同一であると信じているが、そのような心身一元論が完全に正当化されたわけではない」とか「~絶対的同時性が存在しないことが証明されたわけではない」とか「時間が経過するならば時間に始まりがある」なんて言ってきたらそりゃぶちギレるわな。こいつ何も聞いてなかったんだなってなる。
カーキ色、昔は砂漠の砂みたいな色を思ってたけど、最近は迷彩色の緑を表すんだなぁと修正されていました。なるほど、界隈が違ったのですか。
哲学側としては 哲学の現象概念で、物理学の対象(現象)を説明できると思う(哲学は 基礎的な学を自負する以上 これができなければ 考えがたりないとも言えるだろう)。
哲学(現象学)の立場からは、現象は主観的でしかあり得ないと言える(物自体は定義上論理的に現象にならないから)。そして 物理学の対象は より具体的な現象の抽象度を上げることで、取り出されているはずである。
そもそも日常的な現象(哲学の言うような現象)も決して特別なものではない。多くの人は ふつう犬を「犬」という類より細かなものとしてその都度認知しないであろう。犬ですら細部を捨てて現象する(もちろん同時に細部を帯同しているので犬が2匹現れたらそれを区別することもできる。がここでは茶色と白からなる犬的シルエットの物体ではなく、犬だと思っていることがあるという話)。
物理学は意識的にかつ意図的にもっと質的な特徴を削って捨てて、扱いやすい現象を取り出していると言えるだろう。それはもはや(古典よりも後の物理学においては)感覚器官においてよりも知性(計算など?)によってのみ現れることのできる(出会うことができる)現象なのかなぁと思う。
でもそれは物自体ではない。
もし仮に 物理学が 原子からなる世界観/世界像を与えたとして(実際かつてそうしたと思うが)、それは より(われわれの生活上の意味のレベルよりもはるかに)細かなレベルで物自体を (ある意味で)現象させていることになる。
でもそれが物自体と一致していると表明することは不可能であるはずだ。
なぜなら、現象と現象とは記憶や同時に現象することで見比べることができるが、物自体と現象とはそれができないからである。
茶よりをチャーキ色、緑よりをリョーキ色と設定すればすれ違いはなくなります。(会議の場限定の造語でも良い)
同様に哲学で扱う「現象」を『哲象』、物理学で扱う「現象」を『物象』、(造語なので何でも良いが)とすればよいのでは?
思いついた「…それは…」のパターン。
「そう考えたのなら、それは、そうでしょうねぇ」「考えるとかなしに、それは、そうでしょうねぇ」
「たぶん、それは、そうでしょうねぇ」「それは、どうでもいい」「それは、わからない」…
_”それ”が指すものを”現象”にするとどのパターン_ になるか…私は最初は2番目で後1番目かな。
例え間接的にしか捉えられなくとも合意が得られれば学問として成り立ちそうな気はします
このようなトラブルが起こらないように、日本語には「事実」の他に「真実(考えの数だけ十人十色)または(事実+感情)」って言葉があるんだと思っていたのに、、
「真実は一つ」という言葉が大流行して、意味合いが;;、「事実」と「真実」って、どう違うの??って、
疑問になったり、表現し辛くなったかも?;って思ったりしました^^;、
哲学
- 形而上の分野を形而下で扱えるようにする役割を担う
- 人間が持つ感覚・認知を用いて、形而上を創出する。創出とは散らばっている「何か」を感覚・認知でもってまとめ上げるような行動を指す。
- この時点では実験可能な状態ではないため、下記項目のようなことからの想像を発端としているのではないかと仮定
- 経験からの推測
- 観察からの推測
- 現象それぞれを比較しての共通項の洗い出し
というような過程を経て「新規概念の創造」を行っているように感じるのです(私としては、重要なのは「概念が無ければ学問として…もっと言うなら「何か(概念になる前の現象)」について取り扱うことが不可能(若しくは著しく非効率)なのではないか?」ということです)
哲学の重要な役割・意義として、形而上学的な領域を物理学的な領域で扱える事柄に変換する役割を果たすものであると推察する。哲学は、人間の感覚や認識を用いて、散在する現象を収集し、定式化することによって、新しい概念を創造するものであると考える。このプロセスは、最初は実験的に実行可能なものではなく、経験からの推論、観察、現象間の共通性の識別、法則の識別を伴う。現象の研究を可能にし、あるいは効率的にするためには、概念の創造が極めて重要であると考えている。
(注、あくまで私視点からの哲学の役割の一部)
雪国の地元では「カメになる」は一般で頻出します。
自動車の腹が雪面に乗り上げてタイヤが空転して動けなくなる状態です。
昔、ミリタリー色の強いロボットもののラノベを読んでカーキ色を誤解してたの思い出した
カーキ色って言葉は軍服の色で最初に聞いたから緑っぽい色は連想されないな
ミリタリー好きではありませんがカーキ色は黄土色を思い浮かべます。
父が予備自衛官だったのが影響しているのかも、、
かの名作「バオー来訪者」のバオー武装現象(バオー・アームド・フェノメノン)は、どちらかというと哲学的な現象だったのかな?
この世のすべては哲学の対象であるべきなので物理は成立しないって言っちゃう哲学者はいないと思けど、最近、意識は存在しないと言ってる哲学者がいることを知り、もう少し脳科学をキャッチアップすればいいのにと思った。まあ、カントが物理学が成立する理由を考えているのならその解説に期待したいところです。しかし、それだけ食い違ってたら喧嘩にすらならなそうだけど、それでも喧嘩したなら相当に不毛だったのだろう。チラと谷村ノートの目次を見た記憶では物理学者も現時点は相対論によって相対的なものであって絶対的なものではないと主観的な現在を否定してた気がする。でも物理学者とて人間であって主観を持っているから現時点という認識はあるはず。それが矛盾なく成立する理由については考えてもいいと思うのだが。いや違うか、それは脳科学者の仕事なのでくだんのシンポジウムは呼ぶ学者のジャンルを間違えたのだろう。そういえば脳科学者も意識は存在しないと言ってたなあ。。。
「色の感覚」についての議論を「クオリア」と呼ぶ、というのはカントとは別の文脈なんですか?
物理学でいう現象は測定結果のことです。測定は誰が測定しても(同じ状況なら)同じ結果が得られるように決められています。
なので色に関して言えば、「波長400nmの電磁波が検出された」という事は誰にとっても同意出来る事です。このように、物理学は測定されるものだけを扱う分野なので現象(測定結果)は客観的です。なぜ測定結果が誰にとっても同一なのかと問われればそれは謎としか言いようがありません。もしそのようでなければ宇宙の構造は矛盾を孕んでいる事になり、宇宙は存在し得ないと思います。
また、物理学では測定結果は客観的ですが、その解釈は観測者ごとに異なってもいいです。
面白い例は特殊相対性理論の「ガレージのパラドックス」というものですが説明が面倒なのでここではしません。
つまらない例だと、落ちている人は地球の目線では人が地球に近付いて来ていて、人の目線では地球が人に近付いて来ています。お互いに解釈が違っていますが、人と地球の距離という測定結果が徐々に短くなっているという事は客観的です。
物理学が面白いのは、観測者ごとに異なる体験をするのが織り込み済みで無矛盾な体系になってる事です。
例えば、ドップラー効果によって光や音の感じ方は観測者と波源の速度差に依存することなどが分かりやすいです。
義務教育レベルのカントすらしらない物理学者なんているのか?
相手が重機界隈の人間だとわかってて"カメ"の意味を知っていたら何を言いたいのか理解できるように、文脈で判断出来そうだけどな
主観的な現象とか計測器の数値は共通の現象というように異なったシニフィエを指したいならシニフィアンを変えればいい
"現象"の意味でケンカしてたらほんと程度が低い
服を白で揃えられてるのは偶然だと思いますがなんかオシャレw
背景の黒も相まってラーメンズっぽい
理学部の学生としては色の話あたりから色々突っ込みたいけど、取り敢えず哲学者の方々には「科学の領域で扱えるのは反証可能性があるものだけ」という事を理解して頂きたい。
仮にAさんとBさんが見てる世界が色調が反転した物だとしても、それを否定的にも肯定的にも証明しようがないので科学で扱えない。
モノが人間に3Dデータを1-1対応で読み取らせるバーコードなのだとすれば、林檎も物質波も共にバーコードであるはずだが、哲学者は林檎をバーコード, 物質波を3Dデータだと言っているように見える
物理側から見れば、やっぱり哲学が言葉遊びをしているように見えてしまいますねぇ。
物体の色だって、物の形状だって、物理測定をすれば客観的な数値として確定されます。
観測による客観数値に対して「どのような人文学的(精神的)意味付けを行うか?」が哲学が扱う範囲なのではないですかね?
この様に、哲学が扱う範囲の輪郭をどう捉えるのか?、言葉遊びでは無い哲学は何なのか? を提供しながら話をしないと、結局は視聴者が煙に巻かれてしまうだけのように思います。
タミヤのプラカラーのカーキ色を連想するから服屋でウインドブレーカー選ぶときに妻と揉めた記憶ある。ちなみに量子力学まで踏み込むと現象と言う言葉は理解出来ません。
うわ、谷村さんの名前が出てきた
素朴な感覚として、物理と哲学の間に、数学が入り込みそうな気がするのですが、、投げやりな質問恐縮ですが、数理哲学あたりってどんな発展してるんでしょうか?
哲学で現象を説明すると仏教での【空】の理論の様になり、人間が認識している
世界は一元的で、二元的に【主体と客体】は本質的には分離出来ないんですかね!?
絵画でスーパーリアリズムというジャンル?がありますが、そもそも「リアリズム」という言葉自体が哲学ではあり得ないということなのでしょうか?
「現象」はカントを読まない人には、何のことやら、だろうね。カントVS物理学は「人間の知性には形式がある」VS「人間の知性に形式はない」」の戦いなのかね。二律背反が正しいかどうかは、それほど重要でなく、「形式がある」ということが正しいのかどうか、だよね。
「現象」という言葉を物理学者が受け止める意味と哲学者が受け止める意味が違うというのはショックでした。
これからは誰を相手に語っているのかを確認しながら言葉を使用しなくてはならないと感じました。
わたくしは宮沢賢治さんの『春と修羅』序の
《わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です》
という出だしの一文が大好きなのですが
この言葉を物理学者が聞くのと哲学者が聞くのでは全然違った解釈になってしまうのでしょう。
提案としては
哲学者の「現象」は「心象」とし
物理学者の「現象」は「事象」とする
という使い分けをしたらどうでしょう。
あくまで日本語の問題ですが。
「心象」「事象」それぞれにも事情はおありでしょうけれど。
交通信号機の青って、緑色ではなく、たまぁに青色に見えることあるんよ。
人間は仏教的には5根から認識が出来るだけで、魂的な不変な実態が無い(諸法無我?)。
なので、人間はお互いの共通認識において客観的事実が必要なんでしょう。
哲学vs物理学の大ゲンカは現象か? 現象という言葉は、そう軽いものではないのだな
物自体には到達できないから現象だけを扱う、それはいいのだがそこから出発して何が言えるようになるのかが問題。
たとえば、3Dスキャナで物体を読み取って、3Dプリンタで出力すると、元の物体と同じような形ができる。オリジナルとコピーでは違うかもしれないが、形という点ではほぼ同じ。これは哲学、物理学のカテゴリーに関わらず、形という実体を普遍的に実現できていること。17世紀の科学革命では、実用的科学を発展させるために商人や貴族が科学者に金を出した。現在でも実用という視点から哲学と物理学を見直すべき。
谷村ノートを読んでいないので真意は解りませんが、谷村さんが「現象は客観的なもの」と言ったというのは意外です。
量子力学は「観測」という概念無しでは成り立たず、その観測は当然、主観的でしょう。そして、主観的な観測によって得られる現象も主観的だと思います。
相対論で考えても、絶対空間・絶対時間は無く、観測者が現象に関わっているので、その現象は主観的と見るべきではないでしょうか。
私は「主観的」を勘違いしている?
それは観測者が主観的なのであって、観測したものは客観的(観測者にみられているので)になります。
私たちは赤色を主観的に観測することができず、あくまで光の反射を見ているにすぎません。
量子力学も量子を客観的にしか観測できないためコペンハーゲン解釈みたいなことになる。
量子の動き(現象)を観測器(量子そのものではない、つまり客観的なもの)で確認することを私たちは観測と呼んでいます。
物理学では観測者ごとに(客観的な)現象の解釈は異なりますが、無矛盾に同意出来るようになってます
分かりやすい例だと、車と新幹線が正面衝突した時に、車の目線では新幹線が車にぶつかっていて、新幹線の目線では車が新幹線にぶつかってきてます。お互いに解釈が違いますが、「ぶつかった」という現象そのものはお互いに同意できます。そしてお互いにとっての現象の見え方の違いは物理学という無矛盾な体系によって説明出来ます。
それは、「主観的」では無いですね。物理に「主観」という概念はありません。
あくまで、観測者の場所(観測条件)が異なっている、として数式上に表されます。
Dragon Night シニフィアン カント 現象学 哲学と物理 箱推し回
話題になってたやつだ
クオリアと(哲学的/主観的)現象って違うの?似た概念なの?
主観と客観は必ずしも一致しないとは限らないと思ってる。そしてやっぱり客体があると自分は信じている。とはいえ主体なくしてそれを受け取ることが出来ないのも感覚的にわかる。まあ主体なくても可能かもしれないという疑いはあってもいいけど。我思う、だけど我ありか我なしかわかんないと。哲学者にも主観派客観派両方居るの知ってるからあまりにもこの物理学者の見識が狭いとは思ったけど(仕方ない)、主観派は確かに説明しないといけないね。あと種の定義のあとわざわざカメの話をしていたけどどっちも同じアナロジーだと思った。同音衝突、同音異義語だし。むしろカメは文脈で区別出来る場合が多そう。色の話はよくあるけどこれは違いがAさんが言う赤とBさんが言う赤が文脈で区別出来にくいこと多いからいい例。ついでに音もそれぞれの個体で聴こえてる音が違うはずなのに絶対音感って言う絶対という言葉が使われてるのあんまよくないですよね。相対音感じゃね?とか思うけど、これはすでにある言葉だし...。絶対とか相対とかいう言葉がちょっと特殊な使われ方しててもうがんじがらめ。名前つけるときどうにかならなかったの?と思ってる。匂い味触感諸々この問題あるだろうけど。最後に気になるのは物理学者はこの回答で満足できるの?ってのが聞きたい。化学畑を出て諸哲学も齧ってる自分からすると学問としてどっちも素朴ながら意義を感じる。諸制度や文明の発展にどちらも貢献してると知ってるから。ただ往々にして所謂理系は哲学を嫌ってる印象がある。哲学側はむしろ他の学問をリスペクトしていると思ってる。そこの溝なんとか埋めてほしい。哲学から他の学問生まれたとかいい気になってマウント取ってる奴はそもそも哲学にわかでしょ。確かにそれはあるかもだけど、科学の発展を待ってからやっと始まる哲学もある。つまり哲学から生まれる学問もあれば、他の学問から生まれてる哲学もある。互いが互いを産みあっている。それに最初の学問ってほんとに哲学なのか?素朴レベルな算数とかもありそうだけど。まあそれはいい。科学哲学少しでも齧ってれば哲学も真理探究に余念がないことはわかる。どうか仲良く殴り合い成長したい。あとやっぱ哲学って人の名前出てくるな〜カントが言ってたとか、誰々が言うにはとか。引用だから当たり前だけど。むしろ名前出さない方が不適切か。
絶対音感は、個々人がこれがCだ、Dだと思う音が過去と現在で一致しているという同一性みたいなものを、絶対的な音感だとしているんじゃないの?
ヘルツが442だろうと、432であろうと絶対音には変わりない
眼鏡丸のほうが似合ってますよ
すれ違いで片付けるなら つまるところ 学問なんてものも 宗教みたいなもんなんだな 神が違うので教義も違うみたいなもんなんだな
哲学における色の話、色盲者がいるのに彼らを話に出さないのはなんなん?そっちの方が近いし分かり易くない?
ぜったいおもしろいやつーー
ねこ カフェ界隈とワーキン界隈
僕は物理の側の人間だけど、哲学やってる人と話したことがあって、どんな目的意識でやってるのか結局最後まで分からなかった
物理をやる人には自然をより深く理解したいっていう動機があるけど、哲学をする人は一体何を知りたいんだ?
5分前仮説やシミュレーション仮説を、現在の科学が取り扱わないのと似てますね。
科学的には、主観だろうが客観だろうが、ある現象を計測した結果と、法則が常に合致するのなら、虚構だろうが歪んだ認識であろうが、どうでも良い事なんでしょう。
物理学では、ものを扱い。
哲学では、精神を扱うからでは?
精神すなわち、思考です。
生命体は思考によって現象化するなんて、考えるなどできません。
考えること、すなわち、現象世界。
順番を別れるとしたら、相当な観察力がないとだめです。
見つけようとしているものは、同じもの。
初めて見たけど、面白そうだけどテロップとかデザインがチカチカしすぎて見れない…もう少し改善してほしい
パトナム回、おねしゃす
23:42 信号の色を 青とか緑というけど 合わせて「青信号」っていう感じ?
25:25 認識の前提が違うってことだよね? 用語の違いって コペルニクス的転回で合ってる?
種の起源が そもそも客観的な共通理解可能性はあっても 絶対的分類があるわけじゃないみたいなのとにてる?
多分日本的にすると、
財政赤字が大変だっていう人と {政府とかメディア}
重税で生活が大変だっていう人 {国民、国民生活}
みたいなもの?
将来世代の負担を減らす方法 {方法論 目的論 ?陰謀論?} {たぶん 功利主義 哲学の数理変換}
税負担率 30% と 50%の 差
1 現役世代が 前世代を介護する 年金制度 {物理学 _ 労働力を農業につかうか 介護に使うか}
1.1 現役世代の労働力を 次世代に使うか 前世代に使うか
1 将来世代を全滅させる 将来世代の負担は存在しない {哲学、数論 存在論}
7:54
哲学『主観的現象を研究するわ』
物理学『じゃーこっちは客観的現象研究するからよろしく』
これでいんじゃないの?どちらの業界のこともしらないけど
この二つの学問は、本質的には同じものでしょう。
人間の脳という 出られない枠組みと認知機能の中で、“なるべく” 客観的に世界を捉える試み。
特に、物理学側が量子力学(観測問題)に到達した以後は。
本質的には、より同じになった。
…逆に、歴史学w 等は、最も遠い領域ですね。
主観的,感情的,受動的,発達障碍者的。
定義によっては学問ですらない。
「あなたが語っている それ は、あなたがニンゲンでなくても そう なのですか?」
という質問に対してNOである分野は、学問 (理,識,知) とは言えない。
(NOであると認められない,はぐらかす場合は、論外。)
…上記、各学問が その定義をきちんと満たしていた場合 の話です。勿論。
哲学 は、才能に左右される側面がある(それこそ物理学もですが)からなのか、哲学専攻を名乗る人物が 全く哲学していない事がある。
ただの、“過去の哲学者に詳しい人” という場合が散見されます。
それは単なる人類史、歴史学です。
霊長類1種が形成した文化の話の1つに過ぎません。
残念過ぎる。
音楽を 作曲 も 演奏 もしないのに、音楽を名乗っている様な体たらくです。