Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
近頃、遺構が発掘された「京都新城」は御所の東南にあったのですが、北政所が亡くなるまで住んでいたと聞きます。
方広寺鐘銘事件から且元追放、牢人衆による京阪の治安悪化は豊臣秀頼側の悪手連打だったよなぁ…
夏の陣の乱取りも豊臣に非があるとききました
1万石で500人というのは結構違う。単純に地域人口が多く、それを可能とする経済力があることを前提とするが人口の5%の動員は無理が無く、短期的には人口の10%の動員が可能となる。
秀頼が時代に即し家康・秀忠に臣従して大阪城から出てたらワンチャン存続あったと思う。
武家ではなく公卿として生き残る道はあったと思う。
毛利輝元は関ヶ原には行っていません。関ヶ原に布陣したのは毛利秀元です。
でも 大阪城に居た なんか 総大将っぽく あくまで ぽくで、秀元は一時は跡目だったチョー親族です
豊臣側が地雷源でタップダンスした上でしっかり起爆させまくってた印象。神君からしたら生かしておきたくても出来なかった
全体的に昭和の歴史観だなぁ…
現代から見れば、既に自分達の一族が天下を取った後なのに、言いがかりをつけてまでわざわざ弱体化した豊臣家を執拗に滅ぼす必要が?と思うが。更に神社まで徹底的に潰すとは非情な……(;=´人`=)
まぁ家康が豊臣を潰したのは主に2つの理由があって、1に徳川将軍による幕藩体制の外にあり続けたこと、2に豊臣家が当時の日本の人口の4割を有し経済の中心地であった畿内に領したことがあります。ぶっちゃけ人口が多い=金で兵として雇用可能な余剰人口が多いという図式が成立しますので、表面上の石高では推し量れない実力を発揮しうる秩序の外の勢力というのは決して見過ごせない存在だったと言えます。おそらくは家康の江戸開府から早期に臣従し、家康が適当とみなす地へ国替えしていれば豊臣は徳川の御連枝もしくは一門として命脈を保ちえたと思うのですよ。
小心者だったんじゃないでしょうか。だからこそ若いときから用心深く行動し、天下も取れたのではと思います。
割と残そうとした側なんだけど秀頼くんは汲んでくれなかったんよなぁ
古代から 新しい権力者はそうなんじゃ無いでしょうかそして 呪封じで新たな神社仏閣を作る
一度敵になった者を残しておくと、増長して後の世の反乱分子になる可能性が高いからですよ。秀吉だって秀次を切腹させた時、女房子供侍女に至るまで関係者は全てこの世から葬り去った。江戸幕府を滅ぼしたのは、関ケ原で敵方だった薩摩藩、長州藩でしょ。過去に受けた恨みは何十年経っても消えないものですよ。
動かなかったのは、吉川広家ですよ。動かないばかりか、とうせんぼして見方の戦力を削いだ。桃配山の後方に布陣したはずだが、布陣図にも居ないね。結果として関ケ原での東軍の勝因は、皮肉な事だが、小早川、吉川といった西軍の大将である毛利の両川の内応に負うところが大きい。正しい歴史解釈と伴に、何が良くて何が失敗だったのか、折角視聴してくださる方々に今を生きるための教訓も与えましょうよ。(大変失礼)
従兄弟の秀元が戦場に出て輝元はずっと大大坂城でしたね
@たっちゃん-j4h 輝元は賢いから、どうやっても街道一の弓取りには勝てんと踏んで大坂を動かんかったんよ。どうやっても勝てんのなら両腕を犠牲にする事を選択し、本体を守ったんやろ。結局は、全て家康の手中で踊らせられたという事なんだが、一度後手に回ったら以降、全て後手後手になるゆう教訓を残してくれたんやね。勝敗は最初の一手で決まるゆう事やな。
吾妻鏡を愛読していた神君家康公なら、、、豊臣を根絶やしにしようと動いたことは理に叶っている。
家康の性格が表れている。
豊臣から徳川への政権交代は余りに唐突すぎたため、人々はついていけなかった様にも思えます。本来秀頼の後見役として政務を任され権力を与えられていた家康に秀頼が臣従する理由はありません。家康は豊臣のために戦をするという体で結果豊臣から政権を奪う事に成功しました。その後の歩みは明らかに確信的で、最終的には恩のある豊臣家を滅ぼすに至ったのです。この欺瞞が狸親子と言われる所以ですね。
でも小田原で秀吉が来てたはっぴをコメントと共に残してなかったっけ?
法被陣羽織のことですか?
家康は最後の幕府、最終的に最後で最長の武家政権を作った。前の二つの幕府はどちらも弱点と矛盾を抱えていた。鎌倉幕府はまず最初の武家政権でありながら成り立ちからおかしな事に源氏の頭領である源頼朝が開いたにも関わらず北条得宗家の私的政権になってしまい朝廷から独立した関東の武士社会を作ろうとしただけなのに承久の乱で朝廷にケンカを売られ元寇で九州の武士も御家人化して計らずも全国政権になった。元々幕府と言う言葉も何々時代という括りも当時には無かった言葉でその時代に生きた人達には馴染みもないし征夷大将軍の意味も江戸とは違っていたろう。次の足利幕府も鎌倉を滅ぼした後に足利氏による情報操作がなされて源氏の血だとか天下の意味が変わってきて戦国の最後の覇者となった家康は先の幕府の弱点や矛盾を調べ尽くしたのだろう。情報統制を徹底する為には先の天下人の信長、秀吉の事績は邪魔なので排除するか悪名を流すことにしたんだと思う。そして自分が死んだ後の機能するシステムを作り上げたそれが徳川300年に繋がって武士の世が続いた訳でこのシステムに齟齬が有ればもっと早くに侍の時代は終わってたかも知れない。
近頃、遺構が発掘された「京都新城」は御所の東南にあったのですが、北政所が亡くなるまで住んでいたと聞きます。
方広寺鐘銘事件から且元追放、牢人衆による京阪の治安悪化は豊臣秀頼側の悪手連打だったよなぁ…
夏の陣の乱取りも豊臣に非があるとききました
1万石で500人というのは結構違う。
単純に地域人口が多く、それを可能とする経済力があることを前提とするが人口の5%の動員は無理が無く、短期的には人口の10%の動員が可能となる。
秀頼が時代に即し家康・秀忠に臣従して大阪城から出てたらワンチャン存続あったと思う。
武家ではなく公卿として生き残る道はあったと思う。
毛利輝元は関ヶ原には行っていません。
関ヶ原に布陣したのは毛利秀元です。
でも 大阪城に居た
なんか 総大将っぽく
あくまで ぽく
で、秀元は一時は跡目だった
チョー親族です
豊臣側が地雷源でタップダンスした上でしっかり起爆させまくってた印象。神君からしたら生かしておきたくても出来なかった
全体的に昭和の歴史観だなぁ…
現代から見れば、既に自分達の一族が天下を取った後なのに、言いがかりをつけてまでわざわざ弱体化した豊臣家を執拗に滅ぼす必要が?と思うが。
更に神社まで徹底的に潰すとは非情な……
(;=´人`=)
まぁ家康が豊臣を潰したのは主に2つの理由があって、1に徳川将軍による幕藩体制の外にあり続けたこと、2に豊臣家が当時の日本の人口の4割を有し経済の中心地であった畿内に領したことがあります。
ぶっちゃけ人口が多い=金で兵として雇用可能な余剰人口が多いという図式が成立しますので、表面上の石高では推し量れない実力を発揮しうる秩序の外の勢力というのは決して見過ごせない存在だったと言えます。
おそらくは家康の江戸開府から早期に臣従し、家康が適当とみなす地へ国替えしていれば豊臣は徳川の御連枝もしくは一門として命脈を保ちえたと思うのですよ。
小心者だったんじゃないでしょうか。だからこそ若いときから用心深く行動し、天下も取れたのではと思います。
割と残そうとした側なんだけど秀頼くんは汲んでくれなかったんよなぁ
古代から 新しい権力者はそうなんじゃ無いでしょうか
そして 呪封じで新たな神社仏閣を作る
一度敵になった者を残しておくと、増長して後の世の反乱分子になる可能性が高いからですよ。秀吉だって秀次を切腹させた時、女房子供侍女に至るまで関係者は全てこの世から葬り去った。江戸幕府を滅ぼしたのは、関ケ原で敵方だった薩摩藩、長州藩でしょ。過去に受けた恨みは何十年経っても消えないものですよ。
動かなかったのは、吉川広家ですよ。動かないばかりか、とうせんぼして見方の戦力を削いだ。桃配山の後方に布陣したはずだが、布陣図にも居ないね。結果として関ケ原での東軍の勝因は、皮肉な事だが、小早川、吉川といった西軍の大将である毛利の両川の内応に負うところが大きい。正しい歴史解釈と伴に、何が良くて何が失敗だったのか、折角視聴してくださる方々に今を生きるための教訓も与えましょうよ。(大変失礼)
従兄弟の秀元が戦場に出て輝元はずっと大大坂城でしたね
@たっちゃん-j4h 輝元は賢いから、どうやっても街道一の弓取りには勝てんと踏んで大坂を動かんかったんよ。どうやっても勝てんのなら両腕を犠牲にする事を選択し、本体を守ったんやろ。結局は、全て家康の手中で踊らせられたという事なんだが、一度後手に回ったら以降、全て後手後手になるゆう教訓を残してくれたんやね。勝敗は最初の一手で決まるゆう事やな。
吾妻鏡を愛読していた神君家康公なら、、、
豊臣を根絶やしにしようと動いたことは理に叶っている。
家康の性格が表れている。
豊臣から徳川への政権交代は余りに唐突すぎたため、人々はついていけなかった様にも思えます。
本来秀頼の後見役として政務を任され権力を与えられていた家康に秀頼が臣従する理由はありません。
家康は豊臣のために戦をするという体で結果豊臣から政権を奪う事に成功しました。
その後の歩みは明らかに確信的で、最終的には恩のある豊臣家を滅ぼすに至ったのです。
この欺瞞が狸親子と言われる所以ですね。
でも小田原で秀吉が来てたはっぴをコメントと共に残してなかったっけ?
法被
陣羽織のことですか?
家康は最後の幕府、最終的に最後で最長の武家政権を作った。前の二つの幕府はどちらも弱点と矛盾を抱えていた。鎌倉幕府はまず最初の武家政権でありながら成り立ちからおかしな事に源氏の頭領である源頼朝が開いたにも関わらず北条得宗家の私的政権になってしまい朝廷から独立した関東の武士社会を作ろうとしただけなのに承久の乱で朝廷にケンカを売られ元寇で九州の武士も御家人化して計らずも全国政権になった。元々幕府と言う言葉も何々時代という括りも当時には無かった言葉でその時代に生きた人達には馴染みもないし征夷大将軍の意味も江戸とは違っていたろう。次の足利幕府も鎌倉を滅ぼした後に足利氏による情報操作がなされて源氏の血だとか天下の意味が変わってきて戦国の最後の覇者となった家康は先の幕府の弱点や矛盾を調べ尽くしたのだろう。情報統制を徹底する為には先の天下人の信長、秀吉の事績は邪魔なので排除するか悪名を流すことにしたんだと思う。そして自分が死んだ後の機能するシステムを作り上げたそれが徳川300年に繋がって武士の世が続いた訳でこのシステムに齟齬が有ればもっと早くに侍の時代は終わってたかも知れない。