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いつも分かりやすい説明有り難う御座います宜しくお願いします。
いつも難しい「信の一念」のお話しを 根拠をもって 分かりやすく説明していただき 誠に ありがとうございます。これからも 是非 宜しくお願いいたします。
渡部先生いつも大切なお話と尊い有り難い説法に心より深く感謝申し上げます。〜捨自帰他、平生業成〜(真剣な求道)それは他力に対する自力の道であったが自力の道を真剣に追い求めた故に他力の道が開けたのである〜一念大利無上なり〜仏縁に感謝しつつこの身が朽ち果てても聴聞に正精進して行きます。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。釈尊出世の本懐の中の本懐〜大無量寿経〜阿弥陀仏の御本願〜一向専念無量寿仏〜信心正因称名報恩〜南無阿弥陀仏〜三戸拝🙏🙏🙏
尊い御説法有難うございました まさに浄土真宗の本道を力強く論理的に説得力をもって話しをされ 感銘しました 親鸞聖人の御心が伝わる御説法 今後もよろしくお願いします
中仏で学んでいたときの真宗学の教科書は、村上速水さんの書かれたものが使われていました。薄い本を、何度も読んだのを思い出しました。
自力からしか他力に入れない。横の線は求める過程。聴から聞。善知識の教導に導かれて、許されて聴く。自力。自力から他力に移る水際。帰命の一念(聞即信の一念)弥陀の本願に疑心あることなしまで聞くと、平生業成(阿弥陀仏に救われる一念=そういうはっきりとした世界がある。平生の一念の時に、自ら求めて努めていたこと自体が、実は、阿弥陀仏の大願業力によって求めさせていたんだということが分かる。南無阿弥陀仏のお働きだと分かる。それが他力の世界。真剣に聞法しなければならない。「たとい大千世界に、みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなうなり」浄土和讃渡部先生、よく分かりました。有難うございます🙏😄
「平生業成」の説明と「横の線」の説明は両立しないと思います。常に今救われる法を聞かせていただくということです。横の線を書いた瞬間に救いに距離が生まれて平生業成の教えでは無くなります。
>と
臨終ギリギリの人に求道などしているヒマはないと思います。短命の根機。
ギリギリまで平常心を保ち、仏道を求められるような人は、臨終のときに阿弥陀様がお供とともにお迎えに来てくださる(迎合)と聞いたことがあります。しかし実際にはそんな事が出来る人などほぼいないでしょう(今まで何をやってきたのかという後悔とこれからどこに行くのかという怖れが交互にやってくると言われています)ですから、元気に生きているうちに信心決定することが大切だと言われているのだと思います。
南無阿弥陀仏m(__)m
いつも分かりやすい説明有り難う御座います宜しくお願いします。
いつも難しい「信の一念」のお話しを 根拠をもって 分かりやすく説明していただき 誠に ありがとうございます。
これからも 是非 宜しくお願いいたします。
渡部先生いつも大切なお話と尊い有り難い説法に心より深く感謝申し上げます。〜捨自帰他、平生業成〜(真剣な求道)それは他力に対する自力の道であったが自力の道を真剣に追い求めた故に他力の道が開けたのである〜一念大利無上なり〜仏縁に感謝しつつこの身が朽ち果てても聴聞に正精進して行きます。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。釈尊出世の本懐の中の本懐〜大無量寿経〜阿弥陀仏の御本願〜一向専念無量寿仏〜信心正因称名報恩〜南無阿弥陀仏〜三戸拝🙏🙏🙏
尊い御説法有難うございました まさに浄土真宗の本道を力強く論理的に説得力をもって話しをされ 感銘しました 親鸞聖人の御心が伝わる御説法 今後もよろしくお願いします
中仏で学んでいたときの真宗学の教科書は、村上速水さんの書かれたものが使われていました。薄い本を、何度も読んだのを思い出しました。
自力からしか他力に入れない。横の線は求める過程。聴から聞。善知識の教導に導かれて、許されて聴く。自力。自力から他力に移る水際。帰命の一念(聞即信の一念)弥陀の本願に疑心あることなしまで聞くと、平生業成(阿弥陀仏に救われる一念=そういうはっきりとした世界がある。平生の一念の時に、自ら求めて努めていたこと自体が、実は、阿弥陀仏の大願業力によって求めさせていたんだということが分かる。南無阿弥陀仏のお働きだと分かる。それが他力の世界。真剣に聞法しなければならない。
「たとい大千世界に、みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなうなり」浄土和讃
渡部先生、よく分かりました。有難うございます🙏😄
「平生業成」の説明と「横の線」の説明は両立しないと思います。常に今救われる法を聞かせていただくということです。横の線を書いた瞬間に救いに距離が生まれて平生業成の教えでは無くなります。
>と
臨終ギリギリの人に求道などしているヒマはないと思います。短命の根機。
ギリギリまで平常心を保ち、仏道を求められるような人は、臨終のときに阿弥陀様がお供とともにお迎えに来てくださる(迎合)と聞いたことがあります。
しかし実際にはそんな事が出来る人などほぼいないでしょう(今まで何をやってきたのかという後悔とこれからどこに行くのかという怖れが交互にやってくると言われています)
ですから、元気に生きているうちに信心決定することが大切だと言われているのだと思います。
南無阿弥陀仏m(__)m