阿波千年物語(45) 誰も知らなかった古代の瀬戸内海航路-神話の神武東征は本当か?
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- Опубликовано: 6 фев 2025
- 日本の古代史を紐解くに当たって、その交通手段、陸路の発達していない時代の海路についてはあまり記録がありません。古代の瀬戸内海の航行状況も、記紀に具体的な記述があまりなく、どういう人達がどんな船でどのように航行していたかはほとんどわからない状況です。
ただ、現場の海流の流れとか各海域の物理的状況は現在も基本的には二千前も大きな違いはないと思われる為、各地の漁業協同組合や埋蔵文化センター等にヒアリングしてみました。
また、瀬戸内海に関する各種研究論文等も色々調べてみましたが、それらの解析によりかなり見えてきた部分があります。
今回はまず記紀の神武東征の前半の九州遠征の部分から検証してみようと思います。
BGM: BGM:燦々雨 ゆうり(DOVA-SYNDROME)
取材協力機関(ヒアリング)
愛媛県埋蔵文化財センター(愛媛県松山市)
村上海賊ミュージアム (愛媛県今治市)
長門の造船歴史館 (広島県倉橋町)
さとうみ科学館 (広島県江田島市)
蘭島文化振興財団 (広島県呉市)
朝鮮通信使記念庭園 (広島県呉市)
岡山県古代吉備文化財センター(岡山市)
高松市埋蔵文化センター(香川県高松市)
高松市歴史資料館 (香川県高松市)
日本船舶海洋工学会関西支部(大阪府吹田市)
水都大阪コンソーシアム (大阪府)
大阪市教育委員会 (大阪市)
奈良橿原考古学研究所 (奈良県橿原市)
明石浦漁業協同組合 (兵庫県明石市)
鳴門町漁業協同組合 (徳島県鳴門市)
日本海学推進機構 (富山県富山市)
淡路市教育委員会 (兵庫県淡路市)
北淡歴史民俗資料館 (兵庫県淡路市)
明石私立文科博物館 (兵庫県明石市)
神戸海上保安庁総務課 (兵庫県神戸市)
日本海事史学会 (東京都中央区)
参考論文、資料、書籍
『今治平野と芸予諸島の遺跡からみえてきた人々の交流・航路・船』2024
愛媛県埋蔵文化財センター
「古代難波地域における開発の諸様相」 佐藤 隆 大阪歴史博物館 研究紀要2019-17
「古墳時代の瀬戸内海航路と兵庫県内の祭祀遺跡」大平 茂 2021
兵庫県立考古博物館 研究紀要 第14号
「集落遺跡からみた古墳時代前期社会の研究」―近畿における広域流通の視点から―
山田 隆一 2019関西大学学位論文
「日本海で交錯する南と北の伝統造船技術」 赤羽 正春 2011
神奈川大学国際常民文化研究機構年報
「丸木船から和船、機帆船へ」―日本の船の歩み― 野本 謙作 1992 関西造船協会
「ミニ内航海運史 Ⅱ 飛鳥・奈良時代」 全国海運組合連合会
「倉橋の歴史」(古代編) 広島県呉市倉橋町
「古代吉備の謎に迫る!」 岡山県古代吉備文化センター
参考書籍
「日本古代文化の研究「船」」 大林 太良 1975 社会思想社
「よみがえる古代船と5世紀の大阪」大阪市教育委員会 1989
「大和朝廷は古代の水軍がつくった!」武光 誠 1992 JICC出版局
「日本神話の考古学」 森 浩一 1993 朝日新聞社
「難波宮と難波津の研究」 直木 孝次郎1994 吉川弘文館
「古代史謎解き紀行IV」(瀬戸内編) 関 裕二 2007 ポプラ社
「古代史の謎は「鉄」で解ける。」 長野 正孝 2015 PHP新書
「古代史の謎は「海路」で解ける。」 長野 正孝 2016 PHP新書
「地形と水路で読み解く!新しい日本史」竹村 公太郎 2019宝島社新書
「淡路の神話と海人族」 岡本 稔、武田 信一 1987 Books成錦堂
他多数
興味深く拝見しました。次回が楽しみです。
具体的に考えるというのは大事ですね。東征神話が如何に荒唐無稽であるか理解できました。
東征があったとしても四国内または四国と大和の間の話と考えるのが妥当なようですね。😅
うわ、懐かしの吉野川河口だ
卑弥呼が亡くなったのは紀元後247年です。卑弥呼が天照大御神として、子孫である神武天皇が東征したとしても300年頃と考えられています。東征らしきことは、阿波内で起きたことです。
ですから、九州からの東征は架空のことです。
台は万葉仮名でトと発音します。誤った発音が定着していますが邪馬台はヤマトと読みます。つまり神武の話は卑弥呼より前となります。
@ 邪馬台国は、弥生時代の2〜3世紀に存在しました。それは魏志倭人伝に記されており、卑弥呼が治めていたことで知られています。
また、卑弥呼と天照大御神は同じ人物であるという説が有力です。したがって、どういうことかお分かりですね。
@@iriyaanko4783 ちなみに、邪馬台国は【邪馬臺国】であり、ヤマトコクと読みます。
読みと神武と、どのような関係があるのか、さっぱりわかりません。
@@レブル1号 先代旧事本紀などにも「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」と明記されているようです。
osanpo.yokohama/yaoyorozu.php?target=%E5%A4%A9%E7%85%A7%E5%9B%BD%E7%85%A7%E5%BD%A6%E5%A4%A9%E7%81%AB%E6%98%8E%E6%AB%9B%E7%8E%89%E9%A5%92%E9%80%9F%E6%97%A5%E5%B0%8A
時系列的に、神武が前で卑弥呼が後。
学校教科書で教える時系列は、戦後学者の捏造。歴史歪曲。ダマされちゃダメだよ。
歴史家の方は漢文を正しくよめず、自説に合わせて読みたいように読むケースが多いようです。神武東征ルートについても同様です。
福永先生の説をご紹介します。通説をひっくり返すものですが、私が知る限り史書や伝承をもっとも正しく読んでいるように思います。
ruclips.net/video/Laez1qK86zs/видео.html
私も、神武東征に関しては???です。
神武天皇の時代は、紀元前後と考えてます。
漢委奴国王印は、後に神武天皇と言われている大王に送ったものと考えます。
朝貢のために北部九州まで、阿波の日向(阿南市)から出向いて行ったのでしょう。
初めて、中国王朝に朝貢をして、倭国の存在を認知してもらった時の大王を、初代天皇とした、というのが記紀編纂時の共通認識にしたのではないかと思います。
瀬戸内海の、航行については、満潮干潮に伴う潮の流れを利用すれば、スムーズに移動ができます、もちろん、冬場の瀬戸内はそれなりに荒れますが。
丸木舟しか無かったとは思えません、当時の人は、もっと進んだ航海技術を持っていたと思います。
神武東征が紀元前667年なのでその頃は丸木舟しかなかった、ということです。紀元200年頃なら準構造船がありました。
古代の瀬戸内海航路は難所だらけで、風があってもスイスイとは航行できません。
まず5000人規模の移動ですが船より陸地移動を行ったと考える方が自然じゃない?
あと瀬戸内海は荒波で。。。との考えも瀬戸内海で潮流の激しいのは四国の西側と東側だけで内海は穏やかな波が多く潮流を利用すれば時速5km/h以上の平均時速は得られるよね。
推測だけれど神武東征は九州からじゃなく奈良県方面へその近辺から船を使わないといけない地域。。四国近辺から→大阪→奈良(戦に負ける)→海路で和歌山→三重→奈良で侵入し闘い東征を果たした。が、自然と感じないかな?部隊も約数百人が行動最大値だと思う。
玄海灘って九州と対馬間の海域だから遣唐使船って関係ないのでは?
それでは、遣唐使船の北路ルートというのはどういうルートだったのでしゃうか?ご教示ください。
確かに古事記を読む限り、彼らに実戦経験はないし、土地は米も作れない不毛の土地、九州の他部族に見捨てられた土地、先進地域は北九州や大和。
古代人の造船技術、航海技術を低く見積もりすぎてると思うよ。
縄文前期には既に、縄文人が太平洋を横断して中南米まで渡ってるんだから。
太平洋なんて、幕末の咸臨丸でさえ片道40日以上かかって渡ってるから、漂流漂着なんてもので偶然あちらにたどり着いたなんてことは絶対にあり得ない。
天文学海洋学を知り大型構造船を造り、数ヶ月分の水や食糧を積んで確信的に渡航してる。
中南米だけじゃないよ。縄文人ないし他地域の海洋民族が、世界を股にかけて移動していたらしき痕跡がある。
神武時代の造船技術や航海術も、想像よりもっと進んでいたと思うよ。記紀神話の神々の行動範囲、結構広いし。
むしろ遣隋使遣唐使時代の造船技術や航海術は、太古より後退してたかも。
それから上古天皇の時代は、春秋暦(二倍年暦)ね。だから一見、寿命が長いと勘違いされてるだけ。