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両陣地そんなに距離ないのに、こんなに大きな争いになるなんてすごいな
応仁の乱は将軍の家督争いが原因というが。実際は、より複雑で、三菅領の畠山氏内部の対立とそれに肩入れしている大名同士の対立また、幕府内部の側近勢力と守護大名の対立さらに細川家と山名家など有力守護大名家の対立それに細川家と大内氏の日明貿易の権益をめぐる争いとかいくつもの対立が複雑に絡み合って生じたものだから戦乱に参戦した張本人たちも、何故、乱が起きたか正直なところわかってなかったようなところがあるな
兵士の数は盛り過ぎだよね。一万ずつくらいだろう。
@@gionsyouji5831 確かにかなり盛っているようだが一万というのはなかろう
花の御所に10万とか無理。せいぜい一万がいいところ。その前の畠山同士の戦いでは戦死数十人と動画にあった。数百ということはないだろうが、せいぜい2〜3千人。京都市内はそんなに広くない。
花の乱さわやかな萬斎さんの勝元渋すぎる錦之介さんの宗全再放送見たいわ
やはりここが細川系兆家の最盛期ですね!義晴ら辺の戦国時代では、晴元の政治を三好長慶などの三好家に牛耳られていましたよね。
バックミュージックの「日の丸の旗」がいいですね。最初何の唄だか思い出せなくて、ググって思い出しましたw 懐かしい唄
BGMカッコ良かったです!
めちゃくちゃ面白い動画
ほんとこの頃の日本って今の価値観では、全然理解出来ない位に面子が命だよね・・・。細川方も市民の「うわ~w細川援軍送らないとかひでぇ~w」の声で面子を気にして激怒とか凄い。ルールを守ろうが破ろうが最終的に一族の面子が兎に角大事。
この頃から徴兵とか志願兵な所謂雑兵が使われた始めたのは有名だけど、戦いが激化する毎に東軍も西軍もその辺のごろつきとか、終いには盗賊すら兵士として使い始めてそれも京都が荒廃する大きな要因だったらしい。
「もし」があるとしたら上御霊戦の直後だったかも。ここで山名が細川と手打ちすれば、グダグダ展開は避けられたよう。もとは山名側の協定違反だから戦後処理にあたり原状回復での妥協が求められるが、それを嫌ったのかもしれないね。結果的に内輪の揉め事に「外野」の参入、入京を許した。←これがおそらく被害拡大の原因。
応仁の乱の間に何度も幕府からの停戦命令や東軍と西軍の双方からの手打ちの話があったのだが双方の対立が複雑に絡み合っていただけに、なかなか終わりには出来なかったのよ
京都にある石碑、例えば10:34、10:42などの石碑の所在一覧みたいなのは無いのかな。意外なところにあるのを見つける発見は嬉しいんだけど、やっぱり事前に知りたい。
僕も家に帰ってきてから「あそこ撮り忘れた!」とかあります笑一覧があれば僕も助かりますが見かけたことはありません似たような物で良ければ「京都・観光文化検定試験公式テキストブック」を僕は使っています参考になれば幸いです
@@Y_Eschool ありがとうございます。遠隔地に行ったときにそれを知るとがっかり来ますよねw
御台さまのご登場は次の動画でしょうか^^
8:20 義視で合ってますか?教科書が間違ってるぽいけど 名前が似ててややこしいですね
力のある大名が多すぎた結果争いがしたいだけの薄い大義名分が時代を混沌にしてゆく
細川氏とタメ張れてた山名氏って戦国以降実質的に消えたよね...明治にかろうじて男爵になってる系統もあるけど。帰農した系統があったって事は庄屋として存続してるのもあるのかも。
これほんとにこんな狭い場所に11万と16万が集まって戦ったとはおもえない、一万対2万とかなら現実味あるけど
上御霊神社の戦いの時の年号は文正
こんな街中でバンバン戦争するのは世界的に見ても珍しいのでは?
応仁の乱で初めて足軽が用いられたがどうも罪人とかならず者を使ったようだな戦場では役だったかも知れないが、練度が極めて悪い兵士と言うしかなく戦乱の中で略奪などに走ったことも推測される。応仁の乱をより酷いものにしたのだろうな
おそらく応仁の乱は山名宗全率いる西軍と細川勝元率いる東軍が京の町で激突して激しく戦闘を行い、寺や家が多く燃やされた、まさにアフガニスタンやシリア、イエメン、そしてイスラエルみたいじゃ(22個目、8月13日02:02)
ちなみに伊勢の世保政康はもともとは土岐の一族です。
大内政弘は本郷猛
もうすぐ戦国だ。
京都でやんなよ〜(京都住民の本音)
日野てる子が原因😱か?
両陣地そんなに距離ないのに、こんなに大きな争いになるなんてすごいな
応仁の乱は将軍の家督争いが原因というが。
実際は、より複雑で、三菅領の畠山氏内部の対立とそれに肩入れしている大名同士の対立
また、幕府内部の側近勢力と守護大名の対立
さらに細川家と山名家など有力守護大名家の対立
それに細川家と大内氏の日明貿易の権益をめぐる争いとか
いくつもの対立が複雑に絡み合って生じたものだから
戦乱に参戦した張本人たちも、何故、乱が起きたか
正直なところわかってなかったようなところがあるな
兵士の数は盛り過ぎだよね。
一万ずつくらいだろう。
@@gionsyouji5831
確かにかなり盛っているようだが
一万というのはなかろう
花の御所に10万とか無理。
せいぜい一万がいいところ。
その前の畠山同士の戦いでは戦死数十人と動画にあった。
数百ということはないだろうが、せいぜい2〜3千人。
京都市内はそんなに広くない。
花の乱
さわやかな萬斎さんの勝元
渋すぎる錦之介さんの宗全
再放送見たいわ
やはりここが細川系兆家の最盛期ですね!義晴ら辺の戦国時代では、晴元の政治を三好長慶などの三好家に牛耳られていましたよね。
バックミュージックの「日の丸の旗」がいいですね。
最初何の唄だか思い出せなくて、ググって思い出しましたw 懐かしい唄
BGMカッコ良かったです!
めちゃくちゃ面白い動画
ほんとこの頃の日本って今の価値観では、全然理解出来ない位に面子が命だよね・・・。
細川方も市民の「うわ~w細川援軍送らないとかひでぇ~w」の声で
面子を気にして激怒とか凄い。
ルールを守ろうが破ろうが最終的に一族の面子が兎に角大事。
この頃から徴兵とか志願兵な所謂雑兵が使われた始めたのは有名だけど、戦いが激化する毎に
東軍も西軍もその辺のごろつきとか、終いには盗賊すら兵士として使い始めてそれも
京都が荒廃する大きな要因だったらしい。
「もし」があるとしたら上御霊戦の直後だったかも。ここで山名が細川と手打ちすれば、グダグダ展開は避けられたよう。もとは山名側の協定違反だから戦後処理にあたり原状回復での妥協が求められるが、それを嫌ったのかもしれないね。結果的に内輪の揉め事に「外野」の参入、入京を許した。←これがおそらく被害拡大の原因。
応仁の乱の間に何度も幕府からの停戦命令や東軍と西軍の双方からの手打ちの話があったのだが
双方の対立が複雑に絡み合っていただけに、なかなか終わりには出来なかったのよ
京都にある石碑、例えば10:34、10:42などの石碑の所在一覧みたいなのは無いのかな。
意外なところにあるのを見つける発見は嬉しいんだけど、やっぱり事前に知りたい。
僕も家に帰ってきてから
「あそこ撮り忘れた!」とかあります笑
一覧があれば僕も助かりますが見かけたことはありません
似たような物で良ければ「京都・観光文化検定試験公式テキストブック」を僕は使っています
参考になれば幸いです
@@Y_Eschool
ありがとうございます。遠隔地に行ったときにそれを知るとがっかり来ますよねw
御台さまのご登場は次の動画でしょうか^^
8:20 義視で合ってますか?
教科書が間違ってるぽいけど 名前が似ててややこしいですね
力のある大名が多すぎた
結果争いがしたいだけの薄い大義名分が時代を混沌にしてゆく
細川氏とタメ張れてた山名氏って戦国以降実質的に消えたよね...明治にかろうじて男爵になってる系統もあるけど。
帰農した系統があったって事は庄屋として存続してるのもあるのかも。
これほんとにこんな狭い場所に11万と16万が集まって戦ったとはおもえない、一万対2万とかなら現実味あるけど
上御霊神社の戦いの時の年号は文正
こんな街中でバンバン戦争するのは世界的に見ても珍しいのでは?
応仁の乱で初めて足軽が用いられたが
どうも罪人とかならず者を使ったようだな
戦場では役だったかも知れないが、練度が極めて悪い兵士と言うしかなく
戦乱の中で略奪などに走ったことも推測される。応仁の乱をより酷いものにしたのだろうな
おそらく応仁の乱は山名宗全率いる西軍と細川勝元率いる東軍が京の町で激突して激しく戦闘を行い、寺や家が多く燃やされた、まさにアフガニスタンやシリア、イエメン、そしてイスラエルみたいじゃ(22個目、8月13日02:02)
ちなみに伊勢の世保政康はもともとは土岐の一族です。
大内政弘は本郷猛
もうすぐ戦国だ。
京都でやんなよ〜(京都住民の本音)
日野てる子が原因😱か?