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辞世の句1人ずつ味わいありますね〜🙏🙇
それぞれの個性があって味わい深いですね。
大石神社、泉岳寺、もう一度行きたくなりました。ありがとうございます。
コメントありがとうございます。喜んで頂けて光栄です。義士たちの生き方や当時の幕府の政治的対応も興味深いです。フィクションの部分も多く、どこまでが史実か分からないことも多いのですが、それが昔の人々の思いを乗せていて、更にこのお話を面白くしている気がします。大石内蔵助の幕府を向こうに回しての仇討ちは、いつ見ても胸のすく思いがします。ところで、義士の寺と言えば、大阪の吉祥寺も有名ですね。また、討ち入りをした吉良邸跡も一部ですが残っています。
赤穂浪士の事件が、よくわかりました。音読してくれる人が、うまいのでよくわかりました。
お褒めの言葉ありがとうございます。まだまだ試行錯誤ですが、より良いものを作っていきたいと思っています。「赤穂浪士」を知らない若い人も増えてきたので、多くの人に知ってもらえるきっかけとなると嬉しいです。
とても参考になります♪
コメントをありがとうございます!参考になると言っていただけて嬉しいです。これからもいろんな短歌と歴史の動画をアップしますのでよろしくお願いします。
大石内蔵助の「極楽〜」は他の義士も詠んでるみたいだね。本当はどうなんだろ?まぁ、例え後世で誰かが作った創作の句だとしても「阿弥陀をそへて四十八人」その意味を知って痺れた。辞世の句など興味なかった俺が唯一惚れた句です。
大石の辞世「極楽の道は一すじ 君と共に阿弥陀をそへて四十八人」は、息子の大石主税の辞世だったとか、後世の誰かが作ったものだとかあるようですね。源実朝の歌、「武士の矢並つくろふ小手のうへに あられたはしる那須のしの原」を辞世のかわりにしたとか、義士も四十七人か四十八人かなどの説もあるようで、相撲の「四十八手」とか「いろは四十八」とか、数の多いことを言っただけ説や語呂がいいとか怪しい説もあるようです。しかし、武士道を貫く鏡の辞世としては、「阿弥陀をそへて四十八人」であって欲しいものだと思います。
@@tankaichigoichie 義士は討ち入り前に1人抜けています。ドラマでも大石の命なのか義士全員の気遣いか、その方の脱退を認めていますね。故に四十八人目を主君浅野内匠頭として極楽へ向かうと…何か…辞世の句というよりは普通にいい話。
辞世、存じ上げませんでした。
コメントありがとうございます。それぞれに生きた証として、なるほどと感心させられる辞世を残されています。短い言葉ですが、最後の言葉は本当に重みがありますね。
※忠臣蔵の真相は人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」に暗号として隠されている。その暗号を解いてみよう。 「仮名手本忠臣蔵」というのは寛延元年大阪道頓堀の竹本座で上演された人形浄瑠璃で幕府の目を誤魔化す為に人物名を太平記に登場する人物に替えている。作者は霊感にたけた人で忠臣蔵の事件は怨霊が起こした事件だと看破している。赤穂浪士は南北朝時代の後醍醐天皇方であり、吉良側は足利尊氏方である。犬を溺愛した北条高時は犬公方徳川綱吉に生まれ変わり、天皇に忠誠を尽くした楠木正成は、主君に忠誠を尽くし敵討ちをなしとげた大石内蔵助に、後醍醐天皇の最大の敵となった足利尊氏は朝廷工作して野心を燃やした吉良上野介に生まれ変わっていると分かります。後醍醐天皇方と足利尊氏が北条高時を滅ぼした事が仇となって今度は反対に綱吉によって仇を取られ、赤穂浪士と先祖が足利氏の吉良上野介殺される事になったのです。 大石内蔵助をを大星由良之介で示しているのだが名前が暗号になっている。大星は天皇の暗示であり、大石内蔵助は明智光秀の血筋を受けた家綱の嫡男と解釈できるのです。 大石内蔵助は大星由良之介、吉良方梶川与惣兵衛は加古川本蔵で表現されている。両名の由良は由良川、加古川は加古川で京都の福知山を挟んで両方の川が綱引きしている形に見える。由良川の源には春日局の生誕地春日町があり、加古川の源には足利の飛び領地丹波篠村がある。将軍の継承争いを春日局側と足利側柳沢吉保が行い、権謀術数で足利側が勝ち、足利系の綱吉を家光の四男と偽って5代将軍にすえた。吉保は浅野家に家綱の嫡男が隠れていることを突き止め、浅野家を取り潰してから家綱の嫡男を暗殺し、合わせて邪魔な吉良上野介を消す陰謀を企てて、上野介に内匠頭を挑発して喧嘩するよう命じた。内匠頭と上野介は口喧嘩していただけで刃傷には及んでいないのである。内匠頭は刃傷事件を起こすと重罪になることをわきまえていた。それが上野介の演技で刃傷事件にでっち上げられたのである。 浅野内匠頭が死ぬ前に読んだ和歌いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせすこの最後の語を読むと とかなくてしすとなる。つまり、浅野内匠頭は刃傷事件を起こしていない。無実の罪で死んだと分かる。
※歴史の真実は私だけが知っている。私は数々の歴史の謎を解いて来た、名探偵明智天心である。君達は智恵が足りないなあ。織田家は信長を殺されても跡継ぎの信忠がいれば盤石なのである。信忠は安土城にいた筈なのになぜ、誠仁親王に献上された二条御所にいて殺されたのか。二条城(義昭御所)は二条通り沿いにあるが、この二条御所は二条通りに面していない。つまり、この二条御所は虚構である。秀吉によって条里が変えられた。即ち、信長が殺されたのは本能寺ではなく、二条城である。その犯行現場を隠蔽し、架空の二条御所で信忠が殺された事にして天下を盗んだのは大盗賊・豊臣秀吉である。 義龍の肖像が熊のような不細工にされているのはおかしい。土岐頼芸と三芳野との美男美女の間に出来た子は美男子になる筈である。光秀が幕臣になれたのは彼の生まれが由緒正しい事を物語っている。彼は清和源氏の土岐氏であり、分家の明智氏は虚構である。 本能寺の変の信長殺しは秀吉・家康の共謀の仕業であり、明智光秀は濡れ衣である。光秀がやったのなら信長の遺骸を行方不明にするなどのヘマはしない。もしこの謀反を行ったのならば光秀が天下を取った筈である。信長と信忠の首を晒して天下取りを宣言して友軍や有力豪族を味方に付ければ、軍師光秀が天王山の戦いで豊臣秀吉に負ける筈がないのである。童謡のずいずいずっころばしの歌に信長殺しの真犯人が暗示されている。井戸の周りでお茶碗欠いたのだあれ→茶室で利休を切腹の芝居をさせたのはだあれ。茶碗は利休の暗号、お茶碗を割ったのなら切腹であり、欠いたのは切腹の芝居である。これによって、利休切腹の謎が解け、南光坊天海の正体が光秀だから、彼のめい(春日局)が権力者となる事が出来たのである。日光東照宮の陽明門の随身が左が若い武士であり、右が年寄りなのは光秀が生き延びて利休、天海僧正になったと言う暗示である。武士と老人の袴に桔梗の家紋が入っている。つまり、両方とも明智光秀を表わしている。明智光秀の出自が幾説もあって不明なのは、正体が分かると信長殺しのカラクリがばれるからである。明智光秀の正体は斉藤義龍であり、古田織部の正体は斉藤龍興である。光秀は土岐頼芸のご落胤であり、天皇家の血筋であるから足利義昭の幕臣になれたのである。秀吉も家康も天皇家の祟りを恐れて光秀を殺す事が出来なかった。美濃8代守護・土岐成頼は丹後から逃れてきた一色兵部少輔義遠の子である。彼は聖徳太子の直系の子孫である。義龍が一色大夫義龍と名乗ったのはその由来からである。谷汲村岐礼にある土岐頼芸の墓の家紋は二引き両であるこれは一色家の家紋で土岐家は桔梗紋の裏に二引き両紋を使っていた。天海は川越市に喜多院を創建したがその寺の家紋は同じく二引き両である。これは天海が土岐頼芸のご落胤だと言う宣言である。古田織部の正体が斉藤龍興だと言う根拠は古田織部も家康から切腹を命じられて柳生宗矩に化けた事と織部の灯篭が龍を形取っているからである。龍興は辰年生まれである。古田重勝と古田織部は本巣市山口に生まれ、同時期に同じ官位を受けている。両者は同一人物である。秀吉は重勝に朝鮮役の軍功で唐人笠三の家紋を与えた。柳生家の家紋が二階笠なのはその由来からである。 織田信秀(信長の父)は幾度となく美濃攻略を試みたがすべて失敗した。それは美濃兵が強兵で、尾張兵が弱兵だからである。それは信長に代わっても同じである。信長が難攻不落の稲葉山城を落とせたのは竹中半兵衛と西美濃三人衆の稲葉良通、安藤守就、氏家直元が裏切ったからである。秀吉がこの調略を行った。この功績で出世出来た。織田信長が天下を取れたのは軍師・明智光秀と最強兵の美濃兵を獲得出来たからである。長槍と鉄砲を導入させたのは光秀である。美濃の古老の言い伝えに、美濃を制する者は天下を制するとある。関ヶ原の戦いを指揮したのは南光坊天海(光秀)で、小早川秀秋の裏切りをお福(春日局)の前夫の稲葉正成にやらせた。正成は関ヶ原の戦いにおいて、平岡頼勝と共に主君・秀秋を説得して小早川軍を東軍に寝返らせ、徳川家康を勝利に導いた功労者であった。光秀は千利休として秀吉を、天海として家康を支えたブレインである。濃尾平野は穀倉地帯であり、美濃人の気質は温厚篤実で信義を重んじて忠誠を尽くす。主君を天皇として崇めれば最強の軍団となる。信長の首は静岡県にある西山本門寺の首塚に眠っている。つまり、徳川家康が信長の祟りを恐れて怨霊封じを行っていた。秀吉は安土城の信長公廟所で結界を結んで怨霊封じをしている。つまり、信長殺しは秀吉と家康である。二人は信長の血を入れる事で怨霊を慰めている。信長の妹・市の娘の茶々を側室にして、秀忠の正室にしている。怨霊は自分の子孫には祟れない。 眠り猫の彫刻で寅年の家康が猫に化けて寝ていると言うのは、死んでいたと言う暗号である。徳川家康は三方ケ原の戦いで武田信玄に惨敗した時に殺されて、山本勘助が家康にすり替わった。その証拠が久能山東照宮に隠されている。本殿の壁に武田家の家紋の花菱が描かれている。偽物の家康だから、その裏で徳川幕府の実権を握ったのが天海僧正(明智光秀)と春日局(光秀のめい・お福)である。その暗号が眠り猫の裏に雀が二羽羽ばたいている。酉年の二人が実権を握ったから、二人の間に出来た子・家光を三代将軍にする事が出来たのである。 日光東照宮の馬厩舎の三猿は信長殺しの秘密の陰謀を暗号に託して表現されている。 左から1番目のものは母猿が小猿に教えています。よく目を凝らして御覧なさい。 2番目のものはここには見ても、言っても、聞いてもいけない秘密が隠されています。 3番目のものは目鼻が縮んだような顔の猿(はげねずみのあだ名の秀吉に特定)が何か悪巧みをしています。悪巧みは手の長い事で表現しています。 4番目のものは一匹の猿が仰向けに後ろへ倒れる様に木から落ちようとしています。これは異常な姿です。これは暗殺の暗号に違いありません。この猿は信長で隣で無関心でいるのは光秀だと思われる。 5番目のものは下を覗いている猿は光秀と思われる。光秀は中国征伐の命令を受けて出陣して来たが、突然の中止命令を受けて事情を聞こうと安土城へ向かったが瀬田橋が落とされていた。信長誅殺の噂を聞いて事情を探っていた。その様子を描いている。その横に寄り添っている猿は秀吉である。彼は全てを知っていた。別の場所で手を長くして悪巧みしているのは家康で秀吉の天下を奪おう計略を考案している。 6番目のものは木にぶら下がっている猿は秀吉で死にかけている。隣で胡坐をかいている猿は家康で死ぬのをじっくり待っている。 7番目のものは人生の荒波にもまれて苦しんでいるお福を助けようとしている光秀。天下を奪取する悪巧みを考案している。 8番目のものは妊娠している猿(お福)が描かれている。その意味するところは光秀(天海に化けた)とお福との間に出来た子を秀忠の嫡男とすり替えて、三代将軍にすると言う陰謀である。 偉大な霊能者の出口王仁三郎氏も千利休は明智光秀だと言ってるし、私の結論も同じである。だいたい、信長が秀吉の応援要請で中国征伐に向かう為に京都に来ているのに公家を招いてお茶会などする筈がないし、出陣命令は明智光秀だけではなしに筒井順慶、細川藤孝にも出されている。順慶は信長が中国出陣の中止命令を出して安土へ帰ったとの書状を受け取っている。何者かの陰謀があったのである。信長が無防備な本能寺に泊まる訳がなく、二条城に泊まった筈である。歴史書では燃えた事にされている。掘秀政が裏切って大手門を開いて秀吉軍(周山城に隠れていた)を引き入れて信長が殺され、安土城にいた信忠は内通者が大手門を開いて家康軍を引き入れて信忠が殺されたと推測される。安土古城図に大手門沿いに秀吉、家康の屋敷が描かれている。これは信長殺しの犯人を教えている。秀吉の中国大返し、家康の伊賀越えの下手な作り話は底が割れている。 高野山の明智光秀の墓石の台座が割れている。光秀が信長殺しの汚名を着せられて、その怨念が割ったのである。
大石主税の句、わかるぅ
大石良雄と書いて(おおいしよしたか)と読みます。
コメントありがとうございます。ご指摘の通り、本名は「よしたか」でした。以前は、お正月と言えば「忠臣蔵」でしたが、最近は見かける機会も減りました。毎年、楽しみにしていたのに残念です。またどこかの機会で、赤穂義士たちのことを取り上げたいと思います。それまでには、しっかりと取材してきます。また、よろしくお願いします。
大石良雄は、父・良昭が34歳の若さで亡くなったため、祖父・良欽(よしたか)が、養嗣子に迎えたそうです。祖父も赤穂浅野家筆頭家老でした。尊敬する祖父の名をもらい、「よしたか」と名乗るようになったということです。
赤穂四十七義士(忠臣蔵)たち~辞世の句と和歌~の紹介はすばらしいです。しかし赤穂四十七義士(忠臣蔵)の真実の歴史は小名木善幸氏の説が一番納得がいきます。 ruclips.net/video/-H07_W1MCOg/видео.html
コメントありがとうございます。RUclipsでは有名な方のようですね。あまりよく知りませんでした。拝見したいと思います。
小名木先生の説も素晴らしですが、浅野内匠頭が刃傷事件を起こす前に、やむにやまれぬ経緯を残してくれていたならと思います。よって私は内匠頭に問題があった(精神分裂病?)と勝手に思っております。@@tankaichigoichie
本来なら家臣たちのことを思い、立ち止まってくれていればとも思いますが、どうだったのでしょう。もしかするとその可能性も大いにありますね。歴史の謎ですが・・・。
切腹と言いながら、実質打首と変わらないような気がします。腹を切るのは形だけ。後には小刀の代わりに扇子を使った「扇子腹」というのがあったみたいですね。
切腹という武士としての名誉は保つことが出来たので良かった、といったところでしょうか。大石良雄ら17名が切腹した細川家の細川綱利は「彼らは細川家の守り神である」として、義士の墓や供養塔を建てたそうなので、待遇としては厚遇でした。しかし、この方法しかなかったのかと思うと残念です。彼らの死があったからこそ後世にまで残る美談となったという向きもありますが・・・。
辞世の句
コメントをありがとうございます。今回は忠臣蔵の辞世の句と辞世の和歌をとりあげてみました。これからもお楽しみくださいね!
浅野内匠頭の辞世の句は後世の創作らしいね。
残念ながら、歌舞伎などの人気もあってどこかで作られたという説が強いようです。浅野内匠頭の切腹を取り仕切った旧一関藩の藩主・田村家にも記録がなく、真実は???他の人の辞世も後世の手が入った可能性があります。大河ドラマのように虚構の世界なのかもしれません。物語として面白い方、納得が出来る方を、人々が望んだためとも考えられますね。
辞世の句1人ずつ味わいありますね〜🙏🙇
それぞれの個性があって味わい深いですね。
大石神社、泉岳寺、もう一度行きたくなりました。ありがとうございます。
コメントありがとうございます。
喜んで頂けて光栄です。
義士たちの生き方や当時の幕府の政治的対応も興味深いです。フィクションの部分も多く、どこまでが史実か分からないことも多いのですが、それが昔の人々の思いを乗せていて、更にこのお話を面白くしている気がします。
大石内蔵助の幕府を向こうに回しての仇討ちは、いつ見ても胸のすく思いがします。
ところで、義士の寺と言えば、大阪の吉祥寺も有名ですね。
また、討ち入りをした吉良邸跡も一部ですが残っています。
赤穂浪士の事件が、よくわかりました。音読してくれる人が、うまいのでよくわかりました。
お褒めの言葉ありがとうございます。
まだまだ試行錯誤ですが、より良いものを作っていきたいと思っています。
「赤穂浪士」を知らない若い人も増えてきたので、多くの人に知ってもらえるきっかけとなると嬉しいです。
とても参考になります♪
コメントをありがとうございます!
参考になると言っていただけて嬉しいです。
これからもいろんな短歌と歴史の動画をアップしますので
よろしくお願いします。
大石内蔵助の「極楽〜」は他の義士も詠んでるみたいだね。本当はどうなんだろ?
まぁ、例え後世で誰かが作った創作の句だとしても「阿弥陀をそへて四十八人」その意味を知って痺れた。
辞世の句など興味なかった俺が唯一惚れた句です。
大石の辞世
「極楽の道は一すじ 君と共に阿弥陀をそへて四十八人」は、息子の大石主税の辞世だったとか、後世の誰かが作ったものだとかあるようですね。
源実朝の歌、
「武士の矢並つくろふ小手のうへに あられたはしる那須のしの原」
を辞世のかわりにしたとか、
義士も四十七人か四十八人かなどの説もあるようで、相撲の「四十八手」とか「いろは四十八」とか、数の多いことを言っただけ説や語呂がいいとか怪しい説もあるようです。
しかし、武士道を貫く鏡の辞世としては、「阿弥陀をそへて四十八人」であって欲しいものだと思います。
@@tankaichigoichie
義士は討ち入り前に1人抜けています。
ドラマでも大石の命なのか義士全員の気遣いか、その方の脱退を認めていますね。
故に四十八人目を主君浅野内匠頭として極楽へ向かうと…
何か…辞世の句というよりは普通にいい話。
辞世、存じ上げませんでした。
コメントありがとうございます。
それぞれに生きた証として、なるほどと感心させられる辞世を残されています。
短い言葉ですが、最後の言葉は本当に重みがありますね。
※忠臣蔵の真相は人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」に暗号として隠されている。その暗号を解いてみよう。
「仮名手本忠臣蔵」というのは寛延元年大阪道頓堀の竹本座で上演された人形浄瑠璃で幕府の目を誤魔化す為に人物名を太平記に登場する人物に替えている。作者は霊感にたけた人で忠臣蔵の事件は怨霊が起こした事件だと看破している。赤穂浪士は南北朝時代の後醍醐天皇方であり、吉良側は足利尊氏方である。犬を溺愛した北条高時は犬公方徳川綱吉に生まれ変わり、天皇に忠誠を尽くした楠木正成は、主君に忠誠を尽くし敵討ちをなしとげた大石内蔵助に、後醍醐天皇の最大の敵となった足利尊氏は朝廷工作して野心を燃やした吉良上野介に生まれ変わっていると分かります。後醍醐天皇方と足利尊氏が北条高時を滅ぼした事が仇となって今度は反対に綱吉によって仇を取られ、赤穂浪士と先祖が足利氏の吉良上野介殺される事になったのです。
大石内蔵助をを大星由良之介で示しているのだが名前が暗号になっている。大星は天皇の暗示であり、大石内蔵助は明智光秀の血筋を受けた家綱の嫡男と解釈できるのです。
大石内蔵助は大星由良之介、吉良方梶川与惣兵衛は加古川本蔵で表現されている。両名の由良は由良川、加古川は加古川で京都の福知山を挟んで両方の川が綱引きしている形に見える。由良川の源には春日局の生誕地春日町があり、加古川の源には足利の飛び領地丹波篠村がある。将軍の継承争いを春日局側と足利側柳沢吉保が行い、権謀術数で足利側が勝ち、足利系の綱吉を家光の四男と偽って5代将軍にすえた。吉保は浅野家に家綱の嫡男が隠れていることを突き止め、浅野家を取り潰してから家綱の嫡男を暗殺し、合わせて邪魔な吉良上野介を消す陰謀を企てて、上野介に内匠頭を挑発して喧嘩するよう命じた。内匠頭と上野介は口喧嘩していただけで刃傷には及んでいないのである。内匠頭は刃傷事件を起こすと重罪になることをわきまえていた。それが上野介の演技で刃傷事件にでっち上げられたのである。
浅野内匠頭が死ぬ前に読んだ和歌
いろはにほへと
ちりぬるをわか
よたれそつねな
らむうゐのおく
やまけふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす
この最後の語を読むと とかなくてしす
となる。つまり、浅野内匠頭は刃傷事件を起こしていない。無実の罪で死んだと分かる。
※歴史の真実は私だけが知っている。私は数々の歴史の謎を解いて来た、名探偵明智天心である。
君達は智恵が足りないなあ。織田家は信長を殺されても
跡継ぎの信忠がいれば盤石なのである。信忠は安土城にいた筈なのになぜ、誠仁親王に献上された二条御所にいて殺されたのか。二条城(義昭御所)は二条通り沿いにあるが、この二条御所は二条通りに面していない。つまり、この二条御所は虚構である。秀吉によって条里が変えられた。即ち、信長が殺されたのは本能寺ではなく、二条城である。その犯行現場を隠蔽し、架空の二条御所で信忠が殺された事にして天下を盗んだのは大盗賊・豊臣秀吉である。
義龍の肖像が熊のような不細工にされているのはおかしい。土岐頼芸と三芳野との美男美女の間に出来た子は美男子になる筈である。光秀が幕臣になれたのは彼の生まれが由緒正しい事を物語っている。彼は清和源氏の土岐氏であり、分家の明智氏は虚構である。
本能寺の変の信長殺しは秀吉・家康の共謀の仕業であり、明智光秀は濡れ衣である。光秀がやったのなら信長の遺骸を行方不明にするなどのヘマはしない。もしこの謀反を行ったのならば光秀が天下を取った筈である。信長と信忠の首を晒して天下取りを宣言して友軍や有力豪族を味方に付ければ、軍師光秀が天王山の戦いで豊臣秀吉に負ける筈がないのである。童謡のずいずいずっころばしの歌に信長殺しの真犯人が暗示されている。井戸の周りでお茶碗欠いたのだあれ→茶室で利休を切腹の芝居をさせたのはだあれ。茶碗は利休の暗号、お茶碗を割ったのなら切腹であり、欠いたのは切腹の芝居である。これによって、利休切腹の謎が解け、南光坊天海の正体が光秀だから、彼のめい(春日局)が権力者となる事が出来たのである。日光東照宮の陽明門の随身が左が若い武士であり、右が年寄りなのは光秀が生き延びて利休、天海僧正になったと言う暗示である。武士と老人の袴に桔梗の家紋が入っている。つまり、両方とも明智光秀を表わしている。明智光秀の出自が幾説もあって不明なのは、正体が分かると信長殺しのカラクリがばれるからである。明智光秀の正体は斉藤義龍であり、古田織部の正体は斉藤龍興である。光秀は土岐頼芸のご落胤であり、天皇家の血筋であるから足利義昭の幕臣になれたのである。秀吉も家康も天皇家の祟りを恐れて光秀を殺す事が出来なかった。美濃8代守護・土岐成頼は丹後から逃れてきた一色兵部少輔義遠の子である。彼は聖徳太子の直系の子孫である。義龍が一色大夫義龍と名乗ったのはその由来からである。谷汲村岐礼にある土岐頼芸の墓の家紋は二引き両であるこれは一色家の家紋で土岐家は桔梗紋の裏に二引き両紋を使っていた。天海は川越市に喜多院を創建したがその寺の家紋は同じく二引き両である。これは天海が土岐頼芸のご落胤だと言う宣言である。古田織部の正体が斉藤龍興だと言う根拠は古田織部も家康から切腹を命じられて柳生宗矩に化けた事と織部の灯篭が龍を形取っているからである。龍興は辰年生まれである。古田重勝と古田織部は本巣市山口に生まれ、同時期に同じ官位を受けている。両者は同一人物である。秀吉は重勝に朝鮮役の軍功で唐人笠三の家紋を与えた。柳生家の家紋が二階笠なのはその由来からである。
織田信秀(信長の父)は幾度となく美濃攻略を試みたがすべて失敗した。それは美濃兵が強兵で、尾張兵が弱兵だからである。それは信長に代わっても同じである。信長が難攻不落の稲葉山城を落とせたのは竹中半兵衛と西美濃三人衆の稲葉良通、安藤守就、氏家直元が裏切ったからである。秀吉がこの調略を行った。この功績で出世出来た。織田信長が天下を取れたのは軍師・明智光秀と最強兵の美濃兵を獲得出来たからである。長槍と鉄砲を導入させたのは光秀である。美濃の古老の言い伝えに、美濃を制する者は天下を制するとある。関ヶ原の戦いを指揮したのは南光坊天海(光秀)で、小早川秀秋の裏切りをお福(春日局)の前夫の稲葉正成にやらせた。正成は関ヶ原の戦いにおいて、平岡頼勝と共に主君・秀秋を説得して小早川軍を東軍に寝返らせ、徳川家康を勝利に導いた功労者であった。光秀は千利休として秀吉を、天海として家康を支えたブレインである。濃尾平野は穀倉地帯であり、美濃人の気質は温厚篤実で信義を重んじて忠誠を尽くす。主君を天皇として崇めれば最強の軍団となる。信長の首は静岡県にある西山本門寺の首塚に眠っている。つまり、徳川家康が信長の祟りを恐れて怨霊封じを行っていた。秀吉は安土城の信長公廟所で結界を結んで怨霊封じをしている。つまり、信長殺しは秀吉と家康である。二人は信長の血を入れる事で怨霊を慰めている。信長の妹・市の娘の茶々を側室にして、秀忠の正室にしている。怨霊は自分の子孫には祟れない。
眠り猫の彫刻で寅年の家康が猫に化けて寝ていると言うのは、死んでいたと言う暗号である。徳川家康は三方ケ原の戦いで武田信玄に惨敗した時に殺されて、山本勘助が家康にすり替わった。その証拠が久能山東照宮に隠されている。本殿の壁に武田家の家紋の花菱が描かれている。偽物の家康だから、その裏で徳川幕府の実権を握ったのが天海僧正(明智光秀)と春日局(光秀のめい・お福)である。その暗号が眠り猫の裏に雀が二羽羽ばたいている。酉年の二人が実権を握ったから、二人の間に出来た子・家光を三代将軍にする事が出来たのである。
日光東照宮の馬厩舎の三猿は信長殺しの秘密の陰謀を暗号に託して表現されている。
左から1番目のものは母猿が小猿に教えています。よく目を凝らして御覧なさい。
2番目のものはここには見ても、言っても、聞いてもいけない秘密が隠されています。
3番目のものは目鼻が縮んだような顔の猿(はげねずみのあだ名の秀吉に特定)が何か悪巧みをしています。悪巧みは手の長い事で表現しています。
4番目のものは一匹の猿が仰向けに後ろへ倒れる様に木から落ちようとしています。これは異常な姿です。これは暗殺の暗号に違いありません。この猿は信長で隣で無関心でいるのは光秀だと思われる。
5番目のものは下を覗いている猿は光秀と思われる。光秀は中国征伐の命令を受けて出陣して来たが、突然の中止命令を受けて事情を聞こうと安土城へ向かったが瀬田橋が落とされていた。信長誅殺の噂を聞いて事情を探っていた。その様子を描いている。その横に寄り添っている猿は秀吉である。彼は全てを知っていた。別の場所で手を長くして悪巧みしているのは家康で秀吉の天下を奪おう計略を考案している。
6番目のものは木にぶら下がっている猿は秀吉で死にかけている。隣で胡坐をかいている猿は家康で死ぬのをじっくり待っている。
7番目のものは人生の荒波にもまれて苦しんでいるお福を助けようとしている光秀。天下を奪取する悪巧みを考案している。
8番目のものは妊娠している猿(お福)が描かれている。その意味するところは光秀(天海に化けた)とお福との間に出来た子を秀忠の嫡男とすり替えて、三代将軍にすると言う陰謀である。
偉大な霊能者の出口王仁三郎氏も千利休は明智光秀だと言ってるし、私の結論も同じである。だいたい、信長が秀吉の応援要請で中国征伐に向かう為に京都に来ているのに公家を招いてお茶会などする筈がないし、出陣命令は明智光秀だけではなしに筒井順慶、細川藤孝にも出されている。順慶は信長が中国出陣の中止命令を出して安土へ帰ったとの書状を受け取っている。何者かの陰謀があったのである。信長が無防備な本能寺に泊まる訳がなく、二条城に泊まった筈である。歴史書では燃えた事にされている。掘秀政が裏切って大手門を開いて秀吉軍(周山城に隠れていた)を引き入れて信長が殺され、安土城にいた信忠は内通者が大手門を開いて家康軍を引き入れて信忠が殺されたと推測される。安土古城図に大手門沿いに秀吉、家康の屋敷が描かれている。これは信長殺しの犯人を教えている。秀吉の中国大返し、家康の伊賀越えの下手な作り話は底が割れている。
高野山の明智光秀の墓石の台座が割れている。光秀が信長殺しの汚名を着せられて、その怨念が割ったのである。
大石主税の句、わかるぅ
大石良雄と書いて(おおいしよしたか)と読みます。
コメントありがとうございます。
ご指摘の通り、本名は「よしたか」でした。
以前は、お正月と言えば「忠臣蔵」でしたが、最近は見かける機会も減りました。
毎年、楽しみにしていたのに残念です。
またどこかの機会で、赤穂義士たちのことを取り上げたいと思います。
それまでには、しっかりと取材してきます。
また、よろしくお願いします。
大石良雄は、父・良昭が34歳の若さで亡くなったため、祖父・良欽(よしたか)が、養嗣子に迎えたそうです。祖父も赤穂浅野家筆頭家老でした。尊敬する祖父の名をもらい、「よしたか」と名乗るようになったということです。
赤穂四十七義士(忠臣蔵)たち~辞世の句と和歌~の紹介はすばらしいです。しかし赤穂四十七義士(忠臣蔵)の真実の歴史は小名木善幸氏の説が一番納得がいきます。 ruclips.net/video/-H07_W1MCOg/видео.html
コメントありがとうございます。
RUclipsでは有名な方のようですね。あまりよく知りませんでした。拝見したいと思います。
小名木先生の説も素晴らしですが、浅野内匠頭が刃傷事件を起こす前に、やむにやまれぬ経緯を残してくれていたならと思います。よって私は内匠頭に問題があった(精神分裂病?)と勝手に思っております。@@tankaichigoichie
本来なら家臣たちのことを思い、立ち止まってくれていればとも思いますが、どうだったのでしょう。
もしかするとその可能性も大いにありますね。歴史の謎ですが・・・。
切腹と言いながら、実質打首と変わらないような気がします。腹を切るのは形だけ。後には小刀の代わりに扇子を使った「扇子腹」というのがあったみたいですね。
切腹という武士としての名誉は保つことが出来たので良かった、といったところでしょうか。
大石良雄ら17名が切腹した細川家の細川綱利は「彼らは細川家の守り神である」として、義士の墓や供養塔を建てたそうなので、待遇としては厚遇でした。しかし、この方法しかなかったのかと思うと残念です。彼らの死があったからこそ後世にまで残る美談となったという向きもありますが・・・。
辞世の句
コメントをありがとうございます。
今回は忠臣蔵の辞世の句と辞世の和歌をとりあげてみました。
これからもお楽しみくださいね!
浅野内匠頭の辞世の句は後世の創作らしいね。
残念ながら、歌舞伎などの人気もあってどこかで作られたという説が強いようです。
浅野内匠頭の切腹を取り仕切った旧一関藩の藩主・田村家にも記録がなく、真実は???
他の人の辞世も後世の手が入った可能性があります。大河ドラマのように虚構の世界なのかもしれません。
物語として面白い方、納得が出来る方を、人々が望んだためとも考えられますね。